No.961650

衝動

某SF脚本コンテストにて中間選考を通過した未完作品です。
戦争によって国という概念が無くなった地球上に「アルケイディア」という聖域が造り上げられ、脳を人工知能へと置換することが義務付けられたSFストーリーです。

2018-07-28 17:42:40 投稿 / 全8ページ    総閲覧数:512   閲覧ユーザー数:511

「知ってる?銃ってね、細い出口から鉛の玉が飛び出て人を殺すんだって」

 

 

興奮を隠しきれない顔で友人はそう言った。

僕が、へえそうなんだ、知らなかった、と言うと友人はさらに顔を赤くして詰め寄り、目を真ん丸に見開きながら鉛の弾を吐き出す道具について語り続けた。

僕は嘘をついた。

少なくとも目の前で鼻息を荒くしている友人よりも利口なつもりだからだ。

彼はどうやってその存在を知ったのだろう。一般人が使用するコモンズネットワーク上には武器に関する映像、画像、構造など、一切の情報が掲載されていないはずだというのに。

率直に疑問を投げ掛けると、父親が内緒で教えてくれたんだ、と目を細めてにんまりと得意気に囁いた。聖域のイデオロギーに背いた彼の父親が裁かれないことを祈る。

ところで、このクラスメートはなんて名前だったっけ。

 

9年通い続けたキャンパスも、クラスルームも、僕にとっては冴え冴えと白く聳え立つ監獄だった。もしくは、精神病院か宗教団体と言い表してもいい。

どれも僕にとっては歴史の産物でしかないため、ただの知識として脳に蓄積された言葉たちだが、言い得て妙な筈だ。

毎日同じ時間に同じ建物に入り、同じ部屋に置かれた同じ椅子に座る。じわじわと与えられ続ける情報をどうにか耳や目で処理して、このキャンパスと同じように心を白へと同調させていく。

 

この檻の中へ通うのもようやく残り1年を切ったが、早く過ぎて欲しいと思うのと同時に、永遠にこの停滞する時間の中に居座り続けるのも悪くないとも思った。

僕は、18歳になるのが恐ろしい。

 

「授業を始めようか」

 

教師のウィッチはクラスルームへ入ってくるなりそう言った。

彼のオリーブ色の目が生徒を見渡す。品の良い顔立ちと、すらりと伸びた長い手足をぼうっと眺めていると視線がばったりとぶつかった。反射的に右下へ目を逸らし誤魔化すように鼻を鳴らすと、彼はほんのりと口角を上げて再び視線を自身の手元に落とし、いつも通りタブレット端末を立ち上げた。

ガラスのディスプレイに政府の紋章が浮かび上がり、それを合図に今日も実に退屈な授業が始まった。

 

《衝動とは人から人へと感染するウイルスです。人間はそれらを淘汰し、規律の中で平和を手にしました。皆さんも、この安息の居住地アルケイディアを守り続けるソティラスになりましょう》

 

ディスプレイに映し出された5人の男女がにっこりと白い歯を見せ、もう何千回と聴いたお決まりの文言を残して姿を消した。

僕は眠気によってやる気を無くした瞼をどうにか持ち上げ、すぐ隣にある窓から空を見上げた。

今日も上空に映し出された人工的なスカイブルーが高らかに快晴を演出している。

そして教室の中に居る29人の17歳達と、僕は、この言葉を言わねばならない。

 

「世界王に感謝を」

 

───これは洗脳だ。

 

 

8歳から18歳までの10年間。時間に換算すると87,600時間。

この安穏で潔白で誰も傷つくことのない規律然とした世界の素晴らしさをすり込まれ続ける数字だ。

絶対的居住地アルケイディアの中で浄化された清潔な空気を吸うことを許された対価であり、悪意や戦意という概念を根本から消し去る為に義務付けられたディシジョンでもある。

だが僕はどうにもその清潔な空気を吸うのが下手くそなようだ。授業が終わるとすぐさま自転車に跨り、ノースブロックにある自宅兼アルバイト先へ駆け込むのが日課になっている。

ボルドーカラーの看板が際立つ雰囲気のよいダイナーだが、この店に料理を目当てに来る客は居ない。

調理マシンを持っている家庭ならば、自宅でダイエットフードからメキシカンフードまで大体のものは何だって食べられる。

だと言うのにこの店がこうして存在しているのは、“店で食べている”という充実感が人々の心を満たし、非日常性が大人達の高揚感をくすぐるからだ。

この店は勿論すべて政府の管轄内で、雇われオーナーの女性と僕は一緒に暮らしている。僕には両親が居ないから。

いつものように授業を終えてダイナーへ向かい、常連客と一言二言会話を交わしてキッチンルームを覗くと、ゴウゴウと不快な音で叫ぶ鉄の塊が居心地悪そうに項垂れていた。

裏手に回り、タブレット端末をその塊の電子回路へと繋ぐ。

そして鞄から取り出した型落ちの古びたミュージックプレーヤーの再生ボタンを押した。

ざざ、と不快な音が微かに聴こえた後、ゆっくりと曲が始まる。

ハンマーヘッドが弦を押し上げるその1音がヘッドフォンから耳に入り、体に溶け込んで僕の意識を生成していく。

ピアノの形状は知っている。

音が鳴る構造も理解している。

でも本物のピアノという楽器を目にしたことは一度もない。

今は電子音楽が主流で、鼻歌を歌えばそれをAIが認識しメロディラインを形成、最適なベースやパーカッションを入れて曲にしてくれる。

音楽に技術なんて必要ないこの時代で、クラシック音楽を聴いている人間は僕だけかも知れない。

 

「シーア。洗浄液が切れたんだけど、新しいのは何処にある」

 

その声で僕は一気に現実へと引き戻された。

ヘッドフォンを外すと、兄のリッタが空になった洗浄液の容器をカタカタと振りながら僕を見ていた。

 

「早くそいつ直してくれよ、店の皿が無くなる。俺の手もボロボロだ」

「今やってるよ。機械にばかり頼るから皿洗いもまともに出来なくなるんだ」

 

嫌味を言うとリッタは眉尻を下げ、歯を剥き出しにして楽しそうに笑った。何が面白いんだ。

兄は常に楽観的で愛想が良くて、とても不器用で、力任せで、そのくせ大多数の人から好かれる。

弟としてはもっと本質に目を向けてほしいし、細やかな部分にまで気を回してほしいと思うが、そんな姿は塵ほども想像出来ないので考えるだけ無駄だろう。

 

「きっとAIBSを付ければこんなヘマも無くなるさ」

 

左側頭部をあかぎれだらけの人差し指でこつこつと叩き、また笑った。

今週末はリッタの18歳の誕生日だ。それに合わせて今晩、技術施設へ向かう。

18歳は政府が義務付けた、人工左脳《AIBS》 ーArtificial Intelligence Blaine Suppressionー”搭載の義務年齢で、勿論兄も僕も例外ではない。

僕自身の猶予は残り1年だが、僕の興味はAIBSを構成する全ての要素に向けられていた。

誰がその造り物の脳を開発したのか、どのようにプログラミングしたのか、素材は何を使用しているのか、いくらインターネットにアクセスしてもAIBSに関する記述は何一つ閲覧出来なかった。

まるで銃や刃物と同じように。

 

「頭の中をいじくり回されるのに、よく笑ってられるな」

「またその話か。さんざん授業で習っただろう。不要な衝動を抑制する、これは生物の順応だ。なにを恐れてる」

「恐いに決まってるじゃないか。これこそ僕の感情だ。AIBSを付けられてみろ。きっと何も感じなくなって、5年後には体中機械だらけで人は人じゃなくなる」

 

リッタは押し黙った。

それと同時に、ディスプレイに映し出されたコードのエラーを修正し適用すると、食洗機は悲鳴を上げるのをやめた。

芸術の授業ではDマイナス。体育の授業ではCプラス。歴史語の授業では、僕の血筋であるニホンの語学を選択したが成績はCとまったく振るわなかった。

そんなパッとしない僕がほとんどのテストでAプラスを取っている科目が電子工学。

きっとよその家の子供より電子機器に触れる機会が多かったからだろう。兄にその才能はなかったようだけれど。

ふう、と息を吐き、コードを引き抜いてリッタを一瞥すると彼は何故か堂々と胸を張って仁王立ちしていた。なんだよ、と眉をひそめて言うと、彼は鼻の穴を広げて大きく息を吸った。

 

「じゃあ俺が証明する。AIBSが世界を平和にしていると」

 

まるで手柄話をするかのように自信に満ち満ちた表情で真っ直ぐ僕を見て、リッタはそう言った。

なにか信念、もしくは確信のようなものを湛えて。

 

「それなら僕が異端者になるね」

「ちがう、歩み寄ることが出来るのが人間だろう。シーア。物事の悪い部分ばかり見ないでくれ」

 

幼い子供を諭すみたいに言うものだから、何だか無性に腹が立った。これじゃあ僕が聞き分けの無い子供みたいじゃないか。

僕は口を噤んで返事をすることなくキッチンを出た。

僕は自信が無かった。

あんなにも真っ直ぐ、溢れ出る正しさを押し固めたような顔はきっと出来ない。

曖昧で不確かな意思だけが僕の中に渦巻いていて、兄も教師も友人も誰もが白だと言っているのに、黒だと声を張り上げる勇気が僕には無かった。

 

2階の自室へ上がり、ダイナーのエプロンを腰に巻いて店内へと戻るとそこにはウィッチが居た。

また白の人間が現れた。もううんざりだ。

彼は教師でありながらこの店の常連で、カウンターの一番端の席が彼の定位置。つまらないニュースしか映さないテレビモニターがよく見える席だ。

そこへ座ると、頬にかかった黒髪をかき上げ、僕に笑顔を向けてきた。

 

「何だか不機嫌だね。大丈夫かい」

「リッタと口喧嘩…というか、話し合いをしただけ。コーヒーでいいですか」

「ああ。少し腹が減っているから、Aサンドもお願いするよ」

 

店内からファーミング室へと移動し、透明なシリコンジェルから伸びた新鮮なアボカドやオニオンを収穫。冷蔵庫からは人工ミートとパンを取り、それらを調理マシンへと繋がるダクトにセットする。

5分もしないうちにサンドイッチはマシンから吐き出され、その間に淹れたコーヒーと共にカウンターへと提供される。

 

「リッタとはどうして喧嘩を」

「大人に話せることじゃない」

「なるほど、そういう話か」

 

簡潔に交わされた会話で彼は理解したらしい。

ふふんと得意げな顔でカップを持ち上げ、コーヒーを啜る。左手の薬指に嵌められたシルバーの指輪が店内のライトに反射してきらりと光った。

瞼を伏せたままウィッチは続ける。

 

「シーア。君は反政府勢力の事は」

「反政府勢力…知らない。報道規制があるから一般人は何も知ることが出来ないでしょう」

 

テレビモニターにつまらないニュース番組しか流れない理由がそれだ。

武器の規制、情報の規制、報道の規制。

他にも規制されているものはたくさんある。

そして規制されていること自体をほとんどの若者は知らない。覆った上辺だけが僕達の視界に入り、見えているものだけを信じて生きている。僕もそうだった。

 

「その人達はアルケイディアの外で暮らしていてね、これは僕の見解でしかないけれど、きっと彼らはシールドで守られている私達よりずっと多くの事を知っているし、世界の広大さを実感しているだろう。でも彼らは常に死と隣り合わせなんだ。私達とは真逆なんだよ」

 

思わず目を見開いた。

アルケイディアを聖域と言わしめる所以こそ、この居住地全域を覆うプラズマシールドだ。情報によれば外界はウイルスやおびただしい量の放射線、有毒ガスで満ちていて、一歩足を踏み入れれば10秒も息をしていられないと書いてあった。

その中で人が生存しているなんて考えたこともない。

 

「そ、そんなこと、生徒に教えていいの。先生」

「幸い今は貸切だ。これはただの独り言だよ。どう生きるかは人それぞれだし、誰かに淘汰されることはない。ただ、マイノリティというのはマジョリティよりも勇気が要る。犠牲もね」

 

スピーカーから流れるピアノの音だけが支配するがらんとした店内を見渡し、僕は頭に浮かんだ疑問を投げかけた。

 

「人は平等なのでは」

 

そう問うと彼はサンドイッチを掴む手を止めた。

思わず息が詰まった。

彼は、例えるならば痛みと哀愁を綯い交ぜにして押し潰したようなそんな表情をしていて、何故そんな表情をするのかという疑問よりも、問いかけた事自体を僕は酷く後悔した。

 

「平等なんてものはない。だから人は平等を求め続けるのさ」

 

その時初めて、教師ウィッチ・エフロンの本当の顔を見た気がした。

 

 

 

「行ってくるよ」

 

そう言い残してリッタは政府の技術施設の職員と共に家を出ていった。僕は返事をしなかった。

朝起きて顔を洗って白い監獄へ行き、授業という名の洗脳を適当に聴き流し、ダイナーで働いて20時前に店を閉め、風呂に入ってベッドで寝る。

そうやって昨日までと同じ日常を繰り返す。

違うのは、隣の部屋にリッタが居ない事だけだ。

 

僕を呼ぶ声が聴こえた。

ダイナーのオーナーであり僕とリッタの保護者、ココがでっぷりと突き出た腹を揺らして、ソファに寝転ぶ僕を見下ろす。

実の親ではないが彼女は死んだ両親の友人で、孤児になった僕達を引き取り育ててくれた人だ。

 

「まだふてくされてるの。リッタが戻ってきた時そんな顔をしてたら家から追い出すわよ。節目の誕生日なんだから笑顔で迎えてやりなさい」

 

小言を言う彼女に背を向け、拒むようにヘッドフォンで両耳を塞いだ。

ミュージックプレーヤーの再生ボタンを押す。

部屋の壁際に置かれたホログラム時計が2月10日の16時48分を告げていた。

今日はリッタの誕生日だ。

施設から帰ってくるのは1週間後。搭載手術を終えるとまずシステムにエラーが無いかテストし、AIBSと肉体を限りなく密接に適合させていくとかで時間がかかるのだと授業で習った。

ココもウィッチも、街に住む大人達はみんなAIBSを搭載している。普通に笑顔を見せるし、悲しい顔をするし、普通に生きている。だからきっとリッタも何事も無かったかのように帰ってくるんだろう。

そうしてまた僕の前で得意気に鼻を鳴らすんだろう。

 

「シーア。早く店手伝いなさい」

「今行くよ」

 

下の階から声を張り上げるココに返事をし、エプロンを掴んで階段を駆け下りる。大丈夫、大丈夫。科学を信じよう。言い聞かせるように頭の中で何度も呟いた。

 

 

 

 

 

 

ダイナーのドアーの向こうでは、スピーカーから外出禁止時間を告げるチャイムが軽快に鳴り響いていた。

昨日までと同じように今日が終わる。早くシャワーを浴びて眠りたい。

そんな時だった。

 

 

「シーア」

 

振り返ると仄暗い店内に誰かが立ち尽くしていた。

ひゅう、と喉が鳴った。僕の喉だ。両手の指の先がびりびりと痺れる。

差し込む街灯の光に照らされたその誰かを凝視し、数秒経ってようやく正体を掴むことが出来た。

 

「お……おどかすなよ。帰りは来週じゃなかったのか」

 

ドアを開ける音も人の気配も一切感じなかった為思わずびくりと肩を震わせたが、ドアーを背に立つ兄の姿を見て僕はほっと胸を撫で下ろした。

ばく、ばく、と心臓が大げさに収縮を繰り返し、僕たちは沈黙の海に身を沈めた。

彼は言葉を発さず、店内に音楽は無く、ドアーの向こうに広がる街にも音は無かった。

リッタはただ僕を見ていた。

言い知れぬ違和感を感じ、視線を喉元や服へ降ろしていくと、左手には見覚えのある形状をした金属が握られていた。画像でしか見たことが無かったけれど、間違いない。銃だ。

リッタ。兄の名前を呼んだ。

ゆっくりと薄い唇が動き、息を吸う。

 

「お前には何が見える」

 

抑揚の無い声が静寂の中へと広がった。一瞬、誰か違う人の声のようにも聴こえた。

だが、凍り付いてしまったように動かないその顔は紛れもなく兄の顔だった。

 

「これは何だ」

「どうしたの、リッタ」

「俺は何になったんだ」

「リッタ」

「頭の良いお前になら分かるのか」

「リッタ、僕を見て!」

 

張り上げた声が店内にびりびりと反響した。

彼の目は見開かれ、間違いなく真っ直ぐに僕を見ていた。それなのに彼は僕を見ていなかった。どこか遠くを見つめ、縋るようにその濃紺の瞳を向けていた。

 

「きっと俺が……母さんが望んだのは、こんな世界じゃない。頼む。俺を殺してくれ」

 

右目から溢れた涙は赤く頬を彩り、流れていく。 

僕は差し出された銃を、受け取らなければいけないと思った。

ひんやりと冷たい無機質なそれに指を乗せ、銃はリッタの左手から僕の右手へと渡る─────と同時に顔に生暖かいものが飛び散った。

何か液体のようなものだ。

反射的に瞑った瞼を恐る恐る開くと、睫毛に垂れ下がったしずくが視界を赤く染め上げていた。

左頭部にてらてらと赤い花を咲かせた兄が、砕け散ったガラスの上に人形のように倒れ込んでいる。

 

僕がこれをやったのか。

弱々しく震えて言うことを聞かない右手が引き金を引いたのか。

沈黙の海は深く、まだ僕をとらえて離してはくれず、ぎりぎりと痛む喉は突き上げた咆哮を吐き出すばかりで肺へ酸素を与えてくれはしなかった。

無意識の海面からようやく顔を出した時、聴こえたのは無数の足音だった。

 

「リッタ・キリシマを確保。一時活動の停止を確認。救護班を要請します」

 

白い服を着た男たちが立っていた。

 

 

酸素が足りない。息の仕方が分からない。世界は未だ赤のまま。意識の外で動き続ける両足が痛い。

 

《外出禁止時間です。安全の為、住民の皆様は速やかに自宅へ帰りましょう。どうかよい夢を》

 

はるか上空に映し出された星々と青白い月が、赤ん坊のようにふらふらと走り回る僕を見下ろしている。

肺が体の内側に張り付いて、ひゅう、ひゅう、と何度も喉が鳴る。それでも誰かに背中を押されているかのように僕の両足は動くことをやめなかった。僕は何処へも向かってはいない。走り去ればすべて振り払えると思ったのかも知れない。あやふやな意識の中でただあてどもなく走り続ける。

頭の中はからっぽだった。

あの光景がフラッシュバックするでもなく、別の事を考えるでもなく、ただただ一切の思考を拒否したみたいに白紙のページを捲り続ける。

 

《外出禁止時間です。安全の為、住民の皆様は速やかに自宅へ帰りましょう。どうかよい夢を》

 

どくどくと暴れ回る血管と体中の臓器とが、ひどく膨張し合い視界がうねった。

歩道の段差に足を取られ、ゆっくりと体が倒れていく。コンクリートに膝を打ち付け、次に顎を叩き付けた。ぶち、と皮膚の切れる音が聴こえた。鉄の味が舌に伝わる。

それでも僕はまた立ち上がり、赤く塗られた銃を胸に抱えて誰も居ない静まり返った街へ駆け出そうとした。

 

《外出禁止時間です。安全の為、住民の皆様は速やかに自宅へ帰りましょう。どうかよい夢を》

 

街中に設置されたスピーカーから繰り返し流れるアナウンスが耳に入ってきた。

いま外に居ることが法令違反であると理解した途端、頭のてっぺんまで沸騰していた血が一気に逆流し、体の末端が氷のように冷えていく。

すると、ずっと遠くで聴こえていたアナウンスがその存在を示すかのように背後で聴こえた。

 

『外出禁止時間です。速やかに自宅へ帰りましょう』

 

振り返ると、2mほどの体をずっしりと構えた巡警オートマトンが僕を見下ろしていた。

白いスカートを広げたような女性的なボディに、目玉のように見える丸いレンズ。こんなにも近くで見たのは生まれて初めてだ。

レンズがぎょろぎょろと動くと、耳障りな電子音が鳴った。

 

『一般住民の銃の所持は認められていません。許可証を提示してください』

 

びくり。心臓が跳ねた。

巡警オートマトンは、許可証を提示してください、と再度警告し、そのボディを開いて無数の黒い穴を僕に向ける。

 

『10秒以内に許可証を提示しない場合、攻撃対象として認識します』

 

にこやかな声で始まるカウントが焦燥を駆り立て、ガチガチと歯がぶつかり合う。言葉は、あ、とか、う、しか出てこなくてまるで僕の体ではなくなってしまったみたいだ。指先が震え、膝が揺れ始めたその時だった。

 

キン、という鋭いノイズが聴こえた。

いや雑音と言い表すにはあまりに美し過ぎる。金属を打ち合わせたような鋭い音でもあり、氷を突き刺すような冷たい音にも聴こえる。

空気を裂くその音が、間隔を狭めて近付いてくる。体に穴が開くまでのカウントが重なるにつれ、その鋭さはより明瞭になっていった。

ここへ近付いてきている。そう確信した瞬間、巡警オートマトンは、ゼロ、とカウントを終えた。

突然ぐりんと頭部を捻り、僕とは逆方向へその銃口を向けた。

途端にボディは動きを止め、静けさの中で火花が散るような音が聴こえたかと思うと、ぐったりとその頭を垂れた。

大きな白い鉄の塊の向こうから誰かが顔を出す。

 

「……女の子」

 

フードが邪魔をしてはっきりとは見えないが、その人は恐らく女性だ。彼女の手には無数の千切れたプラグが握られていた。

それをコンクリートに無造作に投げ付けると、彼女は巡警オートマトンの上から飛び降り、僕の方へ歩みを進めてきた。キン、キン。この音だ。彼女が左足を踏み出す度に聴こえるこの鋭く心地の良い音。

風によってはためいた衣服の下にちらりと覗いたのは、艶やかに輝く真っ白い脚。複雑な造りだがすらりと伸びた爪先や踵は鋭利で、それがコンクリートとぶつかり、刺すような音を奏でる。

その異質な姿に意識を奪われていた僕の視界が突然ぐるりと回転し、首元に息苦しさを感じた。

彼女はその華奢な見かけに似合わぬ怪力で僕を引き摺り何処かへと歩みを進めている。

 

「あ、あの、何処に」

 

彼女は答えない。

脇道へ逸れ、ビルの裏手の路地へと入ると彼女は僕を放り投げた。

 

「その銃はどこで」

「こ、これは…技術施設から帰ってきた兄が」

 

誤魔化したところで意味を成さないと思い、僕は正直に答えた。信じて貰えるかは分からない。だからこれは賭けだった。

 

「血が出てる」

 

すんなりと僕を害の無い存在だと認識してくれたのか、彼女は金属で出来た膝を地面に付き、僕の顎へと触れた。そこでようやく痛みがじわじわと追い付いてきた。唇と鼻から出血をしているようで激痛に顔を歪ませると、彼女はウエストポーチから取り出した治療パッドを捨てるように僕の前へ落とした。

 

「自宅は」

「ノースブロックにあるスターダイナー、です」

「どうして外出禁止時間に外に。しかも血だらけで銃まで持って」

「……兄を、殺したかも知れなくて」

 

言葉にした途端、胸の奥に沈みかけていた不和が再びせり上がってくる。銃を握る手が震え、また恐怖と焦燥感が僕の頭の中を塗り潰した。脳が膨張し、はち切れてしまいそうな不快感が視界をぐらぐらと容赦なく揺らす。

ズボンをぎゅうっと握ると彼女は立ち上がって僕を見下ろした。

 

「その銃を使ったの」

「たぶん……。気付いたら頭に穴が空いてた。白い服を着た人たちがたくさん居て。それで怖くなって、その場から逃げた」

 

彼女は顔色ひとつ変えることなく僕が大事に抱えていた銃を否応なく奪い取り、慣れた手付きで何かのパーツを外して見せた。

 

「この銃の弾数は15発。残ってる弾も15発。それにセーフティレバーがオンになっていたし、訓練されていないあなたのような人間が頭部を撃ち抜くのは不可能に近い。撃ったのはその白い服の男たちね」

 

どっと体が重くなった。

興奮し、思考するのを拒んでいた体が一気に感覚を取り戻し、街を駆け回って棒のようになった両足がかくかくと揺れている。

僕は大きく息を吐き出す。やっと呼吸が出来た気がした。

何でもないみたいに彼女は言ったが、彼女が示して見せた揺るがぬ証拠に思わず目頭が熱くなった。僕はリッタを殺してない。自分のことだと言うのに、これっぽっちも確信が持てなかったんだ。

 

「もう行くわ。この銃は不要でしょ。今日のことは忘れなさい」

「は…はい。ありがとうございました」

「なぜ」

「ああ……これを、くれたから」

 

地面に落ちた治療パッドを指先でつまんでみせると彼女は、あなた変なひとね、と言った。彼女は僕の持っていた銃を手に、この場から去ろうと踵を返した。

フードがめくれ上がり、真っ白なまつ毛がふるりと揺れる。その下から燃えるような夕焼け色をした瞳がちらりと覗き、射抜くように僕を見た。

頬の上を滑るきらめく絹糸が、まるで艶やかな布が月の光を反射しているみたいで、かつてない程に僕の感情の波は大きくうねった。美しくて、それでいて触れてはいけない神聖なものを具現化したような寂しさを湛えていて、経験したことのない昂りが胸を圧迫する。

きらきらと光をはね返すプラチナの髪に、白い義足。やはり異質な彼女に僕は目を奪われた。

立ち上がり、息を吸った。

 

「僕はシーア。君は、何処から来たんだ」

 

始まりの鐘のように、足音が高らかに響く。

彼女はこう言った。鳥かごの外よ、と。

 

 

 

 

 

兄は快活な人だった。

いつだって笑顔でカウンターに立ち、常連客のたわいも無い愚痴を受け流さずにしっかりと聞くような人間だった。

色を失い、ぴくりとも動かないその姿はやはり他人のように見える。

ココは目尻に涙をいっぱい溜めて、僕をきつく抱き締めた。はち切れそうな卵みたいに丸々としたその体に比べて、半分ほどしかない僕の体をまるで赤子を愛おしむように抱き締めた。

苦しいよ、と声にならない呟きをこぼすと、彼女は化粧の剥げた顔をすり寄せる。

室内を反射する大きな窓には、人工的な太陽が照らす憔悴し切った男の顔があった。酷い顔だ。赤黒くこびり付いた血に、皮膚の下から紫色に主張する出血の痕。これはいったい誰だろう。僕はこんな男は知らない。

 

「AIBSの機能が停止した為に眠っているだけです。命に別状はありません」

 

カツカツと軽快に踵を鳴らし、凛とした声でその人は言った。

撫で付けた短い髪や下がった口角、一般市民があまり着ていない上質なスーツをきっちりと着こなしている姿から、この人がどんな人間なのかを感じ取ることが出来た。

 

「私は防衛省長官、ベン・ツィルヒャー。シーア・キリシマにココ・ベルナードですね」

 

ぼうっと記憶を辿り、聞き覚えのあるその名前の正体を思い出した。

この地上で2番目に大きな権力を持つ世界統括組織の一角を担う、ツィルヒャー長官。そう政治の授業のページに書いてあった筈だ。

そんな地位の人がリッタの病室を訪れるなんて昨日の一件はよほどまずいことなんだろう。

 

「昨夜20時頃、リッタ・キリシマが病室から抜け出して自宅へ向かったと警備から連絡がありました。よほどあなた方が恋しかったのでしょうね」

「いったい何があったのですか」

 

ココは震える声を押し殺すように訊いた。

 

「詳しいことは彼が目を覚まさないことには分かりませんが……シーア。部下によると、君はリッタが活動を停止した場所に居たそうですね」

「この子が何かしたと」

「いいえ、リッタのAIBSを破壊したのは私の部下です。訊きたいのは、その場から逃げ出してどこに行っていたのかだ。破損したオートマトンがウエストブロックで発見され、その内部メモリに君の映像が映っていた。警告の直後、何者かにプラグを抜き取られている」

 

爪の間に真っ黒にこびり付いた血が不快で、指先でそっと弾く。それと同時に頭の中から義足の彼女のことを追いやった。

 

「すみません。気が動転していて。一瞬のことだったので、よく覚えていません」

 

僕はまた嘘をついた。

彼女の正体も、あの場に居た理由も、僕が知っていることは一つとして無い。そして彼女と言葉を交わしたことを隠すメリットも何一つとして無い。むしろリスクを背負うデメリットの方が大きい。それでもあの刃物を研ぐような鋭利な音が心地よく耳に残っていて、あの一件は自分だけの秘め事にしたかった。と言うより、そうした方がいいのだと思った。

例え相手が突き刺すような視線で僕を見ていたとしても。

 

「現在、防衛省ではテロ組織の対策に力を入れています。奴らは人類を破滅に導くアソシエーション。サー・スタニスラもお心を痛めている。何か見たのなら教えて欲しい」

 

まるで獲物を前にした猛獣のようなその眼光から僕は目を逸らさなかった。逸らせなかったと言う方が正しいかも知れないが、動揺して視線を外せばこの男にはすべて見透かされてしまう気がしたからだ。

すみません、何も、ともう一度同じように答えた。

 

「この子が何か思い出したら必ず連絡を差し上げますわ。ツィルヒャー長官」

「それを願っています。ご自宅までお送りしましょう」

 

ココがリッタのチョコレート色の髪に触れ、もう行くわね、と囁いて頬にキスを落とした。僕はそれをただ眺める。

ツィルヒャー長官に連れられ、病院を後にした僕たちは政府のマークが入った車に乗って自宅へと帰った。車内はとても静かだった。

政府が派遣した清掃員によってダイナーはいつもと同じ姿へと戻っていた。床に赤い染みは一点だって無く、ガラスのドアーはきらきらと照る人工太陽を反射している。

一瞬、本当は何も起きなかったのではないかと思ってしまう程だったが、ドアーが跳ね返す疲弊した男の姿を見て僕は息を大きく吐いた。

階段を上って2階の自室へ入り、ココの呼ぶ声を無視してベッドへと倒れ込んだ。重りを乗せられているかのように体は沈んでいく。乾ききった瞼はもう開かないし、意識はその形を保てなくなっていった。

きっと眠ったら、もう僕が居た筈の檻の中へは戻れなくなる。そんな気がした。

 

 

 

 

 

 

死の欲動という言葉がある。

そんなものとは無縁なこの時代で、真っ白だった僕の世界は一夜で赤色へと変わった。赤。完熟した苺の色。血の色。肉の色。

僕はその赤をもう一度白に塗り替える為にクラスルームの一番奥、後ろから2番目のいつもの席に座った。

 

「おはよう」

「おはよう」

 

クラスメートたちがにこやかに挨拶をし、同じ言葉で返事をする。

ココは学校なんて行かなくていいと言ったが、これは僕の意地だった。腫れ上がった顔も擦りむいた手のひらも、見えてないみたいに普通の顔をしていれば向き合わなくて済む。

 

「シーア。その顔どうしたんだ」

 

名前も知らないクラスメートは隣の席に座るなり、眉をひそめて僕の顔を覗いてきた。転んだんだ、と言うと彼は、痛そうだな、はやく治るといいな、と言った。

いま鼻や顎に貼られた治療パッドが僕の細胞を再生してくれている。きっと2日もすれば治る筈だ。

 

「……ああ、そういえば」

「うん」

「あの話をしてたよな」

 

僕は右手の人差し指と中指、そして親指を立て、彼へ向けた。彼は興奮した様子で僕に詰め寄る。

 

「じゅ、銃のこと」

「そう」

「シーアも誰かから教えてもらったのか」

「いや、本物を見た」

 

その言葉を理解することが出来なかったんだろうか。え、と聞き返してきた。

 

「そう。僕、銃を握ったんだよ」

 

そう言うと、少しして頬の傷が突然痛んだ。治療パッドの外にはみ出た小さな傷だ。その上に広がる濡れた感触。

僕は泣いていた。

堰を切ったように溢れ出てくる涙はだらだらと頬を流れ落ち、シャツに染みを作っていった。自分の意識の外で起きる出来事に混乱しながら何度も手のひらで顔を拭うが、その洪水は止まらない。

僕を見るクラスメートたちの目からは軽蔑が滲み出ていた。僕は昨日までの僕と何も変わらない。やめろ。そんな目で僕を見ないでくれ。

その時の僕に出来たのは、目と口を塞いで喉の奥から這い出てくる嗚咽を飲み込むことだけだった。   

 

 

 

救護室のベッドに仰向けに横たわり真っ白な天井を見上げる。時々寝返りを打ったり背中を丸めてみるが、結局はもとの体勢に戻る。病室に居た兄の姿と同じだ。

救護個室の中で蠢いていると、仕切りの壁がノックされた。入っていいかい、と訊かれ、どうぞ、と返した。ウィッチはいつもの涼し気な顔で中へ入り、ベッドの脇の椅子に座った。

 

「大変だったね」

「何がですか」

「君の具合が良くないとココに連絡をしたんだ。そうしたらリッタの話を」

「嘘ですよ。間に受けないでください」

 

それは拒絶のための言葉だった。踏み込まないでくれ、という警告。

だがウィッチは花でも見るかのように目を細め、控えめな笑顔を僕に向ける。

 

「シーアは、どう感じたの」

 

バリケードを通り抜け、彼は堂々と僕へ踏み込んできた。警告をきっと認識していたし、それに気付かないような人ではない筈だ。

そして僕はその問いの意味が理解出来なかった。

どうって、リッタが施設から逃げ出したこと。それともリッタの頭を誰かが撃ち抜いたこと。

 

「まだよくわからないです。これからどうなるのかもわかりません」

「これから……そうだね。学校へは来れそう」

「わかりません」

「店を手伝ってる方が安心するかな」

「さあ。わかりません」

 

それらはウィッチを跳ね除ける為の言葉でもあり、ただの本心だった。

 

「結論を出すには早すぎるか。でもあまり悠長にはしていられないと思うよ」

 

彼は何か含んだような言い方で視線を落とした。

ゆっくりと腰を降り、僕の耳元にその爽やかな顔を近付ける。

 

「政府の技術部に監視されてる。君のタブレットも自宅のコンピュータも、ダイナーの中のセキュリティカメラも筒抜けだ。君もリッタと同じような行動を取るかも知れないからね。きっとAIBSを付けるその日まで、監視は続くと思うよ」

 

僕は大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出した。沸騰したように熱くなった脳みそを冷ます為だ。だが頭の中はぐつぐつと熱でいっぱいになっていく。

掻きむしるように頭を押さえ、何度も呼吸を繰り返すと喉の奥が冷たくなる。

震える唇をどうにか開き、僕が何をしたっていうんですか、と言葉を紡いだ。

 

「君は何もしてない。それでも世界は調和から逸脱した者を許さない。いつだって誰もが君の敵になる」

「じゃああなたも」

「うん。そうだよ」

 

何でもないみたいに彼は頷いた。

 

「そんなの、理不尽じゃないか」

「驚いた。子供みたいなことを言うんだね」

「僕は子供だ、まだ大人じゃない!」

 

ほとんど絶叫に近い声だったと思う。

喉がじりじりと痛み、目頭に熱がこもった。ああ、これはつい数日前にも味わった感覚だ。頭部に開いた赤い花。鼻の奥をつんざく鉄の臭い。

脳裏に浮かんだ光景がやけに鮮明で、うまく酸素が吸えずに上下する肩を抱き締めて膝を折る。いま声を張り上げた意味すらも僕にはわからない。僕は何もしていない。どんな時だってただ傍観していただけだったのに。

 

「大人びた顔をして、規律に守られた世界をずっと疎ましく思っていたくせに、その規律が牙を向いた途端に理不尽だと君は怒るのか。与えられた環境に文句を言うことしか出来ないのなら確かに君は子供だ。目と耳を塞いで、約束された安寧の中で生きるといい」

 

ウィッチは椅子から立ち上がり背を向ける。一瞬見えた横顔は別人のように冷めきっていて、ドアーに手を掛けると凍てついたオリーブ色の瞳でこちらを一瞥する。

 

「君の求める衝動が見つかることを祈ってるよ」

 

そう言って彼は仕切りの向こうへと出ていった。残されたのは瞬きを忘れた僕ひとり。

また膝を抱え込み、膝頭に自分の額を押し付ける。

自分が置かれている立場も、自分の内から湧き上がる名前の分からない感情もうまく了知する事が出来ない。

ちらと彼が先程まで座っていた椅子の上に視線をやった。そこに置かれていたのは1枚の白いカードのような紙だった。今時こんな原始的なアイテムを手に取ることは少ない。

 

“23:00/Sunday/North gate bridge/THE LOST”

 

線の細い字でそう書かれていた。

ノースゲートブリッジとはアルケイディアの北側にある橋で、外界とこの居住地を繋ぐゲートが設けられている。

日曜23時にノースゲートブリッジで何かがある。それを示唆しているであろうこのカードを彼は故意に置いていったのか、それともうっかり忘れていったのかはわからない。ただ、文末の最後に書かれた見慣れないことばが気になった。

僕は何か考えがあるわけでもなく、ただ鞄の中に入っていたタブレットを取り出して電源を入れた。コモンズネットワーク内の検索ボタンを押し、そこでようやく手を止める。

また白い天井を仰ぎ見た。

僕はベッドからゆっくりとした動作で起き、救護個室の中から出た。

 

 

キャンパスを出て、自転車に跨り、ガラス張りの大きな建物たちが並ぶ街を駆け抜ける。

雑踏を抜け、自宅に着くと自転車を乱雑に停めて真っ先に地下室へと伸びる階段を下った。

薄暗く、空気が澱んだその部屋の明かりをつけ、時間が停止したように眠る螺やアルミなどの機材パーツをワゴンごと移動させた。

そして隅で沈黙していたコンピュータの電源ボタンを押す。

積もったほこりを手で払い、ポケットから取り出したミュージックプレーヤとコンピュータとを細いコードで繋ぐ。この時代遅れな形状をしたふたつは、どちらも母が遺したものだ。

いや、彼女が意図的に遺したのかは分からないが、物心ついた時にココから母の遺品だと言われて託されたものだった。ココは、このミュージックプレーヤの中に政府職員が使うリミットネットワークへ接続するセキュリティコードが隠されていることを知っていたんだろうか。

僕がこのコードを見つけたのは、初めてこのミュージックプレーヤを起動した時だった。

この古びた機械の電源が入るかを試したくて普段使っているタブレット端末に接続した。すると自動的にリミットネットワークへの検索窓が表示されたのだ。あの時の驚きは今でも鮮明に思い出せる。

僕はコモンズネットワークに掲載されていない情報を片っ端から閲覧し、銃や報道規制の存在を知った。

そして現在この家の中で監視されていない端末は恐らくこの古びたコンピュータだけ。

あの文字列を検索欄に打ち込み、エンターを押す。

 

「…ザ、ロスト………」

 

“名称-THE LOST”

“反政府勢力/過激派/テロリスト/の名称”

“規模-不明”

“居住地-不明”

“目的-不明”

 

僕は息を詰まらせた。

ウィッチがテロ組織と繋がっているだなんてこれっぽっちも信じられなかったからだ。

日曜日、23時。彼らはノースゲートブリッジに現れる。

それだけが僕に与えられた事実だった。

 

 

 

 

 

 

建ち並ぶ高層ビルが空を照り返し、街はいつも艶のある青に染まっていた。

夕暮れ時になればオレンジ色だったり紫色になることもあるけれど、このアルケイディアの印象は間違いなく青だった。

ただ通りを行き交う人々の穏やかな表情だけはいつだって変わらない。子ども達は無邪気に飛んだり跳ねたりして遊んでいるし、大人達の諍いなんてものはその概念すらも存在しない。

これがAIBSの創造物であり、人類の未来の為の遺産だ。

 

僕はまたクラスルームの一番奥、後ろから2番目のいつもの席に座った。

3日前にこのクラスルームの中で起きた事に加え、昨日、一昨日と学校を休んだ僕へ向けられる無数の目には隔たりや気遣いが滲んでいる。誰もがどこか余所余所しさを含んだ態度を取る中で、ひとりだけその枠組の中から外れた人物が居た。

大きなガラスのディスプレイの前で教鞭をとる男だ。彼は普段と何も変わらない微笑みを顔に貼り付けていて、穏やかなトーンで歴史書を読み上げている。

オリーブ色の双眼、長い手足、左手の薬指に光るシルバーの指輪。いつもと何も変わらない。

彼をぼうっと眺めながらその耳馴染みのよい声を聴いていると、射抜かれたかのように視線が交わった。

弧を描いたまぶたの奥にある矢を放つようなその瞳からは一切の動揺、焦りなどは感じられず、ただ彼は真っ直ぐに僕を見ながら音読を続けていた。彼の声は反響せず、この室内のありとあらゆる物体にまるで吸収されるように馴染んでいく。

視線が交差してどれくらいが経っただろう。数分のようにも感じるし、ほんの2秒ほどのようにも感じたが、授業終了を告げる柔らかな鐘の音がそれを遮った。

ウィッチはにこやかに授業を締めくくる。

 

それから2日後。

19時18分、僕はブルーとグレーが混ざりあった薄暗い部屋の中でひとり立っていた。

小型のスコープとペットボトル、そして母さんのミュージックプレーヤが入った、さほど重くないリュックサックを背負う。

これから行うことを頭の中で考えると無意識に肩甲骨のあたりが強張るのがわかった。

体の中心を誰かに掌で握られているかのような不快感が襲い、僕はゆっくりと息を吐いた。

 

「行ってきます」

 

その言葉は誰にも届くことなくグレーの中へ霧散していく。

階段を降り、店の裏から路地へ出てすぐにコンパクトバイクのシートに跨った。スイッチを押すと起動音が鳴り、車体を傾けて道路へと発進する。

ハンドルを握る手には必要以上に力が入り、じっとりと汗が滲む。

既に日が沈んでいて、バター色をしたライトが等間隔で街を照らしているが、この風景を楽しむ余裕は今の僕には一切無かった。

行き先はノースゲートブリッジ。

僕は今からテロリストに会いに行く。

いや、会うという表現は正しくないかも知れない。ただテロリスト達を見たいと思った。

この聖域の環から逸脱した人間達がどんな顔をしているのか、どんな声をしているのか、もしかしたら僕達とはまったく違う容姿をしているのではないか、違う言語を使うのではないか。そしてウィッチのあの視線の意味を、僕は知りたいだけだった。

僕は聖域の環の中から吊るし上げられた人間だから。

しばらくバイクで道路を走り続けていると、車体に内蔵された時計が外出禁止時間の間際を告げていた。脇道に入り、人通りの少ない路地の更に奥にバイクを止める。念には念をだ。ここならそう簡単に他人には見つからないだろう。

僕は爪先をアスファルトに軽く打ち付け、路地を自らの足で走り出した。

ノースゲートブリッジを訪れたことがない為に正確な道のりはわからないし、地図を見ることの出来るタブレットは自宅に置いてきた。政府が干渉しているあの端末を今日ここへ持ってくるという選択はどうしたって出来なかった。

はるか上空のプラズマシールドの内側に表示された方位のマークと、自宅を出る前に地図を見て記憶した建物やブリッジの位置関係だけを頼りに北へ走る。

外出禁止時間をとうに過ぎた今、巡警オートマトンが列を成して大通りを我が物顔で練り歩いている。そのぎょろぎょろと動く無数の目をどうにか掻い潜り、ゆっくりと着実に目的地へと進んだ。

 

もうどれだけ走り続けただろう。

足は棒のように突っ張り言うことを聞かず、ひゅうひゅうと悲鳴をあげる喉に苛立ち、極力音を立てないように必死に口を両手で抑えた。

ぐったりと背を預けていたビルのコンクリートの柱から体を少し浮かせ、首を伸ばして大通りの方を見ると、立ち並ぶガラス張りの建物の隙間からようやくブリッジの主塔とケーブルのアーチが見えた。

あのカードに書かれた時間まで40分を切っている。

体を引き摺るように立ち上がり、建物のガラスの壁に手をついた。汗の滲んだ掌がぴったりと張り付き、反射するそれに映る自身の姿を見る。


 
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