(漢中)
生きているのが奇跡と思えるほどの満身創痍、それが陽平関から帰還した蒲公英ちゃん、そして共に戻った僅かな兵士たちの姿だったわ。
全員が本陣に戻ったところで緊張が切れたのか倒れこんでしまって、急ぎ衛生兵を呼んで治療に当たらせる。
唯一人、蒲公英ちゃんだけは意識を残して、本営に移り横になって治療を受けつつ私達に事情を話してくれたわ。
・・既に魏軍は臨戦態勢を整えていて、陽平関には夏侯淵将軍が待ち構えていた事。
罠が仕掛けられていて西涼騎馬軍は大打撃を受けた事。
殿を務めた翠ちゃんが行方知れずな事。
そして退却を始めたら途中の林道から魏兵が現れて、歩兵軍が為す術なく壊滅させられたと。
そう伝えてくれた後、蒲公英ちゃんは意識を失ったのか目を瞑ったわ。
衛生兵が命に別状は無いとの事で、そのまま本営内で休んで貰う。
「桔梗、急いで全軍退却すべきだわ。おそらく私達は魏国の手中に落ちているのよ」
「紫苑様!何を仰るのです、戦は始まったばかりではないですか。向かって来ている軍は討ってしまえば良いだけです。将がそのような弱気でどうしましょう」
「あの翠ちゃん率いる先陣が一日で壊滅してるのよ、それも用意周到な罠に嵌まって。だったら私達だって例外ではないと思うべきよ」
既に一万の兵を失って、これ以上は軍の維持にも響きかねないわ。
翠ちゃんの事は勿論心配だけど、探している時間なんて・・無い。
「策など武によって打ち払えば良いだけです。我等は桃香様の代理、いわば正義を為す軍。悪である魏を前にして退却などありえませぬ」
「そんな話じゃないわ!」
「いいえ!全ては桃香様の為です!翠とて後悔は無い筈です!」
・・この娘は、一体何を言ってるの?
桃香様の事を何も分かっていない、何も見ていない。
翠ちゃんの気持ちまで勝手に決めつけている。
思わず蒲公英ちゃんに目を向けたけど、休んだままの姿に聞かれてはいなかったと安堵する。
「よさぬか、二人共!!・・・紫苑、退却は出来ぬ。だが罠を警戒するのは尤もだ、わしらは進軍を取り止め定軍山にて防衛に徹しよう」
「桔梗様、そのような弱気な!」
「黙れ!焔耶、お前も将であるならば感情だけで動くでない、直ちに防衛の準備をせよ!」
「・・分かりました」
不満を隠さずに陣幕を出て行った焔耶ちゃんに桔梗が大きく溜息を吐く。
「恋は人を盲目にすると言うが、困ったものよ」
・・そうね、あの娘には全く悪意が無いわ、だけど、だからこそ危うい。
「紫苑、焔耶はわしが抑える。魏とて此方から動かぬかぎりは罠にもかけれまい。それに、翠も戻る場所が近くにある方が良いだろう」
「・・ええ。ご免なさい、私も取り乱していたわ」
冷静に考えれば桔梗の言葉は全て正しい、魏国も万能な訳ではないもの。
地の利は此方にあるし、兵力も食糧も充分。
全体の戦略としては失敗に終わってるけど、蜀領への侵攻を許したのではないのだから。
それに翠ちゃんの武なら逃げる事も無理じゃないわ、そう、きっと無事な筈。
長期戦に持ち込めたら魏国との交渉の場を作れる可能性もあるし、国内の好戦派も思うようにいかない現実に考えを改めるかもしれない。
前向きに考えましょう、そうすれば胸の内の不安も軽くなるわ。
「桔梗、貴女がいてくれて良かったわ」
本当に。
「フッ、わしも同じよ。さて、成都や荊州に伝者を走らせておくかの」
「真・恋姫無双 君の隣に」 外伝 第9話
(荊州)
・・何という事だ、合肥方面軍が壊滅し雪蓮様と冥琳様が亡くなられたなど。
とても信じられぬ、だが届く報は全て同じ内容で最早疑うべくも無かった。
小蓮様が陣幕に閉じ籠られ、嗚咽は止む事無く聞こえてくる。
蓮華様は未だ受け止められぬのか、多くの兵を合肥に走らせ新たな報を待ち続けている。
私も亞莎も明命も、御二人に声をお掛けする事すら出来なくなっていた。
・・甘かった、本当に今更の事だが、我等の考えは甘かった。
だがあの百戦錬磨である雪蓮様と冥琳様が完膚無きまでに打ちのめされ軍は全滅、そんな事を一体誰が予想出来るというのだ。
我等も蜀の者達も当初は信じられず虚報としか思えなかった。
蜀陣営は退却を促してくるが、こうなってしまっては蓮華様が退く事は無く我等とて同じ。
一度撤退し戦略の立て直しを図ろうと決まっていたが、我等呉軍は目前にいる曹操を討つまで退かぬ。
だが現状、兵力差と強固な防衛陣に攻め手が無い。
・。
・・。
・・・やってみるか。
成功すれば蓮華様の御心を少しは御慰みする事が出来るかもしれん。
亞莎と明命に相談し、最初は反対されたが二つの条件を呑む事で協力してくれる事になった。
呉より呂蒙殿が訪ねて来られ、百名程での夜襲を行なうと言う。
些か無謀ではないかと思ったが、気落ちしている軍の士気回復の為であり、具体的な戦果を欲するのではないとの事。
「成程、魏の強固な陣に少数で侵入を果たす、それだけでも兵にとっては明るい話題となろう。功に固執せぬのなら逃亡も難しくはないな」
「は、はい。合肥の戦の事は既に兵にも周知の事です。態勢の立て直しが必要な事は主君孫権様も御理解されておられます、ですが一矢も与えずに退却する事は呉国にとって、そして憚りながら貴国にとっても国の威信を損ねる事と思うものです」
・・確かにな、此方も客将の華雄が討ち取られている。
正直なところ戦友だったとは思ってもおらぬが、蜀の名を損ねたのは間違いあるまい。
しかし呂蒙殿の言、そのままには受け取れぬ。
「ほう、本当に孫権殿は状況を理解されておられるのかな?」
とてもそうは見えぬがな。
「止せ、星。孫権殿の御苦しみは察して余りある、我等にとっても他人事では無い」
「・・そうだな。呂蒙殿、失言であった、お許し下され」
私も心が整理しきれておらぬようだ、止めてくれた愛紗に感謝しよう。
「い、いえ、お分かりいただけましたなら・・」
呂蒙殿が退出し、軍師たちが各々の意見を交し始める。
「成功すれば魏に隙が出来る筈なのです、そこに恋殿が兵を率いて突入すれば勝利は間違いないのです」
「ねね、馬鹿言わないでよ。むしろ成功後は寝てる兵も起きてきて守りの兵が増えてるに決まってるじゃない」
「え、詠さんの仰るとおりかと。そ、それに侵入の為にも魏軍には今迄と違う兵の動きは見せない方が良いと思われます」
どうやら静観となりそうだな。
・・さて、これで戦況に変化が起こるか。
私は軍師ではないため詳しくは分からぬが、今の膠着状態はむしろ良しと思うのだがな。
合肥方面軍の全滅には驚いたが、やはり魏軍と正面からの戦は避けたほうがよいと確信する。
漢中方面軍の翠たちも気にかかるが、あちらは地理的に小戦しか起こり様がないゆえ大きく傷を追う事はあるまい。
私の考えは既に蜀国内での防衛に移っていた。
(漢中)
数日が経ち、わしらが立て籠もる定軍山は魏軍に包囲された。
閣道も押さえられたが、定軍山の砦化は済んでおり水源も確保済み。
兵数は同程度、これならば陥とされる事は万に一も無い、後は魏軍が攻め疲れ退却するのを待てばいい。
籠城策に焔耶だけでなく不満を持つ者が多く、その辺りは頭痛の種だが方針に変更は無い。
ま、若者に熱は必要なものよ、無理に大人になる事もない。
そこを導くのが大人の役目だからな、何時か焔耶たちにも分かる事だ。
・・だが焔耶は桃香様から離した方が良いかもしれぬな、全てを桃香様に直結するようでは心が成長せぬ。
依存も度が過ぎれば他者にとって不愉快な存在となりうる、本人が良ければいいという問題ではない。
人の心とは難しきものゆえな。
・・翠の戦死が、確認された。
覚悟はしておったが、若者が年寄りより先に逝く事に慣れる事はない。
焔耶や他の者達は涙を流し、翠を褒め称え敬った。
翠の弔いと改めて出陣を求めてきたが、今は耐えよと斥けている。
わしとて立場が無ければ飛び出したい気持ちだが、わしらの後ろには多くの民がいるのだ。
何より最も辛い蒲公英が耐えておるのだと。
蒲公英はまだ傷が癒えておらぬが、立ち上がる位には体力を回復させておるようだ。
尤も心は難しい、誰とも口を開いておらぬ。
焔耶がよく声を掛けておるが、今はそっとしておいてやれと言っておろうに。
「桔梗っ!!」
「紫苑!?」
「桔梗!魏軍が動き出したわ!それも、それもよりによって!!」
「落ち着け、紫苑!一体何があったのだ!?」
「火よ!!」
・・・・・な・に?
「火計よ!魏軍は定軍山を蜀軍ごと焼き払う気なのよ!!」
本営より飛び出し山道に配している魏軍に目を向ける、そこには確かに火を熾し続けている姿があった。
おそらく油も使用しているのだろう、火の回りが速く煙が濃くなっていく。
目の当たりに見て、それでも理解出来なかった。
・・馬鹿な。
山間での戦いに於いて火を使うのは禁忌中の禁忌だ、戦どころか人の営みからも外れる行い。
火が山に放たれれば人には制御など出来ぬ、後は天に委ねるのみ。
誰もが分かっている事だろう、既に兵たちは恐慌状態と成り果てていた。
「・・ありえぬ。まさかこのような暴挙を、・・・魏よ、お前たちは、お前たちは何をしたのか分かっているのかーーーーーーーーーーー!!!」
怒りが何もかもを振り切り、視界は真っ赤と化し咽喉が裂けるほどに叫ぶ。
「桔梗、落ち着いて!落ち着いて、桔梗!今は急いで脱出しないと!」
「おのれっ!おのれっ!おのれーーーーーーーー!!!」
「一つ一つ潰すより纏めた方が効率がいいんですよー。・・分かりますか、宝譿?」
「・・そうだな、気付いた時には遅いけどな」
「皆、集まって!魏の包囲を強行突破します!」
逃げ惑う兵たちに命を発して、どうにか三千ほどの兵が従ってくれたわ。
他の兵は我先にと散り散りに逃げ出して、もう指揮系統は完全に崩壊状態だった。
「卑劣なる魏め、まともに戦っては勝てぬからと小細工ばかりしおって!」
「焔耶、わしに続け!人の道を踏み外した外道めら、断じて許さぬ!」
憤怒極まる桔梗たちが山道を封鎖している魏軍に突撃する。
でも魏軍にとっては想定内の動きで、柵が設置され槍兵が並んで弓兵が待ち構えているわ。
本来なら攻めるなんて有り得ない、でも其の死地に飛び込むしか生は無い。
兵が次々に倒されて、それでも炎の山と化した定軍山から逃げるように攻め続けて、遂に突破に成功したわ。
・・多くの兵たちと、私達の先頭に立って身体に何本もの矢や槍を受けながらも戦ってくれた桔梗の死と引き換えに。
でも更なる苦難が直ぐに始まったわ。
最後の柵を破壊された魏軍は無理に戦線を留め様とせず、私達に通過させてから追撃をしてきたのよ。
一度死線を越えた私達には逃げる事しか頭になくて、背を容赦なく魏軍に討たれ続ける。
安全圏に辿り着けた時、漢中侵攻軍五万の兵は、僅か三百にも満たなかったわ。
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翠の率いる先陣が壊滅。
桔梗たちは定軍山に篭る事を選択するが。