誰もいない縁側に一人腰かけ、ぼんやりと夜空を眺めていた。
上空では強い風が吹いているらしく、千切れたような雲が流れて行く間から時折月が見え隠れしている。
しかし、強風にありがちな轟々という唸り声は聞こえない。
対して俺の鎮座している地上では、頬を撫でるような微風が庭先から吹き込んでいた。
暑さを和らげてくれるそれのおかげで、部屋にいるのとそう大差ない快適さを感じられる。
眠気はなかったが、適度に疲れていればここでもぐっすり眠れるかもしれない。
なるほど、晩酌を愉しむには丁度良い条件が揃っているな。
廊下を歩く足音に振り返ると、それを提案した本人が酒器うんぬん一式を揃えてこちらへやって来た。
「お待たせしてすみません」
「ふふふ、これ位は待った内に入りませんよ」
心中の喜びを隠さぬまま、ニヤリと笑って答えた。
自分で言うのも妙だが、呑む前から上機嫌というのも珍しいかもしれない。
俺は酒宴の準備を手伝いながら、式姫に問いかける。
「珍しいですね、そっちから誘ってくるなんて」
「こういう事もありますわ。何故なら――」
「全ては占いに依るものです。そんな所ですかね?」
「…………」
占い師は答える代わりに、ウインクを飛ばしてみせた。どうやら彼女の方も上機嫌らしい。
彼女の用意した大きな徳利から猪口に酒を注ぐ。二人で酒器を構えると、白峯が問うてきた。
「オガミ様、何に乾杯します?」
「ん?んー…………」
返答に詰まった。そわそわするあまり、そんな事まで考えていなかったのである。
どうせ二人きりの酒宴だし、口上なんて適当で良いや。
「じゃあ、このひと時に乾杯」
「乾杯」
「っはー。旨いなぁ!」
一口目を呑み終え、率直な感想を告げた。
なぁ白峯、と同意を求めるように振り向くと、当の本人は手元を口で覆い隠してクスクスと笑っていた。
肩まで小刻みに震えている。何がそんなに面白いのだろうか?
「……何か、俺変な事言いました?」
「いえ、その……ふふふっ、すみません。あまりにもオガミ様らしくて」
「?」
褒めているのか馬鹿にしているのか分からない。
白峯の様子に納得できない俺は、幼稚な持論で反撃した。
「酒の旨さを言い表すのに、『うまい』以上の言葉なんて無いでしょう」
芳醇な香りだの、のどこしスッキリだの、米が良い水が良いだのの文句は要らない。
そういうのを全てひっくるめ、旨いと感じたから旨いと言ったそれだけの事。
酒造りの現場を見た事はないので、これを作るのにどれほどの手間暇がかけられているか俺には想像できないが……。
多くの要因によって着飾られたモノを、飾り気のかけらもない言葉で表現する。それを冒涜だと言うのは何も分かっていない馬鹿者の意見だ。
立場や肩書を持つ者は、旨さを表現するのにすら安直な言葉を避ける傾向にある。
それが正しいか間違いかはともかく、ある重大な事を見落としているのだけは間違いない。
食べる者への気遣いの他に、料理に隠されているもう一つの問いかけ。
それを無視して着飾った言葉をペラペラと並べるのが、俺にはどうも納得できない。
この名酒を作るのに携わった人々もまた、酒を通じて俺や白峯に問うているのだ。
これは旨いか?と。
『うまいうまいと言って食べて下さるのが、私にとっては一番嬉しい事です』
ウチの台所を取り仕切る鬼嫁も、こう言っていたのだから。
旨いか?格好良いか?可愛いか?驚いたか?
料理に限らず、創作物は受け取る者に例外なく謎かけを仕掛けてくる。
だから、旨いかと問われれば旨いと答えるのが一番正しいハズだ。
「オガミ様の理論に照らし合わせるなら、私はどうでしょうか?」
「うん?」
白峯が試すような瞳でこちらを見ている。
「……綺麗なお姉さん、かな」
「あら、うふふふ……お世辞でも嬉しいですわ」
何言ってやがる。俺に気の利いた世辞など言えないこと位分かっているだろうに。
そもそも酒がなければ、こういう事も恥ずかしくて中々口に出来ないのだが。
「オガミ様のそういうところ、私は好きですよ」
「ありがとう?」
妙な方向へ展開したまま会話が終了した。やはり馬鹿にされているのかもしれない。
「お聞きにならないのですか?」
唐突に白峯が切りだす。
「何を?」
「この数日間、私が留守にしていた事を」
今日より五日ほど前の事。三日後に必ず戻ります、とだけ告げて白峯が出て行った。
ああ、いってらっしゃい。事の仔細を尋ねる事もなく、俺はその一言だけで送り出したのである。
相手が幼い式姫ならともかく、いちいちどこへ行って何をするのか等を聞きだすのも野暮というもの。
聞かれたくない事情の一つや二つ、白峯が抱えていても不思議ではない。
まぁ何にせよ、宣言通りに彼女はこうして戻ってきてくれた。
「いついつまでに戻ります、なんて言われちゃあそれ以上の事を聞いても仕方ないでしょう」
白峯には全面的に信頼を寄せている。
俺が単純なだけなのかもしれないが、彼女の言を疑った事は殆ど無いのだ。
「私の事を、信じていて下さるのですね」
「何も言わずに勝手に出て行くような真似をするなら、俺も考えを改めますけどね」
「うふふ、それじゃあ私は猫ですわ」
「何言ってるんですか、白峯さんは犬でしょう」
以前、白峯と花咲かじいさんの話について語り合った事は忘れていない。
「讃岐へ出かけておりました」
「讃岐?うどんでも食べに行ってたんですか?」
「霊峰で修行をしておりました」
「霊峰……」
と言われてもピンと来ない。
俺は脳裏に深い霧に覆われた峡谷を思い浮かべる。この辺りではまず拝めない光景だ。
「修行と言うと、術の修行ですか?それとも占いの?」
「後者ですわ。山の頂上からは、色んな物が見えますから」
白峯が視野の広さを大事にしている事は俺も知っている。
山頂の景色ねぇ。遠征の折に山を越える事は何度もあったが、そこまで意識した事はない。
「何が見えますか?」
「ううん、口で説明するのは難しいですね……百聞は一見に如かず、と言いますか」
「見てみなくては分からない、と」
「そういう事です。山頂の景色は、見る人によって違うものですから」
私があれこれ説明した所で実感は得られないでしょう、と占い師は締めくくった。
なるほど、言われてみればその通りだ。
誰であろうと、目を持っている者は皆同じ物が見えているワケではない。
同じ大地の上で生活しながらも、見ているモノは人それぞれ微妙に違っているのだ。
そういう話は隣に控える綺麗なお姉さん以外に、思兼からも聞かされた事がある。
おかげで今日は無駄な異議を唱える事もなく、すんなりと腹に収まった。この酒と同じように。
「俺は山登りは遠慮したい所ですね、はは」
白峯が徳利を差し出してきたので、俺は慌てて残りの酒を一気に煽った。
そうか、この酒は讃岐の土産か。……となると、そうそう何度もお目にかかれるようなモンじゃないな。
どれ、次の一口はありがたく頂くとしよう。
「目、か……」
「どうしました?」
「いや、白峯さんは一体どれだけの事が見えているのかなーと」
それが彼女自身にも説明できない事は分かっている。
「見えすぎる、というのも良い事ばかりではありませんよ」
「……そうでしたね、すみません」
「いえいえ、怒っているわけではありません。見える物が多いと、それだけ気苦労も増えますから」
少しだけ、羨ましいですわと白峯が付け加える。
「羨ましい?俺が、ですか?」
「はい」
どういう意味だ。視野が狭いと言いたいのだろうか。
「うふふ、違いますよ」
「えっ!?」
不意に心を見透かされたようで、俺はぴくりと背筋を強張らせた。
「わ、分かるんですか……」
「オガミ様の考えている事は、大体分かりますわ」
涼しい笑顔を浮かべて、さらりと白峯が答える。
怖い怖い……。やっぱりこの人、敵に回しちゃいけないな。
「相手の考えを推し量るには、一体化すれば良いのですよ」
「一体化?」
「例えば、剣の腕を磨くのにオガミ様ならどうします?」
「うーん……童子切さんの動きを真似てみる、とか」
あっはっは、そんなの無理に決まってるじゃないですかー。……うん、あの人なら言いかねん。
というか多分無理だ。体、というより身のこなしがまずついていけない。
「つまり、そういう事ですわ。目の動き手の動き足の動き、細かい仕草から呼吸に至るまで」
真似てみる事で、相手の気持ちが少しだけ分かるようになる。
慣れてくると、一体化せずとも注意深く観察するだけで感じられるようになる。
白峯は簡単そうに言うが、どれだけの研鑽を積めばそんな境地へと辿り着けるのか。途方もない道のりだ。
「呼吸は特に大事です。息を止めると追い詰められ、それが続くと死んでしまいますから」
「呼吸ですか……」
「普段から呼吸を乱さぬよう、意識してみるのも一つの手ですね」
呼吸を意識する、か。なるほど、面白いかもしれない。
……と言っても一週間もすれば頭から抜け落ちてしまいそうだが。
「おっと」
「すみません。少し酔ってしまったようで……」
もたれかかってきた白峯から、ふわりと甘い香りが漂う。
「つ、疲れてるんならこの辺でお開きにしますか?」
「…………」
答えない白峯の横顔をちらりと伺うと、伏し目がちな表情。
暗くて判別できないが、その頬は酒に酔ってほんのり赤く染まっている……のか。
今宵の白峯は口元の布を外している。晩酌の邪魔にしかならないから当然だ。
普段は観察できない彼女の口元からは、熱っぽい吐息が漏れている。
なお、これは呼吸を意識せよとついさっき言われた事を忠実に実践しているだけであり
その柔らかそうな唇に卑しい情欲など微塵も――…………いや微塵くらいはありますスイマセン白峯さん。
視線を下げると、これまたちょうど良い具合に白峯の胸の谷間がよく見える体勢。
こ、これは流石にマズイんじゃないか……。
幸運もここまで来ると仕組まれているのではないかとわずかに残った理性が疑問を発していたが今の俺はこの誘惑に引き摺られる以外の選択肢はない。
というか、この状況において意識するなという方が無理な話だ。
「…………」
全身に酔いが回ったようにかあああっと熱くなり、背中を汗が伝うのが分かる。
心臓がバクバクと大きく跳ね、俺は平静さを失いつつあった。
壊れた人形のようにどうするどうすると同じ言葉が頭の中でぐるぐるしていた。
こんな状況下においても、ただ一つ確実に言える事があるとするならば。
白峯の修行してきたという霊峰なんちゃらより、この眼下に広がる絶景の方が俺にとってはずっとありがたいという事だ。
「ダメですよ、オガミ様」
白峯の呟きで、俺はハッと自我を取り戻す。
「呼吸を乱してはいけません、と言ったではありませんか。ふふ……」
口の端に笑みを浮かべながら、酔っぱらった占い師が忠告する。
「え、ええっと……あは、あはははは」
狼狽した俺は迷った挙句、苦笑いで誤魔化すことにした。恐らく、ここまで全て白峯のお見通しなのだろう。
ううむ、居心地が悪い。とりあえず白峯の体を起こして……っと。
…………とさっ。
むむ?
ぐいー。
…………とさっ。
「白峯さん」
「はい」
元に戻した途端、こっちにもたれかかってくる白峯。どうやらワザとやっているらしい。
「酔ってます?」
「ふふっ、どちらでも良いではありませんか」
いやまぁ悪い気はしないんですがね、こう……ううん、迷惑じゃあないんですけど……。
「もう少しだけ、甘えさせて下さいな。オガミ様」
本当に酔っているのかどうか俺には判断できないが、こう言われると頷くしかないのである。
なんだかんだ言いつつ、やはり式姫に甘えられて悪い気はしないのだ。
それに――恐らくこういう展開にでもならなければ、白峯が甘えてくる機会など二度と訪れないだろうから。
まだ少し昂っている鼓動にそわそわしながら、俺は一人晩酌の続きを再開するのであった。
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白峯さんと晩酌するお話です。
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