「では、判決を申し渡す」
夜摩天の声が、静まり返った廷内に響く。
固唾を飲む音。
身を固くする気配。
ようやく終わるのかと、弛緩する空気。
様々な、音にもならない気配が、夜摩天に伝わってくる。
「汝を」
人界に。
そう言えたら、どれ程良かったか。
「……天」
そう言いかけた夜摩天の口が、きゅっと閉ざされた。
仔細に見ている者が居たら、その口許が、本当に僅かに喜びの形を作っていた事に気が付けたかもしれない。
彼女だけが感じられた……。
自らの力を分け与えた存在が、冥府に戻ってくる。
(ありがとう)
羅刹がやったのだ。
私の託した札を使い、始末をつけてくれた。
「如何された、夜摩天殿、早く判決を」
何か問いかけて来る宋帝を無視して、夜摩天は廷内の一点を見た。
「本件に関しての、新たな証人の出廷に伴い、審理を延長します」
夜摩天の宣言に、十王から不満のざわめきが起こる。
「何だと……証人などどこに?」
「夜摩天殿!」
「証人はそれに」
ゆるりと、空気が揺らいだ。
「領主殿の側近に、自らの式を送り込み」
蚯蚓とも何とも付かない蟲に体を絡めとられた人影が薄く浮かび上がる。
「自らは領主殿の目立たぬ配下に収まって、式を操り」
徐々に、その姿が濃くなっていく。
その顔を見た、領主が呻いた。
「貴様、足軽頭の……」
「その式に毒を調合させ、それを彼に盛った……いわば此度の件の最重要人物ですよ」
それを見ていた宋帝も、声に緊張を込めた。
「三尸に直接魂を連れて来させただと……夜摩天殿、お主、まさか」
何人であれ、輪廻の輪の中に居るモノなれば、過たず強制的に冥府に呼びつける、閻魔と夜摩天だけが使う事を許された、あれを。
「ええ、彼は練達の……しかも術を悪用する類の陰陽師と見ましたので、素直に冥府にはくるまいと判断しましたので」
「冥府王にそう言って貰えれば光栄だ」
夜摩天の言葉に、ふてくされたようにそう口にして、陰陽師はそっぽを向いた。
「しかし、何故そこまで?」
あの術は、一歩間違うと、無辜の民を害する事ともなりかねない故に、歴代の閻魔、夜摩天でも使った者の方が限られる代物。
「彼自身にここに来てもらわないと、彼が今回の件で果たした役割を、検証する事が出来なかったからですよ」
その身を人界に置かれ、隠形術に守られて居ては浄玻璃すら見通せない。
ならばこそ、虚飾を剥ぎ取り、魂だけとなった今、その生の全て。
今こそ見せてもらいます。
「では、貴方の審理を兼ねて、此度の件で貴方の果たした事を追います」
浄玻璃の鏡を引き寄せ、夜摩天は静かにそう口にした。
「……好きにするさ、産まれを間違い、仕官に挫折し、野心を抱いて雌伏したままで終わった男の生など、見て面白いか知らぬが」
肉体を失い、魂がこうして冥府に至っては、彼の野心も最早望みは無い。
皮肉っぽく笑って、陰陽師は最後の誇りを守るべく、昂然と顔を上げた。
「趣味道楽で見ているわけではありませんので、人の生を詮索する事に楽しみは別にありませんが……」
浄玻璃が澄んでいき、面に何かを映し始めた。
「今回の件の解明には、貴方の行動は、非常に重要かつ、興味深いんですよ」
夜摩天がここまでする相手というのは、普通ではない。
興味をそそられた様子で、冥府十王も浄玻璃に見入りだす。
その、浄玻璃の中の光景が進むにつれ、十王たちの顔が険しくなっていく。
式姫との戦闘、逃走、そして次の光景に、物に動じぬ冥府の長達からすら、呻くような声が上がった。
彼らは見た。
本来ある筈の無い……いや、在るべきでは無い物が、人の手に渡り、終にはその人を飲み込み、その悍ましい力を存分に振るう様を。
「馬鹿な、あれは」
「まだ……現世に残っていただと」
「全て滅ぼしたはずでは無かったのか」
抑えてはいるが、戦慄を伴う声がそこかしこから上がる。
それは神々の大戦の残した傷跡のように、赤く昏く輝く、魔の輝石。
この世界を呪う、妖狐の意思の欠片。
奴を滅するための戦に参加した嫌な記憶に、普段無表情な獄卒すらも、苦々しげな眉間の皺を隠そうとしていなかった。
「殺生石」
「片づけていきます」
手にした湾曲した杖の間に光の弦が走り、それを引いた手の中に、彼女の力が産み出した、光の矢が二筋番えらえれる。
離れて見ている天羽々斬にも伝わってくる、その力。
あの矢一筋に、恐らく、今の天羽々斬では全力を振り絞ってもなお足りない程の力が籠もって居る。
だが、これでもまだ、彼女の力のほんの一端に過ぎない。
彼女の知性の鋭さを、そのまま力に換えたような武具。
例え、地平の彼方であれ、彼女の狙った相手を過たず射ぬく光の矢。
すう、と半眼になり、殺生石の妖気を探っていた……その目が訝しげに開かれた。
(……そんな)
微かに動いた唇に、その言葉を読み取って、天羽々斬の体が緊張する。
天羽々斬が知る限り、彼女がそんな ー彼女の予想を超えた事態を想起させるー 言葉を口の端に上せた事は無い。
見守る中、引き絞っていた右手が離され、緑光の矢が、かつて鵺だった灰の山を貫いた。
ふぅ、と、どこか疲れたようにため息を吐いて、彼女は左手を下ろし、頭巾を直した。
珍しく、本当に珍しい事だが、声を掛けがたい空気を纏って、彼女は暫し、その灰の山を見据えていた。
その彼女に、天羽々斬は、低く声を掛けた。
「ご首尾は?」
「……一つ逃しました」
「!?」
声も表情も平静で、天羽々斬ですら、彼女の今の感情を読むことは出来ない、だが、彼女の矢が獲物を逃したなど、天羽々斬の知る限り、あり得ない話である。
「あちらも焦っているようですね」
しばし、沈黙が続いた後、ぽつりと言葉が零れた。
「あちら?」
その天羽々斬の言葉に、彼女は自分の思惟が口に出てしまった事に気付いたのだろう、小さく首を振った。
「失礼、貴女に告げるべき事ではありませんでした」
「今、何が起きているのか、伺う訳には?」
「……すみません、多くは語れませんし、何より」
「何より……どうされました」
「事態は、私の手を離れて、大きく、そして早く動き出してしまったようです」
その言葉の重さを知る、天羽々斬が大きく目を見開く。
馬鹿な。
例え、この世に干渉する事を禁じられているとはいえ、全知と言われるこのお方の手に余る事態。
そこまで考えた時、天羽々斬に、一つの考えが -どちらかと言うと考えたくない類のそれがー 浮かんだ。
古の協定により、目の前の人が、手出しを出来ない場所。
天羽々斬の主が今いる場所。
そして、数百の時を超え、再び世に現れた、玉藻の前の分身と、殺生石。
一つの絵が、見えて来た。
険しい表情を浮かべた天羽々斬の顔を見て、彼女はそれが正解と言うように、頤を引いた。
「時がありません、戦える皆を集め、早くお屋敷に戻って下さい」
あの地を死守なさい。
あの地、式姫の庭こそが、おそらく地上の最後の希望。
「……承知しました」
多くは問い返さず、走り出した天羽々斬の闇色の衣が森の中に消える。
その背を見送りながら、彼女は僅かに天を仰いだ。
殺生石が大いなる力に呼ばれた。
そして、殺生石はそれに答えた。
より大きな。
より邪悪な。
その魂と企みに惹かれて。
彼女が手出しを許されていない、地の底へ。
(ご無事で……)
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式姫プロジェクトの二次創作小説です。
前話:http://www.tinami.com/view/938773