地を一蹴り。
その速度は、一秒の間に数十メートルを駆け抜ける。
「……………………くそ」
グレーは学校の正門を全速で通りながら、密かに悪態をついた。
左腕が邪魔だ。肘から骨が飛び出しているため、曲げる事も出来ない。どんな力のかかり方をしたのか、考えるだけでゾッとする。露出している骨の方に気を取られがちだが、掌と手首の骨が正常かどうかも、かなり怪しい。感覚が全く無いので、なんとも言えない辺りが、また恐ろしい。
とはいえ、実は痛みは無い。いや、より正確に言うならば、痛みを感じてはいない。アドレナリンの過剰分泌による感覚の麻痺では無い。グレーは冷静だった。精神系の能力者として、どんな状況でも冷静で居られる事は、絶対必要な能力だった。精神を操作する能力者自身が精神を乱すなど、笑い話にもならない。痛みを意識的にシャットアウトしたのだ。耐え難い苦痛に耐える訓練により、そうした技能を獲得した。本来ならば、痛みのシャットダウンという行為は、死に直結する非生物的な行為なのだが。
だから、痛みがどうとかでは無く、開放骨折した左腕が、走るのに邪魔だった。もちろん、戦闘行為にも支障が出るだろう。眼の前に現れた、敵の全てを倒していく…………などと、そんな化物じみた事が出来るほどの実力を持って居ないので、戦闘行為についてはなるべく避ける向きで固まってはいたが。
とはいえ、そんな事に気を取られている場合では無い。コンマ一秒でも早く、目標にたどり着かなければならないのだから。
しかし、学校を覆う灰が、明確だった目標の気配を、今や完全に覆い隠してしまっていた。いや、正確に言うならば、グレーの能力を中和する形で探査機能が減じられていた。アッシュがこの様な力の使い方をした所は見たことが無いが、組織を抜けてから随分と経つ。能力が進化していてもおかしく無い。アッシュの能力は探査に向いたそれでは無いが、昔はグレーと行動を共にしていただけに、そうした方法を思いついてもおかしくは無い。
また、一蹴り。
体の周りを、風が弾丸の様に駆け抜ける。
だが、所詮はその程度だ。その様な力の使い方には向いていないのだろう。ラジオに乗るノイズの様なもので、内容を聴こうとすれば問題なく聴ける様に、集中すれば、どんな人間がどの辺りにいるか、というのが、大体把握できる。
アッシュの所在だけが明確に掴めなくなっしまっているが。昔から、気配を隠す事にかけては、隠密行動専門のグレーと良い勝負をしていた。その能力は今でも健在らしい。元々察知しにくいアッシュの気配は、探査機能が減じられたグレーの力では把握する事が出来なくなっている。
それは、ある一つの覚悟を決めて置かなければならない事を意味する。
すなわち、一瞬で殺される事を。
「それだけの事ではある…………が」
元々、直接的な戦闘で勝ち目があるとは思っていない。護衛であるアッシュの裏をどうにかして取り、目標を素早く奪取、そしてそのまま遁走。それが最善。逃げ切れるかどうかも実は怪しいが。
第三者からしてみれば、いや、グレー以外の者から見れば、自信の無い命がけの綱渡りを、わざと片足でやっているように見えるだろう。実際その通りだと自分でも思う。そもそも、『どうにかして裏を取る』という部分からして計画性が甚だしく無い。自分から相手の懐に飛び込んでいくわけだから、策の立てようも無いのだが。今取っている行動がいかに無謀であるかを物語っている。
だが、自分にとって、それはそうするだけの価値があるのだ。
妙に堂々とした男子生徒の横を高速で通り過ぎる。一瞬、眼が合った気がした。次の瞬間には高速で後ろへと離れ去っていく。常人では有り得ないほどの速度で走っているのだから、グレーの存在を思考として理解出来ないはずなのだが、彼は理解しているかのように見えた。もちろん気のせいだろうが。
この学校の校舎は、Iの字型をしている四つの並行した校舎棟で出来ている。それぞれの校舎棟は渡り廊下で繋がっており、一つの校舎棟は夜間高校専用となっている。
今たどり着いた、その夜間専用の校舎棟の辺りに、目標の気配を感じた。
一体、何処に居る。
素早く辺りに視線をやり、気配を探る。
夜間校舎棟の真向かいには体育館があり、その二つの建物の間にはバスケットコートが存在する。辺りを覆う灰のせいか、そのバスケットコートは未使用だった。
人の姿は向こう側に見える運動部の姿のみ。
つまり、気配はすれども目標は居ない、という事になる。
だが。
視線を感じて、咄嗟に上を向く。
夜間校舎棟の屋上。人の身長よりも高い鉄柵の向こう。
居た。
気配の持ち主。求めて止まなかった存在。己の存在理由を理解するために必要不可欠で有るかもしれない。
決して鋭くは無いが、捉えどころの無い眼光。
眼と眼が合った瞬間、全身を襲う鳥肌。心に到来する興奮。
思わず、屋上へ向かって跳んでいた。
跳んだ瞬間に、後悔する。
何故、簡単に姿を見せた?これは罠では無いのか?
だが、後悔を一瞬でねじ伏せる。
元より決死の覚悟。何であろうと行動するのみ。
学校の敷地内を走るグレーを視て、葉月はしかし、特に慌てる様子も無かった。
彼女を眼にしたのは初めてでは無い。写真で何度と無く見たし、その人物像に関してもアッシュから色々と聞かされた。
そして、実際的にグレーを眼にして。
「…………なるほど、本当にそのままの人ね」
その振る舞い。その容姿。写真で見たものと、人づてに聞いたものと、2つが混ざり合った印象。そのことごとくが、実際に目の当たりにして、感じた印象と変わりない。
それはこの場に来ている事で、すでに明白ではあったが。
…………眼が合った。
「ほんとに、信じられない感覚をお持ちのようで」
半ば呆れた様に、葉月は言った。
視線を感じた。殺気を感じた。こうした超感覚が、葉月にはどうにも理解が出来ない。葉月自身、普通の人間には無い感覚に従って生きているので人の事は言えないが、感じた視線の方向に振り向くというのは一体どういう感覚なのだろうか。訓練すれば身に付くような類のものなのだろうか。
3階建ての屋上と地上。眼が合った次の瞬間には、すでに視線は同じ高さ以上だった。そして、グレーは人差し指と中指を鉄柵に引っ掛けて、跳躍の勢いを減衰。その部分が指の形にめり込んで、周囲の鉄棒もまた少し歪む。勢いを減衰させたグレーは、そのまま葉月の背後へピタリと降り立った。
そして、グレーがその手を素早く葉月の腰へと回して…………。
「………………!」
声にならない声を出して、グレーが跳び退った。
葉月はゆっくりと振り返り、
「あら? 凄いわね」
微笑みながら言う。
グレーは自分でも、どうして己がそんな行動に出たのか理解できなかったのだろう。その表情が硬直していた。
「まだ理解出来ていないみたいだけど」
ある意味、当然の事だ。しかし、完全に理解していないまでも、触れた瞬間に感知するとは大したものだ。
グレーが葉月に触れた、その瞬間に飛びのいた。
それはとても単純な事だ。
「貴女は、私と同じ土俵に立っていないのよ。とても残念な事だけど」
残念そうには見えない顔で、淡々と言った
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複雑骨折はしゃれにならないくらい痛そうですね。