朧に霞む春の夜を歩む。
命満ちるこの季節は、まるで木々や草花……いや、大地や石までが、日中の光を蓄え、それを夜にほの白く幽かに光らせているような。
夜と昼の曖昧な、そんな季節。
ゆるゆるとした二人の歩みは、そんな季節を楽しむようであったが、仔細に見れば、夜の山道を、それ以上の速さで歩む事が叶わない故だったと判っただろう。
「すまんな、さくら……私も老いぼれた」
「何を仰せやら、まだまだお若いですよ、ご主人様」
「ふ……長い付き合いだと言うに、今更な世辞を遣わなくてよいよ」
「そもそも、遊山に赴くに、急くとは無粋ではありませんか」
「全くな、では美女と手を取り、ゆるりと参ろうか」
「ご主人様こそ、私などに今更なお世辞でございますね」
「ふふ、世辞か……」
「美女に囲まれた半生ですもの、それはお口も上手くなりましょう」
「全くな、実に良い人生だった、掛け値なしにな」
「まぁ」
主の痩せた手を引きながら、さくらは淡くほほ笑んだ。
幾度この手を重ねた事だろう。
己の手は、変わらぬ。
艶やかで滑らかな白玉の如き繊手。
主の手は、その齢を折々に映して。
今は、歳月の錆をその手に浮かべていた。
だけど、愛しい手。
歩みも、壮者の時の力強さはない。
自分より先に行き、彼女の手を引いてくれた、かつての姿は今はもうない。
だが、堅実に、足元を踏みしめ、一歩一歩進む……その姿は今も昔も変わらない主の姿。
そこを右に。
そこを左に。
主の指示に従って、山中に分け入る。
その歩みが進むにつれ、山の気配が濃密になっていく。
二人の周囲からは、徐々に、生あるものの気配が薄れていく。
藪を揺らす狐狸の類や、木の根方をしめやかに走り抜ける野鼠の立てるカサという音が稀になっていく。
主はどこに行こうとしているのか。
私をどこに……連れていくのか。
急に夜桜が見たくなってな、済まぬがさくら、一緒に行かんか?
濡れ縁で酒を召していたあの方が、不意にそう口にした。
酌をしていた私の手が止まる。
今はその官職を退いたとはいえ、功成って殿上人だった主の家には家人もそれなりに居る。
いかに何でも、私以外に供の一人も連れずに外出するなどあり得ない話で、本来ならお止めするべき話なのだが。
あいつらが付いてくると、気づまりでいかんよ、二人でこっそり出かけよう。
そう、いたずらっ子のように笑ったお顔が、余りにも、かつて戦陣にあった頃の、あの方のようで。
畏まりました、お供します。
私は、そう答えていた。
注連を巡らせた大岩が隣に見える。
山の気配は更に濃くなりまさる。
山そのものの持っている命が、身に迫ってくるほどに。
朧に木々の間から差し込んでいた月光もいつか消え、逆に木々に灯る怪しい燐光が二人の道を青白く映す。
「そこを斜め右に」
主の声は、だが変わらない。
「はい」
私の応えも変わらない。
更に歩みを進める。
今となっては、主が何か特殊な歩みを使って、山中の異界、この世ならざる場所に誘っている事がさくらにも判る。
だが……実際の山に赴こうが、幽冥境にある地に入ろうが、それは自分にとって些末な事に過ぎない。
主の在る場所が、すなわち自分の場所。
それが、式姫としての、私の在り方。
「そろそろだ」
そろそろ。
そも、時がどれ程過ぎたのだろうか。
それも怪しい。
ただ、二人の呼吸する微かな熱と、あの方と繋いだ手からだけ、生の気配が僅かにこの世界に漂いだし、それが生者の世界の時を進めている。
「その木を左に」
踏み出した私の足が、踏んだ土の感触に、ビクリと震えた。
ああ。
踏んだ土の感触を。
触れた木の気配を。
澄んだ空気の中に濃く漂う、戦の匂いを。
「なぜ」
私は覚えている。
「……あの夜桜が、どうしても忘れられなくてね」
立ち止まってしまった私の手を、今はあの方が優しく取った。
「嫌です」
「さくら」
「……駄目」
わたしが……こわれる。
あなたは……それでいいの?
「行こう。私が付いてるよ」
貴方が行くところには、私も付いていくしかない。
判っていて、そんな。
優しい声で、酷い事を言わないで。
「……はい」
私の答えを聞いてから、あの方は歩き出した。
周囲を見たくなくて、俯く私の手をあの方が引く。
一歩進めるごとに、心が騒ぐ。
血が熱い。
再び光が差した。
足元が明るい。
土の色すら、よく覚えている。
この地に伏し。
「着いたよ」
ええ、知っています。
「あの時と変わらず」
私は、ここで戦い。
「さくらが綺麗だ」
ここで死んだのですから。
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式姫草子のプレイヤーキャラの陰陽師、通称「平安さん」とサポートキャラのさくらさんのお話です。
草子未経験者の書く物なので、世界観にそぐわない、またゲーム内とは異なる描写が有るかもしれませんが、その辺りはご勘弁下さい。