赤壁の地、連合軍本陣。太陽は随分と前に地平線の彼方に消え、夜闇が周囲を覆っている。
今ここではこの日の戦を受けての軍議が執り行われようとしていた。
随分と遅い時間となっているのは、それぞれの国が自国内の戦果や被害状況の詳細を確認する時間を十分に取っていたからであった。
さて、今まさに軍議が始まろうとしているわけなのだが、その雰囲気には張りつめたような緊張感がある。
正確に言えば、息苦しいほどの緊張感を醸し出しているのは呉の面々。
蜀の方はそれに釣られるように居住まいを正している状態であった。
「……全員揃ったようだね。なら、始めようか」
孫堅が静かに軍議の開始を宣言する。そして、そのまま呉の報告から軍議は始まった。
「まずはこっちから一つ、重要な報告を入れておこうかね。
うちの雪蓮のことなんだが、今日の戦中に斬られた」
あまりに重大な内容にも関わらずあまりにもあっさりと報告され、蜀の側は瞬時の理解が追いつかなかった。
微妙な間が空いてから、蜀の面々を動揺が襲う。
ほとんどの者が驚愕に目を見開き、声を漏らす者までいたくらいだった。
「すみません、ちょっといいでしょうか?」
その中にあって、諸葛亮は冷静を保っていた。それが蜀における自身の役割なのだから、と強い自覚が動揺を抑え込んだようだ。
孫堅に視線で許可を出され、諸葛亮は口を開く。
「本日の孫策さんの配置は中衛のはずではありませんでしたか?
もしや、右翼ではそれほどまでの激戦に至っていたのでしょうか?」
「いや、今日の戦は中衛の部隊投入にまでは至っていないよ。
それは本陣から見る限りそちらも同じようだしね」
「それでは、何故――」
「中衛のまま斬られたってことさ。つまり、侵入者がいた、ってことさね」
これにはさすがに諸葛亮でさえも驚愕と動揺を抑え切ることが出来なかった。
「え……あの、ちょっと待ってください!
それはつまり、将の一人が斬られる事態になってしまうほど、侵入者に好き勝手にこちらの陣内を動き回られたということですか?!」
「それ以外の何があるって言うんだい?
ったく、明命のとこの奴らの目が行き届かなくなりゃあ、すぐにスルリと入り込んでくるなんざ、奴らは相当厭らしいのを飼ってるってことだね。
いや、雪蓮をやっちまうくらいだから、あっちの将の誰かって可能性もあるのかい」
諸葛亮の疑問に答えてから、孫堅は愚痴と推測が口を突く。
これを聞いていた者の中から、周瑜が自身の推測を投げ掛けた。
「月蓮様も知っての通り、雪蓮は特に勘が鋭かったので、いくら侵入者が隠密術に長けていたとしても不意打ちで沈められることは無いかと思います。
むしろ、雪蓮の性格を考えると、雪蓮が侵入者を発見し、勝負を挑んだのでは無いか、と。
そう考えると、侵入者は周囲の兵に気付かれるまでの僅かな時間で雪蓮を真っ向から破ったことになります。
それだけの実力と隠密系統の技術を持つような将ともなると、その侵入者というのは『北郷』なのでは無いか、と」
「う~ん……それはどうかししらねぇ」
周瑜の推測に待ったを掛けたのは程普であった。
この日の戦において、程普は呂蒙と共に甘寧の背後に控える部隊であった。
そのため、甘寧越しに戦場をずっとその視界に収めていたことになる。
「今日の思春の相手は、祭の部隊と元董卓軍。
けれど、その董卓軍の指揮に関してはどうやら賈詡と北郷が共同で執っていたように見えたわ。
北郷のあの服装は目立つものだから、戦場から離れたら分かるのだけれど」
「ふむ、なるほど?思春、あんたはどうだい?」
「粋怜様の仰る通りです。確かに、董卓軍の中に北郷の姿はありました。
身振り手振りや接敵した際に耳を掠めた言葉から察するに、どうやら水上での戦に覚えがあるようで、操船についての指示を出していたようですが」
「ふむ……冥琳の策で蔡瑁とやらは排除したんだったね?
だが、北郷はその後も自分で水練を行っていたらしいとも報告を受けているし、水軍指揮を執れても然もありなんってとこなんだよねぇ……
どっちにせよ、雪蓮が目を覚ましたら詳しく聞くとしようかね。それまではそれだけの事が出来る将がまだ向こうにもいるって認識を持っておいて損はないさね」
孫堅が話を纏める。
これ以上話しても推測に推測を重ねるだけで泥沼に陥りそうな、その寸前を見極めての切り出しであった。
他の者にも特に異論は無く、その話題は孫堅の言を以て結論となった。
「さて、こちらからの報告は以上だね。それじゃあ、冥琳――」
「すみません、最後に一つだけお聞きしたいことが。
孫策さんの容体は、どの程度なのでしょうか?」
続きの進行を周瑜に任せようとしたところで、諸葛亮が問い掛けた。
話を遮られた形にはなるが、孫堅の方に特に悪感情は芽生えていない様子。
ただ、これに答えたのは質問の内容から何を知りたがっているのかを察した周瑜であった。
「雪蓮は右肩口から縦にバッサリと斬られていた。今はまだ目を覚ましていない。
ただ、直前に身を引いていたのか、傷の面積は大きいものの、深さはそれ程でも無い。まず、命を落とすことは無いだろう。
孔明が懸念している点についてだが、残念ながら明日の戦には雪蓮は出せない。例え本人が出ると言ったとしても、私が止めさせてもらおう。
よって、明日の戦では、申し訳ないが雪蓮を戦力としては数えられない。明後日以降は別だがな」
「そうですか……分かりました。それでは、それを念頭に置いて策を練り直す必要がありそうですね」
「うむ。その通りだな」
二人して頷き、これからの流れについてが決まった。
それから、周瑜は孫堅の方に声を掛ける。
「それでは、月蓮様。ここからは私が進行してもよろしいでしょうか?」
「ああ。頼んだよ」
「はっ」
孫堅に一礼してから周瑜は連合の面々へと向き直る。
「それでは、これより明日の各員の配置と策について説明する。
なお、内容は先ほどの孔明との話の通り、適宜修正していきながらとなる。穏、粋怜殿、それに蜀の軍師たちには忌憚無き意見をお願いしたい。
それと、説明を始める前に、これだけははっきりと宣言しておこう。
この地、赤壁での戦は、明日、決着を迎えることになるだろう。各々心して掛かるように」
周瑜の思わぬ発言に場がどよめく。
その中で先陣切って問いを投げ掛けたのは蜀の関羽であった。
「ちょっと待ってほしい、周瑜殿。
何故明日で決着が着くと言い切れるのか、教えてはもらえないだろうか?
今日の戦況を聞く限りでは、明日にようやく様子見から本格的な戦になるのでは、というところなのでは無いのか?
仮に、連合から一気呵成に攻め込むつもりだとしても、敵の陣容を見る限りそう簡単に事が運ぶとも思えないのだが」
関羽の言も尤もだろう。
更に深読みすれば、関羽はあることを懸念している。
それはつまり、多大な犠牲を覚悟の上での勝利のもぎ取りに固執する、という事態について。
軍に属している以上、関羽にしろ他の将にしろ、もっと言えば末端の兵士に至るまで、大なり小なりはあれど死の覚悟は出来ているだろう。
だが、だからと言って兵を全て消費し切ってもいいかと問われれば、有り得ないとの答えしか出ない。
武力面における国力が下がる、という一事だけ見ても問題が大きいのだが、それ以上に国の仕事が回らなくなる。
何をするにしても、国という大きな組織を動かすには人手が必要なのだ。
兵士をあまりに多量に失ってしまえば、国としての機能が麻痺しかねない。
関羽はそれを恐れたのであった。
勿論、そのようなことは諸葛亮も周瑜も理解している。故に、決して無謀な策と考えでそう言っているわけでは無かった。
「ふむ……確かに、皆に納得して貰わねば、肝心なところで綻びが生じるかも知れないな。
……月蓮様――」
「構わないよ。冥琳の好きにしな」
「はっ、ありがとうございます。
それでは、この場であの者らの策を全て説明してしまおうかと思います」
周瑜が決意を込めた瞳で孫堅にそう告げた。
これを受け、孫堅の顔には獰猛な笑みが浮かぶ。
”明日は決戦”。それがこの瞬間、孫堅の中で仮定では無く確定になったからであった。
「そうかい。なら――――
思春。明命の部隊の奴らを動員していい。明日の出陣まで本陣に出入りする人物を全て監視させな。
少しでも怪しい奴は即捕縛、逃げるなら捕殺で構わない。
とにかく情報が漏洩する可能性だけは絶対に避けな。いいね?」
「はっ!」
「それと、連合軍全兵に通達だね。
『痛い思いをしたくなけりゃ、今日は大人しくしているように』。
蜀の連中にもうちの連中にも通達しておきな」
「分かりました。すぐに手配しましょう」
「は~い、承知しましたぁ~」
甘寧が孫堅の命を受け、すぐに議場を出ていく。
続いて徐庶と陸遜がそれぞれの軍の伝令に通達事項を回しに出て行った。
幾人もが去った状態で軍議を進めるわけにも行かず、周瑜が別の提案を挙げる。
「孔明よ、今の内に互いの本日の戦況などを共有しておくべきではないか?」
「そうですね。今の内にしてしまいましょう」
後の修正を円滑に進めるためという目的もあり、こうして徐庶と陸遜、甘寧の戻りを待つ間は互いの戦果・被害についての報告の場となった。
それほど間を置かず、徐庶と陸遜がまず帰ってきた。
この二人は軍師ということもあって、席に着くなり互いの報告について耳を傾ける。
その間にも徐庶は姜維から、陸遜は呂蒙から二人がいない間の報告内容について簡潔に情報を得ていた。
それから暫くして互いの報告も終わり、何をするでも無い時間が多少なり過ぎた頃、甘寧が戻って来る。
再び全員が場に集ったことで、周瑜が前置きも素っ飛ばして説明を始めた。
「皆戻ったな。では明日の策の説明に先立っての説明だ。
祭殿と士元についてだが、この二人は連合を裏切って逃亡したわけでは無い」
まだ周瑜が発したのはたった一言。しかし、それだけでその場のほぼ全員がこの日一番の動揺に見舞われた。
「ちょっ、ちょっと待ってください!
それはつまり、雛里さんは連合を去ったの策だったというわけですか?!」
驚きのままにそう問いかけたのは、蜀側の軍師、姜維。
「さ、祭殿も、ですか?!で、ですが、そのような策、いつの間に……」
続いて声を上げたのは呉側の軍師、呂蒙。
この二人が挙げた問いはそのまま他の面々が真っ先に思い浮かべた疑問と同じであった。
そのため、皆一様にこの問いに対する答えを待つ。
これに答えたのは、やはりというか周瑜であった。
「策は事前に打ち合わせたものでは無い。
恐らくは先の軍議の場で祭殿が即興で考えたものだろう。
それに士元が乗り、月蓮様が合わせた。そうですよね?」
「だね。あたいの性格をよく知っている祭が、いきなりあんなことを言い出すなんてことは無いよ。
つまり、何か考えがあったってことさ。祭の言動から罰を欲していると分かった。が、今となって思えば、鞭打ちくらいはしといた方がよかったかもねぇ」
「い、いえ、月蓮様……鞭打ちは数発でも死に兼ねないのでそれは……」
自身の主武器が鞭であるからだろうか、主の言葉に若干周瑜が引いていた。
余り話題を逸らせても良くない、と周瑜は咳払いを入れて話を戻す。
「とまあ、そういうことだ。或いは孔明も気付いていたのではないか?」
「はい。雛里ちゃんが何かを企んでいることだけは分かりました。
ですから、本気で雛里ちゃんの行動に驚き、罰する振りを」
「その後、逃亡の際にも手は抜かせなかった。それは魏の間諜にも伝わっただろう。
それ故に魏はあの二人を信じることになり、その懐深くに潜り込めたということだ」
面々の間に理解の色が広がっていく。
と同時に、甘寧が戸惑うような声音で口を開いた。
「それでは、もしかすると私は祭殿の邪魔をしてしまったのでは……?」
「いや、思春の行動に問題は無い。むしろ、今日の戦で祭殿に恨みを向けて固執する様子を見せたことで、祭殿はより深く魏に食い込むことが出来たと見ていいだろう」
周瑜が甘寧の懸念を一蹴する。
それは甘寧を慰めようとしての言葉ではなく、本心からそう思っての言葉であった。
それは諸葛亮も同意見である様子。
つまりはその策というものを基準に考えるのか、となれば、次に出て来る疑問は決まっていた。
「それで、その策とやらの内容とはどんなものなのか、説明してもらえるか?」
関羽の問い掛けに再び周瑜が答える。
「祭殿はあの時、特に魏の兵数について言及していた。
確かに、この戦で我々が魏に勝とうとすれば、最も大きな障害となるのはその兵数の差となるだろう。
つまり、祭殿は何らかの方法で魏の兵数を大きく削るつもりでいると考えている。
この時点で祭殿が考える策は凡そ想定出来ていたが、今日の魏の船団の様子を見て確信した。
祭殿は火計による魏の一網打尽を狙っている」
「これは私も同意見です。
恐らく雛里ちゃんが魏に策を齎しています。
船を繋いで安定性を確保する、というのは私や雛里ちゃんが呉の皆さんから受けた説明の中にあったものですので」
周瑜の説明に諸葛亮も補足の説明を入れて行く。
そこからは交互に話を継いで説明していく形となった。
「船を繋げば、確かに安定性は増す。以前は我々も使っていたものだ。
しかし、特定条件の下、あれは大きな欠点を持つことが分かった。
それこそが、火計を受けた時なのだ」
「安定性が増す代わりの欠点。それは二つの船が常に近距離にあって離れられない、ということです。
船は火計をまともに受ければ燃え上がります。そうなれば当然、近接するもう一隻の船にも、時間を置かずに燃え広がるでしょう」
「さらに、この辺りの地域は気候条件が揃った時、強い風が吹く。
今夜の空を見ていれば、ちょうど明日に気候条件が揃うと見ている。
そしてそれは当然、祭殿も知っていることだ」
「船が燃え上がり、風で煽られる。そうすると、陣を組んでいる他の船にまで燃え移る可能性が高まります。
雛里ちゃんであればそれを利用しないはずがありません。
火計の起点となる船周辺の敵船には燃えやすいものが仕込まれるはず、と見ています」
「つまり、我々が行うべきは、まず祭殿の動きに合わせてこちらからも火矢を放つこと。
そして、魏軍が混乱している隙に残る船団を各個撃破していくこととなる。
従って、明日は前線に戦力を固める。当然ながら本陣は手薄となる。
もしも策が破られればこちらも痛撃を受けるわけだが、それ以上に奴らに大打撃を与えられる可能性の方が高いと踏んだ」
「全てを得るか、全てを失うか。まさに明日の戦はそのような様相を呈すものと思われます。
そしてこの、前線への戦力の全力投入は如何な魏の軍師たちでも読み切ることは出来ないでしょう。
だからこそ、明日で決めます。逆に言えば、あの大軍を相手に明日決められなければ、どうやってもこちらの被害は甚大なものとなるでしょう」
二人が説明を終える。
暫し、場を沈黙が包み込んだ。
その間に皆、今の話を咀嚼している。
「朱里。一ついいかしら?」
各々が次第に理解の色をその面に表し始めた頃、蜀側から徐庶が手を挙げた。
「はい。何でしょうか、雫ちゃん?」
「これらは全て、雛里と黄蓋殿の策が上手くいったことを想定していますよね?
もしも、あの二人の策が失敗に終わった場合、つまり潜入工作を企んでいることがバレてしまった場合は、どう立て直すつもりなのですか?」
「それは――」
「それに関してはあたいから軽く説明してやるよ」
諸葛亮の返答を遮って声を上げたのは、周瑜ではなく、その上、孫堅であった。
不敵な笑みを口元に形作ったまま、孫堅は徐庶の疑問に答える。
「あいつらが失敗しちまう可能性は当然考えてある。
その場合に備えての手も既に打ってあるよ。
例えあいつらがバレて始末されちまっても、火計の連鎖は最終的に為るようにしてある。
初撃の大打撃が無くなっちまうが、それで大体の筋書きはそのままでいけるはずさね」
「重ねて失礼致します。
その”保険”に関しても、失敗の可能性は如何程とお考えなのでしょうか?」
徐庶のその問いに、孫堅の笑みはより一層不敵さを増す。
「そうさね…………あたいの見立てでは、極小、だね。
あたいも長いことこの大陸で生きて来たわけだが、この手が通じなかったら奴らにはどうやってもこの策は通用しなかったってことだろうね」
「それでは、もしもその保険すら破られてしまった場合は――――」
「大人しく投降しちまった方が身の為、ってとこだね」
ある意味、残酷とも取れる孫堅の言葉。
しかし、孫堅がそこまで言い切ったことで、逆に呉の面々は気概に満ちた表情を見せるようになった。
「大殿がそこまで仰るのであれば、火計を前提に策を立てなければなりませんね。
さてさて、魏はこれにどこまで対抗してくるのかしらね?」
黄蓋と並ぶ呉の宿将、程普がそう言えば、呉の中からは最早一人として火計の成否を疑う者は出なくなっていた。
「あ、あのぉ……呉の皆さんはどうしてそこまで信じられるんですか?
まだ、絶対に火計が成功する、と決まったわけでは無い――ですよね?」
呉の将たちの様子に、おずおずとながら姜維がそう尋ねる。
この問いには、今度こそ周瑜が答えた。
「それは、月蓮様のお力故、と言ったところだな。
お前たちもここ暫く、我等と共に鍛錬することで孫家のお方たちについていくらか分かってきたのでは無いか?
まず雪蓮だが、あいつはやたら勘が鋭い。それは時に未知の攻撃すら避けてしまうほどに、だ。
そして蓮華様は、非常に論理立てた思考をなされる。将来的には施政の面で大きくご活躍されることだろう。
そんな二人の親たる月蓮様は、それぞれの長所を持ち合わせていらっしゃる。
普段は論理に基づいて行動され、時に働く勘に従って突然の不運などにすら対処されてこられたのだ。
長年の治世でその能力には十分すぎるほどに磨きが掛かっている。
そんな月蓮様が今回、策は為せると言い切られた。
それはつまり、そういうことなのだ。我々呉の民にとっては、な」
「なるほどぉ……私たちは孫堅さんをまだよく知らないために、ちょっと付いて行けていなかった、ということなんですね」
周瑜の説明で姜維は納得を示した。
ただ、心から納得したわけでは無いだろう。
だが、蜀の面々にもある種同様の事柄があったために、ある程度の納得は出来たのであった。
「さて。ではそろそろ、明日の陣容を決めていきたいと思う。まずは――」
「ちょっと待って、冥琳」
不意に、ここまでずっと不気味なほどに静かであった太史慈が声を出した。
その、色々な物を無理矢理抑え込んだが故に平坦になった声は聞く者を震えさせるほどの凄みに満ちていた。
「どうした、木春?」
「一つだけお願い、ううん、決定事項があるわ」
周瑜が視線で先を促す。
そして、太史慈はきっぱりと告げた。
「明日、私は先鋒よ。北郷だろうが、例え呂布だろうが、雪蓮を斬った奴は私が仕留めてやるわ」
「ふむ」
多大に私情を挟んだその台詞。
それは緻密な策を立てたい戦場においてはあまり好ましく無いものだった。
故に、すぐに答えない周瑜に代わって諸葛亮がこう答える。
「太史慈さん、申し訳ありませんが私怨によって陣形を乱されては困りますので――――」
「いや、木春は先鋒に据えよう。
何より、私もそうしようと考えていたことなのでな」
諸葛亮の言葉を周瑜が遮った。
その内容に諸葛亮は目を丸くしてしまう。
「しゅ、周瑜さん?それは……」
「安心してくれ、孔明。何も私怨による吶喊などを認めると言っているわけでは無い。
木春は強い。そして、与えられた策を毎度細かいところまで理解してもいる。だからこそ、先鋒に置くことで勝率が高まるのだ。
ただ、木春、一つだけはっきりと言っておく。
命があるまでは決して勝手な真似はするな。必ず、敵軍に斬り込む役目を任せるので、それまでは我慢しろ」
「それはもちろんよ。ただ、あんまり待たせないでよね?
もう既に、我慢しすぎていっぱいいっぱいなくらいなんだから……」
「ああ。任せておけ」
周瑜がそう請け負うと太史慈はようやく笑みを浮かべた。
その笑みもまた、凄みに溢れていて太史慈の抱える怒りの深さと大きさを物語っていた。
周瑜は口にしなかったが、多少は私怨も混ざった配置のように諸葛亮には思えた。
孫策、周瑜、太史慈は長年連れ添っていて深い絆で結ばれた三人であることは蜀の者たちもよく分かっていたのだから。
これ以上の口出しは無用か、と考え、諸葛亮は心中でこっそりと太史慈が暴走した場合の対処も考えておくことにしたのだった。
「呉からは木春意外にも思春にも先鋒として出てもらう。
それと、本来なら雪蓮にも先鋒を任せるつもりだったのだが……粋怜殿、お願い出来ますか?」
「ええ、構わないわよ。うふふ、久方ぶりに私の鉄脊蛇矛が活躍するかも知れないわね」
呉の将の中で特に気負った様子も見せていないのは極僅かだが、その内の一人がこの程普だった。
やはり踏んだ場数が多いためだろう。至極自然体のままで、一刀からすればこういう相手の方が怖いと評するような人物である。
一方で、蜀の方で気負った様子を見せていないのはただ一人。
同じく数多の場数を踏んで来た英傑と呼ばれる一人、馬騰である。
周瑜から呉の先鋒が告げられた後、諸葛亮はその馬騰の方を向いてこう告げた。
「蜀からの先鋒ですが、碧さん、お願い出来ますでしょうか?」
「ほう?私を出す、と。どうやら本気で明日、取りに行くみたいだね。
分かった、受けようじゃないか。
それで?こちらからの先鋒は私一人かい?ま、それでも問題ないんだがねぇ」
「いえ、先ほども申しました通り、明日は前線に戦力を集中させます。
ですので……鈴々ちゃん、それと連日になりますが紫苑さん。お二人には明日の先鋒をお任せしたいと思います。
愛紗さんは明日は下がって、焔耶さんと桔梗さんの部隊と共に桃香様の本陣に詰めて頂きます」
「分かったのだ!」 「承知したわ。任せてちょうだい」 「うむ、承知した」
張飛、黄忠、関羽がそれぞれ諾の返答。
それで決まりかと思いきや、姜維が手を挙げた。
「あ、あの!紫苑さんの部隊ですが、今日の戦で兵士の方がいくらか負傷しています。
ですので、そのまま明日も、というのは少々無謀なのでは無いかと」
「確かに、杏の言う通りですね。それは敵の夏侯淵にも言えることだけれど、向こうがそのまま出て来るとは限らない以上、何等かの手は打って置くべきでしょう。
それで、杏?貴女に何か案は無いのですか?」
すかさず徐庶は姜維に提案の有無を問う。
軍師として策に発言する際は、常に代替案を持っていること。それが徐庶の教えでもあるからであった。
「やっぱりそうなるんですね……えぇっと、私としては、関羽さんのところから一部隊、それと桔梗さんのところからも一部隊を付けてはどうかと考えます。
遠距離部隊員を補充しつつ、近接部隊も付けることでより安定した戦が出来るのではないかと。
本陣付きの部隊から兵を出すのは危険ではありますが、明日で決めるつもりなのであれば多少の危険は押して進めるべきでは無いでしょうか」
「そうですね。朱里、どうでしょう?私は杏の策は良いのでは無いかと思います」
「分かりました。それでは杏ちゃんの策を採用します。
桔梗さんの部隊からの兵の選別は、紫苑さん、お願い出来ますか?」
「ええ、承知したわ。桔梗の兵は私もよく知っているものだから」
「それと愛紗さんの部隊からの兵は――――」
「それなら俺が行くぜ」
諸葛亮の声に被せるようにそう言ったのは周倉だった。
その自薦について諸葛亮は暫し考える。
「……そうですね。今日の戦を見ていても周倉さんなら問題は無いと思います。
愛紗さんの方はそれで大丈夫ですか?」
「ああ、問題無い。焔耶の部隊も本陣に詰めるのだから、まだ出しても良いくらいだ」
「いえ、これ以上は止めておきましょう。桃香様の安全も十二分に確保して置かなければいけませんので。
それでは周倉さん。明日の先鋒に加わってください」
「おう!任されたぜ!」
これで蜀からの先鋒も出揃った。
最前線組は錚々たる面々となっている。が、それだけで終わりでは無い。
更にその一列後ろにもまだ部隊を配置するというのだ。
呉から呂蒙に陸遜、そして――――
「七乃。お前もここに加わってもらおう」
「あらあら、私もですか?
ですが、私は皆さんほど強くはありませんよ?」
張勲は少し驚いたように目を大きくしてそう答えた。
その様子を見て焦ったように声を上げたのは孫堅の隣で大人しくしていた袁術であった。
「な、七乃っ!妾からも――――」
「ああ、お嬢様、落ち着いてください。別に断る気はありませんので。
ただ、冥琳さん、本当によろしいのですか?
場合によっては、私のところから崩されるかも知れませんよ?」
「ふっ、お前も大概狸だな、七乃。
私は雪蓮の言葉を信じることにするよ」
「はて?雪蓮さんの?」
張勲は心底不思議そうに首を傾げる。
周瑜は苦笑を浮かべてその内容を告げた。
「以前に木春と三人で話したことがあるのだよ。
何でも、七乃は隠してはいるが、本気の本気で戦えば雪蓮にも匹敵する武を持っている気がする、とな。
あいつはただの勘だと言っていたが……」
「雪蓮さんの”勘”ですか。なるほど、分かりました。
それではこの七乃、皆さんのご期待に添えられるよう全力を尽くしましょう」
呉に長くいれば、それは証拠をほぼ掴んだも同然の言い分であると理解出来て来る。
張勲もまたそれで引き下がったのであった。
こうして呉側の配置が決まる。
本陣に詰めるのは周瑜だけという少なさであるが、そもそもその護衛対象が孫堅である時点で心配事項は少ないというものだった。
続いて蜀側の最前線一列後ろの配置については、華雄と馬超が務める。そして、そこに徐庶と姜維も加わる。諸葛亮は本陣組だ。
馬鉄と公孫瓚は近場の沿岸部にて待機していた。この辺りは魏の霞、鶸、蒲公英に対する考えと同じである。
そして、南蛮王たる孟獲もまた、沿岸部待機組であった。
こちらは少し事情が異なり、蜀の持つ”秘密兵器”が船に乗せられないからである。
少々後列が少ないものの、主力となる最前線は申し分無く充実させている。それが蜀の策であった。
「配置に関しては以上だ。策の内容についても、大筋は先ほど話した通りだな。
策の細かい指示については明日の戦況を見て適宜伝えていくことになる。
軍師の皆はこの後残ってくれ。大まかになるが、明日の万が一の場合の連携と合図について決めておきたい。
他に何か意見や疑問のある者はいるか?」
周瑜が改めて見回して問う。
しかし、そこから手が挙がることは無かった。
これで明日、赤壁での戦いを決するための布陣は最終決定となる。
「それでは……皆、明日が正念場だ。今日はもう休み、明日に備えよ」
『はっ!』
周瑜の宣言を以て軍議は終了となった。
連合は万全の態勢を整え、魏を罠に絡め取ろうとしている。
明日が決着の時。
それは最早、変更の効かない決定事項となってしまった。
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第百四十七話の投稿です。
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