クールが自分の過去を語ってから数日後、ルークは久々に貧民街の最下層にやってきていた。
薄暗い最下層から頭上を振り仰ぐ。すぐ頭上には煤けた赤い光が漏れる街、その上には人工的な光が溢れる繁華街、そして点在する上流街。あまり居場所や立場に頓着はしないと自負しているルークだったが、こうして上を見上げることしか出来ない貧民街の暮らしは、意外と心地よかったように思う。
「爺さん、ゲレアト爺さん! 居るかい?」
「ここにおるわ! ……おおルーク、久しいのう。何用じゃ?」
声を張り上げると、爬虫類の面を持つ腰の曲がった老人が窟の一つからひょっこり顔を出した。
「爺さんの知恵を拝借したくてさ。ちょいと変わったトラップを探しているんだが――」
「罠とな? 何に使うのかは知らんが、話が長くなるのなら中で聞くぞ」
「ん、分かった。じゃあ、中で話す」
もう一度空を振り仰ぎ軽く頭を振ると、ルークはゲレアト老人の背中を追って窟の中へと消えた。
シュランゲの後釜に座ったクールは、相変わらず主体性もあまりなく、魔術のバリエーションも増えたり減ったりしながらも、上手いこと統治を続けている。ほとんどはルークの補佐のおかげなのだが、彼らの統治下では特に問題が発生することもなく今に至っている。
クールは暇を見つけては書物庫に通うようになった。
彼らは差配にのし上がった今も、ズィルバーが居た趣味の悪い館に居を構えている。クールが館にあった書物庫をいたく気に入ったのが一因だった。元々あった書物をあらかた読み終わった今では、何処から取り寄せているのかルークも把握しないうちに、新たな古文書を手に入れては書物庫のコレクションの一部に加えている始末だ。
今日もクールは書物庫から古書を引っ張り出してきていた。
「……!?」
自室に戻る途中、クールの足裏が踏みつけた床板が燐光を放った。飛び退ろうとした少年の右足を、燐光にかたどられた虎鋏ががっちりとくわえ込んだ。そこから血が溢れることはなかったが、虎鋏に固定された足は床板を蹴ることが出来ず、そのまま彼は尻餅を突く。
腕に抱えられていた書物が床の上に落ち、埃を舞い上げた。
「まさかな、こうして相方にトラップを仕掛ける日が来るとは思わなかったが、ようやく捕まえたぜ」
「ルーク……さん」
柱の影からルークがするりと姿を現した。
「そんな取って付けたような『さん』はいらない。お前に『ルークさん』などと呼ばれる謂われもないしな」
尻餅を突いたまま、ルークを見上げている少年の元に歩み寄る。燐光を放つ虎鋏はそのままに、クールの真向かいに屈み、膝を突いた。
中身は、ルークの知る相方ではない。わざとらしく尻餅をついたり、敬称をつけて相手の名を呼んだりするところを見ると、ルークが目の前に居る者がクールではないことを悟っていることには気がついていないようだ。
ルークを見上げる琥珀色の双眸を、真正面から捕らえる。
「このぐらいのことはしないと、貴様とは会話が出来なさそうだったからな。ゼーレライセンか? 貴様、この身体に残って何がしたい」
クールの瞳がすっと細まり、剣呑な光を帯びる。
「意味が分からない」
薄い唇から漏れる声音が凍り付いていく。普段のクールと同じ声なのに、圧迫感が全く異なる。ズィルバーとシュランゲを殺めたクールであることは間違いない。
ルークが仕掛けたトラップは、一定以上の力を持つものに対してのみ反応するものだ。そして、そのトラップは精神体を捕縛し逃げられなくする。
大概の生命は精神と肉体が一致しているため、肉体をトラップすれば済む。しかしルークが捕らえようとしているのは、主たる精神体を持つ肉体に入り込んだ、他者の精神残滓だ。精神をトラップするためには、物理的な手段は通用しない。
そこで、ゲレアト老人の窟に眠る書物から探し出してきた、遺失寸前のトラップを用いた結果が現状、というわけだった。
「分からないわけないだろう。お前はヴァルムという人間に入り込んだ残……」
ふと、足元に散乱した古文書が目に止まるのと同時にある考えに思い至った。
ルークがニアミスしてきたもう一人のクールは、やたらと古の知識に固執していた。ズィルバーの館でも真っ先に書庫に入っていったし、今も時間を見つけては貪るように古文書の類を読んでいる。
よく考えれば、ゼーレライセン程の存在であれば、寸陰を惜しんでまで書物を読み漁ることはしないだろう。あらゆる魔術に精通し、闇の歴史を目撃してきているのだからそんな必要もない。
ヴァルムという人間は知識を欲していた、とクールは言った。そしてそれがすべての行動原理であるのなら、闇に入った今も尚、知識を貪欲に求めていてもおかしくはない。
――そうだ、そう考えても矛盾はほとんどなくなるではないか。
ルークは相変わらず尻を突いたままのクールの肩を掴んだ。
「お前、名は?」
「……クールだ」
「違う、偽りの名じゃない。お前自身が何者かと俺は聞いているんだ。お前がラーべ・グレイシャーではないことは判っている。――ヴァルム、か?」
ルークを見つめる琥珀の双眸は、相変わらず砂を食んだような色を湛えている。こちらからの鎌掛けには全く動じていない。だが、
「そうだ。ヒトで在った頃にはヴァルム・ロストックと呼ばれていた」
あっさりと事実を認めた。
「……これはあんたの体か」
ルークが指先でクールの胸部を二、三回軽く叩く。
「私が事実誤認をしていなければ、これは私の肉体だ」
……なるほど、俺は完全に勘違いをしていたというわけか。
ルークは内心舌打ちをした。
ヴァルムというヒトの体に、ラーベ・グレイシャーとゼーレライセンという、源を異にする二つの精神体がもぐりこんでいるのかと思っていたが、違っていた。この体には器の持ち主であるヴァルムが既に存在していて、そこにラーベ・グレイシャーが潜り込んでいる、というのが事実だった。
となれば、当然器も精神もイニシアチブはヴァルム・ロストックという人格にある。
……何故、このタイミングになるまでルークが捕らえられなかった? いや、ルークと接触しなかったと言うべきか。
「質問がある。あんた自身はこの状況を何処まで把握している」
「凡そすべて把握している、と考えている」
「あんたの中にラーベ・グレイシャーが居ることも、か?」
そうだな、と薄い唇が肯定の言葉を吐いた。
「何故そんな状況を容認している? 自意識とは関係ないところで体が動き回ったり、他人が心の中に入り込んできていることに何も思わないのか?」
「どういう意味だ」
「あんたの中にラーベが居る」
「それは承知している」
「ラーベがあんたの体を勝手に使っている。ヒトがそんな状況を許容できるのか? 感覚的に」
一つの器には一つの精神が在る、これがヒトの世界では常識だ。そして例外はない。そんな常識外れな環境をヒトが永い期間許容出来るとは、ルークには思えないのだが。
「気に病むほどの存在でもない。それに彼は、私が得た知識を消化するまで、この体を上手く操ってくれたようだ」
「……要は、あんたの気まぐれでラーベは存在できている、ということか」
相手の襟首を思わず掴みあげた。ルークの瞳に剣呑な光が湧き上がってくる。
「この体は私のものだ。その中に存在を許してやっているのだ、感謝こそされても罵倒される謂れはない」
「……ラーベの器はどうした」
「契約の対価にはなった」
襟首を掴みあげた拳に思わず力が入る。クールの華奢な体が僅かに床から離れる。
これまで散在していた事実のピースが一つずつ、組み合わさっていく。ラーベがどういう環境に置かれていたのか、眼前のヒトが何をしたのかが解るのと同時に、言葉には出来ない苛立ちが募ってきた。
「対価にはなった? ラーベは言った、あんたがラーベに求めたのはたった一つ、儀式の手伝いをすること。つまり、ゼーレライセンを降ろすための対価になれってことだった。あんたとラーベかどういう関係なのかは知らないけどな、あんたはラーベが居候としてあんたのところに転がり込んできたときには既に、ラーベを贄にしようと考えていた。あんたはにとってのラーベは、自分の欲望を満たすための道具だったんだ、最初から」
「それがどうした。貴様にとっての私とて、大差はないだろう」
「……違う。少なくとも俺はお前を道具だと思ったことはない」
ギリギリと襟首が絞めあがっていく中でクール……いや、ヴァルムが笑った。薄く開いた唇の両端を吊り上げ、双眸がすっと細まった。だが目は笑っていない、残忍で酷薄な笑みだ。
この笑みは見たことがある。
ルークの嘗ての相棒もこういう笑い方をすることがあった。目の前の生物を同等のものとは見ていない、路傍でもがく瀕死の獣に送る嘲笑と同質の笑いだ。相棒がルークを等価値の存在に見ていなかったように、こいつはラーベを同じ価値のある生命として見ていない。
だが……経緯はどうあれ、この器はヴァルム・ロストックのものであり、ラーベ・グレイシャーが勝手に入り込んでいる事実に変わりはない。それに、否定はしたが、ルークにとってのラーベ・グレイシャーは暇つぶしの道具でなかったかと問い詰められれば、一点の曇りもなく否定できるわけでもなかった。
「……あんた、これからどうするんだ」
「この体はそろそろ返してもらおうと考えている」
「ラーベはどうなる」
「放っておけば消える。器なき精神の残り香だ、私がどうこうできる代物ではない」
「違うな。あんたが殺すんだ、二回も」
「どう捕らえてもらっても構わん」
ルークは強く唇をかみ締め、締め上げていた襟首を離した。
クールを捕縛したトラップを解除した記憶はないが、彼は床の上に零れ落ちた古文書を拾い集めている。ルークの力量では、本来のクールには及ばないのだろう。ゼーレライセンの力を手にした眷族が相手では、ルーク一人が策謀を練ったところでどうしようもない。
ラーベに事実を伝えるべきか……
古文書を拾い上げたクールは、項垂れたルークを見遣ることなく踵を返した。
吹き放しに面した階段の手擦りに、ルークがもたれ掛っている。壁に据え付けられた燭台が、僅かに揺れながらも辺りに光をもたらしている。ルークにしてみれば不要な明かりなのだが、未だに暗視がろくに出来ないクールの為に、陽が遮られる頃合になるとルークは明かりを灯して回っている。
なんて甲斐甲斐しいんだろうな、俺は。
そんなことを思いながら階下をぼんやりと眺めていると、とことこと階段を登ってくる黒髪が見えた。
あの無防備な歩き方は、最初に会ったクールだな。
ルークは片手を小さく挙げて、挨拶をした。
「よう」
「どうしたんですか? 浮かない顔をして」
きょとんとした瞳で、クールは首を傾げてみせた。無邪気な性格をしたクールは、意外と他人の機微を悟る能力に長けている。
心の奥を見透かされたような気がして、ルークは「この間の抗争の件をどうしたものかと思ってな」と適当な答えを返す。
実際には、ルークは彼の知った事実を相方に伝えるべきかで悩んでいた。何も知らないその顔を見て、その悩みが余計に深くなる――
「ちょっと待て」
書物を抱えて立ち去ろうとする背中に、頭を垂れたままルークは声を掛けた。怪訝そうな顔でクールが振り返る。
「このことはラーベは把握しているのか?」
「……していない、と私は考えている」
「俺もそう思う。じゃあこのことをラーベに報せたらどうなる?」
「このこと、とは?」
「要するに、ラーベの器は当に消失していて、ラーベ自身が単なる残滓に過ぎないという事実を伝えたらどうなる、と俺は聞いている」
「伝えてみればわかる」
情も何もない言い方に、ルークは顔を上げる。ぎっと肩越しに視線を投げている相手を睨め付け、大げさに腕を振り上げ床を叩いた。
「だぁー! そんなことは言われんでも解っとるわ!」
それまでぴたり、と動きを止めていた足がゆっくりと踵を返す。腕の中に抱えていた書物を脇に持ち直し、クールがルークに向き直った。
琥珀色の瞳が冷えた視線を投げてくる。ルークが負けじとその双眸を凝視していると、徐に唇が動いた。
「……飽くまで私の想像だが、ラーベに強烈な生きる意志がなければ消滅するまでの時間が短くなるだろう」
「短く……」
そうだ、とクールが頷いた。
「永遠の刻、とまでいかなくとも、ある程度の生きる時間が保証されなければ、存在意義を見失うのがヒトという物だ。そして存在意義を見失えば、生きる意欲も薄くなる。器という依代があれば、生きる意欲がなくともヒトは存在できるがな」
そこまで喋るとクールは言葉を切り、ルークを一瞥した。
「お前は何時消えてもおかしくない、などという現実は、ヒトから生きる意欲を取り上げるだろう」
「……もし、あんたがそんな状況に置かれたら、あんたもそう思うのか?」
ルークの問いかけに、クールはふいと横を向く。
ルークがその横顔をじとと見つめていると、唇が微かに動いた。思わない、と。
――ほんの半日前、クールの本来の人格と初めてまともな会話を交わした時の話だ。
やはり本当のことを自分の口から告げることは出来ない、とルークは思う。最期の刻が何時来るのか教えた方が、それまでの時を有意義に使えると考えることも出来るが…… あのふにゃふにゃな相方が、自分が消えるという事実に耐えられるとはルークには思えなかった。
「ああ、そうだ。お前の探していたヴァルム先生だっけ? 足取りが掴めたぞ」
「ホントですか!?」
ぱっとクールの表情が明るくなる。両手を握り締め、ルークの胸元に顔を寄せた。それでそれで? と次の言葉を促してくる。
「う、そんなに喜ばれても困るんだが……足取りが掴めただけで、当人に会えたわけじゃないからさ」
咄嗟に嘘を吐いた。なんだぁ、とあからさまにがっかりする相方の表情に、胸の奥がじくじくと痛む。
何だ、この感覚……
小さな違和感を振り払うかの如く、ルークは頭を振った。
「つーかさ、何でそんなに先生に会いたいわけ? まぁ、先生に会えば自分の体が戻ってくる可能性はあるわけだが」
「先生は、僕の命の恩人なんです」
クールは俯きがちに、ぽつりと言った。
「前に、僕は先生のところの居候だって話しましたよね。僕は両親を早くに亡くしまして、しばらくは村の人のお世話になっていたんですが、酷い干ばつの年にもう面倒見切れないと、放り出されたんです」
放り出された? とルークが首を傾げる。
「別に一人で生きてきゃいいじゃねぇか。ちっとぐらい食わなくたって死なんだろ」
「ルークさん視点で物を言わないでくださいよ! ヒトは……一人で生きていけるほど強くないんです。――あの時、目の前でのたれ死なれるのも困るからって、毒草を煎じた茶を渡されたんです。その時は意味がわからなかったけど、お前は邪魔だから死ねって言われてたんですね、僕。村にやってきて間もなかったヴァルム先生が、『引き取る』って名乗り出てくれたから、今、僕はこうしてここに居られるってわけです」
何もない中空を見つめながら、クールがぽつぽつと思い出を語る。蝋燭の明かりに照らし出される僅かに笑みを浮かべた少年の横顔を、ルークは複雑な面持ちで見遣った。
その、お前の慕うヴァルム先生とやらが、お前の人生にとどめを刺したんだぞ……
「ヴァルム先生は村の医者だったので、発言力もありましたしね。そうそう! 先生は元々、首都のクロノーツにある大学で薬学の研究をしていたそうです。若いのに優秀な学者だったって聞いたことがあります」
「へぇ……優秀な学者ねぇ。それが何故あんな偏狭の村に? しかも集落から離れた小屋で寝泊りしていたなんて、尋常じゃないぞ」
う……とクールが僅かに口元を引き攣らせた。喋っちゃっていいのかな……ともにょもにょぼやきつつも、言葉を続ける。
「事実かどうかは知りませんが、ヒトで実験してたのがバレて、大学を追放になったらしいんです。そんなヒトが地方の村社会に馴染めるわけもなくて、村の外れの小屋で暮らすことになったみたいです」
「はぁ……要するに、村人には御し難い偏屈だったってことか」
「そ、そうですね……平たく言えば」
成程、ヒトだった頃からヴァルムはおかしかったのか。それならば、ルークの価値基準からしても冷淡すぎるあの態度も、少しは理解できるってものだ。
自分の思考に入っていたルークの胸元に、クールがずいと歩み寄った。
「それはそうと! ルークさんはヴァルム先生の足取りが掴めたんですよね」
「お、おう……その線をもう少し当たってみる。が、あまり期待はするなよ。期待すればする程、裏切られた時に落胆する」
はい! とクールが大きく頷いた。無邪気に破顔するその顔が、ルークには何となく造り物のように見えた。
数日後。
クールとルークの眼前で、彼らよりも二回りは大きい体躯の者達が喧々囂々と言い争いを繰り広げている。
片方は頭部に一対の角を持つミノタウロス、片方は非常に大柄なオークリーダー。彼らはレーシェの街に暮らす其々のコミュニティの長だ。縄張りが重なっているため、トラブルが起こるのは日常茶飯事なのだそうだが、今回は双方の眷属に死者が出ているため、大事になっていた。
「双方の言い分はわかった。先に手を出したのがオークなのだな」
と、クールは二匹の言い争いに割って入った。。
「そうだぜ、旦那。アイツらが俺達のシマに入り込んで騒いだのがそもそもの発端だ」
「ふむ。だが、追い払うだけで済んだ相手を殺してしまったのは、お前達ミノタウロスなのだろう」
「そ、そりゃあ……オークが脆弱な体を持っていやがるのが悪いんだ」
「何だと!?」
クールがわざとらしく咳払いをした。声を上げた双方の陣営は慌てて口を閉ざす。
「これまでも小競り合いはあった、だが死者を出すには至っていない。そうだな?」
オークリーダーが大げさに頷く。ミノタウロスもしぶしぶ頷いた。
「今回の件は両成敗とする。縄張りが重なっている領域の支配は私が預かる。その間に、双方が納得できるだけの振る舞いに関するルールを作れ。
それまでは原則、その領域への立ち入りも商いも禁止とする。レーシェには監視用のギミックがある、それは忘れぬように。それでよいか」
ほう、とルークは感嘆の吐息を洩らしそうになり、飲み込んだ。
クールはこの街の眷属の行動は逐一監視しているぞ、と釘を指した。そんなギミックは当然仕込んでいないのだが。とはいえ、事が起これば自然と事件は耳に入るから辻褄は合う。
オークリーダーは納得した、と頷いた。元々、オーク側の方が力が弱いのだろう。
「異論はない」
「ま、まぁ、差配様が預かるっつーんなら、オレらも異論はねぇよ」
「ルールの策定期限は、次の満月までとする。策定したら私に提出すること」
承知した、とミノタウロスとオークリーダーは頷いた。
「何だ、思ったより先生の方は統制力あるじゃんか。今日の一件も全部俺が片を付けないといけないのかと思った」
レーシェからの帰路、ルークはそんなことを言った。クールが僅かに眉を潜める。
「つまり、ラーベは全然役に立っていないということか」
「い、いや……まぁ、役には立ってないな」
クールが小さく嘆息したのをルークは横目で眺めつつ、この男にも感情の起伏はあるんだな、と変なところで感心した。
それは、ルーク達がレーシェに向かう数刻前のことだった。
クールは予定の時刻を随分と遅れて、自室から現れた。
「おいクール! 遅刻だぞ。お前、何やって……」
「行こうか。今日はレーシェのトラブルを片付ける必要があるのだろう」
淡々とした口調のクールの顔を、ルークは思わずまじまじと見つめてしまった。
「お前……先生の方か」
「そうだ。ラーベが出てくるのを待ったのだが、一向に表に出てくる気配がないのだ。引きずり出してもよかったが、私からは彼に語り掛けることは極力避けろと頼んだのは貴様ではなかったか」
淡々と語る男の双眸を見遣る。表情を全く崩さず、感情の揺れが全く垣間見えない琥珀色の双眸は相変わらず。確かに以前のクールと同じ顔なのだが、ヴァルムが表に出ている時のクールは、何故か少年と形容するのは憚られる気がした。
「先生と一緒ねぇ……まぁいいか。とりあえず行くべ」
そんな事情で、ルークは普段と勝手の異なる相方を連れてレーシェの街に飛んだ。
ヴァルムがすべてをぶち壊しにするのではないかと、内心冷や冷やしていたルークの懸念は裏腹に、ヴァルムが表に出ている状態のクールはすべてを上手く、いとも容易く事を収めてしまったのだった。
ヒトの世界では大した変わり者だったらしいが……
直ぐ隣に見える横顔を窺う。青白い顔はいつもどおりの形だがやはり老成して見えるし、体躯も確かに華奢だが妙な威圧感を纏っている。
これはダメだ、ラーベに勝ち目はない。
元々、ラーベの方が寄生体なのだからアドバンテージをヴァルムが握っているのは当然なのだが、そういう有利不利を除いても、ラーべを敢えて生かす必然性が見つからない。いくらルークが個人的にラーベのことを気に入っていたとしても、今後も差配として生きていくのなら、やはりラーベではダメだ。
「なあ先生、ラーベはどんな具合だ」
琥珀色の瞳が、ちらとルークを見た。
「希薄になっているように見える」
「希薄……か。確固たる依代がないから仕方ないか」
「依代を作る方法ならある」
クールの言葉に瞠目した。
「私を殺して体を奪えばよい。一つの器に一つの人格ならば安定する」
クールの唇の端が釣りあがり、僅かに弧を描き出す。
「そりゃ無理だ、俺にはアンタは殺せねぇよ。ポテンシャルが違いすぎる、試すまでもない」
「それは残念だ」
「犯すぞ」
「ご自由に」
ルークは唇をへの字に曲げ、口を噤んだ。
その日の夜。
吹き抜けに置かれているソファに座り、ルークが古文書のページをめくっていると、クールが慌てて駆け込んできた。
「ルークさん、ごめんなさい! 何か僕、今まで寝てたみたいで……今日、レーシェに行くはずだったのに……」
勢いよく頭を下げ、クールはしゅんと落ち込んだ顔を向けてきた。がっくりと肩を落とした姿は、本当に寝過ごしたと思っているようだった。
「んー、あー……一応起こしたんだけどな。俺が一人で行って、いつもみたいに適当に片付けておいたぜ」
「そうですか……本当にごめんなさいでした」
「いや、いいさ。慣れない差配生活にお前も疲れてるってことだろ。それにお前が居ても居なくても、いつも俺が適当になんとかしてるじゃねぇか」
「ぎゃ! それを言われると、僕としては何も言い返せません」
「気にするな。元々、お前が出来ない分野は俺がカバーすることにしていただろ? 今日はもう休んでいいぜ」
わかりました、とクールはペコリと頭を下げ、踵を返す。
――が、クールは不意に足を止めると、再びルークの方に向き直った。
「……有難う、ルークさん。僕のことを気遣ってくれて」
「は? 何言ってんだお前」
「僕のことを思ってくれたんですよね。僕は嘘は嫌いだけど、そういう優しい嘘は許されるべきだと思っているんです」
「はぁ? 何が嘘だって」
「今日のこと。僕はルークさんと一緒にレーシェに行ってますよね」
ニコニコと笑顔のまま、クールが言葉を紡ぐ。
何となく嫌な予感がした。それ以上の言葉を、クールに吐かせてはならないと、頭の中で客観的に世界を見つめる理性が警告の声を上げている。
「何となく、わかってはいたんです。ルークさんが見つけたというヴァルム先生というのは、僕のことなんでしょう?」
「な、何を言って……」
「ルークさんは、きっとルークさんが思っている以上に、他人の想いを汲み取ることが出来ていると思います。鈍臭い僕がそう思うのだから、きっとそうなんです」
ページをめくる手はとっくに止まっていた。掛ける言葉が咄嗟に出て来ず、ルークはぽかんと口を開けたままクールを見上げている。
間抜けな顔をしているのだろうな、今の俺は。
クールが俯いた。表情が前髪の奥に隠れて見えなくなる。
「僕、ルークさんのことが好きです。色々とよくしてくれて有難うございました。僕に明日が来たら……また明日、色々話をしましょう」
ルークは思わず立ち上がる。膝の上にあった本が床に落ち、控えめに抗議の声を上げた。
「ま、待てよ! 何だその遺言みたいなの」
「今僕の気持ちを伝えておかないと、もう伝える機会がないと思ったんで。これで明日も顔を合わせたら、恥ずかしくて床の上を転がっちゃいそうですけど」
あはははは、とケラケラ馬鹿笑いをしながら顔を上げたクールの目から、ぽろぽろと涙が零れ落ちてきた。
う、とルークはたじろぐ。
こんなにもクールが感情を……表層を取り繕うその場限りの仮面ではなく、心の奥底から溢れ出てくる感情を見せたのは、初めてではないだろうか。どうすれば、どんな顔をすればいいのか、咄嗟にはわからない。
「今、意識を手放したら、僕はもう僕でなくなってしまう気がするんです。寝るのが怖い、もうずっと前から怖かったんです」
涙を拭いながら、クールが言葉を吐く。
「気がつくと、随分と時間が経っている。僕の意識がない時間がどんどん長くなっていくんです。何が起こっているのか、最初は解りませんでした。いえ、今も解りません。解るのは、僕が消えつつあるという事実だけです」
居心地が悪い。
恐怖を吐露する相棒を目の前に、そんなことしか感じない自分に気がついて戦慄した。利己的であるのは闇の眷属ならば当たり前だが、あまりに薄情な自身の考えが薄ら寒い。
「その状況を作ったのが誰かわかっているか?」
「ヴァルム先生……ですよね、先生しか思い当たりません」
ルークは溜息を吐き、ぼすんと音を立てながらソファに座った。
「俺も全部知っているわけじゃねえ。でもお前が知りたいんなら、俺の知っていることは話すぜ?」
いいえ、とクールは首を横に振った。
「いいのか?」
「はい、聞かないでおいておきます。先生が僕のことを同じ人間として見ていなかったことは薄々気がついていましたし、それでも先生が僕の孤独を埋めてくれたことには変わりありませんから」
「あー……そう。もし先生と話がしたいんなら、心の中で話しかけてみるといい。多分、今なら返事があるはずだ。それから……今晩はここで過ごすのもいい。俺はずっとここに居るし、少なくとも一人ではなくなるぜ。そこ、空いてるしな」
と、ソファの一角を指差した。
クールは鼻をすすると、ルークの直ぐ隣に腰を下ろす。そしてルークに体を預けて目を閉じた。
「ごめんなさい、ルークさん」
「謝るな、意味がわからん」
「そうですね、すみません」
先生……と小さく呟いた少年は、間も無く寝息を立て始めた。
凭れ掛かる少年を起こさないように、ルークはそろそろと古文書を拾い上げ、再びページを捲る。その内容は大して頭に入ってこなかったが、惰性でページを捲る。半分ほど読み進め、そろそろ窓の外が明るくなり始めた頃、むくりとクールが体を起こした。
膝の上にあった古文書をソファの上に置き、ルークは頬杖を付いた。そして視線だけをクールに投げる。
彼は、節目がちなまま中空の一点をまんじりと見つめ、瞬きだけを緩慢に繰り返している。その琥珀の双眸に温かみはない。
「先生の方か。ラーべと話はしたか? アイツはどうなった?」
「消えた」
「綺麗さっぱり?」
「……おそらく」
「何だ、煮え切らない返事だな」
「少なくとも、もう私には見えないが……正確には消えてなくなったのではなく、希薄になって私の中で自我が保てなくなったのだろう」
ということは、アイツはまだこの器の中にいる……のか。
淡々と言葉を紡ぐ男を、ルークは横目でチラリと窺いながらそんな事を思う。
ラーベがおそらく、もう二度と表に出てこないことは理解しているが、それでももしかしたら、またあの緩んだ空気を感じることが出来るかもしれない。
淡い期待を抱いている自分に気が付き、ルークは内心かぶりを振った。特定の個人に執着するなんて、らしくない。
「そう……先生はこれからどうするよ? つっても、もはや上を目指すレースから抜けることは出来ないけどな」
「分かっている」
クールはさらりと答えた。
「まあ、先生ならそれぐらいわかっているか。セナトゥスの一員になれば、元老院が抱える膨大なデータベースにもアクセスできるようになるらしいし、あながち先生の目的とは全く合致しないわけじゃない。……俺はリストラしてもらっても構わないけどさ」
冷たい光を湛えた琥珀色が、ルークを捕らえた。彼が何を考えているのか、双眸からは全く窺えない。
「でも出来る事なら、ここまで一緒にやってきたヤツの辿り着く先は、近い場所で見ていたいとは思うがね」
「ならば現状維持だな」
「そりゃどうも」
ほっとした、というのが正直なところだった。これでアイツがぽろりと顔を出した時に、不安がらせることもないだろう。
「封印されしリッチー、ケインの右腕だった眷属ならば、利用価値も高いだろう」
その言葉にルークは小さく肩を竦めると、「昔取った杵柄さ」とだけ答えた。
それから数度目の月が満ちる頃、クールの元に元老院からの召喚状が届いた。白く華奢な手の中にある、血の刻印がなされた仰々しい書状を、ルークはしかめっ面で睨め付けた。
「これで晴れて、先生もこの世界を支配する側に参画するってことか」
「その割に浮かない顔をしているな」
「まぁ……いい場所じゃないからな、アソコは」
権謀術数の蠢く世界だ、と昔の相棒は言っていたように思う。あの時は外部から乱入し、物理的に元老達を締め上げたものの、詰めきれずに撃退されてしまった。
百年……二百年、それぐらい前の話だ。
百年程度では頭が挿げ替わることもないだろう。あの狡猾な昔の相棒を容易くあしらった面子が残っている。今のクールなら流されることはないだろうが、食われてしまいそうだ。
うん? とクールが僅かに首を傾げた。
「何だよ、先生がそんな可愛らしい仕草を見せるなんて。こりゃ、トカゲが降ってくるな」
「いや、お前が神妙な顔をしていたからな。為政の場では権謀が渦巻いているということか? ならば、ヒトの世界と大して変わらないな。本質に大差はないということか」
クールが鼻で笑った。
「おお? ……先生はそういうの、嫌いなのか?」
「権力そのものに興味がない。あれば便利なものではあるがな」
「ま、先生には悪いが、その辺は上手くやってくれ。上手いことやって元老共を残らず叩き出しでもすりゃ、後は好きなように出来る。元老院システムも、そう歴史が古いわけじゃない。あんなのはなくても、俺たち眷属はちゃんと自治できるしな」
成程、と曖昧な返事が返ってきた。
召喚状が指定した日に、ルークはクールと共にこの世界の頂上にやってきた。
最高合議機関――通称『元老院』。目の前に聳える白磁の荘厳な城が、元老院の存在する場所である。
「こりゃすげぇな……」
高く聳えた塔は、眷属の住まう世界のすべてを睥睨しているかのようだ。
「さてと、俺が付き添えるのはここまでだ。ここから先は招かれた者しか入れない」
無言のまま、クールが頭上を仰いだ。蒼い空に白い建築物が伸びている。入り口は荘厳な門が守っているが、無人だった。
クールは躊躇うことなく足を踏み出すと、白磁の門の前に立った。音もなく、分厚い門が左右に開く。薄い背中はルークを振り返ることもなく、門の向こうに吸い込まれていった。
白磁の建物の前で、何をするでもなくぼんやりと待つこと数刻。誰も通りかからないし、物音もほとんどない。
空って蒼いんだなぁ等とどうでもいいことを考えていると、正門からこちらに向かって歩くクールの姿が見えた。正門をくぐった時と変わらない表情に、何故かほっとした。
「どうだった?」
「別に何も。今日は唯の面通しだったようだ、今後の定例議会を案内されたよ。住居は今のままでも構わないそうだ」
「ふーん」
「それから、次の目標は元老共をすべて追放することにした」
お? 驚いて視線をクールに向けると、唇の両端が酷薄に釣りあがった。
何かされた、のか? いや、でも。別に着衣も乱れていないし、これといった傷も見られないし――尋ねるのも、憚られた。
それっきり、らしい会話も交わさないまま、二人は館に戻った。クールはいつもどおり、吹き抜けのソファで古文書に目を通している。
二階から降りてきたルークは、階段の手擦りに凭れ掛かり、煤で汚れた壁面を見遣った。もう燭台に炎を灯して回ることはしていない。最近まで夜中には灯りが必要だったのに、そんな事をしていたのは遥か昔の出来事だったような気がする。
それだけ、色々なことが起こったということだ。
色々といえば……階下に目をやる。ソファにちんまりと腰を掛けているクールの姿に、なんだか笑みがこみ上げてきた。もっと横柄な態度を取ってくれれば、アイツと被ることもないのに。人間味は薄いが、生真面目な性格をしているのだろう。
「なあ、先生。そろそろ俺らの関係をちゃんとしよう」
ページを捲っていたクールの手が止まる。黒い頭がゆるゆると動き、こちらを振り仰いだ。
「私は現状維持でも構わないが」
階段を降りながら、はぁとルークは大げさに溜息を吐いて見せた。
「なあなあで行くのは、もはや色々と示しが付かないから良くない。アンタは元老院の一員、俺はその部下。傍目にはこう見えているはずだし、事実だろ。だったら俺は、先生に対して相応の礼儀を払わなきゃならねぇ」
「ふむ」
腰を掛けるクールの元まで歩み寄ると、ルークは相手を見下ろした。
「だから、今から俺は先生のことをキャプテンと呼ぶし、敬語で話す」
見下ろしている相手に、敬意を払うと告げる。狭量な者なら礼儀がなっていないと叱責する場面だが、
「好きにすればいい。言葉遣いが変わったところで、中身までは変わらないだろう?」
と、見上げてくる琥珀色の瞳は揺らぐことなく、唇は淡々と言葉を吐いた。
やっぱ先生は先生だ。先生の中で溶けてしまったアイツをサルベージすることもないし、探し回って滅殺することもない。
良くも悪くも不干渉なのだ。
だからこそ、元老を追放すると言いだしたのは不思議だったが、それならば付き合ってもいいと思った。
ルークは片膝を付き、右手を胸に当てて頭を垂れた。
「キャプテン、ご命令を」
【了】
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ヒトと闇の眷属が対立する異世界ファンタジー小説「クロノーツ」の外伝です。
本編に登場する、闇の眷属の束であるクールとその右腕であるルークが如何に出会ったかを、のんびりと綴っています。
特に本編をご存じなくても読める内容になっていますので、よろしければご覧下さい。