俺、加州清光、十七歳。高校二年生。
突然ですが、アイドルの妹ができました。
「何それ。マンガの話?」
読んでた文庫本からやっと顔を上げて、安定は首を傾げた。
安定、大和守安定。幼げなどんぐり眼の左目に泣きぼくろがある。侍よろしく、長く伸ばしたぼさぼさの髪を高く結い上げたポニーテールがトレードマーク。
同い年で家が隣同士。おまけにクラスも同じで席も前後なものだから、気が付いたら物心つく前から今この瞬間まで一緒にいる。いわゆる幼馴染って奴。一人っ子だった俺にとって、兄弟みたいなもんと言えなくもない。どっちが兄か弟かは謎だけど。
「違うよ。ちゃんと話聞けって」
俺は安定の頭を音がする様にはたいた。安定は「いたっ」と声をあげて頭を押さえる。ジト目で睨んでくるけど、他人の話を無視する方が酷いと思う。まぁ席が後ろだからって昼休みに本を読んでるこいつを捕まえて勝手に喋ってたのは俺なんだけどさ。
「ちゃんと聞いてたよ。清光のお父さん、再婚したんだろ? おめでとう」
本を閉じて、安定が仄かに笑う。
「あ、うん……。ありがと」
急に改まって言われたものだから反応が遅れる。本に視線を落としていたくせに、きちんと話は聞いていたらしい。俺の扱いは雑だけど、なんだかんだこういうところは律儀な奴なんだ。
「たしか清光って、小さい頃に親御さんが離婚して、お父さんに引き取られたんだっけ? 今まで再婚の話って全くなかったの?」
「まあね。俺はいつでもすればいいよって言ってたんだけどさ。やっと見つかったみたい」
安定の机に頬杖をつきながら、語る口元が自然に緩むのが自分でもわかった。
父さんから話を聞いたのは、二か月前。春休みに入ったばかりの頃だ。
部屋のベッドで漫画を読んでいるとノックの音が聞こえてきて、返事をすると入ってきた父さんに「話がある」と告げられた。
「突然だけど、父さん、結婚しようと思うんだ」
久しぶりに見た父さんの顔は、やや緊張で強張っていた。普段は仕事漬けで家にいないから、こうして面と向かって話をすること自体が少ない。きっと俺にきちんとこの話をするために、父はこれまで以上に頑張って働いて休みを勝ち取ったんだろう。
「そっか。わかったよ」
迷いはなかった。即答して、視線を父さんから手に持っていた漫画へと移す。
「え……いいのか?」
当然、父さんは当惑していた。さすがに俺がここまであっさりと再婚を受け入れるとは思っていなかったのだろう。
でも、別に俺は考えなしに即答した訳じゃない。
俺には母親がいない。たぶんどこかで生きてるんじゃないかと思うけど、物心つく前に母親が家を出て行って以来、一度も会ったことはないから、生きてても死んでても同じことだ。
ただ、写真は見たことがある。我が母ながら目の冴える様な美人で、びっくりするくらい俺によく似ていた。写真を見る限り、俺のつり目と口元のほくろは母親譲りなんだろう。
我が子が別れた女に年々似ていくのがどんな気分か、俺にはまだよくわからない。けど、父さんは母親似の俺のことを男手ひとつでここまで育ててくれた。今だって、仕事漬けの日々を送っているのも、全部俺のせいで、俺のため。
そんな父が選んだ人なら、きっと悪い人じゃないはずだ。再婚に不満も不安もある訳がなかった。
「もう決めてるんでしょ? いいよ、別に。今度こそアンタがしあわせになれるんならさ」
「清光……」
「で、どんな人なの? 美人? かわいい? 俺のことはちゃんと話してるんでしょ?」
「ああ。でも、それが……」
一時は晴れた父さんの顔が、やや曇った。
「父さんと同じバツイチの女性なんだが、中学生の女の子がいるらしい。おまえ、仲良くできそうか?」
「なんだ。そんなこと? へーきへーき。俺、女友達は多い方だし。一緒に買い物に行ける妹ができるなんて最高じゃん」
「そうか……なら良かった。お互い年頃だから、いろいろ難しいかもしれないが、よろしく頼むぞ」
「大丈夫だって。まかせてよ」
ピースサインを作ってニッコリ笑えば、父さんも安心した様子ではにかんだ。
その時は、まだ見ぬ妹に対して、不安よりも期待の方が勝っていた。一緒にショッピングしたり、カフェでお茶したり――そんな風に仲良くできたらいいな、なんてかわいい期待だ。
でも、俺の期待は大きく裏切られることになる。
「はじめまして。那珂っていいます。よろしくね、清光くん」
彼女は笑って小首を傾げた。その動きに合わせて、丸いふたつのお団子ヘアが小さく揺れる。
大きな瞳と、それを彩る長い睫毛。淡く色付いてツヤツヤに潤んだ小さな唇。陶器の様に滑らかな白い肌と、薔薇色に染まる頬。
目の前にいたのは、非の打ち所がない美少女だった。
それもそのはず。だって彼女は――――
「那珂ちゃんだよっ? あ・の! 那珂ちゃんだよ!?」
だん! と前のめりになって机を叩く。反対に安定はのけ反って「どの那珂ちゃんだよ」とぼやいた。
「は? 知らないの!? 今人気急上昇中の新人アイドルだよ!」
「僕がニュースと朝ドラと時代劇しか見ないの、知ってるだろ」
「おまえはいい加減NHK以外も見ろ!」
あんまり開き直って言われたものだからつい大きな声が出てしまった。周囲の視線を一斉に浴びる羽目になり、ちょっとばつが悪い。
安定も両親がおらず、祖父母と三人暮らしだ。そのせいか、どーにも流行に疎くて古臭いところがある。
はぁ、とため息を吐いて、俺はスマホを取り出した。ブラウザを開くと、安定にも見えやすい様に机の上に置く。表示されているのは、アイドルの情報を取り扱うファンサイトだ。
「デビュー曲の動画再生回数は百万回超え。今までに出したCDは全部オリコントップテン入りしてる。アイドル戦国時代とまで言われてるこのご時世に、ソロで活動しててここまで人気が出てるなんてすっごいことなんだからね」
「詳しいな、おまえ」
「流行にはうるさいからね。おまえみたいな化石人間にはなりたくないし?」
「褒めても何も出ないぞ」
「ばか。貶してんだよ」
俺はスマホの画面に指をすべらせた。簡単な紹介記事の後に、画像がいくつも掲載してある。ライブ中の写真、今度出るシングルのジャケット衣装、普段の私服姿などなど……その表情も、満面の笑顔だったり、上目遣いだったり、どこか遠くを見つめたりと、様々で。当たり前だけど、どの写真もめちゃくちゃかわいい。
「ねぇ、どんな子なの? やっぱ、テレビとかで見る時と全然違う?」
「うーん……どうかなぁ」
「なんだよ。はっきりしないな。一緒に暮らしてるんだろ?」
「だってまともに話したのって最初の挨拶の時だけで。そもそも生活のリズムが違い過ぎるんだよ。那珂ちゃんもおかあさんも夜の十時にならないと帰ってこないけど、俺はそれまで起きてられないし」
法律的に、那珂ちゃんは夜十時までしか仕事ができない。義母も彼女に付き添うため現場へ行くので、二人が帰ってくるのはいつも早くて十時過ぎになる。でも、俺はお肌のために夜十時には眠る様にしているので、二人が帰ってくる頃にはもう寝てる。何度か二人が帰ってくるのを起きて待ってようとしたことがあったけど、結局途中で寝落ちちゃってそのまま朝を迎えた。
「父さんも、新婚だってのに仕事が忙しいみたいで、ほとんど家にいない日の方が多いし。……家族ってなんなんだろうなぁ」
息を吐いて、ぼんやりと呟く。
四人家族になったけれど、うちのリビングに家族全員が揃ったことは未だない。四月になっても夜はまだ冷える。ひとりきりじゃ、無駄に広い家も寒々しいだけだ。
「清光。放課後、うちに来なよ」
「いいけど。なに?」
「ここのところおまえが来ないものだから、うちのおばあちゃん、寂しがってるんだ。おまえも小さい頃から世話になってるんだから、たまにはちゃんと顔出せよな」
再び文庫本を広げて、安定が言う。あくまで上から目線でそっけない口ぶりだったけれど、その裏にある意図が読めない俺じゃない。
帰っても家に誰もいないのが常だった俺は、昔から安定のとこの家に世話になっていた。特におばあちゃんは俺をとっても可愛がってくれて、俺がしばらく顔を見せないと『清光くんは元気にしとるかね』と孫に何度も訊くらしい。
俺も安定のおばあちゃんたちのことは大好きで、高校生に上がってからもよく遊びに行っていた。だけど家がごたごたしてたせいで、ここ二か月はまったく顔を出せていなかった。
「安定」
「何?」
「……なんでもない」
言おうと思った「ありがとう」は、結局口に出せないまま腹の底に沈んでいった。
なのに、安定は一言、「そう」と微笑んで、ページに視線を落とす。
シャクだけど、こいつは本当に俺の扱いが上手いんだ。
「ほんと……ムカつくよ、おまえといると」
「そりゃどーも」
「だから褒めてないっての」
放課後、安定の家でおばあちゃんのおはぎをご馳走になった。夕飯も食べていけと言われたけど、さすがにそれは断った。帰りの遅い家族のために、一応夕飯の支度くらいはしておかなくちゃいけない。
再婚によって、俺には義母ができた訳だけれど、彼女は那珂ちゃんに付き添ってほとんど家にいないから、俺もなるべく家事をこなす様にしている。元々父さんが不在がちだったせいで今まで家事は一通り俺の役目だったから、別に苦じゃない。
合鍵を使って家のドアを開け、玄関に上がる。
「ただいまー」
って言っても、誰もいないから返事はないんだけど。
「おかえりなさーい!」
「……え?」
上から声がして、玄関近くにある階段を見上げる。どたどたと騒がしい足音がして、踊り場に現れたのは……
「那珂ちゃんっ?」
思わずびっくりして声が裏返った。
那珂ちゃんは「えへへ」と少し照れた様にはにかむ。
「なんで……今日も仕事のはずじゃ……」
「早めに切り上げさせてもらったの。学校のテストが近いから。今日はもうオフだよ」
言われてみれば、ラフな格好をしている。普段は二つのお団子にしている長い髪は襟足で緩く結ばれているだけだし、着ているのもパーカーにショートパンツという服装で、普通にルームウェアっぽい。
「えっと、おかーさんは……?」
「マネージャーさんと打ち合わせがあるらしくて。話が長引きそうだからって、那珂だけ先に帰らされたの」
「え」
引きつった声が出た。「どうしたの?」と不思議そうに首を傾げる那珂ちゃんはかわいい。かわいいけど、いいのか?
だってたぶん、父さんは今日も家に帰って来ない。おまけに義母もいつ帰るかわからないと来た。
つまり、今この家には俺と那珂ちゃんしかいない訳で。
「清光くん?」
「あ……いや、何でもないよ」
首を傾げる那珂ちゃんに、慌てて笑顔を返す。正直上手く笑えている自信はなかったけど、「そっか」と那珂ちゃんは納得してくれた。
義母は、那珂ちゃんと俺をふたりきりにしても、何も起こるとは考えなかった様だ。まだほとんどまともに話をしたことはないのに、俺はずいぶんと義母に信頼されているらしい。
那珂ちゃんも、一応ちゃんと玄関の鍵をかけていた辺り、防犯の意識はあるみたいだけど、俺に対する警戒心はゼロだし。
まぁあんまり警戒されてもやりづらいから、今はこれでいいのか。
とりあえず、スクールバッグを置いて着替えようと階段に足をかけた時。「あ、そうだ」と那珂ちゃんが手のひらを叩いた。
「清光くん、勉強って得意?」
「え? まぁ、まずまず……できないってほどじゃないけど」
「ほんと!? じゃあ教えてくれないかな? 那珂、あまり授業に出られてなくて、全然わかんないの」
「ああ……うん。俺にわかる範囲なら」
頷くと、那珂ちゃんは満面の笑顔を弾けさせた。「やったぁ! ありがとう、清光くん」と嬉しそうに礼を言う。大袈裟だなぁ、と思わなくもないけど、やっぱり悪い気はしない。
「じゃあ、那珂の部屋でいいかな? それとも、清光くんの部屋に行った方がいい?」
「え……」
何気なく提示された二択に、再び俺はフリーズする。
この家の二階にはそれぞれ、俺の部屋と那珂ちゃんの部屋がある。たぶん那珂ちゃんは自分の部屋で勉強していたはずだから、教えるなら俺が彼女の部屋に行った方がいい。
だけど、どうなんだ? 狭い密室で二人きりって。妹って言われても赤の他人だし、まだ暮らし始めて一週間も経ってない。何より彼女はそこらの女の子より断然かわいい。俺に言わせれば、意識するなっていう方が無理がある。
「……下に来てやらない? 自分の部屋でやるより、リビングとかの方が集中できるって聞いたことあるし」
結局出した結論は、我ながら実に紳士的な内容だったと思う。いや、フツーに、狭い密室で二人きりはちょっとまだ気まずいってのも理由なんだけど。
「あ、うん。わかった。ちょっと待ってて!」
どたばたと足音を立てて那珂ちゃんが自分の部屋に引き返す。
俺も当初の目的を果たそうと、自室に入った。スクバを机の上に置き、制服からルームウェアにしているカットソーとスウェットに着替える。
ペンケースだけを持って廊下で待っていると、那珂ちゃんは既に準備万端な様子で俺を待ってくれていた。
「じゃ、よろしくね。清光くん」
「……ねえ。大先輩の曲に『S・O・S』って歌があるけど、那珂ちゃん知ってる?」
「えっと……?」
ネタが古過ぎて知らなかったのか、それとも質問の意味がわからなかったのか。大きな丸い瞳がきょとんとこっちを見つめてくる。
その何とも無防備な様子に、俺は「ごめん、なんでもないよ」と曖昧な笑みを返した。
――ま、『あなたが狼なら怖くない』なんて正反対のことを歌った大胆な大先輩もいるんだけどさ。
俺たちはダイニングに移動すると、早速テーブルにふたつのノートを広げた。ひとつは那珂ちゃん本人のもので、もうひとつはクラスメイトに借りたものだという。両者を見比べると確かに那珂ちゃんのノートは空白が目立つ。
とりあえずは、借りたノートを元に、俺が説明しながら空白の部分を埋めていく、という方法で勉強することになった。
ぶっちゃけて言うと、ここまで、内心じゃ結構浮かれてた。だって、俺が教えながらの勉強会って、本当の兄妹っぽいじゃん。
でも、そんなふわふわした気持ちはすぐに吹き飛ばされる。
勉強中の那珂ちゃんは真剣そのものだった。さっきまであどけなく笑っていたのに、ペンを握る彼女は鋭く張り詰めた表情をしている。「ねぇ、清光くん」と投げかけてくる質問が、たとえ初歩的な内容であっても、居住まいを正してからでないと答えられない様な、そんな気迫さえ感じられた。
考えてみれば当然だ。アイドルとして多忙を極める那珂ちゃんにとって、時間は金よりも貴重なもの。一分、一秒も無駄にできるはずがない。
彼女にとってのこの時間を、少しでも濃密なものにするために――時間も忘れて、俺は全力で慣れない教師役に徹した。
どれくらい時間が経っただろう。ふいに、張り詰めていた空気が壁時計の音で破れた。時計の針は八時を指している。
「あ、やべっ……夕飯忘れてた」
はっと思い出す。家に帰ったらすぐ取り掛かるつもりだったのに、なんだかんだ那珂ちゃんのことですっかり頭から抜けていた。
「ごめん。悪いけどとりあえず一旦ここまでにしよう」
「あ、うん。ありがとう、付き合ってくれて。まずまずなんて大嘘だったね、清光くん。ちゃんと勉強できるじゃん」
「ああ。いや、マジでできなくもないって程度だよ、俺なんか」
謙遜でも卑下でもなく、事実だ。自分でも、大抵のことは要領よく器用にこなせるタイプだと自負している。でも身近に文武両道を地で行く優等生がいるものだから――安定とか安定とか安定とか――勉強が得意だと感じたことはない。別に俺の武器は他にあるからコンプレックスにはならないけど。
「それより那珂ちゃん、カレーは嫌い?」
「ううん。好きだよ」
「じゃあそれにするかー」
冷蔵庫から材料を取り出してテーブルに並べていく。義母の好みはわからないけど、たぶん大丈夫だろう、だってカレーだし。
その様子を見ていた那珂ちゃんが「えっ」と声をあげた。
「清光くんが作ってくれるの? っていうか、料理できるの?」
「まぁそれなりに」
「すごーい!」
きらきらと目を輝かせて見つめられる。なんか、こうもストレートに褒められるとちょっと照れくさい。
「できるってだけだからあんま期待しないでよ」
苦笑しながら流し台の前に立ち、作業を始める。
那珂ちゃんは「だって、だって」と子供みたいに弾む声で言う。
「那珂は包丁触ったこともないもん」
「そっちの方がいいんじゃない? 那珂ちゃんは爪の先まで商売道具なんだからさ」
「でも、すごいよ、ほんとに。何でもできるんだねぇ、清光くんって」
しみじみと言われる。何だか背中がむず痒くなってきたので、話題の方向を変えることにした。
「すごいのは那珂ちゃんの方でしょ。中学生でトップアイドルなんてさ」
「えー、そうかなぁ?」
えへへ、と照れた様に笑う。褒められて素直に喜べる性質は彼女の魅力のひとつだろう。
「忙しいのに、勉強も頑張ってるし。学校と仕事の両立って大変じゃない?」
「うん……でも那珂、アイドルのお仕事、好きだから」
那珂ちゃんは目を伏せてそう言った。好きだ、と話す割には表情が暗い。もしかしたら何かあるのか――
「ねえ、那珂にも何か手伝わせて!」
「座ってていーよ。怪我したら大変だし」
「大丈夫だよ、ちゃんと気を付けるから」
「でも……」
ううんと俺がためらっていると、那珂ちゃんは視線をさまよわせながらこう言った。
「えっと……あっ、ほら、これからお仕事で料理することもあるかもしれないし。少しくらいできる様になっておきたいの。だから、ね?」
首を傾げる彼女は、ちょっとぎこちない笑顔を浮かべていた。
そこでようやく俺は、彼女に余計な言葉を遣わせていることに気付いた。
述べた理由は、単なるこじつけ。プロ意識が高いからじゃなくて、たぶん、本当にやってみたいだけなんだ。やったことがないことだから、挑戦してみたい。ただ、それだけ。
――そんなの、当たり前のことじゃないか。
「……じゃあ、手伝ってもらっちゃおうかな」
笑ってそう言えば、大きな瞳が更に見開かれる。太陽の光に輝く水面の様に、それはもうきらきらと眩しいくらいに。
「任せて! 何すればいい?」
「とりあえず、手洗ってきて」
「はーい」
素直に洗面台に行く彼女の背を見送って、俺は自分自身に苦笑していた。
馬鹿だなぁ、俺。アイドルってだけで、那珂ちゃんのことを宝石か何かみたいに思ってた。そりゃあ家から一歩出たらそうかもしれないけど、ここにいる彼女はただの中学生の女の子なのに。
わかってしまえば当たり前のことなのに、わかっていなかった。けど、わかった今は、その当たり前を嬉しく思う。
「清光くーん! ハンドソープどこだっけー?」
廊下から聞こえてくる声に、目を丸くする。
――これはなかなか、かわいがり甲斐のありそうな妹だ。
それから、那珂ちゃんの仕事が早めに終わった日に限って、勉強会は行われた。もちろん勉強が終わったら、夕食も一緒に作って食べる。好奇心旺盛な彼女にせがまれるまま、家事のやり方まで俺が教える様になって、何だかマジで文字通りに家庭教師って感じ。
ただ、やっぱり両親はどちらも仕事が大変みたいで、帰宅が早い日はあまりなかった。特に義母は、帰ってきたかと思うと夕食も取らずに寝てしまう日も少なくない。いつ顔を合わせても疲れている様子で、俺も那珂ちゃんもちょっと声をかけづらい。
そんな訳で、自然、二人でいる時間が多くなってきた訳だけど。最初の頃に比べると、あんまりお互いに意識せず過ごせる様になってきたと思う。って言っても、やっぱり那珂ちゃんはめちゃくちゃかわいいので、ふとした瞬間にそれを思い出してどぎまぎしちゃうんだけど。
「なんか、最近おまえやけに機嫌いいよな」
「は?」
ある日の朝。席に座るなり、後ろの安定にそう言われて、俺は呆気に取られた。
「髪でも切ったのか? それとも爪? もしかして、ダイエットに成功したとか?」
「何なの? 急に」
意味がわからなさ過ぎて、顔をしかめる。普段俺がどんな格好をしてても興味を持たないくせに、いきなりなんだっていうんだ。
「だってこの頃のおまえ、いつ顔を合わせても機嫌よさそうなんだもの。見てて気持ち悪いくらいにさ」
「そこは『見てて気持ちがいい』って言えよバカ!」
ほんっとかわいくないよねおまえ! と顔を背け、乱暴に椅子を引いて座った。そのままスクバの中から教科書とかを引き出しにいれていく。
けど、そこでふと疑問が浮かぶ。
「あのさ。なんで俺が機嫌いいって思うの?」
「なんとなく。それくらい、見てればわかるよ。何年おまえと一緒にいると思ってるの?」
振り返って問えば、平然とそう言われた。とっさに「いたくて一緒にいた訳じゃないけどな」と言い返したものの、反撃の一言としては効果がないのは自分でもわかってる。
こういう時、幼馴染ってイヤんなる。別に俺は感情と表情が直結してるタイプじゃないのに、安定にかかれば全部お見通しだ。認めたくないけど、抗うよりも先に心の奥底で敵わないなって思っちゃう。
「なんか、新作のマニキュアだとか塗って来た時に似てるなって。うん、そんな顔してるよ」
腕を組みながら、勝手にうんうんと安定は頷く。
おい、ちょっと待て。
「顔見れば俺の機嫌がわかるくせに、なんで髪とかネイルがいつも通りって気付かない訳!?」
「あー、もう……うるさいなあ」
立ち上がって問い詰めると、安定はうっとうしそうにしかめた顔をよそへ向けた。
その態度が気に入らなくてますます頭に血が上りそうになる。
しかし。
「……いーよ。おまえの言う通り、今日も俺は機嫌いいからね。特別に許してあげる」
再び椅子に座って、頬杖をつきながら言った。
てっきり俺がうるさく喚き散らすと思っていたのか。安定は信じられないものを見たとばかりにきょとん顔をしている。ちょっとブサいけど、いい顔だ。ざまあみろ。
「……ほんと、つくづく気持ち悪いね。何かいいことでもあったのかい?」
「まーね」
否定はしないけれどわざわざ教えるつもりもなかった。そんな義理はないし、どうせ言わなくてもわかるだろう。
「もしかして、妹さんと何かあった?」
ほらね。エスパーかよ。
「何も? ただちょっと勉強教えてあげて、一緒に夕飯食べただけだし」
「充分いいことだろ。よかったじゃないか」
そう言う安定の笑顔は掛け値なしのものだった。ムカつく奴だし、時々イヤにもなるけど、こういう風に他人事でも一緒に喜んでくれるのは安定のいいとこだと思う。
絶対言ってやらないけどさ。
「アイドルには興味ないけど、妹さんにはちょっと会ってみたいな。今度紹介してよ」
「ああ、うん。今忙しいみたいだから、そのうちね」
初対面の時からの印象だけど、那珂ちゃんはあまり人見知りしなさそうだ。ほとんど喋ったことがなかった頃も、ぐいぐい向こうから話しかけてくれたし。安定も、なんだかんだ悪い奴ではないから、引き会わせても問題はないだろう。
「でもやっぱ、あんま知られない方がいいよな」
安定の机の上に頬杖をつく。安定はきょとんとして「何が?」と訊いてくるので、「那珂ちゃんのこととか全部」と答えた。
「公には、再婚のことは伏せてるらしんだよね。アイドルとしての那珂ちゃん自身とは直接関係ないからわざわざ発表することじゃないけど、もしヘンな形で外に漏れたらスキャンダルになりかねないでしょ」
アイドルはイメージが大事。どんなことが火種になるかわからない今の時代、慎重に慎重を重ねても度が過ぎるってことはない。
俺も特に口止めはされていないものの、安定以外の友達には再婚したとしか話していない。だから今のところは大丈夫のはずだ。
「ってか、バレたらあの子より俺が一番ヤバそう。赤の他人同士なのにひとつ屋根の下で暮らしてるって……過激派のファンに後ろから刺されちゃったりしてー」
「バカだな。その時は刺される前に刺せばいいじゃないか」
「……おまえって大人しそうな見た目して基本かなり物騒だよね」
真顔で言ってのけた幼馴染に、思わず顔が引きつる。
ぱっと見はかわいい草食系男子って感じなのに、中身がそれに釣り合ってないのが大和守安定という男だ。こいつにきゃあきゃあ言ってる女の子たちは多いけれど、果たしてあの子らはこんな物騒な奴だって知った後でもまだ黄色い声をあげられるものなのかね。
「容赦なく返り討ちにしてやれば、誰からも襲われなくなるよ。中学までとはいえ、剣道をやってたのは何のためだと思ってるの、おまえ?」
「少なくとも人を刺すためじゃないと思うけど……」
ぎらぎらと鋭い光を放ち始めた蒼い双眸から視線を逸らして、自分の手のひらを見つめる。ネイル映えする様に爪をやや長く伸ばした手は、もう何年も竹刀を握っていない。
小学生の頃に、安定に誘われて始めた剣道。俺もいいとこまで行ったものの、結局安定には負けることの方が多かった。そのうち俺はネイルとかファッションの方が楽しくなっちゃって、結局高校では剣道部には入らず、ずっと帰宅部でいる。
「大丈夫だよ」
声がして、顔を上げる。
目の前の安定はなぜだか笑っていた。
「心配しなくても、おまえや妹さんのことは、僕が守ってやるよ。幼馴染のよしみでね」
顎を上げて、余裕たっぷりに――でもどこか無邪気な感じの微笑。
とどめに、首を傾げて笑みを深めれば……
「それなら安心だろ? 子猫ちゃん」
……まるで、どっかの少女漫画から抜け出てきたかの様なイケメンの完成である。
あぁ、なんていうか、こいつがモテる理由、ちょっとわかった気がする。
「……ちょーしに乗んな」
「いたっ!」
なんとなくイラッとして、デコピンをお見舞いする。「何するんだよ」と噛み付いてくるから「安定のくせに生意気」と言い捨てて前を向いた。安定はまだちょっと不満気に何か言っているけれど、もう前を向いちゃったから俺の勝ち。席が前後になった時はちょっとうんざりしたものの、話したい時だけ振り返ればいいからこの席順は意外と便利だ。
机の上に両肘をついて、黒板を見ながら安定に話したことをぼんやりと考えてみる。
もし、アイドルの義妹がいる、なんて周囲にバレたら。刺されることはないとしても、サインをせがまれたり、橋渡しになってくれと頼まれたり、いろいろ面倒なことにはなりそうだ。那珂ちゃんにしたって、俺みたいな義理の兄がいるってなったら、炎上必至だろうし。
もちろん、そうならない様に、現在対策を事務所や義母が考えている真っ最中なんだけど。この頃忙しそうにしているのも、その件の対応をどうするか、義母と事務所で話し合うためだったらしい。
ま、こればっかりは俺なんかが考えたところで仕方ない。大事にならない様に、義母は夜遅くまで事務所に残ってる訳だし。とにかく今は大人たちを信じよう。
くぁ、と湧いたあくびを噛み殺して。俺の思考は、夕飯の献立どうしようかなー、なんてのんきな方向にシフトしていった。
放課後、部活があるという安定と昇降口で別れた。
校門を目指して歩いていくと、見慣れないセーラー服を着た女の子が立っていた。なぜかキャスケットを深くかぶっていて顔はよく見えないものの、身長などから察するに中学生っぽい。
誰かを待ってるのかな、と横目で見ながら通り過ぎようとする。
と、そこでその子は勢いよく俺の方を向いて近付いてきた。
「清光くんっ!」
両手で腕を掴まれ、名前を呼ばれる。
聞き覚えのある声に、ある種のデジャヴ。
何より、帽子の下に隠れている顔を見て、俺は驚いた。
「えっ……那珂ちゃ――」
「しーっ!」
名前を呼ぼうとして、すかさず唇を手で塞がれる。きょろきょろと辺りを見回す那珂ちゃんに、「誰かにバレたらどうするの?」と注意される。確かにごもっともな指摘だ。けど――
「なんでここに?」
「テスト週間で学校が早く終わったから、来ちゃった」
驚いた? と首を傾げる那珂。笑う彼女は無邪気ないたずらっ子の顔をしている。
「誰かにバレたらどうするの」
さっき彼女に言われたことをそのまま返すと、「なにそれぇ」と不満げに那珂ちゃんは頬を膨らませた。
「せっかく迎えに来てあげたのに、嬉しくないの?」
「迎え?」
訝ると、那珂ちゃんは「そ」と笑顔で頷いた。俺の腕を取ったまま、上目遣いで小首を傾げて彼女は言う。
「オフの那珂ちゃんの時間をあげる。だから代わりに清光くんの放課後をちょーだい?」
星が瞬く大きな瞳には、俺の大層間抜けな顔が映っていた。
こんな風に見つめられて、「ノー」と言える男はきっといない。
そして悲しいかな。他称・ジェンダーレス男子の俺も、彼女の前ではただの男の子にされてしまう様だ。
早く早く、と急かされるまま、那珂ちゃんに手を引かれてやってきたのはショッピングモールだった。うちの高校からそう遠くないから、同じ制服姿の女子グループやカップルもちらほら見られる。
うっかり知り合いに会ったら面倒だなー、なんて思っていると。
「はい、これ」
「なに?」
那珂ちゃんに渡されたのは、黒いキャップ。それから赤いフレームの眼鏡だった。レンズは度が入っていない、いわゆる伊達メってやつ。
「知り合いのメイクさんに言って借りてきたの。知り合いに声かけられたら困るでしょ?」
「準備いいね」
感心しつつ、素直に受け取ったキャップをかぶった。そうして眼鏡をかけると、レンズの向こうに笑顔の那珂ちゃんが見えた。
「じゃあ行くよ!」
「えっ、ちょっ!」
俺の手を取って再び走り出す那珂ちゃん。戸惑う俺をよそに、振り返った彼女は弾けんばかりの笑顔を浮かべていて。
その笑顔を見たら、周囲の目とか、バレたらどうしようとか、そういう理屈はもう吹き飛んで行ってしまった。
那珂ちゃんが「あれ!」と指差すままに、俺は彼女にとことん付き合った。
露店のアクセサリーを見たり、クレープを食べたり、ゲーセンで音ゲー対決したり。
今日の那珂ちゃんはとてもパワフルで、次から次に新しいものへ興味が移っていく。ついていくのも結構大変だけど、「ねぇ清光くん!」と輝く瞳で見つめられたら、やっぱり悪い気はしない。だって、かわいいは正義なのだ。
「あー、楽しかったー!」
大きな黒猫のぬいぐるみをぎゅっと抱き締めて、満面の笑みで那珂ちゃんが言う。抱えているぬいぐるみは、さっきゲーセンのクレーンゲームで取ったものだ。最初は那珂ちゃんが挑戦しているのを横で見ていたんだけど、どうしても取れずに両替機に走ろうとしているのを見かねて取ってあげた。
「清光くん、クレーンゲームも得意なんだね。すごーい!」
「無駄な特技って安定には言われるけどね。まぁ、喜んでもらえて何よりだよ」
相変わらずストレートに褒めてくれるのがくすぐったくて、頬を指でかく。
中学二年の時だったか。一時期、ぬいぐるみ集めにハマってて、ゲーセンに通い詰めてた時期があった。お小遣いを溶かして極めたクレーンゲームの技術が、まさかこうして役に立つとは。
「でも、清光くんって面白いね。昨日も思ったけど、男の子のはずなのに、全然男の子って感じしない」
「なにそれ。バカにしてる?」
「ううん。那珂、男の子と話すことってあんまりないから。お兄ちゃんができるって聞いた時はどうしようって思ったけど、清光くんみたいな人でよかった」
にっこりと、屈託のない笑みを向けられる。
かわいい笑顔に不覚にもドキリとしつつも、一方でなんとなく安堵する気持ちもあった。
――ああ、そっか。急に兄妹なんて言われてどうしようって、不安だったのは、那珂ちゃんも同じだったんだな。
「あのね。今日はオフだって言ったの、あれ嘘なんだ。本当は十九時から収録なんだけど、どうしても清光くんに一緒に遊んでもらいたくて、十八時までに戻るって約束で那珂だけ抜けさせてもらっちゃった」
笑顔のまま俯いて那珂ちゃんは言った。
俺は慌てて立ち止まり、スマホを取り出す。画面に表示されている時間は十七時四十八分。
「大丈夫。ここからタクシー使えば、スタジオには十分くらいで着くと思うから」
俺の心配を見透かした様に、安心させる様な笑顔と口調で那珂ちゃんは言う。
夕日を背にして笑っている彼女は、眩しくて、ちょっと大人っぽくて、危うげなくらいに綺麗に見えた。
「今日はありがとうね、清光くん。那珂に付き合ってくれて、嬉しかった。いきなり学校まで来たり、はしゃいじゃったり、迷惑だったかもしれないけど――また、那珂と一緒に遊んでくれると嬉しいな」
どうしてかな。
那珂ちゃんは笑顔なのに、その言葉はどれも次にすぐ「さようなら」と続きそうなものばかりだった。
だから、俺は。
「……何言ってんの。俺のこと何だと思ってる訳?」
近付いて屈み込み、その鼻先に指を突きつける。那珂ちゃんほど上手くはできないけど、俺も安心させる様に笑ってみた。
「水臭いこと言わずに、いっぱい俺に迷惑かけてよ。だって俺、キミのお兄さんなんだからさ」
手を伸ばして、頭を撫でた。
嫌がられるかな、とも思ったけど、那珂ちゃんは目を細めて「うん!」と返事をくれた。
それが心から嬉しそうに見えたから、俺も胸の内にある不安を押しのけて笑うことができた。
だけど、後に知ることになる。この時、那珂ちゃんが危うげに見えたのは、俺の気のせいなんかじゃなくて、彼女の不安の表れだったんだって。
バスに乗って帰宅すると、十八時を少し過ぎたくらいだった。
自分の部屋にスクバを置いてルームウェアに着替えてから、いつもの様に夕飯を作り始める。
那珂ちゃんは拾ったタクシーで現場に向かった。ぬいぐるみは邪魔になるかもしれないから持って帰ろうかと訊いたけど、このまま一緒がいいと言うので、今頃は彼女と共に控室かどこかにいるんだろう。生放送が終わったらそのまま帰って来るそうなので、今夜は義母も合わせて三人で食卓を囲める、ということだった。
せっかくだからちょっと手の込んだメニューにしようかな、なんて冷蔵庫を覗いていると、着信が鳴った。スラックスのポケットからスマホを取り出せば、画面に表示されているのは義母の名前と番号。
「はい、もしもし」
「清光くん、今どこ?」
耳元で聞こえた声は僅かに震えていた。
違和感をおぼえつつも、冷蔵庫を一旦閉じて答える。
「どこって、家にいるよ。どうかした?」
「そっちに那珂、帰って来てない? もしくは、何か連絡とか……」
「えっ……いや、何も」
戸惑いながらも否定すると、電話口からは「そう……」と落胆した声が聞こえた。
俺は訳がわからずに電話の向こうの義母に問う。
「いったいどうしたの? 那珂ちゃん、もうすぐ収録なんでしょ? 一緒じゃないの?」
「それが……約束通り十八時には戻ってきたけど、さっき突然楽屋を飛び出して、いくら探してもどこにもいないの。電話もまったく繋がらないし、もうすっかりスタンバイも済んでたのに、こんなこと初めてで――」
「え?」
思わずスマホを落としそうになった。慌てて右手で持ち直すけど、義母の話す声はもう頭に入らない。
先ほど胸に抱いた不安が、重く苦い現実として結実する。
気が付いたら、体は勝手に動き出していた。
「安定!」
廊下を走り、家を出る。向かったのは、すぐ左にある青い屋根のお隣さん。
「安定、いる!?」
挨拶も抜きに、玄関の引き戸を開けた。襖が開いて、「清光くん?」と茶の間でテレビを見ていたおばあちゃんたちがびっくりした表情でこちらを見ているが、そこに安定の姿はない。
「ああ、くそっ!」
握り締めていたスマホを見ると、既に通話は切れていた。
俺は履歴から『安定』の二文字を見つけ出し、かけようとする。
と、そこで――
「どうしたの。そんなに慌てて」
聞き馴染んだ声がして、顔をあげる。
玄関近くの階段に、安定の姿があった。
俺は安定の肩を掴んだ。何事かとちょっと戸惑った表情をしているのもお構いなしに、事の次第をまくし立てた。
「那珂ちゃんがいなくなったんだ! もうすぐ生放送が始まるのに、突然楽屋を飛び出して、いくら探しても全然見つからないみたいで――」
説明しているうちに、改めて今の状況を再認識して奥歯を噛み締める。
――ずっと那珂ちゃんは悩んでたんだ。助けて欲しいのに、誰にも言えずに苦しんでた。
――どうしてちゃんと気付けなかった? 声をかけてあげられなかった?
――何が“お兄さん”だよ。偉そうなこと言って、結局何もできなかったなんて……!
「清光」
がっしりと肩を掴み返される。俺をまっすぐに見つめて、「いいか」と安定が言った。
「きっと今、一番心細い思いをしているのは妹さんだ。おまえじゃない。だから、落ち着け」
凪いだ蒼い瞳に覗き込まれて、はっと我に返る。
安定の言う通りだと思った。今は先に立たなかった後悔をしている時じゃない。那珂ちゃんの方がもっともっと不安なはずだ。
――俺がこんなんでどうするんだよ!
「……ごめん。ちょっと、どうかしてた」
俯いて謝ると、安定は無言で頷いた。心配そうにこちらを見ているおばあちゃんたちへ振り向き、「ごめん。ちょっと清光ん家行ってくる。すぐ戻るから」と笑顔で告げる。
「え、安定?」
「誰か家にいた方がいいよ。万が一、妹さんが帰ってきた時、擦れ違いになったら困るでしょ? 大丈夫、もし戻って来たら、真っ先におまえに連絡するから」
冷静に言うと安定はしゃがみ込んでスニーカーを履き始めた。
その姿を見て、いつか言えなかった言葉がぽろりと唇からこぼれる。
「ありがとう、安定」
靴ひもを結ぶ手が止まる。顔を上げた安定は呆気に取られた表情をしていたけれど、すぐに「どういたしまして」と笑顔になった。
「ほら。僕のことはいいからさ。早く行けって、王子様」
「ああ。行ってくる!」
頼もしい幼馴染の声に背中を押されて、玄関を飛び出す。どこへ行けばいいのかもわからないまま、とにかく走り始めた。
待ってて、那珂ちゃん。どこにいたって、俺がすぐに見つけてあげるから。
安定の家を出た俺は、都心へ向かうために地下鉄に乗り込んだ。
駅までの道すがら、何回か那珂ちゃんのスマホに電話をかけたものの、留守電に繋がるだけで本人は出なかった。
推測だけど、スタッフが必死に探しても見つからないってことはたぶん、テレビ局の内部にはいないんだと思う。俺が那珂ちゃんだったとしても、楽屋を飛び出した以上は関係者に見つかりにくい場所に行こうと考える。
そして、義母は電話口で「もうすっかりスタンバイも済んでいたのに」と言った。つまり今の那珂ちゃんは、俺と一緒にいた時に着ていたセーラー服ではなく、準備された衣装を着たまま楽屋を飛び出した可能性が高い。
だが、テレビ用の衣装でバスや電車に乗るのは難しいはずだ。万が一ファンに見つかったらツイートされて関係者に居場所がバレる可能性がある。人の多い繁華街や、マックとかコンビニのイートインも人目が多いから避けるだろう。
となると、俺が探すべき場所は少し限られてくる。
中学生の女の子が徒歩で行ける範囲内で、あまり人目に付かない様なところ。
ふとある場所が浮かんで、俺は駅に降り立った。
「那珂ちゃん」
声をかけると、ベンチに座って俯いていた彼女ははっと顔を上げてこちらを見た。
「清光くん……なんで……」
「さぁ? なんでわかったんだろうね。自分でもよくわかんないや」
うなじを撫でて苦笑する。
俺がここを思い浮かべたのはほとんど奇跡的で、天啓としか言いようがない閃きによるものだった。
今夜、生放送を行うテレビ局のすぐ近く。池を要する広い庭園に彼女はいた。
灯台下暗し、とは言うけれど、テレビ局は広いし、出入り口も複雑にできている。スタッフもさすがにここまでは気が回らなかったんだろう。
「……ごめんね、清光くん」
再び俯いた彼女の顔から、ほろりと煌めく何かが零れ落ちた。涙だ。
わっと顔を覆って、那珂ちゃんは泣き始めた。
「ぬいぐるみ、邪魔だからってママに捨てられちゃった……っ、せっかく取ってくれたのに……ごめんね清光くん……ごめんね……」
「そんな……いいのに。あれくらい、またいつでも取ったげるからさ」
びっくりしたものの、俺は安心させようと那珂ちゃんの前に膝をついて笑ってみせた。すると彼女は「違うの、清光くん、違うの……!」と何度も首を左右に振る。
「初めてのプレゼントだったのに……大事にできなかった……あの時、清光くんに連れて帰ってもらってれば捨てられずに済んだのに……!」
しゃくり上げる度に、光る雫が滴って地面に落ちる。その様はとても綺麗だけれど、俺の胸をじくじくと痛ませた。
「じゃあ、楽屋を飛び出したのはそれが理由?」
問えば、ためらいがちに彼女は頷く。
「あの人……」
とっさに義母のことが浮かんで、苦々しい気持ちで呟いた。
先ほどかかってきた電話では、義母は突然那珂ちゃんが飛び出したとしか言っていなかった。おそらく、喧嘩が原因だとは言えずに、意図的に隠したんだろう。
そもそも、考えてみれば最初からおかしな話だった。いくら娘のためとはいえ、中学生の那珂ちゃんだけを先に帰して家にひとりにするなんて。
「ママは悪くないの!」
悲痛な叫びが飛んできて、目を瞠る。
涙をいっぱいに溜めて、那珂ちゃんは大好きなおかあさんを庇い始めた。
「ママは本当はとっても優しい人なんだ。でも、パパと離婚してからは、那珂がくだらない噂で傷付かない様にって、ずっと頑張ってくれてて……」
「でも、だからってそんなひどいこと――」
言いかけた瞬間、那珂ちゃんの瞳からはらりと大きな雫が零れ落ちた。慌てて口をつぐみ、「ごめん」と謝る。
那珂ちゃんは「ううん」と首を振って、頬を拭う。
俺と握った手を見つめながら、彼女は自嘲的に笑った。
「……那珂、何のためにアイドルやってるんだろうね。パパやお姉ちゃんたちと一緒にいられなくなったのは那珂のせいなのに、ママをいっぱい疲れさせて、清光くんにまで心配かけちゃって――」
「お姉ちゃん?」
出てきた単語に思わず訝る。
那珂ちゃんは「そっか。清光くんにはまだ話してなかったね」と眦の涙を拭い去った。
「あのね。実は、那珂は清光くんと出会う前から妹だったんだ」
その一言をきっかけに、彼女はそっと俺に自分の生い立ちを話してくれた。
那珂ちゃんには、お姉さんが二人いる。一番上の長女が川内、二番目の次女は神通。二人ともとても優しくて、那珂ちゃんにとっては自慢のお姉さんだった。
姉妹のお母さんには、ひそかな夢があった。それは、自分の子供をトップアイドルにすること。
娘たちが成長すると、彼女は三姉妹それぞれに芸能事務所やグランプリなどのオーディションを受けさせた。
そして三人の中で唯一、今の事務所に入れたのが、当時小学生だった那珂ちゃんだ。
二人のお姉さんは、自分が落ちたことよりも、妹が受かったことを心から喜び、応援してくれた。
お姉さんたちの期待に応えるために、那珂ちゃんはトップアイドルになると心に誓った。
けれど、那珂ちゃんが中学に上がる前くらいから、お父さんがだんだんと芸能活動に反対する様になっていった。
今はアイドルとして人気があっても、今後も生き残っていけるかどうかはわからない。だったら、アイドルを辞めて、学校に通い、勉強をして、きちんとした大学を出るべきだ、と言うのだ。
だが、母親にとっては長年の夢だ。簡単に引き下がれるはずはない。
那珂ちゃんの教育方針を巡り、両親はだんだんと不仲になっていった。
そして那珂ちゃんが中学一年生の時、ついに二人は離婚。
芸能活動を続けるために、那珂ちゃんはお母さんについて行くことを選んだ。
けれど、彼女の大好きなお姉さんたちは、父親の下に残ることを選んだ。
「ぬいぐるみを捨てられて悲しかったのはほんと。でも、楽屋を飛び出したのは、それだけが理由じゃないの」
そっと目を伏せる。濡れた睫毛が彼女の涙袋に小さな影を作った。
「ママのことも、ファンのみんなも、アイドルのお仕事も大好きだよ。だけどアイドルって、大事なものを犠牲にしてでもやらなきゃいけないこと? 那珂は、アイドルでいてもいいのかな……」
那珂ちゃんの瞳は揺れていた。
『うん……でも那珂、アイドルのお仕事、好きだから』
以前、彼女に感じた仄暗い影の正体が、わかった気がした。
自分の存在が家族を壊してしまったのかもしれないという疑念を。罪悪感を。何より深い悲しみを。懸命に隠して、彼女はそれでもアイドルとして在り続けようとした。
その事実を目の当たりにした時、俺が抱いたのは、あるひとつの感情だった。
「ねえ、那珂ちゃん。赤の他人が何言ってんのって思うかもしんないけど、聞いてくれる?」
那珂ちゃんの瞳が俺を見る。
「いくら実の親とはいっても、那珂ちゃんのお父さんもお母さんも、那珂ちゃんとはまったく違う人間なんだよ。あの人たちはあの人たちなりにそれぞれの事情や感情で動いてる。だから、離婚は当人たちの問題で、那珂ちゃんがどうにかできることじゃない。逆にそれは、那珂ちゃんが責任を感じる必要なんかないってこと。那珂ちゃんのお母さんもお父さんも、自分たちで話し合った末にその結末を選んだはずだ」
話しながら、俺の脳裏には父さんの顔といつか見た母親の写真が浮かんでいた。
小さい頃は父さんがあまり家にいなくていつも寂しかったし、どうして自分には母親がいないのかと疑問を抱いたこともある。
けれども成長するにつれて、両親にもそれぞれ、ひとりの人間としての人生があるんだと考える様になった。
――みんな、ひとりひとりにそれぞれの人生があって、その人生には必ずそれぞれの幸福が用意されている。
「それでも、アイドルでいることがつらいなら、ちゃんとおかあさんたちに話した上で、いつでも引退しちゃえばいいよ」
俺は知っている。画面の向こうで歌っている姿も、勉強の時の真剣な表情も――俺の名前を呼ぶ時、どんな風に笑うか、その笑顔さえも。
だから誰に何を言われたって、これだけは絶対に譲らない。
「大丈夫。ただの女の子に戻ったって、那珂ちゃんは世界一かわいいよ」
片目を閉じて微笑む。はっと見開かれた彼女の両目から、一筋の涙が零れ落ちた。
「……ほんと?」
「こんな時に嘘吐いたって仕方ないだろ」
おずおずと顔を覗き込んでくる那珂ちゃんに苦笑する。
すると那珂ちゃんは小指を差し出してきた。濡れた睫毛に縁どられた瞳は、しかし強い意思を宿している。
「じゃあ、傍にいて。離れないで、ずっと見てて。どんな時も、那珂が世界一だって――キミだけは、信じてて」
「わかった」
差し出された小指に、小指を絡める。指切りげんまん、と歌うふたつの声が重なる。
絡めた小指をほどく。「さて」と俺は立ち上がった。
「どうする? どちらにしろ、このまま逃げちゃうのは難しいと思うけど」
問いかけると、那珂ちゃんは「戻るよ」と立ち上がった。涙を手の甲で完全に拭って、いつもの笑顔で彼女は言う。
「だって那珂、アイドルのお仕事、好きだから!」
爛漫とした笑顔が咲いた。
ああ、この笑顔だ。ようやく――本当にようやく、那珂ちゃんが笑ってくれた。
「そっか。じゃあ、行こう」
手のひらを差し出すと、意図を察した那珂ちゃんが握ってくれた。
「あのさ、那珂ちゃん。怖くなったら、いつでも振り返ってよ。当たり前に、傍にいるからさ。――たぶん、兄妹ってそういうものでしょ?」
「……そうだね」
ぎゅっと握った手のひらに力を込めて。「ありがとう」と笑う彼女は眩しい。
ああ、きっとこの笑顔のためなら、俺は何でもできるんだろうなって、温かな気持ちでそんな確信をおぼえた。
二人で楽屋に戻ると、彼女は真っ先に「ごめんなさい!」と頭を下げた。
義母は怒った表情で何か言いかけたが、マネージャーさんが那珂ちゃんに再び準備に取り掛かる様に促したので、結局何も言うことはできなかった。
収録には何とか時間通りに間に合った。共演者や番組スタッフたちには、体調不良という風に伝えられていたらしい。そのおかげで、スタンバイがギリギリになってしまったことも何とか許してもらえたみたいだ。
那珂ちゃんが無事に見つかったと安定にメールを送り、役目を終えた俺は帰ろうとした。けれどせっかく来たんだからと義母に引き留められて、スタッフとの交渉の末、特別に観覧席で収録の様子を見せてもらえることになった。
「清光くん、ほんとにありがとうね」
那珂ちゃんの準備を待っていると、義母に笑顔でそう言われた。
俺は複雑な思いで思わず目を伏せる。
「……那珂ちゃん、ぬいぐるみを捨てられたこと、怒ってなかったよ」
その一言で、義母は俺が何もかもを知っているのだと悟った風だった。はっと驚いた表情の後、いたたまれなくなった様に俯く。
「俺なんかに知った風なこと言われたくないだろうけどさ。母子家庭、しかも娘がアイドルだなんて、おかあさんはきっとすごく大変だったよね。那珂ちゃんも、そのことをよくわかってる。だからさ、この収録が終わったら、ちゃんとあの子と話してあげてよ」
「……ええ。そうするわ。ありがとう、清光くん」
言われた二回目のお礼は、涙声だった。
もしかしたら突っぱねられるかもしれない、と思っていただけに、少し拍子抜けする。那珂ちゃんの言うとおり、この人は本来とても優しい人なんだろう。これなら、たぶんこの母娘は大丈夫だ。
俺が観覧席に移動しようとした時、準備を終えた那珂ちゃんがスタジオに現れた。プロの仕事のおかげか、彼女の笑顔には泣き腫らしていた面影はもうどこにも見つけられない。
「清光くん」
ステージに立つ直前、俺の前に現れた彼女は、とびっきりの笑顔でこう言った。
「これから歌うから……だからちゃんと見てて、那珂のこと。絶対、目を離さないでね」
鼻先に人差し指で触れられる。呆気に取られていると、俺だけに聞こえる声でこっそりと囁かれる。
「今日だけは特別に、キミのために歌うから」
悪戯っぽくウィンクして、那珂ちゃんはステージに向かって行く。
残された俺は、なすすべもなく口を手で覆う。
ああ、もう。そんなこと言われなくたって、目を離せる訳がないのに。
だって、キミは――
「本番入りまーす!」
スタッフの一言から、カウントダウンが始まる。
カメラが回り始める刹那、那珂ちゃんの纏う空気が変わった。
観客全員が息を飲む音が聞こえた気がした。
もう誰も、彼女から目を逸らせない。
「それじゃ、いっくよー!」
マイクを手にした那珂ちゃんは、光輝くステージの中心でとびきりの笑顔を弾けさせる。
やっぱり、俺の妹は世界一かわいい女の子だ。
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