「ボクの名字を思い出してくれたから、記憶が戻ったかと思ったんですけど...」
彼はちょっとがっかりした様子で、あたしが入れたコーヒーを口に運んだ。なんだか
申し訳ない気分。あたしもカップを持ってテーブルについた。
でも、先ほどより落ち着いている。まだ信じられない気分だけど、あの女神様の
言ったとおりなら、この人は唯一頼れる人物なのだ。
ちょっとの間、無言の時間が流れた。
「それで、どうします?」
そう。“どうするか”。
女神様はあたしが学ぶべき事を学んだら帰してくれると言う。でもそれが
なんだか分からない。心細さで青木さんを思わず呼んでしまったけど、
女神様のことを誰にも話せない以上、頼り切るわけにもいかない。
唯一できることは。
「あの、いろいろ話していただけませんか?
“今”の事とか、あたしのこととか...」
あたしはおそるおそるお願いした。記憶喪失でない以上、情報を収集しなければ
ならない。この世界でしばらくうまくやって行くために。
彼は最初、自分で思い出した方が良いのではと言ってくれたけど、あたしが
繰り返しお願いするので少しずつ話し始める。
あたしが大学卒業後にここへ引っ越したこと。
隣町の柳沢商事で働いていること。
職場で仲良くしている友達のこと。
おそらく彼があたしについて知っていることで、日常に必要な情報のほとんどを
話してくれた。5年間でとびきりの変化はなかったようだけど、あたしの母が
4月末から入院していることには動揺した。
「他になにか聞きたいこと、ありますか?」
と、そこであたしは言葉に詰まってしまった。
自分がどこにいるかわからなければ地図はまったく役に立たないように、
“今”が時間の流れの“いつ”なのか把握していなければ、質問のしようが無いのだ。
「え、と、とりあえずは、大丈夫です。ただ…」
「ただ?」
「ゴールデンウイーク明けまでに戻れ…い、いや記憶が戻らなかったら、
あたし…」
「そのときには、一緒に病院へ行ってくれますね?本当はすぐの方が
良いのですけど。どこか悪いところがひどくならないうちに」
「あ、それは、大丈夫…です。」
ふう、と彼はため息をついて、立ち上がった。
「でも、ずいぶん落ち着いたようなので安心しました。あのときは顔色が
違いましたから」
「す、すみません」
と、クスクス笑う彼。
「どうしたんですか?」
「い、いえ。なんだか、こう、記憶喪失の君はちょっと雰囲気が違うなと思って」
「…」
「じゃ、明日また来ます。また、何かあったら電話ください」
靴を履いた彼はドアを開ける。
「あ、あの」
「はい?」
あたしは何か言いたかったけれど、言葉が選べなかった。
「い、いえ」
「じゃ」
ドアが閉まる。
出て行く彼の背中を見て何か胸が変な感じだった。何だろう。
お昼過ぎ―
5年後のあたしもやはり“ずぼら”のようだ。おなかが減ったので冷蔵庫を
開けたが、すぐに食べられるようなものは何もない。少々冒険だが、買い物に
出ることにした。お金は愛用の財布に少しばかり入っていたのを拝借。いや、
自分のだから拝借とは言わないか。
「絵美!」
どきり。
コンビニから袋を下げて出てくると、突然あたしを呼び止める声。おそる
おそる振り返ると、赤ちゃんを抱えた女の人がニコニコしてる。
「しばらく!元気だった?」
「ま、真紀?」
*
組立前の段ボール箱が立てかけてある部屋で、あたしたちはコンビニ弁当を
食べていた。
真紀はあたしの数少ない友人の一人。5年後には結婚して一児の母になって
いたなんて。
「記憶喪失?!」
「う、うん。で、でも大丈夫よ。一時的なものらしいから」
「ほんと?大丈夫なの?」
「う、うんうん」
話から察するところによると、どうやら彼女は大学卒業前にして大恋愛の
末、結婚したようだ。相手はエリートサラリーマン。今、カナダに単身赴任
だという。
「大変だね~」
「うん。でも、わたし決めたんだ。わたし彼のいるところへ行くの」
「それで、これ?」
「ん」
どうやらこの段ボールは引っ越しのためのものらしい。つい先頃、彼に会う
ためカナダへ出かけ、そこで決心したのだという。
彼女は足を崩すと、ミルクで満腹になりすぐに眠ってしまった赤ちゃんの
頭をなでながら話し出した。
「この子がさ、いまこういう子でいる時って、“今”しかないのよね。
もし、彼と別れて生活していたら、今のこの子を彼は知らないで
過ごしてしまうんだもん。親としてそれって、すごく悲しいことだと
思うんだ」
「この子の“今”か...」
あたしは、赤ちゃんの顔をのぞき込んだ。あたしの両親もこんな感じで
あたしのこと、見てたのだろうか。
「彼がカナダに渡るときね、『行ってきます』って玄関を
出てったでしょ、そのときの背中がね、こう、なんて言うんだろ。
変な気持ちになってね。すぐにカナダへ行く手配しちゃったの」
「あ、その『背中』っての、分かるかもしれない」
あたしは、ついさっき、玄関で見たあの背中を思い出した。
なんだか大きくて、それで...
「ねえ」
真紀の声、調子が違う。
「ん?」
「誰の背中よぉ」
「あ、え、まぁ、あははは」
「青木さんでしょ」
「え、知ってるの?」
何言ってんの、と頭をたたかれる。そいえば大学時代もこうやって頭、
たたくの癖だったっけ、彼女。いや、あたしの体内時計はまだ大学時代に
いるのだけど。
青木さんと自分のこと、いろいろ言われるのがイヤでそそくさと
帰ってきた。帰り際に空港に見送りに行く約束をした。
(なんだか、いいなぁ)
あたしは彼女の家に飾ってあった旦那さんと赤ちゃんの写真を
思い浮かべた。
(『今こういう子でいる時って、“今”しかない』か)
と、
ピピピピピピピピピ
携帯のベルが鳴った。
「はい、もしもし?」
「どう?真紀ちゃんの赤ちゃん、可愛かったでしょ~」
「め、女神様?」
「こら、声が高い!」
あわてて周りを見回すと、声をひそめた。
「何ですか?!」
「ちょっと勉強したかな?」
「勉強って…」
「“今”という時の重みよ。赤ちゃんの今が“今”しかないように
あなたの今も“今”しかないんだから」
「あ」
「ま、そういうことで。勉強を重ねるように。ではでは」
「ちょ、ちょっと…」
切れた。
「ふう」
少しの間立ち止まっていたあたしは、再びゆっくりと歩き始めた。
街灯を過ぎ、影が前へくるりと回り込む。
えいえい、とばかりにあたしは自分の影を踏みつけるようにして
アパートに向かった。
街灯をすぎるたびに。
何度も、何度も。
次回「夫婦」につづく
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買い物に出たあたしに声をかけてきたのは