建業を出て寿春を越え、更に西へと進んだ先。
或いは許昌を出てほとんど南へ南へと進んだところ。
前者は蜀呉の連合軍が、後者は魏軍が進んで来たその道が交わる平原。
その取り立てて何かがあるわけでも無い平原の南北に今、今までの歴史を見ても類を見ない程の大人数が集っていた。
言うまでも無く、そこには剣呑な雰囲気が満ち満ちている。
まだ互いの姿は遥か遠くに小さく見えている程度なのにも関わらず、どちらの陣営からも爆発しそうなまでに高まった士気が感じることが出来た。
これだけの規模となってくると、最早戦ではなく大戦である。
更に時間が過ぎ、互いに相手の姿形を認識出来るまでに近づいた。
既に魏軍は動き始めており、戦端が開かれる前には余裕を持って陣形を組み終えるだろう。
対して連合軍の方にはほとんど動きが無い。
精々が一部の部隊が前に出てきたことくらいであった。
更に時間が経って距離が詰まる。
既に魏軍は部隊展開を終え、お手本のような鶴翼の陣を形成していた。
対する連合軍は少しずつ広がり始めていはいるが、陣形らしい陣形を取っていない様子。
いや、正確には少し違う。
連合軍の内、蜀の方はきちんと陣形を取っているのだ。
ただ、その形が意外と言えば意外なもので――
「あれは、雁行……いえ、偃月かしら?
呉の孫家の連中ならともかく、蜀の連中が?」
「大方、孫家の突撃に合わせるつもりなんでしょう。
例え不慣れであっても、近くにお手本がいればすぐに修正が出来ると踏んだんでしょうね。
尤も、口で言うほど簡単では無いでしょうから、それだけ蜀の兵も練度が高いってことかしらね?」
「なるほど。こっちの陣形を見てから動いたってことは、敵もあわよくば、って考えてはいるみたいね。
だったら、こっちはその上をいけばいいだけの事よ」
桂花と零が本陣で意見を交わす。
どうやら事前予測にはほぼ狂い無し。後は如何に上手く敵を術中に嵌めるか、であった。
「鶸と蒲公英への合図はあんたに任せるわ、零」
「ええ、承知したわ。鶸も蒲公英も賢い将だし、合図を忘れるようなことは無いでしょう。
そういう意味では非常に楽な仕事よ。桂花の方とは違って、ね」
桂花は零の言葉に苦笑する。
それはきっと一部の脳筋や暴走する将のことを暗に示していたのだろうから。
「それは仕方無いわね。華琳様は才ある者を好まれる方だけれど、その性格にまでは頓着されない方だから。
そのおかげで我等の軍は強大になっているのだし、私たちがそれを制御出来れば何の問題も無いのよ」
とんでもないことをサラリと口にする。
それは一般の文官が聞けば卒倒してしまいそうな内容だった。
桂花の言う通り、華琳は才さえあれば人を囲う。
その結果、魏の将たちは力量はあれど一癖も二癖もある者たちが大半なのだ。
それらを纏めて制御する。それは単純に大軍を指揮することの数倍も難しいものと言える。
それぞれが何に対して不満を持つのか。どういった条件で暴走しかねないのか。
それらをつぶさに記憶し、部隊配置や指揮を以て暴走を抑えて軍を統括する。
それは気の遠くなるような記憶力・計算力・予測力が必要となる、凄まじいものなのであった。
だが、桂花たちはその苦労をおくびにも出さない。
華琳に見染められた自分たちならば、それくらいは行えて当然。そのような認識であるからだ。
さて、相手はどう出て来るか。そう考えていると、敵軍の動きが止まる。
その中央から二騎だけが突出し、ゆったりとしたペースで歩み寄ってきた。
「孫堅と劉備がお出ましのようね。ならば私もいかねばならないわ」
華琳は楽しそうに笑みを湛え、孫堅・劉備と同様に一騎のみで突出する。
これに本陣に控えていた春蘭が慌てて付いていこうとしたのだが、これは桂花に止められた。
不満気な表情をする春蘭を納得させたのは、同じく本陣付きとなっている月だった。
月は語る。この戦の、そしてこれからの舌戦の意味を。
事実上の大陸統一戦。その戦端が開かれる前に、舌戦を仕掛ける振りをして敵大将の首級を挙げる。
それは如何にも卑怯な真似であると言える。
仮にそれが成功したとして、果たしてそのような手段で勝利を収めるような者に大陸の者たちが従うだろうか。
答えは否。例えこの場で勝利を収めようとも、その人間の器が知れるというもの。直ぐに国は破綻することになるだろう。
それに。万が一の場合であっても、そこには恋と月以下火輪隊が、そして秋蘭の部隊もいるのだ。
華琳が一撃で仕留められてしまわない限り、救出も可能である、と月は諭したのであった。
その説得を受け、春蘭も渋々ではあったが納得する。そして共に華琳を見守った。
互いに声の通る位置まで進み出ると、どちらからともなく三騎は足を止める。
その間、どちらの軍からも無粋な動きの兆候は欠片も無かった。
華琳はそれが当然だと考えており、そこには最初から興味が無い。今、彼女は不敵な笑みを湛えて目の前の二人を真っ直ぐに視線で捉えていた。
さて、どうしようか、と華琳は思案する。連合軍の侵攻を批難する姿勢を前面に出すのも手である。或いは――――
その僅かな思索の時間は、連合軍側からの口上を述べる時間で遮られる。
「よう、曹孟徳。あんたとこうして相対するのは、以前にあんたが攻めてきた時以来さねぇ。
あん時もでかかったが、それよりも遥かにでっかく育てたじゃあないか。
だが、単純に国を大きくしたからと言って、私の眼鏡に適うってなわけじゃ無い。
今この時を以てあんたのことを見極めてやろうじゃないか」
普段と変わらぬ口調で以て孫堅が述べた。
無駄に格式張った舌戦の形式など不要、互いに伝えたいことだけ伝われば良い。そんな孫堅の副音声が聞こえてくるような口上だった。
対する華琳もまた、格式張ったことに拘る気は無い。
故に、華琳の返答も彼女の普段通りのものであった。
「あら、言ってくれるじゃない?
これでも、私は曲がりなりにも陛下御自身からこの大陸を託されているの。
それに恥じぬだけのものは持っているつもりよ。
我が覇道の目指す先は、陛下の目指された大陸の姿と同じ。民が不自由なく過ごせる大陸よ。
そして、これを為すに当たっての最後の障害となるのが貴女達。
だから、覚悟なさい?この戦を制して私は理想とする国を作り上げることにしたわ」
華琳の口上を聞いて、孫堅もまた口元に笑みを浮かべる。
ただ、孫堅の笑みは華琳のそれとは全く異なっていた。
王であり、武人である。そんな孫堅らしい、非常に獰猛な笑みだったのだ。
孫堅は静かに笑みを浮かべただけであったが、仮に言葉を発していたとすれば――――
『いい心意気だ。ならば、この私を破ってそれを証明してみせな!』
と、そんなところだろう。
さて、そんな武に寄った孫堅とは反対に、その隣の劉備は静かに華琳を見つめていた。
その瞳にはかつての時のような甘さは無いように見受けられる。
劉備はそれまで黙っていただけだが、二人の口上が終わったと見てその口を開いた。
「曹操さん、お久しぶりです。
あの日、私はあなたと北郷さんに甘い理想は捨てろ、と諭されました。
確かに、あの時の私は覚悟も出来ていませんでした。考えも行動も、何よりも覚悟が、甘かったことは認めます。
ですけど、あの後私はたくさん考えました。
私の理想のこと、大陸のこれからのこと、民の皆の幸せのこと、それに曹操さんの強さのこと。
たくさん考えて、たくさん悩みました。その上で、私は覚悟を決めました。
私は理想を諦めません!けれど、力を放棄するわけではありません。
曹操さんや北郷さんが言ったことも、確かに正しいんだと思います。
でも!私は理想を諦めない!民の皆が、大陸の皆が笑顔で暮らせるように、そんな国を作り上げたい!
その為に力が必要なのであれば、迷いなく私は力を求めます!”必要な犠牲”だなんて、そんな言葉で諦めたりしないでいいように!
だから、曹操さん。あなたへの”利子の支払い”、それは私の覚悟を見せることで対価とさせてもらいます!」
華琳の直前の見立ては間違っていた。劉備は変わったのでは無い。
甘さが無くなったわけでは無く、甘さをも抱えた強固な信念として昇華させていたようだ。
思ったものと違う方向への成長ではあったが、それはそれで面白い。華琳はそう思い、一層笑みを深くした。しかし、そこに浮かぶ自信には一欠片の揺らぎも無い。
当初からの一刀の忠告。劉備と孫権――実際には孫家へと改められたのだが――は華琳の覇道の最大の障害となるというもの。
それは確かに当たっていた。元々ほとんど疑ってはいなかったのだが、こうして実際に二人と相見えてみれば一目瞭然。
自らを含めたこの三者の内の誰か。それが次代の大陸を統べるに相応しいことは明らかなのであった。
「あらあら……私も随分と甘く見られたものね。
少し手助けしてあげたとは言え、昨日今日覚悟を決めたばかりの貴女に、この私が敗れると思われるなんて、ね。
けれど、いいわ。やはり劉備、貴女は才を秘めている。いいえ、秘めていた、といったところかしら。
もう既にその才を発揮しているようなのだからね。
けれども長年貫いてきた我が覇道、甘く見ないことよ。
孫堅諸共ここで叩き潰して、我が覇道の礎となってもらいましょう」
三者ともが自らの口上を述べ終わる。
その場には非常にピリピリした緊迫感が漂っていた。
ただ、だからと言ってそのまま戦闘へと突入するわけでは無い。
両者ともほぼ同じタイミングで各々の陣へと下がり始めた。
その間、どちらの軍も動かない。
戦場を不気味な静寂が包む。
しかし、その静寂は両陣営に大将が帰り付くと同時に破られた。
「本陣!両翼の動きに合わせ、翼を断ち切らぬように前進せよ!」
「さあさあ!いきなり食らいついてやるわよ!
皆の者!この私に続きなさい!!」
「桃香様の下に集った蜀の勇者たちよ!孫策殿の部隊に遅れるな!
我等も吶喊する!我に続けぇ~~!!」
「伝令!蒲公英には待機命令を!鶸にはいつでも出られるように準備をさせなさい!!」
両陣営とも、途端に騒がしくなった。
ただし、どちらもその喧噪に無秩序なものは無く、一本筋の通った命令系統によって統率された、秩序だったものだ。
魏の軍勢は見事な一体感でまるで軍全体が一羽の鳥のように動き出す。
ただし、鳥は鳥でも、その翼は獲物を捕らえて食い尽くすような、獰猛で危険な鳥である。
一方で連合軍は開戦と同時に見事なまでの吶喊を見せる部隊が二つ。否、集団が二つ、と言い換えよう。
呉・蜀とも、それぞれの部隊の先頭を務める将・孫策と関羽の部隊だけで吶喊させているわけでは無い。
その隣にはそれぞれ呂蒙・太史慈と張飛・趙雲が並んでいた。
各三部隊、都合六部隊による息を合わせた吶喊。
それは得も言われぬ威圧感を放ちながら魏の本陣へと一直線に向かっていく。
しかし魏の両翼は猛然と自国の本陣へ向かう六部隊をスルーする。それは完全に事前の予定通りの光景であり、連合側からすれば不気味極まりない光景でもあった。
「魏の両翼は全くの不動、ということですか。これは……普通の鶴翼では無いと見た方がいいですね」
「はい、私もそう思います。
紫苑さん、桔梗さんと黄蓋さんと共に”一度目”、お願いします」
「承知しましたわ。出る機が少し早いようですが、行動は変わらずでいいのかしら?」
「はい。予定通りで問題ありません」
龐統の指示を受けて黄忠、厳顔、黄蓋が、戦線を押し上げる連合軍本陣よりも更に前に出る。
それは魏の両翼先端を結ぶラインよりも手前で停止し、吶喊部隊の撤退支援を予期させる配置だった。
「…………それにしても……魏の兵の数は予想より……」
龐統の静かな呟きは隣で策の機を窺う徐庶にも届かない。ただ自らのありのままの心情を吐露しただけ。
これではいけない、と強く頭を振り、龐統もまた機を窺うべく戦場に向き直る。
「出てきたのは孫策と関羽が中心みたいね。予想以上に吶喊速度が速いわ……
伝令!両翼に囲い込みを始めるように指示を!」
「はっ!」
「こっちはこっちで嫌な旗が揃って出てきたわね。工兵!蒲公英に花火による合図を!
短間隔で二発、間をあけた後長間隔で二発!」
「承知しましたっ!」
魏の陣営の方でも当然、動きが現れる。
桂花と零がそれぞれの仕事範囲から堅実な次の一手を打ちにかかる。
また、他の軍師たちも戦場の各部隊に散っているので、臨機応変な対応も可能な布陣となっていた。
なお、桂花の命を最上とした上で各軍師には自由な部隊指揮を任せている。
そのような真似が出来るのも、質の良い軍師ばかりを数多く揃えた魏であるからこそと言えよう。
「っ!!総員、突撃準備!!」
本陣にいる零からの合図。それを蒲公英は決して聞き逃したりはしなかった。
短間隔二発、長間隔二発。それは蒲公英の部隊に対し、翼を回り込んでその先にいる敵への横撃の合図だった。
翼はまだ動き始めようとしたばかり。先の想定よりも大分早い出陣ではあるのだが、零がそう判断したのならば蒲公英はそれに従うまで。
「翼を畳むのと同時にいくよ!
とっつ撃ぃ~!!」
蒲公英の部隊は翼の裏に沿って駆け、戦場に躍り出る。
霞を目くらましにした奇襲を成功させるために、蒲公英は翼を抜けて目に入った戦場の情報を瞬時に処理して目標へと部隊を向けた。
「皆さん!翼を畳みます!
たった今敵本陣から出てきた部隊には細心の注意を!
盾を所持する者は出てきた部隊に相対して攻撃を防いでください!」
菖蒲は桂花からの指示が届くと同時に動き出していた。
敵の動きを見て既に準備は整えていたため、後は動く許可のみだったのだ。
しかし、その動きは当初の予定よりも遅くならざるを得ない。
その理由が、菖蒲の指示にもあったように、包み込むに当たって後方に背負う形になる部隊の存在だった。
ある程度の想定はもちろん事前にされていたのだが、まさか黄忠、厳顔、黄蓋という三人が一度に出て来るとは想定外だったのだ。
菖蒲自身も部隊に指示は出しつつも敵部隊への警戒に多大な意識を割いている。
あまり状況は芳しく無い。菖蒲はそう感じていた。
「蜀から黄の旗に厳の旗、それと呉から黄の旗……
両陣営の誇る弓部隊が全て前に……?」
敵陣から前に進み出てきた部隊を視界に入れ、斗詩は呟いて思考を続ける。
元々麗羽の下で武将兼軍師のように働いていただけあって、斗詩は他の武将に比べて策を読む力が高い。
彼女自身は軍師としては二流かそれ以下だと言っているが、一部の者はそれは謙遜だと考えていた。
というのも、斗詩は前線にずっと出ていただけあって、他の軍師勢に比べて戦場の空気の変化を肌で感じ取ることに長けているのだ。
確かに普段の状態では桂花や零たち、魏の誇る優秀な軍師よりは数段劣るだろう。が、特定状況下において、斗詩の読みはそんな彼女たちに匹敵し兼ねない。
そして今、戦場の最前線に身を置く斗詩の勘や判断力はその最高の状態にまで至っていた。
「…………盾部隊の皆さんは連合軍からの部隊の攻撃に注意を!
その他は本陣に吶喊した連合軍の部隊を囲みに掛かります!
後背は盾部隊に任せて素早く包囲を完成させます!」
敵が出てきたタイミング、部隊の兵数、将の構成などなど。
全てを理論立てて考えついた結果というわけでは無かったが、主に斗詩の勘が、かの部隊はまだ本気のものでは無いと判断していた。
結果、斗詩の号令によって動き出した部隊は事前の予定通りに包囲網を形成し始める。
それは反対の翼を預かる菖蒲よりも素早い動きとなっていた。
「雪蓮様!敵本陣に一度強く当てたらすぐに退却することを進言いたします!」
吶喊の最中、呂蒙が孫策に向けて声を張り上げる。
それは一線級の軍師としても育っている彼女の頭脳が警鐘を鳴り響かせていたからであった。
自軍の前方に見える光景は特別思うようなところは無い。
しかし、既に後方となった光景は今までの戦と全く異なる様相を呈していたのだ。
自分たちの部隊が通過するまで全く動く気配を見せなかった魏の両翼にも怖ろしいものを感じた。
そして、ふと見やれば相当な速度でその翼を閉じんと動き出していたのである。
しかも、その向こうには既に黄忠、厳顔、黄蓋の三人が出て来ている様子も見て取れる。
事前に立てていた策が前倒しになっている。それは敵の動きが想定以上であることを物語っていた。
「何を言ってるのよ、亞莎!張遼の奴怖れでも為したっていうの?!
一当て程度じゃあこの敵は釣れないでしょう?
それこそ曹操の奴に恐怖を覚えてもらうくらいの突撃はしておかないと――」
「雪蓮、私も亞莎の意見に賛成するわ。
ほら、後ろを見て見なさいよ。二当て以上は囲まれてしまうわよ?」
孫策たちの吶喊に対して魏軍の友軍を務める張遼が牽制や横撃を狙って交錯している。
これによって孫策は多少なり気が立っていたようだった。
しかし、孫策の言葉を遮って太史慈が呂蒙の言葉に賛同する。
太史慈の言に従って背後を見た孫策は思わず舌打ちしていた。
「ちっ!速いわね……
分かったわ、亞莎。一当てしたらそのまま反転して離脱する。
関羽たちには?」
「あ、はい。それはすぐに――」
「伝令でしたら必要ありませんぞ」
呂蒙の返答は三人以外の声によって遮られる。
遮ったのは趙雲。関羽と共に吶喊を掛けている蜀の将の一人だった。
「あら?趙雲じゃない?どうかしたのかしら?」
平然と答えるのは孫策。そこには全て分かっているかの如き余裕が感じられた。
「なに、簡単なことです。
こちらも愛紗を説得し、一当ての後すぐに撤退することを決めましたのでその報告をば、と。
ついでにそちらの御仁の説得も必要かと存じ、私が参ったのですが」
「あらあら、随分な話ね。私も引き際くらいは弁えているわよ。
これでも孫家の長女なのよ?」
おい、こら、しれっと嘘を吐くな、と太史慈は内心で苦笑する。しかし、思いはしてもそれを決して面には出さなかった。
そうなると趙雲も孫策の言葉をそのまま受け取っておくしかない。
「そうでしたな。失礼致しました。
呂蒙殿。あなたは武将でもあり軍師でもあるのですな?
でしたら、撤退の指揮はそちらにお任せしてもよろしいですかな?」
「あ、はい。それは構いませんが……聞き返すのは失礼かも知れませんが、そちらはそれでよろしいのですか?」
いくら連合を組んでいるとは言え、自軍の指揮を他人に預けても良いのか。そう問うた。
が、趙雲はふっと軽く笑みを作っただけで、何の気負いも無く言ってのける。
「どうやらここからの撤退は想定以上に困難になる様子ですな。
我々の部隊には状況に応じて細やかに指示を変化させられる者はおりませぬ故、呂蒙殿に指揮権を預けた方が成功率は高いと判断したまでですよ」
「……なるほど、分かりました。
それでは不肖この呂子明、蜀の皆さまの命も預からせていただきます」
「うむ。お任せ申した!」
約を取り付けるなりさっさと戻っていく趙雲を見送りながら孫策がポツリと漏らす。
「聞いてはいたけれど、油断ならない奴ね」
「客将が長かったからか、こういったことにもあまり抵抗が無いのかも知れないわね。
いずれにしても、ああいう考えを持てるのはその発想が自由ってことだと思う。雪蓮、あなたとは別の意味でね。
状況次第ではとても敵には回したくない相手よね」
しみじみと太史慈も続いた。
そのまま二人で趙雲の考察を続けそうな雰囲気だったが、これを呂蒙が破る。
「皆さん!もうすぐ敵本陣と接触します!
弧を描く様に駆け、すぐに離脱出来るようにしてください!」
意識は再び戦場に集中する。
「おいおい……冗談じゃろ?」
「確かに……ちょっと冗談だと思いたいくらいですわね」
龐統の指示で前に出てきて目にしたのは、よりはっきりと分かる魏の大軍。
事前に周瑜に聞いて想定していたよりも多いと思われるその数に、黄蓋は思わず愚痴を漏らしていた。
黄忠も同意するように口を開く。ただ、けれども、とその言葉は続いた。
「策次第で兵数の差は覆せるでしょう。こちらには朱里ちゃんや雛里ちゃん、雫ちゃんもいるし、そちらには――」
「冥琳に穏、亞莎がおるな。いざとなれば粋怜の奴も頭が切れる。
じゃが……少々不安は残るのぅ……」
黄蓋の声は確かに不安を帯びていた。
それは歴戦の将の勘が何かを警告してきているからかも知れない。
「おい、お主ら!横を見ぃ!
どうやら思わぬところから突撃を掛けてくる奴がおったようじゃぞ?」
突如厳顔の声が割って入り、即座に注意された方向に意識を向ける。
三人の将の視界には魏の翼から剥がれるようにして向かってくる騎馬部隊がしっかりと捉えられていた。
「あらあら……意外なところが釣れたわね。
馬の旗ともなるとこれ以上は厳しいわね。そろそろ退がりましょうか」
「うむ、そうじゃな」
馬の旗。魏軍で馬と言えば馬休か馬岱であり、どちらも名の知れた馬家の将。勿論ながら騎馬部隊。
三人が出てきたのは両翼のどちらかでも釣っておこうという策だったのだが、ここで変に欲を張ることは下策だと断じた。
前面に出た兵たちにもう一度だけ斉射させ、三人はあっさりと部隊を下げる。
「あれ?もう下がるんだ。
だったら皆、追撃だよ~!!」
蒲公英は突撃を掛けようとしていた黄忠たちの部隊が退いたのを見て即座に追い打ちを決める。
速度は緩めず、敵部隊を削らんとして――――はたと気付く。いや、気付いたというよりは直感が働いたという感じか。
「っ!待った!みんな、追い打ち中止っ!!すぐに部隊を反転して退くよっ!!」
蒲公英が突然指示内容を百八十度変更してもきっちりとそれに付いてこれる辺り、馬家の兵の練度は相当なものだったことが見て取れる。
と、それはさておき。
蒲公英の部隊が反転した直後、つい先ほどまで追っていた黄忠の部隊の向こうからすぅっと別の部隊が姿を現した。
そこに見えるのは周の旗。それが周瑜か周泰か、蒲公英にははっきりとは判断が付かない。
ただ、危うく罠の中に飛び込みかねなかったことだけは理解出来た。
「ふぃ~……あっぶなかった~……」
「ふぅ……指示は間に合わなかったけれど、蒲公英が気付いてくれたみたいね。良かったわ」
時を同じくして本陣でも零が安堵の溜め息を漏らしていた。
後方から見ていた零は蒲公英より先に敵の意図を読み取っていた。
ヒントは敵部隊の弾幕にあった。
黄忠、厳顔、黄蓋。それは蜀と呉を合わせた最強の弓部隊、その全てだ。
にも拘らずその部隊から来る弾幕の数は少ないように見えた。
牽制の意味合いが強いのか、或いは新兵が多いのか。
様々な可能性を思考する中、蒲公英の部隊が横撃を掛けようとした瞬間にその狙いが読めた。
出てきた将の錚々たる顔ぶれの割に、余りにもあっさりと引き下がったその理由。
恐らく魏の両翼の部隊を釣ることを目的とし、釣った部隊を誘い込んでの撃破を目論んでいたのだろう。
実際、よく見れば敵本陣に動きがあり、退く弓部隊の後ろに蠢く一団がある。
このままでは蒲公英が狩られる、と撤退の合図を出そうとしたその時、蒲公英は自らの判断で退いて事なきを得たのであった。
「桂花。前方があまり芳しく無いわ。
奴ら、主戦力を囮にこちらの動きを鈍化させて来ているみたいよ」
「そう……本陣の方も良いとは言えないわね。
恋と梅、それに春蘭がいるから本陣前の壁を抜かれはしていないのだけれど、予想外に敵が退くのが早いわ。
両翼の囲い込みは間に合いそうかしら?」
「……駄目そうね。斗詩の動きはまだしも、菖蒲の方が黄忠たちの影響を受けていたみたいよ」
戦場を見やれば、既に孫策も関羽も離脱を始めている。
霞が撤退させじと突撃をかまそうとしてくれているが、霞としても馬の足を止める訳にはいかない以上、一目散に逃げる相手の長時間の足止めは難しいだろう。
「……してやられたわね」
「まだよ!霞の横撃に鶸の追撃を重ねて、せめて一部隊だけでも討ち取ってやるわ!
工兵!鶸に合図を!短間隔三発、後一発!」
鶸の部隊への合図。翼を回り込み、手前へ食い込みながら横撃を掛けよ、とのもの。
この戦で多大な戦果を挙げられるかどうか。それはこれに賭ける形になるだろう。
「紫苑――」
「ええ、そろそろね。
それじゃあ行ってくるわ」
徐庶に名前を呼ばれ、黄忠は全て分かっていると頷く。
既に厳顔と黄蓋は自らの部隊員を整えており、いつでも出られるようになっていた。
「この後は撤退の予定ですが、仕留められる将がいれば仕留めておいてください。
戦果に関わらず、撤退の様相を作り上げることは出来ますから」
徐庶の言葉に一つ頷き、黄忠たちは再び前に出る。
それは今度こそ正真正銘の連合最強の弓部隊の姿であった。
「くっ……!張遼が厄介だな。
鈴々!張遼が来たらその攻撃を受け止めろ!
星!鈴々が張遼の足を止めたら我等で一気に討つぞ!」
「分かったのだ!」
「ふむ、承知した!」
孫策の部隊と並走する関羽が撤退の為に指示を出す。
張遼さえやり過ごせれば、との判断から簡潔な指示となっていた。
その理由は関羽の正面、視野内に入る光景にあった。
当然、関羽の見た光景は孫策の目にも映っている。
それを見て孫策はニヤリと笑んだ。
「祭たちが出てきたわね。だったら撤退の援護は十分!
亞莎!この速度を維持したら全員敵陣を抜けられそう?」
「は、はい!ですが、張遼による足止めを考えた場合、その停滞の時間によっては後方が――いえ、下手をすれば全部隊間に合わないかも知れません!」
「……なるほど。徐晃、魏一の用兵上手だから、か。
分かったわ。だったら張遼が来たら私が止める。亞莎はその間に兵を纏めて撤退させなさい」
「しぇ、雪蓮様っ?!ですがそれは――」
「だーいじょうぶっ!木春もいるし、ねっ?」
「あ~あ~、そうだと思ったわよ。
ま、安心なさいな、亞莎。私も雪蓮と一緒に残るから。
私たち二人だけなら、最悪囲まれちゃっても強行突破出来るだろうし」
「……分かりました。ですが、雪蓮様、木春様、どうかご無理だけはなさらないでください」
亞莎の前ではいつも軽い二人も、今この時ばかりは神妙な顔でうなずく。
これで蜀も呉も、吶喊部隊の撤退準備は万全となった。
「あいつら……もう撤退すんのかいな!
ちっと早いなぁ……けど、間に合わせたるわ!
おい、お前らぁ!大陸最速のウチの部隊の底力、今ここで奴らに見せつけたれやぁ!!」
僅か一当てで離脱を始めた連合軍の吶喊部隊に対し、霞は愚痴りつつも突撃を掛ける。
兵もしっかりと鼓舞し、その士気は上々。
しかし、やはり問題は時間稼ぎが難しいことだろう。
横を見やれば菖蒲の用兵が遅れている。
意外な状況になってはいるが、ここはどうにかして包囲網を間に合わせたいところ。
その為には霞の働きが鍵を握るはずだ、とそう考えた。
「合図が来ました!皆さん、突撃を開始します!」
鶸は零からの合図を聞くや、兵に指示を出して駆け始める。
元馬軍の騎兵の速度は速く、見る見るうちに翼を迂回して魏の兵の輪の中へ飛び込まんとする。が。
「馬休様!敵陣より先ほどの弓部隊が再び!
先ほどよりも数を増していますっ!」
兵の報告でそちらを見やれば、確かに退いたはずの黄忠たちが再び前に出て来ていた。
この速度で動いている騎馬隊に対して攻撃を加えられるのだろうか。そう思いもしたが、予め伝えられていた内容を思い出す。
黄忠と黄蓋の部隊に要注意。厳顔も危険度は高い。それは草が集めたという敵将とその部隊の評価を踏まえた注意喚起だった。
少なくとも将は当てて来る。
部隊を分けて囮を走らせるか、はたまた徹底的に無視するか。
対応に悩む鶸の耳に再び合図の音が聞こえてくる。
短間隔二発、長間隔二発。蒲公英の部隊への合図だった。
「っ!あの部隊には蒲公英が当たってくれます!
我々はこのまま陣内へ入り、敵吶喊部隊に奇襲の横撃を掛けます!」
鶸は迷いを捨て、合図を送った零とそれに応えるだろう蒲公英を信じることにした。
「もう一回か~。ま、今度は簡単には退いてくれないんだろうしね。
それじゃあ、皆、もう一回行くよ~。突撃ぃ~!」
零からの合図を耳にして蒲公英も再び黄忠たち目掛けて突撃を開始する。
両翼の邪魔はさせない。鶸の邪魔もさせない。それが出来るのは今この場では自分たちだけだ。
敵は蒲公英にとって強大。だが、いざとなれば逃げ切れる自身はある。
それに、と蒲公英はこっそりと”秘密兵器”を握り締めて内心で呟いた。
(これがあれば、逃げ損なうことはまず無いからね!)
「むぅ!騎馬の扱いに精通した部隊とは全く厄介じゃのう!」
「愚痴を言ってる暇があったらもっと迎撃なさいな、桔梗!」
「分かっておるわい!」
黄忠と厳顔が激しい弾幕を形成しながら言葉を交わす。
その部隊の交戦相手は再び突撃を仕掛けてきた馬の旗の部隊だ。
当初の目的である両翼の足止め、兵力削りは始めてすぐに断念する事態になってしまっていた。
「これでは策殿の撤退を援護出来るだけの兵を割くことは難しいのう。
まあ、冥琳の奴ならすぐに次の手を打っておるじゃろうがな。
おい、お主ら!策殿が撤退して来られるまでここを死守するぞ!」
黄蓋もまた機動力ある部隊を相手にすれば十分な余力は残せないと判断していた。
しかし、同時に自軍の軍師も能力も信じている。
故に、蒲公英の部隊の迎撃に全力尽すことを決めた。
「おらおらぁ!ウチの一撃食らってみぃやぁ!!」
「はんっ!甘いわよ、そんな攻撃っ!!」
猛然と突進して攻撃を仕掛けてきた霞に対し、孫策は自らの剣で正面から受け止める。
互いに得物を弾き合った後、双方の瞳に映るのは相手の獰猛な笑みだった。
「食い破って駆けぇ!!ほんでから反転してもっかいや!!」
霞は寸秒たりとも孫策から視線を外さず兵に指示を飛ばす。
誰も迷うことなくその指示に従う様子は孫策たちにとってあまり悦ばしくないものだった。
「へっ、どないしたんや?なんや浮かへん顔しとるやん?」
「へぇ、そう見える?だったらそれは、ここであなたみたいな好敵を一人失ってしまうことへの失望からかしらね?」
「ほぅ?言ってくれるやんけ。
んで?横から伺っとるそこの姉ちゃんも、ウチとやるってんか?」
「あらあら。気付かれちゃってたか。
まあね、うちの若殿様をこんなところで失うわけにはいかないからね。
私もあなたとは一度サシで戦ってみたかったけれど、悪くは思わないでね?」
霞は煽り合いながらも冷静に戦力分析を行う。
相手は孫策と容貌からして太史慈。呉でも実力上位と目される二人だ。
霞も魏ではトップクラスではあるが……
「こりゃあ、ちとキツイかなぁ……」
ボソリと呟く。
その声は非常に小さく、孫策たちまでは届かなかった。
霞に仕掛けて来る様子が見えず、孫策もどう動くべきか少し悩む。
と、部隊の前方をチラリと見やった太史慈が声を上げた。
「おっと。やってくれるねぇ、張遼。
あなた、まさか囮になった?」
「はっ!んなつもり無いわ!
あいつらはウチの優秀な部下やで!自分らのやるべき最上の仕事ってのを理解しとるだけや!」
太史慈が見やった先、部隊の先頭では反転した霞の部隊が孫策の部隊に食いかかっていた。
ただ、それは上手く流して部隊の足はほとんど鈍らない。
「ちっ……勿体無いけど、しゃあないな」
霞の言葉がどういう意味か、真意を解しかねる孫策と太史慈。
何より警戒したのは一刀がまた新たに変なものを作り出して霞に持たせていることだった。
何が来てもいいように防御の態勢を固める。それが二人にとって致命的な判断となった。
「次会ったら本気で死合ったるわ!」
短く言い残し、霞は一目散に退いていったのだ。
「あ……ちょっとぉ!逃がしちゃうわよ!」
「追わないよ、雪蓮?
ほらほら、こっちも早く撤退行動に移る!
早くしないと間に合わなくなっちゃうよ!」
太史慈に促され、渋々と言った様子で孫策は馬を駆けさせ始める。
そして前方に視線を移し――――
「祭ったら、どっかの部隊に捕まってるわね。
けど、冥琳はもう次の手も打ってくれたみたいね」
一目で現在の戦況を読み取って見せた。
太史慈もそれに頷き、応答する。
「ええ、みたいね。明命と、あれは蜀の魏延ね。
両翼をこじ開けさせるつもりかしら?」
「どっちでもいいわよ。私たちはとにかく走る。それだけよ」
「霞の足止めも芳しく無いみたいね」
「蒲公英を向かわせたから敵の弓部隊は抑えられるけれど、包囲が間に合うかは……厳しいわね、このままだと」
「そうね……こうなると、追撃の手についてどう効率を上げるかを考えないといけないわね」
桂花も零も、今回の戦は失敗だったと判断している。
このままでは向こうには当初からの目的を達成されてしまうだろう。
敵は撤退の形を取ることになるだろうが、実質これは損害を最小限で済ませた相手の勝ちと言えるだろう。
それだけに、二人の胸中には非常に悔しいものが溜まっていた。
「敵部隊に当たります!
部隊は左右に分かれながら敵兵を削ってください!その際、速度は極力落とさないこと!
横に抜けた後は円を描く様にして再度敵部隊の横っ腹を食い破ります!
霞さんの部隊と被りそうになった場合は注意を!最悪、攻撃を譲っても構いません!味方部隊との衝突だけは厳禁です!」
翼を回り込み、鶸は孫策たちの部隊を視界に捉えた。
その瞬間に即座に部隊の動きを計算して指示を出したのだった。
突然の騎馬部隊の登場に敵部隊に動揺が見られる。
ただ、それは軍師たちが想定していたよりも遥かに小さいものだった。
蜀軍・呉軍共に兵がよく統率されていることの証であった。
「お~、鶸やん。ご苦労さん!」
「し、霞さんっ?!え?!でも、霞さんの部隊は――」
「あ~、ちと孫策とかと火花散らしとってん。
取り敢えずウチはこのままウチの部隊戻って仕掛けるつもりやけど、自分はどないするん?
思てたよりも奇襲で足鈍っとらんで、あいつら」
奇襲を仕掛けた鶸が、敵部隊を擦過して行った先で霞に出会う。
単独行動であった霞に対して非常に驚くも、言葉を重ねるようにして問い掛けてきた霞の発言によって鶸の疑問はどこかへと消え去った。
「何度でも突撃するまでです。蒲公英も頑張っています。私も負けていられません」
「ま、せやんな。ウチもそうする、ってかそれしか出来んしな。
けどな、鶸。退き際だけは間違うたらあかんで?」
「勿論、分かっています」
霞の真剣な視線に鶸は神妙に頷く。
まだまだここは決戦の地では無い。それは霞も鶸もよく理解していた。
策が上々の結果を挙げられていないのであれば、無理をせずに退いて力を温存する方が良いのだから。
「分かっとるならそれでええわ。ほんならウチはもう行くわ」
「はい、お気をつけて」
魏の中で同じ騎馬部隊として信頼しているぞ、との証とばかりに肩をポンと叩いて霞は自身の部隊の方へと去って行った。
「むぅ……まだまだ暴れたりないぞ、秋蘭!」
「落ち着け、姉者。何度も説明されただろう?
主戦場はここでは無く、まだ先なんだ。今は無駄な体力を使わずに済んだと思っておこうではないか」
魏本陣にて。
関羽の部隊、孫策の部隊共に全てが去って行き、春蘭が不満を漏らしていた。
そしてそれを宥める秋蘭。最早見慣れた光景である。
「いいや!これでは温存どころか余るでは無いか!
なあ、季衣よ!お前もそうは思わんか?!」
「はい、思います!というか、ボクなんて敵が一人も来なかったんですよ!」
「もう!それはそうだよ、季衣。
春蘭様と秋蘭様、それに恋さんや月さん、梅さんまでもが本陣に詰めていて、華琳様の真ん前まで抜かれるなんてことは無いよ」
春蘭に同調する季衣を宥める流琉。こちらもこちらでまた見慣れた光景となっているものである。
「なあ、恋!お前もそう――ん?……んん?なあ、秋蘭、恋はどこにいったのだ?」
春蘭は更に恋にも話を振ろうとし、しかしその姿が見えなくなっていることに気が付いた。
春蘭に指摘され、秋蘭も気付く。
「む?確かに、いないな。それに、月もか」
「あっ、梅ちゃんもいなくなってる!」
「火輪隊の皆さんがいなくなった、ということみたいですね。これは……」
「うむ。みたいだな」
流琉と秋蘭は消えたメンバーから事態の大凡を把握した。
一体どういうことだ、説明を、と食い掛る二人を宥め、その予想を二人に語って聞かせることになる。
「くっ!まったく、鬱陶しい!!」
「まあまあ、そうかっかするな、愛紗よ。
確かに二つもの部隊にちょろちょろとされるのは目障りではあるが、こちらが足を緩めない限りは向こうが勝手に焦ってくれるのだからな」
「理屈では分かっているのだがな……
星、今ばかりは何時如何なる時も冷静なお前が羨ましく思う」
関羽は幾たびも突撃を仕掛けて来ては流れて行き、反転しては突撃してくる騎馬部隊に対して怨嗟の声を投げかける。しかし、これを趙雲が宥めた。
少しでも怒りに我を忘れ、ガップリと組んで騎馬部隊を撃退しようなどと考えれば、その瞬間に魏による包囲網の完成が確定してしまうだろう。
趙雲はそれをよく理解していて、決してまともに相手をするな、と警告したのだった。
「う~っ!鈴々も全然暴れたりないのだ!
大体何なのだ?!突撃を仕掛けるなら鈴々に一騎討ちを仕掛けて来いなのだ!!」
「残念だがいつまで待ってもそれは無いと思うぞ、鈴々。
敵の騎馬隊は確かに精兵を率いてはいるものの、数が圧倒的に少ない。
故に敵も馬の足を止めさせるわけにはいかず、こちらにとって幸運なことに攻撃が軽くなっているのだぞ?」
「鈴々は星みたいにお利口さんじゃないのだ!」
不満を溜め込んでいた様子の張飛がここでついに爆発する。
関羽に続いてこちらも宥めようとするも、趙雲の言葉は一蹴されてしまった。
どうしたものか、と考えていると、関羽が趙雲の援護射撃をしてくれる。
「鈴々、あまり我が儘ばかり言っていては桃香様のご迷惑に繋がるぞ?
それに、もしもこのことを”あの人”に告げ口でもされてみろ。どんな恐ろしいことになるか、想像が付くか?」
二人の人物を前面に押し出した関羽の説得。それは張飛に対して劇的な効果を発揮した。
みるみる内に張飛の顔は青くなり、咄嗟に言い繕う言葉がその口を突く。
「り、鈴々は何も言ってないのだ!我が儘なんて気のせいなのだ!!」
「うむ、そうだな。ならば、このまま速度を落とさず本陣へと戻るぞ!」
「おう、なのだ!」
あっさりと張飛は意見を変え、方針に従う意思を見せる。
普段は多少抜けているところが見られても、やはり蜀の筆頭武官は伊達ではないな、と趙雲は改めて自らの軍の将の頼もしさを感じていた。
「さ~って、と。そろそろ不完全なままの敵の包囲網を抜けちゃうわよ!」
「雪蓮様!両翼の先端は押さえますか?!」
「そうねぇ……あんまりこっちが足を止めちゃうのもなんだし、ちょっとやり込めたらそのまま退いちゃおっか」
「それがいいわね。向こう側は蜀の方でそれをやってくれるか分からないけれど、部隊の全兵を抜けさせたいならやっておいた方がいいでしょうね」
「というわけだから、亞莎、指揮よろしくね~」
「はい、承りました!」
孫策たちの部隊は既に先頭が魏の両翼先端を結ぶライン上に差し掛かろうとしているところだった。
この時点で魏の当初の予定は崩れ去っている。
ただ、連合軍の方も全てが予定通りというわけでは無かった。
それは予定より相当早くなった撤退のタイミングが明確に物語っている。
与えておきたい打撃はほとんど与えられていないままだったのだ。
一先ず、孫策たちはもう一つの目的、戦力を温存したままでの撤退を為すべく最良の行動を探る。
蜀への伝令も少し考えはしたのだが、この激化した戦闘の中においてそれは余計な鎖ともなり兼ねない。
結局、それは無しとなった。
蜀の動きを信じ、孫策たちは駆ける。
「うわ~……これはちょっとマズいかなぁ……
よし!みんな!そろそろ退くよ~!
次の突撃に合わせて”あれ”を打ち込んじゃって!
それを合図に撤退するから、みんなも遅れないように!」
弓部隊に当たっていた蒲公英が包囲を抜けようとしている孫策や関羽たちを視界に収め、撤退を決めた。
事前に渡されていた秘密兵器は撤退時には持って来いのもの。
即時撤退では無く次の突撃で撤退と決めたのは、秘密兵器の効果範囲に敵の吶喊部隊も入れることが出来ると踏んだからであった。
機を伺おうと今までより気持ち大きめに弧を描いて部隊を反転させる蒲公英。
これで幾度目か、敵の弓部隊を正面に捉えると、視界の端に敵の吶喊部隊も映る。
互いの速度を脳裏で計算すればドンピシャであった。
(よしよし!完璧!)
内心でほくそ笑みながら蒲公英は突撃を敢行する。そして。
「いっけぇ~!!」
蒲公英の合図で秘密兵器が投擲された。
敵部隊は一瞬間、得体の知れないそれに気を取られ、しかしすぐに警戒の色を強める。
秘密兵器の落下予測地点付近の兵が割れ、防御態勢も取られた。
その対応の早さは賞賛に値する。が。
(それ、無駄なんだよね~♪)
蒲公英の心中の呟きに合わせたように、秘密兵器が炸裂した。
秘密兵器の正体は、”花火”。つまり、この場合は小型の爆弾と言い換えても良い。
ただし、これは敵兵の殺傷を狙ってのものでは無い。
花火を使用した本命の目的は、その爆音。
普段、どころか戦場であってさえ、耳にはしないような大音響が、それも至近距離で発せられるとどうなるか。
「きゃあっ!?」
「くっ?!」
黄忠の悲鳴や黄蓋の戸惑いを含んだ声が響く。それ以上に無数の兵たちの声と共に。
加えて、数多の馬の嘶きの大合唱が場を満たした。
敵部隊の馬は花火に驚き、制御が困難な状態に陥ったのである。
「よし!退くよ~っ!!」
蒲公英は即座に部隊を反転させ、自陣を目指す。
蒲公英の策は完全に嵌まった。嵌まったのだと考えていた。
故に。
それが蒲公英にとって致命的な油断となる。
突如、花火よりも遥かに小さな、しかし明確な爆発音が聞こえた。
その音の発生源を確かめようとした蒲公英は振り向きざまに驚愕する。
己の身体目掛け、鉄杭が飛来していたのだ。
「ぅぐっ……だっ……」
「馬岱様っ!!」
防御が間に合わず、蒲公英はその攻撃をまともにその身に受ける。
しかも、攻撃の威力によって落馬してしまったのだ。
蒲公英の兵も慌てて蒲公英を拾おうとするも、駆け出し始めた馬上からそんな真似は出来ない。
絶対絶命のピンチ。蒲公英の脳裏は驚愕と混乱と焦燥で満たされてしまった。
上手く働かない頭が耳に飛び込む音声を必死に解読しようとしている。
「残念じゃったな、小娘よ。儂の部隊は生憎、ああいう手の音には慣れておるのよ」
厳顔が発するその言葉の意味を理解した瞬間、蒲公英は全身の血の気が引くのを感じた。
やらかしてしまった。まさにその一言だ。
「紫苑!黄蓋殿!主らは愛紗や孫策殿たちと共に退け!
殿は儂が勤めようぞ!」
厳顔の言葉に応えて敵部隊がバタバタと去って行く様子を感じ取る。
それをどうにかしようとすることも、今の蒲公英には出来なかった。
(ヤバい……!これはヤバいって!
動け、動けっ!)
どうにか体を動かそうとする蒲公英。
しかし、厳顔の攻撃をまともに受け、しかも落馬の衝撃まで加わった蒲公英の身体はまるで動かなかった。
それでも諦めず、どうにか立ち上がろうとする蒲公英の耳に、無情な足音が近づいてくる。
「う~む……全く、恐ろしい武器を持っておったもんじゃ。
紫苑や黄蓋殿を見て分かる通り、普通の部隊が相手であれば効果は絶大なものだったろうな。
改めてこう言っておいてやろうか。惜しかったのぅ、馬岱よ」
ギリリと蒲公英は歯を食い縛る。
まだやれることはあるはずだ、と。最後の時まで決して諦めない、と。
伯母や従姉妹と袂を分かってまで魏の下に馳せ参じたのだ。例え志半ばで倒れようとも、その過程に無様は見せない。
馬家に生まれた者としての意地とある種の諦観から、蒲公英は心のどこかでは無駄と知りながらも抵抗を試みていた。
「お主は生かしておくと厄介そうな奴じゃ。
悪いが、ここで仕留めさせてもらうとしよう」
厳顔の死刑宣告が聞こえてくる。
蒲公英の身体は未だに力がほとんど入らなかった。
(だったらせめて、目を見開いたまま死んでやる!)
絶対に目を逸らさない。そう覚悟を決めた蒲公英。
その覚悟が、有り得るはずの無い光景をその眼に焼き付ける結果に繋がった。
「ぐっ?!な、何じゃとっ?!」
「……ぇ?」
蒲公英の命の灯を吹き消そうと振り上げられた厳顔の腕は、その肩口に突如突き刺さった矢によって軌道を盛大に狂わされたのであった。
「……命中」
「お見事です、恋さん。
さあ、皆さん!敵部隊への追撃を開始します!
火輪隊の機動力と火力を存分に見せつけてあげましょう!
梅ちゃん!盾部隊の指揮をお願いします!」
「承知致しましたっ!!」
魏軍の丸まった翼。
その外側から回り込むようにして一つの部隊が最前線に姿を現していた。
その部隊こそ、本陣から消えた火輪隊。
そして、蒲公英の命を辛くも救ったのは恋が放った遠弓であった。
厳顔の動きが止まったことを確認すると、月は部隊に指示を出す。
元董卓軍でもある火輪隊は月の命によりその力を二割も三割も増して行動へと移り始めた。
そんな中、月はかつての自らの腹心でもあり、長年の親友でもある詠に問い掛ける。
「詠ちゃん、蒲公英さんをお救いしたいけど、出来るかな?」
「ちょっと厳しいけれど、出来なくは無いでしょうね。
尤も、厳顔が死を覚悟しなければ、だけど」
詠が話す間にも恋がもう一射。
それは厳顔に対する牽制射撃であった。
視界の遥か先では堪らずといったように厳顔が下がる。
その様子を見て詠は一つ頷いた。
「どうやら大丈夫そうね。
なら、恋。あんたはこのまま、まずはこの場で厳顔を釘付けにしておきなさい。
それで、月。あなたの射程圏内に入ったら可能な限り連射を続けて。
恋はその機に敵陣に突っ込んで蒲公英を回収する。いい?」
「……ん」
「うん。ありがとう、詠ちゃん」
策が立てば即座に行動に移る。その意思疎通は非常に早い。
恋の牽制は精確で、厳顔は手傷を負わないようにするので精一杯。とても蒲公英を始末しようとする隙を見つけられなかった。
そうこうしている間に別の角度から矢が雨霰と降り注ぎ始める。
月が攻撃を開始したのだ。
その手数の多さに厳顔は辟易とする。
遅れて追いついた盾兵を前に回し、まだ隙を見つけようとする。
が。
「……蒲公英、返してもらう。それじゃ」
「なっ……?!くそっ!速すぎるじゃろうがっ!!」
赤兎が本気で駆ければ見えている範囲などほんの一息の距離のこと。
恋は見事に蒲公英を拾い上げてすぐに離脱を果たしたのだった。
「ちぃっ!!じゃが、仕方が無い!
儂らも退くぞ!奴らが追ってこれんように牽制をせい!」
厳顔は舌打ち一つだけで切り替え、撤退指示を出す。
初戦最終局面、火輪隊と厳顔の部隊が戦火を交える。
「弾幕を絶やすで無い!
退がる者はさっさと距離を取り、他の者の撤退に手を貸せぃ!
全員、死にたくなくばキリキリ動かんか!!」
厳顔が檄を飛ばし、連合軍の殿部隊は高く保った士気で見事な撤退戦を繰り広げる。
さすがに魏の軍師陣から要注意対象の一人に挙げられるだけあり、その部隊の実力は高い。
部隊の息が合った矢の弾幕は敵の接近をそうそう許すことは無いのだ。
しかし、それは今回の相手に限り、効果は薄い。
火輪隊は厳顔達にとって嫌なことに、無理に突っ込んでくることは無かった。
相手もまた、遠距離部隊らしく弾幕を張って来る。
ただそれだけなら、厳顔も苦い顔はしなかっただろう。ところが、現実に厳顔の顔は曇っている。
その理由は明らかで、火輪隊はその弾幕能力に加えて高い機動性をも有していたからだ。
「厳顔様!奴ら、捉えきれませんっ!」
「無理に狙おうとするな!
敵の進行方向に弾幕を張って飛び込ませるんじゃ!」
指示を出しつつも、それすら難しいだろうと厳顔は思う。
機動力と連射力。敵はその手に持つ奇妙な弓と騎馬でそれを両立しているのだ。
その得た利を最大限活かし、こうも様々な角度から弾幕を張られては堪ったものでは無かった。
厳顔自身、負傷しているのが痛い。
「ぬぅ……ここは多少なり無茶を通すしかあるまい。
皆の者!儂の次の一撃と共に駆けぃ!」
このままではジリ貧になる。そう判断し、厳顔は一種の賭けに出ることにした。
そのタイミングを窺う。
幸いにも機はすぐに来た。
「ぬぅぅぅぅ………………はぁぁっっ!!」
火輪隊が再び集ったその瞬間、厳顔は全力を込めて鉄杭を撃ち出す。
氣を利用した武器の特徴、威力の増大を最大限にまで引き上げての攻撃だった。
「っ!!全隊、緊急回避っ!!」
想定外の攻撃に焦った梅の声が響く。
それは火輪隊の隊列を千々に乱した証だった。
既に走り出した厳顔の部隊も、これで無事に逃げ切れる。
そう踏んで一安心した――――その心の隙を突かれた。
「…………儂も耄碌したということかの……」
ドスッという音を立てて厳顔の背に突き立った一本の矢。
それは再び戦場に舞い戻り、遠方から狙撃の機会を狙っていた恋の放ったものであった。
「厳顔様っ!!」
「ぬっ……悪いのぅ……」
厳顔にとって幸いだったのは、自身が最後尾では無かったこと。
恋の次の矢が飛来するより早く、厳顔の一大事に気付いた部下が彼女を拾い、去って行くこととなった。
「ふぅ……図らずも、自然な敗走になってしまいましたね。
雛里、本陣も退きますよ」
「は、はい。皆さん、撤退を開始してください!」
敗走を演出すべく動き方を考えていた徐庶は、その必要が無くなったことに溜め息を吐いていた。
それは複雑な気持ちの入り混じったもので、一概に良かったとも悪かったとも取れない。
それでもキビキビと撤退の指揮を執り始めていた。
「亞莎、戻って早々悪いが、ここで撤退だ。
このまま撤退の先頭を任せる。後方は私が受け持とう」
「はい、分かりました!」
蜀と同じく、呉も撤退を決定する。
戦果の評価は後回しに。
今は諸葛亮の策を信じ、彼女と陸遜がいるはずの地まで退いていくことを考えるのみだった。
斯くして大陸の覇権を争う初戦、その本戦は痛み分けの結果に終わる。
しかし、これはどちらにとってもまだまだ序の口。
互いにほとんど手の内は見せていない戦いであった。
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第百三十三話の投稿です。
初戦、開幕。
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