「式姫の誰一人として居ない庭か」
静謐の裡に佇む木々や建物。
吹く風が葉を揺らす音どころか、散る花びらが地に舞い落ちる幽かな音すら聞こえそう。
端然と座して書き物をする鞍馬、墨を摺り、筆が紙の上を走る音が静かな居室に響く。
駆け回るレヴィアや白兎やコロボックルや飯綱の喚声が庭を満たす。
厨で鈴鹿御前や三日月が立ち働く気配が、温かい料理の湯気と良い香りと共に屋敷に漂う。
縁側で、仙狸と猫又が日を浴びて目を細める。その周囲の空気は、時が止まったように暖かく。
興の趣くままに、何処かで奏でられる、かるらの龍笛の音が、風と共に涼気を伴い吹き抜ける。
ひたすらに鍛錬に打ち込む、蜥蜴丸とフレイの稽古のとよみは、どこまでも熱く。
ゆったりと尾を揺らしながら、釣り糸を垂らすくらかけみやの耳が、せせらぎの中で魚の立てる音にぴくりと動く。
そんな式姫の庭は、今はもう無い。
「そうだな」
手にした杯を空中で止めて、かって喧噪に包まれていた庭に、彼は穏やかな目を向けた。
その横顔は、何処までも静かで優しい。
「お主」
こうめが、男の視線を追うように、庭に目を向ける。
ずっと、自分たちの帰る場所だった庭。
遠征、諜報、探索、修行、休息、色々な理由で、あちこちに赴いた。
時に共に大戦に臨み、時に一人で動き。
疲れ、傷ついた者たちを、この庭はいつでも優しく待っていてくれた。
(お帰り、皆、お疲れ様)
もう、おそらく帰る事の叶わない、わしたちの家。
「ご主人様……」
小烏丸の声が、僅かに潤む。
彼女もまた、自分と同じ寂寥を抱えている事が、その声に滲んでいた。
わしは、やはり。
「我慢すんな、こうめ」
いつ席を立ったのか、彼の手が頭を包んでくれていた。
共に戦場にある時だけでは無くて、彼は、ずっとこうして皆を支えてくれていた。
陰陽の術を振るい、その知や力で式姫を従えてきた、陰陽師達とは違う。
式姫たちをこの世界に召喚する事も出来ない。
術を操り、妖を調伏する事も出来ない。
でも、彼女たちが崩れそうな時は、背中を支えた。
後ろを向きたくなりそうな時は、前に向かうように、手を引いた。
泣きそうな時は優しく包んでくれた。
もう……だめ。
皆に申し訳無いから、我慢しようって、甘えてはいけないと思っていたけど。
「わしはっ」
「悪い事なんぞ何もねぇよ」
無骨な手が、繊細なこうめの髪の毛を梳る。
あやすとか、そういう子供扱いするそれとは違う。
ここに居ると。
何が有っても共に歩むと。
頭を包み込んでくれる、その暖かさと一緒に、彼のその思いが心に染みこんでいく。
「ありがとな……泣いてくれて」
上げた目に、切なそうだけど、それでも穏やかに微笑む彼の笑顔が映る。
色々な思いが一度に溢れて、喉が震えるだけで声にならなかった。
ただ、瞳だけが熱い……
堰を切ったように、胸に縋り付いて泣き出したこうめに、彼は静かに語り掛けた。
どれほど自分が、こうめたちと共に戦えて良かったと思っているか。
あの日、この庭に逃げ込んできたこうめ達のお陰で、無為に生きてきた時間を終わらせる事が出来た事。
その後の戦いの中で、父や母が残してくれた思いを継ぐ事が出来た事を。
その中で沢山の人や式姫と、様々な出会いが出来た事を。
だからな、こうめ。
「全部泣いて……涙はここに置いていけ」
一人で歩き出そうと決めた、だから流すその涙を、追憶の庭に置いて。
お前は未来に歩いて行け。
大地が鳴動する。
地震というのも足りない、それは大地による、天への反逆の意思。
「滅茶苦茶ですわ!どうして地龍がこんな動きをするんですの?!」
「地龍なのは確かだが、ここに封じられていたのは、単なる地震を起こす龍じゃねぇんだ……」
あの時、主と式姫という約を結んだ時に、彼女に告げられた事。
ここに封じられているのは、君らの知る地龍じゃ無いんだよ。
「ご主人様、どういう事です?」
ここにボクらが封じたのは、黄泉の黄龍。
「建御雷が封じていたのは、かってこの地を制していた龍の王」
あの妖狐は、そいつを復活させるべく動いていた、金毛九尾の大妖狐の尻尾の一本に過ぎない。
「では……それが復活してしまったら」
奴らは、人跡なき神代の時代に行われた、神々の戦いの再来を画策している。
「高天原にいます神々と、龍達の戦いが再び起こる」
炎神、火之迦具土が世界を焼き払い、雷神、建御雷が天を引き裂く。海神、素戔嗚の力で、海は裂け荒れ狂い、月光の化身、月読は夜闇すら凍てつかせ、日輪の化身、天照の放つ光は矢となって、あらゆる物を貫く。
「巻き込まれたら、人や獣なんぞ、ひとたまりもねぇ」
そんな戦いになってしまうだろう。
「それが……そんなのが、今目覚めたって事かよ?」
だから、ボクが、今一度、奴を封じてみる。
「いや、まだ少しは大丈夫……」
でも、今のボクでは、封じると言っても、時間稼ぎにしかならない。
「お兄ちゃん、まだ少しって?」
故に君たちに、頼む。
「いま少しの猶予を、建御雷が作ろうとしてくれてる」
「猶予」
「な……何ッスか、あれ」
何か口を開こうとした天狗より先に、狛犬の驚愕する声が辺りに響いた。
「山ッス!山が出来て、動いてるッス!」
「山って、んな訳ねぇだろ、こま……」
狛犬の指差す先を見て、悪鬼も言葉を失った。
庭の外で大地が隆起し、上空の建御雷に向かい、一直線に伸びていく。
「あれが、黄龍」
「……大きすぎますわ、何もかも」
天狗と小烏丸の声が、本人も気付かぬ内に畏怖に震える。
見ただけで判った。
狛犬の言は正しい、これは動き出した山その物。
この存在の前では、彼女たち、人を超越する式姫の力ですら、蟷螂の斧でしか無い事を。
ボロボロと黄龍の身体から岩や土が剥がれ落ち、隙間から覗く金鱗が、月光と建御雷の雷光に、鈍く輝く。
伸ばした長大な体が、大地から抜け出し、真っ直ぐに仇敵を目指して空に駆け上がる。
「危ない!」
その口が大きく開き、建御雷を呑み込もうとする、刹那。
「豪天即断!」
耳を聾する雷鳴と共に、一筋の光と化した建御雷が大地に向かって迅り、龍の顎と正面からぶつかり合う。
だが、妖狐の時とは違い、雷光は龍を貫けず、龍もまた、建御雷を喰らわんとする顎を閉ざす事が出来ない。
力が拮抗する。
黄龍の口から、己を封じた者達への、無限の呪詛を示すかのように吹き上がる炎が建御雷を焦がし、建御雷の放った神威の雷の余波は黄龍の身体を蹂躙し、眩い金鱗を打ち砕く。
「す……すっげ……」
「まさに、神代の戦いですわね」
揺れの収まった地面の上で、式姫達が茫然と空を見上げる。
最早、自分達すら付いて行けない、次元の違う戦いを、見守るしか出来ない。
だが。
「……あの口、少し閉じてきてませんか」
「やべーな……」
「……うん」
白兎の表情が硬い。
射手として、視力に優れている彼女には、他の皆よりはっきり見える。
苦しげに歪む、建御雷の顔と、徐々に閉じようとする黄龍の顎。
「不味いな」
男が上空を見上げて、食いしばった歯の間から呻く。
建御雷が押されている事が、彼女の主たる彼には手に取るように判る。
そして、自分が今、その手助けを、何も出来ない事を……。
畜生、俺は。
ぼすっ。
知らず、震えていた身体。
その下腹部に、気合いを入れるように、小さな拳が叩きつけられた。
庇うように抱えていた少女。
「こうめ?」
「わしらに出来る事はなんじゃ」
「出来る事って、あれを見ただろ……そんな物」
「ならば探すんじゃ、ぽかんと口を開けて、味方が不利な戦を見ておっても仕方無かろうが!」
そこで、こうめは笑みを浮かべた。
「と、わしに説教したのは誰じゃった?」
「……ちげぇねぇ」
雷霆と、動き出した大地がぶつかり合う、神々の戦い。
その狭間で自分が出来る、僅かな事を把握し、それを実行する。
なんだ……当たり前の事じゃねぇか。
自然の暴威に、ささやかな力を、先祖の累々たる屍の上に積み重ねて抗ってきた。
それが人の営為。
例えどれほどの力を得て、式姫の力を借りられると言えど……俺は、人だ。
「みんな聞いてくれ」
茫然とした様子で空を見上げていた式姫達が、男に顔を向ける。
その顔が一様に固い。
「何ですの?」
「建御雷の援護をする為に、皆の智恵を借りたい」
「狛犬のッスか?」
「アタイのも?」
智恵という言葉と縁遠そうな二人に、だが男は笑み掛けた。
「おう、皆のだ」
その言葉に何かを感じたのか、天狗が僅かに表情を緩める。
「バカ悪鬼と同列に並べられるのは心外ですが、お望みとありましたら、私の智恵をお貸ししますわ」
「鳥アタマ貸してどーすんだかな」
「何ですって!」
「やるか!」
まぁまぁ、と苦笑しながら、男がごく自然に二人の間に入り、その肩を押さえる。
「喧嘩は後で存分にやってくれ、今はその『後』を作るのが先だ」
「……確かに、バカ悪鬼で遊んでいる場合ではありませんわね」
「けっ、後で吠え面かかせてやらぁ」
その様を、こうめはどこか嬉しそうに眺めて居た。
男も天狗も悪鬼も自覚は無いようだが、その姿には、確かに式姫とその主たる者の持つ、自然な繋がりが見えた。
(わしは間違っておらなんだな、おじいちゃん……)
「ですが、ご主人様……正直に言いまして、この事態は私たちの手には余ります」
小烏丸の弱気な言葉に、だが、男は頷いて見せた。
「そりゃそうだろ、真面目に何とかしようとするなら、あの黄龍はデカすぎる……けどな」
そこで言葉を切って、男は何処か悪戯小僧のようににやりと笑った。
「デカくて偉そうで、正攻法で勝てない奴には、嫌がらせぐらいはしてやりてぇのが、人情ってモンじゃねぇか?」
「……ふふ、良い性格をしてらっしゃいますね」
「ほんとにね、私は悪戯大好きだから、お兄ちゃん公認は嬉しいけど」
天女と白兎が何処か晴れやかに笑う。
不思議に、あの大地からのどす黒い力の波動が、今は怖くない。
恐怖は、それを正視する事を妨げる感情。
ならば、それが退いた今……私は。
「あんにゃろーが嫌がることか」
「嫌がる事、嫌がる事……おやつに塩を掛ける、とかッスか?」
「肉を焦がすとか」
「嫌ッスね」
「嫌だな」
「おやつをしょっぱく」
「飯に嫌がらせか」
白兎と男が同時に黙り込む。
「嫌がらせと言いますか、補給を断つのは常道ですけど、あれは食事をしている訳では」
「食事……してます!」
天女が珍しく、興奮気味に天狗の言葉を遮って、男に顔を向けた。
「ご主人様も判りますよね、あれに流れ込むこの辺りの気の力」
「そうじゃ、お主はこの庭の気の流れを操れるじゃろ! それを止めれば」
「目覚めたばかりで、力を必要としている相手には、最高の妨害になります、ご主人様」
皆の視線が、男に期待を込めて向く。
だが、それに男は苦い顔を向けた。
「……悪い、それが出来ねぇんだ」
「出来ない?」
「ああ、それはやってみようとしたんだが、流れ込む力が強すぎる……俺では止められん」
あの気の流れは既に、あの飢えた黄龍の力に引かれて、奔流となって流れ込んでいる。
人の作る堤防が、嵐によってもたらされる濁流の前では、ほぼ無力のような物。
「ししょーでも駄目か……」
「……それは、厳しいですわね」
「何かそれ以外で」
男の言に落胆する一同の中で、天女だけが、一人涼しい顔をしていた。
「あの、凄まじい力を止めるのが無理ぐらい、私にも判ります」
あの大樹に触れてこちら、彼女もあの大樹と建御雷が封じていた黄龍の力は良く判っている。
「判ってて何で」
「ご主人様も仰ったじゃ無いですか」
天女が、その温厚その物の顔に、精一杯の悪い笑顔を作る。
「そういう力が通じないからこそ、嫌がらせをするんですよね?」
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タケミの技、かくりよの門から借りちゃいました。
第一話:http://www.tinami.com/view/825086
第二話:http://www.tinami.com/view/825162
第三話:http://www.tinami.com/view/825332
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