キミは大きな門の前に立っている。他には何もない。古びた門構えだがキミの背よりも随分と高く、睨んでいるような厳つさがある。その先端は侵入者を警戒するように鋭く尖ったデザインになっていて痛々しい。キミは少し戸惑いを覚えるが、門の向こう側の世界に呼ばれている事を思い直してゆっくりと手を掛ける。押してみるとやはり古びた音がして、厳つい門はすんなりとキミを招き入れた。
目前には美しく広大な庭が広がっていた。道の両側には暖かな陽光に照らされた様々な草花が植えられていて、極彩色に光っている。足を一歩踏み出すごとに花の匂いが香って、それは懐かしい匂いから新しい匂いまで実に多彩な匂いが鼻孔をくすぐった。同時に耳元を虫が通り過ぎ、その羽音にキミは驚かされる。気が付けば多くの虫や鳥達が木から木へ、花から花へと舞っていてとても賑やかだった。今日は恐ろしく天気がいい。キミは空を見上げる。青い海は少しばかり雲を乗せて回るばかりで陽射しを遮るものがない。そして前方を見やると歴史と風格を漂わせる大きな建物。アーチ状の窓がたくさんあって、どれも空の青さに染まっている。キミは赤レンガが敷き詰められた通路を一歩ずつ踏み出した。靴の方から聞こえるコツコツという音が落ち着きを与える。程無くして玄関へと辿り着き、キミはキミの背の倍以上もある大きな木の扉の前に立った。遠慮がちに叩く。応答は無い。深呼吸を忘れずにキミは古びた扉を開く。
屋敷内部は薄暗かった。背中の扉を完全に閉めてしまうとあとはカーテンに遮られた窓から陽光が滲むくらいで、目が慣れるまでに少し時間が掛かった。しかし内部は外観からの想像以上に広かった。玄関ホールは吹き抜けで、天井にはよくわからない複雑な模様が描かれている。中心部分には虹色のステンドグラスがあしらわれていて、淡い光が鮮やかに漏れていた。正面には大きな階段が二階へと続いている。光沢を帯びた手すりは多くの人が手を添えた事を物語っていた。次第に目が慣れ始めた。キミはぐるりと見回すが人の気配は無い。よく見ると四方の壁には色鮮やかな絵画が並べられている。ドレスをまとった幼い少女(微笑んでいる)。青空とひまわり畑。重厚な騎士の休息。蒸気に包まれた巨大な駅構内。そのどれも繊細な油絵で描かれていて、キミはじっくりと見てやりたい誘惑に駆られたが、思い留まって中央へと歩み出る。そこで大きな正面階段の脇から色濃く太陽が溢れていることに気付いた。外への扉が僅かに開いているのだ。今もそこから弱い風が流れていて、薄暗い廊下の向こうへと散らばっている。キミは光に誘われるように近付いた。腐って変形しているのか、まるで鉄のように重く古びてしまった木の扉をぎりぎりと開いた。
すると中庭に出た。四方を背の高い二階建ての屋敷に囲まれた広い庭だ。茶色の壁面は乾いていて、下の方にいくと風化して崩れている箇所もあった。しかし建物に大きな影響は無いようで人に使われた風情が漂っていた。キミは少しだけ前に歩み出る。中庭の中央には大木といってもいいくらいの大きな樹木が青々と伸びて、その大きな影はキミをすっぽりと覆っている。建物よりも背が高いかもしれない。そんな大黒柱に守られた地上では樹木を巡るように道が整備されていて、赤や黄色の色鮮やかな花や大小の樹木が人の目を飽きさせない様に植えられていた。きっとこの屋敷の庭師はとても優れた造園技術を持っているに違いない。庭園はその家の安らぎでもある。キミは恵まれた環境でのびのびと育つ草花に目を奪われながら先へと進んだ。
裏口から再び中へ入る。そこは豪華な作りの玄関ホールとは違って簡素な廊下が続いていた。いくつか部屋が見えるが一番近い所の部屋は倉庫らしく、開け放たれたドアから農機具やら工具、ボロボロの麦わら帽子などが見え雑然としていた。キミは奥まで覗こうと背を張るが暗くてよくわからなかった。諦めて廊下に視線を戻し、ふとそこに光が溢れていることに気付いた。この廊下には多くの窓が備え付けられているのだ。窓から先ほどの中庭も見える。居住者の目を楽しませるために、中庭に向けて窓を多く配置しているのだろう。東西へと伸びる廊下いっぱいに光が落ちていて、キミは光に照らされてできた色濃い影に目を奪われた。薄汚れた白い壁を手で触れながら、キミは光と影の中を歩き始めた。長い廊下にコツコツと足音が響く。それはキミの足音でキミ自身にしか聞こえない。それ以外はとても静かな世界だった。中庭での動植物の営みはまだ続いているはずだったが、窓を隔てたキミの耳には届かない。耳を澄ませば時間が止まっていることに気が付くかもしれない。
そこへ微かに電話のベルが響く。少しでも気を抜けば自分の吐く息に邪魔されて聞こえなくなりそうだけど、耳を澄まして集中すると確かに電話の呼び出し音が聞こえてくる。ジリリリリン。しかし一体どこから響いてくるのか分からない。まるで遠い場所のような、しかしすぐ側の部屋から聞こえるような、音の正体は曖昧で距離感が掴めない。この瞬間も聞こえたり聞こえなかったりして、もしかしたら幻聴ではないか、とキミは思い始める。静寂な雰囲気に影響されて過去の記憶から浮かんできた幻なんじゃないだろうか。やがてベルの音は止んだ。陽射しのまどろみの中に吸い込まれてしまったように、今はもう聞こえない。幻聴という結論に落ち着きたかったが、キミはそれが間違った見解であることを理解していた。この場所へは呼ばれて訪れた。電話の呼び出し音を無視するわけにはいかない。でも音が止んだということはまだ猶予はあるようだ。再びキミは微風に揺られるカーテンの中を通り過ぎ、固くてひんやりとした床を踏み鳴らした。足取りは重くもなく軽くもなく。ただ必要以上に足音を立てないように気を付けることにした。せっかくの静寂に大きすぎる足音は無粋だ。キミはそう考えた。
やがて階段から二階へと上がる。階下と同じように窓から光が射していたが、一階に比べると二階は薄暗かった。どうやら木目調で仕上がった壁や床の色がそうさせているみたいだ。一階では白いペンキとタイルなどが乱反射して明るい空間を生み出していたが、二階は射し込んだ光が壁や床に溶け込んでいる。華やかさはないものの、どこか懐かしく非常に落ち着いた雰囲気が流れていた。窓からは中庭がよく見える。中心に植えられた大木もすぐそこまで迫っている。窓からの暖かい陽射し。ヒヤリと冷たいガラスに手を触れる。おでこをくっつけるように外を覗き込む。視線を大木の下から上へ。やはり建物よりも少し大きいようだ。キミは満足してガラスから手を離した。
廊下の中央に戻り東西に伸びる長い廊下を見回す。今はちょうど屋敷の奥側といった所か。この屋敷は大木をぐるりと囲むように建てられている。長い廊下で囲っているのだ。キミは頭の中で四角い箱を思い浮かべた。真っ白の無地に立方体の箱が置かれる。キミなら何を入れるだろうか。この大きな屋敷は大木をその中に収めていた。きっとこの屋敷を建てた者はこの大木に魅せられたに違いない。青々とよく茂る枝葉。力強く天へと伸びる幹。なによりもその巨大さは中庭を覆うほどのものである。まるで神話の一ページに描かれそうな。あるいは悪政に立ち向かった騎士の休息場所のような。大木は雄大だがどこか神々しく、想像も及ばぬほどの多くの人々に見守られてきた印象を受ける。キミは廊下を東に進みながら大木の姿を眺めた。あるいは一際大きな木というものには人智を超えた不思議な力が秘められているという。確か精霊が宿るとかいう話だ。思い起こされた古い言い伝えにキミは笑う。空想の話だ。何の根拠も無い。だがこうして天からの陽射しに青々と枝葉を広げる大木を眺めてみれば、空想の話にも現実味が帯びるから不思議である。
次第に古びた廊下は薄暗くなっていく。窓を隠す大きなカーテンのせいだ。隙間から零れる光が埃の粒子をキラキラと光らせている。それは午後の光。キミを出迎えた朝の光ではなく落ち着いた午後の光。カーテンは全体的にぼんやりと輝いていた。その正面にあるドアの取っ手に手を掛ける。開けてみると大きな寝室だった。キミは恐る恐る歩み出てドアを閉めた。
清楚な作りの部屋だ。キミの足の二十歩くらいの広い空間に、真新しいシーツに包まれた大きな寝台がある。天井からは小さめのシャンデリアがぶら下がっていて、室内の鼓動に合わせてじっと静止している。壁際にはアンティークな家具に様々な調度品。どれも埃を被ってはいるが本来の価値を主張するかのように弱々しく輝いていた。キミは部屋の隅に置かれた革張りのソファへゆっくりと腰を下ろした。側の窓から風が入り込んで、揺られたカーテンの隙間から光が覗く。ふわりと動いてキミの置かれた手に熱を与えた。ソファに深く沈み込んで背を預ける。正面には豪華な額縁に納まった大きな油絵。この屋敷を正面から捉えた絵で、絵の中には先程通った正面玄関に真っ青な青空が描かれていた。目をこらしてみると小さな人影が庭園に紛れている。麦藁帽子を被った、背中しか見えないが何かを追いかけるように絵の奥へと走って行こうとする少女の姿。この屋敷の主人の愛娘であろうか。キミは思い出す。そういえば玄関ホールに飾られた油絵の中にも少女はいた。キミは肩の力を抜いて部屋の全景を見回す。これがこの屋敷の主人のプライベートな景色。油絵の中の少女は一体何を追いかけているのだろう。このソファに座る彼女の父親ならばそれが分かっただろうか。非常に居心地が良かったがあんまりソファを温めると失礼だと思い、キミは名残惜しい気持ちと共に立ち上がった。
次に入った部屋はどうやら夫人の部屋であるらしかった。夫人の部屋は隣にあった。入ってまず目に飛び込んできたのは多数の豪華な装飾品。高価な宝石やネックレスなどが所狭しと飾られていた。それらとは正反対の色合い。古めかしい真鍮がはめ込まれたアンティークな木製家具は(どうやら先程の部屋と同じ種類の家具みたいだ)部屋に落ち着いた印象を与え、より一層装飾品の価値を高めている。キミは部屋の中央まで歩み出てぐるりと見回す。こちらは先程の部屋とは異なり、カーテンも窓も開け放たれて風がふわりと部屋に入り込んできていた。おそらく使用人が換気のために開けたのだろう。対面式に置かれたふわふわのソファにゆっくりと腰を下ろす。近くの化粧台には縁に金の装飾が施された三面鏡があり、無数の細かい傷が輝きを曇らせていた。長い年月をここで過ごしてきたのだろう。部屋の隅に置かれたロッキングチェアも手垢がついて、しかしそれが妙な光沢を生み出して淡く光っていた。ふと気付くと肘掛けにまだ途中だと思われる編み物が二本の棒とともに残されていた。広げてみると子供用のセーターだろうか。ものすごく小さい。キミは表面をそっと撫でて手触りを確かめる。やわらかく温かい。やがて綺麗に折りたたんで元通りに戻した。手の平にまだ愛情が残っているかのようだった。
部屋を出ると朱の混じった陽光が廊下に落ちていた。閉じられたカーテンも火の灯ったような色になり、ゆっくりと昼の終わりが近付きつつあった。まだ続いている廊下の向こうも次第に暗くなろうとしている。キミは廊下の先に目を凝らす。やわらかな夕焼け。それと浮かび上がる明確な影。幾つもの古びたドア。キミはその場より先へ行くことはせずに近間の階段へ向かう。それは前に通った玄関ホールへと続く階段だった。手すりに手を添えて、頭上で輝くステンドグラスを眺めながら玄関ホールに辿り着く。玄関ホールにも夕陽が落ちていた。四角く切り取られた夕陽が壁に散在して、ある一つは数ある絵画の一つに掛かっていた。キミはコツコツと足音を鳴らし両手を広げて、あるいは踊るようにくるくると回って、落ちてくる夕陽に触れた。温かいスープのような印象が身体を巡った。
音も無く暮れていこうとする空間の中で、キミは少しだけ乱れた呼吸を整えようと腰に手を付いた。ほのかに身体が温かい。ぼんやりとしてカーテンに遮られた陽射しのように身体の輪郭がぶ厚い。床はひんやりと冷たそうだ。敷き詰められた大理石はキミの姿を反射する。やがて電話のベルが聞こえてきた。ジリリリリン。以前の呼び出しよりも耳にはっきりと残る音で室内に反響している。キミの心は咄嗟に惜しむ気持ちでいっぱいになった。同時に淡い期待が小さな胸をコンコンとノックをして訴えかける。といってもキミの時間はキミのものではない。物語に始まりがあれば必ず終わりがあるように、キミの時間にも終わりは訪れる。そして緩慢な動作で辺りを見回すがそれらしい電話など見当たらない。キミの耳にはこんなにもはっきりとベルの呼び出し音が聞こえるのに、その音の発生源がわからなかった。大理石に反射して意外と遠くから聞こえてくるのか。キミは隅から丁寧に探していくが、とうとう発見できぬまま電話のベルは途切れてしまった。
キミは困惑する。玄関ホールに落ちた陽が次第に薄らいでいく中、キミの呼吸は落ち着かない。電話のベルが止んだということは猶予が示されたということだろうか。キミは両肩を抱いて息を吐き出す。そして首を横に振る。そうではない。応じなければならない電話を逃してしまった、という結論に至る。キミは電車を想像する。夜のライトと汽笛。最終電車を逃してしまったこの場合は一体どうなるのだろうか。
良い解決方法が思い浮かばないキミはとにかく電話を探す事にした。玄関ホールには無いのかもしれない。そう考えて再び屋敷の奥へと足を運ぶ。正面玄関から向かって左側。屋敷の西側に通じる廊下を歩く。一階と二階ともに西側を歩くのは初めてだ。先程までは東側を歩いていたので、キミはどこか新鮮な気分に足取りを軽くさせる。悩んでいても始まらないとばかりに遠慮せずに足音を響かせる。廊下は直線に伸びていた。右側には中庭を切り取った大きな窓。左側には絵画や彫刻品、豪華な花瓶に入れられた花などが飾られていた。主に来客はこちらから屋敷の奥へと通されるようだ。今はしんとして静寂の極みではあるが、この廊下は今まで数々の来客を通してきたのだろう。キミは夕陽に照らされる廊下を立ち止まって眺めた。歓迎の二文字が浮かび上がってくるような温かさに満ちていた。
一つ目の扉を開けるとそこは広い食堂だった。ここにも調度品や絵画が飾られて、部屋の中央には何人も座れる長いテーブルが置かれている。テーブルの上には燭台が置かれて今にも火を灯しそうだった。キミは部屋に入って電話は無いものかと視線を巡らせた。陽の傾きはじりじりとキミの心を焦らせる。もうだいぶ部屋は薄暗い。大きな花瓶や綺麗な調度品に身体をぶつけないように慎重に動くが、まるで視力を落としたかのように手探りを強いられる。キミの額に汗が滲む。マッチ棒が手元にあれば壁やテーブルに置かれた燭台に火を点じることも可能なのだが、そのマッチ棒を探すのも一苦労だ。ふと手元から顔を上げて外を見る。食堂から見える大きな窓は夕焼けを映し出していた。鳥や虫がどこかへ急いで飛んで行く。きっとそれぞれの家に帰るのだろう。昼間の祭りのような盛大さは鳴りをひそめ、屋敷の外側の庭は植物達も風に揺られるのを止めてひっそりと夜を迎える準備に入っていた。
異質な音が屋敷の中に響く。電話のベルではない。それは小さくて聞き取り辛かったが、はっきりとわかるのは規則正しく何かを叩いている音ということだった。キミの心臓は跳ね上がり同時に両肩が震えた。この音はあまりよくない音だ。キミは直感に感じた。僅かに響く振動。その振動が生む衝撃波が、まるで悪意の切れ端を運んでいるかのような不気味な感覚だった。ダンダンダン。別段リズムを変えるわけでもなく規則的でまったく同じ強さで叩かれる音。ダンダンダン。キミは耳を澄ませて音の出所を探る。薄暗い食堂から廊下に出ると、不気味な音はよりはっきりと聞こえるようになった。ダンダンダン。沈む直前の真っ赤な夕焼けが廊下を突き刺していた。もう夜が訪れようとしている。キミの足は震えて使い物にならなくなっていたが、それでもどうにか冷静さを保って音のする方向へと向かった。この不気味な音は玄関ホールから響いていた。ダンダンダン。誰かがこの屋敷の扉を激しくノックしている。薄暗い玄関ホールに辿り着いたキミは恐怖に駆られる。心臓が小さな胸の中で踊ってうっかり口からこぼれてしまいそうだった。冷たいノックは扉が壊れんばかりに大きく叩かれている。キミは成す術も無く立ちすくんでしまう。
突如電話のベルが鳴り始めた。ジリリリリン。それは今までで一番大きくはっきりと耳に届く。キミにとっては救いのベルだった。キミは慌てて音の発信源を探る。その間にも玄関扉は激しく叩かれ、もはやノックの体裁を保ってはいない。キミは注意深く辺りを見回した。この音の大きさから電話はすぐ側にあるはずだった。闇が次第に濃さを増してはいたがまだ手元は見える。壁などで反響する音に惑わされながら、キミはようやく音の発信源を突き止めた。そろりと音に向けて手を伸ばす。しかし何も掴めない。疑問に思ってもう一度手を伸ばすと、固い何かにぶつかってそれ以上進めない。そこにあるのは壁だった。壁には「ドレスをまとった幼い少女」の油絵が掛けられていた。キミはわけがわからなくなってしまった。確かに電話のベルはこの場所から発せられている。早くその電話に応じなければどうなるか分かったもんじゃない。キミは手元から顔を上げてゆっくりと絵画を見上げた。そこに電話があった。そこに電話が描かれていた。ドレスをまとった幼い少女(微笑んでいる)がいつのまにか電話を両手に携えていた。この気が狂ったような大きな音は間違いなくこの電話から発せられていた。絵画の中の少女はにっこりと微笑んで鳴り止まない電話をその手に乗せている。キミは座り込んでしまった。
どれほどそうしていただろうか。五分かもしれないし十分かもしれない。やがて夜の冷気が汗ばんだキミの額に届いた時だ。荒れ狂う波のようなノックも、耳をつんざく電話のベルも突如として鳴り止み、キミの周囲は再び静寂さを取り戻した。逃げなければいけない。キミは思った。無言のまま閉ざされた玄関扉も、その手に電話を乗せて微笑む少女も、もはやキミを出迎えた優しげな面影はなくひっそりと警告している。キミは立ち上がった。冷たい大理石に響く靴音に注意して、壁に手を付いてその身を支えながら立ち上がった。逃げると言ってもどこへ? キミは疑問に溜め息を混ぜる。一刻も早くこの暗闇の屋敷から抜け出したいところだが、唯一の出入り口である玄関扉は先程の訪問者のために使えない。他に出入り口があるとすれば裏口だろうか。そうなれば今キミが立っている玄関ホールからは正反対の場所になる。屋敷をぐるりと囲む回廊を少なくとも半周はしなければならない。キミは腕を組んで考える。果たしてそれは許される行為なのだろうか。当初客人と扱われていたキミは、もはや屋敷に潜り込んだ侵入者とそう変わらない。キミに開かれていたこの屋敷はキミを幽閉する牢獄となり、キミの選択肢を狭めながら闇へと向かっている。この限定された空間で一つでも誤った行動に出れば、おそらくそれはキミの最期の行動になるだろう。そしてその誤った行動が分からない。
岐路亡羊としているキミのもとに小さな灯りが届く。それは正面玄関の脇にある扉から漏れていた。近付いてみると中庭へと通じる扉の他にもう一つ古びた扉がある。キミの背よりも少しばかり低くカビ臭い空気が流れてくる。キミは二の足を踏んだ。この辛うじて夕陽の名残が残る薄暗闇に投げられた灯りは、明らかにキミを誘っている。一体誰が蝋燭に火を点じたのか。戸惑うキミの目には疑いしか映らない。だがそこへ奇妙な笑い声がキミの耳に入る。屋敷の奥の暗闇から小さいが確かに人の笑い声が聞こえてくる。それは灰色で抑揚がなく、ただ一定の音に律動を加えただけの平らな響き。しかし二の足を踏んでいるキミの背を押すには十分の出来事であった。キミは意を決して灯りの漏れる扉を内に開いた。そこには地下へと続く階段があった。蝋燭の炎がゆらめいてはいたが足元は暗く階段の先がどうなっているかも計り知れない。そして扉を開けたときから感じるこの湿り気を帯びたカビ臭い匂い。キミは思わず口に手をやるが、重たい空気はキミを引きずり込むかのように足にまとわり付いてくる。躊躇うキミに再び笑い声が聞こえてくる。それに背筋を凍らせたキミは慌てて一歩を踏み出す。後ろ手に固くて重い扉を閉めて、屋敷の地下へとその重い足取りを這わせた。
地下へ下りるとそこは倉庫になっていた。ふわふわと揺れる明かりに照らされたのは、盛大に埃を被った家具や調度品。部屋の隅に集められてその時間を止めていた。キミは湿り気を帯びた空気を慎重に吸いながら前へ出る。革張りの大きなソファ。足の部分が壊れているロッキングチェア。隣には木で作られた大量のスツールが無造作に重ねられて、様々な形の燭台もあった。焦燥に駆られていたキミではあったが、これらの家具がまだ現役でその役目を果たしている場面を想像した。こんな薄暗い地下ではなく光りに溢れた部屋に納まった姿。部屋の景色の一部となり多くの人に触れられて年を重ねていった家具。そして使われなくなった家具は地下の暗闇へと引退する。家具に心など無くてよかった、とキミは少し胸を痛めた。
奥の部屋はワインの貯蔵庫となっていた。キミは感嘆する。天井まで伸びる棚に幾重にも重なったワインが寝かせられてその総数は計り知れない。棚と棚の間を縫うように歩いてボトルの寝室をゆっくりと見て回る。年代物が多いのかほとんどのボトルは埃を被って、ビンの鮮やかな光を曇らせていた。こちらは先程の部屋とは打って変わって熟成の部屋だ。いつ訪れるとも知れぬ日の目を浴びるために気の遠くなるような、あるいは世代を超えるほどの時間をこの地下で過ごすワイン。キミは再び心に針ほどの痛みを覚える。ワインは家具などとは違って、その栓を開けられたら短命に終わってしまうものだ。何十年と待ちわびた晴れの舞台は想像以上に容易く過ぎ去ってしまうのだろう。年月の重みを口に運び、その色合いと匂いとアルコールで主役をかっさらう。キミの目の前のワインは時間の経過など気に掛けずその深い眠りに入っている。彼らは時の旅行者となって未来のキミと出会う日があるのだろうか。キミはその瞬間を思い描いてみたが、少し現実味に乏しく笑みを零してしまう。
キミは再び地上へと姿を現す。貯蔵庫の先にあった階段を上るとちょうど屋敷の裏側へと繋がっていて、以前に中庭から屋敷内へと入った近辺へと戻ってくることができた。もうすっかり外は真っ暗で屋敷の廊下も闇に包まれていた。窓から入る月明かりが暗闇に微かな輪郭を与えてくれて、廊下にはいくつもの燭台がぼんやりと燃えていた。もうあの不気味な笑い声は聞こえてこない。代わりに耳鳴りがひどくキミにまとわりついて離れない。追い立てられるような感覚は薄まったが、依然強張った体は警戒心を表していた。キミは左右を見て一歩を踏み出す。窓から覗く中庭も昼間とは違った表情で、大勢の虫が月に向かって鳴いていた。なるべく音を立てないように、とキミは慎重に辺りを調べる。屋敷の外へ通じる裏口はすぐに見つかった。微かにドアの隙間から風を感じる。この扉を開いてしまったらもう二度とここへ帰ってくることはできない。キミは少しだけ勇気を出す必要があった。
キミは走った。屋敷を抜け出したキミは力の限りに走った。夜の草原を踏み締めて、背の高い草花が肩を掠めて、雲一つない満月の空にキミの荒い息が響く。腕を振って額の汗など気にも掛けずに、ただ眼前に向かって足を大きく差し出す。どこへ向かっているのかは見当も付かない。いや、それはキミにとってあまり重要な事ではない。前に向かって進んでいるし、明らかに後方の屋敷は遠ざかっていく。名残惜しい気持ちがさっきまでキミの心を支配していたが、それはある地点を越えると力へと変わった。身体が軽くなって足に羽が生えたくらい清々しい。虫の鳴く夜の草原をキミは駆ける。ふと背後を振り返ってみた。屋敷はどのくらい遠ざかっただろうか、と。そこでキミは見た。暗い屋敷の窓に人影が映っていた。それはこちらをじっと見つめている様だった。キミは前を向いた。夜の草原には風が吹いていた。やがてキミは石に躓いて盛大に転んだ。
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キミは屋敷を訪問しました。