【風隠の陰謀】
取り戻そうと必死に
手を伸ばしてもがくけれど
まるで風のようにすり抜けて
届きそうで届かない
少年の眼下に広がるのは鬱蒼と茂る青々とした森だった。
その木々の合間を縫うように風が走れば、葉がザワザワと音を立てる。それはまるでひとつの曲であるかのようだ。
音を奏でる風に己の髪を揺らしつつ、木の上でその楽曲に耳を傾ける少年の名をハヤテといった。
ハヤテはこの風隠の森と呼ばれる場所で、一族をとりまとめている族長の息子。
父親は族長の仕事のほかに武術流派の師もしており、何人か弟子をもっている人物である。
ハヤテも父に武術を教示してもらってはいるが、父の弟子たちとは面識がない。まだ早い、とは父の言だ。
マンツーマンで教えを受けるのは得なのか損なのか。ハヤテ的には父の厳しい指導をひとりで受けねばならぬのは非常に辛いと常々思っている。嫌というわけではないのだが。
とはいえハヤテはまだ遊びたい盛り。毎日、父の「今日はここまで」という台詞を待ちに待って指導を耐え、言われた瞬間疾風のように森へ遊びに消えていく。
のだが、今日は少し勝手が違った。
この森の族長に客が訪れたのだ。
族長、つまりはハヤテの父親はその対応をするため今日は武術訓練が無い。
ハヤテはそれを聞いて嬉々として遊びに出ようと思ったのだが、現状つまらなそうにひとりで暇を持て余していた。
「…」
不機嫌そうに足を揺らしながら、ハヤテは自宅に目を向ける。
まだかな、とハヤテがじっと入口を見つめているとようやく扉が開き人が姿を現した。
少しばかり言葉を交わしながら、客と父ともうひとりが、恐らく別れの挨拶なのだろう、互いに会釈している。
客はそのまま外へ向かい、父はゆるりと家の中へと戻った。残ったもうひとりは客の姿が見えなくなるまで頭を下げて見送っている。
そんな彼の姿を見て、ハヤテは機嫌良く木の上から飛び降りた。
やっとおわった。
そんな気持ちを隠しもせず、ハヤテは最後まで見送りの礼を果たしていた青年に声を掛ける。
「兄上!」
「…どこ行ってたんだ?」
ハヤテの気配に気付いていたその兄は、ハヤテの声を聞いて呆れたような咎めるような声を返した。
ハヤテには兄がいる。彼の名前をオロシといった。
叱るようなオロシの口調には答えず、ハヤテはオロシの手を引いて「遊ぶ」とねだる。
森には年の近い人間が居らず、ハヤテの遊び相手は兄しかいないのだ。
今日不機嫌だった理由も、暇そうにしていた理由も、"遊び相手の兄が仕事していた"に全て集約される。
不満げな表情で兄を睨み付けるハヤテだったが、呆れたような顔を向けられるだけだ。
今回来た客は今後この森に影響のある事案だったから一応顔を出せと朝食時に言われていたのだが、すっぱりと無視し逃げ出したハヤテが悪い。
かたくるしいのきらい。
訓練ないなら遊びたい。
でもひとりで遊ぶのはつまらない。
終わったなら遊べ。
そんな考えを隠しもせず雄弁に語る目を向けられ、オロシは軽くため息を吐く。
早く遊ぼうとぐいぐい手を引くハヤテに軽くゲンコツを食らわせて、オロシは「遅くまでは無理だからな?」とため息混じりに視線を落とした。
オロシの言葉に嬉しそうに微笑んで、ハヤテはオロシの森の中へと誘う。
今日は何して遊ぼうかな。
■■■
数日後、ハヤテはオロシに連れられて森の一角へと向かった。
兄が自分を何処かに連れ出すのは珍しいことだ。大抵、ハヤテがオロシを森中を連れ回すのだが。
珍しいなと首を傾げるハヤテに「新しく人が来たから」とオロシは軽く説明をした。
その人たちは忍びの里から来たのだという。
どうやら数日前に来ていたお客がそうだったようだ。あの時に移住の許可を貰いに来ていたらしい。
父は忍の入居に難色を示したもののオロシが「いいんじゃないですか」と説得し、数人移り住むことになった。
今から行くところは、その森に移り住む忍者たちの集落のようだ。
「まだ住処は完成していないようだが、挨拶にな」
オロシの言葉通り、歩みを進めるにつれトンカンと物を組み立てる音が大きくなっていった。
ハヤテたちが顔を出すと物作りの音が止み、代表なのだろう、ひとりの忍者がハヤテたちの方へと近寄ってくる。
「オロシ様」
名を呼ばれたオロシはぺこりと会釈し、現状を問う。忍び頭は「特に問題はありません」と笑みを浮かべたあとひとつの提案をしてきた。
自分たちは里から離れここで暮らす。そのため名を改め「風の一族」としたいのだが良いだろうか、と。
この森の名をとって「風」を名乗りたいのだと忍び頭が窺うように問えば、オロシは「…良いのか?」と小さく聞き返した。
忍び頭が頷くのを見てオロシが「構わない」と答えれば、忍び頭はザッと音を立て跪く。と、同時に作業の手を止めていた他の忍者たちも一斉に同じ動きを示した。
忠誠の誓いを奏でられオロシは少し怯んだようだがそれを表には出さず、堂々とした態度で返す。
「…そろそろ表を上げろ。それで…」
「はい」
オロシの言葉に忍び頭は微笑んでハヤテたちの前から姿を消した。しかしすぐに戻って来て、少年をひとり前に出す。
その子はハヤテと同じくらいの年頃で、黄緑色の忍び装束を纏っている。緊張しているのか、表情は硬い。
知らない人ばかりだったため兄の背に隠れていたハヤテに、忍び頭は目を合わせ優しげな声で少年を紹介した。
「ハヤテ様。此奴はウチの見習い忍者です。同じ年頃であるため、貴方様のお付きにしたいのですが」
大人から極丁寧な言葉遣いをされ戸惑うハヤテだったが、同じくらいの少年には興味を引かれたのかそろそろと兄の背から姿を出す。
兄の服の袖を掴んだままだったが、ハヤテはその少年と対面した。
緊張の余り顔を真っ赤にしながら、少年はハヤテに向けて大きな声で名乗る。
「オレ、サスケって言います!えっと、よろしくお願いします、ハヤテさま!」
「…ハヤテ」
「え?」
「ハヤテ」
ハヤテの不思議な言動にオロオロしはじめるサスケ。
呆れたように息を吐き、察したオロシがサスケと目線を合わせ屈み込んだ。
さらにパニックとなるサスケだったが、頭にオロシが手をぽんと軽く乗せ柔らかい声を掛ければ多少落ち着いたらしい。
「弟は "様付けしなくていい" だそうだ」
「え、でも…」
構わん、とオロシは苦笑し「お付きに頼んだが、まずは弟の友達になってくれないか」とサスケの頭を撫でた。
オロシは今後忙しくなるため弟に構っていられなくなる。しかし目を離すのは危なっかしい。
そのため、忍の居住を許可する代わりに「弟と同年代の見習い忍者」を欲した。
「弟が気に食わなければ、忍務として"お付き"、気に入ったのならば"友人"として側にいてくれ」
ぶっちゃけオロシの内心としては"弟の遊び相手になってくれ"のようだ。
困ったように忍び頭を見るサスケだったが「主人の望み通りにしろ」という視線を受け取り慌ててこくんと頷いた。
「え、えと、…ハ、ハヤテ?」
「ん」
サスケが名前を呼ぶとハヤテは嬉しそうに頷く。これでいいらしい。
苦笑する忍び頭は「慣れさせるため、しばらくサスケを借りる」とオロシの願いを受け、二つ返事でサスケを送り出した。
近くに遊び場所に最適な広場があるため、3人はのんびりとした足取りでそこへ向かう。
道すがら、まだ緊張しつつもサスケはハヤテを知ろうと沢山話し掛けていく。
ハヤテはハヤテで同年代の子に慣れていないのかこちらも緊張した面持ちでポツポツと質問に答えていた。
見知らぬ人間の前では途端に無口になり兄の陰に隠れるハヤテが受け答えをしているのだから、まあ一応サスケに興味を持ったのだろう。
前を進むふたりを見守りながら、オロシはふうとため息を吐いた。
忍たちが移住ししばらく過ごしてわかったことは、オロシが弟の友人にと当てがったサスケは、割とヤンチャな部類だということだ。
ヤンチャ×ヤンチャの組み合わせが成り立ってハヤテは生傷を作ることが多くなった。
それはオロシの胃をキリキリ痛めつけたが、当の本人は思い切り遊べる相手が出来て満足らしい。
サスケのほうも堅苦しくしなくていいためか嫌々ハヤテに付き合うのではなく、普通に仲良くなり遊んでいるようだ。
今日もまた泥だらけとなり帰ってきたふたりを軽く叱りながら、オロシはふたりを拭いため息を吐く。
自由すぎる弟の遊び相手をする必要はなくなったが、ふたりを洗う手間と怪我の治療に時間を取られるようになった。
以前と苦労と心労が変わらぬ、とオロシは再度ため息を漏らす。
とはいえサスケと会話をすることが多くなったハヤテの語彙力が若干上がったことは良いことだろう。まだまだハヤテは独特な喋り方をするのだが、以前と比べ遥かにマシだ。
弟の成長に驚きつつ、オロシはふたりの頭を撫で「菓子があるから手を洗ってこい」と指示を出した。
嬉しそうに笑ってふたり連れ添い手洗い場へ走っていく。
やれやれとオロシは苦笑しながらふたりのおやつの準備に取り掛かった。
手洗い場へ向かう道すがら、ハヤテとサスケは仲よさげに笑い合う。次はどこに遊びに行こうかと楽しそうに計画を立てていた。
大陸の真ん中辺りにある大樹の元へと行こうか、少し奥まった辺りまで行こうか、海まで行くのもいいかもしれない。
遊び相手が出来たハヤテはそれはもう始終上機嫌だった。兄と一緒ならば「危ないから行くな」だの「遠くまで行くな」だの「やめろ」だの散々言われる場所へ付き合ってくれるのだから機嫌が良いのも仕方ないかもしれない。
と、突然ハヤテは思い出す。サスケは自分のお付きとして当てがわれたのだということを。
もしかしたら嫌々付き合っているのかもしれない。命令だから仕方なく。
不意に襲われた不安にハヤテが眉を下げれば、それに気付いたサスケが首を傾げ「急にどうした?」と問い掛けた。
サスケの問いにハヤテが困り顔のまま懸念を話せば、サスケはキョトンとした後豪快に笑う。
「オレ、嫌なら嫌って言うぞ?」
ぺしぺしハヤテを叩きながらサスケは笑い「何だ急に」と心底不思議そうに首を捻った。
ハヤテが「もしや命令で付き合ってるのでは」と泣きそうな顔を作れば、サスケは目をパチクリさせて「メイレイ?」と聞き返す。
しばらく悩み思い出したようにサスケは手をぽんと叩いた。
「そういえばオレはハヤテのお付きだった!…えっと、それっぽくしたほうがイイ?」
少し困ったような顔でサスケは頬を掻く。
どうやらサスケはそこらへんを完全に忘れていたらしい。普通にハヤテを友達と認識し、普通に毎日遊んでいたようだ。
サスケの言葉に思い切り首を振り、「堅苦しいのヤダ」とアピールするハヤテ。ようやく同年代の子が来てくれたのだ、主従よりも友人がいい。
首を振りすぎてヨロけたハヤテを支えつつ、サスケは「わかった!」と嬉しそうに笑った。
サスケの笑顔に杞憂だったと気付いたハヤテもやっと笑顔を見せる。
互いに笑顔のまま、明日の遊びの計画を話し合い始めた。
手を洗い汚れを落とし部屋へ向かうとオロシが菓子を用意して待っている。
ハヤテとしてはいつもの菓子だが、サスケとしては毎日上質の菓子が振る舞われるため結構楽しみにしていた。
「いただきます」と手を合わせ菓子にかぶりつくふたりは、先ほどまとまらなかった明日の遊び先を再度話し合いはじめる。
意見が分かれたというよりはあっちもこっちも行きたいのだ。おかげでなかなか決められない。
楽しそうに言葉を交わすふたりに、オロシが呆れたような声を掛けた。
「…明日は駄目だぞ。話し合いの日だ」
驚くハヤテたちにオロシは忘れてたのかとため息を吐き、咎めるような視線を刺す。
「我らが出なくても」と食い下がるハヤテだったが、オロシは「阿呆ぬかせ」と言わんばかりに睨み付けた。
明日行う話し合いは森の住人たちによる会合。しかも最近この森に住み着いた忍者たちのことが議題となる。
がっつり関係のあるハヤテとサスケが参加しない訳にはいかない。
しっかりとした会合に初参加のハヤテはオロオロとし、サスケに至っては若干怯えたような表情を浮かべた。
「あの、オレなんか、言われ…る?」
「いや、今回は議論だ。私は糾弾されるだろうがお前らは別に何も」
お付きと当てがわれたのに友人関係を築いているサスケはその部分が気になったようだが、オロシはその不安を払拭させるようにさらっと流す。
当日居れば良いと告げ、オロシはハヤテに顔を向けた。
「お前がサボったらサスケの立場がなくなる。サボるなよ」と忠告すれば、ハヤテは多少残念そうな表情を浮かべたもののこくりと素直に頷く。
どうやら明日は丸一日堅苦しい会議に参加せねばならないらしい。
不満げな息を吐きながら、ハヤテは菓子にぱくりと食いついた。
■■■
そして次の日。
眠たそうに目をしぱしぱさせているハヤテの手を引いて、オロシは会合の席へと向かう。その後ろで忍び頭に連れられたサスケが強張った顔で付いてきていた。
会場に着けば他の面子はもう揃っており、オロシは「遅くなりました」と頭を下げつつハヤテを座らせその横に腰を下ろす。
予定時刻には30分ほど早いのだが、面子が揃ったからと会合が始まった。
進行役の口上を聞きながら、オロシは結局毎回30分は早めに始まるのだから開始時刻もそれに合わせれば良いのに、とうんざりした息を吐く。
まあそんなことしたら集合時刻がさらに早まり面倒なことになるだけだから、提案する気は更々ないのだが。
例えて言うなら10時集合なのに9時半には全員揃い開始するのが当然と言わんばかりの空気。それを鬱陶しく思いながら、オロシは船を漕ぎ始めた弟を軽く揺すって起こした。
会合に合わせて早起きさせたからか、ハヤテはまだ半分寝ている。
もう少しシャンとしてもらわんと困る、とオロシがハヤテに気を取られていると議題は進んでいたのかオロシに声が掛けられた。
「ーー…。それで、何故忍びをこの森に?」
「……私の我儘です」
静かな声で応じ、オロシは弟の遊び相手になりそうな子を連れてくる代わりに居住を許可した旨を語る。
なんせハヤテは同年代の普通の子供と比べて身体能力が高く、それでいて言動が摩訶不思議。癖のあるこの弟に付き合える人間など、特殊な訓練を受けている忍者くらいしか思い当たらなかったのだ。
だから、売り込みに来た忍び頭を見て「渡りに船」とばかりに飛びついた。
「私も父のお手伝いさせていただいておりますが、それに加えこの元気な弟の相手をするのは少々骨が折れまして」
作り笑顔でつらつら語りながら、オロシはハヤテの肩を掴む。驚き兄を見上げるハヤテに、笑顔を崩さずオロシは問い掛けた。
「サスケと毎日遊んでるだろう?」と。
戸惑いながらも頷いたハヤテに、オロシは「どんな事をしてるんだ?」と次いで問い、皆に教えて差し上げろ、とニコヤカな笑顔で促す。
意図がわからず混乱しながら、というか会合で自分が発言する羽目になるとは思わず戸惑いながら、ハヤテは毎日の遊びを皆の前で語り出した。
話しているうちに楽しかった記憶を思い出したのか、ハヤテは兄に禁止された場所へ行ったことを漏らす。
それに気付いて思わず口を押さえたものの、兄からの怒声は響かず代わりに呆れたような声が降りかかった。
「…お前、彼処は危ないから行くなとあれほど…」
「まあまあ、男の子は多少わんぱくなほうが良いでしょう」
オロシの咎めるような言葉を遮るように会合参加者のひとりが口を挟む。
その言葉にオロシは一瞬全てを憎むような瞳を映したが、それをすぐにかき消して愛想笑いを浮かべた。
よそ行き用の態度を崩すようなヘマはしない。
オロシはコホンと軽く咳払いをし、言葉を紡ぐ。
「それに忍びは情報戦に強いようです。森の外の情報を得るには最適かと」
オロシの説明に背後に控える忍び頭が頭を下げれば、周囲も「なるほど」だの「ならばまあ」だのと口々に理解の意を示した。
これならば忍びたちが動き回っても不審に思われないだろう、と忍び頭はしれっとした顔で佇むオロシに目を向ける。
この人は、弟の子守をダシに己が自由に動かせる手足を手に入れた。
元より忍び頭以下、風の一族はサスケを除いてオロシに命を貰っている。が、それは"外の情報を得て来い"ではなく"内部の情報を得て来い"だ。
その時のことを思い出し、忍び頭が微かに笑う。
■■■■■
「いや別に完全服従やら命令厳守やらさせるつもりはない。別の輩の所に行きたきゃ行け」
ただ自分の元に居るならばこの森で何しようが粗方は目を瞑るし、森で採れる物やら狩った物は好きにしていい。と笑いながらオロシは言った。
それは暗に「別の輩に乗り換えたなら"森を荒らした"と断罪するぞ」という脅しにも聞こえたのだが、当人はそこまで考えていなかったらしい。
ついそれを漏らしたら「ああそれはいいな、そうするか」と笑われてしまったのだから。余計なことを言った。
「……。内部を探れ、とは。反乱分子でもいらっしゃるのですか?」
「いや、反乱分子というよりは鬱陶しい輩が居る、程度だが」
長とはそこら中で反感買うもんだからな、とオロシは扇で口元を隠す。
面倒臭そうな表情を露わにしながらオロシはポツポツと語った。
自分の方が凄いと勘違いしてる輩は真正面から喧嘩売りに来るからまだ対処しようがあるのだが、族長が凄いと認めた上でそれが気にくわない輩は陰でコソコソ悪口言って溜飲を下げる。
その悪口というものは有る事無い事混ぜ合わせの上、そいつの悪意ある妄想が増し増しなのだとオロシはため息を吐いた。
「それを事実だと信じる馬鹿が湧く。これが非常に面倒臭い」
事実を元に糾弾するならともかく、妄想で糾弾されても「知るか馬鹿」としか言いようがない。妄想乙でもいい。
悪口で相手の格を下げて自分の格を上げるという心理なのだろうが、これを行う人間はその自覚がない。だから堂々と平気な顔をして他人の悪口や当て付けのような嫌味を言えるのだろうが。
あとはまあ、当時の事情を知らぬまま簡素な記録だけを見て嫌味言ってくる馬鹿とか。
「…もうな?本気で面倒臭くてな…」
ぼんやりと遠い目をしてオロシは呟いた。
どうやら現族長の父親に文句を言えるような輩はおらず、また幼い弟に嫌味を言う輩もおらず、結果負担が全部オロシに来ているらしい。
陰口言った馬鹿がどこのどいつか先に知れれば対応しやすいから、とオロシはため息を吐く。そういった輩とは基本的に関わり合いになる気はないが、何かあった時使えるしと視線を流した。
「私は生まれ育ったこの地は好いている。だが、この地に生きている者にはとんと興味がない」
それは頻繁に不愉快な目にあっているからなのか、元々生き物に興味がないのか。そこらへんはオロシ本人としても不明瞭らしい。
どうにもオロシは自分のことに若干疎い。
それに気付いた忍び頭が少し眉をひそめれば、オロシは、そりゃ私は弟のように「自由でいていい」と言われたことなど無いからな、と不機嫌そうに眉を歪めた。
表面上は良い兄であるのだが、内心は複雑な感情を抱いているようだ。
幼い頃から次期族長候補として彼は族長らしさを望まれ、当人も特に疑問を持たずそれを受け入れていた。
それが一変したのは、年の離れた弟が出来た頃。
自分には「しっかり」「真面目に」「森のために」と散々言って叱りつけた父親も森の住人も、弟には「健やかに」「元気に」と甘やかすのだ。
父親に至っては、オロシに対し「必要ない」と切り捨てた己の武術流派への弟子入りを弟には許し、手ずから戦いの技術を教えている。
オロシも一応独学でこっそり学び、人並み以上に強くはなったのだが結局弟子入りは許されず、父親はハヤテばかりを目にかけ楽しそうに指導していた。
そしてハヤテを鍛える時間を作るために、オロシに仕事を押し付けるようになってきている。
「嫌になるだろう?」
笑いながらオロシは扇を弄ぶ。とりあえず盛大に機嫌が悪いのがわかった。
誰も彼も弟のほうに目を向けて、そちらばかりに気を掛ける。
実際、オロシの目から見てもハヤテは戦いの才能も他人を癒す力も高いのは理解していた。これらは父親そっくりで、ミニサイズ父上と言われても納得出来るセンスを持っている。
対してオロシには何もなかった。
努力でカサ増ししたため人並み以上の能力になれたが、父親のような能力も才能も全くない。
似ているところといえば外見くらいなものだ。
無い才能を努力で埋めやっと舞台に立てる兄と、何もせずとも才覚を表し愛される弟の差は、ハヤテが成長するたびに際立ってきていた。
いつしかオロシは胸中にドロドロした想いを抱くようになる。
あの人は私を弟と同じように褒めてくれたことはあっただろうか
あの人は私を弟と同じように構ってくれたことはあっただろうか
あの人は私の願いを弟と同じように叶えてくれたことはあっただろうか
何故あの人は弟をあんなにも目をかけるのだろうか
家族を見るたび思うようになった。
そんなオロシの心中を知らず、ハヤテは素直に兄に懐く。父親が師匠と兼任しているため、ハヤテが甘える相手はいつも兄だった。
父親や周りの人間に見せるよう"良い兄"を演じつつ、弟を抱え上げオロシはぼんやりと思う。
父上も周りも、族長を弟に継がせるつもりなのではないのだろうか、と。
厳しくきっちり育成された自分は"失敗"だから、真逆の育成をすることにしたのではないだろうか、と。
族長にするつもりだから父親は弟のほうに目をかけているのだろう、と。
冷たい瞳を弟に向け、オロシは弟を手放した。
コレ、は私に無いものを全て持っているのに、まだ得るつもりなのか。
何も無い私からこの森すらも奪うつもりなのか。
私の居場所すら盗るつもりなのか。
そんな鬱屈とした想いを根付かせた頃、忍びの里から売り込みが来た。自分たちを雇わないかと。
それを許可するか否かの会合が忍び頭と父親とオロシで行われる。
ちなみに弟はこの会合を「堅苦しそうだから嫌」とバックれた。死ねばいいのに。
父親は悩んでいたが、オロシとしてはこの上ないチャンス。森の住人でない、己の味方になりそうな人間が手元に飛び込んできたのだから。
言葉を選びつつオロシは「いいんじゃないですか?」と受け入れの態度を作る。
「…忍は身体能力が高いでしょう?父上の指導を受けているハヤテの遊び相手に丁度良いのでは?」
ハヤテの遊び相手を用意する代わりに居住を許すのはどうかとオロシは嗤った。
忍び頭としては居住まで許されずとも雇用程度で十分だ。驚いたような気配を一瞬示す。
確かに忍側からしてみれば、土地にも気候にも恵まれたこの地に移住出来るならば諸手を挙げて喜ぶ案件ではあるのだが。
「…管理は私が責任持って行います。如何でしょうか?」
父親の顔は見ないように、己の顔を見せないようにオロシは父親に伺いを立てた。
「居住のための場所など」と渋い声を出した父親に、オロシは懐から森の地図を取り出し「数百人とまではいけませんが、多少であれば余裕があります」と位置を指す。
父親の代わりに森の管理をしていたオロシとしては、住人の行動範囲や空いた土地をきちんと把握していた。
問題ないなら良いと父親が告げると、オロシは礼を述べ忍び頭のほうへと顔を向ける。
「そちらも構わないならば詳細な説明をするが」というオロシの言葉に忍び頭が頷いた。
了承を得たオロシが「多少ややこしいので私の部屋で」と父親に軽く会釈をし、忍び頭を促し席を立つ。忍び頭もそれに続いた。
部屋に着き、オロシは風隠の森の地図を広げ「忍び里のようにしたいのならばここいらの奥まった場所が良いか」と指を指す。
驚いたのは忍び頭だ。眼前に広げられた地図には森の住人の居住区や狩りのポイント、作物の成る場所が詳細に描かれていた。
オロシから見れば初対面の、得体の知れない忍者である自分に大っぴらに情報を与えるとは。
「…自ら売り込みにくるならば、相当の自信があるのだろう?」
そんな輩が守秘義務を蔑ろにするはずがないと、至極当然のように放った。これでベラベラ喋る馬鹿であるならば忍び里自体の程度が知れる、と鼻で笑う。
稀に居るのだ。己の自尊心を満たすためだけに余計なことを漏らし続け、いらんことをしてその集団の信頼を地に落とす馬鹿が。
「まあ、貴様がそうなら私の見る目がなかったというだけの話だ」
それだけ言ってオロシは地図に視線を戻した。
そのまま淡々と話を進めあっさりと居住地を決めた後、先ほどの事情を話されたわけだ。
この人はこの人で割と拗らせている。
そうぼんやりと忍び頭は思ったが口には出さず、性格に若干難があるがオロシの手腕は確かなものだと確信し手元に入ることを決めた。
この判断が吉と出るか凶と出るか、否、吉にする。そのための部下でそのための忍だ。
まずは依頼の「弟の遊び相手になりそうな子供」を選ばねばならない。忍び頭は里にいる子供を思い出しつつ条件に合いそうな人間を弾き出した。
大人しい子は駄目だついていけないだろう。勝気な子は駄目だ対立する。真面目な子も無理だ恐らく対象はこの兄と比べて見る。優秀な子は、ああ駄目だ、王国からの依頼に回した。
ぐるりと思考を回して忍び頭はオロシに問う。
「連れてくる子供は元気良すぎるのでいいですか?」と。
■■■■
それで連れてこられたのがサスケだったのだが、ハヤテと相性は良かったらしい。
サスケは毎日泥だらけになりつつも楽しげにハヤテと遊んでいるようだ。それはまあいい。
問題は己の主のオロシが満足したかどうかだ。
それとなくサスケに話を聞けば菓子を貰っただの泥だらけになって叱られただの頭を抱えたくなる返答しか返ってこない。こいつ主の弟と何やってんだよ。
忍び頭がそろそろ腹切るべきかとオロシに安否を問えば、オロシはきょとんとした表情で言った。
「ん?サスケはあれでいい。あんなピッタリの子供よく用意出来たな」
「……お手数おかけして申し訳なく」
忍び頭が謝罪をすれば、「要はアレの興味が私以外に向けばいい」とオロシは小さな声で笑う。
変に堅苦しくなく何してもケロっとしているサスケはきちんとハヤテの興味を引き、サスケも族長の息子だと偉ぶらないハヤテを気に入っているようだ。
内心ほっとしながら、忍び頭は会合の緊張で畳の上でへばっているサスケに目を向ける。
会合も終わり、今はオロシの部屋に4人が集まって休んでいた。
「こわかった…」と泣き言を漏らすサスケを宥めるようにポフポフ頭を叩くハヤテも視界に映り、忍び頭は呆れた目を作った。
サスケはもう少しお付きらしく育てねばと決意した忍び頭に気付かず、サスケは疲れた目をしながらオロシに顔を向ける。
「…会合?会議?って言うから、もっと言い争いみたいになると思った…、思いました!」
途中忍び頭が睨みつけてきたのに気付いたサスケは慌てて口調を直した。
「良い」とオロシは苦笑し、少し考えた後簡単に説明をはじめる。
今回の会合は「議論」なのだ、と。
議論というものはある目的のため、全員の意見を一致させた上で知恵や知識を出し合う協力作業といえばわかりやすいだろうか。
言い争いになるものは「討論」と呼ばれ、互いの意見をぶつけ合い批判しあって第三者がどちらが嘘つきかを見抜くための公開決闘のこと。
議論で問うのは「この意見に対し何か質問はありますか」で、討論で問うのは「この意見に対し何か反対意見はありますか」だ。
このふたつは根本が違う。
議論で意見が割れる場合、話し合いが足りていないか、同じ目的を持っているといいながら実は違う目的を持った裏切り者がいるかのどちらかだ。
議論の場に「自分の意見を押し通す」という「目的」を持った輩が混ざるだけで議論は成立しない。
俗に言う「学級会」は大体これだ。自分の意見を押し付けようとする輩しか参加しないから、基本的に結論が出ないまま終わる。
簡単に言えば、討論する相手は「敵」・議論する相手は「味方」だと認識すればいい。
「議論するならば、その議題に対し意見のあるなし・疑問点・気付いたこと、これら全てを遠慮なく言わなくてはならない。そのための議論だ」
そのためオロシは問われた質問に対しきちんと返した。もちろん嘘は言っていない。事実でもないが。
今回の会合ではいなかったが、稀に「己の気分」を意見のように発言し己の我儘を押し通そうとする輩も存在する。こういった輩は声だけがデカく、己の気分を全体の総意のように語るからタチが悪い。
「自分が気に食わないからその意見は全員が嫌がっている。だって私がムカつくのだから」を素でやってのけるのだ。己の気分を押し付けるために明後日の方向に議題を持って行き、己の意見は正当性があると錯覚させる。
元の議題とは関係ない事柄を持ち出し責任転嫁をしてのける。全ては自分の我儘を"我儘ではなく意見であり、これは意見として正当性がある"とするために。
本当に面倒臭いとオロシはため息を吐き、チビふたりに顔を向ける。
「話し合いするならちゃんと議題を把握して、議題に対する情報を得てから望め。きちんと相手の意見を聞き、話の意図を理解しろ。己の意見を押し通そうとするのは理解力のない馬鹿がやることだ」
そう教えれば、理解したんだかしていないんだがよくわからない表情を浮かべ、サスケとハヤテはとりあえず頷いた。
呆れた目を向けながら、オロシが「今日はもう遅いから泊まってけ」とサスケに声を掛ける。
喜んだのはハヤテだ。キラキラした目でサスケと兄を交互に見つめた。
「……、サスケはハヤテの部屋に行くといい」
弟の心情を察しオロシが指示すれば、サスケは先ほどまでへばっていた様子は消え失せ笑顔を見せる。
ハヤテも「はじめての友達のお泊り」と言いたげな表情でニコニコしながらサスケの手を引き、己の部屋へと促した。
「はしゃがずに早く寝ろ」というオロシの忠告を背に、ふたりは楽しげに部屋から出て行く。
多分あのふたりは夜更かしするだろうなと思いつつ、オロシは忍び頭に目を向けた。
泊まっていけという指示、そして子供を部屋から追いやった行動から、忍び頭はオロシの暗意に気付く。
なにか話があるのだろう。忍び頭は居住まいを正し視線を返した。
■■■■
集団とその長というものは多少なりともしがらみがあるものです。
完全に主従の関係となれば話は別でしょうが、
そこを治める責任者とその住人という程度の関係ならば、
必ず何かしらの揉め事が発生します。
近い未来、彼が「族長」を襲名したとして
周りがそれを受け入れるとは限らない。
それでもそれが成り立ったのは、
ひとえに影で動いた"何か"がいたからです。
根回しや暗躍が得意な"誰か"が。
さてさて、
森ってのは面倒なものでして
放っておくと荒れに荒れてしまいます。
木々は好き勝手生え、草はこれでもかと伸び広がり、見知らぬ生き物が住居を構える。
しかし世話を焼くのは骨が折れるもの。
広い森を隅から隅まで把握するのは非常に難しいことですから。
まあ、
それはこの森も例外ではないようで。
■■■■
ハヤテは今日も父親と武術の訓練。
多少サマになってきた、と父親はハヤテに己が流派の技を伝授した。
父親が教えるのは自身の名をもじった「七笑流」という剣を使った派手なもの。
「これを伝授するのは、お前で2人目だのぅ」
と嬉しそうに微笑む父親を見て、ハヤテは誇らしい気持ちになる。
恐らくひとり目は兄なのだろうと思い込み、自分も兄に追い付けたのかなと頬を緩ませた。
ハヤテから見て年の離れた兄は「何でもできる凄いひと」。敵う敵わないの次元にいる人間ではなく、一番近くにいる一番遠い人だ。それでも追い付けるものならば追い付きたい。
兄はもう父の手伝いをして森を護っている。
ならば自分は父の手伝いをする兄の手伝いが出来るようになりたい。
そうしてこの森を親子兄弟みんなで護っていくのだ。
ふふ、と未来を思い描き楽しそうな笑みを浮かべるハヤテだったが、そんなハヤテの肌を妙な風が撫で上げた。
今まで感じたことのない風にハヤテが小首を傾げれば、父もそれに気付いたらしく眼差しを鋭くし空を見上げる。
ふむ、と父親が息を吐き「帰るぞ」とハヤテに声を掛けた。
訓練が終わりならばこのままサスケのところに遊びにいきたい。
そう口を開いたハヤテを有無を言わせず抱え上げ、父親はスタスタと帰路に着く。
駄目らしい。
抱え上げられたまま小さく頬を膨らまし、ハヤテは不機嫌そうな表情で自宅に運ばれて行った。
その日の夜。
ハヤテは不満げな表情で布団に包まっていた。
昼間父親に強制帰還させられたせいか遊び足りない。
遊び足りないから体力が有り余っていて寝付けない。
帰って来てから兄に駆け寄り兄の部屋でしばらく遊んだのだがその内「邪魔だ」と摘み出されたのも不機嫌の原因のひとつだ。
最近兄が一緒に遊んでくれなくなった。つまらない。
不機嫌な表情のまま包まっていた毛布を身に纏い、ハヤテは自室を抜け出した。
よるのおさんぽ。
広い屋敷の中を歩き回っていたら、きっとそのうち眠くなるだろう。
毛布の端を引きずりながら、ハヤテは屋敷の廊下を歩く。日は既に落ち、月もかなり高い場所にある。
生憎、雲が多いからか星はほとんど見えなかったが月に被さる雲はそれはそれで良いものだ。
こんな遅くまで起きていたのは、サスケが泊まりに来たとき以来かな?とそのときのことを思い出しハヤテは微笑んだ。
あの時は面白かった。静かな夜の帳に、不思議とその静けさを邪魔せぬまいと互いに小さな声で語り合い、笑い、夜を過ごしたのだから。
どれだけ話をしても話題が尽きず、互いが力尽き眠るまでずっと口を開いていた。
まあ、いつしか眠り次に目が覚めたときはもう昼に近く、ハヤテは兄に、サスケは忍び頭に、こっ酷く叱られたのだけれど。
今も、きっとこんな遅くまで起きていると兄に知られたら叱られるだろう。
怒られるのは嫌だが、叱られるならまだいいかとハヤテは軽く小首を振るった。
最近兄は遊んでくれないが、叱るときはちゃんと我の顔を見てくれるし。
構ってくれるならそれでもいい、とハヤテがぼんやり思っていると、静かな夜を引き裂くように聞き覚えのある怒鳴り声が響いてきた。
驚いてハヤテは足を止め、音の聞こえて来た先を覗き込む。
この先の廊下は父の部屋に続いていた。しかし聞こえてきた怒鳴り声は兄のものだ。
父の部屋に兄が訪れているのだろう。
"訪れている"というような平和な訪問ではないようだが。
廊下の先で伺うハヤテには会話こそ聞こえないが、父と兄が不穏な空気で口論を交わしているのを感じ取っていた。
「な…父上は、…にばかり目を……!」
風に流れて聞こえてくるのは兄の声。
怒鳴ってはいるのだが、いつもハヤテを叱るときのような声ではない。
怒っているというよりは訴えている?問うている?のだろうか。
普段聞かない兄の声に戸惑いながら、ハヤテが聞き耳を立てているとガシャンと瀬戸物の割れる音が響き渡った。
大きな破壊音に驚いたハヤテだったが、そのあとすぐに父の部屋の襖が勢いよく開き鬼気迫る形相の兄が姿を表す。
兄のその表情を見た瞬間本能的に「今自分がここにいるのがバレるとマズい」と察して、ハヤテは慌てて近くの空き部屋に逃げ込んだ。
身に付けていた毛布に包まり息を殺す。兄の足音はすぐ側まで来ていた。
ちょうど雲が途切れたのか外を月明かりが照らし、ハヤテの隠れている部屋の障子に兄の姿を映し出す。
こわい、と兄に対し初めてそう思った。
兄は己の部屋に戻ったのだろう。辺りは静まり返り空気も元のように落ち着いていた。
ふうと小さく息を吐き、ハヤテは恐る恐る部屋から廊下を覗き見る。
父の部屋にはまだ明かりが灯っていた。
きょろきょろと見渡し、人の気配がしないことを確認するとハヤテは廊下に身を出してもう一度ゆっくり息を吐く。
夜ももう遅い、自分も部屋に戻らなくてはとハヤテは足早に廊下を歩き出した。
きっとさっきのは夢だったんだ
兄上が父上に怒鳴り散らすなんてこと
いままで一度もなかったじゃないか
だって兄上は
いいおにいちゃんなのだから
己に言い聞かせるように呟いて、ハヤテは暗い廊下を進んでいく。
歩を進めながらも表情が強張っていることには、己でも気付いていなかった。
■■■
騒がしさに目を覚まし、ハヤテはぼんやりと身体を起こす。
昨夜の出来事が脳裏に浮かんでなかなか寝付けなかったと、眠たそうに目を擦った。
むうと目をしぱしぱさせながら顔でも洗おうと部屋から出る。
と、いやに陽が高い。
きょとんと顔を上げれば太陽が真上に近い場所にある。時間的には昼と分類される時刻だろう。
驚いてハヤテはぽかんと口を開けた。
いつもなら朝食の時間になっても自分が起きなかったら兄が起こしに来てくれるのだ。こんな時間まで眠っているはずがない。
戸惑いながらもハヤテは兄の部屋に走った。具合が悪くて自分を起こす余裕がなかったのかもしれないと思ったのだ。
しかし兄の部屋は空っぽで、布団はきちんとしまわれている。
安堵したものの、次は兄がいないことに不安を覚えた。
どこ行ったんだろうと涙目になるハヤテが兄の部屋の前で右往左往していると「あ?」と声が掛けられる。
「……こんな所で何をしている?」
その声にハヤテが振り向けば、そこには探していた兄の姿があった。隣にはサスケのとこの忍び頭が控えている。
兄の姿を視認してほっとしながら駆け寄ろうとしたハヤテだったが、昨夜のことを思い出し足が止まった。
そんな弟の態度に気も留めず、オロシは「………、あ」と気付いたように少し目を見開く。
ハヤテが今まで寝ていたということに気付いたのだろう、オロシは頭を掻いて視線を彷徨わせた。
忍び頭に目配せし下げさせた後、オロシはハヤテに言う。
「父上がいなくなった」
オロシの言葉を聞いて目をパチクリさせるハヤテ。
驚くハヤテにオロシは、父は朝起きたらもう既にいなくなっており部屋は荒らされていた、と語る。
そのため朝から捜索と調査でバタバタしていたらしい。
「…だからお前を起こす暇がなかった。これに懲りたら今後は自力で起きろ」
そう言ってオロシはぷいとそっぽを向いた。
一応現状は"夜中屋敷に族が進入し、父を襲った。父はその族を追い掛けていったか、もしくは殺された。そのため調査中"という結論になっているらしい。
オロシの説明を聞いてハヤテは首を傾げた。昨夜、何者かが進入するなんてこと起きていない。それはオロシも知っているはずだ。
「兄上は、昨日、」
「私は気付かなかったな。父上の部屋になど行かなかったし」
流れるように、オロシはそう言った。
口調に乱れもなく、表情も変わらず、いつもの兄の顔で声で、
静かに嘘の言葉を並べた。
見上げるハヤテにオロシは「お前もずっと部屋に居たから進入者には気付かなかっただろう?」と小首を傾げる。
その声を仕草を、どこか霞のように感じながら、ハヤテはこくりと頷き兄の顔を見つめた。
なぜ、嘘をついた?
昨夜兄上は父上の部屋に行っていたのに
なんで、
混乱するハヤテを尻目にオロシは「お前も知らないと伝えておく」とハヤテに背を向け立ち去ろうとする。
そんなオロシの着物の裾を掴み、ハヤテは「兄上」と震える声を外に漏らした。
袖を引かれたオロシはハヤテを一瞥し、振り払うように拘束を解いた後に言う。
「邪魔をするな、忙しいんだ」
その声は普段と違い冷たく突き放すように聞こえ、ハヤテは伸ばした手を握り締める。
代わりに小さく声を出した。
「何故」と。
不可解そうな顔で己を睨みつけた兄に怯んだものの、一度外に出した言葉は止まらない。
「何故、…嘘を、云う、」
ハヤテの言葉にオロシの表情が歪んだ。
昨夜兄が父の部屋を訪れていたのをハヤテは知っている。
そこで口論していたことも知っている。
何故それを隠すのか、ハヤテはそれを問い掛けた。
一度歪んだ兄の顔は、今やハヤテを憎々しげに睨むばかりとなっている。
「お前は、本当に、私の邪魔ばかりするな」
産まれてこのかた私の人生はお前に邪魔されてばかりだと、オロシは吐き棄てるように小さく漏らしハヤテに扇を突き付けた。
突き付けられているのは刃すらないただの大きな扇だが、ハヤテにはそれが剣のように感じられ、恐怖で二、三歩後ろに下がる。
「私は、何も知らない。私の言葉を信じぬというのならばこの家から出て行け。邪魔だ」
ぶんと扇を振り払い、弟に対しオロシは冷たい言葉を浴びせた。
その言葉と同時に兄から殺意を感じ取ったハヤテはビクッと身体を震えさせ、脇目も振らず逃げるように駆け出し外へと向かう。
叱るや怒るとはまた違った兄の態度に驚いて、兄が自分に対しそんな態度をとることにショックを受けて、勢いのままにハヤテは自宅から飛び出した。
ハヤテが去って行ったのを冷たく見守り、オロシは小さく鼻を鳴らす。
いつの間にかオロシの背後に戻ってきていた忍び頭に「余計なことはするな」と言葉少なに忠告し、オロシは踵を返して仕事に戻った。
多少厄介だが上手く立ち回る必要が出てきた。
ああ本当にアレは邪魔な弟だ。
■■■
気付けばハヤテは森の中にいた。
此処はかなり奥まった場所で、人があまり寄りつかない。そのせいか、割と珍しい動物などが生息している。
息を整えるように深呼吸をしながら、ハヤテは近くにある大きな木に寄りかかった。
脳裏に浮かぶのは先ほどの冷たい目をした兄の顔。同時にハヤテの目に涙が溢れる。
怖かった、というのもあるのだが、一番は「自分は兄に嫌われていたのかも」という不安感だ。
嫌がられていたのかもと思うと悲しくて涙が止まらない。
好きだから、甘えたのに。
好きだから、構って欲しくてワガママ言ったのに。
好きだから、傍に居たかっただけなのに。
邪魔って、言われた。
兄から放たれた言葉を反芻し、再度ぷわっとハヤテの目に涙が溜まる。
しばらくポロポロと涙を落とし続けた。
どのくらい過ぎただろうか、泣き疲れて眠ってしまったらしい。辺りは真っ暗になっていた。
一頻り泣いて落ち着いたのかハヤテは大きく息を吐き出す。
目を擦り過ぎたからか赤くなってしまったようだ、若干痛い。
この顔で動き回るのはな、と困った表情を作るハヤテだったがふいにポンと手を打ち鳴らした。
「顔、隠す」
幸運にも周りには材料になりそうなものがたくさんある。ちょこちょこと歩き回り素材を集め、ハヤテは小さな仮面を作り上げた。
木々でベースを作り、草花で色を付け、ついでに模様も描いてみる。鳥のような仮面が完成した。
できた、と嬉々として付けてみれば何も見えない。のぞき穴を空けるのを忘れた。
慌てて穴を空け己の顔に装着する。ぴったりだった。
よしと拳を握りハヤテはマントを翻し、夜の森へと消えていく。
思い切り泣いたせいか、それとも物作りに集中したせいか、先ほどの悲しさは反転し「いやむしろ我はそんな悪いことしてないし、急に怒り出して出てけとか言った兄のほうが悪くね?」と矛先が変化していた。
少し家出してやる、と頬を膨らましハヤテは風のように木々の間を駆けていく。
確かにまあ我もちょっと悪いかもしれないけれど、
きっと多分絶対に、兄は、本気で謝れば許してくれると思う、とハヤテは仮面を付けたままひとり頷いた。
だってあのひとは、おにいちゃんだから。
■■■
家出してしばらく。
ちょうど成長期と重なったのか、ハヤテの背は以前よりも伸びていた。
兄からの追っ手は一度も来ていない。あの時の兄の態度を考慮すれば刺客でも差し向けてくるかと少しばかり思ったのだが。
つまりは、兄はハヤテのことを殺したいほど憎んでいるわけではない、と言える。
でも邪魔だとか色々言われたのはムカつくからまだしばらく帰ってやんない。
嬉しそうに頷いて、ハヤテはサイズを大きく作り直した仮面を己の顔にはめ込んだ。
元は泣き顔を隠すためのものだったが、今でもそれを付けている。
というのも、家出中森の中を探索している最中、妙な噂を聞いたからだ。
行方不明だった父親が見つかったらしい。が、それは族長としての厳しくも優しい父ではなく、怒りに狂い荒ぶる魔王として発見されたのだ。
しかも父は封印されていた跡が残っていたらしい。ハヤテとしては意味がわからない。
行方不明だったと思ったら封印されており、気付けばその封印は解かれ、出てきたときには魔王と呼ばれるモノになっていたのだ。
「何故」行方不明だったのか「誰が」封じたのか「誰が」封印を解いたのか。
ちなみに、噂を聞いてちょっと会いに行ってみたが父親はハヤテのことがわからないのか見えていないのか気付いていないのか、森がどうたら言うだけだった。
父親は森に対する愛情は変わっていないようだったから、ハヤテは「まあいいか」とその場を離れ姿を隠す。
この父の噂を聞いて兄もしくは兄の関係者が来るかもしれないし、見付かったら連れ戻されるだろうし。
仮面で顔を隠すのは、父親が魔王と化したため、ハヤテが魔王の息子扱いされるのを防ぐためだ。バレたら面倒臭いことになるだろうし。
…昔々、ハヤテが本当に幼かった頃。
絵本で見た悪役はよく変装をしていた。ぐるぐる眼鏡を掛けていたり、マスクをしていたり。
幼いハヤテでも気付くくらいの簡単な変装だったが、物語の中では誰にもバレず、悪役はそのまま元気にイタズラを仕掛けるのだ。
不思議に思ってハヤテは兄に聞く。あの悪役の変装は何故誰も気付かないのか、と。
その質問に戸惑い固まり、ハヤテと絵本を交互に見ながら兄は「………顔が見えないからじゃないか?」と目線を泳がせつつ答えた。
つまり、
顔が見えなければ
変装はバレない
昔の思い出を回想しつつ、うんと頷きハヤテは仮面をコツンと叩く。
まあ実際は、特徴的な髪型に武器、独特の喋り方も相まって、仮面を付けていようが恐らくこの森に住む人間全員に正体はバレるだろうが、ハヤテはこれならバレないと信じて疑わない。
身体的には成長したが、中身はまだ若干幼い部分が残っていた。
昔は兄によく絵本を読んでもらったなと懐かしく思いつつ寂しくなりつつも、ハヤテは何かの気配を感じ静かにその場を移動する。
父親の問題もあるのだが、どうにもここ最近、得体の知れない気配が森に広がっているのだ。
気配としては陽気な部類なのだが、あまりよくない風が吹く。
それが何なのかを調べようと思ったのだ。
ひょいひょいと軽く木々を飛び移り、ハヤテはその場から立ち去っていった。
ハヤテと入れ違いになるように、先ほどハヤテが休んでいた場所にひとりの忍者が現れる。
心配そうな表情で辺りを見渡し、目的のものがいないとわかると残念そうにため息を吐いた。
黄緑色の忍び装束を見に纏うその忍者は、ハヤテの友人にとあてがわれたサスケ。ハヤテと同じように一人前と言っていい体躯に成長している。
「…ハヤテ、どこ行っちゃったんだよ…」
ハヤテが家出をしたその当時、行方不明となったハヤテの父親捜索に回されていたサスケがハヤテがいなくなったと聞かされたのはその日の夜遅くだった。
親子揃って行方不明。驚くサスケだったが、オロシの態度が父親の時とはまるで違う。
話を聞けば「出てけと言ったら出て行った」とオロシは答え、「放っておけ」と冷たく突き放すような言葉を残した。
それを聞いてサスケは、雇い主であるオロシに対して思わず刀を抜く。サスケはオロシの部下という面よりもハヤテの友人という側面のほうが強い。
友人が行方不明だが放っておけと言われ、黙っていられるほど人間は出来ていなかった。
忍び頭に押さえつけられオロシを殴ることは許されなかったが、サスケの怒りは冷めやらずいくつもの責めるような言葉をぶつけた。
サスケの暴言を静かに聞いていたオロシは、忍び頭に向けて「やめろ」と一言命じ、無表情のままサスケを見下ろす。
オロシの命に渋々とした動きで小刀をしまう忍び頭。殺される一歩手前だったらしい、それをオロシが止めてくれたらしい。
それでもオロシを睨みつけるのをやめないサスケを無視して、オロシは呆れたように忍び頭に語る。
「床を汚すつもりか?」
オロシのその言葉に、サスケの怒りは再度燃え上がった。
この人は、人の命よりも弟の安否よりも、床の心配をしやがった。
怒りはそのまま口に出て、サスケの喉を揺らす。
「アンタは!弟が心配じゃないのか!」
「…」
サスケの問いに対する返答は無音。オロシは表情ひとつ変えやしない。
それが更にサスケの苛立ちを増させた。
再度怒鳴りつけようとサスケは口を開くが、オロシが扇を突き付けたことによってサスケの言葉は封じられる。
その扇の先から威圧感を感じとり、サスケは"この人はこの地を守護する族長の血を引く人間なのだ"ということを思い出した。
そうだこの人は族長に一番近い人間なんだ。
なんかもう普通に「友だちの兄貴」程度の認識だった。
普段の姿とは掛け離れた態度のオロシを見て、サスケはようやく "なんかおかしい" と気付く。
しかしサスケがその疑問に答えを出せぬまま、オロシはイラついたような声色で言葉を落とした。
「ならばお前は抜けるといい。アレを探すなり好きにしろ」
戸惑うサスケを尻目にオロシは扇をゆるりと動かし「追い出せ」と命令を紡ぐ。
その言葉のまま有無を言わさず屋敷の外へと放り出され、サスケが声を発する暇もなく無情にも扉は閉ざされてしまった。
あっという間に追い出されサスケはぽかんと呆けたが、許しを乞うこともせず泣きつくこともせず、屋敷に背を向け走り出す。
向かうは何処にいるかもわからない友人の元。
そんな友人の気配を探し、サスケは真っ暗な森の中へと消えていった。
そんな騒ぎがあってしばらく。
サスケは森の中を彷徨い駆けていた。
ハヤテの気配は感じるのだが、その場に行っても姿は見えず、気配はふわりと移動した後なのだ。
忍者を捲くなんてホントあいつどうなってんだ、と身体能力が化け物じみている友人を想いサスケは呆れたようなため息を吐く。
そこそこの期間追い掛けているが、全くもって姿形が見えやしない。
「…まあ、近付いてはいるっぽいな」
ついさっき感じたハヤテの気配は今さっきまでここに居ましたと物語っていた。距離は縮まっているようだ。
長期間追いかけっこをしているのも無駄ではなかったらしい。
「少しは留まってくれりゃ楽なんだけどな」
苦笑しながらサスケはまたハヤテの気配を追っていく。
まあそれは無理な話だろう。
彼は風。風は留まるものではない。
ただ吹き抜けるものなのだから。
次こそはと奮起して、サスケはすとんと木の枝へと身を乗せる。
あの時のオロシの様子は少しばかりおかしかった、多分あれだ、ハヤテがなんかしたんだろう。
親子揃って行方知らずと聞いて、ハヤテは放っておけと言われて、思わず食ってかかったが、落ち着いて考えれば十中八九ハヤテがなんかやらかして、兄貴がマジギレしてしまい、弟は驚いて逃亡したと考えるほうが自然だ。
ハヤテをオロシの元まで連れ戻す。
あの人はきっと多分絶対に、きちんと謝れば許してくれるだろうから、とサスケは木の上でへらりと笑ってひとり頷いた。
だってあの人は、おにいちゃんだから。
■■■
忍び頭からの報告を聞いて、オロシは扇で口元を隠しながら小さくため息を吐く。
あのふたりは何故この騒ぎの最中、平和に追いかけっこをしているのだろうか。
森中に散らした忍たちによって、大体の情報は全てオロシの手の中にある。思った以上に便利だな、忍者って。
パラパラと報告される情報を眺めつつ、オロシは何処から手を付けたものかと画作しはじめた。
そんなオロシに控えていた忍び頭が声を掛ける。
「…良いのですか?」
「アレはコミュニケーション能力が皆無だからな。喋ったところで誰も理解しないだろう」
周りに漏らさぬよう忍び頭が最低限の言葉で問えば、オロシは意図をすぐに理解し的確な返答を返した。
アレ、とはハヤテのことだ。
族長であった父親がいなくなった日、オロシが父親の部屋に行っていたこと、口論をしていたことをハヤテが知っていたのは誤算だった。夜更かしするなとあれほど毎日言ったのに。
ハヤテがそのことを知っているのはオロシにとって不利益に繋がる。
父親が行方不明になる直前まで会っていてなおかつ争っていたと世間に知れたら「族長がいなくなったのはオロシが原因じゃないか」と思われるだろう。
慕われていた族長が魔王となり怒りを露わに暴れている原因。
ただでさえ「族長が魔王になった、ならば息子もいつかなるのか」といった目で見られているのだ。その上犯人はオロシとされればこの人はこの地で生きていけなくなる。
現状オロシはいなくなった族長の穴を埋め、森の守護と管理に尽力していた。
そのためまだ表立って非難する馬鹿野郎は出てきていないが…。
黙々と情報をまとめ指示を出す己の主人に目を向けて、忍び頭はこっそりとため息を吐く。
一応進言はしたのだ。不利益な情報を持つ弟も、それを追うお付きの忍者も、無責任に憶測だけで騒ぎ立てる住人も、全て消しますか、と。
主人からの答えは一言「放っておけ」。興味がないと言わんばかりの主人の態度に、忍び頭は引き下がるしかなかった。
自身に対する中傷紛いの噂を聞いても反応が薄いのだ。オロシはただ黙々と森を整えるだけ。
騒ぎが次から次へと起こり、
むやみやたらと風が吹き荒れているこの森で、
オロシだけが台風の目のように静かな場所で
他人事のようにぼんやりと全体を見ていた。
そんな彼が表舞台に出て行かざるを得なくなったのは、
もう少し先の話。
■■■
■■■
ハヤテは森の中を歩いていた。
仮面を付けて変装しているのだから、堂々としていてもバレない。バレないったらバレない。
トコトコと彷徨っていると、おかしな木々を発見した。
枯れているのだ。ある一部分の地域だけ、その場所に穴が空いたかのように枯木と化している。
不思議に思って近寄れば枯れた葉の上に白い結晶が付着していた。ハヤテは首を傾げながらそれを摘み口に運ぶ。
「…塩?」
しょっぱさに顔をしかめ、ハヤテは困ったように辺りを見渡した。これは、昔兄に聞いたことがある。
昔、ハヤテが幼かった頃。とくに何も考えず、海水を庭に撒いたことがあった。
何故やったかと問われたら、森の外には海水がいっぱいあるのだから、わざわざ真水を汲んできてやるより手軽じゃないかと思った程度。
しかしそれをやった瞬間、兄が本気で怒り出したのだ。
『確かに、塩水で除草をする方法はある』『効果は高い、本当にすぐに枯れる』『その上、新しく雑草が生えてくることもない』
兄は常々、草むしりが大変だと言っていたからハヤテが「ならば良いこと」と反論すれば、本気で殴られた。涙目で睨み返せば、もう一度殴られ滔々と説教をされる。
『塩水は土地そのものを殺す。お前が海水を撒いた部分は一生植物が生えなくなるぞ』『雨が降ったらどうなる?塩が流され植物の生えない地が広がるんだ』『塩水は建物の壁や床すら壊すぞ。家が崩れたらどうする』
そこまで言われて、ハヤテはようやくとんでもないことをしたと気付き涙目で兄を見上げた。
呆れたような表情で兄は『…小さい範囲だからそこまで被害はない。ここいらには鉢植えでも置くか』とハヤテの頭をぽんと撫でる。
兄の言葉に安心したのと同時に申し訳なさが込み上げて、ハヤテはそのまま兄に抱きついた。もう二度としない、そう涙声で宣言しながら。
そのまま兄弟で鉢植えを作りに行ったのだ。その鉢植えは今も家の庭にある。
思い出に浸りつつ、ハヤテはあの鉢植え元気かなと思考を明後日の方向に飛ばしかけたが目の前の枯れた植物が目に映り我に返った。
つまりはここら一帯の樹木は塩害にあって枯れているらしい。このまま放置しておけば被害がただ広がるばかり。
最終的にはこの地全てが草木の生えぬ荒野となってしまうだろう。
これはマズいとハヤテは辺りを再度見渡す。何故この場所のみが塩水に晒されたのか疑問に思ったのだ。
ここは森のど真ん中、塩水なんてあるはずもない。これが水系統の魔法であったとしても、性質としては真水に近かったはずだ。塩水じゃない。
高いところから見下ろせば何かわかるだろうかと、ハヤテはひょいと木の枝に飛び移った。
高く高く登り、木のてっぺんに到着したハヤテはぐるりと大陸を見回す。広い森と遠くには街。その先には大陸を囲む海が見える。
と、街の方角から何かが飛び出し、ゆっくりとこの森へ近付いて来るのが目に入った。
遠すぎて確認出来ないが、あれは竜だろうか。このあたりではあまり見ない種類の赤い竜。ドラゴンと称される類のものだろう。
森の外の街はハヤテたち一族の管轄外。南の大陸にある王国に与する地域だとか聞いた覚えがある。
そこから飛び立ったのだから、王国管理の竜だろうか。
外の人がこっちに来るのは珍しいなと観察しつつ、ハヤテは可能性として「王国が領地拡大のため、森を枯らした」という説を脳裏に刻む。敵か味方かわからない現状、疑っておくほうが堅実だろう。
竜が森の入り口付近に降り立ったのを確認したのちに、ハヤテは森の中のある一点に顔を向けた。
あそこから、海の気配がする。
森の中から、だ。そんな場所から海の気配がするなんて有り得ない。
ハヤテはその気配を追って、軽やかに木々を渡り歩いていった。
■■
気配を辿り、着いた場所にはひとつの人影が闊歩している。
海の気配はあれから発せられているようだ。あとなんか異様に陽気な雰囲気がその人物を囲っている。
少し前から感じた場違いな風は彼から発せられているらしい。
ふと、その人物が足を止め辺りをキョロキョロ見渡して不満げな表情を浮かべた。
「メンソーレ!」と声を張り上げたかと思うと彼の周囲からザバンと波が生まれ、辺りを水浸しにしはじめる。波は草木を飲み込んで押し流しなぎ倒しその場を海へと変えていった。
一部始終を見ていたハヤテが目を丸くしていると、その人物は満足げに笑みを浮かべ「一仕事おわり!」と言わんばかりに手をパンパンと払う。
慌ててハヤテは木から飛び降り、武器を構えてその人物の前へと躍り出た。
これが誰だかはわからないが、森の中で塩水をばら撒いているのはほぼ確実にこいつだ。
突然現れたハヤテに驚いたようだが、その人物は何か用?と言いたげに首を傾げる。
ハヤテが何をしているのか、何故海水を撒き散らかしているのか、お前は誰だと矢継ぎ早に問うと、その人物はキョトンとしながら「ワンはニラーハラー」と名乗った。
そして、
「ここは風通しが悪いさ〜!」
と不満げな顔で首を振る。
この森は "風隠の森" と呼ばれる場所だ。風の名が付くように風とは密接な関係を持つ。
風通しが悪いなんてことはない。
「森を脅かす風は去れ…」
ニラーハラーの言っている意味はわからないが、何かと理由を付けて植物の天敵・海水をばら撒いているのは紛れもない事実。
ニラーハラーを森を脅かす敵と判断し、ハヤテは武器を構え直した。
ああそうか、自分はこれをすればいい。
森を襲う脅威から、武力で森を守ればいい。
父は族長として、ひとりで森の管理と敵からの守護の両方やっていた。
その父がおかしくなっている今、
我ら、はそれを分担すればいい。
兄は頭が良いから、森を中から守り育てる。
我は戦えるから、襲ってきた敵を追い払えばいいんだ。
そうすれば、両方ひとりでやっていた父に比べ負担が減る。
兄が守り、我が戦う。
そうすればいいんだ。
もしかしたら、父もそのつもりだったのかもしれない。
だから兄には手伝いをさせ、我には武力を鍛えさせた。
ふたりで森を護れるように。
すっと頭が澄み渡る気がした。
そうしよう、と決意したハヤテは先ほどよりもしっかり武器を握りニラーハラーを睨みつける。
敵対意思を感じ取ったのかニラーハラーも表情を敵意のあるものに作り変え、「ワッターのニライカナイに連れていくさー!」と大きな身体を構えた。
ニラーハラーは武器を持たず、徒手の使い手らしい。
徒手の相手とは初めて闘うなと少し戸惑いながら、ハヤテは双剣を振りかぶる。
敵は、我が、追い払う。
そんな想いを刃に込めた。
■■
「まさかやー…。ヤッター、目障りやっさー!いみくじわからん!」
数刻打ち合い、ニラーハラーがぷんぷん怒りながらも逃亡を図る。
撃破かと問われたら退けた程度の勝利だが、なんとか勝利出来たらしい。
徒手つよい、と息を切らしハヤテは立ち去るニラーハラーをただ見送った。追い掛ける気力はもうない。
見渡せば辺り一面水浸し。もちろん、ニラーハラーの海水だ。追い払おうと立ち回ったら被害を拡大させてしまった。
落ち込みつつもハヤテは休めそうな場所へと移動する。流石に水浸しな場所で腰を下ろす気はさらさら無い。
多少よろけながら、ハヤテは駆け出していった。
このあと、この水浸しな森をとある竜騎士と魔導騎士が発見し、うっかりニラーハラーと邂逅したその竜騎士は機嫌の悪いニラーハラーの大波で薙ぎ払われてしまうのだが、それはまた別のお話。
移動しながらハヤテは悩む。
アレは非常にマズい相手だ。放っておいても森は死に、闘えば闘ったで海水を撒き散らす。
撤退させるのは容易だが、その分被害が広がってしまう。
自分ではどうしたらいいのかわからない。兄ならば良い案が浮かぶだろうか。
でも今は家出中だし。
でも相談したいし。
でも…、
悶々と悩みつつ迷いつつ、その迷いは脚にも伝わったのかその場をウロウロと行ったり来たり。
迷い迷っている合間に、ハヤテはすぐ近くに誰かの気配があることに気付いた。
悩んでいたため気配に気付くのが遅れてしまった。こんな有様では父に怒られる。
踏んだり蹴ったりの状態で、ハヤテは武器に手を添えた。
気配の動きが疾い。敵の可能性が高かったのだ。
すぐに武器を出せるようにしつつ、ハヤテは逃げようと大地を蹴る。ニラーハラーとの戦いで疲労が溜まっている。逃げられるかは割と賭け。
とんと跳ねたハヤテに対し、気配は慌てたような動きを見せた。同時に大声が辺りに響く。
「っあ、待てハヤテ!」
その声は友人の声。
予想だにしていなかった音に驚きハヤテは振り向き足を止める。
そこには最後に見たときよりも成長した姿のサスケが手をパタパタさせながら走っていた。
駆け寄ってくるサスケを待ち、ハヤテはくりんと首を傾げる。
ぜーはー息を切らし、サスケは少し待てとハヤテに向けて手を立てた。
ハヤテも足の疾いほうだが、サスケも忍者なだけあって足の速さはハヤテに勝る。
恐らく今逃げたとしてもいつかは追いつかれていただろうが、自由に動き回るハヤテとそれを追うサスケには精神的な面で差異が出ていた。
息が整ったのかサスケはハヤテの手を取って言う。
「戻ってきてくれ、ハヤテ!」
そう言われ、戻りたいのは山々だが兄と若干顔を合わせたくないハヤテは目を泳がせた。
いや帰りたいけど、相談したいけど、怖かったし、家出中だし。
そもそも森中をウロつきすぎてここがどこかわからないし。
その想いは素直に言葉に出て、まんまなことを音にする。
「我は…迷いし風…」
何も知らない人間が聞けば厨二な単語だし、深読みしすぎる輩が聞けば何かの隠語ではないかと悩ませるこの言葉が、よもやマジでただ単に迷っているだけだとは思いもしないだろう。
世界広しといえど、このハヤテの言葉を理解出来るのは兄とサスケくらいか。
ハヤテの言葉を聞いて、サスケは阿呆かとばかりにハヤテをぶん殴った。主従?なんですかそれ。
「はい帰る!家出おしまい!」とサスケが吹っ飛ばしたハヤテの手を掴めば、ハヤテは嫌々するように首を振った。
もう一発殴るべきかとサスケがコキャっと指を鳴らせば、ハヤテはひうと小さく縮こまる。
それでもまだ首を縦に振らないハヤテに対し、サスケは大きな声を張り上げた。
「お前が帰らないと、美味い菓子が食えないだろーが!」
響き渡った謎の主張に、ハヤテはきょとんと声の主を見上げる。
糖分不足しすぎて若干バグったらしい。
つまりはまあ、その程度。
■■
「…はあ。そんなヤツが」
甘味不足でよくわからん主張をしていたサスケに持っていた飴玉を渡せば、落ち着いたのかようやくマトモに話が出来るようになった。
粗方事情を話し、ついでに見掛けたニラーハラーのことを話せば「森に水やってるだけじゃね?」と首を傾げられたので、植物と海水の話をすれば驚かれた。
うんやっぱ知らなかった。知ってた。
呆れたようにハヤテが息を吐けば、サスケは誤魔化すようにアワアワとし始める。
「っそういやなんで、そんなもん付けてるんだ?」
サスケは話を変えるようにピシッととハヤテの仮面を弾いた。
魔王の息子扱いされるのが面倒だから変装、と教えればサスケは「ああなんか噂を聞いたような」と空に目を向ける。
そういえばサスケにはこの変装がすぐバレてしまっていた。
おかしい。
顔を隠せばバレないはずなのに。
ハヤテは首を傾げつつ軽く悩み、「サスケは友だちだからすぐわかっただけ」と結論付けた。
サスケが特別なだけできっと他の人には気付かれない。
うんとひとりで頷いて、ハヤテはそれについて考えるのをやめた。
「まあ、だったらなおさら帰ったほうがいいんじゃねえ?オロシ兄、……オロシ様ならなんか対処出来そうだし」
この場にオロシが居たら"なんでそこまで万能イメージが付いているんだ私は"と呆れそうなサスケの言葉に、ハヤテはしたりと頷き同意を示す。
一度脳裏に刻まれた"何でもやってくれる兄"のイメージはなかなか拭えない。こういうのは呪いかなにかに近い気がする。
頷きはしたがまだ悩むハヤテに、サスケは「なら一度遠くから見に行ったらどうだ?」と案を出した。
「ちらっとみて、機嫌が良さそうだったら直接会いに行けばいいんじゃないか?」
「ん」
オロシがあの時のままだったらハヤテが目の前に出た瞬間首を刎ねろとか言い出しそうだが、多少時間が経っているし怒りは落ち着いたと信じたい。
そもそもハヤテは刺客に襲われるようなことは無かったようだし、元々オロシから弟を殺せだの物騒な命令はされていないししてもいなかった。
弟に対しては追い出すくらいで危害を加える気はなかったようなのだ。大丈夫だろう。
そう楽観的に考えて、サスケはハヤテをちらりと見やる。
まだ少し悩んでいるようだが、会いに行くという方向に傾いているようだ。数日中の内に会いにいくだろう。
ならいいかとサスケは立ち上がり「んじゃオレはオレでちょっと動いてみる」とハヤテに笑顔を向けた。
下手に連れ合い向かったら敵認定され誤解されるかもしれない。
なんせふたりともオロシに追い出されているのだ。追い出したふたりが結託して復讐に来たと思われては本末転倒すぎる。
まあ万が一の時に備えて影から護衛はしとくかな、とサスケはへらっと笑みを浮かべた。ハヤテは強いから必要ないかもしれないが。
「ちゃんと行けよ!」
そう声を掛けて、サスケはスッと姿を隠す。腐っても忍者、本気で隠れればハヤテでも認識出来ないだろう。
あとに残されたハヤテは、まだ決断出来ないのか小さくうーうー唸っていた。
■■■
数日後、ハヤテは意を決し兄の所へと向かう。
一生分悩んだかもしれないと多少疲弊した状態で。
それでも久々に兄に会えるのは嬉しいのか、足取りは軽かった。
トントントンと木々を渡り歩いていると、ハヤテの頭上を大きな影が覆う。
その影は凄い早さで森を突っ切り、ハヤテの進行方向と同じ方角に進んで行った。
驚いて木を登り確認すれば、いつか見た赤いドラゴンが空を駆けている。どうやらそのドラゴンには誰か乗っているらしく、人影らしき何かがふたつ目に入った。
と、そのドラゴンはある場所にすっと降り立って行く。
その場所は、ハヤテの目的地と同じ場所。
兄がいる、場所だった。
「!」
それに気付いたハヤテは顔色を真っ青にし、慌てて移動を開始する。
あのドラゴンは外の竜。外とは互いに深く干渉しないという暗黙の了解があったはずだ。
それなのに、あれは森の奥深くまでやって来た。
赤い竜は火の竜。そんなのに来られたらこの森は焼けてしまう。焼かれてしまう。
パニックになりながら、ハヤテは急いで現場に向かった。
疾る最中、ハヤテの耳に風が音を届ける。それは草木が燃える音と、武器が重なる嫌な音。
やはり先ほどのドラゴンに乗っていた人間は武装していたらしい。そして、兄と戦っているらしい。
最悪の状態に息を飲み、ハヤテは足を動かす速度を更に早めた。
■■
なんとか到着したものの、すでに争う音は止んでいる。混乱しながらハヤテは多少離れた場所から気配を頼りに覗き込んだ。
ハヤテの視線の先には、赤いドラゴンと緑色の騎士と、白い騎士と、
兄の姿が映し出さる。
なんか緑色の騎士は地面と戯れているが、あ、なんか生き物がいるっぽい。
どんな状況だろうと疑問に思ったが、ハヤテは兄に目を向けた。
どうやら無事のようだ。ハヤテは安堵の息を吐いたものの、兄の傍に見知らぬモノがいる事実は変わりはない。
兄と争っていた相手だしと、つい一瞬、そこにいる外の人たちに殺気を放ってしまった。
「!?」
その瞬間、緑色の騎士が此方を見た。
離れているのに、
気付かれない距離を選んだのに、
外の人なのに、
兄すら気付いていないのに、
彼は、此方を、見た。
目が、合った。
慌ててハヤテは木の幹に姿を隠し、気配を殺し、己を落ち着かせるように心臓の辺りを握りしめる。
何アレ何アレあいつ何。
なんで、
混乱するハヤテの耳に突然物凄い殴打音が届いたが、確認する勇気は全く無かった。
■■
逸る心臓に苦戦しながらしばらくの刻を過ごしていると、気配がゆるりと動き出す。
恐る恐る確認すれば、どうやらあの騎士たちは兄から離れるつもりらしい。
ほっと息を吐き、ハヤテは先ほど目が合ったあの得体の知れない緑色の騎士の後を追う。
得体の知れなさが異常だ。何故あの距離に気付いたんだ。
こっそりと気付かれないよう注意を払い、ハヤテは尾行を開始した。
しばらく歩いていた騎士たちは、何事か話したあと足を止める。
緑色の騎士がドラゴンに指示を出し、竜は空へと舞い上がって行った。
森の中に慣れていないから迷ったのだろうかと、ハヤテも彼らに合わせ木の上に腰を下ろす。
騎士たちは変わらず何事か会話をし、
て、
…えっ?
騎士のほうに注意を向けていたハヤテは、己の身に近付く炎気に気付くのが遅れてしまった。
ようやく気付いて振り向けば、視界に赤いドラゴンが映り込む。
「??!!」とハヤテは声にならない悲鳴をあげつつ、逃げ出そうと木を蹴った。
ああそうかあいつはこの竜に偵察させていたのか。
自分を囮にして我を炙り出すために。
外の人は卑怯だ。ひどい。
そんなことを考えたのが悪かったのだろうか。
逃げ惑うハヤテは赤いドラゴンに追い付かれ、コツン、と優しく木の上から突き落とされた。
「いっ!」と小さな悲鳴を漏らし、落下しながらハヤテは思う。
超至近距離にドラゴンの顔が映るといいのは、怯え固まるほどの恐怖があるな、と。
これは死んだとハヤテは意識が遠くなるのを感じた。
■■■
ぼんやりとした世界で体を揺すられ声が聞こえ、ハヤテはゆっくり目を開ける。
視界がハッキリしてくると、ハヤテの目の前にはあの得体の知れない緑色の騎士が笑顔で出迎えてくれていた。
それだけでも十分衝撃だったのだが、その騎士が「大丈夫か?」とホザいてくるから二度衝撃を受ける。
大丈夫もなにもお前の竜のせいで落ちたんだけど!?
と、ハヤテは口を開く前に落ちた原因を思い出し、その恐怖を思い出し、それはそのまま声となって外へ飛び出て行った。
「紅き竜が!我に頭突きを!」
ハヤテがそう叫ぶと、白い騎士のほうが緑色の騎士と帰ってきた赤いドラゴンに呆れた目を向け、ハヤテに駆け寄ってくる。
ハヤテは"お前もこの緑と赤の仲間か"と警戒したが、白い騎士はハヤテを心配してくれただけらしく丁寧に介抱し始めた。
仮面に隠れて相手には見えていないが、ハヤテは驚いたように目を丸くする。
敵か味方か、嫌な奴なのかいい奴なのか、わかんない。
ハヤテが多少落ち着いたからか、騎士たちは己の名を名乗る。
緑色のほうがレオン、白いほうがマジカというらしい。ついでにハヤテを叩き落としたドラゴンはレオンの相棒だとデレッデレの顔で紹介された。
そのままレオンによりや相棒紹介という名の相棒自慢というか惚気話が始まりかけたが、マジカがそれを制して様々な意味を含めつつ「なんかその、悪い」と謝罪の言葉を並べる。
この人は何もしていないと思うのだが、何故謝るのだろうか。
ハヤテは疑問に思ったが、思い返してみればハヤテが何か失敗したときには兄が相手に謝罪してくれていた。ホゴシャのセキニンというものらしい。
それか、と気付きハヤテはマジカに向けて「あんたは悪くない」の意味を込め首を振る。
とはいえこのふたりと1匹に対して警戒の意を示すハヤテが押し黙っていると、マジカはレオンに顔を向け問い詰めた。
「なんでお前は人を高所から突き落としたんだよ」
「え?だってさっきからずっとおれらのほう見てたから」
きょとんとした顔でレオンは答える。
レオンの言葉にハヤテは目を丸くした。気付かれていたのか。
十分距離を取り気配を殺していたつもりだったのに、それは完全にバレていたらしい。
仮面の下で驚き戸惑っていたハヤテに、レオンは「おれらに何か用?」と首を傾げた。
その問いには答えず、ハヤテは疑問を口にする。
「…いつ、我に気付いた?」
「相棒に愛のビンタもらったとき」
レオンの返答を聞いてハヤテは言葉に詰まり目を逸らす。
ビンタというのは恐らく、あの時聞こえた殴打音のことだろう。
ああ、あの時からずっと、この騎士は自分の存在に気付いていたのか。
そこからずっと、所在がバレていた。
なんだろう、こいつは。
サスケのような忍びでもなく、この森の人間でもないのに、気配を読む能力が異様に高い。
レオンの化け物っぶりを認識しあからさまに動揺するハヤテに、レオンは「敵ならとりあえずぶっ飛ばすけど」と小首を傾げた。
お前みたいな化け物にそれやられたら我は多分死ぬ。
死刑宣告に限りなく近いレオンの発言に恐怖しつつ、視線を彷徨わせながらハヤテは己の名を語り、素性を明かした。
ハヤテの言葉を聞いて、ふたりは驚いたような表情となる。
先ほど兄から何か聞いていたのだろう。
ということはつまり、兄はハヤテのことを口に出したということだ。そしてそれはつまり、ハヤテのことを気には掛けているということだろう。
初対面の外部の人間に「弟がいます」なんてわざわざ言わないだろうから。
「行方不明だって聞いたけど、本人が出た」
驚いた口調でレオンが呟くのを耳に捉え、ハヤテはつい口元を緩める。家出中だというのも話したのか、心配してくれているのだろうか。
なら帰っても大丈夫だろうかとハヤテが微笑んでいると、マジカから「なんでオレらを見張ってたのか」と疑問を投げかけられた。
普通、火の竜を連れて完全武装した連中が森の奥の族長の家に向かっているのを見たら、敵だと判断すると思うのだが。
そして明らかに争う音を撒き散らしたら、危険人物だと判断すると思うのだが。
それに、そのふたりと1匹に襲撃されていたのはハヤテの実の兄なのだ。
警戒して当然だと思う。
怪訝に思いながらハヤテがその意を口に出せば、「へ?」と素っ頓狂な音が返ってきた。
何か変なことを言っただろうか。
「弟サンは、兄貴のことを、恨んでないのか?」
「…?」
なんで。
そんな感情を露骨に出しながらハヤテはきょとんとした顔でふたりを見上げた。
心配こそするが、兄を恨む要因は全くないと思う。
そりゃまあ家出のきっかけとなったあの日のことはちょっと腹立つけど、恨むほどじゃないし。
というか、森を護るなら兄は不可欠だ。きっちり管理してもらわなければ困る。んなこと自分には出来そうにないのだから。
「我は外敵と闘って森を護り、兄は長として森そのものを護り導き育てれば良い」
家出中、森を彷徨っていた頃。
草はぼうぼう、木々は好き勝手生え、苔むした岩がゴロゴロ、地面も荒れ切った箇所があった。
樹海ってのはこんな感じかなとハヤテは素通りしたのだが、数日後同じ場所を訪れたら綺麗さっぱり整備されていた。
森って自動整備機能が付いてたっけと不思議に思ったのだが、こっそり近隣住民の話を盗み聞いたところ、兄が指示を出し即座に整えたらしい。
あんな森の場末に気付くのも流石だし、それをすぐさま整える兄の手腕にも驚いた。
あれはハヤテに真似が出来ない。
あのまま放置してしまえばあそこは間違った方向に育ち、魔窟と化してしまっただろう。
森を正しく整えられる、正しく育てられる、正しい道に導ける。兄はそういう人なのだ。
得意げな顔をするハヤテに、何故だか呆れたような目線が突き刺さった。
「…お前ら兄弟はもっとちゃんと話し合え」
初対面の人間にも話し合えと言われ、ハヤテは言葉に詰まる。
行こうと思ったけどほらレオンたちが来たから行けなくなっただけでそりゃ怒られるかもなって思って行く勇気がなかったのもあるけどでも、
頭の中でグダグダ言い訳を並べながら、ハヤテは手を弄り押し黙った。
そもそもあんたらにそれを言われる筋合いはないとハヤテはレオンたちを真っ直ぐ見据え、よく通る声で言葉を紡ぐ。
「…此処は我らの森。我らが住む場所。…我らがやる」
放っとけ。という意味を込めてそう言えば、レオンとマジカは顔を見合わせ苦笑した。
ハヤテがきょとんとふたりを見つめれば、レオンは「お前の兄貴も同じこと言ってたわ」とハヤテの頭を軽く叩く。
兄上と、一緒。
それを知ってハヤテの顔は大いに緩む。
仮面の上からでもハヤテが喜んでいるのがわかったのか、レオンたちも微笑ましそうに笑った。
■■
「しかし、これから大変だな。後継争いの渦中に飛び込むのか」
「…?」
レオンの言葉にハヤテは首を傾げる。
なんだそれ。
ハヤテの態度にレオンはきょとんとし、マジカは目を丸くした。
「あああああ、なんか話が噛み合わないと思ったら!弟サンは知らなかったのかよ!?」そう叫んでマジカは頭を抱える。
なんか知らぬ間に後継争いが勃発していたらしい。
そしてそれはハヤテとオロシのことらしい。
なんか森がザワザワしてるなと思ったら、それが原因だったらしい。
驚くハヤテはマジカに「お前ら本当マジ早く話し合え、早急に話し合え、今すぐ話し合え!」と肩を揺すられる。
その勢いに負けてハヤテが思わずコクコクと頷けば、マジカは脱力したように「マジ有り得ねぇ…」と呟いた。
勢い余って頷いたが「族長」ならば兄のほうだろう。
森を一族を導き育てるのが族長の役目なのだから、それが出来る兄のほうがなればいい。
なんで争いなんかおきているのだろう、と渦中のど真ん中にいるらしいハヤテは不思議そうに首を傾げた。
■■
「そういやなんでハヤテは仮面なんか付けてんだ?」
不思議そうにレオンが問う。ハヤテが事情を話せば「魔王ってあんたの親父かよ」とマジカが大きな声を上げた。
レオンは「ああ最近感じるやな感じの風は魔王か」とポンと手を叩き納得したように頷いている。
そのままレオンはハヤテの顔をじっくり見て、首を傾げた。
「父親があれで、兄貴があれ…。あれ、仮面…?」
不思議そうな目でハヤテを見つめるレオン。「…なあ、その仮面どうなってるんだ?」と心底理解出来ない表情を浮かべる。
普通の仮面だが、外の人には珍しいのだろうか。
ハヤテも首を傾げつつ、正体もバラしてあるのだからと仮面を外し差し出した。
ら、
「え?あれ? 鼻が高くない!?」
凄まじい勢いでコンプレックスを指摘された。我こいつ嫌い。
思わず赤くなり、慌ててすぐに仮面を付ける。
ハヤテ唯一のコンプレックス。
それは父も兄も立派な鼻を持っているのに、自分だけ鼻が低いことだった。
「っ、っ、ッ!すぐ、すぐ伸びる!ちゃんと…」
「待てそっちなのか!?長いほうがいいのか!?」
一瞬で、「当たり前だろう」と膨れるハヤテと "仮面を取ったらイケメンが出てきたと思ったら斜め上のことを言い出した" と言いたげなレオン。そして「阿呆な会話してねーで帰るぞ」と赤竜を撫でるマジカのカオス空間が出来上がる。
わちゃわちゃしたままレオンはマジカに引っ叩かれ、頭を下げさせられた。
我こいつ嫌い。
不機嫌そうなハヤテに申し訳なさそうな目を向けながらレオンは言う。
「……仮面、外したほうがいいんじゃないか?」
言われてもぶくっと膨れたままハヤテはそっぽを向いた。
ハヤテの態度に目を泳がせながら、レオンはしどろもどろになりながら言葉を続ける。
「誰かの気持ちを知りたければ、きちんと相手の顔を見て話せ。
言葉だけではわからないこともある。音だけではわからないこともある。文字だけではわからないこともある。
きちんと視て聴いて感じろ」
そう教わったと、頭を描いた。
「仮面で隠したら、そりゃ便利かもしれないけどさ。それだと大事なことが相手には伝わらない」
そう真っ直ぐな目でレオンは語る。
伝えたい気持ちがあるなら、仮面なんか捨ててきちんと相手に顔を見せて、相手の顔を見なくちゃ駄目だ、と締めくくった。
ハヤテはその言葉を聞いて、そっと己の仮面に手を添える。
隠したい気持ちがあるから外せないのか、それとも何かの心理が関わっているのか、己ではよくわからなかった。
■■■
…
まあ、価値観ってのは人それぞれですし?
身内がそうならそうなるでしょうし?
…早く伸びろと夜な夜な引っ張ってそうですね、彼。
今後成長し、鼻が少し高くなったら
凄く喜びそうな感じではありますが。
実際彼は他の人と比べて鼻が高めになるので
血筋ってのは凄いもんだと実感します。
血筋は良くも悪くも受け継がれ
繋がっていくものなんでしょうね。
ああ、余談ではありますが
「顔を隠す」という行為はいくつかの心理を示します。
例えばそうですね。
「構ってほしい」という欲でしょうか。
子どもや動物がやりませんか?
ちらっと柱の陰から顔の半分隠して覗き込む行為。
あれは一応、そういう心理が主体なんですよ。
寂しがりな人ほど、構ってほしい時に顔を隠して相手の反応を待っていたりします。
さて、
竜騎士のほうとは多少認識の差がありましたが、
視点を変えればこんなもの。
他人の思考を理解するなんて、
心でも読まねば不可能でしょう。
このあと兄弟喧嘩が始まるか、
それとも和解して共闘するのか。
道はふたつ、提示されております。
ひっくり返るかこのまま進むか、
まあそれは、風のままに。
■■■■
木から落とされたダメージを数日かけて癒したあと、ハヤテは仮面を付けたまま、外套を翻し森の中を駆ける。
目指すは兄の元。
散々話し合えと言われたし、知らぬうちに発生していた後継争いのことを確認したい。
あとは。
ハヤテがぐるぐると思考を回していると、いつの間にか眼下に目的の人物を発見した。
遠目に見ても多少疲れている様子なのがわかる。それでも兄は、森に対して穏やかな目を向けていた。
ストンとハヤテが地上に降りれば、兄はその穏やかな目を消し去り機嫌が悪そうに目を吊り上げる。
その目に若干怯んだが、ハヤテはぐっと堪え後継問題の話よりも先に、ずっと心に引っ掛かっていたことを問い掛けた。
「…父を濁らせしは兄か?」
あの時のことを、静かに問う。
父と兄が夜中に口論をしていた、崩れ始めたあの夜のことを。
そのあとすぐに父は消え、兄はいなくなった父の居場所を乗っ取るように動きはじめた。
普通に考えれば、兄のせいで父が壊れたと予想出来る。
それを誰にも言わなかったのは、
誰にも話さなかったのは、
兄を信じていたからだ。
そんなことをする人ではない、と。
しかしハヤテの問いに対する答えは、
「…だとしたらどうだと言うんだ?」
冷たい冷たい言葉だった。
望んでいたのはその言葉ではない。
怒り狂われたとしても、否定の言葉が欲しかった。
否定の言葉、が、…、
あれ?
むしろ逆だ何故兄は否定の言葉を発さない?
事実であれ嘘であれ、
この問いに関しては否定するのが普通だろう。
何故それをしないのか。
そもそも先ほどの兄の言葉をよくよく考えれば、
あの台詞は "否定も肯定もしていない" …?
否定でもなく肯定でもなく、ただ問いに問いを返しただけの言葉。
もしや兄にもわからないのではないだろうか。
いなくなった理由も、壊れた理由も何もかも。
ただ、己と口論したすぐあとに消失したのだから、兄は恐らくこう思う。
「私のせいで父はいなくなったのではないか」と。
ハヤテが一歩前へ進む。と、オロシはハヤテから距離を取るように一歩後ずさった。
あ、これ結構傷つく。
若干ショックを受けつつ、ハヤテは「兄上」と澄んだ声を掛けつつ仮面を外す。
これは、もういらない。
きちんと前を見なくてはいけないのだから。
きちんと伝えなくてはいけないのだから。
ハヤテはとんと駆けて、兄の着物の裾を掴み、穏やかな顔で見上げながら、ゆっくり言葉を紡ぎ出す。
「大丈夫」
と。
■■
ハヤテがそう伝えれば、オロシは一瞬目を丸くしてすぐに逸らし口を結んだ。
それでも掴んだ手を振り払われはしなかったし、暴言を吐かれるわけでもない。
影に潜む護衛を差し向けられるわけでもなかった。
兄は自分を害する気はない、それに気付いたハヤテは嬉しそうに微笑む。
そんな空気をぶち壊すように、大きな人影が兄弟の前に現れた。
「このクサった森は、ワンがキレイにすんどー!!」
独特な口調に独特の衣装。大柄なあの姿は一度見たら忘れない。
どすどすと重そうな足音をたて、大きな声を撒き散らし近付いてくるそいつは、ニラーハラーだった。
森を治めている一族がいることを突き止めたのだろう、真っ直ぐハヤテたちのほうに向かってくる。
一度戦ってニラーハラーのヤバさと強さを知っているハヤテは、それを兄に伝えようと口を開いた、が、オロシの顔を見たハヤテは言葉を飲み込んだ。
兄の表情は厳しく鋭く、ニラーハラーを憎々しげに射抜いている。
凶悪さは把握しているようだ。ならばわざわざ言う必要はない。
オロシはちらりとハヤテを見やり、小さいため息を吐いたあと、しっかりハヤテと目を合わせ言葉を紡いだ。
「今こそ力を合わせ、邪悪なる風を退けようぞ!」
「! 我が兄よ…」
オロシの言葉にハヤテはなんとか言葉を返し、しばらく兄の顔を見つめ返したあと、敵に顔を向け直す。
やっとこっちを見てくれた。
そうだこの人は"我の"兄なんだ。自分だけの兄なんだ。
その兄が力を合わせるって言った。
敵を前にして、ハヤテは頬を緩ませる。
その顔を兄に見られ、凄まじく怪訝な表情を向けられた。
けれど、それがどうしたそれがなんだ。
構わない構わない構わない。
兄は言った「兄弟で力を合わせよう」と。
そうだそれでいいんだ。
我ら兄弟で森を護ればいい。
森を荒らす嫌なものから、
大事な森を護ればいい
兄弟ふたりで力を合わせて。
ハヤテは笑みの形に口元を作り、敵に向かって疾風のように駆け出した。
さあ今ここに【森を救う】疾風の騎士が目覚めた。
森を護るのが騎士ならば、森を救う彼はきっと。
■■■
勢い良く切り掛かったハヤテの刃は、ニラーハラーに軽く振り払われた。
すぐさま体勢を立て直すハヤテを睨み付け、ニラーハラーは「ヤッター、ムル、ニライカナイに連れていちゅんどーッ!」と声を張り上げる。
そういえば前も似たようなことを言っていたな、とハヤテは眉をひそめた。ニライカナイってなんだろう。
というかニラーハラーの言葉は難解すぎて何言ってるのか全くわからない、そうハヤテが不満を漏らせば兄は「お前がそれを言うのか…」と心底呆れたような表情を向けた。
「?」とハヤテが首を傾げれば、兄は「いやいいもう諦めた」とため息を吐く。当人に自覚がないのがタチ悪い。
兄弟でごちゃごちゃ話している間にニラーハラーは2対1では分が悪いと判断したのか陽気に踊り始めた。
ハヤテが愉快な音楽と「オーリトーリ!」と叫ぶニラーハラーの声に気付き慌ててニラーハラーを注視すれば、ニラーハラーの傍にふよんと何かが現れる。
それは6本足で顔はぐるぐるひらひらしており、ふよふよと宙に浮いていた。ふわんと触手のような手?足?を動かしてハヤテたちに攻撃を仕掛ける。
ニラーハラーも得体のしれない人物で、言葉もよくわからない。そしてその上、眷属すらよくわからないものらしい。
ぶきみー、とニラーハラーの眷属の触手を切り落としながらハヤテは冷や汗を流した。斬った感触としては土や粘土などのそういったものに近い。
水ぶっかけたら溶けそうだなと、ぼんやり考えながら眷属を切り捨て続けた。
兄は風を飛ばしニラーハラーに毒を浴びせ続けている。本体は兄に任せておけばいいだろう。
近くにいる眷属は全部潰し終わったと泥を頬に付けながらハヤテがひと息つく。と、イライラしたような口調でニラーハラーが腕を天に向けた。
「フリムン、ター、ヤー!」と、そんな声とともにニラーハラーは手を振り下ろす。その瞬間大きな津波が現れて、逃げる間も無く兄弟ふたりを包み込んだ。
しばらくして大波が引き、水浸しになったふたりがその場に姿を表す。
塩水を浴びベタベタする身体に苛立ちながら、ハヤテは兄も多少のダメージを受けて息を荒くしていたのに気付き、慌てて手で印を組み始めた。
「風よ、我が眷属に恵みを!ソウジョウボウ、涼風陣!」
ハヤテがそう唱えるとふわんと癒しの風が兄弟を包み、傷付いた身体を治していく。
これで大丈夫とハヤテが安堵の息を吐くと、突然ガッと兄に頭を掴まれた。「へっ?」と抜けた音を漏らせば兄は掴んだ手に力を込め始める。痛い。
混乱するハヤテを尻目に静かな怒りを含ませてオロシはゆっくり威圧をかけ言った。
「誰が、誰の、眷属だ?」
「兄上、敵!敵、目の前!」
んなことやってる場合じゃねえだろとハヤテが手をバタバタさせて訴えれば、オロシはフンと鼻を鳴らして手を離す。
回復してあげたら怒られた。ひどい。
涙目になりながらハヤテはニラーハラーに向き直った。この怒りと悲しみは敵にぶつけるしかないだろうとニラーハラーを睨み付ける。
森が荒れたのも、
父上がおかしくなったのも、
兄上が冷たくなったのも
兄上がなんか酷いのも、
兄上が我を睨み付けてくるのも、
兄上がなんか怒ってるのも、
全部全部お前のせいだ、今そう決めた!
ばーか!
■■■
冤罪にもほどがある想いを叩きつけ、ハヤテはニラーハラーに刃を下ろす。
その一撃が致命傷となったのかニラーハラーは「ワンの邪魔さんけーッ!!許さんどーッ!!」と叫び、慌てて逃げ出して行った。
追い払えた。
力を合わせて撃退出来た。
闘いの疲労も吹き飛ばし、ハヤテはへらっと微笑みながら兄のほうに顔を向ける。
が、兄は無表情でハヤテを見ていた。
あ、これ駄目だ。説教するときの顔だ。
あわあわしはじめるハヤテに、一歩近づくオロシ。オロシが口を開いたその瞬間、誰かの声が割り込んだ。
「おー、仲直りしたか?」
乱入したのは、見覚えのあるような全くないような騎士。しかしこの彼が纏う風は覚えている。
これが正しいのであれば、
「…マジカとかいったか。イメチェンでもしたのか?」
兄も怪訝そうな表情で問うような声を発した。
そうなのだ。
気配はマジカ。しかし以前出会った時と姿が違う。
前は真っ白だった髪も鎧も反転し、髪も鎧も黒く染まっている。
黒いマジカはケラケラ笑って「ダークネス!」と親指を立てた。
反転して若干性格が崩れてるらしい。
曰く、マジカは闇系の魔法才能が他のものに比べて低かったそうだ。
それを鍛えようと己から闇を取り込み、荒療治でのスピード成長を目指したらしい。
「あいつがなんかこー、突っ走るタイプだからさ。補佐しやすくしとこーと思ったわけだ」
笑みを絶やさずマジカは頭を掻いたが、いやこれキッツいわー、と手をヒラヒラさせて笑い出した。
少しでも気を抜くと闇に簡単に呑まれてしまうくらいのギリギリで踏ん張っているらしい。
これならいっそのこと他の奴らのように呑まれて闇に身を任せたほうか楽かも、と少しばかり疲れた顔を見せる。
それに気付いたハヤテは困った顔をしながら厄祓いの風をマジカに吹き掛けた。
「どーも」と笑い、マジカは気持ち良さそうにぐっと身体を伸ばす。もうちょいな気がする、もう少しでダークマジックパワーを極められる気がすると、呟いてオロシに顔を向けた。
「だからちょいと森貸してくれないか?」
へらっと笑ってマジカはオロシにそう強請る。現状キャパシティがギリギリで、暴走を起こす可能性がある。その場合の被害を最小限にしたいらしい。
レオンがどっか行っちまったから暇なんだとマジカは再度笑った。
マジカの提案にオロシは多少渋い顔を見せる。まあ、もしマジカが力の制御に失敗した際に真っ先に被害を受けるのは森だ。オロシとしては嫌だろう。
オロシはしばらく死ぬほど不機嫌な顔をしていたが、ため息ひとつ吐いたあと「好きにしろ」と許可を出した。
意外だなとハヤテが驚いていると、マジカは「どーも」と軽く礼をいい、オロシに向けて笑顔を見せる。
「そーいや聞いたことあんだけどさ、親に叱られ厳しく育てられた子供って自分じゃなんも考えらんないガキに育つんだって?」
「…何が言いたい?」
別に、と笑顔を崩さぬままマジカはオロシの胸ぐらを掴み引き寄せ鋭い目付きで小さく呟いた。
だからあんたの弟は、あんたと間逆の教育されたんだろ、と。
オロシは失敗ではない。彼は言われたことは完璧にこなす。言われたこと、は。
今回もオロシは教えられた通り「森を束ねる」という一族としての言い付けをこなしていただけなのだ。
ただ、ハヤテの存在がそれをトコトン狂わせた。
居場所を取られる恐怖感と不安感、家族への不信、突然空いた族長の椅子。
全部がタイミング良く重なって、オロシは初めて欲を出す。
「己の居場所を失いたくない」と。
唯一知っている自分の居場所。この森に執着し始めた。
「…族長サンは、この森に執拗に執着するくらいが丁度良いんだよ。簡単に許可出すなよ、腑抜けてんじゃねぇぞ?」
マジになれねぇヤツは、キライだぜ?とマジカは笑う。目の奥は笑っていなかった。
マジカに言われようやく自覚したのか、オロシは表情を崩して息を飲む。
しかし直ぐに元の態度を取り戻し、「ならば許可を撤回してやろうか?」とマジカを睨み付けた。
「それはそれ。おやここの族長は一度出した許可をあっさり撤回するマジ底意地の悪い奴だったのか」
「お前闇に呑まれてないっての嘘だろ」
あっけらかんと煽りにくるマジカにため息を吐いて、オロシは頭を抑えた。
白かったときはもう少し言葉を選んだだろうに、黒くなったら言いにくいことをズバズバ叩き込みに来やがる。
さあね、とマジカは今度は困ったように優しく微笑んだ。
ふたりの会話がよく聞こえなかったハヤテは首を傾げ、何故だか多少ギスギスし始めたのを払拭しようと声を掛ける。
「竜騎士が所在無く、心淋しげに見える」
「おやそうなのか。竜でも呼んでやろうか?」
なんで、と怪訝な表情をするマジカに「だってお前竜好きだろう?」とオロシは意地の悪い顔を向けた。
「は?レオンじゃあるまいし」と反論するマジカを無視してオロシはパチンとルートンを呼び出す。
生えてきたルートンを抱き上げて、オロシは言う。
「この前こいつをずっと見てただろう。普通の奴は竜に対して恐怖感のが勝るからあんなにじっくり見ない」
「ん。前、紅き竜を愛撫していた。から、好いている、と」
兄弟ふたりに指摘され、過去の己の行動を思い出し、マジカは頭を抱えて崩れ落ちた。そのまま「悪意のない洗脳ってマジ怖ぇ…」と口元を押さえて小さく漏らす。
幼い頃は確かにマジカも竜に対して恐怖感があった、実際レオンの相棒を見て固まったこともある。
それが、毎日毎日間近で接し、毎日毎日レオンからの惚気話を聞いて、竜に触れない日はなかった。
その結果、竜がいれば目で追い、慣れた竜なら無意識に撫でられるくらいにまで洗脳されている。それをようやく自覚した。
マジカはレオンのおかげで竜に慣れすぎて、世間一般的に「竜好き」に分類されるだろう。
あの竜馬鹿と同類扱いは御免被る。
「お前割と酷いな」
「うっせ!オレはレオンとマジに友達なんだよ。チヤホヤ褒めあうだけの糞みたいな関係は友達じゃねーだろうが!」
威勢良く啖呵を切った後、自分の言ったことに気付いたのか顔を朱に染めマジカは固まった。
まあ、やることなすこと肯定し気持ち良くさせるだけだったり、己の意見を押し付ける強制する関係は確かに友人とは言えない。主従かなんかだろう、駄目なほうの。
しかしそれをわざわざ口に出したのは恥ずかしかったらしい。マジカは赤くなったまま、「じゃあ森借りるからな!」と叫んで立ち去って行った。
残された兄弟は凄い勢いで走り去るマジカをポカンと見送るしかない。
まあ一応、ちゃんと友達やってるらしい。平和でいいじゃないか、うん。
微妙な空気となったこの場で、ハヤテはふむと考える。
ニラーハラーは追い返しただけだ、撤退はさせたがまたいつか襲いにくるとも限らない。
今回ギリギリ追い払う程度だったハヤテたちは、力が足りていないのだ。
そう思ったハヤテは兄に顔を向け言う。
「…もっと、強く」
なりたいと、ならなければならないとそう訴えた。
それは同時に、まだ家には帰らない、と言う意味を併せ持っている。
それを聞いて兄は一度口を開き一度閉じて唇を舐めた。
ふうといつものようにため息を吐き、弟の顔を見て穏やかに言う。
「…行ってこい」
その言葉にハヤテは弾けるような笑顔を見せて頷いた。
「行ってきます」と兄に手を振って、ハヤテまた森の中へと戻って行く。
森は大丈夫兄が護ってくれるから。
我は強くなる、森を守る兄を護れるように。
ああそうだ。父上の弟子の誰かでも探そうか。
きっととても強いだろうから、丁度いい。
どこにいるのかな、とハヤテは木の上に飛び移る。
綺麗な夕日が森を照らし、茜色に染まっていた。
■■■■
兄弟の元から逃げ出したマジカは、ここなら良いかと木の幹に寄りかかる。息を整えるように深呼吸し、頭を抑えた。
ある程度、調べた。
調べた結果マジカとしては「親子で殺し合いさせたくない」と思った。思ってしまった。
話を聞けばあの魔王は元は人格者ではあったようだ。それを知ったらレオンは「元に戻す方法を探そう」と言いかねない。
が、それは無理だ。闇強化をした身だからわかる。
闇ってのはマジだ。マジで対象を呑み込みにくる。
そして、あそこまで、魔王になるまで呑まれたならば、元に戻せる可能性はかなり低い。
まああの魔王は族長やってただけあって精神力が強い。正気に戻すくらいは出来そうだ。
なんせ、あの魔王は武術大会で入賞を逃した相手にも「よく頑張った」と優しく褒めてかつ労われる性格。指導者に向いている、殺すのは惜しい。
しかし頼れる相手は誰もいない。だいたいが魔王排除の方向に動いているため、連携は取れない。
マジカひとりで、排除部隊よりも先に動くしかないのだ。
「んじゃま、頑張りますか」
手をぐるりと回して準備をし、マジカは闇の力を制御するための特訓を開始する。
誰が魔王を壊したか、誰が魔王を封じたか、誰が魔王を目覚めさせたか。
そんなことはどうでもいい。
なんとなくだが、マジカは「魔王を封じたのは魔王本人ではないか」と考えていた。一度見掛けたときに、あの魔王は己の封印を解いた相手に対し怒りをぶつけていたからだ。
魔王化し暴走の危険性を己で察し、森に被害が回らぬよう自らに封印を施したのではないだろうか。
それが解かれてしまったから、怒った。
ならば、多少弱らせ鎮めさせられれば話が通じそうだと感じている。
ただマジカがやろうとしていることの難度はかなり高い。
日が経てば暴走が進行し魔王を超え邪神にまでなりかねない。
それにひとりで対応するために、マジカは光と闇を含んだ全ての属性が扱えるようになる必要があった。
目指すは光と闇を制したハイブリッド、陰陽両方併せ持つ渾沌の力。
魔王の対応はオレがやるから、
森のことはあの兄弟に、
竜のことは友人に託す。
「全員、ヘマすんなよ?」
木々の間からこぼれる茜色の空を見上げて、マジカは笑いながら声を風に乗せた。
届きますように。
■■■■■
さて、森での騒ぎはひと段落。
跡継ぎ騒ぎがまだ完全には解決していませんがね。
彼はすっかり忘れているようですが、
いつか思い出すでしょう。
それまでしばし置いときますか。
どうやら彼は、
周りの人間がだいたい察してくれるせいで
「想いは言葉にしないと伝わらない」ということに少し疎いようです。
まあ言っても独特の表現を使うから
伝わらないかもしれませんが。
さて、
次はまた王国で騒ぎがあるみたいですが、
…どうしましょうかねえ…
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