No.862054

System.out.println("音速乃りぼん"); /*第2話*/

髙見青磁さん

拓人のマシンから"りぼん"が出てきてしまった。
その謎を解くため、キョウコに教えを求める拓人。
りぼんは次第に拓人の生活に溶け込んでいく。
そんな中、キョウコが事故に遭ってしまう。
拓人とキョウコ、そして、りぼんの運命や如何に?!

2016-08-06 13:34:11 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:480   閲覧ユーザー数:480

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「……お兄ちゃん! 日曜日だからって、いつまで寝てるの?」

 うぅ、背中が痛い。そうだ、昨日はりぼんが現れて、それで突然倒れて、俺は床でねたんだということを拓斗は思い出した。

「お兄ちゃん、入るよ」

 !

「やめろ!」

 しかし、遅かった。

「えっ?」

 妹の目がベッドに移る。そしてそこに見知らぬ女性を認める。そして妹はすぐに行動した。

「お母さーん。お兄ちゃんが女の人連れ込んだ」

 盛大にでかい声で階下にチクリやがった。

「何ですか、騒々しい」

 オカンが二階に上がってくる音が聞こえる。しかし拓斗にはもうどうしようもなかった。そして、オカンもベッドに横たわる息子の彼女らしき女を認めた。

「あらあら、まあまあ」

「ねー、お兄ちゃん、女の人連れ込んでるでしょ」

「そうねぇ、あの人、朝ご飯は食べるのかしら」

「人の家に上がり込んでここまでふてぶてしいんだから、食べるんじゃない?」

 拓斗の母と妹は勝手なことを言っている。

「うっ、うーん」

 りぼんが目を覚ました。

「あ、起きた。お母さん、起きたよ」

「あら、そうねぇ」

「ワタシは音速の、りぼん。あなたのために、歌います」

「やめろ、歌うな」

「キャンセル、されました」

「あの、あなた、朝ご飯は食べますか?」

「はい、ワタシは、歌います」

「はあ」

「お母さん、なんかあの人変だよ」

「そんなこと言うんじゃありません。じゃあ、二人とも下に来て。朝ご飯用意するから」

「分かったよ」

 拓斗の母は姿を消した。

「お兄ちゃん、逃げちゃダメだよ。お父さんの前でちゃんと説明してもらうんだから」

「うるせーよ、早く行け」

 妹はぶーたれて去っていった。

「なあ、りぼん。おまえ、自分がここにいる理由、説明できるか?」

「概ねできます」

「じゃあ、任せるぞ」

 

 結果的にりぼんに説明を任せて良かったのかもしれない。かなり現実離れかつ技術的過ぎる話で、家族もよく分からないという様子だった。

「まあ、拡張現実の一種か」

 朝食の席で拓斗の父が説明を聞いて最初に言った言葉がそれだった。

「でも、家族が増えたみたいでちょっと幸せですね、お父さん」

 母がのんびりとした様子で言った。

「しかしなぁ、母さん、戸籍も過去の経歴もない人間をそのままにしておいていいとは思わないがね」

「難しいことはお父さんに任せます。でも、安心してね、りぼんちゃん。ご飯だけは食べさせてあげられるわよ」

「アリガトウゴザイマス」

 りぼんは深々とお辞儀をした。

 とにかく、キョウコのところへ行こう。このことをちゃんと理解してくれるのはキョウコしかいない気がした。

 そのまま街を歩くには目立ちすぎる。りぼんには目立たない格好をしてもらうことにした。もちろん拓斗が女物の服を持っているはずもないので、妹に拝み倒して借りてきた。これで、服装だけで衆目を集めることはないだろう。

 それにしても、キョウコはりぼんの戻し方を素直に教えてくれるだろうか、何かで機嫌を取るか。そう思って、LIVEボカロで拾ったバレッタのことを思い出した。持ち主には悪いがこれをダシにして聞き出してみようかと思った。もっとも、こんなもので喜んでくれるとは限らないのだが。

 キョウコの家のある住宅街まで来た。呼び鈴を押そうとして、手が止まった。それまで、キョウコ以外の人が出てきたらどうするか、ということを考えていなかった。なんて言い訳すればいいのか。同級生では無理がありすぎる。かといって、日曜日だから、いきなりご両親が出てきたとして、とても恋人ですとか言える勇気がない。どうすればいいだろうか。でも、そんなこと言っていられない。とにかく当たって砕けろだ。いや、砕けちゃダメなんだろうけど。

 拓斗は意を決して呼び鈴を押した。ピンポーンという音が住宅街に響く。しばし待った。誰も出ない。留守か? 二度目の呼び鈴にも反応はなかった。一応、念のために三回鳴らしてみた。やっぱり、留守のようだ。拓斗はなんだか少し安心していた。でも、キョウコは探さなきゃならない。店の方に行ってみようと思った。

 りぼんは繁華街を珍しそうに見ている。キョウコの店の前まで来た。シャッターが下りていた。休みか。ていうか、日曜日に休むなよと思った。仕方ない、他に接点のあるところはと拓斗は考えた。

 LIVEボカロ、思い当たるところは、もうここぐらいしかない。日曜日のイベントで少し混み合っていた。りぼんとはぐれないように、気をつけながらキョウコを探した。そうだ、そういえばここでキョウコと連絡先を交換したじゃないかということを思い出した。静かなところを探してキョウコに電話してみることにした。

『トゥルルルルル、トゥルルルルル』

 頼む、出てくれ。

『はい、四月朔日さん?』

「ああ、俺だよ。大変なことになったんだ」

『……どうしたの』

「ボカロが出てきちゃったんだよ」

『わかった、今、どこにいるの』

「LIVEボカロにいるけど」

『じゃあ、私もそこに行くね。なるべく目立たないようにしていてね』

「ああ、たのむよ」

 よかった。拓斗は受付の隣のベンチで安堵していた。あとは、キョウコと相談して隣にいるコイツをなんとか……っていないじゃん。どこへ行ったんだ。拓斗は再びステージのある方に行った。幸いにもりぼんはステージの前にいた。呼び戻そうと思ったんだが、その横顔が楽しそうに見えて、少し憚られた。こうしてみると、普通の女の子のようにも、見える。もちろんひときわ際立ってルックスはいいのだが。それでも、何というか、そうしてボカロ曲に聴き入る姿は何となく等身大の女の子に見えた。そんな様子を、横から見ていると、りぼんに男が近づいていった。りぼんを最前列から連れ出すと何かを話している。あれはナンパだろうな。ちょっと助け船を出してやるか。そう思って、拓斗はりぼんのいる方に歩き出した、その時、男の頬にりぼんの平手が炸裂した。りぼんの奴、目立つなって言ってあるのに……。男は若干逆上してりぼんの手首をつかんで上に絞り上げている。仕方なく、拓斗は男に頭を下げに行った。

「すいません、コイツ、俺のツレなんで」

「チッ、なんだよ、男連れか」

 男は少々の悪態と捨て台詞を吐き捨てて去って行った。

「ダメだろう、りぼん。目立つなって言ってあるじゃないか」

「スミマセン。でも、ワタシは……」

「分かったよ。悪かったな一人にして」

「……」

 りぼんは何かを言いたそうにしていたが、どうやら言葉を飲み込んだようだった。

 

「お待たせ、四月朔日さん」

「四月朔日さん、じゃないだろう。拓斗でいいよ」

「じゃあ、拓斗……君?」

「ああ、何だ」

「拓斗君、拓斗君、拓斗君」

「何だ、何だ、何だ」

 キョウコは嬉しそうに拓斗という名前を連呼した。

「そんなことより、コレ」

「ああ、ハロー、ボカロさん」

「ワタシは、音速の、りぼん」

「りぼんちゃんって言うんだ。よろしくね」

「よろしく、お願いいたします」

「ねえ、拓斗君、取りあえず、私の家に来ない? ここは騒がしいし」

「ああ、そうだな、俺も落ち着いて話したいと思っていたんだ」

 拓斗たちはキョウコの家に向かった。

「なあ、どうだ?」

「うーん、これはどうかなぁ」

 キョウコの部屋でりぼんを調べるキョウコ。どうも、分かったことよりも分からないことの方が多いようなそんな雰囲気だった。

「じゃあ、ちょっと体を見てみようかな」

 そう言ってキョウコはりぼんの服のボタンに手をかけた。

「おい、俺のいる前で脱がせるなよ」

「ああ、そうね。悪いけど、ちょっと部屋から出てくれる?」

「まあ、いいけどな」

 拓斗は部屋の外に出た。ドアの向こうで何をしているのか気にならないといえば、嘘になる。聞き耳を立ててみるかとも思ったが、どうもそれはエチケット違反のような気がしてやめた。しばらく待っていると、部屋のドアが開いた。

「おまたせ」

 キョウコは拓斗を部屋に迎え入れる。

「で、どうなんだ」

「うーん、これはね……」

 なんだかキョウコは言いにくそうにしているように見えた。

「何だ、はっきり言ってくれ」

「はっきり言って、りぼんちゃんは、普通の女の子だねぇ、コレは」

「はぁ?」

「脱がせて分かったんだけど、間違いなく女の子でした」

「……」

 ちょっと卑猥な状況が頭に浮かんだが、すぐにそれを打ち消してりぼんを見た。りぼんが普通の女の子? ボカロじゃなくて?

「ただね」

「ただ?」

「声帯はは強いみたい。その辺はボカロだねぇって感じかな」

「でも、りぼんの歌は酷いぞ」

「それは、経験値が足りないんじゃないかな。誰だって初めから上手く歌えないでしょ」

「調教が必要ってことか」

「まあ、でも、今のりぼんちゃんに調教っていうのはどうかと。一応、普通の女の子なんだし」

「で、元に戻す方法は分かったのか」

「わかんない。eプロセッサを使ったからといって、必ずしも今回のようなことが起こるとは限らないし」

「じゃあ、りぼんはずっとこのままなのか」

「うーん、何かのきっかけで元に戻る可能性もあるし、りぼんちゃん本人が元に戻る方法を思い出すかもしれないし」

「そういえば、画面から出てきて、俺の顔を見るなり、深刻なエラーが発生しましたとか言ってたな」

「その時、何か変わったことがあったの?」

「いや、何か顔が赤くなってたぐらいで他には何も」

「それは、興味深い現象かもしれないね」

「何が興味深いって?」

「いわゆる一つの、女心ってやつかも」

「よく分からんよ」

「今はそれでもいいよ。そのうち分かるんじゃない」

 気のせいかもしれないが、キョウコはちょっと突き放したように言った。

「キョウコ、帰ってるの。誰かお客さん?」

 階下から声が聞こえる。

「あ、お母さんだ。ちょっと待っててね」

 キョウコは部屋を出て行った。

「……」

「…………」

 何か視線を感じる。りぼんが拓斗を見ていた。

「何だ。どうした」

「い、いいえ。何も」

「そうか」

 二人きりになった途端、りぼんの様子が変だ。何があったのかよく分からない。けれども、拓斗はりぼんの視線に何か熱量を感じていた。

「拓斗君、りぼんちゃん、ちょっと来て」

 キョウコに呼ばれるままに、一階の居間に通された。

「こちら、拓斗君とりぼんちゃん」

 キョウコに紹介されて頭を下げる。

「あら、キョウコがいつもお世話になっております」

 キョウコのお母さんは深々と頭を下げた。

「君の噂は聞いているよ。今日はよく来てくれたね」

 キョウコのお父さんはニコニコとしている。

 噂って何ですか、お父さん。拓斗は勧められるままに、ソファに座った。隣にはお父さん。

「やあ、娘はいつも君の話をしていてね。親バカかもしれないが賢い娘でね。学校ではあまり友達もいないようなんだ。そこで、君がいつもそばにいてくれるということに感謝しています。ありがとう」

「い、いえ、そんな」

 キョウコのお父さんは立ち上がって、席をキョウコに譲った。

「お母さん、今日はアレにしなさい」

「はい、お父さん、アレですね、わかりましたよ」

 アレ? アレって何だ。

「ごめんね、拓斗君。今日はうちで夕食を食べていって欲しいの」

「いいのか、俺なんかがいて」

「りぼんちゃんもいるでしょ」

「だから、余計にさ」

「大丈夫、気にしないで。私の両親、テキトーだから」

 結局、拓斗もりぼんも夕食をごちそうになることになった。食卓について驚いた。コレは寿司だ。しかも、このマグロの脂の乗りよう、並じゃない。これは特上とかに違いない。いいんだろうかこんなものをいただいてと、拓斗は逡巡していた。

「さあ、遠慮せずに召し上がってくださいね」

 お母さんがウニとかイクラとかトロを拓斗の皿に取り分けてくれた。

「い、いただきます」

 うんめぇ。口の中でとろける食感。たまらない。

「四月朔日君、キョウコはちょっと変わった子に育ってしまったが、悪い子じゃないんだ。若い頃は色々あるものだ。何も結婚して欲しいなんてことは言わない。しかし、そばにいてくれる間はどうか大切にしてやってください」

「はい」

「本当に若い頃は色々あるものだ。私も色んなことがあったよ」

 そう言ってお父さんはグラスのビールを飲み干した。

「ごめんね、四月朔日さん。お父さんちょっと酔ったんじゃありませんか」

「わはは、男の子と話すのはいいものだなぁ」

 お父さんは気持ちよさそうにグラスにビールを注いだ。

「ところで、そちらのりぼんさんは四月朔日さんの妹さんなんですか」

 お母さんが不思議に思うのも無理はない。

「違うの、この人はボカロなの」

 キョウコが今までの経緯を説明した。お父さんも、お母さんも唖然としている。それも無理のないことなのかもしれない。

 

「ごめんね、今日は。拓斗君もりぼんちゃんも」

 キョウコの家の前で拓斗たちは話していた。

「いや、いいよ。ご両親によろしく」

「ねぇ、拓斗君」

 キョウコが腰のあたりに絡みついてくる。そして拓斗を見上げて目を閉じた。それだけで何をして欲しいのかは分かる。拓斗はキョウコを抱き上げるようにして軽くキスをした。

「ふぁ、拓斗君。好き」

「そうだ、このバレッタ、良かったら」

「ああ、これ、私がなくしたやつだ」

「えっ、そうなの」

「ありがとう届けてくれて」

 キョウコはまた拓斗の唇を求めた。今度は感謝のキスだった。

 何なのこの感覚は。ワタシは、ワタシは何を見てしまったの。この胸を締め付ける感覚は何。顔が熱い。自分でも顔が赤くなっているのが分かる。ワタシはボカロ。歌うことしかできないボカロ。でも。りぼんは困惑していた。

「ああ、いけない、りぼんが見てるから、続きはまたな」

「うん。あれ?」

 キョウコが何かに気付いた。

「ん? どうした。りぼん?」

 りぼんは頭から湯気を出してボーッと突っ立っていた。

「深刻なエラーが発生しました」

「おいっ」

 りぼんがそのまま卒倒するのを拓斗は支えた。

 

 りぼんを担いで家の前まで帰ってきた。また、あの黒塗りの車が駐まっている。近づくとやけにひょろりとしたノッポの男と、手足の短いデブが車から降りてきた。こちらを見ている、サングラスの向こう側の真意は測りかねるが、どうやら拓斗に用があるらしい。

「拓斗さん、りぼんさん。一緒に来ていただけますか」

 ノッポが事務的に言った。

「怪しいものではありません、どうかお願いします。あなた方の未来に関わることです」

 デブが何か言っている。

 怪しいものではありませんだと。おもしれぇじゃねえか。そこまで言うならついていってやるよ。拓斗は車の後部座席に乗り込んだ。三十分ぐらい走っただろうか。その間にりぼんは意識を取り戻した。

「どこに、向かっているの」

「知らん。そのうち分かるだろう」

 車が目的地に着いた。少し古いオフィスビルが建ち並ぶオフィス街だった。その中の部屋の一つに案内された。ドアには榊原製作所と書かれていた。がらんとした部屋の真ん中で男が一人マシンを前にして座っている。

「やあ、よくいらっしゃいました。こちらに来てください」

「……」

 隣に行くと男の顔がよく見えた。初老の男性だった。

「どうしても、アクティベーションに通らなくてね。今までこれでやってきたから今更新しいマシンに乗り換える気力もなくてね」

 拓斗はマシンを観察した。

「そこの、ネットワークの設定をヴァリアブルに……」

「……おお、通った」

 男が感嘆の声を上げた。

「ありがとう、私は製作所の所長をしています。そこにいるのは、りぼんさんですね」

「はい、ワタシは音速の、りぼん」

「私たちはあなた方が何者なのかよく知っています」

 所長は初めてこちらに向き直って拓斗たちを見た。

「俺だって、自分が何者かぐらい分かっているさ」

 所長は静かに首を振って言った。

「あなたは、ボカロを手に入れて、数日で曲を完成させるに至ったそうですね」

「それがどうしたって言うんですか」

「普通、そんな人はなかなかいません。あなたはいわば選ばれた人だ」

「選ばれた? 誰に?」

「神に、とでも言っておきましょうか」

「バカバカしい、帰るぞりぼん」

 帰ろうとドアの前を通りかかるとノッポが拓斗の腕をつかんだ。拓斗はそれを振り払うと鼻を鳴らしてサングラスの向こう側を睨んだ。

「危険なのはあなたです」

 ノッポが真面目な声で言った。

「君のボカロは本当に君のものなのか?」

「……」

「君の曲はどこから発想を得た?」

「……」

「歌詞は君のオリジナルなのか?」

 拓斗はゆっくりと振り返って言った。

「ああ、ごちゃごちゃとうるさい」

「おお……」

 所長は拓斗の態度の変化に驚いているようであった。

「君がワク動のタクトだね」

「ああ、そうさ、俺がタクトだ。何か文句あるか」

「君の曲はeプロセッサを通して作られている。人がこの曲を聴き続けるのは危険だ」

「何でだ。俺の曲は結構人気あるんだぜ」

「eプロセッサにはボカロに感情を乗せる機能がある。悪用しようとすれば、何だってできるんだ。悪いことは言わない、eプロセッサを使って作曲するのはやめなさい」

「うるせぇよ、そんなことおまえが決めることじゃないだろうが。俺は俺の作りたいものを作るぜ」

「……それが、死に繋がっているとしても?」

「ああ、俺は俺だからな」

「通してやりなさい」

 ドアの前のノッポとデブが道を空けた。拓斗はりぼんの手を引いて、ドアから外に出た。ビルの外に出て道を歩いた。大通りにでてタクシーを拾った。

「タクト、怒ってる?」

「ん? いや、そんなことないが」

「ワタシが、歌えれば、慰めて、あげられるのに」

「おまえは何も気にするな」

 りぼんは心配そうにしている。りぼん自身も不安なのだろう。確かにキョウコの言うとおり普通の女の子なのかもしれない。だったら、俺はどうしたらいいのかと拓斗は考えた。

 

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 鶏が鳴いている。見上げると大きな木の隙間から木漏れ日が降り注いでいる。敷地の入り口にある「ちばぎん」のATMまで来た。ここから先は私には用のないところなのだと思った。引き返してまた空を見上げる。同じ空の下で起こる全てのことに自分が関係あるような気がした。そう考えると、とても気分が重かった。きっと神様も同じような気持ちに違いないと思った。数年前に新築された建物はこんな田舎にあるにしては立派なものだった。自分一人では、今日の寝床に戻ることもできない。病棟の扉の前で立ち止まった。扉は施錠され全てを拒絶している。私はその拒絶を心地よいと思った。世間の刺激から隔絶されたサンクチュアリ。扉の横に設置されたインターフォンで天使の声を聞く。私はそれに応えて、自分の名前を告げる。すると、扉は内側から開かれ私を迎え入れる。私はこの二重扉の間の空間が好きだ。内と外の曖昧な境界線を私はまたいでいる。きっと、天と地の間をゆく渡り鳥も同じ気持ちに違いない。最初の扉が閉まり、二番目の扉が開くとそこには管理された空間が広がっている。これが私の世界。全てがここで完結する。閉鎖病棟と呼ばれる場所には私のベッドが用意されている。私はそこに還ることしかできない。私にも帰りたい部屋があるけれども、そこへはまだ帰れそうにない。私は自分のベッドで膝を抱えながら、鳥の詩を聴いた。

「さてさて、調子はどうですか」

 医師の回診が始まった。

「どこからともなく、歌が聞こえます」

「そうですか、どんな歌ですか」

 医師は微笑みというお面をテープで貼り付けたような顔をしている。

「ボカロの歌う歌」

「ボカロですか。ボカロって何ですか」

「ボカロはコンピュータを使ってマシンに自由に歌わせることのできるアプリケーション」

「合成音声ですか」

「歌声ライブラリから任意の発音を選ぶことによって、発声させることができる。そして、それによって歌を歌わせることができる」

「人の声じゃない歌が止まらないということですね。それで、何か困ったことはありますか」

「私は全てのボカロが歌う曲に関わっています」

「そんなことは、できないんじゃないですか?」

「できますよ。フルエモーション、フルアクセスで具現化することも不可能じゃない」

「……」

「私がボカロに与える影響は少なくないのです」

「あなたが、どうしてここにいるのか分かりますか」

「分かりません。ただ……」

「ただ?」

「私は風になりたかったのです」

「分かりました。また伺いますね」

「……」

 医師は去って行った。本当のことを言っても相手にされないのなら、私は沈黙するしかない。コミュニケーションが同じレベルの人同士でしか成り立たないというのなら、私が合わせないといけないのだろうか。

 

 愚民に合わせてやることはないさ。僕たちはもっと高い次元にいるのだから。四畳半のキノコが生えそうな万年床の上に男が一人横になっていた。日常的にこの布団から動かないのだろう。生活に必要なものは全て布団の周りにあった。枕元に置いたマシンで何かをしている。

「そうだ、僕はおまえらと違うんだ」

 男は歪んだ笑いを浮かべる。

「ボカロを使って世界を動かしているのは僕だ」

 ドンドン。うるせーぞという声が隣の部屋から聞こえる。安アパートの壁は薄かった。しかし、ヘッドフォンをしている男には聞こえない。

 

 バロン。それは古くは秘密結社として存在した音楽集団。その存在は、民族音楽、クラシック、ロックンロール、ポップスなどの、あらゆるジャンルに影響を及ぼしていると言っても過言ではない。そうして、世界の音楽を秘密裏に操ってきたのだ。あの有名ミュージシャンの死も彼らが暗躍していたとされている。ボカロの急速な発展によって、さらに力をつけたバロンは世界の音楽に集合的無意識を組み込む実験を行ったとされている。

 その実験の首謀者となっていたのが、当時、ボカロの開発に携わっていたヌルであった。ヌルはボカロに人々の心をつなぎ合わせるコードを書き加えたと言われている。そのことが発覚しそうになると、ヌルは会社を辞職。そして、自室で溺死体となって発見された。

 バロンのメンバーは誰でもない、名無しとしてネット上で活動するため、しばしばアノニマスなどと混同されるときがある。しかし、その目的は、音楽の解放であって、他の集団とは目的を異にしている。

 

『都内各所で自殺が頻発しています。いずれも携帯プレイヤーなどでボカロ曲を聴いていた模様です。関係筋はボカロが自殺に関わっている可能性も考慮に入れて捜査にあたるとしています。事件の可能性もあるので一般の方も十分に注意して欲しいということでした』

 ネットニュースが伝えていることが真実であるのかどうか、拓斗には分かっていた。これにはバロンが関わっている。そう確信していた。そして、キョウコも当事者であるということが分かっている。だとしたら、本当に危険なのはキョウコかもしれない。かもしれないと言ったのは、まだ確信が持てないからということもあるが、キョウコが関係者であって欲しくないという願いが拓斗の中にあったからかもしれない。

 

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 その日は、とても平凡で穏やかだった。タロウがLIVEボカロに拓斗たちを誘ってくれたのだ。もちろんタロウたちの思惑も織り込み済みだ。キョウコとりぼんに会いたいというのが本音なのだろう。特にりぼんのことはタロウもイチロウもほとんど知らないから、ここで引き合わせておかないと、後で何を言われるか分からない。拓斗は物珍しさと少々の羨望を集めているということなのかもしれない。

「よお、拓斗」

 タロウが寄ってきた。

「ああ、約束通り連れてきたけど」

「悪いな、無理言って。でも、拓斗の大切な人は俺たちにとっても大切な人だからな」

「そうだぞ、やんごとなき人はどこだ」

 イチロウがなぜか鼻息を荒くしている。

「ここに、りぼんがいるだろ」

「ワタシは、音速の、りぼん」

「やあ、りぼんちゃん、はじめまして」

「それとも、俺と前に会ったことあったかな。いや、ナンパじゃないよ、ナンパじゃない」

 イチロウが多少、テンパっている。

「はじめまして、だよ?」

 りぼんは首をかしげた。

「ああ、こいつら、ちょっと変わってるから、あんまり気にするな」

 拓斗はフォローを入れておいたつもりだった。

「変わっているとは失礼な、俺は蠍座の男だぞ」

「ああ、わかったよ。ところでりぼんちゃん、キョウコちゃんはどこにいるの」

「キョウコ……。知らないよ」

「あれ? キョウコのやつ、どこへ行ったんだ」

「私、ここにいますよ」

 キョウコは人混みの中からピコッと現れた。

「やあ、キョウコちゃん、久しぶり」

「拓斗に変なことされなかったか」

「お久しぶりです。えーっと、タロウさんにイチロウさん」

「何だ、その脇役みたいな思い出し方は、歯を食いしばれ!」

 イチロウが興奮しはじめた。

「やめんか、話がややこしくなるだろ」

「分かった、正座させて往復ビンタはやめてやろう」

「おまえは鬼軍曹か」

「ふっ、これでも、おまえらみたいなジャガイモ野郎をいっぱしの軍人に育て上げるには、なかなか苦労が多くてな」

「はいはい、じゃあ、キョウコちゃんは拓斗と付き合うことになったんでしょ」

「うん」

 キョウコが嬉しそうに頷いた。

「で、どこまでいったんだ」

 キョウコは頬を赤らめた。

「ま、まさか。そんな。おい、拓斗。結婚を前提にしているんだろうな。そうでなければ法に触れるぞ」

「いや、おまえが考えているようなことはないから」

 拓斗も多少困惑しながら言った。

「でも」

 キョウコがつぶやいた。

「拓斗君、責任、取ってくれるんでしょ」

「おい、拓斗。責任はどうするんだ」

「そ、そりゃあ、一応」

「もうやめてやれよ。ちょっと気の毒になってこないか」

 タロウが見かねて止めてくれた。

「なにをぅ。帝国軍人たるもの……」

「キョウコちゃんもりぼんちゃんも、喉渇かない? おごるよ」

 イチロウが何かぶつぶつ言っていたが、タロウの機転でその場は収まった。

「ところで、りぼんちゃんって、ボカロなんだって?」

 タロウはグラスのコーラをかき混ぜながら言った。そして、コーラは好きだけど炭酸苦手なんだよねと笑った。

「はい、そうです。ワタシはボカロです」

「じゃあ、歌上手いんでしょ」

 りぼんはかなり困った顔をした。その顔を拓斗に向けた。

「ああ、こいつ、まだ経験浅いから。まだ、な」

「そうなんだ、いつか、歌ってよ。楽しみだなぁ」

「……」

 微妙な沈黙が流れた。

「あ、そうだ、それならボカロ部で、練習したらいいよ。奴らも喜ぶだろうし」

 奴らは喜ぶかもしれないが、りぼんは喜ぶのだろうかと拓斗は思った。

「はい、是非、練習させてください。ワタシはボカロだから」

 何となく、答え方が切迫した感じがする。りぼんもそれなりに気にしているのかもしれない。だったら、りぼんの好きなようにさせてやろうと拓斗は思った。

「それじゃあ、決まりだな。みんな一カ所に集まれよ」

「何だよ、急に」

「写真、撮ろうぜ」

 そうして五人はカメラのフレームの中に収まった。セルフタイマーでシャッターが切れるまでの間、拓斗はどうしても落ち着かなかった。この関係はいつ壊れてしまうのか。そんなことばかりが頭の中を駆け巡った。いつまでもこのままでいたいという願いが拓斗にはあった。

「よし、じゃあ、後で写真送るから」

「あ、じゃあ、俺はアイコラ作るから」

「イチロウ、やめんか」

「いいじゃないか、キョウコちゃんやりぼんちゃんのアイコラだったら、A級には入るぞ」

「A級? 最高ランク?」

「いや、その上にS級がある」

「うは、俺と同じ分け方だ」

「そんなことで、意気投合してんじゃねぇよ」

「どうせ、おまえだって同じなんだろ」

「俺はそんなことしないって」

「だよな、リアル彼女いるしな」

 気がつくとタロウもイチロウも目がマジだった。

「なに、マジになってるんだよ」

「そりゃあ、そうだろう」

「幸せにしてやれよ」

 その後、ロウロウしい奴ら(タロウとイチロウのこと)と別れて、家路についた。途中でキョウコちゃんも帰っていった。りぼんと一緒に家に帰る道すがら、りぼんはこのままでいいのだろうかと考えた。やっぱり良くないよなと思った。はっきりと何が良くないのかは分からないけれど、何か良くないことが起こりそうな予感があった。それが、ただの杞憂であって欲しいと拓斗は思った。

 

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――どうして泣いているの?

 

 放ってはおけなかった。一人にしておけない気がして、キョウコとのデートにりぼんを連れてきてしまった。キョウコはやさしく問いかけるが、りぼんは何も答えなかった。冬の公園はどこか空疎な空き家のようで寒々しかった。りぼんの目から流れ出る涙だけがポロポロと暖かい染みを地面に作っていく。それは、霜柱を溶かして冬眠中の蛙でも這い出てくるかもしれないと思わせた。

「拓斗君、ちょっとりぼんちゃん借りるね」

「ああ、たのむよ」

 りぼんが泣いていても、拓斗には何もできなかった。どうして泣いているのか、それを聞き出すことさえできない。そういうときに相談役になれるのはおんなじ女の子だけなのかなと拓斗は思ったのだ。だから、泣いているりぼんをここまで連れてきた。自分のボカロなのに人任せにするのは気が引けるが、この際、仕方ないだろうということだった。キョウコはりぼんを連れて、公園の真ん中にある池の対岸の方に歩いて行った。そこにはちょうどベンチがあって、そこならここからでも何とか見える範囲だった。しかし、何を話しているのかは分からない。ひょっとしたら、分からなくてもいいのかもしれない。

 拓斗も近くのベンチに座った。キョウコとりぼんが寄り添って座っているのが見える。だからといって、ガールズトークに花が咲くとは思えないが、りぼんが何を考えているのか分かれば対処できるかもしれない。

 小一時間ほどして、キョウコとりぼんは戻ってきた。りぼんは、もう泣いていない。しかし泣き腫らした目は痛々しかった。ついさっきまで泣いていたのだろう。涙の通り道が頬についている。

「どうだった?」

「うん、りぼんちゃんのこと何となく分かったよ」

「そうか、で、俺はどうすればいいんだ」

「りぼんちゃんのことをもっと考えてあげてとしか言えないな」

「何だよ、それ。どういうことだ」

「秘密にするって約束したから言えないけど、私たちの誰かが泣かなきゃいけないのかもしれないね」

「誰かが泣く? そんなこと、俺が喜ぶと思うか」

「もし、もしね、りぼんちゃんと私が争うことになったら、拓斗君どうする?」

「どうするって、そんなことさせないよ。絶対止めるし」

「いや、そういうことじゃないんだよね、コレって」

「何だよ、キョウコ。わけが分からないぞ」

「そうだよね、わけわかんないよね。私もどうすればいいか分からないし。でもね、私は絶対拓斗君を嫌いになったりしないよ。例え、拓斗君が私を選ばなくても」

「……」

 拓斗は、じゃあ、りぼんはどうなんだよと思ってりぼんの方を見た。

「ワタシはタクトの指示に従います」

 りぼんは何かを諦めているかのように言った。それだけじゃ何を言いたいのか分からない。拓斗は困惑していた。

「わかった、キョウコ、ありがとうな。りぼんも、俺はりぼんが泣くようなことをしたくないし、何か嫌なことがあったら言ってくれよ」

「……」

 りぼんは小さく頷いた。

「ねえ、お散歩しよう」

 キョウコの提案で拓斗たちは公園を歩いた。公園の池の真ん中には小島があって、そこに小さな社がある。そこまでは赤い橋が架かっていて自由に行くことができる。三人でお参りした。何を祀っているかなんていうことは知らないが。

『拓斗君といつまでもラブラブでいられますように』

『タクトに捨てられませんように』

『ボカロPとして成功してウッハウハになれますように』

 などという願いが天に届いたかどうかは定かではない。

 公園を奥へと進んでいく。冬の公園に人影はない。こんな公園でも、桜の咲く季節になればもう少し人の気配も感じられるかもしれない。最奥の市営美術館に寄ってみた。建物の前に奇妙なオブジェが立ち並んでいる。よく分からないけれど、これも芸術なのかなと拓斗は思った。

 美術館の中は暖かかった。決して大きな美術館ではないので、特に順路というものはない。好きなものを好きなだけ見ればいい。何より無料公開なのでお金もかからない。こういう所に来ると、何となく神妙な気分になるなと拓斗は思った。

「ねえ、拓斗君、これ見て」

 見ると、漁港だろうか、海の絵だった。

「夏になったら、拓斗君と海に行きたいな」

「ああ、そうだね」

 拓斗はあまり海が好きではないので、何気なく素っ気ない返事をしてしまったことに後悔した。泳ぐなら、海よりもプールの方がいい。シャワーも更衣室もあるし。そんなことを考えながら、りぼんがいないことに気付いて周りを見回した。りぼんは展示室の中程で棒立ちになっていた。りぼんが見ているのは、ムンクの叫びか? もちろん模写だろう。こんな所に本物があるはずがない。それでも、リボンの目は真剣だった。そこに何を見ているのか。拓斗には計り知れないことだった。

「なんだ、りぼん。叫びたいのか?」

「ワタシは、歌いたい。けど、歌えない。それは意味のあることなの?」

「そうだな、でも、意味はあるさ。りぼんはここにいるだろ」

「歌えないボカロに意味はあるのでしょうか」

「大丈夫。きっと歌えるよ」

 拓斗は微笑んだ。りぼんも無表情に隠れていたけど、少し笑ったような気がした。

 

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 電話が鳴っている。拓斗は画面に表示された名前を見るとすぐに電話に出た。

「もしもし」

『あ、拓斗君。あのね……』

「なんだ、どうした」

『来ちゃった』

「どこへ?」

『今、拓斗君の家の前にいるの』

 拓斗は部屋の窓から外を覗いてみた。確かにキョウコが家の前にいる。

「なんかあったのか?」

『ちょっと相談したいことがあって』

「分かった、今、開けるからちょっと待ってな」

 玄関を開けるとキョウコが門の前に立っていた。

「拓斗くぅん」

「なんだ、甘えた声だすなよ。さあ、入れ」

「うん」

 キョウコを家に招き入れて、自分の部屋に案内した。

「今、飲み物持ってくるから待ってろよ」

「……うん」

 拓斗は台所に向かった。

「ねえ、りぼんちゃん」

 りぼんは部屋の片隅に佇立していた。一瞬、まるでキレイなお人形のようだとキョウコは思った。私、敵わないかも。りぼんの表情が少し揺れて、唇が開いた。

「何?」

「私、りぼんちゃんにとって邪魔かな。拓斗を私が独り占めしたら、りぼんちゃん悲しいのかな」

「邪魔じゃない、よ?」

「ねえ、もう、拓斗とキスした? 拓斗はりぼんちゃんのこと大事にしてくれてる?」

「そういう、関係じゃない。一緒にいられるだけでワタシは幸せ」

「本当に?」

 キョウコは挑発するように言った。視線を彷徨わせていたりぼんはキョウコにフォーカスを合わせると、意志の強い目を見せつけた。

「ワタシ、負けない。キョウコには負けない」

「それ、宣戦布告だよね」

「……」

 あなたは人間だから有利だとでも思っているの? と、りぼんは言おうとしてやめた。拓斗は人間だからとか、ボカロだからとか、そういうことで何かを選ぶような人じゃないとりぼんは信じていた。だから、あえて何にも言わなかったのだった。

「お待たせ。紅茶で良かったかな」

 拓斗は三人分の紅茶のお盆を持って部屋に入ってきた。

「うん、ありがと」

「……」

 りぼんはキョウコが何をするのかじっと見ていた。

「で、話って、何なんだ?」

「私ね、もう家に帰らない」

「なんだよ、帰れよ。親御さん心配するぞ」

「おとうさんとね、おかあさんに、拓斗君がとっても好きだって話したら、一緒に住んでもいいよって」

「おまえ、家出してきたんじゃないだろうな」

「そんなことないって、これ、おとうさんからの手紙。読んで」

 キョウコは手紙を拓斗に渡すと、読むように促した。

「なになに、うーん。そうか……」

「ねっ? 娘をお願いしますって書いてあったでしょ」

「確かにそうだが、俺の家族にも説明しなきゃならないし」

 拓斗はちょっと恥ずかしいなと思って、キョウコの処遇について考えを巡らせた。

「大丈夫、拓斗君のご家族には、私から説明するし」

 そう言って、キョウコは立ち上がった。

「おい、ちょ、どこへ行くんだよ」

「ん? だから、ご家族のところ」

「はぁ? 何するつもりなんだ」

「説明だよ。セツメイ」

 おい、待てよと言う前にキョウコは部屋を出て行った。

「あいつ、既成事実を作ってやろうってことか。どう思う、りぼん」

「ワタシは別に」

 りぼんはしずしずと紅茶を飲んでいた。

「まあ、できるだけ、りぼんが強制終了するような事態にはならないように気をつけるけど」

 ぶっ、と、りぼんがむせた。

「どうした?」

「ワタシ、負けない」

「ん?」

 拓斗にはその意味がとらえられずにただ意味不明な会話に終わってしまった。

 

 三十分ぐらいして、キョウコが部屋に戻ってきた。

「不束者ですがよろしくお願いいたします」

「お、おう」

「ぶいっ!」

 キョウコはピースした。どうやら、家族全員を制覇したらしい。その辺の交渉スキルは正直すごいと拓斗は思った。

「さて、じゃあ、早速。コホン」

 キョウコは咳払いをすると、拓斗の前に座った。

「お食事にする?、お風呂にする? それともア・タ・シ?」

「おまえなぁ」

 キョウコの頭を鷲づかみにした。バレーボールぐらいか、この感じ。そして、拓斗はキョウコの顔が自分の前に来るように、キリキリと締め付けた。

「いたい、いたい」

「おまえ、どこでそんな台詞覚えて来たんだよ」

「だって、新妻の台詞の定番といったらこれでしょ」

「いいや、新妻の定番というよりは、コメディーの定番だ。俺に笑って欲しかったのか」

 ギリギリ。

「いたた、違う。違います」

「りぼんの見ている前で、変なことするんじゃないぞ」

 グリグリグリ。

「あたた、わかりました、ごめんなさい、まいりました」

 もうこのぐらいでいいだろう。最後にギュッと指先に力をこめて、キョウコを束縛から解放してやる。

「いったーい。もう、拓斗君を私の料理でメロメロにしてやるんだからっ」

 そう言って、キョウコは夕食の支度に向かったようだ。この家の事実上の実権を握っているキッチンを攻めるつもりらしい。オカンを懐柔してしまえばもうこの家も堕ちたも同然だ。キョウコにはそれが分かっているのだろう。

 

「お母さん、また家族が増えたね」

「そうですね、お父さん」

「この唐揚げ、美味しいよ」

「それはキョウコちゃんが作ってくれたのよ」

「ほう、シェフを呼んでくれ給え」

「お父さん、ここにいますよ」

「うむ、美味であった」

「ありがとうございます、お父さん」

 というのが、この四月朔日家で夕食の食卓がキョウコ軍に占拠された顛末であった。これは一大事です母さん。ともかく、初日からキョウコは焼きたてパンに塗られたバターのようにこの家になじんでいた。拓斗が心配していた、キョウコが幼いことについてのツッコミはなかった。それはそれで逆に嫌だと思ったが。

 

 夕食が終わって、自分の部屋でのんびりすることにした。ここにはキョウコもりぼんもいる。自分の部屋なのになんだか落ち着かない。

「おい、先に風呂入ってこいよ」

「えっ、あ、うん。じゃあ、りぼんちゃん行こうか」

「りぼんも一緒なのか」

「うん、まあね。裸のつきあいも必要かなと思ってね」

「……」

 裸のつきあいねぇ。まあ、女同士なんだしいいかと拓斗は思った。

 ベッドにうつ伏せに横になり、ぶぅーと放屁した。りぼんやキョウコがいると自分の部屋なのに屁もこけないという事実。しかし、逆に考えれば彼女たちも大変なのかもしれない。二人が女を捨てているところは……やっぱり見たくないと拓斗は思った。気持ちいいな、このまま寝てしまいそうだ。

「……」

「…………」

「お兄ちゃん」

「……」

「お兄ちゃん!」

「ん?」

「キョウコちゃんがお風呂どうぞって言ってたよ」

「ああ、分かった」

 なんだ、二人はもうあがったのか。脱衣所で服を脱いで風呂場に入った。

――いらっしゃいませ。

「えっ?」

 キョウコとりぼんの声がする。っていうことはまさか。湯煙で曇った視界を恐る恐る見回した。

 ピトッと柔らかいものが腕に絡みついた。キョウコが水着の胸を拓斗の腕に押しつけている。

「お背中流しますね」

「ここに座ってください」

 キョウコはスクール水着、りぼんは白いワンピース水着だった。が、重要なのはそんなことではないはずだ。なし崩し的にプラスチックの椅子に座らされた。

「さあ、洗いますよぉ」

「いや、ちょっと、マテ」

「サービス、サービス」

 りぼんも何かをつぶやきながら、拓斗の体にシャワーのお湯をかけた。背中をさする手がスベスベしていてちょっと気持ちいい。あっ、いや、だから、そうじゃなくて。拓斗は必死に平静を保とうとした。しかし、あっという間に上半身を泡だらけにされてしまった。

「これは、いつもお世話になっている感謝の気持ちです」

 そうなのか、それでこんなことをしてくれちゃうの? 拓斗はちょっと混乱していた。

「ちょっと、前、失礼しますね」

「あっ、いや、そこは自分で」

 拓斗はキョウコの腕をつかんだが、石けんでちゅるんと滑った、その勢いで股ぐらの所にキョウコの手が当たった。

「あったかーい」

 キョウコが感嘆の声を上げる。拓斗は何かを失ったような気がした。それは、正気だったり、ナンだったりするわけだった。

「ごしごし」

「ごしごし」

 二人は拓斗の体を隅々まで洗った。くすぐったくてたまらなかったが、途中から抗議しようという気持ちはなくなった。

「痒いところありませんかぁー?」

「……」

 定番の台詞とともに、りぼんの細い指が拓斗の頭皮をシャンプーでマッサージし始めた。不快、ではない。

「じゃあ、流しますね」

 ざぱーっと、頭からお湯がかけられる。拓斗は何か別のものも洗い流されているような気分になった。

「そんじゃあ、俺はこれで」

 立ち上がって、去ろうとした。こんな所を家族に見られたらシャレにならない。

「待って。さあ!」

 キョウコとりぼんが拓斗の腕をつかんで湯船の方に引っ張り込んだ。

「うあっ」

 拓斗は尻から倒れ込むように、湯船に突っ込んだ。

「な、なにする?」

「三人でぴったんこ」

 決して広くはない湯船に三人で浸かる。キョウコとりぼんに挟まれて、自ずと密着することになる。

「俺、もう出るから」

「ダメ、百まで数えて」

「うーん」

 いち、にい、さんと二人は数えはじめた。仕方ないちょっと我慢するか。それにしても、風呂は俺たちで最後なんだろうな? と拓斗は思った。何しろ三人で入ってしまったので、湯船のお湯はかなりの量があふれ出してしまった。まあ、この二人が後から人が入ってくる危険性を回避しようと正常な判断をしてくれているのならば、きっと俺たちで最後なのだろう。

「はい、お疲れ様でした」

「またのご利用をお待ちしております」

 拓斗が風呂場を後にしたときは、すっかりのぼせていた。キッチンで冷たい水を飲んで二階に上がった。

「不潔」

 踊り場にいた妹に突然言われた。

「なんだ?」

「りぼんとキョウコを使った特殊浴場ごっこ」

「なっ、そんなこと」

「私が知らないとでも思ってるの」

「……」

「ロリコンで変態。まさかここまで救いようがないとは思わなかったわね」

「ち、違う」

「まあ、いいわ。間違いだけは起こさないようにしてよね」

 妹はそう言うと、自分の部屋に引き上げて行った。

「不可抗力だ、バカ」

 拓斗は誰もいない廊下に悪態をついて部屋に戻った。

 

 

時計の針 午前二時 突き刺して

眠れない ポーカーフェイス 探して

君が一緒にね 寝たいと言ったから

僕らはそれを 勝負で決めることにしたんだ

 

川の字だっていいじゃないか

フローリングの床について

眠る 眠る 君の姿

 

ハートのエース ジャックのペア 駆逐して

眠りたい ベビーフェイス 愛して

君が一緒にね 決めたいと言ったから

僕らはそれを カードで示すことにしたんだ

 

川の字だっていいじゃないか

冷たい木の床について

休む 休む 君の寝顔

 

 

 結局、三人は床に川の字になって寝ることになった。そのことでずいぶん争った。女の子二人を床で寝かせて、拓斗だけベッドに寝るわけにはいかなかったし、キョウコは拓斗にベッドで寝て欲しいと言い張った。いつもは、りぼんをベッドに寝かせているのだが、それもキョウコには気に入らなかったのかもしれない。さすがにシングルベッドに三人で寝るのは狭すぎる。いつの間にかポーカーで勝負して決めようということになった。疲れて勝負のことはもう考えたくない。ただ、りぼんが最後に川の字でと言っただけだった。静かな天井から、常夜灯の光が降ってくる。誰の寝息も聞こえない、静かな夜だった。あと、三時間もしたら朝になってしまう。少し眠りたいけど、床が硬くて若干背中が痛い。でも、もうすぐ痛みよりも眠気が勝ってくれそうだ。

「拓斗君、起きてる?」

 左隣で寝返りをうつかすかな衣擦れの音が聞こえた。返事をしようかどうしようか一瞬迷った。

「ああ」

「拓斗君、やさしいよね」

「なんで?」

「寝る場所。拓斗君がきっちり命令すれば誰も逆らえなかった」

「……」

「なのに、ゲームで決めるだなんて」

「期待を裏切ってすまんが、優柔不断なんだ」

「最後にりぼんちゃんに花を持たせてあげたのに?」

「……」

 お見通しってわけか。確かにりぼんの口から、川の字でって言われれば、仕方ないかとこの場にいる奴は思ってしまう。丸く収まったんだ。何でもいいじゃないか。

「そういう所も好き」

「もう寝ろ」

「おやすみ」

 気配が近づいてきて、左の頬に柔らかく暖かいものが当たった。

 

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 イテテ。身体の痛みで、いつもより早く目が覚めてしまったようだった。両隣の布団はすでに片付けられていた。台所に行ってみると、りぼんとキョウコとオカンが朝食を作っていた。女三人寄れば姦しいといったところか。洗顔と着替えを済ませた頃には朝食は完璧に用意されていた。家族全員でいただきますをして朝食を食べた。キョウコもすっかり家族の一員になってしまったようだった。でも、後でキョウコの両親に挨拶に行かないといけないなと拓斗は思った。何気なく責任重大のような気がする。

「はい、これ拓斗君の分」

 キョウコは弁当箱を拓斗に渡した。

「……ん」

「あのね、私が作ったの」

「ああ、そうか、サンキューな」

 キョウコの作ってくれた弁当を鞄に入れて、家を出た。キョウコも一緒だ。りぼんはお留守番でちょっとだけ寂しそうな顔をしていた。

「じゃあ、ここで」

 キョウコと途中で別れた。キョウコの奴、学校が少し遠くなったんじゃないかなと拓斗は考えていた。キョウコは特に気にした様子はなかったけど、拓斗にとってはなんだか少し気まずかった。

 タロウとイチロウにいつもより早く合流した。三人そろって歩いていると、やっぱり注目を集めてしまうらしい。でも、それにはもう慣れた。遠巻きに何か言っている連中は結局、俺たちのことは何にも分かっちゃいないんだ。

「なあ、聞いたぞ拓斗」

 タロウはポケットに手を突っ込んだまま、携帯プレーヤーのイヤホンを首に掛けながら言った。

「押しかけ女房だな、拓斗」

 イチロウの馬のかぶり物の中からハアハアという息遣いが聞こえる。二人とも何を興奮しているのかよく分からない。

「まあ、キョウコが昨日からうちにいるけど」

「据え膳だな」

「ああ、食わねば男の恥だな」

「何言ってるんだ? 家族と一緒なんだぞ。そんなことできるわけない。りぼんもいるんだし」

「おまえのきかん坊は、両手に花でもおとなしくしていられるのか」

「拓斗、よく分かるぞ。下半身は別の生き物だからな」

「あのな、おまえらの考えているようなことは一切ないぞ」

「不能か」

「テンツってるのな」

「もう、何とでも言えよ。これでも結構、気を遣って大変なんだぞ」

「人生最大のチャンスに弱音を吐くなよ」

「おまえのモテ期はこれが最後なのかもしれないんだぞ。今頑張らなくて、いつ頑張るんだ?」

「おまえらに俺の気持ちなんて」

「分からんよ」

「でも、応援してるからな」

「茶化してるだけだろ」

「素直じゃないな」

「普通なら、リア充にかけてやる言葉なんてないんだがな」

「親友だからか」

「あったりまえだろ」

「おまえは親友の前でパンツを脱ぐのか」

 ひょっとして、こいつらも気を遣ってくれているのかなと拓斗は思った。ありがた迷惑だけど不快ではない。むしろ心地よい、いつもの登校風景だった。

 

 昼休み。タロウが拓斗の後ろの席に座った。

「ここの人、戻ってこないみたいだしいいよね」

 拓斗は後ろ向きに座り直して弁当を開けて、すぐに蓋を閉めた。チラッと見たら、何かすごいキャラ弁だったような気がする。ちょっと食べるのが恥ずかしい。

「なあ、拓斗。見ちゃったんだけど、おまえの弁当すごくない?」

 不覚。タロウには見えてしまったようだ。蓋を開けていたのは一瞬だと思っていたのだが、意外にも固まっている時間が長かったらしい。

「……」

「まさか、愛妻弁当か」

「…………」

「おまえ、すごい愛されてるな」

「正直、ちょっと困惑してる」

「だろうな、でも、恥ずかしがることじゃないからな」

「そうだぞ、俺たちの中で隠し事は無しだ」

 購買からイチロウが帰ってきた。戦利品を持って。

「じゃ、じゃあ、食うぞ」

「ああ、残さず食えよ」

 拓斗はキャラ弁に箸をつけた。味もよかった。自然とキョウコのことが脳裏をよぎる。キョウコは何をしているだろうか。

 

 キョウコはクラスメイトの聖子と一緒に給食を食べていた。給食の時間になると、五人、六人で机をくっつけて食べる女子が多いのだが、キョウコたちはクラスの最小派閥だった。

「ねえ、キョウコ、好きな人と一緒に暮らしてるってホント?」

「えっ、さとちゃん、どこからそんなこと聞いたの」

「女子の間では、もう結構噂になってるよ」

「そう、私のことなんて誰も興味ないと思ってたけど」

「みんな、気にしてないようで気にしてるよ。特にキョウコはかわいいから」

「やめてよ、私、男子ウケ最悪だし」

「きっと、キョウコがかわいくて恥ずかしいんだよ」

「そうかなぁ」

「そうだよ」

 キョウコに話しかけてくれる人はこのクラスにはほとんどいない。キョウコはちょっと孤立していた。どの派閥にもなじめなかったし、所属しなかった。それは、キョウコが大いに前途有望な顔立ちをしているのと無関係ではなかったかもしれない。

「ねえ、それで、どうなの」

「何が?」

「だから、好きな人とのあまーい生活」

「うーん、難しいよね」

「やっぱりご家族との関係とか。嫁姑問題とか。家政婦は見た的な」

「ううん、そういうのはないけど、恋敵も一緒だから」

「えっ、何それ。好きな人って二股かけてるの?」

「自覚はないみたいなんだけど、結局、どっちつかずなんだよね」

「キョウコ、なんか私、楽勝で好きな人をモノにしているのかと思ってたけど、色々大変そうだね。応援してるよ」

「ありがとう。でも、本人に自覚がないのがね、ちょっと悲しいよね」

「何だ、まだ食べてたのか、キョウコ、ドッチボールやらねぇ?」

「私、パス。他の人誘って」

「何だよ、人がせっかく誘ってやってるのに、かわいくねぇな」

 としあきは口を尖らせて不満そうに舌打ちした。

「としあきさぁ、女の子にしつこいと嫌われるよ」

 聖子がとしあきに不快感を示した。

「そんなんじゃねぇけどさ、じゃあ、また今度たのむよ」

 としあきは去って行った。キョウコにしてみれば、拓斗以外の男なんてジャガイモみたいなものだ。キョウコは拓斗に思いを馳せた。

 

「ヘ、ヘックシッ、ヘプシッ、うーん」

 風邪じゃないよな。誰か噂でもしているのか? 拓斗は首をかしげた。

「というわけで、放課後カラオケを実施します」

「タロウ、それには女子っこはつくのか」

「キョウコちゃんとかりぼんちゃんとか呼んだらいいじゃん」

「ふむ、それには拓斗による召喚が必要だな」

「ああ、俺が呼べばいいのね。分かったよ。でも、勝負は五分五分だぞ」

「キョウコちゃんはともかくとして、りぼんちゃんなら大丈夫じゃね?」

「うーん、りぼんも歌が苦手っぽいからなぁ」

「ボカロなのに?」

「ああ、ほとんど歌わせたことがないんだ」

「それって、もったいないだろ、じゃあ、今回はりぼんちゃんの歌の練習ってことで」

「悪いな、付き合わせて」

「悪いと思ったら、俺の海ゆかばを聞け」

 イチロウは急に主張し始めた。

「ああ、はいはい」

 適当にあしらっていると、ますます興奮したようだ。

「うおぉぉぉ、返します、北方領土!」

――ガッ

「ぐはぁ」

 拓斗とタロウのツッコミでイチロウは昏倒した。コイツはこのまま寝かせておこう。

 午後の授業が終わって、放課後、俺たちは駅前に集合した。イチロウの歩き方がギクシャクしている。ちょっと殴りすぎたか。でも、まあ、コイツはすぐに復活するだろう。

「やあ、キョウコちゃんにりぼんちゃん、こんにちは」

「タロウさん、こんにちは」

「……こんにちは」

「あれ、何か、りぼんちゃん、元気ないね」

「ワタシ、カラオケ苦手かも」

「大丈夫、上手くなくても誰も笑わないから」

「おいっ!」

 拓斗はタロウの背中をはたいた。

「あっ、ごめん。でも、本当に気にしないよ。練習だと思ってさ、楽しもうよ」

 五人は駅前のカラオケに入っていった。店員に案内されて部屋に入る。一番最後にりぼんが恐る恐る入ってきた。

「よーし、飲み物何にする?」

 タロウは全員の注文を聞くと電話で店員と話している。

「とりあえず、二時間でいいだろ」

 タロウの仕切りでカラオケが始まった。

 全員、黙々と歌本を見ている。そして、徐々に曲の予約が入っていく。大体、順番になるように歌った。りぼんも、確かにあんまり上手くなかったが歌ってくれた。それだけでも、良しとするかと拓斗は思った。二時間はあっという間だった。カラオケが終わって、キョウコとりぼんと三人で帰った。よく考えれば、一応割り勘なんだが、キョウコとりぼんの分は拓斗が支払ったので、いつもより三倍の金額だった。これは小遣い交渉の余地ありだなと拓斗は思った。

「りぼんちゃん、大丈夫?」

 キョウコが心配そうにりぼんの顔をのぞき込んでいる。

「どうした? 熱でもあるんじゃないのか、顔が赤いぞ」

 拓斗はりぼんの額に手を当てた。

「うはっ、すごい熱じゃん、それにふらついてるし。俺の肩につかまれよ」

 拓斗はりぼんの腕をつかんで支えた。

「ごめんなさい」

「謝るなよ。別にいいってこのぐらい」

「りぼんちゃん、拓斗君に甘えてもいいんだよ」

 キョウコは少し寂しそうな顔をしていた。

「早く帰って休もう」

 りぼんは小さく頷いた。

 

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「本当に一緒に住んでるみたいだね」

 学校の帰り道、聖子は何となくつぶやいた。

「うん」

「キョウコの家、こっちじゃないもんね」

 キョウコの家は駅を挟んで向こう側。こちら側では確かに逆方向だ。

「その調子だと上手くいってるみたいだね」

「一応。でも、まだ、決定打が打てないんだ」

「ふうん、キョウコでも苦戦する男がいるんだねぇ。私が男だったらすぐに飛びつくけど」

「なかなか難しいんだ。拓斗君、やさしいから」

「恋敵もいるみたいだしね」

「うん、でも、いがみ合ったりしているわけじゃないんだ。それだけが救い」

「好きな人がいるっていいよね。私も誰か好きになろうかな」

「あはは、いいことばかりじゃないよ。辛いときもあるし」

「そっか」

 会話が途切れてしばらく歩いた。

「じゃあ、私、ここで」

 聖子が別の道へ向かった。

「じゃあ、またね」

「うん」

 キョウコも拓斗と一緒に住んで、幸せいっぱいというわけでもなかった。やっぱりりぼんの存在は大きかった。ああ、なんでeプロセッサなんて渡しちゃったのかなと、ちょっとだけ後悔した。でも、そんなのは後の祭りだし、自分がりぼんを拓斗に託すつもりだったのだから文句は言えない。バロンの意志とはいえ、キョウコも決して楽じゃないと思った。

 スッと、黒塗りの車が現れて、手足の短いデブと、ひょろっとしたノッポが降りてきた。

「キョウコさんですね」

 キョウコは咄嗟に防犯ブザーのひもに手をかけていた。

「私たちはあなたに危害を加えない」

 ノッポが静かに言った。

「ご同行願います」

 デブが後部座席のドアを開けて言った。

「なんで、私があなたたちの言うことを聞かないといけないの?」

「拓斗さんのことでお話があります」

 キョウコはハッとした。何かが分かったというよりは、直感的に拓斗が危ないのかもと思った。

「さあ、どうぞ」

「分かった」

 キョウコは車に乗り込んだ。三十分ぐらい走っただろうか。若干寂れたオフィスビルの並んでいる通りに車は駐まった。ビルの一室に案内された。ドアには榊原製作所と書かれていた。中はがらんとしていて、中央に初老の男性がひとり椅子に座っていた。

「お待ちしていました」

 男はキョウコを見ると、なるほどとつぶやいた。

「あなたは誰?」

「キョウコさん、私はなるべく穏便に済ませたいと思っているのですよ」

「何のこと?」

「りぼんを知っていますね」

「それが何だって言うの」

「アレは危険です」

「バカバカしい。アレはただの拡張現実」

「そうではありません。あなたはボカロがなぜ歌えるのか知っていますか」

「馬鹿にしてるの? 歌声ライブラリのことを言っているのなら」

「危険なのは、あなたです」

「何でよ、私はただのボカロ使いじゃない」

「本当にそうでしょうか、黒猫さん」

「少しは私のこと知っているみたいね」

「ええ、あなたと、バロンが関係あるということも知っています」

「よくできました、とでも言って欲しいの?」

「あなたはまもなく処理されます。バロンによって」

「逃げろと言いたいの?」

「できれば遠いところがいいですね」

「私はそんなことしない。拓斗がいるもの」

「拓斗さんは、あなたがバロンであるということをもうご存じだ。命を懸ける覚悟があるということですか」

「言うまでもないことよ」

「そうですか、それなら何も言いますまい」

「……」

 男に背を向けて部屋を出ようとすると、ノッポが行く手を阻んだ。

「あなた、死にますよ」

「うるさい、どけ」

「通してあげなさい。それから家まで送っていって差し上げなさい」

 男は背中を向けたまま言った。キョウコはノッポとデブを押しのけて外に出た。早く外に出たかった。この部屋は、この空間は、嫌だ。気が狂いそうになる。拓斗のためなら死ぬのなんて怖くない。本当だよ、そうキョウコは自分に言い聞かせていた。

 車で家に帰ってきた。何にも言わなかったのに拓斗の家の方に車は到着した。拓斗の家、拓斗の部屋、拓斗の匂い、そこにはキョウコの求める全てがあった。

「私には還りたい場所がある」

「それは、ここでよかったのですか」

「ええ」

 車から降りてキョウコは拓斗の家を見上げた。また帰ってこれてよかった。そう、思った。

「ただいま」

「あ、おかえり。キョウコちゃん帰ってきたんだ」

 ちょうど拓斗の妹が廊下を歩いているところだった。

「すみません。お邪魔ですよね」

「いや、別にいいんだけどさ、気をつけなよ」

「何をですか」

「兄貴、バカでスケベだからさぁ」

「あは、そうなんですか」

「そうそう、襲われそうになったら、すぐに言ってね」

「はい、わかりました」

「ん、キョウコちゃんは素直で良いなぁ。じゃ」

「ども」

 キョウコは拓斗の部屋に向かった。そっと、部屋の中をうかがう。りぼんはいないようだ。拓斗はベッドで仰向けになっている。ちょうどいいとキョウコは思った。

「拓斗君、拓斗君、拓斗くぅん」

 キョウコは拓斗の胸に飛び込んだ。

「どうした? キョウコ」

 このぐらいじゃ焦らないのねと思った。じゃあ、ドキドキさせてあげる。

「ねえ、拓斗君、今すぐ私を抱いて。ねっ、お願いだから」

 キョウコはブラウスのボタンに手をかけた。

「ちょ、待てよ。いきなり何だ」

「時間ないのよ。早く私を拓斗君のものにして」

「何焦ってるんだ?」

「……」

 拓斗はキョウコの腕をつかんだ。ちょっと強すぎて痛いかもしれない。キョウコが顔をしかめる。

「おまえ、何かあったな」

「ううん、ただ、私は拓斗君に」

「嘘つくな。誰かにいじめられたのか?」

「違う、私は……」

「キョウコ、バロンなんだよね。時間がないってどういうことだ。バロンは何を企んでる?」

「私は何にも知らない」

「知らない奴が、狙われたりするのか」

「……」

「おまえ、明日から少し学校休めよ。外に出るの危ないだろ」

「私は大丈夫だから」

「強がるんじゃねぇよ。それに、俺が心配だから休ませるんだ。分かってくれよ」

「拓斗君」

「何だ」

「キスだけ……」

 んっ、ゆっくりと鼻息が近づいて柔らかいものに触れた。

「深刻なエラーが発生しました」

「えっ?」

 りぼんがいつの間にか部屋の中に立っていて、ぐてんと倒れた。また、やっちまったらしい。拓斗はりぼんの方を見た。その顔をキョウコが正面に押し戻した。

「もう一度だけ、お願い」

 二人の影が重なった。少し長めに重なった。その間も拓斗はりぼんが気になった。どうしてりぼんはこんなことになってしまうのか。拓斗はキョウコを感じながら考えた。

 

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 放課後、タロウとイチロウが拓斗の横を並んで歩いている。昇降口で靴を履き替えて、学校の門へと向かう。

「いやー、今日も無事に終わったな」

 タロウは青空に向かってのびをして言った。

「全然、無事じゃねーよ」

「拓斗は英語の時間にかなり絞られたからな」

 馬のかぶり物の中からくぐもった声が聞こえる。

「拓斗、おまえ、全然予習してないだろ」

「めんどくさくてやる気にならん」

「それで、あんな前衛アートみたいな和訳になったわけだな」

「クラスのみんな、おまえの訳を聞いて失笑してただろ」

「うるせーよ。仕方ねぇだろうが、限られた語彙とカンで何とかしようとしたんだから」

「まあな、でも、拓斗に言葉の芸術の才能を見たような気もしたがな」

「タロウよ、それは慰めになっていないぞ」

 全く、どいつもこいつも勝手なことを言いやがってと拓斗は思った。門を出たところで誰かが駆け寄ってくるのを目の端に捕らえた。りぼんか?

「あれ? りぼんちゃん。今日はどうしたの?」

「拓斗に話がある」

「だってさ」

「俺たち先に帰るわ。じゃあな」

 そう言って、タロウとイチロウはさっさと帰っていった。

「りぼん、おまえどうしたんだ、こんなところで」

「拓斗に話がある。二人きりになれる場所、ある?」

 なんだか、りぼんは切迫した様子で迫ってくる。仕方ないのでりぼんを連れて、体育館裏の丘までやってきた。そこまで、りぼんは何も言わずについてきた。

「何だ、話って」

「ワタシ……」

 りぼんは自分の髪の毛をくるくると人差し指に絡めている。

「あっ、そうか、キョウコにいじめられたか? 俺から言っておいてやろうか」

「いや、あの、違う」

「ああ、ごめんな、歌声ライブラリの更新するって約束してたかな?」

「それもあるけど」

「他に何かあったか?」

「あの、夕日が綺麗ですね」

「はあ?」

「……」

「…………」

 りぼんの顔が赤く染まって夕日に照らされている。

「ワタシ、タクトのこと好き」

「えっ?」

「アイ、アイ、アイ、愛してる」

 りぼんがどもりながら、やっと口に出した言葉は、愛してるだった。

「マジで?」

「うん、ワタシ、タクトが好き」

 拓斗は嬉しいんだけど、なんだか嫌な予感がした。

「でも、ごめんな、俺にはキョウコがいるし。だから」

「いいの」

「いいのって、俺が困るよ」

「それでもいいの」

「いや、だからさ」

「ワタシ、タクトの二号さんでいいから。むしろ二号さんにしてください。お願いします」

「……」

「タクトがキョウコと仲良くしてると、エラーが発生するぐらい不安定になるけど、それぐらい好きなの」

「……」

「だから、お願いします。一番愛してなんて言わないから。二番目でいいの」

 そこまで言われたら断れないじゃないか。でも、これって確実に感情があるってことだよな。ボカロも恋をするっていうことなのかもしれない。それは、すごいことだな。そんな、りぼんを傷つけたくないという想いがあった。

「いいよ、分かった。りぼんがそれでいいなら」

「ありがとう。嬉しい」

 りぼんは微笑んだ。その微笑みはきっと拓斗にしか見せないものなのかもしれない。そして、りぼんの深刻なエラーの原因もこれではっきりした。恋する乙女は確かにエラーだらけかもしれない。そして、りぼんはボカロだから素直に強制終了してしまうのだろう。でも、このことはいつかキョウコにも分かってもらわないといけないなと拓斗は思案した。これで、険悪になったら一緒に住んでいて支障をきたすことになりかねない。難しい問題とりぼんの無邪気な笑顔が拓斗の心を締め付けた。

 

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「拓斗君、一緒に出かけてくれないかなぁ」

「ん? どこへ」

「ちょっとそこまで」

 拓斗はキョウコから行く先を聞くと、ああそこかと思った。確かに知っているけど、普段は通り過ぎてしまうような店だ。別に行くのはかまわない。けれど、気をつけないといけないなと拓斗は思った。

「じゃあ、一時ぐらいに出発でいいかな。拓斗君」

「ああ、分かった」

 キョウコは部屋を去って行った。まだ、三十分ぐらいはあるか。その間にこの曲をもうちょっと進めておこう。拓斗はマシンに向かって、曲の制作を続けた。

「ねえ、タクト」

「なんだ?」

「歌声ライブラリのね、更新、して欲しいな」

 りぼんが拓斗にお願い事をするのは珍しい。

「ワタシ、もっと上手く歌えるようになりたい」

 りぼんは拓斗をじっと見ている。りぼんのストレートな感情が伝わってくるようだった。

「分かった、じゃあ、更新しような」

 そう言って、拓斗はりぼんの歌声ライブラリの更新をはじめた。そんなに時間はかからないと思うけど。

 と、思ったが、意外と手こずった。サーバーがあんなに重いとは思わなかった。

「タクト、ありがとう。ワタシ、いっぱい歌うね。タクトのために歌うね」

 りぼんは嬉しそうにしていた。それはそれで良かったと拓斗は思ったが、キョウコとの約束を忘れたわけではない。

「ごめん、りぼん。ちょっと出かけてくる」

 そう言って、十五分遅れで部屋を出ると、キョウコと鉢合わせた。

「悪いな、ちょっと手こずって」

「ううん、いいの。さあ、行こう?」

 玄関から外をうかがってみる。特に怪しい人影はない。まあ、とりあえず一人で出かけるわけじゃないから、大丈夫だろう。キョウコと一緒に街を歩く。

「ねえ、拓斗君」

「なんだ?」

「りぼんちゃんに何か言われた?」

「……」

「そうなんだ」

「何も言ってないだろ」

「顔を見れば何となく分かるよ」

「安心しろ、俺はキョウコを守るから」

「ありがとう。私の王子様」

「そんなんじゃねぇよ」

「ねえ、何かプレゼント買って」

「おいおい、俺の財布をピンチにしたいのか」

「あっ、これでいいよ」

 キョウコは駅前の露店で売られていた指輪を手に取った。

「何だ、いくらだ」

「九百八十円。格安で私の心をゲットのチャンス」

「はぁ、分かったよ。じゃあ、それでいいんだな」

 拓斗は千円札を出して、指輪をキョウコに買ってやった。それを早速指にはめて手を空にかざしている。

「なんだ、ちょっと小さかったんじゃないのか」

「ううん、こっち、利き手だから。左手なら、ほらぴったり」

 左手の薬指に指輪をはめなおして、キョウコはちょっと頬を赤らめていた。ずいぶん嬉しそうにするじゃないかと思った。そういえばキョウコの両親に挨拶に行かなきゃと思っていたのを忘れていた。

「なあ、キョウコさんよ」

「なあに」

「キョウコの両親にちゃんと挨拶しておこうかと思ってさ」

「うん、ありがとう」

「買い物の帰りに、キョウコの家に行こうか」

「嬉しい」

 目的地のファンシーな雑貨屋についた。こういう所は、あんまり男の入るところじゃないような気がするがキョウコに促されて中に入る。案の定、長い買い物に付き合わされた。ちょっとゲンナリしてしまった。

 帰り道、交番前でキョウコは元気よく横断歩道を渡りはじめた。繋いでいた手が離れて、一歩、二歩と先に歩いて行く。どこか遠くにキョウコが行ってしまうんじゃないかと思って。拓斗はキョウコに手を伸ばした。

――キャァァァァァ

 一瞬、それがキョウコの叫び声なのか、車のスキール音なのか判別がつかなかった。しかし、拓斗の目の前でスローモーションでキョウコが車にはね飛ばされるのを見た。本当にゆっくりとキョウコが地面にたたきつけられる。拓斗は思わず駆け寄った。キョウコの身体を抱き起こそうとしたが、どこにどんな怪我をしているか分からないのでやめた。

「拓斗……君」

「キョウコ、しっかりしろ」

 幸いにもキョウコにはまだ意識があった。

「どこか痛くないか」

「……どこも、痛くないよ」

 キョウコは虚ろな目をして、焦点が定まっていない。事故のショックで自分のこともよく分からないのだろう。交番前だったので、すぐに警察官が駆け寄ってきた。無線でなにやら連絡している。五分ぐらいで救急車が来たような気がするが、ずいぶん待たされたような気がした。それからは、何がなにやら分からなかった。とにかく自分のできることをしなければならないと思って無我夢中だった。

 

 病院のベッドにキョウコが寝ている。拓斗はそれをじっと見守るしかなかった。まもなくキョウコの両親がやってきて、拓斗は生まれて初めて土下座した。

「すみませんでした!」

「四月朔日さん、そんなことをしてはいけない。さあ、顔を上げて」

 キョウコの親父さんにそう言われても、拓斗はしばらく土下座し続けた。俺が十五分遅れなければ、そもそも外に連れ出さなければ、キョウコはこんなことにならなかったんだ。拓斗は自分を責め続けた。

 その後、刑事さんが来て、色々と聞かれた。キョウコをはねた車は、逃げてしまったらしい。だから、これはひき逃げ事件ということになるということを聞かされた。必ず犯人を捕まえてくださいとお願いした。

 夜になって、キョウコが目を覚ました。

「拓斗君」

「キョウコ、ごめんな」

「どうして、謝るの?」

「俺のせいだから」

「そんなこと、ない。泣かないで」

 拓斗はいつの間にか泣いていた。一歩間違えれば、大切な人を失ったかもしれない。そう考えると怖くて仕方なかった。

「さあ、もう少し眠れよ。俺、ずっとここにいるから」

「拓斗君も寝なきゃダメだよ」

「ああ、分かった」

「絶対、絶対だよ」

「大丈夫だよ、この部屋、ベッドが一つ空いてるんだ。それを借りてもいいって看護師さんに聞いたから」

「よかった」

 キョウコは安心したように目を閉じた。拓斗はキョウコが眠るまで付き添った。

 その夜、病院のベッドの上で拓斗は考えていた。全然、眠れなかった。キョウコをはねた車はやはりバロンの手先だったのだろうか。殺すのに失敗したと知ったら、また襲ってくるかもしれない。襲撃には備えないといけないなと思った。幸い、キョウコは骨も折れていなかったし、いくらか打撲はあったらしいが命には別状なかった。このことが、バロンに知られるまでどのくらいかかるだろうか。三日、いや二日かもしれない。でも、病院にいた方が安全とも言えるかと思った。とにかく善後策を考えねばならない。そんなことを考えているうちに朝になってしまった。キョウコに一旦帰るよと告げて、病院を後にした。

 

 一応学校には来たのだが、ほとんど何やっているのか分からなかった。全然頭に入らない。それも当たり前か。拓斗は机に掛けてある鞄を取って帰ろうとした。

「なあ、拓斗?」

 タロウが心配そうに寄ってきた。

「何だ? 俺ちょっと忙しいから」

「キョウコちゃんが入院してるって本当か」

「おまえ、その情報、どこで?」

「ネットで大騒ぎになってるぞ。黒猫が狙われてるって」

「!」

「おい、マジなのか?」

「……」

「拓斗、俺はキョウコちゃんの見舞いに行ってやりたいのだが」

 イチロウが馬のかぶり物を脱いで言った。

「分かった、見舞いに来てやってくれ」

 三人はキョウコが入院している病院に向かった。

 

 キョウコは昨日のベッドにはいなかった。それで看護師さんに聞いたりして少し探した。二人部屋から四人部屋に移っていた。

「キョウコ、みんなで来たぞ」

「あっ、拓斗くぅん。待ってたんだよ。探したでしょ」

 キョウコはベッドの上で座っていた。

「ああ、でも、そうでもなかったぞ」

「よかった、私、午前中はずっと検査だったから」

「そうか、でも、我慢しような」

「……うん」

「やあ、キョウコちゃん。具合良さそうだね」

「あ、タロウ君にイチロウ君。お見舞いに来てくれたんだね。ありがとう」

「これ、つまらないものだけど」

 イチロウが菓子折を差し出した。

「ああ、そんなに気を遣わなくても良かったのに」

「でも、一応、お見舞いだからさ」

「ごめんね、みんな。私がこんなだから」

「何言ってるんだ、キョウコのせいじゃないだろ」

「でも、私、みんなに迷惑を」

「そんなことないって、俺もイチロウも最初に聞いたときはびっくりしたけどさ。案外無事みたいで良かったよ」

「ごめん……なさい」

 キョウコの目から涙がポロポロとこぼれて布団に染みを作った。

「キョウコ」

 拓斗はキョウコの手を握った。握り返すその力が弱々しい。拓斗はキョウコが泣き止むまでしばらくそうしていた。

「みんな、今日はもう帰って。私のためにありがとう」

 キョウコは寂しそうに言った。

「それじゃあ、俺たちこれで、なあ?」

「キョウコ、何か欲しいものないか」

「ううん、大丈夫。さあ、拓斗君も帰って休んで」

「……」

 キョウコの病室を後にして、何となく重苦しい雰囲気だった。

「キョウコ嬢を車ではねた犯人、俺たちで探さないか」

 イチロウが口を開いた。

「マジで、でも、ネットの噂じゃ、バロンが関係あるって話だぞ。そんなのに俺たちが戦いを挑んじゃって大丈夫なのか」

 タロウは若干怯えているようにも見えた。

「ネットの噂って本当なのか」

「ああ、確かに、黒猫が狙われていて、近日処刑実施予定とかスレが立ってたな」

「そのログ持ってるなら貸してくれないか」

「いいけど、今のおまえには気持ちのいい内容じゃないぞ」

「いいんだ、貸してくれ」

「分かった、でも、無理すんなよ」

「分かってる、俺、ちょっとアテがあるんだ」

「そのアテってやつはおまえには危害を加えないのか?」

「わからん、でも、何かあると俺は思ってる」

「……そうか」

 拓斗はタロウからログを受け取った。

「拓斗、おまえ、何考えてるんだ?」

「いや、別にたいしたことじゃないんだ」

「本当だろうな。親友の俺たちに嘘はつかないよな」

 イチロウの真面目な声が聞こえる。

「ああ、俺たち親友だからな」

 三人は駅前で別れた。

 

「ただいま」

 家に帰るとりぼんが待ち構えていた。

「タクト、帰ってきた」

「おう」

「タクト、タクト」

 りぼんは拓斗に抱きついてきた。りぼんのつむじが目の前にあった。あったかい、お日様の匂いがする。

「なんだよ、キョウコがいないからって大胆になりすぎなんじゃないか」

「タクトは遠いところに行ってしまう。そういう決意をしたところ」

「そんなことないって。俺はどこにも行かないよ」

「ワタシには分かる。タクトがこんなに近くて遠いよ」

「遠くないよ、近いよ。ほらこんなに近い」

 拓斗はりぼんの目を見つめた。

「好き。どこにも行かないで」

「……」

 りぼんは懇願するように言ったが。拓斗には約束できないという気持ちがどこかであった。本当はりぼんも拓斗に甘えたいということが、キョウコが家にいなくなって少し表に出てきたようだ。

 タロウにもらったネットのログを見た。確かにそこには黒猫に関する不可解な噂が囁かれていた。事故のことも示唆していたかもしれない。だが、それだけだった。手がかりになりそうなことはなかった。しかし、このネットの住人の情報源はどこだろう。そこになにか根源的なものがあるような気がしてならなかった。

 

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