「はい、のわっち」
陸奥が差し出した書類を受け取りながら、野分は何とも言えない表情をした。いつの間にかすっかりそのあだ名が定着してしまっているらしい。さすがに鎮守府きっての戦艦娘にして秘書艦室の長たる陸奥に、その呼び方やめてください、とも言えず、野分はなんとか苦笑して書類を受け取った。
野分が戦艦娘陸奥とまともに対面するのは今回が初めてである。着任時に確かに挨拶はしたはずなのだが、いまいち記憶がはっきりとしない。多分その時の野分の頭の中は様々なものでいっぱいだったのだろう。
今朝の訓練明けに何気なくそんな話になった。すると、そのことを耳にした監督役の神通から、訓練時のそれよりも真剣な表情で、決して逆らわないように、と何度も何度も念を押された。その言葉から忠告というよりも脅迫めいた凄みを感じた野分は、半ば恐々としながら昼食を済ませると、固まったようなぎこちない足取りで、秘書艦室まで赴いたのであった。
顔を少し青ざめて、カチコチに固くなった野分に対して、陸奥は実に手慣れた様子で彼女を招き入れると、『着任後初めての外出』についてのガイダンスを始めた。ガイダンスと言っても、注意事項を単調に読み上げて、その都度、いい? とか、わかった? とか確認をとるだけである。野分はその度に、はい、と答えるだけでよかった。野分が返事をするたびに、陸奥はさっとペンを走らせて何かしらチェックを入れる。もしかしたら返答次第で何かしらの評価がつけられているのだろうか、と野分は疑問に思った。すると、それを見越したように陸奥が笑った。本当は私がするべきではないんだけどね、と言って書類を見せてくれた。どうやら野分本人が記載する必要がある書類のようだ。だが、説明文がいちいち法律用語のように回りくどく長ったらしい。どうやら陸奥はこれを噛み砕いて簡単な言葉で説明してくれているらしい。
陸奥の口から聞かされる内容自体は至極当然と思われることばかりであった。いわゆる常識や心得、諸注意といったもので、そこに関しては何の心配もいらないようであった。
「それにしても幸運だったわね」
一通り説明が終わった後、野分が自身で署名した書類を受け取りながら、陸奥が口を開いた。曰く、今日、大淀と鳥海が不在なのは雪風も吃驚な幸運らしい。野分はなんとなく察した。その二人とは既に会っているし、陸奥と比べれば格段に顔を合わせる機会が多い。確かに両サイドから、相当に細かいところまできっちりとした二人から重圧を受けるというのは想像しただけで、背筋が伸びる思いがする。
あまりにも簡単に手続きが進んでしまって、安堵したこともあるのだろう。気易い感じで、そうでしたか、と野分は微笑みなどを浮かべながら相槌を打った。陸奥は野分の幾分落ち着いた感じに、あらあら、と笑った。
どうやらあまり融通の利かない二人が不在ということも関係しているのだろう。始終ご機嫌な様子だった陸奥は、少しからかうような微笑みを浮かべながら、必要書類を整えてファイルに閉じてから、「はい、のわっち」、といたずらっぽく呼んだのであった。
陸奥から受け取った書類に今一度目を通しつつ、野分は『のわっち』という呼称が広まったのは、いつごろだっただろうか、と思い返していた。多分、彼女の着任からわずか数日の間だったはず、と着任後のめまぐるしい生活を一つ一つ思い出しては、また引き出しにしまっていく。
大体の原因は、僚艦の舞風がことあるごとに「のわっちのわっち」と大きな声で呼びまくるからだろう。そのせいか、気がつけば陽炎も黒潮も、のわっちのわっち、と舞風の声音を真似て呼ぶようになった。
それは二人のちょっとしたからかいだったのかもしれない。しかし他の娘の野分への心理的な垣根を低くするには効果てきめんだった。
確かそのくらいを境に、彼女をのわっちと呼ぶものが急激に数を増した。舞風のように人懐っこい――悪く言えば少しばかり馴れ馴れしい――性格の皐月や卯月などは初対面からもうあだ名呼びだったし、駆逐艦娘寮ではさもそれが当然というように、綾波や朝潮など常に礼儀正しい立ち居振る舞いをする娘ですら、いつのまにか「のわっちさん」などという呼称になっていたほどだ。
更には駆逐艦娘寮にとどまらず特定の他艦種の娘からもそう呼ばれているらしいのだが、野分がそれに気づいたのはほんの数時間前のことだった。決して逆らうな、と忠告してくれた神通が実は、のわっちさん、と呼んでいたことに思い至ったのである。改めて考えてみれば、それまでもおそらくそう呼ばれていたのだろう。だが、野分本人は全くそういった認識は持っていなかった。
そのような状況であるから、いいか悪いかはともかく、野分もとっくのとうに、自分がのわっちと呼ばれることに慣れてしまっているのだ。返事に戸惑っていたのはほんの数日だったような気もするし、それよりも短かったのかもしれない。野分はその事実に思い至って、少し頭を抱える思いだが、そこに陸奥が参入してきた以上、固定化は決したと言ってよいのだろう。思いがけず諦めの嘆息がついて出た。
「どうかしたの?」
野分が顔を上げてみれば、陸奥が真摯な目で彼女を見ていた。書類を見ながら立ち尽くしていた野分を訝しんだのだろう。
「あ、いえ、何でもありません。失礼しました」
野分は大慌てで頭を下げてから退室しようと踵を返した。だがそこで、「ちょっと待って」という声が背中に掛かる。野分が、少し肩をこわばらせながら、改めて机の前まで戻ると、陸奥は机の引き出しから一通の封筒を取り出した。事務用のものではない。一見してちゃんとした手紙であることがわかる、淡く、ややくすんだ空色を帯びた封筒だ。
「すっかり忘れてたわ。はい、これ。那珂からよ」
「那珂さん、からですか?」
「そう。あの娘の出掛けに預かったの。後で貴女に渡してくれって」
「私にですか?」
「そうよ。買い出しのリストじゃないの?」
陸奥の軽口に、野分は、また苦笑しながら、封筒を受け取った。
艦隊のアイドル、という野分の辞書にはなかった言葉で以て、精力的に艦娘の本分以外にも活動域を広げている軽巡洋艦娘の那珂。彼女は、野分がこの世で最も会いたかった艦娘の一人であった。別にそれを見透かされたわけではないのだろうが、いつの間にかあれやこれやと手伝わされ、これも理由はよくわからないのだが、柔軟体操やダンスの練習までさせられている。まるで那珂の付人になっているようだ、と周囲から憐憫の目で見られることが多々あるのは、陸奥もよく承知しているはず。だから今更野分が、街に出たついでに買い物をして来い、と言われても驚きはしないのだろう。
実際のところ野分も、那珂からの手紙と自分の外出許可とが結びついて、買い出し、という結実を得たのだが、敢えて表に出す必要すらなかった。
こういうのも共通の認識というのだろうか。尤も、野分としてはあまり面白いものではないが。
野分が、まさか本当に手紙の主旨は買い物じゃないだろうな、と半分くらい疑いながら封筒を開けると、ほのかにいい香りがした。香り自体はとても好ましいのだが、一体何の香りなのかわからない。なんとなく花の香りだと思うが、それこそ何の花かは見当もつかない。だが、とても優しげな、しかし凛とした印象を受けた。
これは花の香りなのでは、と野分が思った瞬間、彼女の頭には、桔梗の花がぱっと浮かんだ。もちろんこれは桔梗の香りではないのだろう。しかし、手紙の淡い空色と相まって、すっくと伸びた桔梗の姿を、野分はなんとなく脳裏に浮かび上がらせたのである。
手紙に添える香りを、そのまま字に落としこんで、『文香』という。そう陸奥が教えてくれた。香油や香りのついた紙片を使う場合もあるし、また手紙そのものをお香で焚き染める場合もあるという。
那珂なら後者じゃないかしら、と陸奥がこともなさげに言う。
ということは、香りは便箋自体についているのだろう。野分にはとても新鮮な手紙だった。もちろん着任して日が浅く、まだ訓練以外で鎮守府を離れたこともない野分が、誰かから手紙をもらうことなど決してないのだから、業務に関する通知文書以外では初めてもらった手紙ということになる。綺麗に折り畳まれた便箋を開きもせず、物珍しげに何度も裏返しては戻し、戻しては裏返していると、ふと陸奥の微笑みを視界の隅に捉えて、野分の顔は一気に紅潮した。
野分は慌てて姿勢を正し、ついでにわざとらしくコホンと咳払いをしてから、便箋を開いた。すると、手紙の雰囲気から自然と抱いた、野分のほのかな期待に違わない端麗な筆致が目に飛び込んできた。文字の一つ一つがくっきりとした力強い線で成されているにもかかわらず、文として全体を俯瞰してみると実に見事に流れる。しなやかで明るい那珂そのものといったところだろうか。
那珂の記した文字を見ながら野分は、先日川内が戯れに短冊に書き散らしていた文字を見せてもらったことを思い出した。さらさらと何気なく書き連ねるそれは、文字の善し悪しがわかるわけでもない野分が思わず、ほぅ、と嘆息せずには入られぬほどの美麗なものであった。真っ白な短冊に、黒い墨がまさに流れるように走る。その様は言いようもなく綺麗であった。しかしながら、涼やかな笑みをうかべた川内に、どこかしら触れがたい雰囲気があったことも事実である。清廉にして冷淡。野分はいつもの彼女らしからぬ一面を見た気がした。
川内の文字が幽谷の清流――あるいは白糸の滝とでも言うべきか――のようであるとすれば、今、手元にある文は、数多の白糸を撚り上げた川の水の流れのようだ、野分はと思った。当初は冷ややかでありながらも、やがて陽と地の熱を帯びて、滔々と満ち、流れ、生き物を憩う水の流れ。
そこで、野分は自分が手紙の文字から感じとったのが、温もりであるということに気がついた。ただただ優麗なるに任せるのではなく、自らがしたためたこの文を読む人への、そう、つまりは野分への心配り。野分が読むのに苦労せず、かといって書としての風格を損なうわけでもない、そんなほどよい塩梅でうまく折り合いをつけたのではないだろうか。那珂はそういうことができる人だ、と野分は当然のように思った。もちろん川内だってできるだろう。前の川内の文字があまりに美しく、素晴らしいとは思っても熱を感じなかったのは、ひょっとしたら、それが誰かに向けたものではなかったからかもしれない。
改めて便箋を眺めた野分はそこで、ようやく文の内容が言葉となって頭に流れ込んできた。
親愛なる野分様
初めての外出おめでとうございます。
時間があれば、下記のお店に寄ってみてください。
きっと気に入ると思います。
では Buon Voyage!
那珂
文自体は実に短く、軽快だった。野分は二度三度、文を目で追った。那珂が満面の笑みで話す様が、容易に頭に浮かんだ。口中で小さく文を読み上げ、ようやく文意を解すると、今度は首を傾げた。
一番伝えたいことは、彼女のオススメのお店を伝える、ということだろうか。自分の読解力がおかしな方向に振れてなければ、そういうことなのだろう、と野分は考えた。
野分は、四六時中とは言わなくとも、相当な時間を那珂と一緒に過ごしている。訓練や演習、座学、生活指導から、特に意味のないおしゃべりまで。昨日にいたっては、那珂の出発前の艤装の調整に早朝から付き合わされ、結局艤装中に自由に動きまわれない彼女の話し相手を延々と昼過ぎまでしていたのだ。その際にでも簡単に伝えられる内容である。それをわざわざ文字に落とし、しかも中身を書くよりも何倍もの手間をかけて紙を選び、香を薫き染め、丁寧に手紙にした那珂の心中とは一体いかなるものなのだろうか。
野分はこの手の趣向には疎いが、そこに散りばめられたそこはかとない何らかの意思――或いはかそけき想い――を、感じないまでに愚鈍ではない。しかし、それに気づきはしても、その真意を読み解くだけの経験も見識も知識もなければ、そもそも心の機微を表す言葉すらも十分に持ちあわせてはいない。自らの心中を吐露し、感情を過たず表現する手だてもわからない。言うなれば成長していない子供のようなものなのだろう。
そうだ。先ほどの署名はどうだ。まるで子供の字じゃないか。
那珂の綺麗な文字とは、比べることもおこがましい自分の書いた文字。それはまさに野分自身を雄弁に象徴していた。端から見ればそれなりの年に見られる容姿に比して、何とも心許ないと言わざるを得ない。
野分は、目を伏せた。
至らない自分。
尊敬している人。
自分が思っていた以上に、その背中はひどく遠い。
天を仰ぐようにしなければ、見ることもかなわない高みに在る人だということを思いがけず認識して、野分は一層いたたまれなくなった。
「ああもう、那珂ちゃんって呼んでよー」という本人の言葉を断って、那珂さん、と頑なに呼んでいた自分のなんとも滑稽なことか。
「あらあら、小言でも書かれてたの?」
野分の一挙手一投足をニコニコしながら見ていた陸奥は、野分が顔を曇らせたことに、敏感に反応した。
「……いえ、そうではありません」
野分は陸奥の問いに、首を振り、そして小さく答えた。
「ああ、書かれてはいませんが、ひょっとしたら言外に指摘されたのかもしれません」
「拝見してもいいかしら?」
陸奥が手を差し出した。穏やかな口調とは裏腹に、有無を言わさない雰囲気を感じた野分は、素直に那珂の手紙を陸奥に手渡した。陸奥は手紙を一見して、笑みを作った。
「ふーん、那珂のオススメのお店ならビオラかしら……? ああ、やっぱりね」
陸奥は二枚目の便箋に目を通しながら言った。
「このお店に初めて行った那珂が、いいところ見つけちゃった見つけちゃった、ってうるさかったわね」
陸奥は口元を便箋で隠すようにして笑った。
「でも、私は行ったことないのよ、ここ。いつだったかしらね、一回行ってみようとしたら、あの娘こう言ったのよ。自慢できなくなるから行くな、って」
陸奥の発言の意図を汲みかねて、野分は曖昧に相槌を打った。陸奥は再び手紙を野分に差し出しながら微笑んだ。
「せっかくの短い休暇なのだから、あまり悩まずに楽しんできなさいね。那珂だって、別に貴女の気分を損ねようとしてるわけじゃないわよ。少なくとも私にはそういう意図は全く読み取れなかったわね。それとね、野分、焦ってもどうしようもないことって、結構あるのよ。それと同時に、どうにもならないこと、って案外少ないものよ」
今日一番の陸奥の優しげな声に、野分は素直に頷いて、頭を下げた。
そのまま野分が踵を返したところで、まるで会話のタイミングを見計らっていたかのように、秘書艦室の戸が勢い良く開いて、漣が入ってきた。山のような書類を台車に乗せて、いかにも疲れた疲れたといった表情である。盗むような目つきで野分の手元の書類を見定めると、合点が行ったのか、わざとらしく台車の持ち手に崩れかかって顎を乗せた。
「休暇ですか〜。ああ、いいですな〜。漣もこの書類の山を窓からことごとく放り投げて遁走したいものですな〜」
芝居がかった漣の言葉に、陸奥が、あらあら、と微笑する。顔は笑ってはいるが、どこかしら、先ほどまでは全く感じなかった鋭いものが、その声音に感じられた。そこに反応したのだろう。漣が一瞬で姿勢を正し、野分ははからずもそれにつられてしまった。二人は直立する。直立したまま、陸奥が視線を外すのを待った。陸奥はしばし二人を眺め、それから机の上に何個も山を作っている書類の整理にとりかかった。体の自由を取り戻した二人は、肩から力を抜いて大きく息を吐いた。
「あ、が、がんばってね」
漣の邪魔をしないように、と野分は一歩退いてスペースを空けた。漣が、はぁ、よいしょ、とやはりわざとらしく声を出して台車を押し始める。野分に最も近づいたその時に、彼女はじっと野分の目を見てきた。野分がきょとんとしていると、漣はポケットから、何か紙の束のようなものを取り出し、陸奥の目を盗んでそれを野分のポケットに凄まじく俊敏にねじ込んだ。野分が何事かと口をパクパクさせようとすると、漣はニッと笑って野分の背中を力任せに叩いた。野分が押し出されるように廊下へ飛び出していく。
「ではいってらっしゃいませ〜。のわっちお嬢様〜。楽しんできてね〜。漣の分まで」
「あ、ありがとう……」
陸奥が、漣と書類の山を見比べながら肩をすくめたのを見ながら、野分は秘書艦室の戸を閉めた。野分はすぐにポケットに突っ込まれた紙の束を取り出した。ひとまとめにくくっていた輪ゴムを解いて見てみれば、それらは十部くらいのポチ袋であった。当然中にはお金が入っているし、メモと思しき小札程度の紙も同封されている。どうやら各人思い思いのリクエストが書かれているようだ。
鉛筆で走り書きしたメモもあれば、ボールペンで書きなぐられた、どこどこのメーカーのチョコレート、というものもある。いずれの字も、空色の便箋とはだいぶ趣を異にしている。だが、強烈な、裏表のない自らの欲求を野分に託すためだろうか。野分はそこに清々しさを感じた。
なるほど、陸奥の言うとおり、あまり考えすぎることはないのかもしれない。
丁寧に書類のファイルと、那珂の心遣いと、駆逐艦娘達の思いとをまとめると、野分は秘書課室のある本部棟を後にした。明日は晴れるといいな。野分はどこまでも青い空を見上げた。
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艦これ二次創作。
うち鎮の那珂と野分の関係性、いわゆる「なかのわ」のお話。
のわっちは割とみんなから愛されているのですよ。