一人の女子生徒が、校舎の壁を利用して三角跳びをしていた。何度も何度も、挑戦していた。何故そんな事をしているのか、周囲の人間は疑問に思うことだろう…………疑問を持つべき誰かが存在しなかったことは幸か不幸か、そこには彼女以外に誰も居なかった。
体力には自信が有るのだろうか?実際に持久力は有るようだった。息を切らしながらも、その動きは衰えていない。
「あああもう! 届かないなあ!」
しとしと、しとしと。緩やかに雨が降る中、少女は悪態をついた。
そう、雨が降っていた。小雨だが、冬の雨はとても冷たい。しかし、その女子生徒はその程度の雨など気にもかけていないようで、むしろ心地良さすら感じていそうだった。三角跳びの反復が、体温とテンションを上げているのだろうか。単純に小雨が好きなのかもしれない。
セーターを着用しているので、服が透ける心配も無いし。
彼女の名は山中麻衣子。
麻衣子が三角跳びをしているのにはもちろん然るべき理由があった。麻衣子自身、理由も無くそんな事をする人間に育った覚えは無い。
とは言っても、その理由は人に言えるほど立派なものでは無く、麻衣子的には恥ずかしいものだったが。
…………彼女はハンドボール部に所属していた。
誰も居なかったので、歩きながら投球のフォームを確認していたのだ。
自分でも何故そんな事をしてしまったのか分からない。そう、試合のシュミレーションをしていて、自分だったらどんな風に動くか。想像して。気付いたら、思い切りジャンプして、利き腕の左腕を思い切り振っていた。
ジャンプシュートである。これが試合ならば、間違い無く勲章もののジャンプシュートである。
そうしたら、左手に巻いていたネックレスが勢い良く飛んでいった。そしてそれは、校舎の2階、外側に設置されている窓の下、出っ張っている部分に、見事に乗ってしまった。
それを取るために頑張って三角跳びで出っ張っている部分に手をかけようとしているわけだが、これが全然届かない。
当然である。
そうしているうちに雨は降り出すし、結構大変なのだった。
ネックレスを取るのは無理かもしれない。そんな事も考えた。だが、麻衣子としては、諦めるつもりは無かった。
とても大事なものなのだ。諦めるわけにはいかない。
麻衣子は物を大事にする方だったが、それとは関係なく、あのネックレスを手放すつもりは無い。
何故なら、それは父が買い与えてくれたものだからだ…………1年前に自殺してしまった。
だから、絶対に手放せない。
麻衣子が気を入れなおして、再び壁に向かって走り出した。しかし、そこで、
「風邪を引くわよ」
突然にかかった声。
綺麗な声だった。振り向くのが若干躊躇われるくらいだ。綺麗過ぎて、感情が読み取れない。何かが欠落しているような、そんな声だった。
麻衣子に声をかけた人物を、麻衣子は知っていた。向こうは知らないだろうが。
確か、如月葉月という三年の先輩だ。
部の先輩が彼女と同じクラスで、その先輩自身も彼女と特別親しいわけでは無いらしい。だが、一度だけ、一緒に歩いている所を見た事がある。
そして、その彼女が女性の目から見ても、あまりにも美しかったために、後で名前を聞いてしまったのだった。自分に無いものに対する憧れが含まれていたのかもしれない。
これだけの美人ならもっと目立っていいはずなのだが、学校であまり噂を耳にしない。良い噂も、悪い噂もだ。それが良いことなのかどうかは判らないが、どちらにせよ不当な評価だと言わざるを得ない。そう思った。
「小雨とは言っても冬だから寒いでしょう。どうして傘も差さずに、そんな事をしているのかしら?」
「あそこに私の大事なものが乗ってしまったんです」
指を差して説明する。どうしてそんな事になったのかは、敢えて説明しなかった。恥かしい。
「あんな所に乗ってしまったら、貴女がいくらここで頑張っても取れないわよ。諦めなさい」
呆れた様に言ってくる葉月に、麻衣子は少し反感を覚えた。
自分の大事にしているものを諦めろ、と言われたら、誰だって少しは反感を覚えるだろう。まして、それが事情も知らない者から言われた言葉なら。
「…………それでも、取るんです」
少し不機嫌さを顔に滲ませて言う。麻衣子の中で、憧れが醒めていくような気がした。良く知らないから憧れる。そして、良く知らないからそれは簡単に醒める。実に単純な図式に、麻衣子は自分自身で呆れた。
運動部に所属しているため、上下関係には厳しい環境に身を置いている麻衣子は、それでも言葉遣いだけは間違えない。
「…………そう。じゃあ、もう少し頑張ってみるといいわ」
そう言い残して、葉月はアッサリと去ってしまった。
言われなくても、そうするつもりだ。
困っている麻衣子を手伝わずに去った事に関しては特に何も思っていない。
これは自分自身の問題だし、当然自分で解決すべき事だからだ。父がいないのだから、大抵の事は自分で解決しなければならない。そう思い込んでいた。
壁に向かって、三角跳び。そして失敗。
何度か挑戦して思ったが、これは効率が悪いのではないか。
しかし、ただの垂直跳びでは全く届きそうも無いのだ。少しでも高さを稼ぎたい。素人の三角跳びが高さに関してどれ程の影響を与えるのかは、実行している麻衣子からして全く分からないのだが。
あの先輩の言うとおり、もう諦めるべきなのだろうか?
不意に浮かんだ考えに、麻衣子は首を振った。
いや、それだけは駄目だ。
父は自殺だった。
何故自殺したのかは分からない。一年前、そんな様子などそれまで微塵も見せていなかった父は、ある日を境に突然精神的不安定に陥り、遂に首を吊った。
一年前は、この街の自殺件数が増大したという事もあり、麻衣子の父のそれも、その類として周囲の人々に認識された。麻衣子にしてはそんなもので一くくりにされたくない。
父が悩みを持っていたのなら、どうしてそれに答えて上げられなかったのか。母も姉も、もちろん未だに自分も悩んでいる。知らないだけで、父の親しい人間全員が、そう思っていることだろう。
だが、悩みなど到底あった様には思えなかった。それほど、自分は父の事を理解していなかったのだろうか。きっと、そうなのだろう。
ネックレスを買って貰ったのは、父がおかしくなる直前だった。
だから、あのネックレスは、父が正常だった最後の思い出という事になる。正常だった父との最後の繋がりなのだ。
だから、絶対に手放すわけにはいかない。
息を整え、再度挑戦して、また失敗。
壁の高さを恨めしげに見上げていると、突然廊下の窓が開いた。
「え?」
窓を開けたのは、先程去った葉月だった。
葉月は無言で傘の先端を窓から下ろし、傘を少し動かした。
すると、いとも簡単にネックレスは地面へと落ちた。
呆然としてそれを拾い上げる。
「………………」
麻衣子は恥ずかしさで穴に入りたくなった。
自分は何をやっていたんだろう。普通に考えれば、廊下からそうした方が良いに決まっている。
だから彼女はあの時、ここで頑張っても、と言ったのかと、今更ながら気付く。さぞ麻衣子の行動が馬鹿らしく見えただろう。
だが、それならちゃんとそう言えば良いのに、と少しムッとするが、気付かなかった自分が悪い。むしろ、そうしてくれた彼女に感謝すべきだ。
感謝。
そこで、麻衣子は気付いた。
「あ、あの有難うございます」
何はともあれ、まずは礼だ。
礼を言われると、葉月は微笑んだ。そして、麻衣子の予想しない事を言った。
「貴女は勘違いをしているわ」
「へ?……何をですか?」
「さっきも私に手伝ってと言わなかったし、こうすれば簡単に取れるという事を私が直接言わなくても、文句一つ漏らさなかったわね。貴女の何がそうさせているのかは知らないけど、頑張る事と頼らない事は別だと思うわ」
麻衣子が口を開けて葉月を見たまま言葉を出せないでいると、葉月は微笑んで去っていった。もちろん窓は閉めて。
…………なんだろう。妙な気分だ。しかし、嫌な気分では無い。心の中の、何か大切な部分に触れられた気がした。
麻衣子は散々蹴り倒した壁に背中を付けて、手元に戻ってきたネックレスを手首にきちんと巻きなおした。
小雨の降り続く空を見て、何故か、自分がとても馬鹿らしくなった。
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大切なものの価値は人それぞれですね。