「罪……ですか」
「違うか、小烏丸よ?」
自分が彼に式姫の主になるよう、頼まなければ。
いや、そもそも、自分がここに逃げ込まなければ。
思えば思うだけ、自分という存在が、彼にとっての疫病神でしかない様に思えてしまう。
楽しかった数々の思い出すら、その思いの前では苦い。
「そう……」
小烏丸は顔を上げて、大樹の葉の間から空を透かし見た。
空の青と日の光が、無数の松葉の重なり合いの間を抜けて、複雑な陰影を投げかける。
人の世も、またこのようなものでは無いのだろうか。
人と交わった、その軌跡が、その人の心に綾目を刻んでいく。
罪というのが、その人の刻んできた美しい綾を乱し、汚す行為であるならば……。
「私はそうは思いません」
多くの人や妖や、式姫の織り成したこの庭が美しいように、彼とこうめが織り上げた様々な物は、小烏丸には、この上なく美しいものに思える。
「ですが」
「ですが……何じゃ?」
「こうめ様がそう思われるのも、判りはします」
「大人の答えじゃな」
どこか苛立ちの混じった主の言葉に直接は答えず、小烏丸はこうめの傍に歩み寄った。
「こうめ様、肝心なのは、あの方がどう思われているか、ではありませんか?」
「それは……」
「行きましょう、こうめさま」
小烏丸が主を促す。
こうめと彼と式姫たちが織り成したこの綾を、彼が愛してくれるなら、それは罪ではないだろう。
それは、小烏丸が知りたい事でもある。
あの方は、私たちとの時間を、良い記憶の中に留めてくれたのだろうか。
それは結局、本人に聞くしかない。
そんな事はこうめにも判っている。
でも、聞くのが怖い。
怖いと言っても、詰られる事を恐れているのではない。
「……彼が、本心を語ってくれると思うか、小烏よ」
自分が傷つきたくないから、別れに臨んで、更に彼に嘘をつかせる……自分がそんな卑怯者になってしまうのが、こうめには怖かった。
だが、この問題を解決しない事には、こうめは本当の意味で、この庭を去る事は出来ない。
「そうですね……優しい方ですから」
小烏丸の言葉に、こうめが俯く。
どうすれば良いのじゃ……わしは。
男は不意に、自分がちゃんと地面の上に立っている事を感じた。
重圧は相変わらずだが、少なくとも、自分が今何処にいるのかは、認識できた。
例えるなら、濁流に流されながらも、流木に掴まれた状況……と言ったところか。
彼を救ってくれた、小さいけど確かな存在。
腹周りに感じる、か細い力。
ぼやけた目に、猫の耳よろしい髪型に結った、可愛らしい頭が写る。
「こう……め?」
こいつが……俺を引き止めてくれたのか。
ぎゅっと抱きついてくるその腕に、か細いが必死の力を感じる。
彼の声が聞こえたのだろう、顔を押し付けたまま、こうめがくぐもった声で、彼に答えた。
「一人で苦しむな、足りぬ力なら、足りぬ技術なら、足りぬ知識ならわしらが貸す」
こうめの言葉に、男は、ふっと胸を突かれたような表情を浮かべた。
……滑稽だな。
子供にかけた言葉を、そのまま返されている己は、何と間の抜けた存在か。
そんな自己嫌悪を覚えると同時に、この言葉に何とも言えない安堵を感じる。
それに身を預けたくなる……。
だけど、俺は一人で何とかしないと。
誰にも頼らずに生きてきた。
そして、これからも。
彼女達だって、いずれ去っていく存在達。
「こうめ……離れてろ、命の危険があると言ったのはお前だろ」
それに、男には何となく判った。
自分の意識に、僅かだが余裕が出来たのは、こうめが、この力を少し引き受けてくれているからだと。
こんな途方も無い力、こうめのような少女がいつまで耐えられる物ではない。
「嫌じゃ」
辛い中から絞り出した、弱々しい、だけどきっぱりした言葉。
確かに苦しい、男の気遣いも判る、だがこうめは嬉しかった。
祖父の血に連なる者故か、自分にも天女との絆があった。
主たるには足りないようだが、この力を受け止めてやる位は出来る。
自分にも、この中で分かち合える事があった。
どれだけ苦しくても、離したりしない。
「良いから離れてろ、俺は一人で」
「ふざけた事を言ってるんじゃありませんわ!」
彼女の細い体の何処から、という程の天狗の大声が辺りに響いた。
この男はどうして……こう。
「何でこうめ様の心が判りませんの……この」
更に言い募ろうとした、天狗の肩に手が置かれる。
キッとした顔で振り向いた天狗の前に、真剣な小烏丸の顔があった。
「何ですの?」
「……天狗、敵です」
押し殺した小烏丸の低い声に、天狗が鋭く視線を巡らせた。
藪の間に光る目が。
地の上で蠢く影が。
上空で時折、月光を遮る翼が
「追手……」
無理も無い、あの油断のない大妖は、これだけの霊気の動き、すなわち自分の脅威になりうる存在を許しておくほど甘くは無い。
「まだこの屋敷の結界が、大物は阻んでくれているのが、せめてもの救いですが」
「これだけ荒れた状態じゃ、動物さんに取り憑いたような小物は、どうしても入ってきちゃうよね」
くんくんと鼻をひくつかせていた狛犬の瞳が、夜闇の中に、僅かに光る。
「匂いからして、えーと沢山が沢山って所ッス」
「って訳だ、天狗よー……アタイらはアタイらで、やる事があるみてーだぜ」
「……みたいですわね」
言葉を費やす時間は終わり……なるほど、あの腑抜けの言うとおりだ。
だが、これはこれで……。
くすくす。
「何が可笑しいんだ、天狗よー」
「いえ……」
羽団扇を一振りしただけで生じた突風が藪を強く揺らす。
その風で恐れをなしたのか、小さな者達の狼狽の気配が拡がるのを見て、天狗が凄みのある笑みを浮かべた。
「これで、ここに居る全員が命と存在を賭けて戦う事になる、と思いまして」
「そうですね……不謹慎ではありますが」
小烏丸が帯びた刀の鯉口が切ると、硬い鉄が擦れる低い軋みが、静かな庭に響く。
「見ているだけより、気が楽ではあります」
「はぁ、戦うのやだなぁ……」
口ではそう言いながら、白兎が短弓に素早く弦を張る手付きは、熟練の戦士のそれ。
張りを確かめるように軽く弾いた弦が、ピィンと高く張り詰めた音を立てる。
「でも、死ぬのはもっと嫌だしね」
「幾らでも掛かってきやがれ」
悪鬼の構えた重厚な鉄(くろがね)の刃が、月光を弾いてぬめりと光る。
戦鬼として昂る血が、体の隅々まで行き渡っていく感触が快い。
「一匹たりとも生かしちゃおかねぇ」
「今度は負けないッス」
その身に倍する長さの槍先が、小揺るぎもせずに、相手を定める。
逃げるための血路を開くのではない、今度こそ勝利を掴むために。
「本当の突撃を見せてやるッス」
敵がじわりじわりと距離を詰めて来る。
彼女達の手ごわさは、嫌と言う程、その身に染みて知っている者達の動き。
「包囲を狭めてから、一気に攻め入るつもり……ですかね」
「でしょうね、面白くありませんが、守るこちらとしてはそれを待つしか……」
「守って駄目なら攻めるッス」
「お、おい、待てって、狛犬!」
「こうめ様達を守らないと駄目なんだよ」
「守るなら、近付けないのが一番ッス、つまり先に蹴散らすッス」
「そんな、無茶な」
呆れた様な小烏丸の後ろで、天狗が顎に手を当てた。
「……一理ありますわね」
「ちょ、ちょっと天狗?」
珍しく慌てたような表情を浮かべた小烏丸を面白そうに見て、天狗は肩を竦めた。
「こちらは少数の上に援軍のあても無し。防備を固めても、先がありませんわ……」
まして、天女と主人を欠くこちらは、明らかに持久戦では不利。
ならば、短期決戦で相手に打撃を与え、士気を削ぎ、退かせるしか手はない。
「それじゃ、良いッスか?!」
「存分に!」
「うおーーーー突撃ッスーーーーーーーー!!!!!!」
もはや彼女の突進を阻む物は何も無い。
穂先を天に振り上げ、いわゆる剣術で言う所の八双に構えた狛犬が、途方も無い速さで走り出す。
虚を突かれ、動き出しが一瞬送れた敵の群れに、唸りを上げて、長大な槍が振り下ろされた。
その槍の軌道上に居た鳥のような妖が、槍先に掠られただけで真っ二つに引き裂かれる。
だが、その程度では勢いは止まらない、狛犬が突進しながら振り回す槍の範囲に居た不幸な敵が、唸りを上げる柄に打たれ、体をひしゃげさせながら、右に左に、天に地に、叩き付けられ、弾き飛ばされる。
「すごーい、狛犬ちゃん」
「力余りすぎじゃねーか、あいつ……」
「生きた暴風ですわね……白兎さん、巻き込まれない辺りから援護を、バカ悪鬼は白兎さんを守りつつ、狛犬さんを抜けて来た敵の始末を」
「うん」
「しゃーねーな、今は言う事聞いてやらぁ」
二人が走り出す。
それを見送った小烏丸と天狗が、お互いの顔を見交わした。
「それで、天狗……私は?」
「貴女はこうめ様の護りを」
あの方の最後の言葉と願いを託された貴女がそれを。
「天狗は?」
「私は……そうですわね」
見上げた空に掛かる月が黒く濁る。
あいつも動き出したのか。
今はまだ、この屋敷の結界に阻まれているようだが、それも時間の問題だろう。
近隣の神域を制圧して得た圧倒的な妖気が、周囲の景色を暗く歪める。
あの方が、私達を率いても勝てなかった。
もう駄目かも知れませんわね……。
「そこの腑抜け」
「……ん、だよ」
あの力の奔流の中、それでも返事を返して寄越すとは大したものだ。
こうめ様とのやり取りを見ていても思ったが、人に弱みを見せるのが嫌いなんだろう。
全く……。
天狗は内心で苦笑した。
この男は、本当に、昔の私に良く似ている。
「私達の主になると言いましたね」
「ああ」
こんな状況で、まだ躊躇い無く、そう言えますの。
強情というか、腹だけは据わっているというか。
知識や力が足りてないのは不満ですけど……まぁ、たまには、こんなのも。
「確かに天女さんとの絆は結ばれましたわ、でも、主人にはなれてませんわね」
「……」
顔をしかめたのは、どこかにその自覚があるからだろう。
「手がかりを教えて差し上げますわ」
「頼む……」
この期に及んで勿体ぶって、そう言いたげに男の顔が皮肉にゆがむ。
意地悪をしている訳ではありませんのよ。
時間は無論惜しい、答えを教えれば、それで済むなら、天狗もそうしている。
答えを口にしてしまうと、簡単そうに思えてしまって、逆に答えから遠ざかってしまう。
この答えはそういう物。
とても簡単で、とても難しい。
だからこそ、自分で答えに辿り着き、その答えを受け入れる必要がある。
「一つ、こうめ様は何故、あなたの言葉をあなたに返したのか?」
「何?」
「二つ、自分から出た言葉なのに、その言葉は確かにあなたの心を揺らした……それは何故か?」
もっと術の専門的な話を期待していたのだろう、訝しげな顔で、男は天狗を見返した。
「それが手がかり?」
「ええ、その答えが、すなわち……まぁそういう事ですわ」
「何の判じ物……だ」
「手がかりである事は保障しますわ。しっかり考えて下さいませね、腑抜けの上に阿呆で鈍感では、この先話にもなりませんもの」
「言って……くれる」
「ええ、言いますわよ」
ばさりと力強く打った翼が、彼女の華奢な体を宙に持ち上げる。
「いずれ、私の主になって頂くのですから……ね」
そう言い残し。
「天狗?まさか、一人では無茶です!」
引き止めようとする小烏丸の手が宙を掴む。
「私は、空へ」
彼女は、戦いの空へ飛び立った。
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式姫の庭、二次創作小説になります。
第一話:http://www.tinami.com/view/825086
第二話:http://www.tinami.com/view/825162
第三話:http://www.tinami.com/view/825332
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