「小烏丸よ……」
「はい、こうめ様」
呼びかけておきながら、こうめは次の言葉を発する事もなく、大樹を見上げ続けていた。
小烏丸も促さない。
黙ってこうめの傍らに立ち、主が想いを整理するのを待つ。
それは彼女がこの庭を発つ前にせねばならない事だと、良く判っていたから。
ややあって、こうめは上を見上げたまま、呟くように口を開いた。
「わしの式姫になって、お主はそれで良かったのか?」
こうめの問いに、小烏丸は困ったような、だが穏やかな笑みを浮かべた。
「ええ」
「彼の式姫で居たかったのではないか?」
「……それも、然りです」
白い繊手を大樹の幹に添えて、小烏丸は言葉を継いだ。
「あの方とこうめ様、お二人とも、私の大事な大事な主です」
選べません。
澄んだ、綺麗な笑みだった。
曇りなく、迷いの無い……今のこうめには眩し過ぎる。
「では……」
選べぬというなら、何故わしを。
「こうめ様、私は刀です……戦う人の道を切り開く武具であり、時に歩みを支える杖であり、刀身に心を写し、己を省みる鏡でもあります」
小烏丸は言葉を切って、静かな目をこうめに向けた。
「私への問いに、こうめ様は何を写していますか」
その問いに、こうめは視線を落とした。
その目に、涙が光る。
誰も詰らない……誰も責めない。
「……わしの罪を」
重い。
最初に感じたのはそれだけだった。
心構えはしていたつもりだったが、予想外の力が彼に襲い掛かる。
彼の存在の全てに掛かってくる、得体の知れない重み。
だが、重みといっても、力で支えられる物ではない事が、苛立ちと同時に、恐怖を募らせる。
形ある重みなら、何処を支えるか、どう力を込めれば良いか、察しは付く。
だが、これには形も無ければ大きさも見えない、己の何がこの重みに抗っているのかも判らない。
(これを、あの子は一人で支えてたのか)
全身に脂汗が噴出す。
こうめが言ったように、これは確かに危険だ。
どう危険なのか、まるで把握できない。
それ以上の危険があるだろうか。
「く!」
食いしばる歯の間から、歯軋りと呻きが漏れる。
膝が震え、砕けそうになるのは、重圧か、それとも恐怖の故か。
余りの重圧に声も出せない。
どうすれば良い、何が起きている。
俺は、何をすれば良い。
俺は、あの子は、どうなる。
無力感に苛まれそうになる。
(畜生……誰でも良い、教えてくれ)
疲労の極みに達したこうめが、崩れるように膝を突いた。
「こうめ様、ご無事ですか?」
あわてて駆け寄る小烏丸を手で制して、こうめは気丈にも顔を上げた。
「彼は、そして天女は?」
「天狗が言うには、絆は結ばれたと」
小烏丸の言葉に、こうめの表情が明るくなる、だが、それを痛ましげに見て、小烏丸はわずかに視線を逸らした。
「ですが……まだ何も」
「何も?」
「天女さんは苦しみ続けていますし、その手助けをする術など知らない彼も、当然苦しんでおりますわね」
小烏丸の後ろから、天狗が冷たい目をこうめに向ける。
「……!」
血相を変えたこうめが、あわてて視線を巡らせる。
今にも意識を失いそうな天女が。
苦悶に顔を歪めて、今にも崩れそうな膝を押さえる男が。
「そんな……」
「式姫を素人にゆだねようなど無駄なこと、結局は共倒れですわ」
「天狗!てめぇ、幾らなんでも言いすぎだぞ」
だが、いつもなら喧嘩を始める天狗が、このときばかりは悪鬼を冷たい目で一瞥しただけで無視し、こうめに言い募った。
「何故、あの方の孫たる貴女が、あんな男に私たちを預けようなどと考えましたの!」
「わしは……」
「今日会ったばかりの、しかも力も覇気も何も無い腑抜けに、一体何を見ましたの? 貴女には私には見えなかった何が見えましたの?」
天狗の言葉の激しさに、悪鬼や小烏丸、それにあわてて駆け寄ってきた白兎や狛犬も、声を出せずに、ただ立ち尽くす。
重苦しい空気の中、だが、こうめは顔を上げた。
「……のじゃ」
出そうとした声に、沢山の感情が絡みつき、音にならない。
「何ですの、言いたい事があるなら、はっきり」
「おじいちゃんの……匂いがしたのじゃ」
「匂い?」
「そうじゃ」
今にも泣き出しそうな、だけどその中に、芯鉄の存在を感じさせる声。
「あの方と、あのぼんくらの何処が似ていると!」
「似ている訳ではない」
天狗の反問に、こうめは静かに言葉を返した。
佇まいも、物言いも、出来る事も、おじいちゃんとは全然違う。
「じゃが、彼はおじいちゃんと同じ類の人じゃ」
「何を言っているのか判りませんわ、判るように」
「……彼はわしを、信じてくれたのじゃ」
天狗の言葉に応えたような、そうでないような。
こうめは、自分の中に答えを探す表情でそう呟いた。
縁も所縁も無い、助けても得が無い所か、損でしかない、でも、寄る辺無く泣いている幼子を眼前にした時にどうするか。
その選択の時、小賢しくあってはいけない時に、ちゃんと人としての選択が出来る。
そういう、どこか愚直な魂の有り様が良く似ていた。
式姫は神。
(呪文や経を暗記したとて、それだけでは大した意味は無い……それは天地や神々に自分の言葉を届ける方法に過ぎんからじゃ)
陰陽師の修行は、色々な祭儀や祭文を覚える所から始まる。
それらを覚えるのが苦手で、一人泣いていたこうめの頭を撫でながら、おじいちゃんはそう言っていた。
言葉に想いを乗せ、相手に届ける術を正しく学ぶ。
それは勿論大事な事だが……。
(最後に人や神を動かすのは、その言葉に乗せられたその人の輝きのみ)
我慢して学ぶ事、歯を食いしばってそこに留まる事は、無論、時には必要な事じゃが。
そう穏やかに笑いながら、おじいちゃんは言葉を継いだ。
(それは、直ぐに生きる為に必要な事だからやるのじゃ、こうめ)
小ざかしい知恵を得てその生き方を曲げる位なら、陰陽師になどならずとも良い。
直ぐに生きて、自身の生き方を定めるのじゃ、こうめ。
今……自分は、その生き方を定める決意を一つした。
こうめには、その実感が確かにあった。
「わしらを信じてくれた彼の心は、おぬしらの心には届かなんだか?」
こんな時だが、天狗の口元に、誰も気が付かない程に薄く笑みが浮かんだ。
この娘は、確かにあの方の孫だ。
私が、何故こんなに苛立っているのか。
私たちが、結局は何で動くのか。
その本質を、良く判っている。
だけど。
「仮に、彼があの方を継げる存在だとして、今の危機はどうするんですの?」
魂は認めよう……だが、この世界で生き延びるためには、相応の知識も力も必要である事も、また事実。
それを無視した綺麗ごとでは、誰も救われない。
……もう、自分の目の前で主を死なせるなんて、そんな経験はしたくない。
だが、天狗の言葉に、こうめは涼やかな笑みを浮かべた。
覚悟を決めた、あの方や、あの男に良く似た……。
「彼はまだ無力じゃ、だからこそ、天女や、彼や、そしてわしらが皆でどうにかするのじゃ」
そういいながら、苦痛に必死で耐える男のほうに、こうめは歩みだした。
「こうめ様、何を?」
「わしにも判らぬ」
後を追おうとする小烏丸を手で制し、こうめは真面目な顔で呟いた。
天女に、彼に……自分は何が出来るのか。
だが。
「何でも良い、足りない所に、自分の力が使えるかも知れぬでな」
そう口にした時、こうめは悟った。
(ああ、そういう事なのじゃな)
天女は大樹を、ひいては皆を助けようと。
男は天女を、そしてこうめ達を助けようと。
それぞれ必死になっている。
だけど、自分が誰かに助けて貰えると思っていない。
だから、周りが見えていない。
助力が、すぐ傍にある事に気が付けていない。
(皆、優しすぎるのじゃな……)
なら、こうめにも出来る事がある。
「お主に貰った言葉……お主に返すぞ」
貰った優しい言霊に、自分の想いを乗せて。
まだ小さな腕を一杯に伸ばして、こうめは彼に抱きついた。
小さな顔が、彼の腹に押し付けられる。
額の辺りに感じる熱と力は、天女の形代か。
余波だけでも、凄まじい力の存在を感じる。
こんな力を受けていては、二人とも、それは苦しかろう。
「こう……め?」
彼の苦しそうな声に、心が痛む。
だからこそ、天女に、そして、目の前に居る人に伝えよう。
「一人で苦しむな、足りぬ力なら、足りぬ技術なら、足りぬ知識ならわしらが貸す」
それでも……もし駄目だったら。
一人で死なせはせぬ。
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式姫の庭、二次創作小説の第七話になります。
第一話:http://www.tinami.com/view/825086
第二話:http://www.tinami.com/view/825162
第三話:http://www.tinami.com/view/825332
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