天高く、という言葉が良く似合う空の下。冬が近づき、冷たい風が吹く。…………工場内に置いても、それは同様だった。
しかし、妙な現実がその場所には存在していた。その場所には、冬の風よりも、南極の嵐よりも…………冷たい何かが流れていた。
人間において、最も重要な根幹の部分。それをアッサリと奪い取ってしまうための意思。 それは殺気と呼ばれていた。
しかし、場の冷たさちは逆に、充満した濃密な殺気は両者の体温を緊張で高めていく。体温の上昇は体のキレを向上させ、戦闘の激化を予測させた。
「もう、仲間には連絡したのか? お前一人では不安だろう」
グレーは、男の様子を窺いながら、注意深く口を開いた。
「…………僕一人で十分さ」
男もまた、足を止めず、口を開いた。
それは仲間に連絡していない、という意味だろうか?
「烏合の衆、という言葉を知っているか?」
再度の問いかけに、男は答えない。何を言いたいのか分からないのだろう。
グレーは嘲るような笑みを浮かべ、
「貴様のように先走るカラスが居ては、小隊のリーダーは大変だろうな」
「知らないのか? カラスの知能は鳥類で最高なんだ」
男が仲間に連絡しているにせよ、していないにせよ、敵の言葉を信じる意味は無いが。
そもそも、男がグレーに対して、真実を伝える理由は無い。それに、男がどう答えたにせよ、すでに男の仲間がこちらに向かっていると考えるべきだった。
だから、グレーの問いかけには、答えを得る以外の、別の意図が有った。何とかして男に隙を作らせ、精神支配の糸口を作らせよう。その様な意図。
だが、やはり訓練されている。簡単な挑発には乗ってこない。見た所かなり若いの。恐らく10代だろう。少年の様な幼さが垣間見
えた。少しは期待したのだが、簡単な挑発には乗ってこない。
とにかく、勝負は早めに決さなければならない。長引けば、どう考えてもこちらに不利だった。何時までも膠着状態で居るわけにはいかない。男を殺して勝利を得ても、その後、ジリ貧になる可能性は非常に高い。
グレーは僅かに後ろへ跳ぶと、建物の壁際に立った。そこに置いて有るのは、数本のドラム缶。後ろに下がった勢いそのままに、流れるような動きで、ドラム缶の腹に手を添える。
ドラム缶の内容量は200リットル。それ自体の重量は25キログラム程度。さすがに中身は入っていなかった。ドラム缶自体は、錆びて朽ちたとは言っても、重量はそれほど変わるまい。中身が有ろうが有るまいが、グレーには大差なかった。どうせどちらでも投げられる。
20数キログラム有るだろうドラム缶を、片手で斜め上方向に思い切り押した。
恐ろしい速度で、それは男へと正確に飛んでいく。空気の破裂音がドラム缶の後を追う。
さらに、グレーは続けざまに2本、同じ様に放り投げた。
男は冷静な表情を崩していない。それどころか、飛び来るドラム缶へ向かって突撃していた。
ドラム缶に中身が封入されているかどうかなど判らない。朽ちた外見から想像すれば、10人に9人は『入っていない』と判断するだろう。とはいえ、中身が本当に入っていないかどうかなど、実際には分からないだろう。仮に、ガソリンが封入されていたとすれば、男がヒートナイフで切断したとたん、男は炎に蒔かれる結果になる。また、避けたとしても、その方法が問題になる。高速で飛来するドラム缶に突撃したとなれば、跳躍したり、地面に腰を落とす。それ以外の方法は存在しない。そして、そのどちらも隙を生む事になる。男が突撃してきた以上、それ以外の選択肢は無いはずだった。
まさにその通りだった。だが、男の動きはグレーの想像を上回るものだった。
男は躊躇無く、初めの一本をヒートナイフで両断し、左手で両断した片方を内側から外へと押し、体をドラム缶の間へともぐり込ませて前へと進む。
中身が入っていない事を確信したのだろう。
男は、飛んでくる残り2本のドラム缶を、右手と左手で難なく捌いた。しかも、ほとんど隙が無い。
ほとんど、だ。逆に言えば、僅かながらの隙は存在している。
グレーにはその僅かな隙で十分だった。ドラム缶を跳躍して避けようが、地面にへばりついて避けようが、今の様に強引に突進してこようが。ドラム缶が眼くらましとしての役割を果たしてくれれば。
ドラム缶を投げ、男が突撃してきた事を確認した直後、グレーはドラム缶の影に隠してナイフを投げていた。
ドラム缶を全て避けて、グレーへの道が開けた時、ナイフは男の胸にどうしようも無いほど迫っていた。
経験の少なさが出たか。若いという事は、突然の状況に対しての対応力が希薄で有る事を意味する。
突然の状況に、判断を誤ったか。グレーがナイフを持って居る時点で、この攻撃は予想して然るべきだったのだ。
呆気ない幕切れを予感して、グレーが気を抜きかけたその時。
男の胸に迫っていたナイフが、突然空中で動きを止めて。
炎に焼かれた。
「………………!」
そして、男は突撃の勢いそのままに踏み込むと、ナイフを一閃。
辛うじて左横に体を動かし、避ける。液体へと変化した己のナイフと、スーツの腹部分を焦がしたその一撃に冷や汗をかきながら、グレーがさらに大きく後ろへ下がろうと足に力を入れた瞬間。
グレーの背筋をはしる、どうしようもない殺気。嫌な予感を覚えたグレーは、後ろへ跳ばず、右へと跳んでいた。
その判断は正解だった。
地を揺るがすような爆音と共に、先程までグレーが避けようとしていた軌道の途中に生まれる巨大な炎。
ナイフ、コンクリートの壁面を溶かした事。そして、肌に感じる熱によって、その炎の威力を知る。
…………炎の現出はそれで止まらなかった。
グレーは休む事無く動いていた。
単純に後ろへ下がるだけでは、突然出現する炎に焼かれてしまう。
複雑に動き回り、時にナイフを投擲しながら、段々と後ろへ下がっていき…………。
炎が現出しなくなったのは、男から数十メートル離れてからだった。それが最大射程距離というわけでは無いだろう。その気になれば、数キロに渡って水流を発現させる事が出来る能力者を、グレーは知っていた。ただ単に、これ以上は無駄と判断したか。
「あの男…………炎を操る能力者か」
パイロキネシスト、ファイアスターター。呼び方は様々あれど、意味する所は一つ。炎を生み出し、自在に操る事の出来る能力。
「ああいう能力は派手で嫌いだ」
毒づきながら、避けきれずに火傷した左腕をさする。大丈夫。機能的に問題無い。
火を操る能力者、水を操る能力者、雷を操る能力者…………。グレーが言う派手な能力とはそういったものだ。決して数が多い能力とは言えないが。そして、そうした能力は戦闘において絶大な威力を発揮する。
単純に破壊力の問題だ。グレーは多くの能力者を知っているが、自然操作系の能力はその火力だけで戦闘を有利に進める事が出来るのだ。重量の無い、極めて強力な大砲を持ち歩いているようなものだ。
精神を操作するというグレーの能力は、そもそも戦闘に向いていないのだった。
男はもう能力を隠す気が無いのか、周囲に炎を纏わり付かせていた。あれでは近づく事すら困難だ。
躊躇い無くドラム缶を切断したのは、例え自身が炎に巻かれても、それが害を成すことは無い、という事だろう。
さて、どうするか、とグレーは考える。しかし、考える時間を男は与えてくれない。
積極的に責めてくる。距離を長く取り、
間合いなど、男の能力に取って、有って無い様なものだろう。その射程を把握出来ていない以上、ハッキリと脅威だった。
その証拠に、グレーがその場を動いた瞬間、炎が立ち上った。
それだけでは無く、巨大な炎の奔流が高速でグレーを襲う。それを辛うじて避けた瞬間、グレーに生じた僅かな隙。だが、男は攻撃してこなかった。
炎を操作する事と、離れた空間に炎を発火させる事。両方同時には出来ないらしい。
さらに、男がナイフを振るう。遠い。ナイフで攻撃するには、あまりにも遠すぎる。
しかし、先ほど覚えた殺気と同質のものを感じ、やはり全力で横に跳んだ。そして、その判断はまたも正解だった。
男がナイフを振るう動作と連動して、地面を一直線に走る赤。地面が数十センチに渡って溶け出した。それだけに止まらず、工場の壁と屋根も、同様に数十センチの幅で綺麗に溶けた。
その部分だけ、大気が熱された様に思えた。それも、その温度は尋常では無い。
黒色のナイフは、男の能力に合わせて処理されているらしい。
男はグレーの予想を遥かに超えた実力者だった。1人で十分、という男の言葉は、決して虚勢では無かったらしい。
どうやら、自分の標的はかなりの重要人物らしいと、嘆く。
グレーは何とかして男に近づこうとするが、その炎の前に全てが徒労に終わる。
ナイフを投げても途中で溶かされる。近づこうと炎をかいくぐっても、相手に離れられては意味が無い。
だが、そうした時間は長くは続かなかった。
ついに、グレーは炎に捉まった。
足が、炎に撒かれたのだ。
己の気でレジストしたおかげでダメージはそれほどでも無いが、足が止まったのは致命的だ。
炎の奔流が、瀑布を流れる枯れ木の様にグレーの体を押し流し、工場の外壁に叩き付ける。外壁は面白いほどに陥没した。叩き付けられた衝撃で外壁が破壊されたのか、それとも熱で溶けたのか。
「ぐ……あぁ…………」
衝撃と熱とで、グレーは一瞬眼が眩んだ。そして、受けたダメージの大きさに、思わず倒れこむ。何時倒れたのかすら曖昧だ。
少しでも炎の熱から逃れようと、グレーは地面を這って進む。高温の空気など吸い込みたくない。
何とか体を起こそうとして、膝を付くまでに持っていった所で、グレーは顔を上げた。
男が余裕の表情で立っている。いや、やや疲れが見えるか。強大な力を操る代わりに、持続性はそれほどでも無いようだ。
腹を蹴られ、グレーは再び壁に背を打ち付けた。
尻餅をついて、男を見上げる。
「お前の、あの娘を捕らえるという目論みはここで終わりだよ」
厳然と言い放つ男に、グレーの顔は俯いた。
「観念したか? それで……は……?」
止めを刺そうとナイフを振り上げた所で、男は動きを止めた。
グレーの体が震えている。
男は最初、それが死への恐怖からだと考えた。だが、それは違った。
「く……はは…………は」
グレーは笑っていたのだ。死が目前へと迫ったこの状況下で、グレーは確かに笑っていた。
「…………何がおかしいんだ」
冷徹にグレーを睨みつけて、男が言った。
グレーは笑いを止め、しかし表情に少女の様に無邪気で残酷な笑みを浮かべ、笑いの原因を男に告げた。
「お前は今、娘、と言ったな。そうか、私が探しているのは、お前が娘と呼べる様な女なのか。だとしたら、十代の半ばと考えるのが自然…………」
男は己が失敗を犯した事を悟り、顔を歪ませた。歯噛の音がグレーにまで届いた。
「これだからカラスは困る。経験不足というのは恐ろしいものだな? 己が勝利の表彰台に立った途端、喋らなくても良い事をつい口走ってしまう」
グレーの笑みは、今やハッキリと男を嘲るものへと変化していた。
勝利を確信した男。敗北者となったグレーにそこまで馬鹿にされる事が、男は我慢ならなかったのだろう。
「…………黙れ」
静かだが、怒りの篭った声。それは、押さえ切れなかった感情の発露だったのだろう。
男が今度こそ、ナイフを振り下ろそうとした瞬間。
「はっ…………安い挑発に乗るなよ」
グレーの言葉は、妙にハッキリと男の耳に届いた。男の表情が瞬時に硬直した。
理解したのだ。
今、精神支配をかけられたのだ、という事に。
安い挑発。
グレーはそう言った。認めよう。下らない挑発に乗ってしまった自分を。そして、それにより隙を作ってしまったことを。
僅かな間隙、そこを付かれた。その隙は、本当に僅かなものだったはずだ。少なくとも、男にその自覚は有った。にも関わらず、気が付いた時には、すでに精神の支配を握られていた。
その手並みに、男は内心下を巻いた。自分とは練度が違う。恐ろしい異能力者だ。思えば、直接的な破壊力ばかりに気を取られていたのかもしれない、と男は後悔した。対峙して初めて…………いや、精神の一部を握られて、初めて理解できる恐ろしさ。
…………背中に伝わる衝撃。
顔だけで振り向くと、そこにはグレーが立っていて、ナイフを背中に突き立てていた。
何時の間に背後に。
刺されたというショックで、汗が吹き出る。しかし、男は麻痺しかけた思考に活を入れた。
落ち着け。精神を僅かながら支配されているのだ精神は脳に大いなる幻覚を引き起こす。だから、背中に居るのは偽者で、実際には刺されていない。これは陽動だ。
第一、前方にはもう1人のグレーが視えているでは無いか。もと居た場所に、グレーが居るでは無いか。それが本物だ。
さらに思考を回転させる。これが精神支配の恐ろしさか、と。背中に衝撃を感じ、背後にグレーが居る、と思い込まされた瞬間にも、視界の端で本物の彼女を捉えていたにも関わらず、それに違和感を感じなかった。
男が本物のグレーへと眼を戻すと、彼女はナイフを腰に構え、それを突き出す所だった。
しかし、間に合う。
自分のナイフは、未だ上段に構えられたままだ。このタイミングならば、相打ちには持ち込める。グレーのナイフに、どの様な仕掛けがしてあろうと、破壊力ならばこちらが上。視たところ、特別な魔術的処理を施されては居ない。ならば、例え毒が塗られていたとしても、仲間が回収に来るまでの間、持ちこたえる事が出来る可能性は高い。
つまり、自分の勝利だ。
男は渾身の力を振り絞って、グレーの体をナイフごと切り裂いた。 今度こそ勝った、と男が確信した瞬間。
切り裂いたグレーは霧散して、変わりに右脇腹への衝撃。
男がゆっくり振り向くと、そこには満身創痍のグレーが、脇腹にナイフを突き立てていた。
「思考が目まぐるしく回転しただろう。それこそが精神支配の本質だ」
脇腹に突き刺さったナイフよりも冷徹な声が、男の脳を抉る。
動けない。いや、体の動きが鈍い。
手が、足が、腰の回転が何処までも鈍い。ゆっくりと動くグレーの姿すら、捉える事が出来ない。
溺れた人間が水中でもがく様に、男は空中を必死にもがいた。
毒だ。そうだ、毒だ。
それが、男が思考できた最後の瞬間だった。
「なんだ、やはり仲間には連絡していたのだな」
GPS搭載の通信機からは、確かに信号が発信されている。男が持っていた物だ。それを踏み潰しながら、グレーは呟いた。
「ここから早く離れねばならないな。…………しかし、大した情報は持っていなかったな、この男。まあ、精神操作を扱う私が敵である事を考えると、当然か」
結局、男が知って居たのはグレーの標的が『女で、年若いと』いう事だけだった。だが、それだけ分かれば大いなる進歩である。
男は死んだ。
情報を引き出した後、力を流し込んで男の可能性を破壊した。そうすると、己のノドにナイフを突き立てたのだ。麻酔が効いてろくに動けないだろうに、その動きは必死だった。必死に、自分を殺そうとしていた。
「大した可能性では無かったな。やはり、裏の世界で生き方を固定された人間は運命に乏しい」
グレーは空を見上げた。
まだ、太陽は頂点に達していなかった。昼前だ。デパートで力を流し込んだあの子供は、どうなっただろうか?
もしかしたら、まだ間に合うかもい知れない。それを直接その眼で見なくても構わないが、是非見てみたい。
可能性豊かな子供の末路とは、一体どんなに美しいのだろうか。
凶悪な笑みを浮かべ、グレーは廃工場を後にした。向かうはデパート。ちょっとした騒ぎになっているだろう。
そしてその後は…………。
「……………………」
彼に別れを告げなければならない。
少年との別れは、今までに無い、別種の悲しみを感じさせた。その感情はなんだっただろうか。家族との分かれに似ていたかもしれないが、それらとの別れはかなり前に済ませてしまっているので、感情の区別が付きづらかった。
健太郎が眼を開けて、辺りを見回している。精神操作で、健太郎の眼を閉じさせたのだ。木の上から彼を見ながら、グレーの心の中には妙な寂しさがあった。
その別れ方は、おそらく卑怯なものだったのだろう。一方的に出会い、一方的に別れた。しかし、この様な別れ方しか、グレーは知らなかった。
健太郎はロザリオを、それはそれは大事そうに鞄へ仕舞い、放心した様な足取りで公園を出て行った。
もう2度と会うまい。
そう考えると、とても寂しかった。
10程も年の離れた健太郎を、とても尊敬していたのだ。
何にもなれない自分とは違い、ハッキリと己の道を確立させている健太郎に、言いようも無い好意と羨ましさを覚えた。
だから、自分の事を少しでも知ってもらいたくて、彼と話をしたのだ。自分を何処かへ導いて欲しくて、彼と話をしたのだ。追われている立場としては、それが非常に危険な行為だと知っていながらも、止める事が出来なかった。
健太郎の話す日常の話は、聞いていて面白かった。出来ればもっと聞かせて欲しかったが…………勘違いされたのだろう。適当な相槌だと思われたのだろう。健太郎は日常の話を、段々としなくなっていった。
彼が、あそこまで己の生きる意味を確立出来た理由を知りたかったのだが。
それはきっと、グレーの『生きる意味の探索』という最大の目的に、きっと役立つだろうと思ったから。
しかし、それは叶わなかった。健太郎は己よりも遥かに高い場所に立っていた。
グレーは空に視線を移した。
空には夕陽が浮かんでいて。
その夕陽に向かって手を伸ばしたが。
何を掴むべきなのか分からないままでは、何を得られるはずも無かった。。
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バトルって難しいなあと実感しながら描いた覚えが。
修正しても、やはり難しいと言わざるを得ない。