No.826057

別離   5.大樹

野良さん

2016-01-21 07:35:08 投稿 / 全3ページ    総閲覧数:730   閲覧ユーザー数:713

 小烏丸とこうめが見上げる視界が一杯の枝と葉に覆われる。

 この広い家屋敷の半分をすっぽり覆い隠すような、自然の天蓋。

 いかに広壮とはいえ、家の庭にあるまじき、松の大樹。

 いや、そもそも、松がここまで巨大になる物であろうか。

 しかもこの巨木が、ほんの10年前は根だけを残して朽ちていたなど、誰が信じられるだろう。

 見上げた目を閉ざした、こうめのまぶたの裏が少し熱くなる。

 ここが全ての始まりの場所。

 あの人と自分と、式姫達の。

 

 

 白兎に案内されて、四半刻程走った後に見出した池……いや、水溜りを見て、こうめはため息をついた。

「……池というには厳しいのう」

「藪蚊の巣でしかありませんわね、干してしまったほうが良いんじゃありませんこと?」

 無情に切り捨てるような天狗の言葉に、こうめは何か言い返したそうな顔をしたが、池の面を見てその言葉を口の中に閉ざした。

「こりゃ……確かにひでーなー」

「わが庭ながら……知らぬが仏とはよく言ったもんだ」

「嫌な匂いはしませんけど、暗い水面ですねぇ」

「流れ込む小川も無さそうですね、こうめ様、これは少々望み薄かと」

「……む」

 現実を認めたくない様子で、こうめは小波一つ立てない澱んだ池の面を睨み付けた。

 何故じゃ……何故池は有ったに。

 こんな水溜りでは、龍が水を飲む霊地とは……。

 

「ウーマーいッスー!!!!!!」

 

 そんな一同の落胆を軽々と吹き飛ばすような、高らかな声が上がる。

 美味の咆哮の後に、こくりこくりと、小気味良く鳴る喉の音が続く。

「え、狛犬ちゃん?!」

「この水を飲んだのかよ?!狛犬」

 水面から顔を上げて、ぬれた口のまま狛犬は不思議そうに一同を見渡した。

「喉がかわいてたところに綺麗な水の匂いがしたッス」

 

 当然飲むッス。

 

 狛犬としては自明の理過ぎて、説明の必要も感じて居ないのだろう、あっけに取られる一堂を尻目に、更に槍から下げた瓢箪に池の水を満たす。

「綺麗な水の匂いって……」

 くんくんと天狗が形の良い、すこし高い鼻をひくつかせてから、眉をしかめる。

「判りませんわ、どんな匂いですの?」

「ふわーんとしてすーっとしてさっぱりなかんじッス」

「こっちの理解がさっぱりですわ……」

「狛犬ちゃんの言葉は相変わらず面白いねー」

「しかし、水の匂いねぇ……判るものなのか?」

「狛犬の鼻は特別ッス、兄さんが朝に大根の味噌汁と菜っ葉の漬物をおかずに麦飯食べて、ちょっと酒呑んだのも判ってるッス」

「うげ……」

 えっへんと胸を張る狛犬をしばしじっと見ていたこうめが腰をかがめて、その小さな手を水に浸した。

「如何です、こうめ様」

 松明の炎を小烏丸が近づける。

「冷たいのう……」

 嫌な冷たさではない、それは清冽さの証。

 松明の火明かりの中だが、掬った水を見ると澄んだ水がこうめの手のひらの色を透かしている。

 だが、口を付けるのは流石に躊躇われる……そのこうめの横からひょいと大きな手が伸びて水を掬った。

「ふむ……」

「お主?」

「ま、大丈夫そうだな」

 そう言うと、男は無造作にその水を口にした。

「ちょっと!……大丈夫ですの?」

 薄気味悪そうにそういう天狗に、男は何とも言えない顔を向けた。

「寧ろ美味い部類だと思うぜ」

 不思議なこったが……そう呟きながら首を捻る男の隣に無言で天女が並ぶ。

「君も飲むか?」

「ふふ、まだ喉は渇いてませんので」

 微笑んだ天女が、白く繊細な手を水に浸して目を閉ざした。

 それはどこか、思いに沈むような、また聞き耳を立てるような。

 うかつに声を出せない雰囲気に、流石の狛犬や悪鬼も黙って彼女を見守る……ややあってから、天女は静かに目を開いてから、華やかに微笑んだ。

「こうめさん……当たりのようですよ」

「なんじゃと?」

「この水は清められています、今は弱いけど、何か大きな力で」

「それって……」

「ええ、この池の近くに、この庭の要、霊気の宿る場所がある筈です」

 

 池の中洲に、それは屹立している。

 もはやその木が生えている場所は、土地なのか根の塊なのか判らない。

 琉球から来たシーサーが、ガジュマルみたいだ、と懐かしそうに目を細めていたのを、小烏丸は覚えている。

 それはまるで、池の中に木が聳えている様な、不思議な光景。

 その根方に至るために掛けられた、朱塗りの立派な橋を、こうめと小烏丸はゆっくり歩いていた。

「最初は、足を濡らす覚悟さえすれば、歩いて渡れた物だが」

「そうでしたね」

 今では、この池はその深さも知れない程の、ちょっとした湖の様相を呈している。

 そんな、美しい水面を見つめる主従の足下。

 緩やかな弧を描く、優美な橋の下を、何か巨大な魚がゆっくりと泳いでいく。

 こうめを三人並べた位はあろう、まさに大魚。

「おお……主殿か」

 その独特の斑点を持つ背を、少し水面に見せて、その大魚はぱしゃんと水を跳ね上げた。

 春の日の中、水滴が空中で光を孕み、無数の宝石になって舞う。

 それは、彼なりのこうめへの餞別だったのか。

「岩魚坊主殿も、この池を気に入ってくれたようじゃな」

 毒流しで魚を取りすぎる村人に怒り、祟り神になりかかった淵の主を、退治するというよりは宥めて、この池に眷属共々棲んで貰ったのも、随分昔に思える。

「狛犬お墨付きの、良い水ですからね」

「ふふ、そうじゃな」

 

 

 狛犬の鼻が嗅ぎつけたそれを皆で辿る。

「ウマい水の元はこっちッス!」

 ぱしゃぱしゃと水を蹴立てた先には、小さな中州。

 その中央に、巨大な、大人が数十人でも囲めないのではないかと言う程の木の株が有った。

「でけー、なんだこれ」

「赤松ですわね……でも、ほんとになんですのこの巨大さは、松でこんなの見た事ありませんわ」

「ふぅむ、こりゃちゃんと生えてる所を見たかったな……」

 惜しい事だ。

 その男の呟きに、一同が頷く。

 これほどの株は、どれほどの大樹を支えていたのか。

「痛々しい」

 長い風雪でも丸め切れなかったささくれた切り口を、小烏丸の手が、労わるようになぞる。

「霹靂に打たれたような、焼けた痕跡が微かにありますわね……それで倒れたのかしら」

「少なくとも、二十年以上は経ってるぜ、俺はここに木が有った事も知らないからな」

「なるほど、その位は経って居そうですわね」

 とはいえ、天女が感じたように、確かにこの切り株からは霊気を感じる。

 それはつまり……まだこの木が死に絶えては居ないという証左でもある。

 この姿に成り果てて二十年以上を閲してなお命を繋ぐとは、この木が元々はどれ程の生命と力に満ちていたのか。

 想像した天狗の背に、寒気に似た戦慄が走る。

(信じられない代物ですわ……でも今となっては)

 

 男と天狗が松明を近づけて仔細に切り株を調べている隣で、悪鬼は天女を手招きした。

「天女ー」

「はい?」

「まだギリ生きてるみてーだけどよ、あたいらの怪我みてーに治せねーか、これ?」

「そうですねぇ」

「ちょ、ちょっと、バカ悪鬼、何を気楽な事を!」

「んだよ、治す話なら天女に相談して悪いこたーねーだろー」

「そもそも、これだけの霊樹の損傷を怪我と同列に扱うなんて……」

 更に何か言い募ろうとした天狗を、天女は手を上げて制した。

「大丈夫よ、天狗ちゃん」

 これだけの大樹の生命に、自分程度の力が関われるのか……正直、天女にはその自信は無い。

 無いけど……やらないと。

「でも、天女さん、今の私達じゃ」

「だからこそ……ね」

 

 多分、この庭が私達の最後の希望。

 

「私に出来るかどうかは……判らないけど」

「悩むなら駄目で元々、やってみるッス!」

「狛犬ちゃんたら」

 慈愛の光は結構疲れるんですよ、と苦笑しながら、天女は木に手を当てて、目を閉ざした。

 薄暮の中、柔らかい光が、天女が手を当てた所から拡がり、松の切り株を包み込む。

 その光に誘われるように、大地から、空から、光がふわりふわりと集まってくる。

 慈愛の心を以って、諸力を勧請し、傷ついた身を癒す術。

 それがちょっとした痛みや傷ならまだしも、完全に枯死しているようにしか見えない木に命を蘇らせるというのは。

「頑張るッスー!」

「気合だー!」

「天女ちゃんがんばれー!」

 そんな声援に答えられる余裕は無いらしい、いつもニコニコと温和な笑みを湛える顔が、苦しそうに眉間に皺を寄せる。

「頑張ってはいるんですけどね」

 これは、ちょっと予想以上……。

「大変そうですね」

「……大変どころではありませんわ」

 邪魔にならないように、切り株から離れた天狗と小烏丸も、気遣わしげに囁き交わす。

 小烏丸には表情からしか天女の大変さは判らないが、分野は違えど術を駆使する天狗にはより深いところで判る事が有るのだろう。

 握り締めた手が蒼白になっている……そしてそれに気が付いて居ない程に。

「存在に関わってしまうかもしれませんわ」

「存在に関わるって……慈愛の光をかけているだけで、何故?」

「……今の私達が不完全な存在なのを忘れてません?」

「……!」

 そうだった。

 この世界との繋がりが希薄になってしまっている今の自分達では。

「今持っている力を使い果たしたら」

「この姿を取る力も、当然失う……という事ですわ」

「お……おい、ちょっと待て、それって死んじまうって事かよ?」

 小声の会話に耳ざとく割り込んできた男に、天狗は苛立たしげに目を向けた。

「人の死とは違いますけど、まぁ彼女の姿と心を持った天女さんと、こちらの世界で遭える事は無くなるでしょうね」

「それじゃ、何であの子は?」

 そんな危険を冒してまで。

「ここが霊地、私たちが大きな力を得る事適う、極めて珍しい土地だからですわ、天女さんにはそれが判ったからこそ、危険を知りつつ、その力を復活させようとしていますの」

 優しすぎるんですのよ、あの子は。

「力を無くしたら君らは……だがその力を得る方法は、あの木を蘇らせるしか無い、そしてその力を持ってるのはあの子だけって事なのか?」

 然り、と言う変わりに天狗は肩を竦めた。

 気に入らない男だが、この腑抜けは少なくとも阿呆ではないらしい。

「確かに、霊地は妖怪の跳梁と戦乱でどんどん少なくなっていますから」

 小烏丸が唇を噛む。

「ええ、花の神社、竜の神社、霊山も霊穴も、妖狐に押さえられてしまったこの辺りでは、もうここしか無いですわね」

「だからって……少なくとも今は止めさせた方が良いだろ」

「術を使い世界に影響を及ぼすというのは、そんな軽い話ではありませんのよ……世界の持つ癒しの力を勧請し始めてしまった以上、もうあの術は彼女の意思で止める事などできませんわ」

 

 天女の元に集う光が強くなり、それに伴い天女の様子が更に苦しそうな物に変わる。

 応援していた狛犬達も、流石に何かを感じたのか、息を潜めて見守っている。

「何か、何か手はねぇのかよ?」

「私達をこの世界に呼び出した方なら、何か方法を知っているのかもしれませんけどね」

「天狗!それは……」

 小烏丸が何か言いかけたが、その天狗の言葉を聞いた男は血相を変えてこうめに駆け寄った。

「嬢ちゃん、何か俺達に手助け出来る事ぁねえのかよ!」

 男に顔も向けずに、こうめは天女に目を向けたまま、大人びた仕草で肩を竦めた。

「式姫の手伝いを人間がするじゃと?外見は幼き少女達じゃが、皆神々の列に連なる者らじゃぞ」

 おこがましい事じゃ。

 そう言い放って、こうめは鼻を鳴らした。

「それでも、お前さんが呼んだ連中だろ、だったら手助け出来る事だって」

「くどい、無いと言ったら無いのじゃ!」

「そんな訳ねぇだろ、人が呼ぶものなら、人が助けてやれる事だって」

 言い募る男の言葉に、こうめがキッと顔を上げる。

 その目に、涙がにじんでいるのを見て、男はたじろいだ。

「おおそうじゃよ、良く物の道理を弁えておるな、その通り、神々を使役できるほどの陰陽師なれば助けてやる事も出来る、じゃがな」

 こうめの顔がくしゃっとゆがむ。

「……わしには、まだそんな力は無い」

「それって……」

「小烏丸も、狛犬も、天狗も、悪鬼も、白兎も、天女も……みなおじいちゃんが呼んだ式姫で、わしが呼んだわけではない、皆、ただ好意でわしに手を貸してくれておるだけじゃ」

「なら……」

 そのおじいちゃんは、と言いかけて、男は口を閉ざした。

 こうめの言葉と表情が全てを語っている。

 もう、その祖父は居ないと。

「判ったようじゃな、わしは偉そうな口を叩くだけの小娘で……何の力も無いのじゃ!」

 自分の無力を嘆くように、こうめはその小さな手を握り、悔しそうに俯いた。

 

 この子は強いな。

 泣き喚いて、感情のままに俺を詰っても良いだろうに。

 でも。

 

「何の力も無いってのは、お前の甘えだ」

「な……何じゃと!」

 

 だからこそ、まだ泣かせない、下も向かせない。

 後になって、何か出来たはずだと後悔させるよりは、今自分に出来る全てをやらせる。

「お前には少なくとも、俺よりあの子達に対する知識がある。何でも良いから思い出せ、考えろ、あの子が大事なら、お前のやり方で守ってやれ」

「わしの……やり方?」

「そうだ、力が無いと、子供だからと甘えるな、自分が持ってる力が無なのか足りてないのか見直せ、足りないだけなら、もしかしたら力を貸してやる事だってできるかもしれん」

 男の言葉に、こうめはしばし、じっと男の顔を見つめ返していた。

 ややあって、その可憐な唇がわななくように開かれた。

「力を貸してくれるのか?」

「ああ」

「何故じゃ……何故そこまでしてくれる?」

「そうだなぁ」

 

 男は何となく判っていた。

 この子達がこの家に逃げ込んできた時から、自分の安逸の日々は終わったのだと。

 人生に必ず一度はある、逃げては駄目な時。

 逃げない事が、どれほどに馬鹿な選択に見えようが、理性や知恵に目を閉ざし、馬鹿になってでも、そこに突っ込まねばならない。

 その時が来てしまったと。

 

「ま、あの美人達への助平根性の賜物って奴だ、下心有りだからあまり気にするな」 

 とはいえ、そんな大上段に構えた事、恥ずかしくて人に言えた物じゃない。

 へらりと笑って、男はこうめの小さな頭にぽんと手を置いた。

「ほれ、余計な事は良いから、今はあの子の事だけ考えてやれ、俺じゃ頼りなくても、他の式姫だっけ、あの子らも手を貸してくれるだろうよ」

 その手は祖父より一寸だけ大きくて、でもちょっとだけ繊細な感じ。

 あの、良く知っている手よりは頼りなく感じる、けど同じ位、厳しいけど暖かい。

 この人なら。

 

(良いな?おじいちゃん)

 

「では……おぬしに頼みがある」

「おう、何でも言ってみろ」

 大きく息を吸う。

 決意を込めて、男の顔を正面から見据えて、こうめは口を開いた。

 

「おぬし、式姫たちの主になってやってくれぬか?」


 
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