第四話 憧れの人とふたりきりです
「さて、と。ここなら立ち聞きされる心配もないだろう」
山田に連れてこられた場所は人気のない廊下だった。
この辺は授業でしか使用されない教室が固まっているせいか、昼休みはまったくと言ってもいいほど人通りがない。
なんで山田がそんなことを知っているんだろう。
ちょっと疑問に思ったが、活動的な彼のことだ。
当然、この学校について熟知しているのだろう。多分、結衣の知らないことも。
彼ならばきっと自分の力になってくれるはずだ。そう納得する。
さて、どこから説明したものか。
口を開こうとしたとき、上手く声が出せなかった。
緊張していたせいか喉がカラカラなことに今更のように気づく。
唾液が喉に絡みついていて上手く喋れそうにない。
そんな結衣の内心を察したかのように、
「はい、これ」
山田はポケットからブリックパックを取り出すと、結衣に手渡した。
「わぁ……ありがとう」
感嘆の声が漏れた。
感極まるあまり、それ以外に言葉が出てこなかった。
「どういたしまして」
山田の柔らかな笑みが出迎えた。
まさかジュースまで用意してくれたとは、本当に気配り上手な人だ。
というか、まさに女の子の理想――いや、人間の鑑ではなかろうか。
こんな彼だから、きっと色んな人からモテるんだろうな。
ストローを差し込み口に差して、ちゅーっと中身を吸い上げる。
甘酸っぱいオレンジの味がほんのりと口の中に広がっていく。
「美味しぃ~」
「オレンジ、好きなんだ?」
「うんっ、柑橘系だいすきなんだぁ」
本当は果物よりもミルクたっぷりな甘ったるいココアの方が好きだが、あえて口にはしない。
余計な一言で相手の好意を損ねたくなかった。
ここまで気を遣ってもらいながらそれに文句をつけるなど出来るはずもない。
それに相手はあの山田だ。
自分みたいな下々の人間には及びもつかない相手。
尚のこと立ち振るまいも慎重にもなる。
「そっか。お気に召したようでなにより」
山田は微笑ましいものでもみるような笑顔を浮かべる。
結衣を見守るその眼差しは暖かくて、とても居心地が良かった。
「とても静かだ。なんだか、ぼくたちしか学校にいないみたい」
「うん。なんだかこういうのって、新鮮な感じ」
声に出してから、頬が熱くなるのを感じた。
新鮮も何も、そもそも異性と二人きりで会話をすることすら、結衣には初めてのことだった。
そんな戸惑いこそあれ、いつしか身体から緊張が解けていくのが分かった。
男に対する免疫がない結衣であっても、山田だけはとても話しやすいと感じたせいだ。
きっと彼が、女の子の扱いに手馴れているからだろう。
そんな気がしたからこそ、
「山田くんは、その、付き合っている人とか、いるの?」
ついそんなことを口走っていた。
「いきなりだね」
山田は苦笑した。
困らせてしまっただろうか。
初対面にしては、いささか不躾な質問だったかもしれない。
かと思うと、
「いないよ。今はね」
意味ありげにそう微笑んだ。
ちょっぴり、というか、かなり意外だった。
山田ほどの好青年を、女の子たちが放っておくはずがないから。
「今はってことは、昔はいたんだ?」
うん、と山田は静かに目を閉じた。
まぶたの裏側で、過去を見つめ返しているのだろう。
「そう。彼女は……ぼくの初恋の人だった」
自分の奥深くにしまいこんだものを、ひとつひとつ取り出していくような口調だった。
「彼女のことを考えるだけで一日一日が宝石のように輝いていた。彼女の微笑む顔や、不機嫌そうな顔、怒った顔、哀しい顔――その何もかもが愛おしかった。ぼくの中で、あのときほど充実していた日々はなかった」
そよ風のように穏やかな声だった。
大切な物を懐かしむような、そんな優しさに彼は包まれていた。
「だけど、眺めているだけでは我慢できなくなった。自分の中で彼女を思う気持ちがどんどん膨れ上がっていって、いつしかぼくは行動に出ていたんだ。何度も何度も鏡の前でシュミレートして、なけなしの勇気を振り絞って……彼女に告白した」
「わぁお。積極的ぃ」
山田の初恋の人が誰かは分からない。
こんな素敵な人に慕われるくらいだから、さぞかし魅力的な女の子なんだろう。
きっと自分なんかでは足元にも及ばないのだろう。
そんなに想われてるなんて、なんだか妬けちゃうな。
「だけど、ね」
山田の穏やかな口調に、ひときわ大きな感情が込められた。
「フられちゃった」
「えっ?」
「ごめんなさい――彼女から返ってきたのはその一言だけだった。たったその一言だけで、彼女はぼくの前から去ってしまったんだ」
「ど、どうして?」
「さあ、分からない。彼女に理由を聞いても教えてくれなかった。悲しそうな顔で俯きながら、何かを堪えるように唇を噛みしめていた。ぼくには彼女が何を考えているかさっぱりだった」
予想外の展開。
まさか山田ほどの男子を振る女子がいるとは贅沢にもほどがある。
許すまじ。
「それから色んな女の子と付き合ったよ。だけど、長続きはしなかった。そのどれもが楽しいとは思えなかったんだ。ぼくが最初に好きになった子に比べれば、全てが霞んでみえた」
「……」
「結局ぼくに分かったのは、男と女ってのは、相容れないものだってことだけさ」
山田は大きくため息をついた。
心にわだかまった何かを吐き出すような仕草だった。
「ごめんね。変なことを言って。元々、結衣さんの悩みを聞いてあげるつもりだったのにね」
「いやいや、謝らないで。こちらこそ変なこと訊いてごめんなさい」
無言。
重い沈黙が横たわる。
結衣がジュースをすする音だけが響く。
こういうとき、なんと声をかけたらいいのかてんで分からない。
気の利いた言葉ひとつ思いつかない。
望美だったら、何と言って場を和ませるのだろうか。
ああ、恨めしい。
自分の頭の悪さが恨めしい。
「で、結衣さんの悩みってなんだい?」
山田の言葉で、はっと我に返る。
そうだった。そもそもそれを訊いてもらうために、わざわざこんな人気のない場所に来たのだから。
助け舟にすがるような思いで、結衣が口を開こうとした――そのときだった。
「あ、れ? あれれ、れ?」
思考が、
言葉が、
上手くまとまらない。
頭がぐるぐるする。
視界までぐらぐらする。
(呆れた……わたし、ここまでバカだったなんて)
全身が痺れる。
足腰に上手く力が入らない。
廊下にへたりこむ。
ブリックパックが手のひらからこぼれ落ちる。
オレンジジュースが廊下に水たまりを広げていく。
(やだ、このままだと制服……濡れちゃう)
分かっていても立ち上がることすらままならない。
異常。
何が異常なのかも胡乱うろんな頭では判別がつかない。
とにかく何かがおかしい。分かるのはそのくらい。
それどころか身体から力が抜けていって、その場に倒れこんでしまった。
(……オレンジの臭いがする)
きっと髪も制服もべとべとだろう。
だけど服が濡れてしまうことすらどうでもよくなってきて、目を開けることすらめんどくさく感じる。
まぶたが重い。
とにかく眠い。
眠くて眠くてしょうがない。
泥のような眠気が、波のように押し寄せてくる。
足音。
誰かがわたしに近づいてくる。
それも視界がぼやけて判別が出来ない。
(……まあ、どうだっていいや)
考えるのも、
言葉にするのも、
今となっては全てがどうでもいい。
結衣の意識は、深い微睡みに呑み込まれていった。
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