何故、彼女に声をかけたのだろうか。
その理由が、平岡健太郎には良く分からない。声をかけたその時点では。
とにかく、健太郎は自宅近くの公園のベンチに座っていた彼女に声をかけた。気が付いたら声をかけていたのだ。
学校からの帰宅途中、健太郎はとある公園に足を踏み入れていた。入り口と出口がすぐに見えない程には大きな公園だ。
健太郎は電車通学であり、自宅から駅、駅から学校という、非常に面倒な行程を踏まなければ通学が不可能なのだった。とはいえ、ほとんどの学生や社会人がそうしている事を考えると、実はそう面倒な事でも無いのかもしれない。
自宅と駅との最短距離を考えると、この公園は避けて通れない道。それが、高校に入学して7ヶ月近くたった上で、おのずと導かれた答えだった。演劇部の練習が長引いて、空が黒の天幕で覆われる事になっても、通らざるを得ないのだ。
高校入学後、天気と気温と…………まあ、そういった自然物以外に変化の無かった公園。しかし、その日は違った。
いつもは見かけない女性。彼女は外国人であるらしかった。ブロンドの髪の毛に、透き通るような白い肌。横顔からでも、空を見つめる眼が日本人では有り得ない碧眼をしている事が分かる。どう見ても欧米圏の外国人だった。
スーツを着用しており、パッと見はОLの様だ。その想像が正しかったとすれば、こんな所で空を見つめているは余程の事情があるに違いない…………かもしれない。少なくとも、ご近所様にこの様な美人外国人の噂を聞いた事は無い。
「何してるんですか?」
声をかけてから、この女性に日本語が通じない可能性がある事に気付く。
だが、それは杞憂だった。
「何だお前は」
眼だけをこちらだけに向けて、物凄くぞんざいな口調。だが、日本語は通じるようだ。
「あ、僕は平岡健太郎といいま…………」
「お前の名前など聞いていない。何故私に声をかけてきた。それを聞いている。…………お前とは知り合いでは無いはずだが?」
「あ、それは…………なんとなく、です」
どうして声をかける気になったのか。声をかける決定的な理由が、考えてみて全く無かった。
空を眺める様子が、途方も無く寂しげに見えたから? さて、どうだろうか。分からない。だから、本当になんとなく声をかけてしまったとしか言いようが無い。
健太郎がそう答えると、女性は妙な顔をした。
「ふん…………まあいい。それで? 何の用だ」
そこで、女性は健太郎の第一声を思い出したらしい。首を僅かに振って、
「ああ、私が何をしているのかを知りたいのか、お前は」
「えーと、まあ、そんな感じです」
妙な女性だった。何か、ふつうの人間とはテンポが違う。
日本語の方も、慣れていないから妙な口調なのだと思ったが、どうやらそうでは無いらしい。日本語のイントネーションは完璧だった。長期間に渡り、日本で生活をしていた様な、そんな完璧な日本語。日本人と変わらない、と言った方がより近いかもしれない。
「人探しと、人殺し。追われてるから、逃走中とも言える」
「はあ…………」
女性がさらりと、とんでもない事を言った。
人探しと逃走中はまだ良い。だが、よりにもよって、人殺しとは。
「人を、殺したんですか?」
目の前の女性がそんな事をしたとはとても思えなかった。また、人の死というものに、まだ若い健太郎は現実感を抱けない。だから、口頭だけの殺人宣言に、彼が恐怖を抱く事は全く無かった。
「違う。人を殺しているんだ」
「はぁ…………?」
訂正の言葉に、一瞬違いが分からなかったが、健太郎はすぐに気付いた。彼女が、己の問いに正しく答えているのだという事に。
彼女は、ベンチに座りながらも、人を殺している、と言っているのだ。
「ここで、ですか? どうやって」
前に対象者が居てこそ成り立つ犯罪。健太郎の常識では、『殺人』とはその様なものだった。だから、対象者が居らず、ただベンチに座っているだけの彼女に、殺人が犯せるとはどうしても思えなかった。
方法を求めた健太郎に対し、女性は鬱陶しそうに鼻を鳴らし、顔をこちらへ向けた。
「いいか? 大気中には負意識というものが流れている。分かり難ければ、一般的に邪念と言い換えても良い。これを、様々な何かに変えて街中に発現させているのさ。これに魅了されたものは、私の能力によって己の未来的な可能性を破壊される。そうすると精神が正常では居られなくなり…………発狂して、自殺行動を取る」
「は?」
「己の可能性というものは生を営んでいく上で非常に重要だ。存在するための理由と言い換えても良い。あるいはその人物の運命と言っても、良い」
「…………良く分かりませんね」
「なに、分からなくてもいい」
すいません、と健太郎は笑う。
鬱陶しそうな表情を改め、目の前の女性もまた、笑った。
自然な笑顔だった。その笑顔があまりに自然すぎて、次に彼女から出た言葉に違和感が感じられなかった。
「私がここまでお前に話した理由は、お前を殺す事を前提としているからに他ならない。まあ、別に殺す必要も無いが、そちらの方が私には都合が良いのでな。だから、分からなくても気にする必要は無いぞ」
公園に、冷たい風が吹いた。十一月の風はこれからもっと冷たくなる事を考えても、とても冷たい。だが、今吹いた風はあまりに冷たすぎた。
もしかしたら、女性の『殺気』、というものが混じっていたのかもしれない。
何時の間にか、女性は健太郎の胸に手を当てていた。
「大丈夫、痛くは無い。心が、段々と壊れていくだけさ」
恐ろしい事を言いながらも、その笑顔は崩れない。
だが、次の瞬間。
「……………………」
彼女の笑顔は、驚愕へと変貌した。
「ど、どうしたんですか?」
実のところ、健太郎はこの女性の言葉を全く信じていなかった。というより、ほとんど理解できていなかった。だから、自分が今、本当に殺されかけた事も理解していなかった。
この時、健太郎が何を考えていたかというと、女性にこんな形で触れられるのは初めてだという、健全な男子高校生に有りがちな緊張感の表現だった。
「……この年齢で、可能性の極限に到達している?」
良く分からないが、女性はとても動揺していた。
彼女の健太郎を見る眼は、何か途轍もないものを見たそれに変わっていて、健太郎もとても動揺した。
「ど、どういう事ですか?」
だが、女性は健太郎の質問には答えない。己の考えに没頭しているようだった。
「幾年を重ねようと、この境地に達せられる人間などほとんどいないというのに…………。なんというやつだ」
「あの、だから、どういう事ですか?」
「お前はすでに己の人生が、お前の望むとおりに進んでいる、という事さ。望んでいないレールに乗せられる凡人とは違う、確実にお前が望んだ行き先に連れて行ってくれるレールにお前は乗っている、という事さ」
言われても、良く分からなかった。言っている事の一つ一つが分からないでは無いが、全体としての意味が理解できない。
困惑している健太郎の胸から手を放し、女性は嘆息した。
「完成された可能性には、私は手出しできない。命拾いしたな」
「それは、僕を見逃してくれるという事ですか?」
実際、この女性の行動が己を死に至らしめるものであるかどうかはともかく、自分はどうやら殺されずにすむらしい。目の前の女性に自分が殺される、という事からしてまるで信じていないわけではあるが。
「人を殺すのが好きなわけでは無い。目的があるから殺しているだけだ…………まあ、とにかく、そういう事だな」
「僕に色々話したのは、僕を始末する前提があった、と言ってましたよね? いいんですか?」
「殺すのは目的が有るからだと言っただろう。お前の可能性を破壊する事は出来ないが、私の事を喋らないように精神操作する事くらい造作も無い」
「じゃあ、包丁で刺して殺す、とか」
精神操作がどうのとか、可能性がどうのとか、そんなものよりも余程分かりやすい。と、いうより健太郎の頭に浮かんだ殺害の方法というものは、まずそれだった。
「なんだ、殺して欲しいのか?」
女性は、今度こそ邪気の無い笑みを浮かべた様な気がした。しかし、その笑みはすぐに自嘲のそれへと変化した。
「血生臭い殺し方は嫌いでね」
言い終わると、女性は俯いた。
何か、やるせない思いが胸をよぎったのだろうか。その顔は心なし沈んで見えた。
なんだか、居心地の悪いものを感じて、健太郎はここを去った方がいい様な気がした。
この女性ともう少し話をしてみたかったが、仕様があるまい。
「じゃあ、僕は失礼します」
別れを告げ、女性に背を向けて歩き出したのだが。
「待て」
それを呼び止める女性の声。
「はい?」
「明日も同じ時間に、ここへ来い。待っているぞ」
それはある意味、デートの誘いに他ならなかった。言葉はどう考えても命令だが。
理由は分からないが、明日もこの女性と話を出来るらしい。
ここへ来いも何も、必ず通る道だ。予定外の事が起こらない限り、この女性とは明日、必ず会う事になるだろう。
そう思うと、何故か心が躍った。
そして、気付いた。彼女の名前を聞いていない事に。
「あの、名前は何と言うんですか?」
「グレー。それが私の名だ」
その日から一ヵ月の間、健太郎とグレーの密会が始まった。
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長いので前後編です。