No.817031 Essentia Vol.6「素顔」扇寿堂さん 2015-12-04 10:07:52 投稿 / 全1ページ 総閲覧数:219 閲覧ユーザー数:219 |
学校から歩いて10分くらいのところに、フランチャイズチェーンのコーヒーショップがある。
多くの生徒にとって通学途中にあるこのお店は、もはや放課後のおたのしみとしてなくてはならない存在になっていた。学校帰りのこの時間になるとうちの生徒が列をなし、レジがとても混雑する。会計をスマートにしたいのなら、早めに学校を出なくちゃならない。
翔太くんの提案でお店の中に入った私たちは、20分くらいの待ち時間を経て、ようやく目当てのドリンクをゲットした。
「今日も混んでたね。」
ストローをくるくる回しながら、隣にいる翔太くんを仰ぎ見る。中身が程よく溶けるのを待つ間、口をつけるのはしないつもりだ。たぶん底のほうは味が濃くなっているだろう。
「こんなことならコンビニのコーヒーのほうが早かったな。」
「あれダメなんだ私。苦すぎて飲めない。」
「そうかな? …っていっても、俺もあんまコーヒーは飲まないから違いなんてわからないんだけどさ。沖田さんは好きですか? コーヒー。」
「あんまり。私も苦いのは苦手です。」
三人でバランスよく会話をしようと思うのに、どうしても沖田さんに話題を振ることができない私は、翔太くんとばかり話し込んでしまっていた。さっきから翔太くんが気を遣って話しかけてはみるものの、沖田さんは必要以上に口を開いたりせずに私たち二人を見守ってくれている。
「あそこのベンチ、空いてるみたい。」
コーヒーショップには三人一緒に座れる席が空いていなかったため、仕方なくテイクアウトにしてもらい公園に行こうということになった。まだ夏には手が届かないけれど、今日も日中は汗ばむ陽気だった。ほんのり茜色に染まる時間帯になっても、昼間の余韻がまだ残っている。木陰にあるベンチなら、見た目も涼しげでちょうどいいと思った。
「歩きながら飲んだりすると腹痛くなりそうだもんな。」
「そうなんだよね。そのうち、ちゃぷちゃぷいうよ。」
人気のない公園は、高校生の私たちから見るとすごくこじんまりとしていて小さい場所だった。小学校低学年くらいまでの子どもが遊ぶようなところだ。ブランコがふたつ、滑り台、砂場、ジャングルジム、高さの違う鉄棒があるだけだった。
「公園に来るのなんて久しぶり。子どもの頃を思い出すね。」
ベンチの上を軽く払いながら、気にせずその場に腰を下ろした。私の左隣にエナメルバッグを置いた翔太くんは、額に手をかざしながらふぅっと息をつく。その横顔を見上げれば、うっすらと汗が光っていた。
「懐かしいな。ところで、
「なっ、何を言ってるの!? そんなのとっくにできるに決まってるでしょう!?」
「あれ? そうだったっけ? 逆上がりができなくて泣いてたのはどこの誰だよ。」
「それは小学生の頃の話だってば!」
「じゃあ今はできるんだな?」
「うん。できるよ。」
「やってみる?」
ストローを咥えた翔太くんが、少し意地が悪そうに目を細めた。沖田さんがいるからって、こんなふうに挑発するのはずるいと思う。
「できるわけないでしょ!」
「なんだよ。できるって言ったばっかじゃん。」
「そういう意味でできないって言ったんじゃないんだってば。スカートで逆上がりは無理ってこと。」
むきになって拳を振り上げると、奥のほうから半ば呆れたような笑い声が聞こえてきた。自分たちのしていることは沖田さんからすればよほど子どもっぽいのだろうと思ったら、なんだか恥ずかしくて顔がほてってくる。
「あはは。本当に仲がいいんですね。」
「すみません。何だか二人で盛り上がっちゃって。」
私はもう身を縮こまらせて俯くばかりだ。透明の容器から水滴が流れ落ちて、羞恥でこわばった指先を濡らす。ハンカチを取り出す間、翔太くんはまたもや私の恥ずかしい話を飽きもせずに続けていた。
「聞いてくださいよ沖田さん。こいつ小学校6年生まで逆上がりができなくて、毎日泣きながら練習してたんですよ。あまりに悲惨だったからよく憶えてて…」
(よく言うよ)
(翔太くんだって、ドリブルがうまくできないって半泣きしてたくせに)
出来映えに納得するまでは家に帰らないという翔太くんに、小学生だった頃の私はよくつき合わされていた。
そこまで思い詰めることもないと哀れに思ったから、息づかい、砂を噛む音、夕空の下で弾けるボールの音がいまだ耳に焼きついている。
「逆上がりなら私もつい最近までできませんでしたよ。」
「えっ!?」
沖田さんの突然のぶっちゃけに目を白黒させる私たちは、どんな反応をしたらいいのかしばらく唖然としていた。
見た感じはとても運動神経が良さそうだけれど、そういう人でもできないことがあるんだなとわけのわからない安心感を持ってしまう。
でも、逆上がりができないというのはさぞかし悔しいに違いない。できない子は、たいてい冷やかしの対象になるからだ。すでに私がその証明になっている。
「諦めずに何度も練習したら、やっとできるようになりました。」
爽快なほどまぶしい笑顔。照れが混じったような言い方が、まるで少年のようだと思った。きらきら光る純粋な瞳の裏側に、逆上がりの練習で流した汗と涙が見えるような気がする。
(だめだ…なんか笑っちゃいそう…)
ストロベリーフラッペを掴む手に思わず力が入ってしまった。なんとか笑いを噛み殺し、あさっての方向へと視線を逃がす。そんな私の様子にも触れず、翔太くんはほっと胸を撫で下ろしていた。
「なんだ。できるようになったんですね。びっくりした。」
「コツを掴むのに苦労しましたよ。」
「それ、なんとなくわかります。コツさえ掴んでしまえば、その後は割と簡単なんですよね。」
沖田さんはひとりでにすたすたと歩いていって、高いほうの鉄棒へと近づいていった。もしかして私たちに実演して見せてくれるのだろうか。戸惑いながら翔太くんと顔を見合わせていると、沖田さんはおもむろに鉄棒を握りしめ、軽やかに地面を蹴り上げたかと思うと、長い手足を器用に扱いながら逆さまにぐるんと回転してみせたのだった。そして、地面に着地すると「できた」と呟いて、練習の成果が実った少年のようにうれしそうだった。
(か、かわいい…?)
そう思ったのも束の間、沖田さんの足下に何かがひらりと落ちていく。目を凝らしてみると、それは黒い手帳のようなものだった。
「子ども用の鉄棒だと逆に難しくないですか?」
にわかに興味を覚えたのか、翔太くんは鉄棒のほうへと近づいていく。つられて私も立ち上がったけれど、逆上がりというよりもむしろ手帳のほうが気になって仕方がない。本人はまったく気づいていないらしく、踏みつけてしまわないか心配だった。
「落としましたよ?」
遠くから手帳に見えたそれは、近くで拾い上げてみれば免許証のようなものだった。実際に見たことはないけれど、よくテレビとかで見る警察手帳のつくりに似ている気がする。艶のある黒い合皮の表面に、金の型押しで「消防手帳」と書いてあり、身分を証明するための大事なもののようだった。「消防」という文字に、私は目が点になる。
(…消防士さん?)
たしか沖田さんは救急隊員だったはずだ。救急隊員と消防隊員は別ではないのだろうか。
(救急車も消防署の中にあるから消防手帳を持ってるってことなのかな?)
救命士には救命士だけの手帳はないということだろうか。よくわからない。
「おっと。失くしたら大目玉だ。ありがとうございます。」
差し出した私の手からそっと手帳に触れた沖田さんは、一瞬だけ躊躇ったように動きを止め、それが見間違いだったんじゃないかと思うほどおどけた表情になった。躊躇ったように見えたのはたぶん私の勘違いで、手帳を失くしそうになったことにただひやっとしただけなのかもしれないと思った。
「沖田さんは、救急救命士なんですよね? 消防士さんと一緒に仕事をしてるんですか?」
「ええ。火事で怪我人が出ればもちろん同行します。訓練も一緒にすることが多いかな。」
「そっか…よく考えたらそうですよね。だって、救急車が普段どこにあるかって言えば、消防署ですもん。」
「ああ、なるほど。消防手帳を見ておかしいと思ったんですね。」
普段あまり接する機会のない私たちからすれば、消防士と救命士はまるで別物だった。まったく別の仕事をしている者同士が同じ待機場所にいるなんて、ちょっと不思議な気がする。消防士の人には失礼かもしれないけど、どう考えたって救急車のほうが出動する率は高いはずだ。それなのに、消防と一括りにされているのは妙な感じがした。
「こいつの親が看護師なんですよ。だからじゃないですかね。身内が医療従事者だと、つい単一的に捉えがちなんです。」
自分の考えをうまく言葉にできないでいると、それを悟った翔太くんがまるで別のことを言い出した。
(フォローのような、そうじゃないような…)
「分かります。どうしても異業種のようなイメージがありますからね。でも、人命救助という点では、どちらも同じです。」
(人命救助…)
思いがけず聞かされたその言葉に、胸の芯が熱を帯びたようにぼうっと燃え、言い知れぬ高揚感が私を包んでいった。
この人は、現場でたくさんの命を救ってきた本物の救命士なのだ。
(現場に携わる人の言葉って、なんか胸に迫るものがあるな)
自分が目指している道の先に、この人がいる。そう思ったら自分の熱を吐き出したい衝動に駆られたけれど、今ここでそれを打ち明けるのはどうしてかいけないことのように思われた。
ほぼ毎日誰かの命を助けている人を前にすると、自分はまだまだ未熟な気がして恥ずかしいのかもしれない。胸を張ってその道を目指していると宣言できるようになるまでは、もう少し先になりそうだ。とは言っても、沖田さんとは今日限り会うこともないだろう。そう思ったら、ますます話すことの無意味さが際立って感じられる。
「責任の重い仕事なんですね。」
聞いてもらいたいと訴える心を月並みな言葉でねじ伏せて、沖田さんが知らないままでありますようにとその扉をそっと閉じたのだった。
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元ネタ艶が~るです。書いた当時のままなので、けっこうひどい文章です。