No.816442

Essentia Vol.4「微熱」

扇寿堂さん

元ネタ艶が~る長編です。

2015-11-30 13:14:43 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:274   閲覧ユーザー数:273

私と結城くんは、黙々と椅子を組み立てていた。パイプの軋む音と、それが床に立つときの音が乱れることなく続いていく。

二人きりでこの作業を行っているのだけど、広い体育館では物音がやけに反響するのだ。

 

「驚きましたよね?」

 

沈黙を裂いたのは、彼のほうだった。

隠しごとをしていたのがバレてしまったときのように、言葉の端に罪悪感のようなものが滲み出ている。

それに比べて私は、もしかしたら大きな嘘をつかれていたかもしれないとわかった割には冷静だった。どうして落ち着いていられたかというと、彼が嘘をつかなければならなかった理由がなんとなく理解できるからだ。

おそらく、星さんを守ろうとしてのことなんだろう。

 

「ええ。あまりに多くのことが、立て続けに押し寄せたので…正直混乱しています。」

 

混乱というのは嘘だった。いや、初めは確かに混乱もしたけれど、今はその激しさも過ぎ去りいくらか落ち着きをとり戻している。結城くんが私を憶えていたという事実は、思ったより慰めになったのかもしれない。

結城くんが私を憶えている――この事実こそが大事なのだ。星さんの記憶が失われた手がかりになるはずだからだ。そして、彼はその原因を知る唯一の人間かもしれないのだ。こんなに心強いことはない。

 

「こっちに帰ってきてからなんです。(ひかり)が喘息になったのは…」

「こっちというのは、平成に帰ってからということですか?」

「はい。もっと厳密に言うと、修学旅行を終えて京都から東京へ戻ってきてからです。喘息になるだけじゃ済まなくて、あの時代の出来事は何ひとつ覚えていないらしくて…」

 

(星さんの記憶を奪ったのは、もしかしたら自分なのかもしれない)

 

彼女の意思を無視して帰らせてしまったら、未来へ戻った後もきっと苦しい思いを抱えて生きることになるだろう。それならば、いっそ私とのことなど全部忘れてくれて構わない。そうすれば、彼女は住み慣れた時代を早々にとり戻し、毎日を幸せに生きられるはずだから。そのためだったらどんな惨めな臨終になろうと構わない。愛しい人の脳裏から自分の面影を根こそぎ奪われても構わない。そんなことを切実に願う自分がいたことを思い出す。

 

「まるであっちに置いてきたみたいに、何もかも忘れてしまったみたいなんです…俺、どうしてそうなったのか全然わからなくて…自分が覚えてる限りのことを星に話して聞かせてあげたんです。でも、何のことだか本当にわからないみたいで…そんな星を見ていたら、もしかしたら自分の方がおかしな夢を見ていたんじゃないかって、不安になりました。」

 

私だけではなく、彼もまた心細い思いをしたのだろう。

あの頃と今とじゃまるで比較にもならないのだ。夢を見ていたのかと錯覚するのも無理はなかった。

自分の見てきたものが、信じているものが、何ひとつとして通用しないこの世界。眉を顰められ、時に笑い飛ばされて、そうしてぐっと拳を握りしめながら耐えてきたのだ。自分は空想(ゆめ)を見ていたわけじゃないんだ、と。

 

「でも、やっぱりそれは違った。今日あなたに出会ったから確信できた。俺は、確かに幕末で生きてたんだって…。」

 

こうして結城くんと再会したのは、偶然なんかじゃないんだと思った。

幕末の京で過ごした数年。その事実を確かめる術もなく諦めてしまいそうだった彼が、大切な記憶を手放してしまわないように、何らかの力が私たちを引き合わせたのだろう。

そうだとしたら、私たちはお互いになくてはならない協力者になるはずだ。

 

「あっ、ごめんなさい…俺の話なんてどうでもいいですよね。沖田さんは、星の記憶のことが心配なんだし。」

「いえ…どうでもいいということはありませんよ。でも、星さんが心配なのは当たってます。それで、記憶を失ったきっかけや心当たりは君にはないんですよね?」

「はい…お役に立てなくてすみません。」

 

かつての自分がそう願ったからといって、彼女の記憶がそのとおりに奪われたとは限らない。だったら、原因は一体何なのか。そんなのはもう悩まなくても決まっている。

 

「沖田さんはどう思いますか? こっちの星に会ってみて、何か気がついたこととかありますか? もしかしたら、それが原因だったりするのかもしれません。」

「私が気になったのは、喘息かな。彼女の咳を聞いて真っ先に思い出したのは、労咳だった頃の記憶です。咳が止まらなくて、何度も背中をさすってもらったから…。」

 

咳をしている姿を見られたくなかったため、私はよく人気のない場所を下見しておいて、そこに隠れ発作をしのぐようになっていた。そのうち発作が来る直前になると、野生の勘のようなものまで働くようになっていたのが、星さんと過ごすようになってからは咳をする現場をうっかり見られてしまい、それからというもの彼女の前では誤摩化しも効かずに介抱されるということが多くなっていた。身内の誰よりも、私の病態に詳しいのが星さんだ。それはもう耳にこびりつくくらいには咳を繰り返していた私である。もしも潜在的にそれを憶えているのだとすれば、彼女の記憶の底に深く刷り込まれていてもおかしくはなかった。

 

「…すごく単純かもしれないですけど、」

「うん。結城くんが言いたいこと、わかりますよ。でもね、どうなんだろう…?」

「そういうふうには考えたくはない?」

「ええ。だって、そういうふうに結びつけてしまうと、彼女に苦しい思いばかりさせていることになるから。それって、結局は私のせいってことでしょう?」

 

彼女の苦痛が晴れるなら、記憶から自分が失くなればいいと願ったのは本当だ。でも、後追い自殺のように、自分の苦しみを彼女と共有したいなんて誰がそんなことを思うだろうか。

一体どこでどう間違ってしまったんだろう。

私はただ苦痛なく彼女に幸せな暮らしをしてほしかっただけなのに。

 

「…俺は、そうは思いません。星は記憶のすべてが失くなったわけじゃない。忘れてないっていう証拠に、喘息の発作が出るんだと思う。たぶん、記憶をとり戻そうとして発作が起きるんじゃないかと思うんですよね。」

「じゃあ、記憶が戻ったら発作は起きなくなるってこと?」

「はい。俺はそう思います。根拠になるものがないから断言はできないけど、でも、これは俺の勘です。」

 

「結構自分の勘は当たるんです」と言いながら、結城くんは最後の椅子を組み立ててその場に腰を下ろした。通路を確保するために1尺ほど空いた隣側の列に、私も同じようにして腰を下ろす。作業を終えた体育館は、しんと静かだった。

 

「千駄ヶ谷の屋敷にお邪魔したときのこと、憶えていますか?」

「はい。もちろん憶えていますよ。」

「俺にはあれ以外の方法がわからなかった。星のためには最善の選択だと思いました。でも、もしかしたら違ったのかもしれない。あいつ、最後の最後まで抵抗したんです。もう間に合わないって瞬間にも逃げようとした。」

 

結城くんから聞かされなくても、私はそれを知っていた。ちゃんと見ていたから。最後までしっかり見届けようと自分に誓ったからだ。

 

「それで俺、思ったんです。余命わずかな沖田さんのために、未来へ帰った後もさみしくないように、独りで迎える死が怖くないように、星は想いを見えない形にして置いてきたんじゃないかって…そのせいで、記憶がなくなったんじゃないかって…。だって、そうとしか考えられません。」

「なぜ?」

「俺も同じことを思ったからです。」

 

追憶を手繰り寄せるような瞳が、そこにあるはずのないものを見つめ、虚ろになっていく。

彼もまた大切な誰かを残し、罪悪感に苛まれているのだろうか。

動乱の時代に魂は今も彷徨い続け、悔いのないように生きたいと願ったのだろうか。

 

「今だから言えるんですけど、俺は坂本龍馬さんと一緒に行動していました。彼が俺のことをずっと匿ってくれていたんです。」

 

(そうか…だから…)

 

薩長同盟の仲立ちを果たしたとして、当時の坂本龍馬は幕吏につけ狙われていた。

守護職会津よりお達しがあった新選組は、「坂本龍馬への一切の手出し不要」を遵守していたから、彼が近江屋で殺されたという情報が巷を騒がせたとき、まさか原田さんへ出頭命令が出たなんて思いもせずに仰天してしまった。現場には原田さんの痕跡が残されていたらしい。もちろん濡れ衣だ。

怒った土佐藩は新選組を目の敵にし、それまでは公武合体の向きが強かったのにもかかわらず、徳川親藩とは一線を置くようになってしまったのだ。

あの時代には科学捜査班はなかったから、状況証拠だけでいかようにも犯人に仕立て上げることができ、新選組の汚名返上は叶わなかった。この事件がしこりとなって、板橋の斬首へと繋がっていく。

 

「そうだったんですか…」

「沖田さんも知ってのとおり、龍馬さんは近江屋で殺されました。無防備だったところを不意打ちで…。」

 

結城くんがあの時代を去ることにした理由は、私が想像するよりもずっと重い決断の上にあったのだ。大事な人を殺されて失意の底にいたことは、もはや想像に難くない。

いとも簡単に人の命が奪われる時代だ。平成とは真逆の、生死を分かつ世の中だった。

 

「もしも龍馬さんがあのまんま生き延びてくれていたら…たとえば、致命傷を負うほどの瑕があって寝たきりだったとしたら、俺は未来へ帰るのを躊躇ったかもしれません。でも、死んでしまった。助けようとして救えなかったんです。だったら、もう俺のいる場所はここじゃないんだって諦められた。でも、星は違う。」

「私は労咳だったんです。結城くんが訪ねてきてくれたときには、もう残り少ない命だったんですよ。星さんがあと少し粘ったとしても、私が死ぬことには変わりがない。死に顔を見せたくはありませんでした。だから、あれでよかったんです。」

 

(そう…あれでよかったんだ…)

 

どちらにせよ彼女をつらい目に遭わせるのだとしたら、私は傷を少ないほうを選ぶ。そういう考えを一度は彼女に責められたけど、それでも最後に選んだのは彼女をこれ以上傷つけない方法だった。

 

「沖田さん。それは違います。たとえ死んでしまう運命だとしても、最後まで一緒に戦ってあげたかったはずなんです。星は、それがしたかったんじゃないですか? ボロボロになるってわかっていても、愚か者の独りよがりだとしても、星はあなたと最後までともにありたかったんじゃないですか? それなのに俺は…俺はそれに気づいてやれなくて…」

 

膝の上で握りしめられた拳が震えていた。小刻みに震えるそれを焦れったそうに振り上げて、彼は何かと葛藤しているかのように振り下ろす。その拍子にガタンと軸がぶれて音が鳴り、パイプ椅子が浮き上がって足が揺れた。そうなることを見越していたのかは定かではないけれど、結城くんはすでに椅子から立ち上がっていた。

 

「沖田さんだけが後悔しているわけじゃないんだって、知っておいてほしいんです。」

 

彼は、最後にカメラを託したことを思い出したのかもしれない。

彼女の思いを尊重することなく、私に手を貸してしまったこと――それを悔やんでいるのかもしれなかった。

 

――自分を恨んでくれて構わない

 

決然と言った彼の声が、今も脳裡に響いている。

同じ年頃の子どもがどうやっても身につけられない、経験に裏打ちされたような深みがある気がした。

それは、同じ時代を駆け抜けた者だけに通じる、動乱の微熱を孕んだ余韻に似ているなと思う。

 

「俺はずっとあなたを待っていた。必ず沖田さんが現れるって信じてた。」

 

訴えるように言葉の熱を込めていく彼は、言いながら声につまり、言葉の途中に首を振る。心の内側では何を否定し、何を肯定したがっているのかはわからない。でも、言いたいことは確かにひとつのようだった。

 

「そうでなければ、星はいつまで経っても救われない。」

 

今しがたの勢いをなくし、言葉は細切れるように小さくなった。

彼の言いたいことを真に理解した私は、沈黙し俯いてしまったその顔を覗き見る。

 

(彼も救いを求めてるのだろう)

 

最期に見たときよりもずっと大人びた顔。

時間が逆行し、平和な日常を取り戻したというのに、彼の見ている世界は百何十年も前の光景を残したままだった。重なり合って摩擦を起こし、割れた欠片が衝突し、複雑な世界を形成しているかのように。

 

「どこか遠い場所にある自分の家を探してるみたいに、途方もない顔で何時間も座り込んでいるときがあるんです。」

 

家――彼女にとっての家とは、一体どこなんだろうか?

時代だろうか? 置屋だろうか?

それとも、最後に過ごした千駄ヶ谷のはなれだろうか?

 

(うぬぼれだと言われてもいい)

(いいんだ…それでも)

(私が彼女の家になりたい)

 

「星に家を見つけてやりたいけど、俺にできることは何もなくて…もしかしたら、あの時代から連れて来なければよかったのかなと思うときもあります。でも…」

 

(ああ、そうか…カメラを届けたことで今でも葛藤しているのか)

 

死ぬ運命にある病人のところになどとどまることはないのだと、何とか彼女を説得して未来へ帰そうとした結城くんが真っ先にとった行動は、不可能だと思われたカメラを見つけることだった。あの時代には珍しい小型のカメラを見つけることに成功したのは、まさしく執念のなせる業だったと言えるだろう。地道なその努力は讃えられるべきことなのに、カメラを見つけてしまったことで、彼は今でも激しい葛藤を背負って生きているというのだろうか。

 

(人の気持ちを推し量るのに、間違いも正しいもないんだ…きっと)

 

決断のときに迷いさえ生まれなければ、きっとそれがその瞬間に思いつく最善の方法なんだろう。

過ぎてしまった後の議論は、まるで役に立たない。それはたぶん、後悔が前提になるからだ。

 

「あのまま星さんをひとりきりにしていたら、おそらく君も私も今以上に後悔していると思います。」

「そうですよね…ただ、何が一番よかったのか…いや、何が正しいのか分からなくなって、俺はずっと手をこまねいているだけなんです。」

 

それが過ちだったと思いながら生きることは、業火に焼かれるよりもつらいことだろう。結城くんのような年齢で自分を責めながら生きていくのは、あまりに過酷で途方もないことだ。

 

「結城くんの気持ちはよく分かりました。」

 

そこでいったん言葉を区切り、泣き出す寸前の子どものような彼を見つめた。

涙の膜が純粋な光を帯びていて、その清らかさに引き込まれそうになる。

 

「でもね、正しいとか間違いだとかの基準で物事を見てしまうと、感情もどちらか一方に引き寄せられてしまうと思いませんか。そんな癖がついてしまうと、真実から逸れてしまうことにもなりかねない。大事なことも見落としてしまう可能性があります。自分に咎を立てるのは、これで止めにしましょう。私も止めにします。」

 

正しいのか間違いなのか――

 

そんな二択へすんなり収まるほど、世の中は単純にできていないはずだ。人の想いなら、なおらさだ。

 

「どうか、星を助けてやってください。お願いします。」

 

一生分の願いを込めるみたいに、深く頭を下げた彼の膝頭が震えていた。


 
このエントリーをはてなブックマークに追加
 
 
0
0

コメントの閲覧と書き込みにはログインが必要です。

この作品について報告する

追加するフォルダを選択