この感情の正体は、いったいなんなのだろう。
泉水子はベッドで丸くなった。
ふとした時に黒い鉛みたいな気持ちになり、最近食事もあまり美味しく感じられない。
よくよく悩み、原因についてはこの春に中等部から進学してきた女子だと思い当たった。
彼女は昨年の戦国学園祭をきっかけに、執行部に対して憧れをもったと言う。特に深行を尊敬していると公言し、ここのところよく声をかけてくる。近くにいるとどうしても聞こえてしまい、話ぶりから彼女は中等部の頃から人気があり、成績もトップクラスであることが分かった。
どういうわけか泉水子は、深行とその女子が一緒にいるところを見るとイライラするのだった。・・・苦しくなるほどに。
みんなといるときはまだいい。けれども深行とふたりきりになると、もやもやした気持ちが込みあがって、どうしても笑顔を保てなくなる。かろうじて抑え込んでいる感情だから、歯止めがきかなくなることが怖かった。
自分の心なのにまったくコントロールができなくて。気持ちを持て余した結果、泉水子は深行に会うのを、なんとなく避けるようにまでなってしまった。
放課後の勉強は、次回の実力テストは自力でどこまでできるかやってみたいと言って断った。実際こんな状態であれば、生徒会室での勉強がはかどらないのも事実だった。そしてクラスや選択授業が違うのだから、教室に閉じこもっていればそんなに姿を見かけることもない。
泉水子はそうやってここ数日、深行に会わないように気をつけていた。
普通にしているつもりだけれど、真響にはバレバレのようだった。それでも真響は泉水子に聞いてきたりはしない。時折心配そうな視線を向けてくるだけだ。
申し訳なく思いながら、泉水子はあえてその視線に気づかないふりをした。
授業の終わりに教師から課題を集めて持ってくるように頼まれた泉水子は、放課後プリントの束を抱えて職員室に向かっていた。
ひとつため息をつく。ぐるぐる悩むことにも疲れてきて、ぼうっと虚脱状態で廊下を進む。
ぼんやりしながら階段を下り、この瞬間深行のことを忘れていた。物事はそんな心の緩みを狙ったように突然やってくるもので。
最後の一段を下りて、ふっと顔を上げると、深行が腕を組んで立っていた。
眉根を寄せて不機嫌オーラ全開だ。泉水子の身体が一気に硬直する。その拍子に手の中のプリントが滑り落ち、廊下にぶちまけてしまった。
「あ・・・っ」
泉水子は急いでしゃがみこんだ。まだ4月だというのに、全身が焦げつくように熱くなる。いたたまれなくて涙がにじみ、こめかみにじっとりと汗をかいた。
ふう、と頭上からため息が聞こえて、泉水子の目の端に、屈んでプリントを拾う深行が映った。
「ご、ごめんね。大丈夫だから」
(なにをやってるんだろう、私・・・)
もう頭の中がぐちゃぐちゃで、どうしてこんなに泣きたいのか、深行と目も合わせられないのか訳が分からなかった。
「ほら」
うつむく顔の前に、プリントの束が差し出される。泉水子は立ち上がって、視線をそらしながらプリントに手を伸ばした。
「ありがとう・・・」
受け取るとき、深行の指が触れた。思わずぴくんと震わせると、上から力強く握られた。そのとき、
「相楽せんぱーい!」
甘く可愛らしい声が響いた。ハッと手を離してそちらを向いてみれば、泉水子を悩ませる新入生の女子だった。長い髪をなびかせながら、小走りに駆け寄ってくる。
彼女は泉水子にも気がつくと、ふわっと微笑んで軽く頭を下げた。
長いまつげ。綺麗な瞳を何度か瞬かせて、彼女は深行を見上げて唇をとがらせた。
「如月会長のところへ行ったら、メンバーの推薦がないと入れないっておっしゃるんです。相楽先輩、推薦してくれませんか?」
深行は穏やかに苦笑を浮かべた。
「俺はきみのことをよく知らないから、推薦することはできないよ。悪いけど、他を当たったほうがいい」
「えー、そんなあ~。相楽先輩がいいです。じゃあ、私のこと知ってくださいよー」
胃の奥が熱い。自分は今、どんな顔をしているのだろう。きっと、すごく嫌な顔ではないだろうか。
「あ、あの、私・・・っ」
耐え切れず、泉水子はうつむいたまま上ずった声を出した。
「もう行かないと・・・。これを提出するので」
感じる視線を断ち切るようにして、泉水子はふたりの側から逃げ出した。
教室へ戻ってようやく息をつくと、まばらに残っている生徒の中に真夏の姿があった。
放課後はすぐに馬場へ行くのに、だるそうに机に突っ伏している。そういえば、今日一日元気がなかったような気がする。泉水子は横向きに座り、後ろの席の真夏に声をかけた。
「真夏くん、大丈夫?」
「ああ、ちょっと寝不足なだけ。昨日ネットで流鏑馬動画見てたら、止まらなくなっちゃってさ」
少し上げたその顔がぼうっとしているようで、泉水子は真夏の額に手を当てた。反対の手で自分の額の温度と比較する。
(よかった。熱はないみたい)
と、真夏が目を丸くしているので、泉水子は状況を理解した。他の男子ならば、絶対にこんなことはできないはずだった。
(でも・・・真夏くんだし)
同級生の男子には違いないけれど、泉水子の中では真響の弟だという認識が強い。「鈴原さん、これはちょっと」ときょろきょろ慌てふためく真夏に、泉水子は微笑みかけた。
「熱はない・・・」
みたいだね、と言いかけたとき、真夏に触れていた手をいきなり掴まれた。
驚いて見上げてみれば深行だった。先ほどよりも、さらに2割増しほど不機嫌な様子だ。
「相楽くん・・・?」
深行はなにも言わずに、泉水子の手を引いて教室を出た。つんのめりそうになりながら、泉水子は戸惑いがちに声をかけた。
「どうしたの? ・・・どこに行くの?」
「いいかげんにしろ。なにを怒ってるんだよ。言わないとわからないだろ」
「お、怒っているのは相楽くんのほうじゃない」
「よく言うよ。こんなに避けておいて」
泉水子は言葉が出てこなかった。深行もそれっきり一言も発しない。黙ったまま振り返ることもなく泉水子の手を引いていく。心がみるみる重くなっていった。
「い・・・言えっこないよ。だって」
自分でも訳が分からないのだから。
こんな泉水子の態度では、深行が怒るのも無理はないと思う。それどころか、呆れられても、嫌われても・・・。
怖くなり、逃げ出したい気持ちでいっぱいになる。いてもたってもいられず、泉水子は深行の手を振り払って、きびすを返した。
全力で廊下を走り、階段を駆け下りる。目についた最初の部屋へ飛び込んだ。内鍵をかけたと同時にノブががちゃがちゃと音を立てて、泉水子はギクッと飛び上がった。
「鈴原っ 開けろよ」
「む、無理。今は、どうしても無理なの。絶対無理だから」
あちらに見えないのは分かっていたが、泉水子はノブを両手でぎゅっと押さえながらぶんぶん首を振った。
怖い。すでに十分嫌な気持ちにさせてしまっているのに、その上でこのぐちゃぐちゃな感情を説明できる自信はまったくなかった。
そう思いながらも、泉水子の心は深行が離れてしまう不安で押しつぶされそうになる。じわりと涙があふれた。
「・・・わかった。じゃあ、ドアから離れて」
穏やかだけど、低い声だった。まるで拒否を許さない意思を感じて、泉水子は声を震わせた。
「ええと・・・どうして?」
「開けるから」
泉水子は思わず呆然とし、かかっている鍵を確認した。もしかして鍵を持っているのだろうか。
「蹴るからどけよ。危ないぞ」
「ええっ」
突拍子もない言葉に、思い切りたじろいだ。思考が停止する。棒立ちになって固まっていると、
「どいたか?」
いたって冷静な深行の声で我に返った。
「ダ、ダメだよっ そんなことをしたら」
急いでドアに向かって制止をかけた。背中に汗が伝う。
成績優秀・品行方正な深行がドアを蹴破るなんて、教師が卒倒するだろう。それよりも、あれだけ努力している深行の内申が一瞬でパーになってしまう。
ドアを開けてしまおうか・・・。ものすごく追い詰められた気分でうろうろしていると、どこからか囁くような声が聞こえた。あたりを見回して、今さらここがパソコンルームであることに気がついた。ずいぶん広い部屋に逃げ込んだものだ。
『こっち、こっち』
いつの間にか前方の廊下側の窓が開いていて、髪の長い女子が窓枠に頬杖をついて手をひらひら振っている。泉水子は素早く息を吸い込んだ。
「真澄くん? どうして。真響さんたちが呼んだの・・・?」
『違うよ。真夏の様子が気になったから、こっそり来ただけ。なんか面白いことやってるね。助けてあげようか』
混乱しながらも、今は逃げることしか考えられなかった。急いで移動し、真澄の腕を借りて慎重に窓枠を乗り越える。
廊下に着地するときに、たん、と音が鳴ってしまい、後方のドアの前に立っている深行と目が合った。
「・・・真澄?」
その一瞬をついて、泉水子は脇目もふらずに廊下を走り出した。
「シンコウ、久しぶりーって、怖い顔するなよ。別にシンコウとやりあうつもりはないんだ。鈴原さんが困ってたからさ」
「そこをどけ」
「うわあ、無視?」
後ろのやり取りが聞こえて、泉水子は肝を冷やした。・・・深行はそうとう怒っている。
振り向く勇気などあるわけがなく、泉水子は力の限り走った。ちらほらと残る生徒たちが何事かと振り返ってくるけど、気にする余裕なんてなかった。
爆発寸前の心臓を抱えて管理棟に駆け込んだ。放課後のせいかひと気がなく、判断を誤った思っても後戻りはできなかった。
死にそうなほど苦しいけれど、疲れた足を叱咤して階段を駆け上る。ちらりと後ろを見てしまい、あまりの近さに打ちひしがれた。
真澄が少しは時間稼ぎをしてくれたが、深行は中学時代も陸上選手に選ばれるほど足が速いのだ。つかまった後のことを考えると泣きそうになった。息も絶え絶えに懇願する。
「来な、いで」
「鈴原・・・っ」
切羽詰ったような深行の声がすぐ後ろから聞こえ、ぐいっと腕を引っ張られた。
体勢を崩した泉水子は、そのまま後ろに倒れた。衝撃に備えて目をかたく閉じると、背中にぽすんとやわらかいものが当たった。頭上から荒い息遣いが降ってくる。
「・・・つかまえた」
階段の踊り場に座り込み、深行の足の間でぎゅうっと拘束されている。背中に感じる深行の体温がとても熱くて、胸がしめつけられた。泉水子は立てた膝に顔を埋めた。
「お願い。明日・・・明日、必ず話すから」
「そう言って、明日も逃げるんだろう」
どうやって深行の顔を見たらいいのか分からない。つらくて悲しくて、涙が浮かんだ。
深行のことが大好きだ。そばにいるだけで嬉しくてドキドキして、胸があたたかくなって。この気持ちは誤魔化しようもなく、今だって胸の中にあふれている。
だけど、同じだけ怖いのだ。深行があの女子と親しげに話しているのを見ると嫌な気持ちになるなんて、そんなことを言ったら嫌われるかもしれない。
こんな感情、知りたくなかった。
顔をふせたまま鼻をすすると、深行の声が静かに響いた。
「俺に嫌なことがあるなら、はっきり言えよ。まあ、頼まれたって離さないけどな」
後頭部にこつんと深行の額が当たった。首の後ろにかかる吐息が熱い。
「・・・逃げてもいいよ。また、つかまえるだけだ」
その言葉に、胸の奥が甘く震えた。強張っていた身体から少しずつ力が抜けていく。
泉水子はそっと顔を上げて、涙でぼやけた瞳を向けた。
「い、嫌なことなんて・・・。深行くんに嫌なことなんて、あるわけないよ・・・」
それだけは信じてほしくて、泉水子はすがるように見つめた。深行は探るように泉水子を覗き込み、しばらくの間見つめ、ゆっくりと顔を寄せた。
唇が重なって、火がついたように全身が熱くなっていく。鼓動が苦しいくらい高鳴って、胸がきゅうっと収縮する。震える手で深行の袖をつかむと、想いを包み込むように抱きしめられた。
唇は角度を変え、凝り固まっていた泉水子の心を解きほぐすように触れてくる。
「ん・・・。ご、ごめんね。深行くん・・・私・・・」
声が詰まって、言葉を継いでいけない。深行は泉水子の頬を包むと、親指で涙をぬぐった。顔をしかめて見せると、もう1度ちゅっと重ねた。
「それで、結局なんだったんだよ」
「えっ あの・・・」
(・・・どうしよう)
子供っぽい独占欲だ。これを白状するのはそうとうな勇気が必要だった。情けなくて、恥ずかしい。きっと深行は呆れるだろう。
うつむきたくても頬を包まれていてかなわず、泉水子は視線を泳がせた。言いあぐねて困っていると、咬みつくように唇をふさがれた。
「・・・んっ んぅ」
突然のことにビックリしているうち、舌が歯列を割って入ってくる。まだ片手で数えるほどしかしたことのないキスに、泉水子の頭が沸騰した。
「待・・・、深行、くん・・・んっ、ん」
「・・・言うまでやめない」
心の内を暴くように口内を探られる。恐ろしげな宣言に、泉水子はたやすく白旗を揚げることとなった。
終わり
理由を聞けば逆になかなか帰せなくなると思われ・・・。(嬉しさ爆発で)
こういうことを繰り返して、学園内バカップル認定されればいいと思ってます。
泉水子ちゃんに避けられて暴走気味な深行くんでしたが、嫌われたかもと思っても臆することなく追いかけてほしいです。元いじめっ子だし、その辺は図太いと信じてる・・・。
真澄くんと真夏くんのことは、深行くんにヤキモチを焼かせるためと真澄くんを登場させたかっただけなので、深く考えてませんでした(^^;)
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6巻後。高2の初めくらい。
妄想捏造激しいです。