No.803258

「ひまわり劇場」

蓮城美月さん

源氏物語やロミオとジュリエットなど、さまざまな物語のシアターシリーズ。
オールキャラ。カップリング要素あり。
ダウンロード版同人誌のサンプル(単一作品・全文)です。
B6判 / 160P / \200
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◆CONTENT◆

 

おまけの平安物語

マッチ売りの小林クン

罠ロミオとジュリエット

ロミオとジュリエット~罠バージョン~

ロミオとジュリエット~シリアスバージョン~

陰陽師

こころ

オペラ座の小人

踊る大小林線

踊る(?)大林線

 

おまけの平安物語 ~今宵は紫式部でいきましょう♪~

 

いまはむかし。時は宮中華やかな平安の時代です。

「春はあけぼの」

ヒゲをはやした色メガネの、ちゃらんぽらんに見えるこの方が時の帝、桐壺帝です。国政はすべて臣下に任せきりで毎日遊んで暮らしていらっしゃる、お気楽な帝です。

「帝、それは枕草子じゃありませんか?」

隣で優しく微笑んでいるこの女性が、帝が寵愛する桐壺の更衣。帝が女中を追いかけても、政治をないがしろにしても、温かく見守ってくれる穏やかな女性です。

「おおっ、そうでしたね。静さん」

帝は手を叩いて桐壺の更衣に同意します。家庭科が専門の帝は、古典には弱いようです。それでも桐壺の更衣はのほほんと楽しそうです。この二人は料理好きという趣味も合い、とても仲良く暮らしていました。

そして、二人の間に帝の第二皇子が生まれました。とても輝くような子どもだったので、光君と名付けられます。二人は光君を大事にしていましたが、ある日桐壺の更衣は病で亡くなってしまいました。そのため、光君は母親の面影を知らずに育ちます。母のいない淋しさを口にできなかった光君は、強がって意地を張る少年に成長してしまいました。

光君が九歳になったある日のことです。帝が新しく側室を迎えました。なんでも亡き桐壺の更衣によく似ていると評判なので、帝が入内を勧めたそうです。周囲から母親に似た女性だという噂を聞いた光君は、こっそりとその女御の顔を覗きに行きました。ちょうど女御が庭を歩いています。光君は咲いていた花を折って、藤壺の女御に差し出しました。

「これを…わたしに?」

控えめに問いかける女御へ、光君はぶっきらぼうに花を押しつけます。硬派な男を目指している光君は、軽々しく女と口をきくまいと思っていたからです。花を受け取った藤壺の女御は、その光君の姿に理性が砕けてしまいました。

「な…なんて、いじらしいの! 慎吾クン!」

女御は光君を抱きしめてしまいました。光君は真っ赤になって、手足をバタバタさせています。

「はっ、離せよ! 離せってば!」

九歳の少年の腕力では、五歳上の女性に敵わないようです。とにかく、藤壺の女御は光君を気に入った様子です。光君も頻繁に女御へ花を届けるなど、まるで姉弟のように仲良くしていました。帝よりも、光君の相手をしていることが多い女御でした。

 

「この使途不明金は、どこに流れたの?」

「さ、さあ。ワタシに聞かれても…」

「それに、高額の税金滞納は役人に取り立てさせなさい。どうせ蔵の中に隠してるんだから」

「ですから、ワタシに言われても」

「自分の国も満足に守れないなら、今すぐ帝をやめなさい!」

ある日、帝と女御の会話を立ち聞きした光君は、その内容に唖然としました。今まで臣下任せだった国政があまりに乱れていることに我慢できなかった女御が、帝を厳しく指導しています。女御はとてもしっかりした人で、経済観念にも優れています。なので、帝は難しいことはすべて女御に任せるようになっていました。帝は完全に女御の尻に敷かれているようです。

「そんなに怒らないでくださいよ、吹雪サン」

「だったら、もっとしっかりしなさいよ」

この帝のせいで乱れた国政を立て直すのにどれだけの労力が必要か、藤壺の女御は大きなため息をつきました。そして、御簾の端から様子を伺っている光君の存在に気づきます。

「光君! そんなところにいないで、さあ入って」

それまでの怒声が急に猫撫で声になり、女御は光君を手招きします。光君はすぐ入ろうとせず、気まずそうに帝を見ています。

「いつまでいるつもり? 用が済んだのなら、さっさと帰りなさいよ」

光君が入ってこようとしないので、女御は冷たく帝を追い払います。

「ワタシ、一応帝なんですよ」

冷酷な女御の仕打ちに、帝は泣く泣く部屋を去っていきます。そして女御は、心置きなく光君と遊びました。

そんな日々も、光君が十二歳を迎えたときに終わりを告げます。元服の儀が行われれば、今までのように近くにはいられません。光君も女御も残念に思いながら、遠ざかっていきました。

 

それから六年の月日がたちました。十八歳になった光君は見違えるほど成長して、宮中一のモテ男になっていました。この頃から光源氏と呼ばれるようになりました。

さて、本日の光源氏は不機嫌な様子です。帝の命令で左大臣家の姫との婚約が決まり、かなり不満でした。光源氏は初恋の人、藤壺の女御のことを忘れられません。しかし、相手は父親の妃なのでどうすることもできず、光源氏は憂鬱な日々を送っていました。

「やあ、健吾クン。浮かない顔だね」

「千尋…頭の中将か」

光源氏の背後から現れた美形の青年は、左大臣の息子の頭の中将です。この美貌で女性に人気があります。宮中では光源氏と張り合うくらいモテモテです。ですが、見かけに騙されてはいけません。頭の中将は、人に罠をかけることを楽しみにしている人です。その罠の被害に遭った人が何人いたことか…。なので、光源氏はこの友人を無視して通り過ぎようとします。

「つれないね。もうすぐ義理の兄弟になるっていうのに」

「オレは承知してない」

「彼女もそう言ってるよ。あんなムッツリ、タイプじゃないってね」

「オレのどこが…!」

反論する光源氏。その反応を楽しんだ中将は、上機嫌で去っていきました。光源氏の婚約者である葵の上は左大臣家の姫。つまり、頭の中将の妹です。中将から葵の上の所業を聞いている光源氏は、とてもうまくやっていけるとは思えません。まさに史上最悪の兄妹です。彼らの周囲では罠や毒舌の被害者が続出し、兄妹がケンカするたびに火花が散って、屋敷が焦げているそうです。このまま帝の命令どおり結婚させられたらと思うと、背筋が寒くなりました。

「健吾ク…源氏の大将」

真剣に悩む光源氏に声をかけたのは、光源氏の腹違いの兄である東宮です。この人は帝に似て頼りなく、周囲に流されがちでいつも苦労しています。

「ああ、日影か」

「今度の帝の誕生日に開かれる宴のことだけど、出てくれないかな。帝にどうしてもって頼まれているんだよ」

「イヤだ」

「そんなこと言わずに。今回は大規模な宴だから、ほとんどの人が参加するんだから」

「藤壺の女御も…?」

「ああ、もちろんだよ。帝を祝う宴なんだから」

それを聞いた光源氏は思案します。近年、藤壺の女御と逢う機会はなく、それが光源氏の想いを増幅させていました。一目でも姿を見られるのなら、嫌いな宴に出てもいいかと考えました。

「じゃあ、出てくれるんだね」

「ああ。それはいいけど…おまえ、いい厄除け寺を知らないか?」

「知らなくもないけど、なんでまた?」

なぜそんなことを訊ねるのか不思議な東宮に、光源氏はある手紙を見せました。

「実は、手紙が毎日届くんだ。六条の御息所から」

「あの先の東宮妃の?」

六条の御息所は、光源氏より年上の未亡人です。最近、光源氏を気に入って文を送っているとの噂は耳にしていた東宮ですが、これがその手紙だとは思いませんでした。

「なっ…なに、これ」

手紙を開いた東宮は驚きました。文には文章はまったくなく、代わりに米粒ほどの文字が延々と紙を埋め尽くしています。

「それが毎日届くんだよ。しかも毎日、違う内容で」

光源氏は脱力しながら説明します。手紙が届くようになってから、周囲が澱んでいるような雰囲気が漂うので、お払いをしたいのだと。六条の御息所という人は、頭の中将に輪をかけたような人物です。つまり、特技が罠作りなのです。今も嬉しそうに文を書いていることでしょう。

「そ、そういうことなら、北山にいい寺があるよ」

この文に触っただけでも呪われそうな罠のオーラを感じた東宮は、慌てて手紙を光源氏に返し、評判のいい厄除け寺を教えてあげました。

 

北山にある寺を訪ねた光源氏は、庭先で遊んでいる女の子を発見しました。十歳くらいの可憐な子どもです。その女の子は、光源氏の姿を見るなり突進してきました。

「健吾クン。ボク、また女装なのよ」

「大和…。台詞が違うだろ」

泣き言はあとで聞きますから、大和クン。光源氏は困ったように、紫の上を宥めます。

「オレだって、こんな役イヤだったんだ。それを作者の陰謀で」

ああ、健吾クンまで。お願いですから、芝居に戻ってくださいよ。二人とも。

「あれっ? 台詞、なんだっけ?」

黒ヒゲの大将が…ですよ、大和クン。

「でね、黒ヒゲの大将が――――」

紫の上がそう言いかけた瞬間、庭木の茂みが動き、熊のような大男が現れました。

「小林、付き合ってくれ!」

紫の上は悲鳴を上げて光源氏に助けを求めます。黒ヒゲの大将という人は、この寺に参詣に来たとき紫の上に一目惚れして以来、毎日のように通ってきているのです。

光源氏は、あまりに紫の上が困っているので、黒ヒゲの大将を追い返しました。そのため、ますます紫の上になつかれてしまいました。

「おにいさま」

もう勝手にしてくれと、諦めモードの光源氏です。そのあと、寺の住職に目的の厄除けを頼んで帰ろうとすると、今度は住職に哀願されてしまいました。

「紫の上の面倒を見ていただけませんか。あの子はあなたを信頼しているようですし」

光源氏は困惑しましたが、話を聞いているうちに断れなくなりました。話によると、紫の上は高貴な家の姫でしたが、両親に先立たれて遠縁の住職に預けられたそうです。紫の上の父親は兵部卿の宮、藤壺の女御の兄です。つまり、藤壺の女御と紫の上は叔母と姪の関係になるわけです。

「わたしも、いつまで生きられるかわかりませんが、あの紫の上のことが心配で…」

いつかあの黒ヒゲの大将にさらわれてしまうのではと、住職は不安そうです。毎日、お地蔵様に紫の上のしあわせを祈っています。ここまで聞かされて断ることはできません。紫の上は光源氏が引き取ることになりました。これで黒ヒゲの大将の魔の手から逃れられると知った紫の上は嬉しそうです。それと正反対に、光源氏は疲れた表情でため息をもらしました。

 

「うわあ。すごくにぎやかだね、健吾クン」

今日は宮中で宴の行われる日です。もうじき始まるとあって、会場は準備に奔走する人々で混沌としています。光源氏に連れられた紫の上は、その盛大さに歓声をもらします。

「迷子になるなよ」

「大丈夫だよ」

自信満々の紫の上ですが、光源氏が目を離した隙に、どこかへ消えてしまいました。ほどなく宴が始まります。光源氏は慌てて紫の上を探しに行きました。

 

「ここは一体どこなの?」

迷子になってしまった紫の上は、どんどん人気のない方向へ進んでいます。完全に方角が分からなくなってしまい、途方に暮れていました。

「あれ? 矢印だ」

ふと廊下を見渡すと、方向を記した矢印が見えました。人のいい紫の上はそれを信じ、その矢印に従って進んでいきます。そして、ある部屋にたどり着きました。

「健吾クン?」

紫の上は呼びかけながら、部屋に足を踏み入れます。

「フッフッフッ…。かかったね、小林クン」

「その声は――――」

紫の上の退路を塞ぐように頭の中将が現れました。そしてもう一人、呆れ顔の葵の上が座っています。とんでもないところに来てしまった…と後悔しても手遅れです。紫の上はその組み合わせの恐ろしさに、思わずムンクの叫び状態になってしまいました。

「どうしてあんな罠に引っかかるのよ。ホント、バカね」

「さあ、どうやって遊ぼうかな」

最強の兄妹に、紫の上は泣き出しそうです。

「楽しそうね」

そこに妖艶な声が響きました。紫の上は何事かと周囲を見回します。突然、身体の透けた女の人が乱入してきました。どうやら幽体離脱をしているようです。

「六条の御息所。今日は呼ばれてないはずだけど」

生霊の御息所に臆することなく、頭の中将は話しかけます。

「光源氏が罠にかかってくれなくて退屈だったのよ。ここには紫の上もいることだし」

御息所は紫の上へ視線を向けます。焦った紫の上は、どこへ逃げるべきか考えて、葵の上の背中に逃げ込みました。たしかにこの三人の中では、一番害が少ないと言えますね。

「あげはちゃん、助けて」

「ったく、オコチャマなんだから」

「あら。そういえば初対面ね。光源氏の婚約者の葵の上?」

「あんなムッツリ、お断りよ。わたしが結婚するのは帝なんだから!」

御息所の迫力に、たじろぎもしない葵の上。さすが、筋金入りの毒舌娘です。二人の間に冷気が漂い、紫の上は危うく凍傷になるところでした。

「あっ、こんなところにリンゴがたくさんあるや」

紫の上がそこに置いてあったリンゴの山に気づくと、中将の瞳が獣のように光ります。

「それはね、紫の上のための罠リンゴだよ。さあ、どのリンゴがいい?」

「イヤよ、リンゴの罠」

「リンゴの皮むきには、ちょっと自信があるんだよ」

「それならわたしも負けなくてよ」

中将の言葉に御息所が対抗心を燃やします。二人でリンゴの皮むき対決を始めてしまいました。豪語するだけあって、二人とも見事にリンゴの皮をむいていきます。

「付き合っていられないわ」

葵の上は部屋を出て行こうとします。おそらく、帝のところへ押しかけるつもりでしょう。

「あ、ボクも」

紫の上も、葵の上のあとを追いかけます。部屋では白熱した勝負が続いていました。

 

「どこへ行ったんだ? 大和のヤツ」

その頃、光源氏は紫の上を探していました。管弦の音がここまで聞こえてきます。どうやら宴が始まってしまったようです。足早に廊下を進むと、ある部屋で御簾の向こうに人影が見えました。

「だれ…?」

その声を聞いた光源氏は、瞬時に御簾を払いその人物を確かめます。

「――――光…君?」

突然現れた光源氏に、藤壺の女御は目を見開きました。光源氏は逢いたかった女性に思いがけずめぐり逢えて、これは夢ではないだろうかと疑います。藤壺の女御は無言のまま凝視され、どうしたらいいか分かりません。昔はよく一緒に遊んだ少年ですが、逢わない間にこんなに成長しているとは思ってもなかったのです。当時とは別の意味でドキドキする心臓に女御は戸惑います。この感情の意味を知るのが怖くて、この場から去ろうとしました。

「あ、クモ」

逃げようとする女御を引き止めるため、光源氏は嘘をつきました。女御は昔からクモが苦手で、少年時代の光源氏はよくクモから助けてあげました。女御のこの弱点を知っているのは光源氏だけです。その単語を聞いた途端、女御の身体は硬直してしまいました。声もまともに出せない様子です。光源氏はそっと女御に近づいて、彼女を抱き寄せました。

「………嘘」

力強い腕に抱きしめられた藤壺の女御は、これ以上ないほど顔を紅潮させています。混乱しながら光源氏の腕をほどこうとしますが、ビクともしません。かつては、これと逆の光景がありましたが、そのときの心境とはかけ離れた感情が両者の心の中に存在しています。

「…ずっと――――」

消え入るような声で光源氏はささやきました。台本以上に感情入ってませんか、健吾クン。

「……わたしは…帝の、妃です」

感情に流されそうになる自分を抑えながら、藤壺の女御は告げます。光源氏もその現実を忘れてはいませんが、やりきれなさが心を支配してどうしようもなかったのです。

「本当にそう思っていると?」

少し緩んだ腕に、女御は答えられないまま光源氏を見上げます。自分が入内させられたのは、亡き桐壺の更衣に似ているからだと、女御も知っていました。

「わたしは…」

真っ赤な顔で困惑する女御に、光源氏の理性は飛んでしまいました。

 

「みんな、どこにいるんですかね。日影クン」

宴の席では、暇を持て余した帝が東宮に訊ねます。

「さ、さあ…。ちゃんと時間は伝えたんですけど」

東宮は困ったように答えます。宴が始まっても主だった人物がいないので、帝はかなりつまらなさそうです。

「先生、見つけた!」

帝の背後から、突然葵の上が現れます。帝に抱きついて離れようとしません。

「あげはサン、困りますよ。アナタは、光源氏の婚約者の役でしょう」

「そんなのイヤに決まってるでしょ。わたしが結婚するのは先生しかいないんだから!」

役柄を完全に無視する葵の上に、帝も東宮も困り果てています。作者も困ってます。

「とにかく、離れてくださいよ」

「イ、ヤ。結婚してくれるまで、絶対に離れないわ」

そのドタバタ劇を、紫の上は隅から眺めています。光源氏の姿が見当たらないので、どうしたものかと考えていたところ、走ってきた人影がぶつかり、紫の上は倒れそうになりました。

「あ、吹雪ちゃん」

「小林くん…」

紫の上に衝突したのは藤壺の女御でした。女御は紫の上の顔を見ると、脱力したように座り込みました。心なしか瞳に涙が潤んでいるようです。

「どうしたの、吹雪ちゃん」

「待てよ。悪かった…」

紫の上が問いかけると同時に、光源氏が追いついてきました。藤壺の女御は真っ赤になって紫の上の背中に隠れようとします。体格的に、完全に隠れきれはしませんが…。紫の上は二人の間になにがあったのかと心配しますが、そこに黒い影が乱入してきました。

「紫の上、見つけたわよ」

六条の御息所の生霊が紫の上に接近します。光源氏も藤壺の女御も、状況の把握に多少の時間を必要としました。

「勝ち逃げはズルいんじゃない?」

生身の頭の中将が、御息所を追って現れました。どうやら、リンゴの皮むき対決を制したのは六条の御息所のようです。

「なんだか急に、にぎやかになりましたね」

「そうですね」

葵の上が背中に貼りついたままの帝が、広間を見渡して呟きます。これで面目が保てる東宮は一安心です。

「小林クン。リンゴはまだあるのよ」

御息所が懐剣を取り出して、リンゴをむいていきます。

「ここでそんなモノを振り回したら危ないでしょ」

中将が御息所の手を押さえようとしたそのとき、滑った懐剣が空を舞いました。

「危な――――」

紫の上が叫んだときにはもう遅く、懐剣は藤壺の女御の黒髪を切り落としていました。切られた片側の髪を呆然と見ている女御。青ざめた紫の上。その場にいる人々が一瞬、凍りつきました。女御に怪我はないようですが、この時代の女性にとって髪は大切なものでした。無残に切られたこの髪では、宮中にいられなくなるでしょう。

「バサッ」

すべての人の視線が藤壺の女御に向いている中、その音が異様に響きました。六条の御息所は自分の身になにが起こったのか、すぐには呑み込めませんでした。生霊の御息所の透けた髪が、床に散乱しています。そこにはダークモードの光源氏が、脇差を抜いたまま立っていました。

「――――――」

御息所は寒気を覚え、慌てて退散します。生霊の御息所に対して、あんな風に脅威を与えられる人間は、光源氏が初めてでしょう。周囲は光源氏の行動に驚愕していました。だれもが絶句したまま立ち尽くしています。藤壺の女御においては、混乱して頭がパニック状態です。結局宴は、このハプニングで中途半端なままお開きになってしまいました。

 

その翌日。藤壺の女御は、帝に暇をもらって里に帰ろうとしました。この髪では宮中にいられません。それに光源氏のこともあり、二度と戻るつもりはありませんでした。政治面で女御に頼っていた帝は重ねて慰留しましたが、女御の決意は変わらず。一人でひっそりと去るつもりでした。ところが、藤壺の女御の行動を予測した光源氏が、彼女の行く手で待ち伏せていたのです。

「……………」

藤壺の女御は驚いて言葉も出ません。この日、光源氏も帝に冠位を返上していました。ただの一人の男として、藤壺の女御を迎えに来たのです。口下手な光源氏は、言葉より行動で自分の感情を表現する人でした。さすがに藤壺の女御も自分を偽れなくなって、光源氏への好意を認めました。そして二人は一緒に都を出て、明石で末永くしあわせに暮らしたそうです。

 

さて、二人がいなくなったあとの平安京はと言うと…帝は政治面での参謀がいなくなってしまったので退位し、隠居生活に入りました。相変わらず、帝の横には葵の上がくっついています。

位を譲られた東宮は、孤軍奮闘で国政をこなしています。六条の御息所は仏門に入ってしまいました。あの光源氏がよほど怖かったのでしょう。後見人を失った紫の上は、頭の中将にさらわれてしまいました。そのあと、紫の上がどうなったかなんて、安倍晴明だって知りません。

 

 

楽屋裏インタビュー

皆さん、お疲れさまでした。終演直後に、一言ずつコメントをいただきたいと思います。

まずは特別出演、桐壺の更衣役の小林静さん。

「吹雪ちゃん、和服が似合うでしょう?」

そうですね。なんだか燕先生と料理談議で盛り上がっていたようですが。

「ええ、いろいろな裏技を教えていただいて」

それはよかったですね。

次は友情出演の黒ヒゲの大将、山田センパイなんですけど。…いませんね。どうやら予備校の時間がきたので帰ってしまったようです。

もう一方、特別出演の校長先生。寺の住職役でしたが……照れて隠れてしまいました。

それでは続いて、桐壺帝役の燕先生。まだ葵の上にくっつかれてますね。

「…ワタシ、もっと脇役でいいので、彼女をどうにかしてくれませんか」

と言ってますが、葵の上役の斉藤あげはさん。

「次は、先生とわたしが主役のラブストーリーにしてよ」

検討はしてみます、一応。

「ボク、もう女装はイヤなのよ」

紫の上役の小林大和クン。善処しますから、泣かないでください。

「いいじゃないか、小林クン。似合ってたよ」

頭の中将役の小林千尋クン。御息所とのリンゴ皮むき対決はどうでしたか。

「まだまだね、千尋」

六条の御息所役、小林真尋さん。ああ、火花を散らさないでくださいよ、二人とも。

「……僕は、次は裏方でいいです」

東宮役の日影只男クン。そんなこと言わずに。あ、健吾クン逃げないでください。

「……――――」

一言、喋ってくださいよ。

「兄ちゃん。オレ、もう帰ってもいいだろ」

光源氏の少年時代を演じた小林慎吾クンです。

「あ、ああ」

光源氏役の小林健吾クン。どうして、そんなにうろたえているんですか。そうだ、あのシーンのことで聞きたいことが…って、逃げてしまいました。

最後に藤壺の女御役の小林吹雪さん。

「えっ! ハイ?」

なぜ、そんなに顔が真っ赤なんですか。

「――――――」

答えられないようなので、これでインタビュー終わります。

 

ロミオとジュリエット ~シリアスバージョン~

 

【キャスト】

ロミオ(モンタギュー家の一人息子) : 小林健吾

ジュリエット(キャピュレット家の一人娘) : 小林吹雪

マキューシオ(ロミオの友人) : 小林大和

ベンウォーリオ(ロミオの従兄弟、友人) : 日影只男

ティボルト(ジュリエットの従弟) : 小林雪人

パリス(ジュリエットの婚約者) : 小林千尋

ローズマリー(ジュリエットの侍女) : 斉藤あげは

キャピュレット(ジュリエットの父) : 小林燕

キャピュレット夫人(ジュリエットの母) : 小林静

ロレンス神父(聖ロレンス教会の神父) : 校長先生

 

運命の輪がまわりはじめた。荒れ狂う激流が今まさに、若き二人を呑み込もうとしていた。逃れられない呪縛を背負い、二人の人生は大きく流転する。それは宿命だったのか。それとも、その血族が重ねてきた愚かな争いに対する罰だったのか。

その答えは、だれにも分かりはしない。ただ、時は満ちてしまった。運命は前触れもなく、二人を悲劇に導いていく――――。

 

中世ヨーロッパ。花のヴェロナと謳われたこの街を舞台に物語は始まる。

その頃、ヴェロナではふたつの名家がお互いの権威をかけて敵対していた。モンタギュー家とキャピュレット家。両家は当主から使用人に至るまで、相互に憎み合っていた。ひとたび街で顔を会わせると、常に流血を伴う刃傷沙汰が起きていた。

ヴェロナを治める太守は、街を血で汚す両家の愚行に激怒し、厳命を言い渡した。今後、街で一切の争い事を禁じる。もしも両家の摩擦で街を血に染めた者があれば、その者は死罪に処す。何人たりともヴェロナの治安を乱す者は許さないと、きつく申し付けた。

憎み合う渦中の両家には、同じ年頃の子息、令嬢がいた。モンタギュー家のロミオ。キャピュレット家のジュリエット。この二人が運命的な恋に堕ちるとは、一体だれに予見できただろう。どんな高名な予言者にも予知できなかったに違いない。

ロミオとジュリエット。二人を破滅へ導く運命の歯車は、すでに不気味な音を立てながら動き出していた………。

 

街の広場

「どうしたんだ、ロミオ。浮かない顔をしているようだが」

うららかな陽射しが降り注ぐ昼下がり。広場の芝生に座り込んでいる青年が、隣の友人の憂い顔に気づいた。

「気のせいじゃないか? ベンウォーリオ」

芝生に寝転がって空を見上げていたロミオは、歯切れの悪い口調で答えた。

「そうは見えないな」

「……悪い夢を見た。ただそれだけのことだ」

気遣う友人に、ロミオは呟く。

「夢? どんな?」

依然として視線は空へ向けたままのロミオに、ベンウォーリオは怪訝そうに訊ねた。

「青白い月の魔力に魅入られて、パンドラの箱を開けてしまう夢さ。箱にはこの世のすべての災厄は入っていなかったが、希望も入っていなかった。見たこともない美しい宝石を手に入れた途端、運命の刃が襲いかかってきて、己の身を滅ぼした。残されたのは、覆すことのできない砂時計がひとつ。流れ落ちていく砂が、まるでオレの生命の刻限を暗示しているかのように――――」

 

キャピュレット家・一室

「どうか、わたしの願いを聞き入れてはもらえませんか?」

ヴェロナでも名高い青年貴族パリスが、キャピュレット家を訪ねていた。

「あなたほどの方からのお申し出、誠にありがたいとは思うのですが…」

パリスはジュリエットへの結婚を申し込むが、即座に色よい返事は返ってこない。

「娘の意思を確かめてみないことには、どうにも。わたしの意向など、娘の頑固さの前にはまるで無力ですから」

「わかりました。御本人にもお気に召していただけるよう、最大限の努力を払いましょう」

キャピュレットの返答に、パリスは涼しい顔で断言する。

「そうだ、パリス君。今夜、我が家で開く宴に君も参加するといい。娘は華やかに着飾って招待客をもてなすでしょうから」

「それは楽しみですね」

 

街の広場

「ロミオ、ベンウォーリオ」

ロミオとベンウォーリオが話しているところへ、もう一人の友人がやって来る。

「マキューシオ。なんだ、その手紙は?」

二人の向かいに腰を下ろしたマキューシオ。ベンウォーリオは、それに気づいて問いかけた。

「さっき、道で拾ったんだ。落とし主を捜したんだけど、見つからなくて」

「名前はないのか?」

「それが書いてないんだよ」

「ちょっと見せてくれないか?」

ベンウォーリオは手紙をマキューシオから受け取ると、封筒を観察してから封を破った。

「舞踏会の招待状だな。今宵、古来よりの習わしに従って、仮面を付けてお越しくださいと書いてある。ヴェロナ中の良家を招いての、豪勢な宴のようだ」

「それはどこで行われるんだ? ベンウォーリオ」

「差出人は――――キャピュレット家だと」

ベンウォーリオの言葉に、無関心だったロミオがその招待状を注視した。

「面白そうじゃないか。ボクたちも行ってみよう」

「………キャピュレット家の宴だぞ」

好奇心旺盛なマキューシオの提案に苦言を呈する。モンタギュー家のロミオが、間違っても足を踏み入れられる場所ではない。

「仮面を付けていれば、だれがだれなんてわかりはしないさ」

「そうだな。僕も少し興味がある」

マキューシオが明るい口調で言い、ベンウォーリオまでも同調した。

「ベンウォーリオ、おまえまで…」

「そう難しい顔をするなよ。今の君の憂いを吹き飛ばす、いい気分転換になるかもしれない」

「そうだよ、ロミオ」

友人二人の結託した誘いの声に、ロミオは最後には応じた。

「…わかったよ。行けばいいんだろ」

 

キャピュレット家・ジュリエットの部屋

夜が刻々と迫ってくる。宴の招待客をもてなすため、ジュリエットはドレスに袖を通していた。侍女のローズマリーと二人がかりの作業だ。

「ジュリエット。少しいいかしら」

キャピュレット夫人が、様子を伺いながら入ってきた。

「なんですか、お母様」

「あなた、パリス様をご存知?」

「ええ。お会いしたことはありませんが、名前だけは存じてますわ」

まわりくどく話を運ぶ母親に、ジュリエットは訝しげな顔をした。

「実は、そのパリス様があなたに結婚を申し込んできたの」

「わたし、まだ結婚なんてしたくありません」

突然降って湧いた話に、ジュリエットは拒絶反応を示した。

「でもね、あちらも由緒あるお家柄だし、お父様も無下には断れないのよ。だから、一度会うだけでも。お父様が今夜の宴にパリス様を招待したから、人となりを見て考えてほしいの。その上で気が進まないと言うなら仕方ないけれど…。とりあえずお願い、ジュリエット」

母親のやんわりとした、それでいて情に訴えかける説得に、さすがのジュリエットも白旗を揚げる。渋々といった表情で承諾した。

「……わかりました」

 

キャピュレット家・大広間

夜という闇のカーテンが静かに世界に降りてくる。煌々とした広間には豪華な料理が並び、鮮やかに彩られていた。深まっていく夜に、人々は集い歓楽の時を共有する。雅やかなオーケストラの音色に乗せて、泡沫に舞い踊る。互いに素顔を隠す仮面を付けて、ひとときの宴に酔いしれた。

遊興に高じる人の波に乗り遅れたロミオは、壁に背を預けて佇んでいる。広間を見渡すと、マキューシオとベンウォーリオの姿も垣間見えた。

(オレには似つかわしくない場所だな)

華やかな空気に馴染めず、逆に気分が滅入ったロミオは空しさを感じていた。もう帰ろうと足を踏み出したとき、ロミオの瞳孔にひとつの光が飛び込んできた。広間の中央で踊っている、美しい女性。視線は彼女を捉えて離さない。ロミオの心は、一瞬で彼女に囚われてしまった。

途方もない数の原石の中から、たったひとつ本当の輝きを放つ宝石を見つけた…そんな気がしていた。意思に導かれるように、ロミオは彼女に心を奪われていた。

熱のこもった眼差しに、彼女はなにかを感じて足を止めた。まっすぐロミオを見つめ返す。だがパートナーに呼びかけられ、踊りを再開した。

 

ジュリエットはそのとき、挙動を止めた。目に見えないものの力が作用しているかのように、自分に注がれるひたむきな視線を追ってしまった。そして、広間の隅で佇む青年に気づいた。激しく心が揺れる。彼から目をそらせない。ジュリエットはそんな自分に戸惑っていた。

「ジュリエット? どうかしたのかね」

急に動きを止めた娘に、キャピュレットは訊ねる。

「……いいえ、なんでもありません」

父の声で意識は戻ってくるが、心はひどくざわめいていた。踊りながらも目が彼を追いかける。それまでは完璧だったジュリエットのステップが乱れていた。

「お父様。あの方は、どなたですか?」

「だれかね?」

「あそこにいる…今、庭へ下りている方ですわ」

ジュリエットが広間を出て行く青年を指して告げる。

「さあ、わからんな。だれだろう」

頼りない回答に落胆するジュリエットは、曲が終わると彼を追って広間を出て行った。

 

「マキューシオ。ロミオの姿が見えないようだが」

数曲踊って揚々とした気分のベンウォーリオが、周辺を見渡しながら問いかける。

「ボクは知らないよ」

豪勢な料理を口に運ぶマキューシオは、心当たりがないと答えた。

「どこに行ったんだ? ロミオのヤツ」

ベンウォーリオは困った顔で呟いた。

 

「ロミオだと?」

ベンウォーリオの呟きが交錯する群衆から聞こえ、ティボルトは憤慨した。

「なにかあったのかね? ティボルト」

その憤りに首を傾げ、キャピュレットが声をかける。

「伯父上。モンタギュー家のロミオが、この宴に入り込んでいるようです。きっと我々を愚弄しに来たに相違ありません」

「そう勇み立つものではないよ」

「しかし、伯父上!」

憎悪に忘我しそうなティボルトを、キャピュレットは冷静にたしなめた。

「ロミオといえば、ヴェロナでも立派な青年という評判だ。この家の中で愚行に走るとは思えん。気を落ち着かせなさい。それとも君は、せっかくの祝宴を流血で汚したいのかね」

キャピュレットに諭され、ティボルトは悔しそうに拳を握り締めた。

 

明るい月が、噴水の水面に揺らめきながら映っている。広間から流れてくる音楽と人々のざわめき。それに相対する静寂。木々の語り合う声が、心地よい風の合間に聴こえる。

ロミオは噴水の傍らに座ると仮面を外した。しばらくの間、自分の心が占めるその感情を持て余して頭を悩ませた。そこへ、ひとつの足音が接近してくる。ロミオはゆっくりと顔を上げた。

「……――――」

ジュリエットはその場で足を止めた。どうして彼を追いかけてきてしまったのか、自分でもよく分からない。ただ、そうしなければいけない気がした。見えない力が自分の背中を押しているような、奇妙な感じがしていた。二人は無言のまま見つめ合う。

なにか告げようと思うのに、言葉が口から出ていかない。うまく言葉で表現できない。ロミオのまっすぐな視線に、ジュリエットの頬は紅く染まる。どうしてこんなに惹かれてしまうのだろう。心の中で自問していた。引力に引っ張られているかのように、目が離せない。

「……あの」

沈黙に耐え切れず、ジュリエットが遠慮がちに口火を切った。ジュリエットの透き通った声が、ロミオを現実へ引き戻す。

「あなたの…お名前は?」

恥ずかしそうに訊ねるジュリエット。ロミオは刹那、言葉に詰まった。モンタギュー家の人間である自分を、彼女に名乗るべきか葛藤していた。

「わたしは――――」

ジュリエットの一途な瞳に意を固めて、ロミオが口を開いたそのとき。

「お嬢様? お嬢様はどちらに?」

広間の方向から、ジュリエットを呼ぶ声が聞こえてきた。

「ローズマリー、わたしはここよ」

侍女の呼びかけに振り返りながら、ジュリエットは返事をする。

「こんなところにいらしたのですか?」

ローズマリーは、ジュリエットの姿を確認すると小走りで駆け寄ってきた。

「どうかしたの?」

「すぐにいらしてください。奥様がお呼びです」

ローズマリーが用件を伝えると、ジュリエットは沈んだ声で「今行くわ」と呟いた。ローズマリーは、近くにいたロミオに不審そうな視線を投げかける。ジュリエットは名残惜しくロミオを振り返ったあと、重い足取りで広間へ戻っていった。

役目を果たしたローズマリーも立ち去ろうとしたが、ロミオに呼び止められて歩を止めた。ジュリエットの素性を訊ねるロミオに、呆れた様子で答える。

「あの方はジュリエット様。このキャピュレット家のお嬢様ですわ」

ローズマリーの台詞に、ロミオは自分の耳を疑った。衝撃のあまり声も出ない。ローズマリーはそんなロミオを尻目に、颯爽と歩き去っていった。

(彼女がジュリエット? キャピュレット家の一人娘だと…?)

思ってもない事実に、ロミオは混乱し、うろたえた。彼女との出逢いこそが、彼にとって禁断の果実だったのだ。だが、もう出逢ってしまった。こんなにも激しく心に刻まれてしまった。すべては遅すぎた。彼女という存在を知ってしまっては、他のだれも目に入らないだろう。

(生命を代償に取られたようなものだな…)

仕組まれた運命から逃れなくなった自分を、ロミオは心の中で自嘲した。

 

ジュリエットはロミオの姿を捜していた。母からパリスを紹介されたときも、心ここにあらず。ジュリエットの心はロミオでいっぱいで、パリスの顔など断片も目に入っていない。

(これは恋なのかしら?)

自分の心に咲いた、その花の名前を恋と呼ぶのか、ジュリエットは思い悩んでいた。もう一度、お逢いしたい。せめて名前だけでも聞いておきたい。切実なまでにロミオの姿を追い求めた。すると、帰路へ向かう人々の中にロミオの姿を見つけた。

「ねえ、ローズマリー。あの方のお名前を聞いてきてくれないかしら。お帰りになろうとしている三人連れの中で一番背の高い、あの方よ」

ジュリエットは、ローズマリーにこっそり頼み込む。

「わかりました」

「お願いね」

心を躍らせながら、ジュリエットはローズマリーの報告を待った。

「お嬢様。あの方のお名前は……」

戻ってきたローズマリーが、苦々しい表情で言い渋った。

「早く教えて、ローズマリー」

「――――ロミオ様。モンタギュー家のロミオ様です」

「え…?」

その言葉にジュリエットは硬直した。聞き間違いではないかとローズマリーを見るが、彼女は力なく首を横に振った。

「あの方が…ロミオ様……?」

ジュリエットに大きな波が襲いかかる。こんなにも強く惹かれてしまったあとで、そんな事実を知るなんて…と、この運命を嘆いた。

(もう手遅れだわ。わたしの心は、あの方以外を愛せないもの…)

二人は互いに忘れることが不可能なほど、深く激しい恋に堕ちた。ジュリエットは叶わぬ想いと知りつつも、諦めきれないロミオへの恋心に心を痛めた。

 

キャピュレット家・庭園

夜の帳が降りてくる。半分だけ弧を描いた月が見下ろしていた。林立する木々が、長い影を地面に伸ばしている。その闇に、身を潜める影があった。

ロミオは庭木の狭間に姿を隠しながら、屋敷を見上げている。あの日から募るジュリエットへの想いに駆られてここまで来てしまったものの、この先どうすればいいのか思案していた。

一方のジュリエットは、ロミオが庭に潜んでいるとは露知らず、悩ましい表情でバルコニーへ。自分の心とは対照的に、明るく輝く月を見つめて深い息をもらした。

「ロミオ様。あなたはなぜ、ロミオ様なの?」

心に抱えきれなくなった思いの丈を、ジュリエットは月に告白する。

「あなたがモンタギュー家の方でなかったら…あるいはわたしがキャピュレット家の娘でなかったら、あなたを想うことがこんなに苦しくはなかったのに……」

痛切な胸の内を、ジュリエットは悲痛な声で語った。その呟きに動揺したロミオは無意識に足を踏み出し、足元の小枝を折ってしまった。ジュリエットはその音で人の気配を察知する。

「だれ!?」

バルコニーから身を乗り出して庭を見下ろすジュリエット。ロミオは気まずい表情で、木陰から姿を現した。

「…ロミオ様? ロミオ様なの?」

見間違うはずもない恋しい人の来訪に、ジュリエットは目を疑った。

「わたしには、貴女に名乗れる名前がありません」

ロミオはバルコニーの真下まで歩み出た。

「だけど、どうやってここへ。外には高い塀が囲っているし、だれかに見咎められでもしたら、生命が危ういこの場所へ」

「貴女を想う強い心が、わたしに翼を与えてくれたのです。たったひとつ貴女の眼差しがあれば、わたしを襲う死神など、尻尾を巻いて逃げていくでしょう」

ロミオの真摯な想いと言葉に、ジュリエットは顔を赤らめる。ロミオは、彼女に近寄る術はないかと周囲を見渡す。すると、二階まで伸びている蔦に目が止まった。

「そちらへ行っても?」

「えっ? あ、はい」

ロミオの問いかけに頷いたものの、ジュリエットは自分の紅潮した顔を思い出した。

「やっぱり、ダメ…」

ジュリエットがそう言い直したときには、ロミオは目の前にいた。軽々とバルコニーの手すりを乗り越える。鼓動が高鳴って、言葉に窮するジュリエットを前に、ロミオはどんな言葉で想いを伝えればいいのか思い悩んだ。

「感情を言葉で表現するのは、あまり得意ではなくて」

言い訳のように話すロミオに、ジュリエットは顔を上げる。

「けど、それでも…貴女のことを、心から――――」

見つめ合う瞳の中に、お互いの想いがこもっていた。

「あの月にかけても」

「毎夜形を変える不実な月に、あなたの心を誓わないでください」

「それでは、どう誓えば?」

「あなた自身にかけて、誓ってください。あなたの心からの言葉なら、わたしは信じます」

意思の強い瞳で断言する。ロミオはその信頼の重さを充分に受け止めてから、告げた。

「誓います。わたし自身にかけて、わたしの心に偽りなどないことを」

「ロミオ様…」

ロミオの宣誓に、ジュリエットの瞳が歓喜に潤う。ロミオはジュリエットをそっと抱きしめる。青白い月の光が照らしだす下で、二人は静かに想いを重ねた。

 

聖ロレンス教会・礼拝堂

ロレンス神父が朝のお祈りを済ませたとき、ロミオが教会を訪ねてきた。

「おや、ロミオ。こんな朝早くにやって来るとは、なにかあったのかね?」

「どうしても、神父様の助けが必要なのです」

切迫した面持ちで懇願する。その張りつめた表情から、ただごとではないと直感した神父は、ロミオに事情を話すよう促した。

「実は――――」

ロミオはためらいがちに、ジュリエットとの秘密の恋を打ち明ける。彼女も自分と同じ気持ちでいること、そして密かに結婚の約束を交わしたことを告白した。

「どうか二人を、神の名の下に結婚させてください」

ロミオの切羽詰まった訴えに、神父は沈思する。数奇な運命の中で生まれた二人の愛が、両家の因縁を解決させるきっかけになるかもしれない。

「わかりました。協力しましょう」

その答えを聞いて、強張っていたロミオの緊張が緩む。安堵の息をもらした。

「ありがとうございます」

「そうと決まれば、うまく事を運ぶ手立てを講じなければ」

神父は自分の庵室にロミオを招き、二人の結婚への詳細を話し合った。

 

街中

陽だまりの午後。人が行き交う雑踏で、ロミオは友人二人と話をしていた。

「昨夜はどこへ行っていたんだ、ロミオ」

「ボクたち心配したんだよ?」

ベンウォーリオとマキューシオの声に、心から申し訳ないと謝る。

「ああ、すまない。とても大切な用があったんだ」

「そうだ、ロミオ。君に言っておかなければいけないことがある。ティボルトが近頃、君を捜して街をうろついているそうだ。即座に刀を抜きそうな剣幕らしいから、気をつけたほうがいい」

「そうか…。わかった。気をつけるよ」

ベンウォーリオの忠告を、ロミオは複雑な気分で受け止めた。

「ロミオ様?」

三者の会話の輪に、突如その声が割り込んできた。ジュリエットの侍女のローズマリーだ。今日この場所に使いをくれるよう、昨夜ジュリエットと約束をしてあった。

「主の使いで参りました」

ローズマリーが改まって告げる。ロミオは友人二人に場を外してもらうと、用件を述べた。

「彼女に伝言を頼む」

ロミオは神父と話し合った内容をローズマリーに伝える。明日の午後、聖ロレンス教会へ都合をつけてくるように。そこで二人の結婚式を挙げる、と。

「伝言、たしかに承りました。必ずお嬢様にお伝えします」

ロミオの確固たる決意を悟って、ローズマリーは毅然とした物言いで告げた。

 

聖ロレンス教会・礼拝堂

約束の時間が迫っていた。だが、まだこの場にジュリエットの姿はない。ロミオは不安に駆られる自分を制しながら、教会の扉に視線を走らせる。すでに神父は聖書を携えて準備万端だ。

ちょうど約束の時間になったとき、教会の重々しい扉が音を立てて開いた。ロミオはそちらを振り返る。待ち焦がれていた想い人の姿に、ロミオは緊張の糸をほどいた。

ジュリエットはだれもいない参列席の間を、慎重に足を進めていく。ロミオの前までたどり着くと軽く膝を折り、一礼して最上級の笑顔を見せた。

「あなたのこの先に続く未来へ、どうかわたしを一緒に連れて行ってください」

ジュリエットの心からの望みに、ロミオは優しく微笑んだ。そして、二人の結婚式は隠密にとり行われ、二人は至上の幸福を分かち合う。

けれど、その祝福の日々が長く続くことはなかった。この瞬間の至福がまるで幻のように消え去っていくことを…音を立てて崩れていくことを、二人はまだ知らなかった。この先に起こる出来事によって、永遠を誓った二人の運命は、絶望的なまでに引き裂かれていく――――。

 

街中

ロミオとジュリエットの秘密の結婚式から数日後。二人の運命はこの日を境に狂い始める。ベンウォーリオとマキューシオは、いつものように街を歩いていた。

「最近、キャピュレット家の人間がよくうろついているな」

「そうだね。なんだか不穏な空気を感じるよ」

ここ数日の街の雰囲気を危惧するベンウォーリオに、マキューシオは同意する。すると、二人の進行方向から、ティボルトがこちらへ向かってきていた。

「やあ、モンタギューの腰抜けロミオの御友人方」

出会い頭、ティボルトは皮肉を込めた挨拶をする。

「なんだって!」

「落ち着け、マキューシオ。挑発に乗るんじゃない」

友人に対する侮辱に憤慨するマキューシオ。一触即発の雰囲気を察知して、ベンウォーリオが冷静にこの場を収めようとした。

「忘れたのか。街での刃傷沙汰は御法度だぞ!」

仲裁するベンウォーリオの言葉に耳を貸さず、二人は敵対意識を散らそうとはしない。今にも剣を抜くような体勢をとっていた。

「なにをしてるんだ! マキューシオ、ティボルト!」

対峙する二人を発見したロミオが、声を荒げて駆け寄ってきた。

「止めないでくれ、ロミオ。ティボルトがケンカを売ってきたんだ」

「僕はただモンタギュー家が…とりわけロミオ、おまえが嫌いなだけだ!」

マキューシオ、ティボルト、どちらも闘争心を燃やし、一向に退く気配はない。

「よせ、二人とも!」

「死刑になりたいのか!」

ロミオとベンウォーリオの制止を無視し、マキューシオとティボルトは剣を抜いて斬り合った。交錯する両者。互角の攻防のあと、マキューシオが体勢を崩す。容赦ないティボルトの剣が襲い、マキューシオは地面に倒れこんだ。

「マキューシオ!」

ベンウォーリオとロミオが叫んだ。ティボルトはなおも、ロミオに向かって斬りかかってくる。ロミオはとっさに身をかわして応戦した。感情に任せて剣を振るうティボルトに、ロミオの鋭利な剣先が貫く。ティボルトは苦痛に歪んだ表情で路上に力尽きた。

正当防衛とはいえ、自分の剣がティボルトを倒した事実に、ロミオは呆然としていた。友人を傷つけられた怒りが、衝動的に己を駆り立てたのだ。

「ロミオ! まずい、人が来る。早くここから逃げろ!」

ベンウォーリオが周囲の気配を察して、この場から立ち去るように促す。

「しかし…」

血に染まったマキューシオとティボルトの姿が、ロミオの身体を釘付けにしていた。

「捕まれば死刑だぞ! 僕は友人を二人も失うのはイヤだ。だから早く逃げろ、ロミオ!」

ベンウォーリオの必死の訴えに、ロミオは不確かな足取りでそこから逃げ去った。

 

ヴェロナを治める太守は、この事態を愁嘆した。モンタギュー、キャピュレット両家の宿怨から生まれた今回の悲劇を憂いた。

お互いの血が流されたということもあり、ロミオは死罪だけは免れ、ヴェロナからの追放という処分が下された。ただし、即刻立ち去らなければ死罪に処すと付け加えられた。

 

キャピュレット家・ジュリエットの部屋

花瓶の割れる大きな音が、部屋中に響いた。

「……今…なんて、言ったの?」

ジュリエットは震える声で問い質す。その手から滑り落ちた花瓶が床に砕けている。色とりどりの花が、哀しげに散らばっていた。

「ティボルト様が、ロミオ様に斬られてお亡くなりになりました…。その咎により、ロミオ様はヴェロナからの追放処分に…」

ローズマリーは感情を押し殺した表情で、最悪の報告を繰り返す。

「そんな………」

衝撃を受けたジュリエットは、力なくそこに座り込んだ。

「…もう二度と、ロミオ様とはお逢いできないのかしら」

「そんなことはありません。お嬢様」

悲痛に嘆くジュリエットに、ローズマリーは寄り添い力づけようとする。

「けれど、この街から追放の身となっては、どうすることもできないわ。わたしはこのまま、ロミオ様のお顔を見ることなく朽ちてしまうのかしら。そんなのはイヤ。それならいっそ、この命など儚くなってしまえばいい」

「そんなこと、おっしゃらないでください、お嬢様。わたしがロミオ様を捜して、必ずお連れします。お嬢様に逢わせてさしあげますから。どうか、早まったことは考えないでください」

悲しみに暮れるジュリエットに、ローズマリーは強い口調で彼女を励ました。

 

聖ロレンス教会・ロレンス神父の庵室

事件以降、ロミオは神父によってここに匿われていた。先刻出された太守の宣告を、神父がロミオに伝える。

「生命があるだけでも幸運なことだ。今は耐えなさい」

死罪を覚悟していたロミオは、その温情ある処分を意外に思った。けれど、その表情はうなだれたままだ。ヴェロナから追放されるということは、ジュリエットに逢えなくなることを意味する。今のロミオにとって、それは死よりも深い苦しみだった。

「逃れることのできない運命に踊らされているようだ。逆らい抗うことさえ、無意味に等しい」

絶望的な気分に打ちひしがれて、ロミオは自嘲気味に呟く。そこへ扉を叩く音が聞こえた。

「ロレンス神父様、いらっしゃいますか?」

突然の来訪者に、神父とロミオは顔を見合わせる。空間に緊張が走った。

「どなたかね?」

「キャピュレット家の侍女、ローズマリーです。ジュリエット様の使いで参りました」

その返答に、神父は安堵して扉を開けた。

「ロミオ様は?」

「ああ、ここにいるよ」

ローズマリーは緊迫した顔で神父に訊ねる。ロミオの姿を確認すると、一目散につめ寄った。

「ロミオ様。お嬢様が大変なのです」

「ジュリエットが?」

「ご心痛のあまりずっと泣き続けて、食事も口にしようとされません。ロミオ様、どうかお嬢様を慰めてあげてくださいませ。ロミオ様のご無事な姿を見れば、お嬢様も元気になられるはずです。このままだと、お嬢様は悲嘆に明け暮れて死んでしまいます」

「……………」

ローズマリーの語るジュリエットの様子に、ロミオは顔色を曇らせる。自分の行動が、それほどまでに彼女を苦しめているのだ。自責の念が重くのしかかった。

「行ってあげなさい、ロミオ。君は伴侶の心まで死なせてしまうつもりですか」

神父の大らかな諭しに、ロミオは拳を握り締めた。

「夜が明けきってしまうまでには、必ず街を出なさい。人の目に触れて捕まってしまっては、元も子もない。とりあえず、街を出さえすれば生命は助かる。あとは、わたしが時を見て二人の結婚を公に発表しよう。この婚姻が両家の心を和らげ、和解につながるように手を尽くしてみる。太守にも許しを請うてみるから、しばらくは耐えなさい。いつか、この街に戻れる日が来ると信じて」

「…ありがとうございます、神父様」

神父の多大な心遣いにロミオは感謝し、深々と頭を下げた。

 

キャピュレット家・二階バルコニー

「もう、行ってしまわれるの…?」

夜明け前。朝を先触れするひばりの鳴き声に、悲愴感を漂わせたジュリエットが呟く。

「罪を背負ったこの身では、太陽の下に姿を現すことは叶わないのです」

ロミオは名残惜しさを振り払いながら、にわかに明るんできた空を見つめた。

「早く…早く行ってください。あなたの姿が人の目に触れぬうちに。太陽があなたをさらし者にする前に。どうかご無事で、彼の地までたどり着かれますように」

ジュリエットは健気にロミオを送り出そうとする。

「必ず、貴女のもとに帰ってくると約束します」

ロミオは宣言し、ジュリエットの手に誓いを印した。

「お帰りを、お待ちしています」

今にも泣き崩れそうな表情で、ジュリエットは微笑んだ。その笑顔を心に刻んで、ロミオは足早にヴェロナを発った。

 

キャピュレット家・一室

「どういうことですか? お父様」

翌日、ジュリエットは思ってもない話をキャピュレットから言い渡された。

「おまえはパリス様と結婚するんだ。このまま従弟を亡くした悲しみに埋もれていては、おまえまで冥府に連れていかれてしまう。これはおまえのために決めたことだ」

「そんな…。どこがわたしのためですか。わたしはパリス様と結婚するのはイヤです。絶対にイヤです!」

父親の一方的な言いつけを、ジュリエットは拒否した。だれも知らなくても、自分はロミオ様と結婚しているのだからと、心の中で叫んでいた。

「もう決まってしまったことだ。わがままを言わず、言うことを聞きなさい。ジュリエット」

断固として折れない父親に、ジュリエットは家を飛び出した。この事態から脱出する方法を相談しようと、聖ロレンス教会へ向かった。

 

聖ロレンス教会・礼拝堂

「神父様!」

「どうしました? ジュリエット」

教会へ駆け込んできたジュリエットに、神父は何事かと問いかける。息を切らせたジュリエットを落ち着かせると、事のあらましを話すよう促した。

「わたしはロミオ様と結婚している身の上。他の方と結婚などできません。どうしても結婚を強いられるというのなら、死をもって抗議しますわ」

「早まってはいけないよ。この状況を打破する術が、皆無というわけではないのだから」

八方塞がりの状況に、命を捨てることも厭わないジュリエットを、神父は宥める。

「本当ですか? 神父様」

神父の口にした光明に、ジュリエットは希望をつないだ。

「ただし、それには死と同じくらいの覚悟が必要ですよ」

忠告した上で神父はある手段を教授した。まず四十八時間仮死状態となる秘薬をジュリエットが飲み、表向き死んだことにする。弔いは神父が行い、ジュリエットは教会の霊安室で眠り続ける。その間にロミオを呼び戻し、ジュリエットの目が覚めると二人で街から去るという手筈だ。

「わたし、やりますわ。神父様」

ジュリエットの固い決心に、神父は秘薬の瓶を渡す。

「ロミオには、わたしから手紙を出しておこう」

「よろしくお願いします、神父様」

 

キャピュレット家

翌朝、悲劇がこの家を襲った。ジュリエットが服毒自殺を図ったのだ。ローズマリーがいつもどおりジュリエットを起こしに行ったときには、彼女の身体は冷たくなっていた。傍らには毒入りの瓶と簡潔な遺書があり、パリスとの婚礼が苦で死を選択したと記されていた。

「そんなにも、この結婚がおまえを苦しめていたとは…」

「愚かなわたしたちを許して、ジュリエット」

キャピュレット夫妻は娘の死を深く嘆いた。自分たちの責任を痛感し、心から娘に詫びる。ジュリエットは弔いのため聖ロレンス教会に運ばれ、滞りなく葬儀を済ませた。

ロレンス神父は、計画どおりに事が進んでいることに一安心していた。ジュリエットは霊安室の台座に眠らせている。あとは、ロミオの到着とジュリエットの目覚めを待つだけだ。

「あと一日…。どうか二人に神の加護を」

二人の明るい未来のため、神父は神に祈った。

 

聖ロレンス教会・霊安室

翌日。ジュリエットの目覚めまで、あと二時間あまり。そのとき、ロレンス神父は太守に呼ばれて教会を留守にしていた。遠い街から舞い戻ってきたロミオが、不確かな足取りでその扉を開く。風の噂でジュリエットの死を知り、この目で確かめようとヴェロナに帰ってきた。

運命の悪戯か、神父の手紙はロミオの手に渡っていない。手紙が届く前に出発したため、ロミオは今回の計画を知らない。ジュリエットが息を吹き返すという事情を知らず、この場にたどり着いてしまった。ロミオは眠る彼女の傍らに寄り添い、体温のない手を取る。

「ジュリエット…」

息のないジュリエットを一心に見つめながら、ロミオはこの運命を呪った。生死を共にと誓ったのに、どうして先に逝ってしまったのか。そして道中で手に入れた、毒薬の瓶を仰ぎ見る。彼女の死が事実なら、すぐにあとを追おうと用意したものだった。

最初から、死に導かれる運命の出逢いだったのか。二人の恋は、お互いを滅ぼしてしまう宿業を背負っていたのか。ロミオがジュリエットに最期の口づけをして、死に想いを馳せた。

だが、運命の悪戯が今度は意外な形で起こった。眠り続けるジュリエットの真上から、長い糸を垂らしてクモが降りてくる。そしてジュリエットの腕に着地して、その皮膚を歩いた。仮死状態でも分かる天敵の感触に、ジュリエットの身体は無意識に反応する。

ロミオは異変に気づいて、毒を口に運ぼうとする手を止めた。クモは悠々とジュリエットの腕を移動していく。ジュリエットの本能が、仮死状態を押しのけて目を覚ました。

「――――――!!」

ジュリエットは飛び起きて、腕を思い切り振り回す。幼い頃から苦手だったクモの感触に、どうしても耐え切れなくなったらしい。

「………ジュリエット…?」

目前で息を吹き返したジュリエットに、ロミオは唖然としていた。なにが起こったのか、まったく理解できずに混乱する。

「ロミオ様! クモ…クモが!」

ロミオの姿を見るなり、涙目で訴えるジュリエット。ロミオは気を取り直しながら、慌てふためくジュリエットを宥めた。

「もういない。どこかへ行ったから大丈夫だ」

「本当に?」

ジュリエットは疑いながら、自分の腕を見る。クモの存在がないと確認すると、やっと安心して落ち着いた。

「ところで、ジュリエット。これはどういうことなんだ?」

「ロミオ様。神父様の手紙を読んで、迎えに来てくれたんじゃ…?」

「手紙?」

冷静になったところで、ロミオはこの不可解な出来事の事情をジュリエットに訊ねる。ロミオにしがみついたままのジュリエットは、不思議そうに首を傾げた。

「おお、ロミオ。無事に戻ってきたのか。――――おや、ジュリエット。目覚めにはまだ二時間ほど早いが、一体?」

教会に帰ってきたロレンス神父が、二人を見て訝しそうに問う。ロミオとジュリエットが交互に事情を話すと、ロミオも事の経緯を理解した。

「なんにせよ、二人とも無事でよかった」

神父が二人の幸運に安堵する。

「神父様のおかげです」

「さあ、こうなったら早く、このヴェロナを発ちなさい。遠く離れても、わたしはあなたたちの幸福を神に祈り続けます」

多少計画に狂いは生じたものの、この企ては見事に成功した。あとは当初の手筈どおり、二人が新天地へ旅立つだけだ。

「神父様。本当にありがとうございました」

「どうか、いつまでもお元気で」

ロミオとジュリエットは、神父に感謝の礼を述べると、二人手を取り合ってヴェロナから去っていく。そして、遠い街でしあわせに暮らしたそうだ。

 

踊る大小林線 ~テケテケ刑事と最初の珍事件~

 

「あのね、ボクにだけは本当のことを話してほしいんだ」

机と椅子だけの簡素な一室。小柄な男が、正面に座る人物に向かって語りかけた。

「最初から計画的にしたことじゃない。とっさにやってしまったんだよね。ボクはちゃんとわかっているよ。キミは故意にそんなことができる人じゃない。わざとじゃないんだよね。ボクはキミを信じるから。他の人がなんと言っても、キミを信じるから」

訴えかけるような言葉に相手は俯いたまま。彼はそれを見て、温かい口調で続ける。

「キミのお父さんやお母さんも、きっと心配してる。だから本当のことを話して、罪を償おうよ。ね、大林クン。あの事件は、キミがやったんだよね?」

彼が自白を促すと、犯人の肩が震えていた。

「嘆かないで。ほんの一度の過ちくらい、すぐに取り戻せるよ」

気持ちを察して優しく励ますと、犯人はこらえきれなくなったように吹き出す。

「ブッ……」

堰を切ったように笑い出した犯人に、彼は怪訝な顔。

「ど…どうして笑うの?」

「だって、今どきはやらないって、そんな台詞。刑事ドラマの見すぎだよ」

必死に笑いをこらえながら、犯人は答える。

「そんなことないよ! ボクは――――」

彼が反論しようとすると部屋のブラインドが上がり、周囲は一気に明るくなった。

『ハイ、終了』

スピーカーから試験官の声が聞こえてくる。

「ええっ! ボク、まだ犯人を自供させてません!」

『キミの取調べ能力はわかったから』

不満の彼に、試験官は苦笑しながら通告する。最近の新人刑事でこんな取り調べ方法は、かなり珍しい。一昔前の刑事ドラマに出てきそうな台詞ばかりだ。

「アンタ、あんな調子で本当に刑事になるつもり? 交番でおとなしく制服警官やってたほうがいいんじゃないの?」

犯人役を担当した少年が、呆れ顔で忠告する。

「ボクはちゃんと試験に合格したんだから、れっきとした刑事だよ!」

「へえ」

少年の言葉に、彼は意気揚々と警察手帳を掲げた。

「ボクは青島俊作。明日から、ひまわり署の刑事だよ!」

 

「――――元気な子ですね」

試験映像を見終わったところで、署長が呟いた。ひまわり署の会議室。署長、副署長、刑事課長の三人が揃っている。

「でも、微笑ましくていいじゃないですか」

副署長は愛らしい彼に微笑んだ。

「で、配属先はどうします? 署長」

署内なのにサングラスをかけている課長が、伺うように訊く。

「袴田君。キミのところでいいだろう?」

「手が足りないから、どこかの課からまわしてくれって話でしたものね」

「たしかに言いましたけど。彼は刑事課より、少年課が適当では…?」

課長は抗弁するものの、署長の一存で彼の配属先は刑事課に決定した。

 

青島は時計を見ながら、ひまわり署の玄関に滑り込んだ。全力疾走したので、すっかり汗だくになっている。遅刻しないよう早めに家を出たのだが、途中で時間を使ってしまった。重い荷物を持って横断歩道を渡ろうとしていたおばあさんを、目的地まで送り届けたので、初日なのに遅刻寸前の出勤となってしまう。

「ええと、刑事課はどこだろう?」

初めて訪れた自分の職場。署内のどこになにがあるのかも知らない彼は、通りかかった交通課の婦警に訊ねる。

「あの、すみません。刑事課ってどう行けばいいんですか?」

「刑事課は、階段を上がって二階の廊下をまっすぐよ」

親切な婦警は、明るい笑顔で答えてくれた。

「どうもありがとう」

礼を言うと、彼は一直線に階段へ向かう。その背中を見送りながら、婦警は疑問に思った。あんな少年が、刑事課に何の用だろう。

 

「ねえ、おっさん!」

長髪の美少女からそう呼ばれ、内心にダメージを受けた刑事課強行犯係の和久刑事は、苦い顔でそちらを振り返る。

「恩田。その『おっさん』っていうの、やめてくれないか?」

「和久刑事。『親父』のアンタを『おっさん』と呼んで、なにが悪いの。『親父』って呼ばれるよりはマシでしょ?」

和久の抗議にもまったく悪びれた様子のない、刑事課盗犯係の恩田すみれ。その不遜な態度には返す言葉も見つからない。

「それより、今日からでしょ。ウチに新人が配属されるのって」

「ああ。たしか名前は…」

あっさり話題を変えるすみれに、和久は疲れた表情で頷く。そしてその新人刑事の名前を口にしようとした瞬間、刑事課に駆け込んできた人物がいた。

「あのっ、遅れてすみません! 今日ひまわり署に配属された、青島です!」

課内にいた全員がそちらを振り返る。

「――――――」

一堂、キョトンとした顔をしていた。そこにいたのは、十代くらいの小柄な少年で、刑事なんて見当たらない。

「あ、あの…ボク、青島ですけど…」

周囲の異様な反応に、青島は戸惑いながら、もう一度名乗った。それでもまだ疑わしそうな目で見る彼ら。業を煮やしたすみれが、青島に歩み寄って訊く。

「本当に刑事なの?」

正面から問われ、青島は首を傾げた。なぜ、分かりきっていることを訊かれるのだろう。しかし、質問されたならきっちり答えなければと、青島は警察手帳を開いて告げる。

「ボクの名前は青島俊作、巡査部長。本日付けで、ひまわり署刑事課へ配属になった刑事です!」

 

「でも、本当に刑事やれるの? そんな小さな身体で」

課内が青島の熱烈な訴えに納得したあと、刑事課は日常の光景を取り戻しつつあった。だがまだ完全には信じられないのか、それぞれ青島に好奇の視線を走らせる。

「身体の大きさは関係ないよ。ボク、精一杯頑張るから」

すみれの懐疑に、青島は力強く言った。

「まあ、ほどほどにね。――――で、おっさん」

「おっさん言うな」

「このチビッコ、どこの係になるの?」

「それは課長が決めることだろ」

「でも、十中八九そっちでしょう。いつも人手が足りなくて、わたしたちが駆り出されているんだから」

盗犯係は日頃から、強行犯係の応援を押しつけられている。それを不満に思っていたすみれは、皮肉を込めて捜査書類を青島の机の上に置いた。

「これまでの事件ファイル。一応、目を通しておいて」

「おい。まだウチに配属されると決まったわけじゃ…」

「ボク、強行犯係なんだ。嬉しい。ずっと憧れていたんだ」

和久の言葉などまったく聞こえていないのか、青島は喜びに浸っている。

「和久さん。いろいろ教えてください、お願いします!」

それ以降、和久のあとをついてまわるようになってしまった。

 

「ボク、早く事件の捜査をしてみたいな」

青島は自分のデスクの資料を眺めながら、期待に満ちた表情。和久は元気のいい新人から質問攻めに遭い、疲れた様子で嘆息する。

「皆さん、おやつの時間ですよ」

そこへワゴンを押しながら、署長、副署長、課長の三人が現れた。ワゴンには副署長と課長お手製のおやつが載せられている。

「和久さん、あれは?」

課内の人々が待ってましたとばかりに、ワゴンに群がった。その光景を見て、青島は訝しそうに問いかける。

「あれは、料理が趣味の副署長と課長が署員のために、毎日午後三時に手製のおやつを配ってるんだ。みんなは楽しみにしてるらしいけど、オレは甘いものが苦手だから…」

説明する和久に、目を輝かせる青島。

「あの…ボクももらっていいのかな」

「おまえも今日から、ひまわり署の一員だろ」

「わあい」

和久の言葉に、青島は嬉しそうに走っていった。

「すみません。ちょっと通してもらえますか?」

その人だかりの間から、大きな荷物が運ばれてくる。自分の身体以上の大きな箱を荷押し車で運んできたのは、刑事課強行犯係の真下だった。

「どうしたんだ? その荷物」

ようやく強行犯係にたどり着き、汗を拭う真下に和久が訊く。

「さっき総務に行ったら、強行犯係に荷物が届いているから持っていってくれって頼まれて。袴田課長への荷物みたいだけど」

『ヒヨコ急便』のマークがついた箱を見ながら、真下が説明する。

「ワタシですか?」

その話を耳にした課長が、やってきてその箱を見た。

「ええと、中身はマッサージチェアって書いてありますが」

真下が配達伝票に目を落として告げる。

「それは嬉しいですね」

その贈り物に歓喜した課長は、荷物の梱包を解いていった。中から、立派なマッサージチェアが姿を見せる。

「おい。それ、一体だれからの…」

和久が伝票を覗き込んだとき、課長はチェアに腰を下ろしていた。

「とっても座り心地のいい椅子ですねえ」

満喫した瞬間、奇妙な金属音がして、課長は首を傾げる。そして一度立ち上がろうとするが、身体が動かなかった。

「――――?」

どうして動けないのか分からず、自分の身体を見る課長。両腕と腹部、そして両足がチェアから現れた拘束具に捕らわれてしまっている。

「な、なんですか、これ!」

課長は驚愕しながら叫ぶが、あとの祭りだ。

「……課長。この荷物の送り主」

混乱する課長に、和久が荷物の伝票を見せる。

「ま、まさか…」

不安に慄きながら贈り主欄を見ると、そこにはよく知った人物の名が。

「フフッ」

怯える課長の傍らに、その笑い声が聞こえてきた。嬉しそうな笑みを浮かべた恩田すみれが立っている。

「これで逃げられないわよ、課長」

「す…すみれサン!」

すみれが笑うと、課長は断末魔の叫びを上げた。真下がその対応に困惑する中、我関せずを決め込んだ和久は刑事課を出て行く。

「和久さん、どこに行くの?」

「この前の事件の裏付け捜査。…あんなのに付き合っていられるか」

力なく呟くと、足早に歩いていってしまった。

「あ、待って! ボクも一緒に」

とにかく捜査がしたかった青島は、慌てて和久のあとを追っていった。

 

「このマンション?」

「ああ」

現場に到着した和久と青島は、その関係先の部屋に向かう。すると「泥棒!」という声が響いてきた。とっさに二人は走り出し、声が聞こえてきた部屋へ駆け込む。

「泥棒はどこ!?」

青島が身構えながら突入すると、「助けて」と小さな声が。

「――――?」

目に飛び込んできた状況が理解できず、青島は目を瞬かせた。黒っぽい服を着た男が床に倒れて助けを求め、そのそばに、なぜだか杵を持った女性が仁王立ち。部屋の金庫は開かれていて、書類や札束が散らばっていた。

「…泥棒は、その男?」

事態を把握しようと、和久が女性に訊ねる。

「そうよ。なにか物音がすると思って部屋を覗いたら、この男が金庫を漁っていたの。だから近くにあった杵を持って飛び出して…」

そう説明する女性は戸惑いがち。倒れている泥棒は、必死の形相で助けを求めていた。

「こ、この女の子、恐ろしく力が強くて…。お願いします。自首も自供もしますから…どうか、たすけ、て――――」

そう嘆きながら泥棒は力尽きる。

「……和久さん。この場合、ボクたちはどうしたらいいんでしょう?」

こんな若い女が一人で泥棒をやっつけたなんて、外見からは想像もできない。でも、それはまぎれもない事実なわけで、青島は困惑してしまった。

「そんなこと、オレに訊かれても…」

こういうケースに遭遇したことのない和久は、特大のため息をもらした。

 

場所は変わって警視庁捜査一課。広い部屋に一人で座っている人物がいた。熱心に本を読んでいる端正な顔の人物。彼は捜査一課の管理官、室井慎次。

「さて、と。今度はなにを作ろうかな」

愉悦の笑顔でページをめくる、その本のタイトルは『罠工房』。ちなみに今月の特集は『あなたにもできる、罠マッサージチェアの作り方』。

…あのマッサージチェアを作ったの、アナタですね、室井さん。

「まあね」

答えると、上機嫌でページをめくりました。次はなにを作る気なんでしょう。それに次回、罠の犠牲者になるのは一体…?

 

【キャスト】

青島俊作(小林大和):ひまわり署刑事課強行犯係 巡査部長

恩田すみれ(斉藤あげは):ひまわり署刑事課盗犯係 巡査部長

和久平八郎(小林健吾):ひまわり署刑事課強行犯係 巡査長

真下正義(日影只男):ひまわり署刑事課強行犯係 警部補

袴田課長(小林燕):ひまわり署刑事課課長 警部

秋山副署長(小林静):ひまわり署副署長 警視

神田署長(校長先生):ひまわり署署長 警視正

室井慎次(小林千尋):警視庁捜査一課管理官 警視正

柏木雪乃(小林吹雪):高層マンションに住む会社役員の娘

泥棒(マッチョ高橋):柏木家へ盗みに入った泥棒

交通課の婦警(向井ゆり):ひまわり署交通課 巡査長

犯人役の少年(大林鷹士):取調べ試験の犯人役

 


 
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