プロローグ
今日も私のポンコツな心臓は動いている——。
藤沢陽菜(ふじさわはるな)は病院のベッドで目を覚まし、溜息をついた。ベッド脇の心電図モニタにはそこそこ規則的な波形が映し出されているが、おそらくその波形自体が正常なものではないのだろう。
生まれたときから心臓に欠陥を抱えていた。自宅で過ごした時間より入院の方が長いくらいである。治る見込みはなく、心臓移植をしない限り成人になるまで生きるのも難しいと言われてきた。次に発作が起こったら危ないとも聞いていた。だから先日発作で倒れたときはもう死ぬんだなと思ったけれど、案外しぶといらしく命は繋がっていた。
生きることに未練はない。
自分がいかに家族の負担になっているかくらい、世間知らずなりにわかっているつもりである。ごく平均的な中流家庭にとって陽菜の医療費はかなり厳しい。完治する見込みがあればまだしも、あと数年で死ぬとすれば溝に捨てるようなものである。それでも人として親として見捨てるわけにはいかないのだろう。平均的な両親は世間体という枷から逃れられないでいるのだ。
三歳上の姉の美雪は夢をあきらめざるをえなくなった。長らく見舞いにも来ていなかったのに、ある日ひとりでやってきたかと思うと泣きじゃくりながら陽菜を非難した。あんたのせいで家族がみんなつらい目に遭っているの、あんたが生まれたせいで私の人生もむちゃくちゃよ、いつまでのうのうと生きてるのよ——など喚くだけ喚いて帰っていった。
あとで母親に聞いたら、医師志望の美雪に大学進学をあきらめさせたという話だった。あいにくこんな辺境の地から通える大学はなく、進学するなら実家を出てひとり暮らしするしかないらしい。しかしながら学費が免除される見込みはなく、奨学金をもらるかどうかもわからず、たとえもらえたとしても生活費までは賄えないという。
きっと美雪は他にもいろいろとあきらめてきたのだろう。それもこれも陽菜のせいだ。随分ひどいことを言われた気もするが、彼女の心情を思うと責める気持ちにはなれなかった。どれも事実であり言われても仕方のないことである。逆の立場ならきっと陽菜も同じことを思っただろうから。
そのこともあり陽菜は高校に進学しなかった。両親は高校くらいは遠慮するなと言ってくれたが、美雪に大学をあきらめさせて、その元凶である自分が進学するなんてことはできない。どうせ進学したところで出席日数が足りなくなることは目に見えている。それ以前に未来のない人間が高校に行っても無駄でしかない。
自分がいかに持て余されているかは自分自身でわかっている。いまや両親が見舞いに来ることさえ少なくなっていた。見舞いに来ても表情はいつも明らかに作り笑いで、ひどく気を使っていることは伝わってくるが、暗く塞ぎ込んだ気持ちは隠せていない。早く死んでくれればいいのにというのが本音だろう。もちろんそれなりに善良で常識のある人たちなので、そんなことを口に出したりはしないけれど。
医師や看護師たちは優しく接してくれるが、それが仕事だからだということはわかっている。家族とは違って他人事だから深刻にならず笑顔を見せていられるのだ。もちろん感謝はしている。冷たく事務的な態度をとられるよりかはよほどいい。だからといって素直に甘えられる類のものではなかった。
陽菜はいつしか笑うことができなくなり、感情さえも希薄になっていた。
ただ、ボランティアで来ていたおねえさんの笑顔にだけはすこし心が動かされた。長期入院している子供たちに読み聞かせをしたり一緒に遊んだりするボランティアだが、来るたびに陽菜のことを気に掛けてくれていた。それもボランティアとしての仕事なのかもしれない。けれど彼女の屈託のない笑顔に偽りはないように思えた。
生まれ変わりなんて信じていないけれど、もし生まれ変われるのなら今度はおねえさんのような人になりたい。自分以外の誰かのために役に立てるような、誰かに必要とされるような、誰かに好きになってもらえるような。彼女の優しい笑顔を思い浮かべながら目を閉じようとした、そのとき。
ガラガラと病室の扉が開き、いつになく真剣な面持ちの医師と看護師が入ってきた。その後ろに続いたのは両親だ。ベッドに横たわったまま、じっと怪訝なまなざしを送る陽菜に医師は告げた。藤沢さんの心臓移植が決まりました、と——。
第1話 あきらめたはずの未来
「手術は成功しましたよ」
陽菜が目を覚ますと、ちょうど点滴を付け替えていた看護師がにこやかにそう告げてきた。
ゆっくりと呼吸をして目を閉じると微妙に鼓動が感じられた。ここで動いているのはどこかの誰かの心臓——信じがたいが、心臓移植が成功したのなら事実そうなのだろう。他人の心臓と入れ替えることができてしまうなんて、医学の進歩は恐ろしい。
手術後しばらくは入院したまま慎重に経過観察をしていたが、特に問題もなく、数か月後には普通に生活を送っても構わないというお墨付きを得た。実際、新しい心臓はとても優秀なようで、以前はすぐに苦しくなっていたのにそういうこともなくなり、鉛みたいだった体も信じられないくらい軽く動かせるようになっている。
ただ、嬉しい気持ちよりも戸惑いの方が大きい。
あきらめたはずの未来が急に目の前に広がったのだ。死ぬことしか考えていなかったのに、その心積もりしかなかったのに、急に生きろと言われても途方に暮れてしまう。今は十七歳なのであと三年も経たずに成人する。生かされるのではなく生きていかねばならないという現実は、とても重いし、とても怖い。
姉の美雪は県外でひとり暮らしをしながら働いている。陽菜のせいで大学進学を断念させられたため、それなりの職を得るために実家を出たのだ。だから陽菜もそうしなければならないのだろうが、今はまだ通院もしなければならないので、目処がつくまでは実家に置いてもらうことにした。
就職しようにも中卒ではまともな働き口は見つからない。こんな辺境の地ではなおさらだ。とりあえずはアルバイトから始めるしかないだろうと、情報誌を見たり街中を歩いたりして募集を探した。学歴や病歴を理由にいくつか断られたものの、どうにか近所の洋菓子店で雇ってもらえることになった。
夫婦だけでやっている小さな洋菓子店だが、奥さんが病気療養中のためアルバイトを雇うことにしたのだという。陽菜に任されたのは店番、つまり接客や会計などである。店長は厨房にいることが多いため基本的にはひとりで行う。ぽつぽつとしか客が来ないので忙しいということはないのだが——。
「藤沢さん、もうすこし笑顔にならんかね」
「笑顔……」
陽菜が困惑してつぶやくと、店長は苦笑する。
「一生懸命やってくれてるのはわかるんだがね。あんまりにも無表情で事務的すぎるんだわ。声も暗いからもっと明るくハキハキとさ。慣れんうちは緊張もしてるし難しいだろうから、まあ徐々にね」
「はい……」
ここしか雇ってもらえなかったので仕方ないが、やはり接客業は向いていない。実際に働くようになってつくづくそう実感した。店長は緊張しているため表情が硬いと思っているようだが、そもそも笑い方さえ知らないのだ。笑顔を作れといわれてもそう簡単に作れるはずがない。
だからといって次のアルバイト先を見つけるのも難しいので、当面はここで働かせてもらうしかない。鏡に向かって練習を始めたがほとんど表情は動かなかった。どう頑張ってもぎこちない不自然な面持ちになるだけだ。相談する相手もいないので何が悪いかすらわからない。日々鏡に向かい自分の顔を見ては途方に暮れていた。
カランカラン——。
きれいに響くドアベルの音が聞こえて顔を上げると、若い男性が入ってきた。まるでファッションモデルのようにすらりと背が高く、色白で整った顔をしているが、髪は清潔感のある黒のショートでチャラチャラした印象はない。何の変哲もない半袖シャツにチノパンという格好もやけにサマになっている。
東京ではさほどめずらしくもないのかもしれないが、こんな辺境の地ではひどく目立つ容姿だ。何となく地元の人間ではないような気がする。出張だろうか。すこし離れたところに有名な観光地はあるものの、この近辺には何もなく、旅行者が来るということはあまり考えられない。
「へぇ、おいしそうだね」
彼はさまざまなケーキやゼリーの並べられたガラスケースを覗き込んでそう言うと、顔を上げて陽菜に目を向ける。
「おすすめはどれ?」
「……えっ」
まさかそんなことを訊かれるとは思わなかった。
ただのアルバイトなのでケーキに詳しいわけではない。ここに並んでいる商品の説明さえろくにできない。食べたことがあるのも数種類だけという有り様だ。顔をこわばらせて黙り込んでしまった店員失格の陽菜に、彼は怒りもせず、まるで子供に接するかのように優しく問い直す。
「君がいちばん好きなのを教えて?」
「私は……その、フレジェが好きです」
すこし思案をめぐらせてからそう答えを返す。
ここで働き始めた日の帰りに店長からもらったのがフレジェである。それまで数えるほどしかケーキを食べたことがなく、それもパサパサのショートケーキだけだったので、ふんわりと甘くなめらかなそのケーキは衝撃だった。それ以来、陽菜にとって思い入れのあるケーキになったのだ。
「じゃあ、それひとつお願い」
「はい」
まだ慣れない手つきでケーキを箱に詰め、保冷剤を入れ、会計をしてから手渡すと、ありがとうございましたとお辞儀をする。気をつけているつもりだが、やはり抑揚のない声になってしまう。そして表情もほとんど動いていない。けれど彼はにっこりと笑みを浮かべて帰っていった。
ほとんどが主婦かお年寄りという客層で若い男性はめずらしく、また短いながらも定型外の言葉を交わしたこともあり、彼のことは印象に残った。けれどそれだけである。翌日には何事もなかったかのように淡々と店番をこなしていた。しかし——。
「フレジェ、おいしかったよ。今日もひとつお願い」
例の男性がふらりと姿を現した。
また来るとは思わなかったので驚いたものの、勧めたものを気に入ってもらえたことには安堵した。本当においしいと思わなければわざわざ買いには来ないはずだ。自分が作ったわけではないけれど何かとても嬉しかった。
以降、男性はほとんど毎日のように訪れて、フレジェをひとつ買うようになった。
旅行でも出張でもなくこのあたりに住んでいるのだろうか。それにしても毎日ケーキなどさすがに買いすぎのような気がする。それもフレジェばかり。陽菜が悪いわけではないが何となく勧めた責任を感じてしまう。彼がフレジェを買うたびに他のものを勧めてみようと思うが、結局、何も言えないままだった。
男性が来るようになって二週間が過ぎたころ。
陽菜がアルバイトを終えて裏口から出ると急に雨が降り出した。今日は晴れの予報だったので傘は持ってきていない。家までは徒歩十分ほどなので走って帰ればいいのだが、かつて同じ状況で発作を起こしたことがあるため、もう大丈夫だとわかっていてもすこし怖い。
「傘、持ってないの?」
軒下で空模様を見つめながらじっと考え込んでいると、ふいに横から声をかけられた。その声だけで誰だかわかる。振り向くと、彼はくすりと笑いながら紺色の傘を差し掛けてきた。
「よかったら家まで送っていくよ」
「えっ……でも……」
「気晴らしの散歩だから気にしないで」
肩をぽんと軽くたたいて促され、陽菜は戸惑いながらも彼の隣におさまり足を進める。並ぶとやはり上背がある。小柄な陽菜では見上げなければ顔が窺えないくらいだ。
「家はどのあたり?」
「歩いて十分くらいです」
家の方向を指し示しながら答えると、彼は了解と微笑んだ。
時折、彼を誘導しながらいつもの帰路を進んでいく。いつからあの店で働いてるの? もう慣れた? など差し障りのない話を振られるが、陽菜に気のきいたことなど言えるはずもない。しばしば会話が途切れて沈黙が落ちるが、傘に当たる雨音がその気まずさを打ち消してくれている気がした。
「ここです」
やがて陽菜の自宅前に着いて足を止めた。
「へぇ、ご近所さんだったんだね」
「え?」
思わず顔を上げると、彼は口もとに笑みを浮かべて傘を閉じる。いつのまにか雨はほとんど上がっていた。
「僕はあのアパートに住んでるよ」
そう言いながら、道路の突き当たりに見える二階建ての小さな集合住宅を指さした。陽菜が退院したころにできたものなのでまだ真新しい。洋菓子店からそう遠くないところに住んでいるのだろうとは思っていたが、まさか陽菜のご近所さんだとは。
「じゃあね、またお店に行くよ」
「ありがとうございました……あの」
「ん?」
帰ろうとする彼の袖をとっさに掴んでしまう。ここまでしたのだからもう後戻りはできない。幾分か緊張しながら口を開く。
「レアチーズケーキもおいしいです」
彼は一瞬きょとんとしたが、やがて小さく肩を震わせてくすくすと笑い出した。唐突すぎて言いたいことが伝わらなかったのかもしれない。どう説明したらいいのか思案をめぐらせていると、頭にぽんと大きな手がのせられた。
「今度はそれ買ってみるよ」
「……はい」
意図するところは正しく伝わっていたらしい。陽菜は安堵するが、同時に鼓動がドクンと打つのを感じた。まるで軽い発作が起こったかのように。遠ざかる彼の後ろ姿をぼんやりと眺めながら、ぎゅっと胸を押さえた。
それからも彼は毎日のように洋菓子店を訪れた。
雨の日に約束したとおりレアチーズケーキを買ってくれた。どうやら気に入ったようで、以降はフレジェとレアチーズケーキを交互に買っていくようになった。プリンもおすすめだと伝えると、ほどなくしてそれもローテーションに加えられた。
アルバイトの帰りには彼と出会うことが多くなった。気晴らしの散歩だというので何となく一緒に帰っている。陽菜のことを話したり、彼のことを聞いたりして、互いのことをすこしずつ知っていった。
彼の名前は朝比奈総司(あさひなそうじ)。東京出身だが大学卒業後にこちらに引っ越してきたらしい。フリーランスなので時間に自由がきくのだという。言われてみれば、毎日昼間に洋菓子店を訪れたり散歩をしたりなど、普通の会社勤めの身では難しいだろう。
やがて秋が過ぎ、あたりが白く染まる季節になった。
そのころには総司が店に来ないと心配するようになった。帰りにも会えないと不安になった。彼にも都合があるだろうし、そもそも約束などしていないのだから、来ない日があっても当然である。頭ではわかっているが、もう二度と来ないのではないかと考えて怖くなるのだ。
不思議だった。入院中に家族が見舞いに来なくても何も感じなかった。持て余されていても仕方がないとしか思えなかった。多少の寂しさはあっても大きく心を動かされることはなかった。なのに、彼が一日来ないだけでどうしてこうなってしまうのだろう。
きっと贅沢になっているのだ。今までは何もないことが当たり前で望みさえせずにあきらめていた。けれど思いがけず楽しい時間を手に入れてしまい、本当はそれだけで満足しなければいけなかったのに、図々しくも勝手に継続を期待するようになっていた。
そもそもこれほど感情を揺り動かされるのは初めてのことだ。彼と言葉を交わすだけでトクトクと鼓動が高鳴るのを感じる。彼と会えないだけでもやもやして気持ちが暗く沈むのを感じる。嫌われたのではないかと不安になり心臓がぎゅっと締めつけられる。
まるで自分ではないみたいだった。姉に罵られてもほとんど心が動かなかったのに。会えなくなると困る人なんて今までいなかったのに。家族でさえもどうでもいいと思っていたのに。いったいどうしてしまったのだろうと戸惑いながらも、どうすることもできず、ただ自分の感情に振りまわされながら過ごすしかなかった。
やっぱり今日もいない——。
アルバイトの帰り道、密かにあたりを窺って白い溜息を落とした。もう四日も総司の姿を見ていない。三日以上も店に来ないことは初めてで不安が募る。彼の住んでいるアパートは知っているが押しかける勇気はないし、押しかけるだけの理由もない。
気にしないようにしようと自分に言い聞かせながら家路を急ぐ。ショートブーツがしゃりしゃりとみぞれ状の雪を踏みしめる。自宅の前まで来ると、彼の住んでいるアパートに目を向けてわずかに目を細めた。
「久しぶり……かな?」
「?!」
唐突に背後から声をかけられて心臓が飛び出しそうになる。それが誰かは一瞬でわかった。勢いよく振り返ると思ったとおりそこには総司が立っていた。肩にボストンバッグを掛けてにこやかに微笑んでいる。
「両親に呼び出されて実家に帰ってたんだ。いま戻ってきたところ」
「そう、だったの……よかった……」
冷静に答えたつもりだったが声は震えていた。おまけに目は融けそうなくらい熱くなる。
私、泣いてる——?
頬に伝うものを感じて指先で触れると確かに濡れていた。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。ただ安堵しただけでどうして涙がこぼれているのだろう。物心がついてから一度も泣いた記憶はなかったのに。困惑していると、壊れ物を扱うかのようにそっと優しく両腕に捕らえられた。
「ごめん、言っておけばよかったね」
「そんなこと……別に……」
両親にさえ一度も抱きしめられたことはなかった。あたたかい体温につつまれて、バクバクと壊れそうなほど心臓が強く脈打っている。発作が起こるのではないか、死んでしまうのではないか——自分の心臓がどうなっているのかわからず怖くなる。縋るように彼のジャケットの裾をぎゅっと握りしめると、頭上で熱い吐息が落とされた。
「藤沢さん、君が好きだ」
「……?」
耳元で囁くように言われたが、何を言われているのかすぐには理解ができなかった。抱きしめる腕にやわらかく力がこめられて、わけのわからないまま彼と密着する形になる。
「付き合ってほしい」
「付き合う……?」
「僕の恋人になって」
小説で読んだことがあるので概念としては一応知っている。けれど自分自身に関係してくるなど想像もしなかった。完全に別世界の話で羨ましいと思ったことさえなかった。突然そんなことを言われたって——思考回路が焼き切れたかのように何も考えられない。
「……あの」
「ん?」
陽菜が身じろぎすると腕の力をすこし緩めてくれた。彼の胸元をそっと押して体を離し、壊れそうなほど心臓が暴れるのを感じながらも、意を決してまっすぐにその双眸を見つめる。
「しばらく考えさせてください」
「……わかった」
一瞬、彼の顔に陰が落ちたような気がしたが、すぐに笑みが浮かんだ。
「いい返事を待っているから」
「善処します」
ぺこりとお辞儀をして逃げるように小走りで自宅に入ると、閉めた扉に背をつけて胸を押さえる。早鐘のような鼓動はすこしも治まってくれなかった。
第2話 恋人の定義
「恋人って何をするんですか?」
総司に告白された翌日、一緒に帰る彼に返事を求められて陽菜はそう尋ね返した。
あれから一晩、ほとんど睡眠も取らずに考えてみたものの、考えれば考えるほどわからなくなった。恋人というのはどういう存在なのか、付き合うというのは何をするのか、陽菜を好きと言ったのは本気なのか。なにもわからないままでは考えがまとまるはずもない。なので、思いきって率直に疑問をぶつけてみることにしたのだ。
「別にこれといって決まっているわけじゃないよ」
総司は嫌な顔ひとつせずに答える。
「藤沢さんが行きたいところがあれば一緒に行こう。したいことがあれば一緒にしよう。ふたりがしたいと思うことを積み重ねていくんだ。僕としては、こうやって話をしているだけでも楽しいけどね」
「それって友達とどう違うんですか?」
陽菜には友達がいたこともないので曖昧にしかわからないが、一緒に遊んだり相談し合ったりする関係だと認識している。総司の話を聞く限りではそれと大差ないように思えた。
「友達は複数いてもいいけど、恋人は基本的にひとりだね」
「いちばん仲のいい友達が恋人ってことですか?」
「友達よりももっとずっと大切で特別なのが恋人だよ」
そう答えながら、総司は目を細めて熱っぽく見つめてくる。陽菜の心臓はドクンと大きく脈打った。息の詰まりそうな苦しさに耐えられずに視線を外す。
「朝比奈さんは……私のことを特別だと思ってるんですか?」
「もちろん思ってるよ。藤沢さんは僕のことどう思ってる?」
「……たぶん好きだと思います。でも特別とまでは」
「今はそれでいいよ。恋人になってすこしずつ特別になれば」
総司はとても優しい。こんな面倒くさい陽菜を否定せずに受け入れようとしてくれている。しかし、どうしてそこまでしてくれるのか理解できず戸惑いを隠せない。難しい顔をして黙りこくった陽菜に、総司はわずかに焦燥をにじませて言いつのる。
「藤沢さん、僕には藤沢さんが必要なんだ」
「わかりません。私なんかがどうして……」
「藤沢さんは可愛いよ。僕にとってはね」
「……っ!」
動揺したせいだろうか。凍った地面で足元を滑らせて転びそうになった。が、すんでのところで隣の総司に受け止められる。そして丁寧に立たせてくれたのはいいが、いつまでも背中に手をまわしたまま放してくれない。熱っぽくもせつなげなまなざしで微笑みかけてくる。
移植された心臓はとても丈夫なはずなのに、彼といるときだけおかしくなってしまう。きのう数日ぶりに再会してからさらに症状がひどくなった。今も心臓が飛び出しそうなほど大きく脈打っていて、とても冷静に考えられる状態ではない。
「あの……もうすこし考えさせてください」
どうにかそれだけ告げると、彼の返事を待つことなく一目散にすぐ近くの自宅へ駆けていく。背後から陽菜を呼ぶ声が聞こえたが立ち止まりはしなかった。
陽菜は自室のベッドに倒れ込むように横たわると、溜息をついた。
総司のことが好きなのはきっと間違いない。けれど恋人になりたいとか付き合いたいとかは思っていない。今のようにアルバイトの帰りにすこし話ができるだけでよかった。それだけで嬉しかったのに。胸が苦しくなりこぶしで押さえながら体を丸める。
彼はどうして恋人になることに固執しているのだろう。今の関係を継続するのではいけないのだろうか。特別だの必要だのと言われるたびに怖くなった。何ひとつ好かれる要素のない陽菜に、それほどまでの気持ちを向けているなんて信じられない。
そうか——。
彼の気持ちが信じられないから怖くて逃げ腰になっていたのかもしれない。恋人になることにどれほどの価値があるのかは正直わからない。けれど、彼が真摯に話してくれているのに逃げているだけではいけないと思う。陽菜も真摯に彼と向き合って何らかの結論を出さなければ。静かに思考をめぐらせながら、心臓を宥めるようにゆっくりと呼吸をして目を閉じた。
その翌日。
アルバイトを終えた陽菜が裏口から外に出ると、小雪のちらつく中に総司が傘を差して立っていた。陽菜と目が合うとすこし気まずそうな微笑を浮かべ、無言で傘を差し掛けてきた。折りたたみ傘を持っていたのでどうしようか悩んだが、その傘に入れてもらうことにした。
「藤沢さんに嫌われたんじゃないかと心配してたけど、一緒に帰ってくれるってことは大丈夫なんだよね?」
「はい、きのうはすみませんでした……びっくりしてしまって……」
動揺したとはいえ置き去りにして逃げた陽菜が悪い。申し訳なく思いながら答えると、彼はよかったと安堵の息をついて笑みを浮かべた。
「それで、僕と付き合うことは考えてくれた? あ、急かしているわけじゃないからゆっくり考えてくれていいんだけど……告白の返事を待っているっていうのはどうにも緊張して落ち着かなくて。判決を待つ被告人の気分だよ」
そう言って苦笑する彼を見て、陽菜は驚いた。
「すみません」
「いや、藤沢さんを責めているわけじゃないよ」
余裕があるように見えていたので、緊張しながら返事を待っているなど思いもしなかった。いつまでも彼の優しさに甘えて引き延ばすわけにはいかない。
「私の話、聞いてくれますか?」
意を決してそう言うと、信号もない路地の交差点の片隅で静かに足を止めた。傘を差していた彼も陽菜に合わせて足を止める。話して、と優しく染み入るような声で促されて、ゆっくりと呼吸をしてから言葉を継いだ。
「私は生まれつき心臓に欠陥があって、成人までは生きられないと言われていました。でも一年半前に心臓移植の手術を受けて私の命は繋がりました。今ではもう普通に日常生活が送れるようになっています。ただ幼いころからほとんど入院生活で、学校にもまともに通えていません。高校進学もあきらめたので中卒です。何も知らないし友達のひとりもいません。無表情で笑うことさえできません。それと胸に大きな手術跡が残っています。だから、私は朝比奈さんの特別になれるような人間じゃ……」
「そんなことを気にしていたの?」
どこか不機嫌さを感じさせる低く抑えた声に話を遮られた。顔を上げると、彼は真剣な面持ちでまっすぐ陽菜を見つめていた。思わず息を飲む。
「僕にとってはそんなの全然問題じゃないよ。藤沢さんは藤沢さんだ」
「でも、私には特別に思われるようなところは何もありません」
「真面目で一生懸命で実直なところも、落ち着いているところも、たまにはにかんでくれるところも、僕が見つめるだけで真っ赤になるところも、すべて愛おしくて特別だよ……藤沢さんが嫌じゃないならお願いだ、恋人になって。これからもずっと僕の隣にいて」
ひたむきに、一心不乱に、縋るように、前のめりで懇願してくる。きのうまでとはまるで別人のように感情的だ。あの大人の余裕はどこへいってしまったのだろう。しかし、だからこそ本気だということが伝わってきて、こそばゆいようなあたたかいような気持ちになる。
「無知でご面倒をおかけすると思いますが、よろしくお願いします」
覚悟は決まった。彼に向きなおり、その揺らいだ双眸を瞬ぎもせず見つめながら告げる。昨晩、足りない頭ではあるが自分なりに考えて決めたのだ。懸念をすべて話して、それでも迷わず陽菜を望んでくれるなら了承しようと。
彼はパァッと顔をかがやかせ、差していた紺色の傘を放り出して陽菜を抱きしめる。
「ありがとう! ずっと……ずっと大切にするから……」
その声はかすかに震えていた。真剣に思ってくれているのだと感じて胸が熱くなる。はらはらと舞い落ちる小雪が頬に触れて融けた。
「ねえ、ハルって呼んでいいかな? 陽菜だからハル」
思いもしなかったことを提案されて目をぱちくりさせる。生まれてこの方、愛称で呼ばれたことなど一度もない。藤沢さん、陽菜、陽菜ちゃんのいずれかだ。そもそも家族、医師、看護師以外から名前を呼ばれることは滅多になかった。総司と出会うまでは。
「ダメ?」
「いえ、朝比奈さんがそう呼びたいのであれば」
むしろそう呼んでもらえると嬉しいかもしれない。それが彼だけの特別な呼び方になるのだ。
「僕のことは総司って呼んで」
「総司、さん……?」
おずおずとそう呼ぶと、陽菜を抱きしめる彼の腕にぎゅっと力がこめられた。小柄な陽菜の体は地面から浮きそうになり、爪先立ちで彼のジャケットにしがみつく。
「心臓、ちゃんと動いてる。元気のいい鼓動だね」
感慨深げにそう言われて、ふいに目の奥が熱くなりじわりと潤むのを感じた。この心臓のおかげで信じがたい出来事を体験している。あれほど生きることが不安で憂鬱で仕方なかったのに、彼を出会ってすこしずつ景色が色づいて見えるようになった。こんなにも感情を揺さぶられるようになった。
「心臓をくれた人に初めて感謝しています」
「ちゃんと生きててくれた……ハル……」
どうにか絞り出したようなその声も、陽菜を抱きしめている大きな体も、はっきりとわかるくらい震えていた。そして触れ合う頬に何かぬるいものが伝うのを感じた。
涙——?
陽菜のものではないので彼が泣いているとしか考えられない。そのうち必死に抑えたかすかな嗚咽も聞こえてきた。どうしてここまでと思いながらもドクンと鼓動が跳ねるのを感じた。しかし——その涙の本当の意味を、このときの陽菜はまだ知るよしもなかった。
第3話 彼の敷いたレール
総司と付き合うようになって一年。
陽菜のアルバイトが休みの日には必ずといっていいほど二人で会っていた。美術館や博物館などを見てまわったり、映画や芝居を観に行ったり、ショッピングセンターに出かけたり、あるいは彼のアパートで何をするでもなく過ごしたり。陽菜にとってはすべてが未知のもので世界が広がるように感じた。
総司は何も知らない陽菜を決して馬鹿にはしなかった。どんなことでも呆れることなく丁寧に教えてくれる。義務感から仕方なくという感じではない。彼自身も教えることを楽しんでいるように見えた。この人は絶対に陽菜を傷つけない。そう信じられたから安心して一緒にいられた。
そうこうするうちに、いつしか自然と笑えるようになっていた。あれほど表情が動かなかったのが嘘のようだ。今でも愛想笑いは苦手だが、それでもアルバイト先の洋菓子店では随分よくなったと褒められた。表情にも声にも生気が出てきて明るくなったと。すべて総司のおかげである。
「クリスマスの次の日、一泊できないかな?」
総司と食事に出かけた帰りの車中で、ふいにそう尋ねられた。
アルバイト先が洋菓子店なのでクリスマスイブとクリスマスは休めないが、翌日以降ならたぶん問題はない。でも一泊というのはどういうことだろう。こんなことを言われたのは初めてで戸惑っていると、彼は赤信号で車を止め、ハンドルを握ったまま助手席の陽菜に目を向けて微笑む。
「神戸にイルミネーションを見に行こうかなって。遠いから日帰りは難しいんだ」
陽菜は目を大きくした。昨年、雑誌で見て興味を持ったことを覚えてくれていたのだ。確かにいつか二人で見に行こうとは話していたものの、夢物語だと話半分に聞いていたのに。
「楽しみです」
「よかった」
ちょうど青信号になり、彼はニコッと微笑んで車をゆっくりと発進させた。
その横顔を密かに見つめながら、陽菜はワイパーの規則的な音と鼓動が同調していくのを感じた。
総司と付き合うようになり、あまり迷惑を掛けないようにと恋愛小説などで勉強したので、恋人どうしがどういうことをするのかはわかっているつもりである。けれど総司とのあいだにはいまだに何もない。抱きしめられて鼓動を確かめられることはよくあるが、キスも、その先も、しようとする気配すらない。
友人のいない陽菜には何が一般的なのかよくわからない。ただ恋愛小説ではたいていの場合もっと展開が速いので、焦っているわけではないが、幾何かの不安を感じずにはいられなかった。何も知らなさそうな陽菜に遠慮をしているのではないか、陽菜を怖がらせないために手を出さないのではないか、あるいは貧相な顔と体のせいでそんな気も起きないのではないか、と。だが一泊するということは——。
「あー……ハルの嫌がることはしないから安心して?」
じっと横目で総司を見つめたまま思案していると、彼はきまりが悪そうに言い添えた。嫌がることというのが何を指しているかはだいたいわかる。けれど。
「私、嫌がったりなんかしません」
めずらしく気色ばんで言い返した。運転席の彼がはじかれたようにこちらに振り向いたが、すぐに前を向いて運転を続ける。しかしその表情には戸惑いの色が浮かんでいた。陽菜は急に恥ずかしくなり顔が熱くなるのを感じた。
「いえ、あの、深い意味は……」
「ハル、わかって言ってる?」
「……はい」
思いのほか真剣な声で問われて嘘はつけなかった。彼がどう思っているのかはわからないが、陽菜は何も知らない純粋無垢な子供ではない。もっとも恋愛小説程度の曖昧な知識に過ぎないのだが。
「じゃあ、そのつもりでいるから」
再び赤信号で止まると、彼はそう言ってにっこりと満面の笑みを浮かべた。
陽菜は火を噴きそうそうなほど顔が熱くなり、内心でどうしようと狼狽えながらもこくりと頷いてしまう。鼓動が早鐘のように打ち始めたが、だからといって後悔する気持ちはすこしも湧いてこなかった。
クリスマスの翌日。
陽菜は総司とともに彼の運転する車で神戸へ向かった。高速道路に入るのはこれが初めてである。総司は制限速度を守って安全運転してくれたが、周囲の車が爆走していくのがすこし怖かった。顔をこわばらせていると、何度もパーキングエリアやサービスエリアに立ち寄ってくれた。
昼過ぎに神戸に着くと、まずは予約したホテルに向かおうという話になった。チェックインして駐車場に車を置いてくるという。しかし、宿泊予定のホテルを前にして陽菜は唖然としてしまう。
「すごい……」
「いや、建物が大きいだけだよ」
彼は平然とそう言うものの、田舎者の陽菜はこんなスケールの建物など見たことがなかった。大きさもさることながら個性的な形もすごい。大きな建物はみんな四角いものだと思い込んでいたが、このホテルはなだらかな曲面を描いている。絵葉書みたいな港の風景とも見事に調和していた。
彼は建物が大きいだけなどと言っていたが中もすごかった。ロビーやフロントも予約した部屋も立派すぎてうろたえる。ベッドなどいったいどちらが縦なのかわからない。五人くらい並んで寝られるのではないだろうか。本当に二人用なのだろうか。すごいを通り越してもはや意味がわからない。
「おいで、いい景色が見られるよ」
いつのまにか荷物を置いてバルコニーに出ていた総司に手招きされ、陽菜も鞄を下ろしてあとを追う。外に出ると冷たい潮風が吹き付けてきたが、火照った頬には心地良く感じられた。彼に手を取られながらあたりに目を向けると、角の部屋らしく広範囲に海や港町が見渡せた。ガイドブックに載っていた観覧車や赤いタワーも見える。
「夜になるとまたきれいだろうね」
「楽しみです」
そう言って二人で微笑み合い、しばらく風景を楽しんでから部屋に戻った。
イルミネーションが始まるまでは時間があるので、観光に出かけた。
まず、陽菜がガイドブックを見て興味を示した異人館をめぐることになった。タクシーで近辺まで乗り付けると有名な洋館を見て歩く。物語の中に出てくるような建物にそこから見える風景。非現実的な異国情緒を感じさせるそれらに陽菜は心が躍るのを感じた。
坂が多かったので総司は心配してくれたが、すこし疲れただけでなんてことはない。適度に休憩を挟んでくれたのもよかったのだろう。
異人館近辺の洋食店ですこし早めの夕食をとってから、イルミネーションを見に向かった。到着するとすでにライトアップは始まっていた。ちょうど日が沈んだころだが、すこし出遅れたようであたりは人であふれかえっている。総司に庇われながら歩いても小柄な陽菜は群れに埋もれてしまう。肝心のイルミネーションを見るのも一苦労だった。
それでも光の宮殿のようなイルミネーションは壮観だった。写真で見るのとその中に入るのとでは全然違う。人混みに揉まれてゆっくりと見ることはできなかったが、それでも行ってよかったと心から思えた。
「こっちのイルミネーションはゆっくり見られるよ」
ホテルに戻ると、部屋からはライトアップされたタワーや観覧車など港町の夜景が見えて、これはこれできれいだった。何より大勢の人に揉まれることなく二人きりで見られるのがありがたい。バルコニーにはティーテーブルも用意されていたが、真冬の夜にここでくつろぐのは厳しいだろう。
「ハル」
ふいに熱をはらんだ甘い声で呼ばれる。ドキリとして振り向くと、彼の大きな手で優しく頬を包み込まれた。夜風で冷えた肌があたためられていく。手すりを掴んだ陽菜の左手に力がこもった。
「好きだよ、ハル」
「私も好きです」
総司はどこか切なげに笑みを浮かべて、ゆっくりと身を屈めながら顔を近づけてきた。陽菜は息を詰めて震えるまぶたを閉じる。まもなくあたたかくてやわらかいものが唇にふわりと触れた。心臓が壊れそうなほど強く収縮し、体中がドクドクと脈打つように感じる。
やがて静かに唇が離れていった。そろりとまぶたを上げたとき、正面の彼はくすりと笑っていた。
「大丈夫かなぁ」
「だ、大丈夫です」
カアッと頬を赤らめながらむきになって言い返すと、笑顔のままの彼にいきなり横抱きにされた。足が地面を離れて体が宙に浮く感覚に、思わず身をすくめる。しかしながら彼は構うことなく夜景に背を向けて、空調のきいたあたたかい部屋へと戻っていった。
「あの、言っておきたいことがあって」
ベッドに横たえられて何度も口づけられたあと、陽菜はセーターに掛けられた手をあわてて押しとどめて言う。彼は不思議そうな顔をしながらも素直に耳を傾けてくれた。
「私の胸には手術跡が残っています。だから、気になるのなら上の服はそのままでも……」
付き合う前に手術跡が残っていることは告げてある。それでもいいと言ってくれた彼の気持ちを疑うわけではないが、実際に目にするとあまり気持ちのいいものではないだろう。陽菜自身ですら、いまだに傷を見るたびすこし気持ちが沈むくらいなのだから。
しかし、彼は愛おしげに目を細めて微笑んだ。
「僕は気にしないよ。そのおかげでハルが生きられたんだから、むしろ感謝しているくらい」
そう言い、抵抗をやめた陽菜の服をゆるゆると脱がせていく。やがて病的なまでに白い上半身をあらわにされると、寒くもないのにふるりと震えた。彼の視線はじっと中心の傷痕に注がれている。いたたまれずにふいと横を向いて目をつむった。
「触れても大丈夫?」
「え……はい……」
もう完全にくっついているので傷口が開く心配はない。もちろん痛みもない。だからといってわざわざ触れるつもりなのだろうかと戸惑っていると、彼はそこに唇を寄せて慈しむように這わせ始めた。ぞくぞくとした何かが体中を駆けめぐっていく。
「ハルの鼓動が聞こえる」
総司はささやかな胸に頬を寄せて喜びをにじませながら言った。羞恥やら感慨やら雑多な感情が綯い交ぜになり、陽菜はわけもわからず目が潤む。
「今にも心臓が爆発しそうです」
「丈夫な心臓だから心配ないよ」
総司は胸に顔を埋めたままくすりと笑ってそう言うと、上体を起こし、頭の両横に手をついて陽菜を真上から覗き込む。そのときには凛とした真剣な面持ちになっていた。
「ずっと、ずっと僕のものにしたかった」
「私も、そうなりたいと願っていました」
「ハル……」
彼はこころなしか目を潤ませて微笑んだ。再び傷痕に唇を寄せて強く吸い上げ、そして——。
翌朝。
目が覚めると、広いベッドの上で背後から総司に抱きしめられていた。ふたりとも裸のままだ。いつどうやって眠りについたのか記憶にないが、彼とのあいだに起きたことはだいたい覚えている。ところどころ記憶が途切れているのは意識を飛ばしたからだろう。
あらためて思い返すと恥ずかしさに身悶えしたくなる。現実は恋愛小説よりもずっと生々しい。体のあらゆるところに指や舌で与えられた快感、混じり合う唾液や汗、知らなかった独特の匂い、初めて目にする総司のすこし苦しげな表情、そして誰にも見せたことすらない場所に迎え入れた痛み——すべてが陽菜に刻み込まれている。
もちろん後悔なんてしていない。どうにかなってしまいそうなほど恥ずかしかったが、それ以上に幸せを感じることができた。彼と深いところでつながれたことがとても嬉しかった。取り繕うことも忘れて無我夢中で抱き合ったことで、いままで以上に彼との距離が近くなったのではないかと思う。
「ん……ハル、起きた?」
彼の腕がすこし窮屈で身じろぎしていると、背後から眠そうな声が聞こえてきた。
「おはようございます」
「おはよう」
陽菜にまわされた腕に力がこもった。彼の素肌が背中に密着する。
「やっとひとつになれたね、ハル」
耳元で囁かれてカッと全身が火を噴きそうなほど熱くなる。顔もさぞかし真っ赤になっていることだろう。ひとりで思い返しているだけでも恥ずかしかったのに、彼にこんなことを言われたらどうしていいかわからない。上掛けをひっかぶり顔を隠そうとした、そのとき。
「……え?」
自分の薬指に見知らぬ指輪がはまっていることに気が付いた。細いリングの中央には繊細にカットされた透明な宝石が輝き、その両脇にピンクと透明の小さな宝石が二粒ずつ寄り添う、シンプルながらも可愛らしいデザインである。きのうは見ていないので寝ているあいだに彼がはめたとしか考えられない。クリスマスプレゼントだろうかと目をぱちくりさせていると。
「ハル、一生大切にするから一緒に東京へ来て」
「え、あの……どういうことですか?」
話が掴めない。もぞもぞと彼の方に向きなおると、彼は目を細めて愛おしげに微笑んでいた。
「僕と結婚して」
「?!」
驚きのあまり目を見開きはじかれたように跳ね起きた。まさか、これ婚約指輪? あらわになった胸元をあわてて上掛けで隠しながら、口をパクパクさせて左手の指輪を掲げて見せる。彼は横になったまま魅惑的な笑みを浮かべると、ゆっくりと体を起こして陽菜と向かい合った。
「ハルは朝比奈グループって知ってる?」
「聞いたことは……えっ、総司さんて……」
絶句した陽菜に、彼は苦笑して肩をすくめる。
「僕は気楽な三男坊だから後は継がないよ。ただ、そろそろ帰ってこいって言われてるんだ。ふらふらしてないで仕事を手伝えってだけの話で、同居を望まれてるわけじゃないから、結婚したらふたりきりでどこかに住もう。病院もちゃんと東京で診てもらえるように手配する」
「え……あの……」
思考が追いつかずなかなか言葉が出てこないが、とても頷ける話ではない。
「無理、です」
「大丈夫だよ」
そう言われても、陽菜には根拠のないただの慰めにしか聞こえなかった。胸元でギュッと上掛けを握りしめる。ふいに左手の薬指にはめられた分不相応な指輪が目について、胸に刺すような痛みが走った。
「私、学歴は中卒だし、体も丈夫じゃないし、何もできないし、何も知らないし、家は貧乏だし、美人でもないし……立派な家にはふさわしくない人間です」
自分を卑下したくはないが客観的事実だ。深くうつむいて指輪を外そうとすると、その手を優しく押しとどめられた。
「家とは関わらなくていい。僕といてくれるだけでいいんだ」
「総司さんが良くても、ご両親がお許しにならないと思います」
「放蕩息子の僕には何も期待なんてしてないから平気だよ」
総司はあっけらかんと言うが、これだけ容姿端麗で頭脳明晰な人に何も期待しないなどありえるのだろうか。人当たりも良く、教えるのも上手く、段取りも完璧で、きっと仕事でも有能に違いないのに。怪訝に思っていると、顔を曇らせた彼にしがみつくように抱きしめられた。
「お願い、ハル……僕と一緒に幸せになろう? 僕を信じて?」
それでもやはり総司の家族が許してくれるとは思えない。関わらないですむとも思えない。家が釣り合わないというのももちろんあるが、それ以前に陽菜自身に問題が多すぎる。誇れるところは何ひとつなく欠点しかないのだ。挨拶に行ったら面と向かって詰られるかもしれない。ひとい言葉で非難されるかもしれない。ずたずたに精神を叩きのめされて総司からも捨てられるかもしれない。
——そうか、怖くて逃げているんだ。
自分の心理状態を自覚すると、急に視野が大きく広がったように感じた。
考えてみれば、まだ誰に反対されたわけでもないのに、勝手な思い込みだけであきらめるなんて愚かしい。心臓移植を受ける前のあのころは死ぬことさえ怖くなかったのに、総司に守られているうちにすっかり臆病になってしまった。もともとなかった命だと思えば何にでも立ち向かえるはずだ。陽菜にだって総司と幸せになりたい気持ちはあるのだから。
「わかりました。総司さんを信じてみます」
「ありがとう、ハル……!」
総司は満面の笑みで喜びをあらわにしながらそう言うと、勢いよく陽菜を抱きしめ直した。陽菜もそっと背中に手をまわす。二人の心音がトクトクと心地良く融け合い、知らず知らず表情がやわらいでいくのを感じて吐息を落とした。
第4話 もうひとりのハル
「陽菜さんとは、結婚を前提にお付き合いさせていただいています」
神戸旅行から帰ってきた翌々日、総司はスーツを身につけて藤沢家へ挨拶に来た。彼のスーツ姿を見たのは陽菜も初めてだ。いつものカジュアルな格好も似合っているが、スーツだと凛としていかにも仕事ができそうに見える。和室に案内すると、彼は向かいに座る陽菜の両親に目を向けて、臆することなく堂々と交際の事実を告げた。
しかし、両親に驚く様子は見られなかった。
母親によれば、総司のことは町内の主婦たちのあいだで謎のイケメンとしてよく話題にのぼっていたらしい。そして陽菜と付き合っているのではないかとも噂されていたという。寂れた田舎町なので若者がすくなく、それゆえ彼のような目立つ容姿の男性がいれば否応なく注目を集めてしまう。井戸端会議の餌食にされるのも無理からぬことだろう。
それでもさすがに総司の家のことまでは知らなかったようだ。もとより二人の交際や結婚に反対する気配はなかったが、朝比奈の話を聞いて目を丸くすると、急にひれ伏さんばかりの低姿勢で陽菜を差し出そうとする。やっと陽菜を厄介払いできると思ったのか、あるいは朝比奈に何か期待でもしているのか——どちらにしても浅ましくて嫌になる。
反対されなくて良かった、と総司は帰りの道すがら安堵したように言っていたが、陽菜が両親の態度を詫びると曖昧に苦笑していた。二人とも世間体を気にする程度の良識はあるはずなので、あからさまに何かを要求することはないだろうが、たとえそんなことがあっても全力で突っぱねようと心に決める。
年が明けて、今度は朝比奈家へと挨拶に向かった。
一日早く東京へ行ってホテルに泊まり、翌朝、総司の予約した美容室で準備をするという段取りだ。髪は毛先を整えてふんわりとブローし、メイクをしてもらう。これまで一度もメイクの経験がなかったので緊張した。ナチュラルメイクなのでそれほど変わらないという話だったが、鏡の中の自分はいつもよりだいぶくっきりとして見えた。
衣装やバッグなどはすべて総司が用意してくれた。気は引けるが、陽菜はろくな服を持っていないしセンスもないので、素直に彼の言うとおりにした方がいいのだろう。彼の両親に悪い印象を与えるわけにはいかないのだ。値段は聞いていないが、どれも陽菜の所有するものとは比較にならないくらい上質だということは、これまでにないなめらかな手触りや着心地などで何となくわかった。
朝比奈家は想像のはるかに上をいく立派な屋敷だった。見たところわりと新しそうだが、門構えや塀も含めて由緒正しい和風建築といった趣である。応接間から見える庭園には池まであり、大きな錦鯉が何匹か優雅に泳いでいるのが見えた。
総司があらかじめ心臓のことなどすべて話しておいたというので、どういう反応をされるか心配でたまらなかったが、意外にも彼の両親は難色を示すどころか手放しで歓迎してくれた。それも度が過ぎるくらいに。どうか息子をよろしくお願いします、と目元をハンカチで抑えながら頭を下げられ、安堵を通り越して困惑してしまったくらいだ。
帰りのタクシーでそのことを総司に告げると、だから放蕩息子だって言っただろう? といたずらっぽく肩をすくめて返された。大学を卒業しても定職に就こうとせず、地方に引っ越して好き勝手やっていたので、そんな駄目息子と結婚してくれる女性がいてほっとしたのだろうと。そういうものなのかな、と陽菜はかすかな違和感を覚えながらも曖昧に納得した。
二人で話し合い、三月に結婚して東京へ引っ越すことに決めた。
四月から総司が朝比奈の関連会社に入社することになったので、それに間に合わせるためである。急なことだが、住居の準備や手続きなどはほとんど総司がしてくれるという。結婚式は生活が落ち着いてから考えようということになった。
陽菜は一年半ほどアルバイトとして勤めた洋菓子店を辞めた。病気療養中だった奥さんがもう普通に働けるようになっているので、陽菜が辞めても支障はない。結婚して東京に転居する旨を伝えると、二人ともまるで我がことのように喜んでくれた。アルバイト最後の日には陽菜のために特別にケーキまで作ってくれた。
東京では働いても働かなくてもどちらでもいいと総司は言ってくれた。何か目指したいものがあるならそれを目指せばいい。勉強したいのであれば高校に通ってもいいし、高卒認定試験を受けてもいい。もちろん専業主婦でも一向に構わないと。陽菜自身まだどうしたいのかわかっていないので、これから考えていくつもりだ。
そうして怒濤の一月が過ぎ、いっそう寒さが厳しくなったころ。
家で引っ越しの準備をしていると見知らぬ女性が陽菜を訪ねてきた。同年齢かすこし上くらいだろうか。女性にしては背が高めで、手足も長くすらりとしており、スリムなジーンズがよく似合っていた。髪はショートカットだが目がぱっちりと大きく、ボーイッシュな中に女性らしさも感じられる。端的にいえば美人だ。
おそらく地元の人間ではないだろう。そんな人がどうして陽菜を訪ねてくるのか心当たりはない。考えられるとすれば——脳裏に浮かんだ嫌な推測に鼓動が速くなるのを感じ、玄関先で会釈をしながら怪訝なまなざしを送る。彼女は臆することなく陽菜を見つめ返して一礼した。
「突然お伺いして申し訳ありません。私は朝比奈総司の知り合いで、清水咲子(しみずさきこ)というものです」
「…………」
嫌な推測は当たっていた。だが総司とどういう関係なのかはまだわからない。二股をかけるような人ではないと信じている。ただ、元婚約者や元恋人ということは十分に考えられる。彼は別れたつもりでも、彼女の方はそう思っていなかったという可能性もある。
「すこしお話をさせていただけますか?」
「はい……どうぞ、お上がりください」
陽菜は来客用のスリッパを出して彼女を招き入れた。
今は両親ともに不在だ。彼女が危害を加えてくるような人には見えないが、万が一ということもある。彼女を和室に通したあと、台所で湯を沸かして来客用のお茶を淹れる準備をしつつ、そっと自室に戻って携帯電話をポケットに忍ばせた。
お茶を出してどうぞと勧めると、彼女は姿勢を正したまま一口飲んで吐息を落とした。
「知り合いでもないのにいきなり家に押しかけるだなんて非常識よね。ずいぶん怖がらせてしまったみたいでごめんなさい。どうやって話を聞いてもらおうか考えたけど、あまり時間もなかったしほかに方法が思いつかなかったの。でも、私はあなたの味方のつもりだから安心して」
口調と表情がすこし砕けた。
しかしながらそのことがよけいに不安を煽る。自分から味方だと近づいてくる人は信用するな、と何かの映画でも言っていた。不安を抱えたまま不自然に口を閉ざしていると、彼女は軽く肩をすくめて言葉を継ぐ。
「心配しなくても総司と恋愛関係なんて一切ないわ。ただの幼なじみよ」
「幼なじみ……」
「家が近所でね。幼稚園から高校までずっと一緒だったの」
本当に陽菜の想像するような関係ではなかったのだろうか。ただの幼なじみという話を信じていいのかわからない。ただ、どういうわけか伏せられた彼女の瞳にはわずかな陰りが見えた。それがこれからの話を暗示しているようで無意識に緊張が高まる。
「それで、幼なじみの方がどういったご用件でしょうか?」
「あなた、二年半前の八月十四日に心臓移植をしたのよね? 」
「そうですけど……」
総司の幼なじみなら知っていても不思議ではない。総司本人から聞いたのかもしれないし、あるいは実家の方から聞いたのかもしれない。けれど、日付まで持ち出してくるのは何か不自然な気がした。訝しみながら答えを求めるようにじっと見つめると、彼女は表情を硬くして口を開く。
「その心臓、私たちのもうひとりの幼なじみのものだと思うわ」
「えっ?」
「総司はその心臓を追ってあなたに近づいたのよ、多分ね」
何を言っているのかにわかには理解できなかった。心臓って移植されたこの心臓? 総司さんの幼なじみ? 追うってどういうこと? さまざまな疑問が矢継ぎ早に頭を駆けめぐるが、なぜだかまともに思考が働かない。不穏な胸騒ぎだけが勝手に大きくなっていく。
「総司はその幼なじみに異常なくらい執着していたの。私たちはハルって呼んでた。逢坂遙人(おうさかはると)だからハル。あなた、総司からハルって呼ばれてるんでしょう?」
まさか——すうっと血の気が引いていくのを感じた。
「総司はね、ハルに彼女ができるたびに誘惑して奪ってすぐに捨ててた。ハルに彼女がいるのが許せなかったみたい。そういう総司の気持ちにハルは気付いてなかったけど、ずっと二人を見ていた私にはわかったわ。大学生になってからはふたりと疎遠になっていたから、何があったかは知らないけど……ハルは総司と喧嘩別れしたその帰りに、交通事故で亡くなったって」
陽菜はただ呆然と聞いていた。心臓は何かを訴えかけるようにドクドクと激しく脈打っている。全身から嫌な汗がじわじわとにじみ出てくるが、指先や足先は次第に冷たくなっていく。息をしているはずなのに息苦しくてたまらない。
「私、ハルのことが好きだったんだ」
彼女は沈黙の中にぽつりと言葉を落とした。片思いだけどね、と曖昧に微苦笑を浮かべて付言すると、すぐに真面目な面持ちになって話を続ける。
「だからハルの心臓をもらって元気になったあなたには、幸せになってほしいの。そのためにも事実だけは伝えておきたかった。総司があなたをどう思っているかはわからないけど、結婚してから後悔することのないように」
「……ありがとうございます、清水さん」
頭の中が気持ち悪いくらいぐるぐるとまわり、いまにも倒れそうになりながら、それでもなんとか背筋を伸ばしたまま応対する。どういうわけか、自分が発したはずの声がやけに遠くに聞こえた気がした。
その日の夜、駅前の喫茶店に総司を呼び出した。陽菜から呼び出すということはこれまで一度もなく、彼は不思議そうにしていたが、それでもすぐにいつもの笑みを浮かべて来てくれた。先に来ていた陽菜の前に座ると、メニューと水を持ってきた店員にホットコーヒーを注文する。
「どうしたの? 何かあった?」
顔をこわばらせる陽菜を覗き込みながら心配そうに尋ねてくる。いつもどおりの優しい総司だ。けれど——陽菜は意を決して彼を真正面から見つめ返すと、キュッと引きむすんでいた小さなくちびるを開き、静かに告げる。
「婚約はなかったことにしてください」
「えっ……?!」
「何もかも白紙に戻したいの」
総司は唖然としたが、陽菜の薬指に婚約指輪がはめられていないことに気付くと、すぐに険しいくらい真剣な面持ちになり思考をめぐらせ始める。それでも心当たりはなかったようだ。困惑したように曖昧に顔を曇らせて小首を傾げる。
「僕、何か怒らせるようなことした?」
「清水咲子さんに会いました」
その名前を耳にした瞬間、彼はハッと目を見開いて息を飲んだ。陽菜はすかさず畳みかける。
「あなたが求めていたのは私じゃない」
「ちょ……」
「逢坂遙人さんなんですね」
「ちょっと待って、ハル」
「ハルって呼ばないで!!!」
これほど大きな声を出したのは生まれて初めてかもしれない。はぁはぁと肩で息をしながら顔を上げて強気に彼を見据える。しかし、その瞳に熱い涙がにじんで視界がぐにゃりと歪んだ。
「咲子が何を言ったか知らないけど、あいつは僕を恨んでるから」
「私だって無条件で見ず知らずの人の言うことを信じたりはしません。でも心当たりがありすぎました。総司さんは逢坂遙人さんの心臓を追って私にたどりついた。逢坂遙人さんの身代わりとして私を手に入れようとした。私をハルと呼ぶのも彼と重ねるため。私の鼓動に固執していたのも彼を感じるため……違うのなら否定してください」
「…………」
彼はきまり悪そうに視線をそらした。
嘘でもいいから否定してくれればよかったのに。騙してくれればよかったのに。逢坂遙人とは関係なく藤沢陽菜が好きなんだ、そう言ってくれれば愚かな私は信じたかもしれないのに。涙がこぼれ、頬を伝い落ちるのを感じながら自嘲の笑みを漏らす。
「彼の心臓を移植していなかったら、私のことなんて眼中にもなかったでしょうね」
「ハルの心臓で生きているのが今のハルだろう? そのハルを好きになったんじゃいけないのか?」
まるで開き直ったかのような言い草。やはり彼が求めていたのは逢坂遙人だったんだ。私じゃないんだ——ずっと大切にされて愛されていると思っていたのに。くやしくて、悲しくて、情けなくて、みっともなくて、腹立たしくて、頭が変になりそうだ。
「苦労して探し出して何年もかけてようやく手に入れたんだ。もう二度と手放すつもりはない。ずっと僕のそばにいてくれるって約束したよね? ハルの心臓だって僕とひとつになれて喜んでたじゃないか。一生大切にするから僕だけのものになってよ、ハル」
「やめて!」
勝手なことを言いながら前のめりに覗き込んでくる彼に恐怖を感じ、身をすくめて叫び声を上げた。体は小刻みに震えている。それでも濡れたままの瞳で気丈に彼を見据え、冷たくなった両手を自分の胸元に置いて言う。
「私を自由にしてくれないのなら、この心臓を刺して死にます」
「ハ、ル……」
彼は伸ばしかけた手を止めて愕然とした表情で固まった。その顔からみるみる血の気が引いていくのがわかる。そんなにもこの心臓が大切なのかと、感情的になっていた陽菜の頭は急速に冷えていった。
「私をすこしでも好きでいてくれたのなら、もうこれ以上苦しめないで」
鼻をすすり静かにそう告げると、婚約指輪の箱と紅茶の代金をテーブルに置き、他に客のいない閑散とした喫茶店をあとにした。コートを脇に抱えたまま北風の吹き荒れる闇夜を走りだす。身を切るような猛烈な寒さに凍りつきそうになりながら、それでも心臓は存在を主張するかのように熱く脈動していた。
第5話 総司とハル
「いっしょにあそぼ!」
幼稚園に入園してまもないころ、庭で遊んでいるみんなを窓際でぼんやり眺めていた総司に、ひとりの男の子がはじけるような笑顔で声をかけてきた。無視しても構わず手を引いて外に連れ出す。その勝手な行動にすこしムッとしたが、太陽のように明るい彼といるうちに、いつのまにか自分も笑顔になっていた。
それが遙人との出会いだった。
二人はすぐに仲良くなった。互いに、ソウくん、ハルくん、と呼び合い、家も近所だったので幼稚園以外でもよく一緒に遊んだ。ただ、二人きりというわけではなかった。いつも咲子がくっついてくるのだ。彼女も同じ幼稚園に通っているのだが、もともと遙人とはお隣さんで入園前から仲良くしていたのだという。
総司は咲子のことを邪魔だと思っていたが、咲子も総司のことを邪魔だと思っていたのだろう。ときどき彼女から敵意のこもったまなざしを向けられた。それでも遙人の前では二人とも仲のいいように振る舞っていた。示し合わせたわけではないが、遙人を困らせたくないという思いは双方一致していたようだ。
小学生になると次第に咲子がついてくることは少なくなった。新しくできた女子の友人やグループと遊ぶようになったのだ。それでも遙人とはお隣さんとしてときどき話をしているようだった。咲子が邪魔してこなくなったのは嬉しいが、知らないところで遙人と仲良くしているのは歯痒かった。
中学に入ると、遙人は部活でサッカーを始めてすぐに頭角を現した。強豪校でないとはいえ、一年生でレギュラーの座を射止めるなど並大抵のことではない。二年生になるとエースストライカーと呼ばれるまでになっていた。必然的に彼と過ごす時間は減ってしまったものの、総司は友人として誇らしかった。
そういう卓越した面に加え、明るく優しく面倒見がいいということもあり、遙人は男子からも女子からも人気があった。特に二年生になってからはよく女子に告白されていた。そして総司も、整った中性的な顔立ちのうえ常に学年トップの成績ということで、負けず劣らず多くの告白を受けていた。朝比奈の御曹司ということも少なからず影響していたのだろう。
しかし、二人とも付き合ってほしいという話はすべて断っていた。どんなに可愛くても美人でも彼女なんていらない。遙人がいてくれればそれだけでよかった。遙人もきっと同じ気持ちに違いないと信じていた。だが、それは総司の一方的な思い込みにすぎなかったのだ。
「総司はさ、好きな子いる?」
中二の冬休みを間近にひかえたある日のこと。期末試験がすべて終わったあと、学校帰りに遙人の家に呼ばれて一緒にケーキを食べていると、若干ためらいがちな口調でそう尋ねられた。ふいに嫌な予感が胸をよぎったものの表情は変えず、ショートケーキにフォークを突き刺しつつ尋ね返す。
「別にいないけど……そういうおまえはどうなんだよ」
「俺は、笹倉さんが好きなんだ」
そう言いながら、彼は照れくさそうにはにかんだ。
笹倉栞は総司や遙人と同じクラスの女子である。体つきは小柄で華奢だがいつも元気よく溌剌としている印象だ。北欧系のクォーターということで色素が薄いのか、肌は抜けるように白く、髪は鮮やかな栗色で、ぱっちりとした瞳も茶色がかっている。パーツの整った小顔で、客観的に判断して可愛い方の部類であることは間違いない。
遙人は彼女とともに学級委員をしているので接点が多いのだろう。何かと二人で仕事をしているところを見かけていた。イケメンと美少女でお似合いだとか、付き合ってるんじゃないかとか、まわりからそんな声が上がっていたのは知っている。
それでも遙人の方に特別な気持ちはないと信じていた。よく二人で楽しそうに笑い合っていたが、学級委員の仲間として話していただけだろうと。あくまでクラスメイトのひとりにすぎないのだと。遙人には総司がいるので他には誰も必要ないと思っていた。なのに——。
「今度、告白してみようかと思うんだけど……」
「そうか……頑張れよ、おまえならきっと上手くいくさ」
「ありがとう、総司にそう言ってもらえて勇気が出たよ」
心にもないことを言って後押しすると、彼は照れたように頬を赤らめながらも声をはずませた。こんな顔をさせているのが自分でないことに無性に腹が立つ。さっさとふられてしまえばいいと願ったが——数日後、付き合うことになったと彼から報告を受けた。
「笹倉さん」
二人が付き合うようになって一か月が過ぎたころ、ひとりで帰っている彼女を見かけて背後から声をかけた。彼女はバレーボール部に所属しており、部活の終わる時間がサッカー部と近いため、普段はだいたい遙人と一緒に帰っている。けれど、今日は時間からして部活にも出ていないようだ。
彼女は大きな目をぱちくりさせて振り返ったが、総司の姿を認めるとニコッと微笑む。
「朝比奈君、どうしたの?」
「今日はハルと一緒じゃないんだね。部活はお休み?」
「うん、ワックス掛けがあるから体育館が使えなくて」
「ああ、それで先に帰れってハルに言われたんだ」
「二時間も待たせるのは悪いからって……優しいよね」
エヘッと肩をすくめるが、遙人でなくても普通は二時間も待たせたりしないだろう。もちろん遙人が優しいということ自体は否定しないが。
「じゃあ、今日はハルの代わりに僕が駅まで送るよ」
「え……えっと……それは、逢坂君の友人として?」
「さあ、どうかな」
思わせぶりに返事を濁すと、彼女は目をそらして困惑した表情を浮かべながらも、白い頬をほんのりと桃色に上気させていた。これは、もしかして——彼女とたわいもない話をして歩きながら、総司は脳内で密かに計画を練り始める。
「じゃあね、ありがとう朝比奈君」
駅に着くと、彼女は物言いたげな顔をしたまま明るく声を張り、くるりと背を向けて駅に向かおうとした。が、総司はそのほっそりとした手を掴んで引き止める。ハッと振り返った彼女の顔には、当惑とともにかすかな期待の色が浮かんでいた。
「あの……」
しかし掴んだ手は放さない。熱を伝えるようにギュッと握り、真剣なまなざしを彼女に送る。
「僕、一年のときから笹倉さんが好きだったんだ」
「えっ……?」
「まさかハルに先を越されるなんて思わなかった」
微笑の中にやるせなさをにじませてそう言うと、彼女はこぼれんばかりに目を見開いた。驚きすぎて言葉を失っているようだ。北風が吹き、やわらかそうな栗色のボブカットが大きく揺れる。
「ごめん、いきなりこんなこと言われても困るよね」
我にかえったようにパッと手を放す。
「いまさらどうこうってわけじゃなくて、ただ気持ちを伝えたかっただけなんだ。そうしないといつまでも引きずりそうだったから。まあ、僕が先に告白しても望みなんてなかっただろうけど」
「そんなことない!」
はにかみながら自嘲してみせると彼女は前のめりで食いついてきたが、次の瞬間には苦しげな面持ちで目を泳がせていた。続きを口に出すべきかどうか悩んでいるのだろう。やがて覚悟を決めたのか胸元でギュッと両手を重ねて握り、大きな茶色の瞳を潤ませて言葉を絞り出す。
「私も……本当はずっと前から朝比奈君のことが好きだった。でも朝比奈君は私に興味なんてなさそうだったし、逢坂君は一緒にいて楽しかったから……」
「告白を受け入れた?」
言葉を引き取ると、彼女は目に溜めた涙をこぼしてこくりと頷いた。もう落ちたも同然だが気を抜いてはいけない。
「だったら、ハルと別れて僕と付き合うべきだよね」
「そんなこと……逢坂君に悪いし……」
「気持ちを偽って付き合い続ける方がよっぽど失礼だよ」
「それは、そうかもしれないけど……」
「僕は、笹倉さんのためなら友情だって捨てられる」
「朝比奈君……」
彼女は止めどなく涙を流しながら頷いた。
総司はそっと肩を抱き、優しくなだめるように栗色の頭にぽんと手を置く。何回かつつけば落ちるだろうという希望的観測は持っていたが、さすがにほんの数分でここまでいくとは思わなかった。こんな不誠実で安直でずるい女が好きだなんてハルは見る目がない——あきれたような腹立たしいような気持ちで、そっと溜息を落とした。
翌朝、遙人を迎えに行くとこわばった顔で出てきた。
おそらく笹倉から別れようという電話があったのだろう。疑心暗鬼なまなざしを総司に向けている。しかし、こんなことで二人の友情が壊れたりはしない。
「笹倉さんから聞いた?」
総司から水を向けると、遙人は驚いたようにビクリとして目をそらした。暫しの沈黙のあと、ごくりと唾を飲み込んでから緊張ぎみに口を開く。
「本当なのか? おまえと付き合うとか言ってたけど」
「ハルを裏切るみたいになってごめん」
笹倉はすべて正直に話したいと言っていたので、経緯も聞いているのだろう。総司の方から好きだと告げたことも、総司の方から付き合おうと言い出したことも。
「正直ショックだった……でも、もともと両思いなら仕方ないよな」
それは自分自身に言い聞かせるような物言いだった。
総司はきまり悪そうに視線を落とす。
「好きな子がいるかって訊かれたとき、いないって嘘をついたのがいけなかったんだよな。いままでおまえとそういう話したことなかったから、何か恥ずかしくてさ。そしたらおまえも笹倉さんが好きだなんて言うだろう? もう本当のことを言い出せなくなって」
「気持ちはわかるよ。総司に悪気がなかったことも」
遙人はそう応じると総司の肩に手をまわして白い歯を見せた。その笑顔にはまだ幾分かのぎこちなさは残っているが、それでもいままでどおりでいようという意思が感じられる。
「もう俺にだけは嘘つくんじゃないぞ」
「約束する」
総司も笑みを浮かべた。
二人の友情が壊れないという確信は正しかった。けれど、そうするより他に仕方がなかったとはいえ、遙人を傷つけなければならなかったのはつらい。それもこれもみんな笹倉栞のせいだ。胃がむかつくのを感じてひそかにこぶしを握りしめながら、復讐を頭に思い描いた。
二人が付き合うことは秘密にする。
提案したのは総司だが笹倉も積極的に賛成してくれた。というより、むしろ彼女の方からお願いしたいくらいだろう。たった一か月で彼氏と別れてその親友と付き合うなど、乗り換えたと非難されるのは目に見えている。総司も遙人も女子からの人気が高いのでなおさらだ。下手をすれば陰湿なイジメを受けるかもしれない。
それゆえ二人一緒に下校するわけにはいかず、また彼女には部活もあるので、平日に彼氏彼女として過ごすことは難しい。彼女は不満そうにしていたが仕方のないことだ。お詫びというわけではないが、休日ごとに家に呼んで甘い言葉で可愛がると、面白いくらいにのぼせ上がってくれた。
彼女には好意を感じておらず逆に軽蔑しているくらいだが、遙人が触れた女だと思うといくらでも口づけられた。彼女は愛されていると勘違いしてうっとりと体を委ねてくる。こんなくだらない女を好きになるなんてハルは本当に見る目がない、とあらためて思う。
付き合い始めて一か月が過ぎた日曜日、いつものように部屋に招き、甘い雰囲気になった流れで彼女を抱いた。彼女は処女だった。遙人の抱いた女だと思って楽しみにしていたのでがっかりしたが、遙人がまだ手を出していなくてよかったとも思う。こんな女に特別な感情を残すことにならずにすんだのだから。
「朝比奈君、私……すごく幸せ」
「悪いけど別れてくれないかな」
「……えっ?」
総司はジーンズのジッパーを上げてベッドから立ち上がり、冷ややかに見下ろす。彼女は裸の胸元を上掛けで隠しながら上半身を起こして、不思議そうにぱちくりと瞬きをした。何を言われたのか理解していない様子だ。
「付き合うのは今日限りにしよう」
「え……嘘だよね? 何の冗談?」
「君に興味がなくなったんだよ」
ベッド脇に散らばっていた彼女の衣服をかき集め、彼女の前に投げ置く。その顔からみるみる血の気が引いた。
「どうして? 私、何かいけなかった?」
「興味がなくなっただけだよ」
「そんな……そんなの納得できない!」
「嫌いなのに付き合い続けろって?」
オブラートに包むのをやめてはっきりと気持ちを告げると、彼女の華奢な肩がビクリと震えた。下唇を噛みしめ、上掛けを握りしめ、その顔にじわじわと怒りと悲しみを広げていく。
「エッチしたかっただけ? 体目当て?」
「まさか。君の体に興味なんかないよ」
「嘘!」
「そんなに自分の体に自信があるんだ?」
嘲笑まじりにそう言うと、彼女はわなわなと口もとを震わせながら目を潤ませた。そしてこぼれた涙を隠すように両手で顔を覆って嗚咽する。丸まった小さな背中が震えているが同情心は湧かない。むしろ溜飲を下げた。ようやく遙人をもてあそんだ女に仕返しができたのだから。
「気がすんだら帰って」
冷たくそう言い、キャスター付きの椅子に身を投げ出すように腰を下ろした。泣き続けている彼女に横目を流して釘を刺す。
「ハルに乗り換えようなんて恥知らずなこと考えるなよ」
いくら遙人でも、一度自分を裏切った女を受け入れるほどお人好しではないだろうが、万が一にもそうならないようにできる限りの手は打っておくつもりだ。計画に抜かりはない。彼女のすすり泣く声を聞きながらゆったりと腕を組んで口もとを上げた。
それからの中学生活は平穏だった。
総司も遙人も相変わらず告白されることは多かったが、誰とも付き合わなかった。遙人は部活のサッカーに打ち込み、それ以外の時間は総司と勉強したり遊んだりして過ごす。咲子が邪魔をしてくることはたまにあったが許容の範囲内だ。そんなささやかながらも充実した幸せな日々が続いた。
しかし高校に入ると、遙人はクラスメイトの女子に告白されて付き合い始めた。遙人の方も初めて見たときから密かに好意を抱いていたらしい。今度の彼女も小柄で色白で目のぱっちりとした元気のいい子だった。おそらく彼の好みなのだろう。どうせまたくだらない女に違いないと横目で観察しながら思う。
実際、くだらない女だった。遙人のいない隙を狙っては彼女に近づき、優しく紳士的に接して、甘い笑顔を見せて、思わせぶりな態度をとるだけであっさり落ちた。遙人をふって総司に乗り換えたのである。総司がそうするように言ったわけではなく彼女の自発的な行動だった。
ハルと付き合っている彼女を見ているうちにだんだん気になってきた、そうしているうちにハルと別れたから付き合ってほしいと彼女に告白された、迷ったけど頷いてしまった——総司はいかにも申し訳なさそうに打ち明ける。遙人はやはりショックを受けたようで表情をこわばらせたが、総司を責めはしなかった。
その彼女とは一か月ほど付き合ってから別れた。その一か月のあいだは会うたびごとに抱いていた。彼女が気に入っていたわけでも肉欲に溺れていたわけでもない。ただ遙人の抱いた女だと思うだけで異常なくらい興奮した。間接的にでも遙人と繋がっているような気持ちになれた。
もちろん遙人との友情が壊れることはなかった。総司が彼女と別れたことを報告すると、二人とも女を見る目がないな、当分は彼女なんていらないな、と言葉少なに語り合って苦笑した。そうして中学のときと同じように、遙人は部活のサッカーに打ち込み、それ以外の時間は総司が独占した。
高校を卒業すると二人は同じ大学の同じ学部に進んだ。当初、遙人は学力に見合った別の大学にするつもりだったが、総司が同じ大学に進もうと説得し、ほとんど付きっきりで家庭教師をして合格に至ったのである。おかげで彼の両親にはとても感謝された。ちなみに咲子は別の大学だ。総司にとってはすべてが順風満帆といえる状況だった。
遙人が二十歳になった日、彼は未記入の臓器移植意思表示カードを二つ持ってきて、よかったら一緒に持たないかと総司を誘った。もし自分が死んでも誰かの役に立てるのなら立ちたいという。総司にはそんな立派な志などなかったが、彼と同じカードを持てることが嬉しくて迷わず賛成した。
このままずっと二人でいられると思っていたのに、大学四年生になると遙人にまたしても彼女ができた。今度も小柄で色白で目がくりっとした子だ。ただ、いままでとは違っておとなしく控えめな雰囲気である。
また奪って捨ててやろう——そう考えてこっそりと近づくが、彼女は困惑するばかりで一向になびく気配がなかった。それどころか度重なるアプローチに怯えるようになった。いままで遙人の付き合った女と違って、紳士的な態度も、優しく甘い言葉も、人好きのする笑顔も通用しない。
「綾音から聞いたけど、俺のいないところで綾音に近づいてるって本当か?」
作戦を練り直さなければと思い始めていたころ、総司の家を訪れた遙人が、顔をこわばらせて単刀直入に問いただしてきた。その瞳は憂いと怒りがせめぎあうように不安定に揺らいでいる。クッションやベッドに座るよう勧めても立ちつくしたままだったが、その理由をようやく理解した。
「たまたま見かけて声をかけただけだよ、何度かね」
「おまえはそうやっていつも……」
かすかに吐息を落としてベッドに腰掛けた総司に、遙人は激情を押し込めた声で何かを言いかけたが、途中で言葉を飲み込んだ。そして意識的に小さく呼吸をしてから仕切り直す。
「いまさら昔のことは追及しない。でも今回は完全に俺から奪うつもりでいただろう? 優越感にひたりたいのか何なのか知らないけど、おまえの負けだ。綾音はすっかりおまえのことを怖がっている。もう望みがないことくらいわかれよ」
「彼女を信じてるんだな」
「……当たり前だ」
彼の額には汗がにじんでいたが、それでも気丈にまっすぐ総司を見据えて答えた。そのまなざしにゾクゾクする。こんな目をさせているのが自分だと思うとたまらない。
「だったら僕が近づいたって問題ないだろう」
「綾音が迷惑してるって言ってるんだよ」
「別に無理やりどうこうするつもりはないけど」
飄々と言い返すと、彼はくやしげに顔をゆがめてうつむいた。
総司のしていることは付きまといとも言えないくらいのものだ。ただ大学でときどき声をかけてすこし話をするだけ。無理に何かを強要したこともなければ、威圧的な態度を取ったこともない。それでも、過去に二度も彼女を奪われている遙人には脅威なのだろう。
「なんで、こんなこと……俺に恨みでもあるのか?」
「逆だよ」
怪訝に眉を寄せた遙人に、総司はうっすら笑みを浮かべて付言する。
「ハルがくだらない女に捕まるのを見ていられない」
「……くだらない女って、綾音のことか?」
「別れるなら早い方が傷が浅くてすむだろうしね」
「ふざけるな! 幼なじみだからってやりすぎだ!!」
遙人はカッとして詰め寄り、ベッドに腰掛けている総司を立ったまま睨み下ろした。胸ぐらを掴もうとして躊躇したのか右手が中途半端にさまよっている。やがてあきらめたように溜息をついて戻しかけたとき——。
「うわっ!」
総司は素早くその手首を掴んで思いきりベッドに引き倒した。そして起き上がろうとする体を仰向けに押さえつけて跨がり、突然のことに混乱しているその顔を真上から見下ろす。半開きの口がわずかに動いたが声は出ない。それが妙に艶めかしくてぞくぞくした。本能に突き動かされるがままにその唇を奪う。
瞬間、奥底から強烈な興奮が湧き上がった。
長いあいだ渇望しながら触れることの敵わなかったそれは、思っていたよりもずっとやわらかくあたたかい。押しつけたまま感触を堪能しているうちに頭の芯が痺れてくる。やがてそっと唇を離すと、息を詰めてこわばっていた彼の体から力が抜けるのがわかった。ただ、自身に起こったことを理解しきれずに呆然としている。
「好きなんだよ、ハル」
息の触れ合う距離で見つめたまま、囁くように告げた。遙人は困惑をあらわにする。
「……冗談だろう?」
「本気だってわからせてやるよ」
静かな声で挑むようにそう言うと再びキスをした。今度は唇を触れ合わせるだけでなく、舌を入れて絡ませ口内を蹂躙していく。遙人はどうにか拒否しようとするが逃さない。両方の手首を押さえつけて自由を奪ったまま、今度は首元や胸元に吸い付き鬱血の跡を残す。
「やめっ……おい、やめろ……やめろって!!」
半袖シャツの開いた胸元に舌を這わせていると、拘束を振り切ったこぶしが頬に叩き込まれて痛みが走り、頭が大きく揺れた。口の中を切ったらしく生ぬるい血の味が広がる。
「悪い……けど、頭を冷やせ」
遙人は逃げるようにベッドから飛び降りて総司と距離をとり、肩で息をしながらそう言った。口のまわりについたどちらのものともわからない唾液を手で拭い、狼狽の消えない瞳で睨むと、乱れた服を整えもせず勢いよく扉を開けて走り去っていく。
慌ただしく階段を駆け下りていく足音を聞きながら、総司はうつむいて唇を噛む。殴られた頬は熱を帯びてジンジンと疼いていた。
第6話 見出した希望
「重体?!」
遙人が部屋を出て行ってからどれくらい経っただろう。総司がベッドの上でひとりじっとうなだれていると、母親が駆け込んできて衝撃の事実を告げた。遙人が交通事故に遭い、意識不明の重体になっていると——。うろたえる彼女を置き去りにし、総司はタクシーを呼んで遙人が搬送された病院に向かった。
案内された病室では人工呼吸器をつけた遙人が横たわっていた。顔にはかすり傷くらいしかなく、交通事故に遭ったとは思えないほどきれいなままである。重体にはとても見えない。むしろいますぐにでも目を覚ましそうな雰囲気だ。
「助かりますよね……?」
誰にともなくそう尋ねると、遙人の母親がうわっと顔を覆って泣き出した。遙人の父親がなだめるようにその背中に手を置き、涙のにじんだ目を総司に向ける。
「脳死……だそうだ」
「えっ?」
「もう助からないんだ」
「……嘘、ですよね?」
「心臓もいずれ止まる」
何かを必死に堪えるような声。いまにも泣き出しそうな顔。口元は微かにひくついている。いつもにこやかに微笑んでいる彼のこんな表情を見たのは初めてだ。それゆえ胸に迫る。彼の言葉が嘘ではないのだと信じざるを得なかった。
「僕の、せいだ……」
震える唇から、震える声がこぼれた。
時間から考えても、事故に遭ったのはおそらく総司の家から帰る途中である。親友だと思っていた総司に告白されて動揺したのだろう。そのせいで注意散漫になり交通事故に遭ったのではないか。すべて自分のせいだ。涙が頬を伝うのを感じながらその場にくずおれる。
「総司、あんたハルに何したのよ!!」
「落ち着いて、咲子ちゃん」
いつのまにか来ていた咲子が、思いきり総司の胸ぐらを掴み上げて食いかかってきた。涙をたたえた目にはありったけの怒りがこめられている。それを取りなしたのは遙人の父親だった。興奮する咲子をどうにかなだめて手を放させると、緊張した面持ちで総司に振り向く。
「総司君、何か知っていることがあるのなら教えてくれないだろうか」
「……ハルは、僕の部屋に来ていたんですけど、口論になって……僕を殴って飛び出していきました……事故に遭ったのはそのときだと思います。だか、ら……っ……うぅ……」
遙人が安易に暴力をふるう人間でないというのは周知の事実だ。しかし、総司の頬に殴られたあとが残っているので信じるしかないだろう。本当は口論というより遙人を組み敷いたことが原因なのだが、さすがにそれは言えなかった。一時の激情に流されて失ったものはあまりにも大きい。彼を手に入れようとしたばかりに永遠に手に入らなくなってしまった。冷たい床に座りこんだままうなだれてぽたぽたと涙をこぼす。
「総司君のせいじゃないわ。どうか、自分を責めないでちょうだい」
遙人の母親が隣に膝をついて総司の丸まった背中を抱いた。しかし、慰める彼女の方も止めどなく涙を流してすすり泣いている。そのほっそりとした頼りない手からは震えが伝わってきた。
灼けつくような夏の陽射しが降りそそぐなか、遙人の葬儀が営まれた。
周囲に慕われていた人柄を示すかのように、かつての同級生や部活仲間、先生、友人など、数多くの関係者が参列し、沈痛な面持ちで早すぎる死を悼んでいた。あちらこちらから絶えずすすり泣く声が聞こえてくる。恋人だった綾音もひどく憔悴した様子で斎場に姿を現した。友人に支えられてようやく立っているといった感じだ。
棺に納められ、あふれんばかりの花々に飾られた遙人はとてもきれいだった。まるで目覚めを待つ白雪姫のようだ。もしやキスをしたら目覚めるのではないかと、冷たい頬に触れながらぼんやり顔を近づけていると、後ろから咲子に首根っこを掴まれて小声でバカと叱られた。
火葬炉で棺が焼かれているとき、激しく燃えさかる炎を見ながら自分の魂も焼かれているように感じた。焼けて骨と灰だけになった彼を見たときはショックで声も出なかった。骨上げのときは、涙で視界がぼやけたうえ箸を持つ手も震えてなかなか拾えなかった。
人間はなんてあっけないんだろう。つい数日前まで笑っていた遙人はもうどこにもいない。あの元気な声を聞くことも、あのあたたかな体温を感じることも、あのやわらかい唇に触れることも、どれだけ願ってももう二度と敵わないのだ。
「総司君」
送迎用のマイクロバスで火葬場から斎場に戻ったところで、遙人の母親がそっと声をかけてきた。そして小さなカードを総司に見せる。それは、遙人が二十歳になった日に書いた臓器移植意思表示カードだった。
「総司君も一緒に書いたのよね?」
「はい……え、提供したんですか?」
「ええ、あの子の意思を尊重してね」
彼女は目を伏せたままそう答えると、穏やかに、そしてすこし寂しげに微笑んだ。
「だからね、遙人の心臓はいまでもどこかで動いているの。どこかで生きているの。同じ空の下に遙人の心臓をもらって生きている人がいると思うと、すこし救われる気がするわ」
「そうですね……本当に」
容赦なく照りつける日射しに目を細め、ブラックスーツの下に汗をにじませながら、真夏の空を仰ぎ見る。遙人とともに灰になったように感じていた総司の心が、そのとき息を吹き返した。
翌日、病院と移植コーディネーターに尋ねてみたが提供相手は教えてくれなかった。提供された臓器が誰に移植されたかということは秘密にされる。たとえドナーの家族であっても。そういう決まりだと知っていたので駄目だろうとは思っていた。
だが、あきらめるつもりはない。
ネットで検索してみると、妹が心臓移植をしたというSNSの書き込みを見つけた。心臓移植はそれほど頻繁に行われていないはずなので、日付からいっても間違いないと思う。SNS上の名前は本名でなくニックネームだが、プロフィールや過去の書き込みから、年齢、性別、出身高校と実家のおおよその場所は推測できた。
かの地へ飛び、まずはSNSに書き込んだ当人の出身高校付近で聞き込みをする。最近、このあたりで心臓移植を受けた中高生くらいの女の子はいないかと。こういうときに女受けする容姿は便利だ。にっこりと微笑んで声をかけるだけで、たいていの女は立ち止まってくれるのだから。
ほどなくして、帰宅途中の女子高生から有用な情報を聞くことができた。中学のときに同級生だった藤沢陽菜さんではないかと。彼女はほとんど登校していなかったので交流はないが、噂で聞いたのだという。さすが田舎だけあってこういう話はあっというまに広まるようだ。
その女子高生に頼み込んで、中学時代の名簿から藤沢陽菜の住所を写させてもらった。ハルナ……ハル……名前を聞いたときから運命だと思った。彼女は確かにハルなのだ。突き進むことに迷いはないが急いては事をし損じる。もう二度とハルを失うような愚行は犯さない。今度こそ確実に手に入れるのだと静かに鼓動を高鳴らせた。
それからというもの、時間を見つけては彼女の入院先に、退院してからは住んでいる家の方に、こっそりと様子を見に行くようになった。東京からだと往復するだけで一日が終わってしまう距離だが、苦痛に感じたことはない。もちろん彼女には見つからないよう細心の注意をはらっている。
大学卒業後、朝比奈の関連会社に就職する約束になっていたが断り、彼女の家からほど近い賃貸アパートに引っ越した。大学時代に始めた株式投資などで生活に不自由しないだけの稼ぎは見込める。そうやってひとりで生計を立てつつ、密かに彼女を見守りながら効果的な出会いのタイミングを見計らっていた。
彼女が洋菓子店のアルバイトを始めて数か月が過ぎたころ、ついに客として接触した。それからは毎日のように洋菓子店に通ってケーキを買い、アルバイトの帰りにも偶然を装いつつ声をかけ、彼女に怖がられないようゆっくりと距離を詰めていく。慎重すぎるくらい慎重に、と何度も自分に言い聞かせながら。
なのに——転びかけた彼女を抱きとめて鼓動を感じた瞬間、理性を失い、何の準備もないまま好きだと告白してしまった。突然のことに彼女は驚いて返事は保留ということになる。焦って失敗した愚かな自分を責める気持ちと、またハルを失うのではないかという恐怖で、この日の夜は一睡もできなかった。
しかし翌日、どうにか色好い返事をもらうことに成功し、彼女と恋人として付き合えるようになった。そしてハルと呼ぶことも了承してもらった。彼女のアルバイトが休みの日にデートを重ね、彼女を抱きしめては鼓動を確かめる。そうやって慎重に信頼を築き、一年後、ようやく彼女と体を繋げるところまで漕ぎ着けた。
そのとき、初めて衣服を隔てずハルの心臓を感じることができた。体を繋げたときハルの心臓が歓喜しているのが伝わってきた。それに呼応するように総司の心臓も高鳴る。ハルに包まれ、ハルを包み、融け合うようにひとつになる。嬉しくてどうにかなってしまいそうだった。
もちろんそれだけで終わるつもりはなかった。準備してきた婚約指輪をはめてプロポーズする。もう二度とハルを失うようなヘマはしない。着々と二人で幸せになるレールを敷いていく。彼女は朝比奈の名におののきつつも最終的には承諾し、彼女の両親は朝比奈の名に大喜びして娘を差し出した。
自身の両親に結婚したい女性がいると報告すると、相手を気遣うような微妙な反応が返ってきたが、それでも反対はしなかった。息子がどういう目的で辺境の田舎町に移住したかは察していたようだ。そして、彼女こそが探し求めたその人であることも気付いているのだろう。
よけいなことは言わないよう二人に釘を刺したうえで、彼女を挨拶に連れて行く。約束どおり遙人のことには一切触れず、彼女が困惑するくらいにただひたすら歓迎してくれた。ハルがいなければ息子は正気を保っていられないと知っている。両親にとって彼女が頼みの綱なのだ。
何もかもが順調だった。
新居として東京の新築マンションを購入し、入社する朝比奈の関連会社も決まり、あとは婚姻届を提出して引っ越すだけである。ハルを手に入れる、ハルと生きていく、ハルと幸せになる、長いあいだ夢見てきた願いがようやく叶うと思った。なのに、まさかハルが僕を拒絶するだなんて——。
第7話 後悔
自室に戻ると、陽菜は明かりもつけずにベッドに倒れ込んだ。
喫茶店から自宅まで二十分ほど、身を切るような寒風にさらされて顔も指先も冷えきっている。暖房をつけていない部屋に入るだけでも十分あたたかく感じられた。すぐに血がめぐり始めたようでジンジンと疼く。
半信半疑だった。咲子が嘘をついているようには見えなかったが、勘違いや思い込みということもある。多々あった心当たりもすべて偶然かもしれない。総司がはっきりと否定してくれるなら、彼の言い分を信じてもいいと思っていた。たとえそれが真実でなくても。なのに——。
総司を怖いと思ったのは今日が初めてだった。激昂したとか豹変したとかいうわけではないが、言葉の端々から狂気が見え隠れした。逢坂遙人にどれほど執着しているかよくわかった。いつも陽菜を通して逢坂遙人を見ていたのだ。笑顔も優しさも恋心も情欲もすべて、陽菜ではなく逢坂遙人に向けられていたのだろう。
荷造りしかけの開いた段ボール箱が視界の端に映る。せっかく準備を進めていたが元に戻さなければならない。いや、もうここにはいられないかもしれない。洋菓子店のアルバイトも辞めてしまったのだ。いままでのアルバイトで貯めたお金でどこかへ引っ越して自立する。春になれば成人するのでいつまでも甘えてはいられない。
その前に、双方の両親にこの婚約がなくなったことを伝えなければならない。陽菜から言い出したことなので陽菜がけじめをつけるべきだろう。陽菜ではなく陽菜に移植された心臓が目当てだった、などと告げるのはさすがに憚られる。互いの信頼がなくなったという曖昧な言い方で納得してくれるだろうか。
じわりと涙がにじむ。
家族仲が良好とはいえないうえ、友人もいない陽菜にとって、総司の存在はあまりにも大きかった。知らない世界を見せてくれたのも、知らないことを教えてくれたのも、人間らしい感情を芽生えさせてくれたのも、いろいろな表情を引き出してくれたのも、そして人並みの恋を教えてくれたのも、すべて彼だった。
しかし、いずれも偽りの土台のうえに築き上げたものにすぎない。いまとなっては何もかも崩れてしまったように感じる。無力で空っぽだったあのころに逆戻りだ。頼るものも支えも何もない。ひとりぼっちがこんなに怖いなんて知らなかった。それでもひとりで生きていかなければならない。
涙がついと流れ落ちて白いシーツを濡らした。だが、あえて拭おうとはしなかった。いまだけは悲しみにひたらせてほしい。あしたからまた前を向いて進めるように——。
ヴヴヴヴヴヴヴ——。
いつのまにか眠りに落ちていた陽菜を呼び起こしたのは、かすかな振動音だった。携帯電話の着信である。ベッドの上に投げ置いてあった鞄の中から取り出し、ハッと息を飲む。ディスプレイには総司の名が表示されていた。出るべきかどうか暫し逡巡したが、話も聞かずに逃げるのは良くないと判断し、震える手でおずおずと通話ボタンを押す。
「はい」
『藤沢陽菜さんですか?』
「はい、そうですけど……」
電話の向こうから聞こえた声は総司のものではなかった。彼より幾分か年上のようだが聞き覚えはない。どういうことだろうかと無意識に眉を寄せる。
『私は、雲南警察署の安藤と言いますが』
「警察? えっ、あの、総司さんが何か……」
『失礼ですが、朝比奈総司さんとのご関係は』
「婚約者……いえ、元婚約者です」
自分で答えておきながら胸にズキリと痛みが走った。婚約者というのは以前の関係であり、今現在の関係を問われても答えようがない。もう彼とはただの他人になったのだ。
『実はですね——』
落ち着いた声で切り出されたその話を聞き、陽菜はベッドから跳ね起きる。嘘、そんな——心臓が発作を起こしたみたいにドクドクと収縮し、息をするのも困難になる。暖房も入っていない冷えた部屋にいるはずなのに、ぶわりと全身から汗が噴き出した。
「藤沢陽菜さんですか?」
「はっ……はい……」
タクシーを降りて救急センターに駆け込むと、この場に相応しくない雰囲気を醸し出しているスーツ姿の二人組に呼び止められた。息をきらしている陽菜に、彼らは軽く一礼して警察手帳を見せながら名乗る。二人とも雲南警察署の人で、そのうちの一人が電話をくれた安藤だった。
「あの、総司さんは……?!」
「処置中だと聞いています」
「どうしてこんなことに……」
心臓が締めつけられるように苦しくなるのを感じながら、うつむいて涙ぐむ。
総司は交通事故に遭ったと聞いた。陽菜が電話をもらってから数十分ほどになるが、いまだに処置中ということは軽傷ではないのだろう。彼に愛されていないことがわかったからといって、彼との別れを決意したからといって、すぐに嫌いになれるほど単純ではない。どうか無事でと祈る気持ちは本心からのものだ。
「そのことなんですが」
安藤が遠慮がちに切り出す。
「朝比奈さんは急に車道に飛び出してきたらしいのです。運転手以外の目撃証言もあるので間違いないと思います。車が来ていることに気付いていなかったのか、あるいは気付いていて飛び出したのかはわかりませんが」
それって、まさか——陽菜はすうっと血の気が引いていくのを感じた。
「わ……私のせいです……私があんな一方的に……」
「何か、お心当たりがあるのでしょうか」
「婚約を解消したいと言って……指輪も返して……」
「それは、いつ?」
「夜八時ごろ……駅前の喫茶店に呼び出しました」
震える声で答えると、安藤は頷いた。
「なるほど、朝比奈さんが事故に遭われたのは、時間から考えてもおそらくその喫茶店の帰りですね。指輪も持ち物の中にありました……しかし、藤沢さんとのことが原因という確証はありません。あまりご自分を責めないでください」
形式的な慰めは陽菜の心に響かなかった。
そもそも安藤は知らない。総司が病的なまでにハルの心臓に執着していたということを。ようやく結婚という形でハルを手に入れられるはずだったのに、陽菜に拒絶されてしまい、おそらく通常の精神状態ではいられなかったのだろう。故意に飛び出したのかどうかはわからないが、どちらにしても陽菜が追いつめたせいでこうなったのだ。
ふいに奥の横開きの扉が軽い音を立てて開き、中から女性の看護師が出てきた。よくある白いワンピースではなくパンツスタイルだ。安藤たちの前で足を止めて無表情で一礼すると、隣の陽菜に目を向ける。
「朝比奈さんのご家族の方でしょうか」
「いえ……」
陽菜が目を伏せてそう口ごもると、安藤が代わりに答える。
「彼女は婚約者です。いまご両親がこちらに向かっていますが、東京からなのでまだ時間がかかりますね。おそらく明け方ごろになると思います」
「わかりました」
淡々と答えて踵を返そうとする看護師に、陽菜は慌てて尋ねる。
「あの、総司さんの容体は?」
「……残念ながら、脳死です」
総司が、死んだ——?
全身から血の気が失せ、体中がガクガクと震え出し、その場にくずおれる。安藤や看護師の慌てた声が聞こえた気がしたが、何を言っているのかを理解する余裕はなかった。
どのくらいそうしていたのだろう。陽菜がようやくすこし落ち着きを取り戻したとき、まわりにはいたのは安藤だけだった。彼には帰って休んだ方がいいと言われたが、とてもそんな気にはなれない。ここで総司の両親を待とうと決めた。邪魔にならないよう隅の長椅子にひっそりと座り、ただじっと待ち続ける。
安藤は遠からず近からずといった距離で見守るように立っていた。ときどきあたたかいペットボトルのお茶を差し入れてくれる。茫然自失になった陽菜のことを心配しているのだろう。もう大丈夫ですからと言ってみたが、仕事ですのでとそっけなく返された。
やがて彼の両親が到着して、看護師にどこかへ案内されていくのが見えた。総司の現状について説明を受けるのだろう。陽菜がいることには気付いていないようだが、いま声を掛けるつもりはなかった。会うのは彼らが現実を正しく理解してからだ。緊張と恐怖で体が冷たくなっていく。
永遠とも思えるくらい長い時間、膝の上でこぶしを握りながら待っていると、ゆっくりと扉が開いて彼の両親が出てきた。母親は小さく嗚咽を漏らし、父親も唇を引きむすびつつ目元を赤くしている。陽菜は椅子から立ち上がり二人の方へ足を進めた。
「陽菜さん……っ」
陽菜に気付くと、彼の母親はハンカチを握りしめてぶわりと涙をあふれさせた。しかし陽菜はこわばった顔のまますこし離れたところで足を止め、土下座をする。
「申し訳ありません、総司さんがこうなったのは私のせいです」
「えっ?」
「総司さんに婚約をなかったことにしたいと告げて、指輪を突き返しました。彼の大切にしているものを盾にとって、私を解放するように求めました。それで総司さんは絶望して車の前に飛び出したんです」
彼の両親の前で、彼を死に追いやった自分が泣くことは許されない。冷静に説明して謝罪しなければと思いながらも、声が震えるのは止められない。目も熱くじわりと潤んでくる。必死に堪えていないと涙がこぼれてしまいそうだ。額を冷たい床に押しつけたまま、まぶたは痙攣するように小刻みに震えている。
「婚約をなかったことにって、どうして……」
彼の母親の声に非難の色はなく、純粋に疑問に思ったことが口をついたような感じだった。だが、答えを用意していなかった問いに陽菜はあせる。彼の秘密を曝くかのようで正直に話すことに抵抗はあるが、こんな状況で嘘をつくのもごまかすのもいかがなものかと葛藤する。
「まさか、遙人くんのことを知ってしまったの?」
「えっ?」
どうして、それを——大きく目を見開いてはじかれたように顔を上げる。彼の母親はいまにも泣き出しそうに顔をゆがめていたが、突然、陽菜の前でひざまずいて土下座をした。すぐに彼の父親も並んで土下座をする。あまりのことに、陽菜は膝をついたままただ呆然とその光景を瞳に映した。
「陽菜さん、本当に申し訳ありません。悪いのは私たちの方なんです」
「ご存知だったんですか? 総司さんが、その……」
「あの子が遙人くんの心臓を追いかけていたことは何となくわかっていました。そして陽菜さんが遙人くんの心臓をもらった子なんだということも確信していました。陽菜さんを通じて遙人くんを見ているんだって、ようやく遙人くんを手に入れたんだって。でも何も言えなかったの。それであの子が人並みにきちんと生きてくれるならと……」
彼女は涙で声を詰まらせる。床についた手は震えていた。
その隣で、同じように平伏している父親が口を開く。
「陽菜さん、私たちはあなたを生贄にするつもりだったんだ」
「だから陽菜さんが責任を感じる必要はないの。あなたの心に大きな傷を負わせることになってしまって、謝って許してもらえるとは思わないけれど、できる限りの償いはさせていただきます」
陽菜は挨拶に行ったときのことを思い出していた。
息子をよろしくお願いしますと涙ながらに頭を下げていた彼の両親。何も持たない底辺の陽菜がこれほど歓迎されるなど、自分でもおかしいとは思っていた。彼らも陽菜ではなくハルの心臓を必要としていたのだ。陽菜自身には何の価値もない、そんなことは幼いころから十分に自覚していたはずなのに。
頭がぼんやりとする。今日一日でいろいろなことがありすぎてわけがわからなくなってきた。総司が亡くなったばかりだというのに悲しく感じない。目の前で土下座する二人を見ても何の感情も湧かない。そして、ぷっつりと糸が切れたように意識が途切れた。
数日後、東京で営まれた総司の葬儀にひっそりと参列した。
そのときに、あの日の原因を作った咲子に泣きながら謝られたが、彼女を責める気にはなれなかった。彼女だってこんな結果になるとは思いもしなかっただろう。ただ陽菜のことを心配して真実を伝えに来てくれただけなのだ。むしろ陽菜が至らないばかりにこんな結果になり申し訳なく思う。
もうすこし冷静になってから総司と話し合うべきだったのかもしれない。知ってしまった以上、ハルの身代わりとして甘んじることはできないが、あのようなきつい言い方で追いつめる必要はなかった。何よりも大切なハルの心臓を盾にとって脅すべきでなかった。次から次へと後悔が押し寄せてくる。
色とりどりの花に囲まれて眠る総司を見ていると、楽しくて幸せだった日々を思い出して目頭が熱くなり、涙がにじんでくる。あのときは確かに彼が好きだった。彼にとってはハルの心臓という価値しかなかったとしても、陽菜が彼に抱いていた気持ちは変わらないし否定したくもない。
葬儀のあと、彼の実家に招かれてすこし話をした。
彼が脳死判定されたあと、所持していた臓器移植意思表示カードに従って臓器提供したらしい。最後の最後まで遙人くんと同じになってあの子も本望でしょう、と彼の母親が力なく微笑みながら口にした言葉が、陽菜の胸をどうしようもなくざわめかせた。
彼の父親からは遺産を譲りたいという旨の話をされた。贅沢さえしなければ、一生お金に苦労しないですむくらいの財産だ。しかしながら陽菜は迷わず固辞した。それならばと当面の生活の援助を申し出てくれたが、それも固辞した。彼の両親にしてみればどうにか償いをしたいのだろうが、陽菜には陽菜の意地があった。
これからもいつでも遊びに来てほしい、困ったことがあったら頼ってほしい、などと二人に言われたが社交辞令だろう。たとえ本心だとしてももう来るつもりはなかった。ありがとうございます、と淡々と気持ちだけいただいて辞する。
重く立ちこめた鉛色の空の下、喪服の上から黒のロングコートに袖を通した。ふいに強くなった冷たい風から庇うように身をすくめるが、すぐに背筋を伸ばして歩き出す。閑静な住宅街にパンプスのささやかな靴音が響いた。
第8話 その鼓動は誰のため(最終話)
「ガラスの棺に入った白雪姫に王子様が口づけをすると、姫は生き返りました。こうして白雪姫と王子様は結ばれて幸せに暮らしました——おしまい」
陽菜は毛足の短い絨毯敷きの床にぺたりと座り、三人の小さな女の子たちに囲まれながら、広げた絵本をゆったりとした口調で読み終えた。
奥の方では若い男性が小さな男の子と一緒になって積み木遊びをしている。隅の方では十歳くらいの少年が背の低い本棚を覗き込んでいる。その隣では五歳くらいの男の子が恐竜の本を絨毯に広げている。まるでちょっとした託児所のような雰囲気だが、託児所とは違い、子供たちはみんなパジャマやそれに近い格好をしていた。
ここは長期入院する子供たちのために作られた院内の遊び場だ。陽菜も元気になるまではこの病院に入院していたので、何度か利用したことはあるが、五年前に改装されたとかでだいぶ様変わりをしている。それでも面影は残っているので多少の懐かしさは感じられた。
「わたしのところにも王子様がきてくれるといいな。病気をなおしてくれるの」
絵本を覗き込んでいた三人の女の子のひとりが顔を上げ、目をキラキラさせて言った。陽菜も同調するようにやわらかく微笑む。
「来てくれるといいね」
「はるなおねえちゃんのところには王子様きた?」
「んー……来てくれたと思ったけど、違ったんだ」
まるで女の子の夢見る王子様を体現したような人だったが、陽菜の王子様ではなかった。彼はハルの王子様になりたかったのだ。胸の内でひそかに自嘲する陽菜を見て、彼女はきょとんと小首を傾げると、小さな手でおずおずとセーターの袖を掴んで言う。
「きっときてくれるよ?」
「……ありがとう」
この子はかつての陽菜と同じ心臓の病気だと聞いている。いつ発作で命を落とすともわからない身の上だ。けれどその幼さゆえか無邪気に希望というものを信じている。
陽菜もこのくらいの年齢のときはそうだったのかもしれない。しかし、現実を知るにつれて希望を持つことが難しくなる。そしていつしか笑うことさえできなくなる。陽菜だけでなく、長期入院している子供たちの多くがそうなっていくのを目にしてきたのだ。
それでも、この無垢な笑顔を見ていると願わずにはいられない。この笑顔を曇らせないでほしい、ずっと希望を持ち続けてほしい、決してあきらめないでほしいと——。
総司が亡くなって三年が過ぎた。
陽菜は県内の市街地にある小さなアパートに引っ越していた。総司が亡くなったことで地元にはいづらくなったのだ。陽菜がふったせいで彼が自殺したという噂が広まり、同情、非難、嘲笑、呆れ、好奇といったさまざまな目を向けられた。陽菜を横目で見ながらひそひそ話をされることも少なくない。
町内のどこへいってもこのような状況なので、新しい仕事を探すのも難しかった。かつてアルバイトをしていた洋菓子店の店長夫妻は、またここで働いてくれてもいいと言ってくれたが、さすがにそこまで甘える気にはなれなかったし、陽菜が接客することで迷惑を掛けるのではという懸念もあった。
母親には、大切にしてくれるなら身代わりでも何でもよかったじゃない、と婚約を白紙に戻したことについてぶつくさ文句を言われた。玉の輿に乗り損ねたバカな娘に失望したのだろう。さらに総司の遺産を譲るという申し出があったことを知ると、どうしてひとりで勝手に断ったの、この親不孝者、いまからでももらってきなさい、などとひどく感情的に責め立てられた。
逃げるように噂の及ばない市街地で一人暮らしを始めたが、幸い仕事もすぐに見つかった。製菓材料や道具の卸販売をしている会社の一般事務だ。アルバイトやパートではなく社員である。学歴・経験不問ということで、無理だろうと思いつつも応募してみたら、あっけなく採用が決まってしまった。洋菓子店でのアルバイト経験が有利に働いたのかもしれない。
仕事はこまごまとした雑用、在庫チェック、パソコンの入力作業などである。自分のパソコンは持っていなかったが、総司にときどき触らせてもらっていたので、入力作業くらいならすぐにこなせるようになった。
総司が求めていたのは陽菜でないと知ったあのとき、何もかもが崩れ去ったように感じたが、良くも悪くもそんなことはなかった。彼とともに過ごした日々の記憶や経験は、陽菜の中で確かに息づいている。何も知らない陽菜に当たり前のことを教え、空っぽな心を満たしてくれたおかげで、ひとりで生きていくことができているのだ。そのことに関しては彼に感謝するしかない。
しかし、彼の法要や墓参りには一度も行っていない。彼の母親から連絡はあるがすべて断っている。薄情だという自覚はあるが、あまり彼の家族とは関わりを持ちたくなかった。
二年半ほど前、一人暮らしを始めて半年が過ぎたころだったが、駅前を歩いていたらばったりと懐かしい人に会った。陽菜が入院していたころ、長期入院中の子供たちと遊ぶボランティアをしていたおねえさんだ。あまり反応のない陽菜にもあきらめず声を掛けてくれた恩人である。
彼女はいまでもボランティアを続けているが、結婚して子供も生まれたので、なかなか都合がつかなくなってきたらしい。その話を聞いて、陽菜は自分にできることがあれば手伝わせてほしいと申し出た。彼女への恩返しのつもりだったが、彼女に憧れていたことも動機のひとつだったのかもしれない。
それからは週に一度、ボランティアの一人として病院へ行くようになった。おねえさんの都合のいいときは一緒に、おねえさんの都合が悪いときは一人で。最初のうちは子供たちとの接し方がわからず戸惑っていたが、人なつこい女の子が無邪気に話しかけてくれたことで、肩の力を抜いて一緒に遊ぶことができるようになった。
そして、一年前からはもうひとり新しいボランティア仲間が加わっていた。
「ハルちゃん、帰りにお茶しよう」
ボランティアの終了時間になり絵本を片付けていたところへ、ひょろりと背の高い青年が笑顔で声を掛けてきた。もうひとりのボランティア仲間の八尋和成(やひろかずなり)である。今日に限ったことではなく、ボランティアのあとはいつもこうやってお茶や食事に誘ってくるのだ。
「ダメ? 予定あるの?」
「お茶だけならいいよ」
そう返事をすると、不安そうに眉尻を下げていた彼の顔がパァッと輝いた。まるで人なつこい大型犬である。実際にじゃれついてくることはないものの、ぶんぶんと大きく振るしっぽが見えるかのようだ。陽菜の二歳下ということで弟のようにも感じていた。
そこには彼の境遇も影響しているのかもしれない。生まれたときから心臓に重大な欠陥を抱え、いつ死んでもおかしくない状況だったが、三年前に心臓移植手術を受けて命を繋げたのだという。そう、陽菜の歩んできた道とほとんど同じなのだ。互いに共感を抱くのは自然の流れといえるだろう。
ただ、彼はその共感を恋愛感情と混同したのかもしれない。出会ってたったの三週間で好きだと告白してきたのだ。今はそんな気持ちになれないから付き合えないと断ると、彼は素直に引き下がり、それからは普通にボランティア仲間として接してくれている。
一件落着、そのはずだったのに。
告白なんてされたせいだろうか。陽菜の方が変に彼を意識するようになってしまった。気付いたら目で追っているということも少なくない。手や体が触れたりすると鼓動が早鐘のように打ち始める。単に他人との接触に慣れていないだけかもしれないが、彼以外の人ではこうはならない——。
「ハルちゃん、どうしたの? 考えごと?」
「あ……うん、ちょっとね」
喫茶店の窓際の席で和成と向かい合わせに座り、紅茶のカップに手をかけたままぼんやりしていると、彼が心配そうに覗き込んできた。陽菜は曖昧に笑顔を取り繕ってごまかそうとするが、彼の表情は変わらない。
「大丈夫? 疲れてるの?」
「ん、平気」
その返事を耳にして彼は物言いたげな面持ちになる。しかし、それ以上は言及せずにっこりとして話題を変える。
「ハルちゃん、今日は何の絵本を読んだんだっけ?」
「白雪姫。女の子はお姫様と王子様の話が好きみたい」
「好きみたい、って……ハルちゃんも女の子なのに」
「私、ひねくれてたから」
陽菜は苦笑し、昔を思い出しながら目を伏せる。
「白雪姫もシンデレラもそうだけど、ヒロインだけ都合が良すぎるな、努力しないで幸せになれるんだ、でもそれって本当に幸せなのかな、王子様がいい人って限らないのに、とか醒めた目で見てたんだ。ほんと可愛げのない子供だよね」
「ハルちゃんらしいや」
可愛げのないのが陽菜らしいと、何気に失礼なことを言われた気がするが、彼は悪気もなくカラッと笑っている。実際、思ったことを素直に述べただけなのだろう。彼のそういう忌憚のないところは嫌いではない。陽菜はつられるようにくすりと笑った。
——はるなおねえちゃんのところには王子様きた?
おとぎ話のご都合主義はまったく信じていなかったのに、自分の身に起こったご都合主義は簡単に信じてしまった。総司のような何もかも持っている人が、陽菜のような何も持たない子供を相手にするはずなかったのに。不思議に思ったことはあったが、彼が好きだったので信じていたかったのだろう。
「ハルちゃん?」
彼は陽菜が無意識についた溜息に気付き、小首を傾げた。
陽菜は視線を落として曖昧に笑みを浮かべる。
「萌ちゃんがね、自分のところにも王子様が来てほしい、病気を治してほしい、なんて無邪気に言うもんだから、ちょっとせつなくなっちゃった。王子様なんてそんなに簡単に現れないのにね」
自分自身のことは隠して話す。彼は真面目な顔になった。
「でも、希望を持つのはいいことだと思うよ」
「そうだけど……持ち続けるのは難しいから」
陽菜は入院生活が続くにつれてどんどんと希望がなくなっていった。そのうち心が麻痺したかのように何も期待しなくなった。ただすべてをあきらめて死を待つだけの日々だった。いまは能天気なくらい明るい彼も、程度の差はあれ似たような気持ちを抱えていたのではないか。その考えを裏付けるかのように彼は顔を曇らせたが、しかしすぐに陽菜の目を見て優しく微笑んだ。
「大丈夫、きっと僕やハルちゃんの存在が萌ちゃんの希望になるよ。キスで病気を治してくれる王子様は現れなくても、いつか心臓移植をして元気に暮らせるときがくるんだって。ね?」
「うん……」
自分の存在が希望になるなんて考えもしなかった。もし同じ病気の子供たちがそのように思ってくれるなら、こんな自分でもすこしは生きている価値があるのかもしれない。しかし、ただ生きているのではなく幸せに見えなければ意味がないだろう。生きていたらいいことがあるんだ、私も生きたい、そう思ってもらえて初めて希望になる。
「和成君はさ……手術が成功して元気になったとき、どんな気持ちだった?」
「そりゃあ、もうめっちゃくちゃ嬉しかったよ。死ぬと思ってたのに元気になれたんだもん。もう何でもできるんだ、これから何をしようか、って考えるだけでドキドキわくわくしてた」
彼は声をはずませてそう言うと、陽菜を見て小首を傾げる。
「ハルちゃんだってそうだよね?」
「私は……怖かったよ」
陽菜はうっすらと自嘲の笑みを浮かべた。
「生きることが怖くて不安でたまらなかった。いままで死ぬことしか考えてなかったのに、いきなり生きなきゃいけないことになって、どうすればいいのかわからなかった。別に生きたかったわけじゃない、死んだ方がよかったんじゃないか、って思ったりもしたんだ」
淡々と答え、すこしぬるくなった紅茶を口に運ぶ。
しかし正面の彼はショックを受けているようだった。命が繋がったのにそんなふうに考える人がいるなんて、想像もしなかったに違いない。おずおずと陽菜を覗き込むようにして尋ねる。
「いまは違うよね?」
「うん、いまは生きられてよかったって思ってるよ。何もできない何も知らない空っぽだった私に、いろんなことを教えてくれた人がいたから。世の中には面白いものが満ちあふれてるんだ、生きるのは楽しいんだって……」
言葉を紡ぎながらあのころに思いを馳せ、ふいにせつなさがこみ上げた。
「恋も?」
「えっ?」
驚いて視線を上げると、彼は至極真面目な面持ちで陽菜を見ていた。茶化しているわけではなさそうだ。彼に過去の恋愛について話したことは一度もない。なのにいきなりこんなことを言い出したのは、陽菜がそういう顔をしていたからだろうか。小さく肩をすくめて頬をゆるめる。
「婚約までしたんだけどね、彼が本当に好きだったのは私じゃなかったんだ。でもいまは感謝してる。もし彼と出会っていなかったら、いまでも空っぽのまま無意味に生きていたと思うから」
彼は話を聞きながら困惑ぎみに眉を寄せ、視線を落とす。
「無神経だったね、僕……ごめん」
「ううん、和成君は悪くないよ」
恋愛の話を持ち出したことに対しての謝罪だろうが、知らなかったのだから配慮のしようがない。そもそも陽菜が勝手に喋ったようなものなのだ。結果、罪悪感を抱かせることになったのなら、むしろこちらの方が申し訳ないと思う。
「……でも」
彼は真顔で静かに切り出す。
「ハルちゃんならきっと、その人と出会ってなかったとしても、自分で生きる価値を見つけてたはずだよ。ちゃんと前を向いて生きていたはずだよ。あんまり自分を卑下しないで」
「ん、ありがとう」
買い被りすぎだとは思ったが、むやみに否定するのも大人げない気がしたので、気持ちだけは素直に受け取ることにした。少なくとも彼には今の陽菜がそう見えているということだろう。ティーカップを手にとってニコッと微笑みかけると、彼もほんのり頬を上気させて照れくさそうにはにかんだ。
「ねぇ、ハルちゃん」
陽が傾き、地平に近い空がうっすらとオレンジ色に染まっている。
喫茶店を出て、ふたりで駅に向かう通りを歩いていると、和成が緊張ぎみの声で呼びかけて足を止めた。そして、つられるように足を止めた隣の陽菜に振り向き、ふわりと白い息を吐きながら尋ねる。
「まだ、そんな気になれないかな?」
「えっ?」
「僕はずっとハルちゃんが好き。大好きだよ」
その真剣なまなざしに言葉を失う。
外気に晒されて冷えきっていた小さな右手が、彼の大きな左手に優しく包み込むように握られた。すぐにじわじわと熱を帯びてくるのがわかる。手だけでない。心臓はドクドクと壊れそうなくらいに激しく打ち、体中が熱くなる。顔もみっともないくらい赤く染まっている気がする。
今まで何かの拍子に軽く触れたことはあっても、明確な意志を持って手をつないだことはなかった。すこし触れただけでも鼓動が早鐘のように打っていたのに、こんなにしっかりと握られては、本当に心臓が壊れてしまうのではないかと思う。
丈夫なはずの心臓が発作を起こしたようになり、元気なはずの体が芯から燃えるように熱くなる。この感覚には憶えがあった。最初のときはわけがわからなくて怖くて怯えていたけれど、今はもう理由もわかっている。そっと目を閉じて細く息を吐き出し、ゆっくりと顔を上げる。
「和成君……」
「僕、待ってるからね」
「待たなくていいよ」
そう告げると、彼の表情が一瞬で凍りついた。つなぐ手にわずかに力がこもる。
「待つくらい、待たせてよ」
「私も和成君が好きだから」
「……えっ?」
彼の目が大きくこぼれんばかりに見開かれ、瞳が、顔が輝いていった。陽菜の手を胸元に引き寄せて両手でぎゅっと握り、大きく前のめりになる。
「付き合ってくれるの?!」
その勢いに圧倒されてすこし身をのけぞらせながらも、陽菜はくすりと笑い、彼の双眸をまっすぐ見つめたままこくりと頷いた。
わぁっ、と彼はまわりの目も気にせず感嘆の声を上げ、飛びつくように陽菜の小さな体をガバリと抱き込んだ。ドクドクと高鳴る二人の鼓動が、熱が、重なり共鳴し融け合っていく。まるでひとつになったみたいに。
息をすることさえ忘れるくらいの幸福感に包まれながら、陽菜はそっと彼の背中に手をまわした。呼応するように陽菜を抱きしめる手に力がこもり、熱い吐息が耳元に落とされる。
「やっとつかまえた……ハル」
http://celest.serio.jp/celest/novel_kodou.html
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陽菜は生まれつき心臓に欠陥を抱えていたため、学校にも行けず、友達もできず、家族にさえ持て余される有り様で、いつしか生きることをあきらめるようになっていた。しかし——。