第三十五話、『連合の真実』
――『天の御遣い』・北郷一刀率いる北董連合軍と、袁紹率いる反董卓連合軍の戦は終結した。軍配が上がったのは北董連合軍。
この戦によって失われた生命は決して少なくはないが、戦の規模に比して少ないものであったのも、確かな事実である。しかし
反連合側がこの敗戦で失ったものは、物理的に量れるものばかりではなかった。最終決戦を見た者も、そこに参加していた者も、
その殆どが心を折られ、生気を失っていた。このような形での敗北など、一体誰が想像し得ただろうか。
だが、現実には反連合が敗北した。そして反連合が向かう先、洛陽で待ち受けているのは、新たなる漢の皇帝・劉協だった――
□司隷州・洛陽 / 宮殿・謁見の間
――夕刻、宮殿内に所在する謁見の間。そこで待機していた董卓は、扉を開けて入ってきた典韋に歩み寄る。
「報告します。先程、洛陽前に反董卓連合軍が到着。連合軍の護送に当たっていた白十字隊、黒十字隊、徐庶隊、馬超隊、楽進隊、
呂布隊、華雄隊、張遼隊も同時に帰還しました。なお、各隊は別命あるまで、引き続き連合軍の監視に当たるとのことです」
「お疲れ様です、流琉ちゃん」
典韋から報告を受け、董卓は暫し思案する。まさか虎牢関での最終決戦があのようなことになろうとは、想像だにしていなかった。
それでよく連合軍がここまで辿り着けたものだ。無論、護送中は物資が不足すれば北董連合軍側から供与していたので、その面は
問題無かっただろうが、それにしても連合軍が負った傷は深い。二、三日位は間を置くべきか――心優しい董卓は悩む。
「月ちゃん、ここは冷徹にいかないとなの。そもそも、言いがかりつけて攻めて来た連合軍に、今更かけてやる情けなんて無いの」
「せやで。こういうことは余計な問題が起こる前に片付けるに限る。この期に及んで何や策謀を巡らす奴がおらんとも限らんしな」
礼装を纏って謁見の間に来ていた于禁と李典は、いきなり攻め込んで来た連合軍に情けをかける必要など無いと指摘する。それも
一つの正論ではある。時間をかけて余計な問題が起こるのも避けなければならない。であるならば、李典の言う通りさっさとこの
事案は片付けてしまったほうが良い――結論を導き出した董卓は顔を上げ、指示を出す。
「……そうですね、わかりました。では、ご主人様と朱里ちゃん、灯里さんを先に呼び戻して下さい。灯里さんの穴は沙和さんに
埋めて頂きます。明朝、辰の刻より裁定の場を設けます。卯の刻までには準備を終えておいて下さい。凪さん、霞さん、翠さん、
沙和さんは連合軍に参加した各軍の指導者とその配下を宮殿まで護送。また、担当者の各隊から一小隊ずつを護送隊として抽出。
それ以外の者は引き続き連合軍の監視を。万事において、民に害が及ばないよう徹底すること。全軍に通達して下さい」
「了解なの。じゃあ、忍者を飛ばして各隊に伝達するの」
于禁が応じ、指を鳴らして忍者を呼ぶ。今では劉協御墨付きの隠密となっているので、こうして謁見の間に潜むことも出来るのだ。
忍者も話を聞いていたようで、于禁が二言三言話すとすぐに諒解し、忽ち姿をくらました。一体、あれはどうなっているのか――
ずっと気になっている董卓だが、追及するのも野暮なので何も言わないことにしていた。
「『忍者』は便利やな~。隊長の国にはあんな連中もおったんかと思うと……『天の国』って意外に恐ろしいとこなんやなあ……」
「えっと、ご主人様の時代にはもう忍者は居ないという話ですよ?忍者隊も、お話の中での忍者を参考にしているんじゃないかと」
「寧ろそっちの方が凄いと思うの、月ちゃん」
実に尤もな指摘である。日本という国を知る董卓も、李典の「意外に恐ろしい国」という評価を否定する術を持たなかった。
「――董卓様」
先程とは別の者が物音も無くすっと現れる。彼らは気配すら無く突然現れるので、董卓も最初の頃は肝を冷やしたものだが、今は
もう慣れっこになっていた。董卓とて呂布に伍する武人、そんな彼女にすら気配を察知させないのだから、驚くべきことである。
「どうしました?」
「宮殿正門前に、幽州より盧植様が御着きです」
「無事に到着なさったのですね。わかりました、こちらに通して下さい」
劉協が直々に忍者を用いて書状を送り、幽州から盧植を呼び出したことは董卓も承知していた。黄巾の乱の後は幽州に帰っていた
盧植だったが、それが幸いして幽閉を免れていた。劉協は公孫賛からの書状でそれを知ると、すぐさま忍者を用いて彼女を洛陽に
呼んだのである。盧植子幹と言えば著名な人物、裁定の場に居れば色々と心強い――劉協はそう言っていた。
「月さんは盧植さんとお会いしたことがあるんですか?」
「ええ。以前、朝廷の命で洛陽の防衛を行っていた時に。その時は左中郎将の皇甫嵩将軍や、右中郎将の朱儁将軍も御一緒でした」
そこまで言って、謁見の間に暗い沈黙が流れる。無理も無い。調査を進めていた賈駆から、朱儁の死亡が確認されたという報告が
つい先日上がってきたのだ。牢獄に幽閉されていた際、皇甫嵩の目の前で憤死したらしい。一方の皇甫嵩は体調を崩してはいるが、
会話などは問題無く可能らしいので、不幸中の幸いと言うべきだろうか。何にせよ、禁軍は優秀な指揮官を一人失った。この穴は
早急に埋めなければならない。その点、北中郎将である盧植ならば――。
(彼女の力を借りられれば、禁軍を早期に立て直せる。陛下直属である禁軍を、いつまでも私が取り纏めているわけにはいかない)
現在の状況が続くのは好ましくない。今でこそ禁軍は間に合わせの処置として董卓軍の一部となっているが、本来は劉協直属の軍。
優秀な指揮官を配して早急に立て直さなければならない。劉協自身も高い指揮官適性を持つが、皇帝が戦場に出るなど余程の事だ。
故に、皇帝の意を受けて禁軍を動かせる指揮官を探していたのだが、この機に盧植に打診しなければ――董卓はそう決めていた。
――そして、暫くの時が過ぎた頃。
「盧植さん、お久しぶりですね」
「ええ……董卓さん、何だか雰囲気が変わられましたね。初めてお会いした時は雍州刺史、それが今や相国とは流石に驚きました」
謁見の間に入室した盧植は、相手の地位のこともあって膝を折ろうとしたが、董卓の意向でそれをせず、同じ目線で話をしていた。
「私のような若輩者が背負うには、過ぎた地位です……ですが、この地位に在る間は責務を全うしようと思います」
「そんなことはないと思いますよ。私は若い子達に学問や剣の手解きをしていますが、その歳でそこまで優秀なのは凄いですよ」
確かに、董卓は各地で活躍している女性の統治者達と並べれば最年少の部類であることは否めない。そして自分が優秀だなどとは
欠片も思っていない董卓だが、人物眼に定評のある盧植にそう言われれば、少なくとも努力を認めて貰えてはいるのだと思った。
「……挨拶はこのくらいで。盧植さん、陛下からの書状でこれまでの経緯は把握していらっしゃいますよね?」
「勿論です。反董卓連合軍……話には聞いていましたが、こうして董卓さんが相国として立っておられるということは、董卓軍は
無事に連合軍に勝利したのですね。連合軍が勝利した場合、董卓さんは少なくとも姿をくらまさなければならなかった筈ですし」
「董卓軍だけでは、勝利は難しかったでしょう。周囲に敵ばかりの状況の中、馳せ参じて下さった義勇軍の方々が居なければ……」
「義勇軍?」
「幽州にいらっしゃったなら、御存じの筈です。『天の御遣い』・北郷一刀様率いる義勇軍が駆けつけ、御助力を頂いたんですよ」
「え?でも、彼らは桃香ちゃ……ああ、そういえばそんな噂が流れていましたね。でも、よく陛下が御自身を差し置いて『天』を
名乗ることをお許しになりましたね?今迄放っておかれていたのも、考えてみればちょっと不自然でしたけど……」
尤もな疑問である。皇帝は『天子』とも呼ばれ、謂わば天意の体現者とされる者。それ以外の者が『天』を名乗るなど有り得ない。
黄巾党は名乗っていたが、いずれにせよそれは即刻処刑ものの大罪である。しかし、今回の場合は事情が特殊過ぎた。
「ちょっと特別な事情がありまして。放っておかれていたのは兎も角、陛下も『これ以上無い味方』としてお認めになられました」
「ええっ!?そ、そこまで仰ったんですか!?」
「はい……なので、此度は軍の指揮をあの方にお任せしたんです。そのおかげで、十分な迎撃態勢を整えることが出来ました」
そう説明した董卓だったが、相手から反応が返ってこない。不審に思って見れば、盧植は突っ立ったままで固まってしまっていた。
「……あの、盧植さん?……いけない、意識が飛んじゃってる。盧植さん?しっかりして下さい盧植さん、もしもーし」
盧植はすっかり魂消た様子で呆然としている。無理も無い。当然の常識が根底から覆るにも等しいことなのだ。況して教養の深い
彼女にとっては、尚更であろう。とはいえ、このままでは話が進まないので、董卓は盧植に声を掛けながら手を振る。躰の小さい
董卓が、自分よりも背の高い盧植の目線まで伸ばした手を振りながら呼び掛けるその様があまりに可愛らしいので、同じ女なのに
思わず悶絶しそうになった――とは、後の李典と于禁の弁である。
董卓が連合に参加した諸侯の目録を手渡すと、盧植はざっと目録に目を通し、そこに教え子である劉備の名があるのを見て驚いた
様子だった。曰く、公孫賛が董卓側との連携の為に敢えて連合に参加することは当人から聞いていたが、劉備が参加するのは全く
知らなかった、とのことだった。その後の董卓の掻い摘んだ説明で大体が理解出来たらしく、盧植は落胆した様子で口を開く。
「ちょっと、助言の仕方を間違っちゃったかな……桃香ちゃん、頑張ればきっと凄いこともやってのけるって思ってたんだけどな」
「……酷な言い方かもしれませんが、どんな助言も受け止め方次第だと思います。努力の仕方もその人次第……正しい、間違いと
いう括りは無意味でしょう。ですが、その結果が望んだものであるかは……それを受け入れないと、人は何も成し得ませんから」
穏和な董卓らしくない冷たい物言い。だが、それには為政者としての冷厳さだけではなく、どこか悲哀にも似た感情が込められて
いた。その点では彼女らしいとも言えたが、果たして何に対しての悲哀なのか――今の盧植に、それを知る術は無かった。
□洛陽付近 / 反董卓連合軍留置・監視地帯
――翌朝。昨晩の内に打ち合わせを済ませた監視部隊は、任務遂行のため各軍の陣地に向かい、対象者を鎖で繋いでいった。
「くっ……このような屈辱を受けるなんて……!」
曹操軍――曹操はこの「鎖で繋がれる」という無様な恰好で連行されることが我慢ならない様子であったが、従うより他なかった。
夏候惇や荀彧も曹操と同じく抵抗を示したが、呂布が本気で睨みつけたので、抵抗しなかった夏侯淵や許緒と同じく鎖に繋がれて
大人しくする以外に出来ることは無かった。
「あーあ。藪をつついたら蛇どころか虎と熊まで出ちゃったか」
孫策軍――孫策は連合が陥った状況を気楽な口調で的確に評しつつ、鎖に繋がれることにも抵抗せず、諦めた様子で諾々と従った。
それを見た周瑜や陸遜も、抵抗せずに鎖に繋がれていく。唯一人、甘寧だけは殺意を宿した眼で担当の張遼を睨むが、張遼はその
視線を見事に無視し、甘寧もまた大人しく繋がれるしかなかった。
「……」
袁紹軍――袁紹は一切言葉を発することも無く、静かに腕を差し出し、鎖に繋がれることを受け入れた。顔良や文醜も袁紹に倣い、
黙って腕を差し出す。担当の于禁も袁紹達の神妙な態度を感じ、黙々と三人の腕を取り、鎖に繋いでいった。
「わ、妾は何もしておらぬというに~」
「お嬢様……ああ、鎖で繋がれてしまうお嬢様もまた……」
袁術軍――袁術は戦闘に参加していないことを理由に抵抗するが、楽進に流し目で鋭い視線を送られ、涙目になって大人しくなる。
一方の張勲は縛に就いたかと思いきや、主が鎖で繋がれた姿に興奮する始末だった。それに呆れつつ、楽進は作業を完了させた。
戦闘に一切参加しなかった他の諸侯も次々と捕縛され、連行の準備が整っていく。そんな中、馬超が向かったのは劉備軍であった。
「邪魔するぜ」
「――っ!?貴様、馬超!何をしに来たっ!?」
「皇帝陛下の勅命の下、董相国の命により……劉備軍大将・劉備玄徳以下、この劉備軍に所属する武将と軍師を捕縛させてもらう」
来て早々に敵意を向けられるとは、随分とまあ荒っぽい歓迎だな――嘗ての戦友の相変わらずの刺々しさに内心呆れつつ、馬超は
この陣にやって来た理由を関羽に告げる。不自由そうな左腕で杖をつき、これまた不自由そうな右脚を引き摺って現れた関羽には、
最早『軍神』と呼ばれるほどの威圧感は無い。殺気立ってはいるが、見るからに弱っている彼女のそれは迫力に欠けていた。
「ふざけるな!董卓の命令になど、誰が従うものかっ!」
「他の連中は嫌々ながらも従ってるぜ?敗者の流儀ってのを知らねえのかよ。それにだ、董相国はあくまで連行の方法を指示した
だけで、あんたら反董卓連合軍の参加者を連行する事自体は陛下が発した勅命だ。まだ、罪の上塗りをし足りないのかよ?」
「くっ!失望したぞ、馬超!『錦馬超』の名を大陸に轟かせる貴様が!悪逆の徒である董卓に従属するとは!武人の面汚しめが!」
会話が全く噛み合わないばかりか、罵詈雑言を吐き出し始めた関羽にすっかり呆れた馬超は、騒ぎを聞きつけて現れた劉備と趙雲、
張飛と孔明、そして鳳統に向き直る。劉備は趙雲に天幕から連れ出されたらしく、憔悴しきった様子だった。
「よう、劉備。弱ってるところ悪いんだが、陛下の勅命を受けた董相国の命により、あんたと劉備軍所属の将を捕縛させてもらう」
二度手間になってしまったと思いつつ、馬超は劉備にそう告げた。すると劉備はゆっくり顔を上げ、馬超の顔を真っ直ぐ見据える。
「……あなたが、馬超さんですか?」
「そうだけど、それがどうかしたかよ?言っとくけど、何でお前は董卓なんかに力を貸すんだ、なんてくだらねえ問答は無しだぜ」
「でも……でもっ!洛陽の民は、苦しんでいるんでしょう?どうして、民を苦しめるような酷い人に力を貸すんですか?」
人の話も聞かずに勝手なことを言う――愈々苛立ちが募ってきた馬超だったが、それをおくびにも出さず、静かに問いに応じる。
「これから街中を通って宮殿に向かう。本当に民が苦しんでるのか、自分の眼で見れば良いだろ」
「……ご主人様が馬騰さんとお友達なんだって言ってたから、馬騰さんの所の人達はきっといい人達なんだって信じてたのに……」
馬超のこめかみが激しく反応し、青筋が浮き出そうになる。努めて平常心を保ちつつ、馬超はじろりと劉備の顔を睨み付けて言う。
「……もういいよ。元々あんた達と問答する気なんて無かったんだ。がたがた言ってないで縛に就け。でなきゃ、罪の上塗りだぜ」
そう言ってから馬超は強引に劉備の腕を取り、鎖に繋ぐ。それを見た関羽が杖で馬超を攻撃しようとするが、それは張飛が止めた。
恨みがましい眼で張飛を睨む関羽だが、張飛は悲しげに首を横に振って従うように促す。ほどなくして馬超は劉備軍の将達を鎖に
繋ぎ終えた。密かに趙雲と鳳統を最後尾に回したのは、『計画』の同志たる彼女達への配慮であった。
「馬超さん、一つだけ教えてください」
「……なんだよ?」
「ご主人様は……一刀様は、今どこにいるんですか?この近くにいるんですよね?」
槍を握る馬超の手が、ぎりぎりと不快な音を立てる。真名の返上まで要求されておいて、尚も一刀をそう呼んで憚らぬとは――!
「……その質問には答えられねえな。理由はてめえで考えやがれ」
それきり、馬超は口を堅く噤んだ。劉備がまだ何かを言っているのが聞こえたが、馬超がそれに応じることは無かった。
□洛陽市街 / 中央大通り
――裁定の場が開かれる辰の刻まで残り半刻を切った頃。鎖で繋がれた諸侯は宮殿へと護送されていた。
宮殿まで行くには、当然洛陽市街の真っただ中を通らなければならない。そして護送されている人数は多くないとはいえ、護送を
担当する楽進、馬超、張遼、于禁ら武将達に加えて各々の隊――于禁が率いるのは徐庶隊の兵だが――から抽出された護送部隊が
いる。結果的には大人数で移動していることになり、宮殿へと続く大通りでは異様な光景が展開されていた。
当然そこには洛陽の民もいる。荒れていた当時の洛陽を知る者ばかりだ。故に民は、董卓の統治によって甦った洛陽で生き生きと
生活し、また董卓に対しては言葉に出来ない恩義を感じ、そして彼女を相国に任じた劉協への信頼と敬意も高まっていたのである。
それを私欲で奪い去り、崩壊させようとした反董卓連合軍に対して、悪感情が生じないわけが無かった。
いつも賑わう大通りも今日ばかりは寒々としていた。人々は諸侯に嫌悪たっぷりの視線を送り、罵声を浴びせたり、石を投げる者
までいる。それは力の無い民達にとって精一杯の弾劾。だが、罵声は兎も角として石投げを看過することは出来ず、護送隊の兵は
飛んでくる石をそれとなく防いでいた。敵意に満ちた民達の態度に、強気だった者達も流石に辛そうであった。
「……そんな……どうして……」
心底辛そうに呟く劉備。そんな彼女に向かって激しい罵声が飛ぶ。それを聞いた孔明は益々俯き、関羽は人々を睨みつける――。
「おい関羽、てめえ何を考えてやがる。無辜の民を睨みつけるなんざ、それこそ武人の面汚しだぜ」
馬超が槍を関羽に突き付けやめさせようとするが、関羽は湧き上がる怒りを抑えようともせず、低い声で馬超を威圧しようとする。
「幾ら民と言えど、桃香様に対して無礼であろうが……!」
まるで劉備が絶対者であるかのような物言い。未だに自分達の立場を理解していないらしい。馬超は心底軽蔑した口調で言い返す。
「……無礼はどっちだ、馬鹿野郎が。民への礼儀を忘れるような奴が、民から敬われる訳がねえだろ。思い上がってんじゃねえぞ」
馬超は兵に命じ、関羽の首に剣を突き付けさせる。本来ならこんなことをする必要など無いが、何かあれば殺すという意思表示は
しておかなくてはならない。本当に殺すつもりは無いにしても。そして馬超は関羽達の近くを離れ、趙雲と鳳統の近くへと向かう。
彼女達も一応劉備軍の所属なので、罵声を浴びせられたり、石を投げられてもいた。だが、彼女達は功労者だ。馬超は同志である
二人が石で傷付かないよう、飛んでくる石をそれとなく防ぎながら、歩を進めていくのであった。
□洛陽宮殿 / 謁見の間
――諸侯は謁見の間に入室すると、鎖を解かれる。そして楽進達の指示の下、指定の位置に整列させられた。
戦闘に参加していない諸侯は後方に。戦闘に参加していた主要勢力の者達は前方に。今にも失神しそうな者、屈辱に歯軋りする者、
焦燥と困惑を露わにして辺りを見回す者、そして静かに裁きの時を待つ者――謁見の間は静寂に満ちていた。
やがて諸侯の前に、一人の少女がゆっくりと姿を現した。次いで、二人の武装した少女達が彼女の両脇を固めるようにして現れる。
最初に現れた少女こそが、反連合が命を狙った董卓。そして後の二人は、此度特別に宮中での武装を許可された典韋と徐庶だった。
董卓は玉座の傍らに佇立し、居並ぶ諸侯を見回す。この少女は一体誰なのだ――そんな顔をしている者が殆どだ。
「……お初にお目にかかります。私は董卓、字を仲頴と申します……皇帝陛下の勅諚により、相国を務めている者です」
董卓が一礼してから名乗った途端、謁見の間にどよめきが広がる。諸侯は驚愕の面持ちで董卓を見つめていた。動じていない者も
幾らかいるが、殆どの者が董卓の姿に驚きを隠せなかった。董卓はちら、と劉備に目を向ける――この中でおそらくは最も董卓に
対する偏見に凝り固まっていたであろう劉備達は、どう見ても悪人には見えない儚げな少女が董卓と名乗ったことが信じられない
様子だった。人は見かけによらぬというのが世の常――内心そんなことを考えつつ、董卓は諸侯を一喝する。
「静粛に!ここを何処だと心得ているのですか」
怒声と共に放たれた膨大な覇気に、諸侯は気圧されて沈黙する。見た目には幼い董卓だが、相国を務めるだけの器量はあるのだと
見る目がある者は直感し、見る目の無い者も董卓が確かな実力者であることは感じ取った。
「今より、皇帝陛下の御成りです。粗相無きよう願います」
董卓の言葉からほんの少し――諸侯にとっては永遠とも取れる時間が過ぎた頃、後漢王朝第十四代皇帝・劉協がその姿を現した。
それを見た諸侯は平伏する。劉協の護衛役である典韋と徐庶は玉座を挟んで両側の、玉座から少し距離を取った所で跪き、董卓も
また玉座の傍らに跪いた。劉協は謁見の間を見渡して確認した後、ゆっくりと玉座に歩み寄り、その前に立った。
「……皆、面を上げよ」
瞬間、時ならぬ風が謁見の間を駆け抜けた――この場にいた全員がそう思った。それは劉協が発する覇気。若年ながらその覇気は
凄まじく、反連合の内でも強大な覇気を持つ曹操や孫策ですら霞む――とまで人々に思わせた。この溢れんばかりの覇気を纏った
少女が、殆ど死に体としか言いようの無い漢王朝の皇帝であると誰が想像しただろうか。それほどまでの存在感だった。
「私がこの漢の現皇帝、劉協である。長旅御苦労であったな、反董卓連合軍よ……そなた達の行い、この劉協も全て耳にしている」
さらりと皮肉を口にする劉協。皇帝としての態度を取らなければならない故に硬い語調で話していたが、皇帝だけが用いることが
出来る『朕』という一人称を用いなかったことを不審がる者もいた。無論、以前に用いたことはあったが、今は『特殊な事情』の
ために、生真面目でやや融通の利かない性質の劉協は、使っても問題無いであろうそれを頑として用いようとしなかった。
「そなた達をここに召喚したのは他でもない……朝廷の権力争いに巻き込まれ、それでも状況を打開せんと采配を振るって我らを
助け、そして荒れ果てた洛陽をここまで甦らせた董卓を排さんと集ったそなた達に、沙汰を申し渡すためである」
言葉を切った劉協は、諸侯の顔を見回す。劉協の意図以上に威圧感があったのか、数人ほどが劉協の視線に躰をびくつかせた。
「裁定を始める前に言っておく。そなた達に情状酌量の余地は無い。董卓を生贄に、無用な争乱の世を作り出さんとしたのだから。
事と次第によっては考えるが、余程の理由でなければ認めぬ。また、この場で嘘を述べて私を欺こうとしようものなら、それは
罪の上塗りとなる故、よく心得よ。場合によっては、この場で首を刎ねることも厭わぬ。重々承知しておくように」
一瞬、人々はどよめいた。その言葉はまるで、劉協自身がこの場で誰かの首を刎ねることも厭わないと言ったようなものだからだ。
見れば、劉協は長剣を腰に帯びている。つまり、今しがた口にしたことを自ら実行する用意と覚悟が、劉協にはあるのだ。それは、
統治者としての劉協の峻厳苛烈な姿勢を窺わせるものであった。
「これより、裁定の場を開くものとする。初めに、此度の裁定の立会人を紹介しようと思う……」
その言葉を合図に続きの間に繋がる扉が開かれ、数人が入室して来る。そこに見知った顔が居たのか、諸侯の中から小さな驚きの
声が聞こえた。入室して来た者達はいずれも著名な人物であり、知っている者も多いのであろうから当然のことと言えた。
「先ずは、青州牧・孔文挙」
青く清楚な装いの、膝裏までの青い長髪を持つ少女が一礼する。青州牧・孔融――漢王朝の国教たる儒教の祖・孔子の末裔である。
「次に、北中郎将・盧子幹」
盛大な巻き毛の銀髪を持つ、やや童顔だが妙齢であろう女性が一礼する。北中郎将・盧植――大陸北東では名の知れた智者である。
「続いて、治書御史・司馬建公」
漆黒の髪に立派な髭を蓄えた、壮齢で強面の、背の高い男性が一礼する。治書御史・司馬防――かの名門・司馬家の現当主である。
「最後に、涼州筆頭・馬寿成の名代として、その長女・馬孟起」
そして、礼装を纏った馬超が一礼する。彼女は馬騰が寄越した援軍であるので、名代として裁定の場に立ち会うことになっていた。
「立会人の紹介は以上だ。さて、個別で呼び出して裁くことも考えはしたが……朝廷に弓を引いた者同士だ、恥は共有してもらう」
劉協は玉座にも座らずに、立ったままで話を進めていく。腰に剣を佩いているので、普通の椅子なら兎も角、玉座のような椅子に
座り難いというのが理由だが、此度の争乱に関して思うところがあるという理由もあって、劉協はそうしているのであった。
「先ずは大元の原因となった者から裁こうと思う。檄文は連名で出されていたな……ああ、余計な茶々は入れてくれるな。現物は
私も持っている。徐州牧・陶謙が使者を通じて送ってくれた故な。さて、先ずは連合軍の盟主……冀州牧・袁紹、前に出よ」
最初に呼び出されたのは、連合軍を糾合した袁紹であった。すっかり人が変わったようになった彼女は、粛々と前に進み出て来る。
「袁紹よ、先ずはこの檄文が真に本物であるかをそなた自身の目で検めよ」
そう言って劉協は傍らの徐庶に檄文を渡し、彼女の手を通じて檄文は袁紹の手へと渡った。袁紹は命に従い、檄文の真贋を検める。
「……間違い御座いません。わたくしが部下に命じて書かせ、冀州牧の印璽にて捺印し、各地の諸侯に送ったものに御座いますわ」
「確かに聞いた。では申すが良い、そなたは何故董卓を排さんと欲し、嘘塗れの檄文を発して諸侯を要らぬ争いへと誘ったのだ?」
検めた檄文を元通りに畳んで徐庶の手に返した袁紹は、劉協からの問いに少し間を置いてから、ゆっくりと語り出した。
「恐れながら……包み隠さず申し上げれば、此度の連合はわたくしめのつまらぬ嫉妬に端を発するものでした。当時のわたくしは
名門袁家の出という見栄に凝り固まっていたのです。それ故、然程名が知られていたわけでもない董卓さんが相国という大任を
得たことに、相手への評価よりも先に醜い嫉妬が出てしまいました。たったそれだけの、弁解の余地すら無い理由ですが……」
「……そのためだけに連合まで組んだか。名家の者として振る舞おうとするならば、何故戦など起こすのだ。董卓が本当に悪行を
働いているという証があれば未だしも……そなたが先ず為すべきは董卓との対談であった筈。戦にしても、降伏勧告すらせずに
問答無用で叩き潰そうとするなど……それでは名家どころか野蛮な賊と何ら変わらぬ。高貴さの欠片も無い」
「……汗顔の至りに御座います」
「此度の無体な行動は袁家という家名の格に大きく響くであろう。私情で戦を起こしてはならぬ。それが民に知れたらどうなる?」
「……袁家は民心を失い、領地は乱れるでしょう……尤も、既にそれは失ってしまっているのでしょうけれど……」
劉協の静かな叱責に恐縮する袁紹。だが、正直に罪を告白したのだから、劉協もそれ以上追及する気は起きなかった。正直者とは
こういった時にこそ得をする人種なのである。元来、袁紹は色々と正直な人間。その性質は良い方向に向かいつつあった。
「袁紹よ、そなたは己の嫉妬だけでこの要らぬ争いを引き起こしたのだ。その罪が如何に重いものであるかは、心得ておろうな?」
「はい」
「分かっておるなら良い……神妙に沙汰を待て。下がるが良い」
袁紹が慎み深い足取りで下がっていく。かつての彼女を知る劉協は、話には聞いていてもその変貌ぶりに驚嘆せざるを得なかった。
そしてそれを顔には出さず、劉協は次なる咎人を呼び寄せる。
「続いては、袁紹と連名にて檄文を発した兗州牧・曹操。前に出よ」
次に呼び出されたのは曹操であった。負傷のせいか不自由な様子で、それでもまだその青い隻眼に何かを宿し、前に進み出て来る。
「曹操、何故に袁紹を止めず、剰え連名にて虚構の檄文を発したのだ?そなたの本拠たる陳留から洛陽までは遠くない筈だがな?」
「御指摘の通りです。また、袁紹とは腐れ縁と言っても良い関係の私が、本来であれば袁紹を諌めねばならぬ立場であったことも
事実であります。しかし、反発する官の動きを抑えられぬならば、例え董卓殿に何ら咎が無くとも同じこと。なればこそ、私は
袁紹と会談を持ち……漢王朝の今後の為にも、連名で檄文を発することで事態の早期収束を図ろうと愚考したのです」
「ほう……」
「また、この件についてはあまりにも唐突過ぎる感が否めませんでした。中央からは殆ど報せも来ず、ある程度詳細な情報を入手
したのは袁紹が騒ぎ出す少し前のこと。これでは大概の者は誤解しましょう……とはいえ結果的に朝敵となり、また敗軍の将と
なったことは否定出来ぬ事実です。こうなった以上、如何なる罰も受ける所存に御座います」
曹操はそこまで言って言葉を切った。彼女の言葉に全く理が無いとは言えない――董卓自身は有能でも、此度のことは疑いも無く
外交的な敗北である。それに加え、劉協自身があまり彼女達に干渉してこなかったことも事実。それも此度の事態を招いた要因の
一つであり、その意味で曹操の指摘は決して間違ってはいない。
「……よくわかった。そなたの言うこともまた、一つの事実であろう」
「はっ……」
否定出来る材料など無い。そう確信した曹操は、頭を下げた状態なのを良いことに薄ら笑いを浮かべた。幾ら劉協についた者達が
有能でも、劉協自身が無能では意味が無い。先程の覇気には驚いたが、それも所詮は見せかけか――そう思った、次の瞬間だった。
「……だが、惜しかったな……曹操?」
「っ!?」
思わず顔を上げる。劉協は笑みを浮かべていた。そして、先のそれをも凌駕する覇気。曹操の全身を酷い寒気が襲う。躰と意識が
分離しそうになるほどの、圧倒的な存在感。劉協が放つ覇気、それは「あの男」のそれを彷彿とさせ――曹操は激しく震え出す。
「実際にやりもしなかったことを得々と並べ立てたところで、何の重みも無い。王朝の今後の為?然らば使者の一人でも寄越して
異議を申し立てれば良い。それがどうだ?送ってくるのは間諜ばかり、使者の『し』の字も無いではないか。言い訳をするにも
随分とお粗末な……そなたが中央を毛嫌いしているのは知っているが、理由としては弱い」
「そ、それは……しかし」
「他にも方法はあった。そなたほどの者が思い付かぬとは考え難い。先日皇帝になったばかりの私でさえ思い付くのだから。先ず
他の方法を取っていれば、或いはそなたの『中央が無能なだけ』という言い分も通っただろう。戦をするにせよ、より真っ当な
開戦理由が作れるであろうに。それがこれでは、『袁紹の暴走に便乗した』という以外にどう評せると言うのだ?」
「……くっ!」
「まあ、無理を言っているのは認めるが……この程度を無理だと言うのなら、そなたの覇道もお先真っ暗というものであろうな?
とはいえ、そなたの利益を考えればその方法は失策と言えなくもないかな?有為の人材は、数多く居て困るものでもあるまい」
「!?」
「ん?そなたの掲げる『覇道』とは、最早『公然の事実』ではなかったか?まだ『公然の秘密』だったか?これは済まなかったな」
曹操の反論を許さず、彼女の弱みを次々と抉る劉協。全てを知られている――曹操はまるで自身が巨大な手に握られているような、
悍ましい感覚を覚える。開かれた掌の上で踊り、いずれ握り潰される脆弱な羽虫。そんな想像が、曹操の頭を過った。
「……さて、曹操よ。そなたもまた戦を起こし、無闇に民を苦しめたのだ。その責の大きさ、罪の重さ……十分心得ておろうな?」
「……はっ」
「心得ておるならそれで良い……曹操、そなたの言に理が無いなどとは言わぬ。王朝の無力が此度の事態を招いたのは事実なのだ。
それで私を詰るのならば受け入れる……その言は民のためのものと信ずる。漢の民の明日のため、それを一つの励みとしよう」
「……有り難き御言葉。陛下の高潔な御心に触れ、心洗われる思いに御座います(全てを理解した上で、ここまで言うとはね……
結果論だけど、全てにおいて私の見通しが甘かったか……相手を試す筈が、逆に試されるなんて。一生の、不覚ね……!)」
劉協に気付かれぬよう、それでも強く歯噛みする曹操であったが、もう既に終わったこと。悔しさに身を浸すしか無いのであった。
「曹操、長々と済まなかったな。下がるが良い……くれぐれも養生するように」
「はっ……御気遣い、痛み入ります」
跪いた状態から立ち上がる際に少し顔を顰めつつも、少々足早に下がっていく曹操。その肩を震わせるのは疼痛か、或いは屈辱か。
内心を悟られぬよう努めて無表情を装う曹操だったが、親しい者達はそこに感情の細波を見て取っていた。
「……次に行くとしよう。豫州牧・袁公路よ、前に出よ」
次に劉協が呼び出したのは、袁紹に次ぐ大勢力である袁術だった。まだ幼い彼女は、補佐役として張勲を同伴することを許された。
前に進み出て来た――と表現するには苦しい。怯えきった袁術は血の気を失って真っ青になり、激しく震えていたのだから。
「袁術、何を怯えている?この場では事情を訊くだけと言った。抑々、そなたの話を聞かなければどうしようもないではないか?」
「わ、わらっ……い、いえ、わた、わた、わたくし、め、は、そ、そそそ、その……っ!?」
「……袁術がこの状態ではいつまで経っても進行せぬ故、張勲の代理答弁を認めるものとする。張勲よ、そなたの口から説明せよ」
最早擬音さえ聞こえてきそうな程に震える袁術。これではまともに答えられる筈も無い。劉協は袁術に同伴する張勲に代理答弁を
許可することにした。彼女が相当に腹黒い人間だとは聞かされているので、留意してはいるが。
「お許しを頂き……恐れながら、主君・袁公路に代わり釈明させて頂きます。私ども袁術軍は特段この連合に参加する意図は無く、
いえ抑々私どもの許には檄文など届かなかったのです。他の有力諸侯には送られていて、何故かと疑問ではありますが……」
「ほう、檄文が届かなかった?それは不自然だな。袁術は袁紹の従妹であり、また袁紹に次ぐ大勢力。豫州のみならず荊州の南陽
までも領する一大勢力ぞ。家柄を重んじる袁紹がそのような目溢しをするとは思えぬ。誰かしらの差し金であろうな?」
「私もそのように考えております」
「うむ。続けよ」
張勲の釈明を受けた劉協はそう言いながら、視線だけをそっと曹操に向けた。劉協の鋭い視線を感じた曹操は小さくびくりと反応
する。それすら曹操の差し金であったことは既に劉協の知る所なのである。劉協は曹操に意識の一片を向けたまま、視線を張勲に
戻して続きを促した。
「では、話の続きですが……私どもの配下には客将として孫策以下数名の武将及び軍師がおり、孫策軍として組織されております。
檄文はこの孫策の許に届けられ、彼女を通じてこちらにもその内容が伝わりました。それを聞いた袁術様は最初乗り気ではなく、
突っ撥ねたのですが……孫策からある提案をされ、それを受けて袁術様は参加を決められたのです」
「……申してみよ」
「畏まりました。それでは――」
張勲は話し始めた。難色を示した袁術に対し、孫策はこう提案した――曰く、袁紹の所には阿呆しか居ない、張勲が居る袁術なら
袁紹を出し抜いて連合軍に参加する諸侯を上手く操れると思われる。曰く、袁紹と仲の良いふりをすれば袁術の発言力もより強く
なる。曰く、皇帝は既に董卓の傀儡だから、董卓を追い払えば実権は宙に浮く。首尾良く董卓を追い払ってしまえば、後は実権を
袁術が握ればやりたい放題。曰く、つまりこれは袁術にとってはまたと無い好機、自分達も協力する――ということだったらしい。
劉協は頭の中で忍者隊の報告書と張勲の証言を照合していくが、食い違いなどは特に無かったので、それを信用した。
「――恐れながら、以上となります」
「よくわかった。だが、そなたはそれを受けて袁術を嗾けたのだろう?何故そなたは袁術を……いや、孫策を止めなかったのだ?」
「それは……」
「そなたは袁術の側近だ。袁術の行いに間違いあらば、それを諌め正さねばならぬ。家臣が主君を唆してどうするのだ。積極的に
主君に罪を犯させるなど、家臣の行いではない。皮肉にも袁術は『傀儡』だったな?……或いは、別の狙いがあったのか……」
言いながら、劉協はちらと孫策達を盗み見る。孫策軍の将達は一同苦虫を噛み潰したような渋面で、事の成り行きを見守っていた。
「それでも罪は罪。例え戦場ではずっと後方に引っ込んだままで孫策軍に丸投げだったとしても、だ。それは心得ているだろう?
それに、こうなったのにはそなた達にも責任の一端がある。それを重々承知の上で、己が罪を理解し、悔い改めるが良い」
「……はい」
「ふむ、正直に告白したことはよろしい。あれこれと無駄な追及をせずに済むし、償う機会も与え易いというもの。下がるが良い」
「はい。では……美羽様、行きますよ(……正直に告白?私達が反董卓連合軍に参加した理由をご存じだったということですか?
……やっぱり、私の懸念は当たっていましたか。完全に主導権を握られていた……全て御遣いさんの掌の上だったのですね……
それに、陛下は『別の狙い』と仰られた……まさか、袁家の内部事情までも知られているというのですか……!?)」
何もかも澱み無く動いているようにしか見えない状況を受け、張勲は空恐ろしいものを感じていた。このような状況になることを
予め想定しようという方が無理な話であるが、ならば『天の御遣い』達は何故ここまで流れを掌握出来たのか。軍師としての敗北
以前の問題である。未来予知でも出来るのではないか――直接面識の無い彼らに、張勲は例えようも無い畏怖を覚えるのだった。
「次に移るぞ。袁術軍が客将・孫伯符よ、前に出よ」
本来は呼ぶ意味が無い、だが最初から呼ぶと決めていた孫策を呼ぶ。先に見た険しい渋面のまま、孫策は玉座の前に進み出て来た。
「孫策よ、本来であれば袁術軍の客将であるそなたを呼びつける意味は無いであろう。だが、先の張勲の証言もある故、そなたに
問わねばならぬことができた。では問おう。そなたは何故、袁術を反董卓連合軍に参戦させようと嗾けたのだ?」
「はっ……我ら孫家が代々守りし江東の地、それを取り戻すために御座います」
「ほう、江東の地……呉の地を己が手に取り戻さんと、そなた達を保護する袁術を教唆扇動して、連合軍に参加させたというのか」
「左様で御座います。袁術は民を食い物にする、唾棄すべき為政者。そんな者の存在を許しておいては、江東の民達が苦しむのは
目に見えています。実績と名声を得て、江東の地をこの手に取り戻すためには、此度の戦は必要なものでした」
傍から聞いていれば、孫策の側に理があるように思われた。確かに、袁術は良い為政者とは言えない。幼い故に無知だが、為政者
たる者としての自覚が無いどころか、成長する様子も無い。それを許してはおけないという気持ちは、至極真っ当なものと言えた。
だが、劉協はそれに共感を覚えなかった。暫しの思案――その理由を明確にしてから、劉協は再び孫策に問う。
「……そんな袁術を逆に利用して、いずれはその喉を食い破らんと企んだ事……江東の民の平穏が懸かっているとはいえ、洛陽の
民に平穏を齎した董卓の生命を狙い、民に苦痛を味わわせた事……それは、そなたの言う袁術の我儘と、どう違うと言うのだ?
汜水関に放って敵の暗殺を図れる位には優秀な隠密がいるのだから、それを洛陽に放ってみるべきだったのではないか?」
「……それは」
「袁術が最初乗り気ではなかったから、私を出汁にして唆したのであろう?それだけなら一笑に付す程度で終わっただろうが……
早まったな、孫策。情勢とは常に変化する流動的なものであるからして、情報収集は常に必要なことだ。そなたはそれを怠って
失敗したのだ。戦うべき相手を間違えた。結果論でしかないが、知ろうと思えば知れた筈のことを、知ろうとしなかった」
「恐れながら、陛下。陛下は袁術を擁護されるのですか?」
劉協の物言いに堪らずそう言い返す孫策。袁術に有利な内容に思えたからであった。だが、劉協はそんな孫策を冷たく睨み付ける。
「……袁術を擁護?何を馬鹿な。私が言ったことを実行したところで、果たして『袁術の利益に直結する』とは限らぬであろうが」
「っ!?」
短絡的な問いと、含みのある答え。孫策は劉協の言葉の真意を理解した。理解せざるを得なかった。仮定の話でしかないにしても、
袁術の悪政について直談判し、直接の裁きを願う機会を得ることは可能だったのだ。寧ろ、袁術は相当な不利益を被った可能性が
高い。あの「不確定要素」の動きは想定出来なかったにせよ、確かに孫策達は戦うべき相手を間違えたのだ。
「はっきり言おう。そなたは可能性の扉を自ら閉じてしまった。その様子では自慢の勘も働くまいが。孫家再興に傾注するあまり、
見えていなければならぬものを見失ったようだな。それが悪いとは言わぬ……文台は素晴らしい指導者であった。懸命にならぬ
ほうがおかしい。そう、それはとても大切なことだ……だからこそ、そのために民を苦しめては、何にもならぬであろうが」
劉協とてわかっている。第三者故に知り得る事、理解出来る事があるだけで、当事者にそんな余裕が無いことは。それでも敢えて
こう言ったのは、袁術と孫策の関係に「闇」が見えたが故であった。目的を果たすため、甘言を弄して無知な子供を利用する――
十常侍や外戚という「闇」を嫌というほど見てきた劉協にとって最も嫌悪すべきこと。私欲故の行動では無いにせよ、どうしても
その行為を、劉協は許すことが出来なかったのだ。
「己が目的を衆目に晒すだけの腹は決まっていたようだな。ならば、そなたの犯した罪を償うすべは幾らでも残されていよう……」
「はっ……」
「暫くは養生せねばならぬのだ。その間、剣を置いてゆっくりと考えてみよ。下がるが良い」
「はっ……承知仕りまして御座います(陛下は全部知ってたってわけね……いや、全部『知らされた』か……思い当たる節なんて
一つしか無いじゃない。こっちが目を付ける前に、目を付けられていた……私の勘が働かないのも道理ね。全部掌の上だもの)」
劉協との遣り取りから張勲と同じ解答に辿り着いた孫策は、自慢の勘が殆ど役に立たなかった原因にも気付く。ここまでの先見の
明を持つ『天の御遣い』への関心を深めながらも、自身の鋭い勘が全く通用しない相手と知ったことで恐怖が湧き上がり、孫策は
益々余裕を失くしていた。同じ答えに至っていながら、奇しくもそれは張勲が抱いたそれとは真逆の恐怖であった。
「次に参ろう。では――」
その後、劉協は袁術同様に連合軍に参加しながらも戦場では何もせず後方で高みの見物に徹していた諸侯を一人一人呼び、彼らの
釈明に耳を傾けていったのだが――聞けば聞くほどに責任転嫁や取って付けたような物言いばかり。劉協は呆れ返ってしまった。
「そなた達……一体、何のために連合軍に参加したのだ。参加した時点で『逆賊となる可能性』が生じること位、わからないとは
言わせぬ。確認の使者の一つも送らず、軍を率いて連合軍に参加し、それでいて後方で高みの見物を決め込み、こうして敗北と
相成れば『全ては漢王朝の為だった』だの『袁紹を見限った』だのと嘯いてみせる……もっとましな言い訳は出来ぬのか」
自分で言っていて馬鹿らしくなるような内容だった。これらは全て事実なのだが、当然ながら諸侯は戦闘に参加していないことを
理由に、口々に喚き立てる。しかし、今更どう取り繕おうとしても無意味なことを理解しておらず、況してや焦燥も極まったかの
ような態度でそんなことを言っても聞き入れられるわけがない。その様は滑稽を通り越して哀れとさえ言えた。
「……では聞かせて貰おうか。そなた達のしたことの一体どこが、漢王朝の為になるというのか。後方で高みの見物を決め込んで
いたのはわかったが、それ以外に何をしたのだ。袁紹を見限ったという割にはそのまま連合軍に居て、相国の助けになるような
ことも一切やらなかった……はて、これを『勝ち馬に乗ろうとしていた』以外に何と評すのか」
騒ぎ立てる諸侯に覇気を中て、ふっと静まり返った彼らに、劉協はそう問い掛けた。本当に何もしていないといえばそうなのだが、
厳密にはただ「何もしていない」のではない。「反乱軍である反董卓連合軍に参加して、そこでは何もしていない」ということで
ある。そこで何か動きを見せれば彼らの言い分にも説得力が生まれようものだが、何もしていないのではどうしようもない。
覇気を中てられたこともあるのだろうが、劉協の問いに完封された諸侯は言葉を完全に失っていた。その様子を見た劉協は小さく
嘆息し、訊問を終わらせにかかる。
「……言いたいことが無いのなら、もう良い。各々神妙に沙汰を待て」
劉協が言葉を切って一瞬の間を置き、諸侯はそれぞれ慌てたように下がっていく。最後の一人が戻るまで見届け、訊問が再開する。
「……次に移る。平原国の相・劉玄徳、前に出よ」
そして、劉協は愈々同族である劉備を呼び出した――驚いたことに、劉備は返答こそしないながらも自らの足で前に進み出て来た。
今迄の様子からすると呼び出しに抵抗するかと思われた彼女は、俯きながらゆっくりとした足取りで歩み出て来る。その後ろでは
関羽が何やら不満げな表情を浮かべていた。呼び出される謂れなど無い――この期に及んでまだそう思っているのだろうか。
「……そなたが、中山靖王の末裔と名乗る劉備か。同じ漢王朝の系譜……『劉』の血筋に連なるそなたとの出会いが、このような
形になってしまったことが残念でならぬな、劉備よ……こんなことになろうとは、思いもよらなかったぞ……」
「……」
劉協の言葉にも受け答えせず、俯いたままの劉備。本来であればこのような態度は礼を失したものであるが、劉協は咎めなかった。
しかし、劉備の態度が問題になるのはここからだった。
「だが、同姓だからと言って特別扱いはせぬぞ。では、問おう。劉備よ、そなたは何故この反董卓連合軍に参加した?」
「……」
「……どうした?気分が悪いならば別室を用意させるが……それとも、そなたの方が『答え』を用意していなかったというのか?」
「……」
「この場での黙秘は決して賢明な選択とは言えぬぞ、劉備。そなたが何も言わぬとあらば、こちらも『見たまま』で判断する故な」
「……」
そう、劉備は劉協が何を言おうと一切反応せず、ずっと俯いた状態で跪いているばかりで、問いに答えようとすらしない。黙って
いるだけなので然程悪質ではないものの、ここまで言われて答えないというのは明らかに異常な態度であった。
暫しの静寂が広間に満ちる――それを破ったのは、やっと顔を上げた劉備だった。
「……どうして、ですか?」
「ん……?」
「どうして……どうして、初めに本当の事を教えてくれなかったんですか?」
漸く反応が返ってきたので内心ほっとした劉協だったが、それとは別に劉備の言い放ったことに違和感を覚えた。その言葉は劉協
ではなく、敵視していた董卓に向けられた――彼女への明確な不満が込められていた。
「劉備さん、その発言は――」
流石に董卓も劉備の発言を聞き咎めたようで、即座に発言の取り消しを劉備に求める――が、劉協はそんな董卓を手で制止した。
「待て、董卓。今は私が話しているのだ。そなたの出る幕ではない」
「……申し訳御座いません」
「……劉備、私の問いに答えぬはまだ良い。しかし、この期に及んで董卓を責めるとは一体どういう了見か。何故、初めに事実を
教えてくれなかったのか、だと?……抑々の論点が違うであろう。何故、そなたは『自分で知ろうと』しなかった?」
「それは、誰も帰ってこなかったからと檄文に書かれていたからです」
その回答を聞き、劉協は思わず頭を抱えそうになった。そんな回答がこともあろうに同じ劉姓を名乗り、中山靖王の末裔と称する
劉備の口から出たという事実には、事前に知らされていたこととはいえ、改めて落胆せざるを得なかった。
「……そうか。では改めてそなたに問おう。そなたは何故、反董卓連合軍に参加したのだ?」
「……わたしは、いえわたし達は、大陸に住む人達みんなを笑顔にするために起ち上がりました。今回のことも、董卓さんが都に
住む人達を苦しめて、笑顔を奪っているって聞いて、連合に参加したんです。わたし達の目指す国造りのためにも、民を苦しめ、
笑顔を奪う董卓さんを倒して、都の人達を助けてあげたいって……」
「……」
「それで行ってみたら、約二十万もの兵力を持つ董卓軍が待ち構えていて……本当に正しいこと、都で暴政を敷いたりしていない
なら、隠す理由なんて無いと思います!最初から話し合っていれば、誰も傷付かなくて済んだのに……どうしてなんですか!?」
劉協は目を見開く。驚くほどに純粋で、驚くほどに幼稚で自分本位な言葉。一瞬、耳を疑うほどの――御都合主義そのものだった。
「……そなた、本気で言っているのか?ここまでの状況を見ても尚、そう言い切るのか?」
「本気ですっ!最初から……最初から話し合うことが出来れば、戦わなくても良かった筈です!」
劉協が最終確認のように問いかけても尚、己の主張を曲げずにそう言い切る劉備。その瞳は純粋だった――純粋過ぎて空虚さすら
内包した青い瞳に言い知れない不安と不快感を感じた劉協だったが、努めて平静を保ち、数瞬の後に劉備を睨み付ける。
「……その様子では、敵と見做した者に何を言われても信じるまい。敵に真相を教えられて止まるような者が、抑々危険に満ちた
戦に赴くか?軍勢を動かすのにどれだけのものが必要か、わからないのか?軍勢を動かしておきながら、無意味だとわかったら
退けば良い、では済まされぬわ……そんなことをすれば、どれだけの不利益を被るか。わからないとは言わせぬぞ、劉備!」
「っ、で、でも私は!」
「軍を動かす資金はどうやって調達した!?物資は!?人員は!?そなたの言う民が納め、作り、参加したから揃えられたのだと、
まさか理解していないなどとは言うまいな!?それらを供した民にそなたはどう報いるのか、今のそなたに答えられるか!?」
「それは!みんなを笑顔に――!」
「答えになっていない!私が問いたいのは目的ではなく手段だ!明確な筋道を立てられもせぬ理想を、どうして評価出来ようか!」
理想しか語らない劉備に、劉協はこれまでに無く強大な覇気を以て畳み掛ける。碌に劉備の弁明を聞いていないと言えばそうだが、
それもここまでの弁明を聞いた上でのこと。激しい怒りを見せる劉協に、劉備は完全に呑まれていた。
「……民の為にと、理想を掲げて起ち上がったその意気や良し」
立ち尽くす劉備がはっとして、縋るような眼で劉協を見てくる。まるで激流の中で藁を掴むかのような、そんな必死な視線だった。
実際、その点では決して劉備を悪くは思っていなかった。しかし、それだけでは認めるに足らないと、劉協は最後の言葉を紡ぐ。
「……だが、世とは人が作るもの。そなたもまた、この世を形作る一人なのだ……いつまでも被害者でいられると思うでないぞ」
どんな刃よりも鋭い瞳で劉備の眼を真正面から射抜く劉協。その言葉は皇帝として放ったものではなく、一人の人間として放った
言葉であった。劉協もまた世を形作る者の一人。そして皇帝であるが故、背負う責任はこの大陸で最も重いのである。
「神妙に沙汰を待つが良い。下がれ」
劉備が反論の術を失ったと見た劉協は、そう言って訊問を切り上げる。気勢を削がれた劉備は、その命に素直に従うしかなかった。
「……あまり良くないな、感情的になるというのは。さて、次に参るが……これで最後だな。幽州牧・公孫賛。前に出よ」
最後まで残っていた公孫賛は、あくまでも粛々と、適度に緊張した表情で進み出て来た。裁きを受ける人間としては実に相応しい
態度だが、それを見た劉協は何故か可笑しさが込み上げてきて、口角が吊り上りそうになる。公孫賛のやってきたことを鑑みれば、
彼女はもっと堂々としていても良いくらいなのに。吊り上りそうな口角を叱り付けつつ、劉協は短く問うた。
「……さて?」
「……我が軍が連合軍に参加することと、その理由につきましては事前に使者を通じて奏上致しました故、私から言うことは何も」
二人のあまりに端的なやり取りに、諸侯がざわつき始める。事前に「これから反乱軍に参戦します」などと連絡するような馬鹿は
流石にこの中にもいないだろう。そんなことをすれば潰されるに決まっているのだ。にもかかわらず、事前連絡したと言い切った
公孫賛。それが何を意味するのか――諸侯の混乱を背にして粛然と跪く公孫賛に、劉協は満足げに頷いてみせる。
「そうだな。私からそなたに問うべきことも無いが、命じることが一つある。そなたは家臣を連れて、董卓軍諸将の傍らに控えよ」
「はっ」
特に何か言うことも無く、劉協はそう命じた。これで全ての真相は割れたも同然であった。事ここに至って理解した者達は一様に
歯噛みし、鋭い視線を公孫賛の背に向ける。曹操は予想外の真相に愕然とし、孫策は俄然興味が湧いて来たのか身を乗り出す。
「……気付いていた者も中には居ると思うが、公孫賛は董卓との連携の為に敢えて反董卓連合軍に兵を率いて参戦していた。所謂、
埋伏の毒だな。事前にそのように連絡を寄越して来た故、私の名において私自身が作戦を承認し、公孫賛には改めて密偵の任を
命じたものである。これは即ち勅命であり、公孫賛も公孫賛で後には退けなくなったが……真面目に任務を遂行してくれた」
劉協の口から語られる、公孫賛軍の参戦理由。彼女から命じられたのであればその行動に正当性はあり、考慮すべき事情ともなる。
ここまで言われれば、誰もが真相を理解した。皆が驚愕の面持で沈黙する中、まるで信じられないものを見るかのような目をして
公孫賛と劉協を交互に見やる者がいた――劉備である。そちらをちらと見遣ってから、劉協は説明を続ける。
「連合軍の内部情報、具体的には合同軍議の内容、各軍の様子等々……公孫賛によって報告された情報は数多い。袁紹を停戦へと
向かわせたことも大きな成果である。証拠の書状もここにある。公孫賛が袁紹から言付かったものと、袁紹自身が汜水関守将の
華雄に宛てて送ったものがな……さて、盧植よ。公孫賛は師であるそなたにも事前に連絡したと言うが、真か?」
董卓が手渡した二通の書状。劉協はそれらを手に持ち、高く掲げて諸侯に示す。それはさらなる真相を明示し、諸侯は完全に絶句
する。つまり、袁紹は逸早く全ての真相に気付いていたのだ。他ならぬ、反董卓連合軍を糾合した袁紹が。
諸侯の驚愕を特に気にした様子も無く、劉協は立会人として参加する盧植の方に向き直り、彼女に確認を取る。
「……それは間違い御座いません、陛下。というより、公孫賛本人が私の私塾まで足を運び、直接私に伝えに来たのです」
「確かな事実であろうな?」
「はい」
「そうか。証言としては十分だ。さて、皆の者……そういうことだ。これで全員終わったな?それでは、判決を申し渡す。此度の
事件において、袁紹及び曹操が連名で放った檄文を受け、反董卓連合軍に与した者達には官職の剥奪と領地の召し上げを命じる
ものとする。直接戦闘に参加しなかった者達も、この例外ではない。尚、公孫賛については先述した理由により、これを無罪と
する。故に処罰の対象には含まれない。異論・反論は、これを一切認めないものとする」
劉協が判決を下すと同時、まだそれに納得出来ないのか一部の者達、特に日和見の諸侯が騒ぎ出す。中には女性の半ば絶叫じみた
怒号も聞こえたが、劉協はそれらを全て把握しつつも、その一切に耳を傾けず、鋭い双眸と覇気を以て諸侯を黙らせる。
「静まれ。これにて、裁定を終わるものとする。この後はそなた達の以後の処遇を詮議する故、そなた達には一旦入牢することを
命じるが、体調に問題がある者については、後で盧植に回らせる故、その時に申告せよ。適切な処遇を図る。そなた達の率いる
軍勢については心配せずとも良い。董卓軍と禁軍が責任を持って監理に当たる故な。以上である……董卓」
「はっ」
裁定の終了を宣言した劉協が、公孫賛を除く諸侯を牢に連れて行かせるため、傍らの董卓に命じようとした、その時――
「――恐れながら、陛下!」
――突然、曹操が声を発した。
「……異論や反論は一切受け付けないと言った筈だ、曹操。それとも、何か疑問点でもあるのか?それならば聞こう。申すが良い」
「決して異論や反論などでは御座いませんし、私に下された処罰への不満があるわけでもないのです。ですが、陛下の仰る通りに
疑問が一つ御座います。それは、どういうわけかこの場に姿を見せない『天の御遣い』についてです」
「……ほう?」
不満など無いと言ったにもかかわらず、往生際の悪さを見せる曹操。だが、発せられた問いに劉協は敢えて鋭い視線を以て応じた。
「彼らが董卓の側に付いたことは事実でしょう。その功績も否定出来ないもの……しかし、それらを全て打ち消して余りある罪を、
あの者達は犯しているのではないのですか?大陸は漢の世であり、その皇帝である陛下は即ち『天』。陛下を差し置き『天』を
騙るなど、陛下を、ひいては漢王朝を蔑ろにする許し難き不遜。あの者達もまた、裁くべき咎人ではないのですか?」
誰がどう聞いても「負け犬の遠吠え」としか思えない、あの誇り高い曹操にあるまじき見苦しい訴えだった。だが、この場に居る
殆どの者、即ち「事情を知らない」連合軍の参加諸侯はその一部を除いて同意し、特に日和見の者達がまたしても騒ぎ出す。まだ
事情を知らされていない盧植や孔融も、同意こそしないまでも同じような疑問は抱いていた。尤も彼らは劉協の側に付き、再生を
始めた漢王朝を護るために戦ったので、曹操の言っていることは屁理屈に近いのだが、一理あることもまた確かだった。
(ふふふっ……これは否定出来ないでしょう。公孫賛はまだ良いわ。ちゃんと無罪にするに足る理由と功績を持っている。けれど、
あの『天の御遣い』達は別問題。事実は事実として否定しないまでも、皇帝を差し置いて『天』を騙るのは功績を帳消しにする
大罪よ。これをそのままにしておくのは付け込まれる大きな隙になる。さあ、陛下はこれをどう切り抜けるのかしら?)
半ば以上只の意趣返しではあるが、中々の一手を打ったと曹操はほくそ笑んだ。劉協が道理に重きを置く公正な人物であることは、
曹操もこれまでの流れで理解している。だからこそ「『天』を騙る」という大罪を犯した者達を放っておくことは彼女の在り方に
反する故に、これを持ち出せば劉協は『天の御遣い』を裁かねばならない。今迄の裁定の公平性を覆しかねないからだ。
だが、劉協は曹操の思惑などとうに見透かしていた。そして劉協の深謀と秘された事実は曹操の思惑を超え、劉協の反撃が始まる。
「……流石は曹操、機を見るに敏であるな。丁度良い時にその名を持ち出してくれた……こちらが呼ぶ前に来てくれたようだぞ?」
劉協がそう言ったとほぼ同時に扉が開き、件の『天の御遣い』達が姿を現した。戦場で見られた戦装束などではなく、見たことも
無いような輝く衣服を身に纏い、全身から煌めく粒子をはらはらと舞い散らせている。それはある種異様な光景だったが、同時に
えもいわれぬ美しさであり、誰もが一瞬それに見惚れた――その矢先、光を纏う青年はとんでもない一言を放つ。
「協、あまり曹操を弄ってやるなよ。恨まれるぜ?」
「寧ろ、恨まれているのはあなたでしょう。曹操らしくもない意趣返しなど仕掛けてくるのですから、余程恨みを買ったのでは?」
「違いない。奴さんは執念深いからな、後が怖いよ……」
まるで打ち解けた間柄のような、親しげな会話を交わす両者。ずっと硬い語調で話していた劉協が、気の置けない友人との会話を
しているかのような柔和な態度と丁寧な語調で、『天の御遣い』と接している――いや、それ以上に理解出来ないのは。
「北郷一刀……!貴様、陛下を前にしてそのような態度を……しかも、陛下の諱を呼び捨てにするなど、無礼の極みよ!」
相手の諱を呼び捨てに出来るのは、その者の親や主君など特定の目上の人物に限られる。故に『字』があるのだ。『真名』という
風習があるこの大陸では『姓・諱』を繋げて呼ぶ程度なら然程無礼ではなく、割と自然に通用する。しかし、『真名』を許可無く
呼ぶ程ではないにせよ、諱を呼び捨てるのは礼を失した行為である。況して自分より目上の、よりにもよって皇帝相手になど。
それにまたしても多くの賛同者が現れ、謁見の間は騒然となる。「そうだ、無礼者め!」、「陛下、その者達を斬首に!」などと
喚いていたが、『天の御遣い』達は元より、劉協までもそれらを意に介した様子を見せず、逆に劉協が制止にかかった。
「静まれ!!!!!」
凄まじい大音声が放たれ、謁見の間全体がびりびりと震える。その迫力に沈黙した諸侯を見回し、劉協は再び硬い語調で話し出す。
「……私がそう頼んだのだから、そなた達が咎められることではない。今は黙っているが良い」
劉協の回答に、諸侯はまたしても驚愕した。先の「公孫賛の内通」など驚くに値しないと言い切れるほどの、全く有り得ない事態。
皇帝が誰かに諱を呼び捨ててくれるよう頼むなどと、まるで自分を相手よりも下に見ているようではないか。皇帝以上の地位など
大陸には存在しないというのに。『天の御遣い』は本当に『天』からやって来たというのか。
一方、事情を知っている北董連合軍諸将や司馬防は全く落ち着き払っていた。その傍らでは公孫賛軍諸将が驚愕する諸侯と同様に
驚き、混乱しているにもかかわらず。内通していた公孫賛達も知らない事実があるのか?――曹操は眉根を寄せた。
「本題に入る。連合軍集結の時より遡って、一月と少し前だったか……私が『天の御遣い』達と出会ったのは。董卓に危機を報せ、
助力するために上洛して来たのを董卓が迎え入れた。軍勢も率いず、数人の従者のみを引き連れて。此度の事件に際して董卓軍
側に居た将の内、幾人かは彼らの従者だ。一つ言っておくと、私も董卓も二人を呼び寄せてはいない。接触も一切無かった」
明かされる新たな真相。つまり彼らは誰に呼ばれたわけでもなく、自ら洛陽に赴いたのだ。それが信じられないのか、彼らが以前
属していた劉備軍から反論の声が上がりかけるが、同じく劉備軍の将達がそれを制止していた。
「あまり、彼らの虚名については気にならなかった。公孫賛は実に良い方法で彼らの名を広めた……先ず実績を積ませ、然る後に
虚名を広めるという方法は、より確かな信頼を得ることが出来る。だからこそ、興味を示した者達が居る……そうであろう?」
そう言って、劉協は幾人かを順々に見遣る。曹操、孫策、そして劉備――彼女達は特に強い興味を示し、自陣営に勧誘した者達だ。
確かに、公孫賛は上手い方法を取った。それは方法としてはごく普通であるだけに、余計に有効な手だった。
「その方法では亀の歩みとなろうが、それだけに確実である。本人の能力次第で早くはなるだろうが……無論それもあるが、民の
評判も一つの理由。それも併せて鑑みるに、少なくとも『彼ら自身』は信頼に足ると判断した。虚名はあくまで虚名でしかない。
大切なのはその者自身。その者の虚名や理想などではない。実を伴わねばな。実績は信頼に繋がると、皆もよく知っていよう」
全くの道理であった。名に頼ることなく実績で示した能力と人格。それを評価するのは当然である。同じように『天』を名乗った
黄巾党は犯罪組織でしかなかったが、『天の御遣い』は全くの逆だった。涿郡、いや幽州があそこまで発展したのは彼らの手腕に
依る所が大きい。そこに疑いを差し挟む余地は無いし、出来ない。それを評価し、彼らを自陣営に勧誘した者は尚更である。
「抑々、彼らを捕縛することを朝廷が命じていない。理由は我が父・霊帝の意向である。つまり、漢王朝は彼らの存在を黙認した
ことになる……この時点で、彼らを罪に問う理由は消えているのだ。彼らの捕縛を進言してきたのは張譲だったが、父はそれを
却下した。痛快だったぞ?食い下がる張譲を、いきなり立ち上がった父が殴り飛ばしたのだから。間の悪いことに何進が近くに
いてな、騒ぎを聞きつけて飛び込んで来た。権力争いで劣勢に立ちたくない張譲は、父の命に従うしかなかった……」
劉協から真相が明かされ、曹操は小さく歯軋りする。確かに辻褄が合わないのだ。漢王朝が『天の御遣い』を罪に問うつもりなら、
そのような動きを見せる筈。その虚名の真偽は別として、「『天』を名乗ることが既に罪」であり、曹操自身も先程そう断言して
いる。だが実際には霊帝の意向が通り、『天の御遣い』は放置された。公認ではなく黙認ではあるが、『天』を騙る者を『天』を
名乗れる漢王朝が黙認するというのは即ち、公認したも同然。これでは今更曹操が彼らを罪に問える筈も無い。
「まあ、蓋を開けてみればそんな滑稽な話よ。特に悪行を為しているわけでもなく、公孫賛の善政の手助けをし、民の評判も良い。
その上、『漢王朝が黙認した』という事実。極めつけに、誰も彼らのことを中央に通報しなかったときている。腐敗した中央に
何か言ったところで無駄だからと言われればそれまでだが……それでは『理由としては弱い』のでな」
先程の曹操への訊問に際しての自身の発言を引用して滔々と述べた劉協は、言葉を切ると微かに笑みを浮かべて曹操の方を見遣る。
劉協に進言した曹操も、例外ではなかった。『天の御遣い』に利用価値を見い出し、手に入れたいと考えて実際に勧誘したことは、
公孫賛が董卓と通じていた以上、劉協には確実に伝わっているだろう。何より、勧誘された当人達がいるのだから。
(くっ……なんてこと!せめて一矢報いることの出来る一手だと思ったが……これでは……これでは私は只の恥晒しではないか!)
曹操はそう直感して悔しがった。朝廷側の意図を疑う要素は幾らでもあったのに、短絡的にもそれを見逃していた。劉協もそれを
察し、このような反撃を仕掛けてきたのだろう――ふと、曹操は違和感を覚えた。何故こうも澱み無く事が動く?――まさか。
(まさか……まさか陛下は、私がこのような意趣返しをすることも最初から織り込み済みで、あのようなことを……!?)
訊問の時にふと頭を過った、悍ましい想像が蘇ってくる。自分は最初から、劉協の掌の上で踊らされていたのではないか。自分の
性質を承知した上で、劉協はそうなるように誘導したのではないか――例え劉協自身にそのような意図が無かったにしても、そう
相手に思わせるだけでも相当な資質である。劉協の深謀とそれを成し得る資質に、今更ながら戦慄を覚える曹操であった。
「そして、彼らは董卓を救うために現れ、実際に救ってみせた。これで罪に問えというほうが無理難題だな。既に下された判決を
覆すのも信義に反する。無罪は決定している故、董卓の件については贖罪ではなく、純粋な功績。相応の褒賞を用意しなければ、
恥をかくのは私だ。ここまで『天の御遣い』達について一切言及しなかった理由は、まあ大体こんなところだ」
そんな曹操の心情を知ってか知らずか、劉協はそのまま話を締め括った。諸侯はぐうの音も出なくなり、これ以上何か言おうとも、
劉協にはそれに十分な反論が出来るだけの備えがあるのだと思い込み、最早誰も劉協に異議を申し立てる者は居ないと思われた。
(ふむ。まだ反論の材料を探している者がいるようですね。そんなに二人の存在や意志に難癖を付けたいのですか……愚かな)
その様子を見ていた劉協だったが、まだ何か反論しようと必死な者達の姿を視界に捉えたので、小さく嘆息した。
(では、少々の
ちらと一刀に目を遣れば、それだけで劉協の意図を察した彼は小さく頷いた。仕掛け人の同意は得られたので、種明かしをしても
問題無いだろう。少しの間を置いてから、劉協は締め括った筈の話を再開する。
「行為と実績がある以上、彼らを『天の御遣い』と信じるには十分な材料が揃ったと言える。私も流石に驚いた……洛陽に現れた
時には既に、万端の準備を整えていたのだから。馬騰に援軍を要請し、馬超を寄越させたこともそうだ。硬骨で知られる馬騰が、
皇帝を差し置いて『天』を名乗る彼らの要請に応えた……これは十分に重大事であると言えるな」
またしても、諸侯は驚愕した。西涼連合の筆頭たる馬騰が、漢王朝への忠誠篤い忠臣であることは中原にも知れ渡っていることだ。
その忠誠は最早「硬骨」とまで言われる程深い。その馬騰が『天の御遣い』と接触した上、その要請に応えて娘を援軍に寄越した
――その事実は、諸侯に多大な衝撃をまたも与えた。
「他にも、陶謙からの紹介状もある。あの者自身は諸事情で動けなかったようだが、二人が下邳を訪れた時に董卓への助力を依頼
したと書かれていた。馬騰や孫堅でさえ全く頭が上がらなかったというかの老将までもが、二人を認めているのだ。十分に信頼
出来よう。さて……これでもまだ不足か?曹操、私はそなたの問いに十分に答えたと思うが、如何だ?」
とどめとばかりに、智将として知られる陶謙の名までもが出された。中原に在れば必ず一度は耳にする、かつて勇名を馳せた猛将。
為政者としても極めて有能で、また老将故の優れた人物眼もある――そんな人物にまで『天の御遣い』は認められたのだ。或いは
試されたのかもしれないが、それでも見事に依頼を達成したことで、陶謙は彼らへの信頼を不動のものとするだろう。連合軍側の
諸侯は此度の争乱でかなりの程度、信を失うことは必至。それも相俟って、この大陸での彼らの社会的地位は益々高まろう。
「……はい。お答え頂き、有難う御座いました」
曹操は最早、躰の震えを止めることが出来なかった。何も考えることが出来なかった。ただ、眼前にある現実が信じられなかった。
自分が一体何を見誤っていたのか、それがわからなかった。それは底知れぬ恐怖となって、曹操の精神を蝕んでいた。
「よろしい……さて、話を元に戻そう。改めて、裁定の終了を宣言する。以上!……董卓!」
「はっ!これにて裁定の場を閉会致します。将達よ、処罰対象者を地下牢に!」
彼女の返答を受けた劉協は、今度こそ終わりを宣言した。その意を受けた董卓の命によって処罰対象者達は再び鎖に繋がれていき、
開かれた扉から順繰りに連れ出される。袁紹、曹操、袁術、孫策、諸侯、そして劉備――誰もが俯いたまま連れ出されていく中で、
劉協はしっかりと見ていた。劉備が縋るような眼で振り返り、またその次に繋がれた関羽が負の情念に爛々と輝く眼で振り返って
いたことを――それぞれの眼が何を捉えているのかも、劉協は全て察していた。
□洛陽宮殿 / 地下牢
――劉備軍は、他の者達が入った牢とは離れた牢に入れられていた。
つい先程まで関羽が喚いていたのだが、業を煮やした趙雲に頸椎を痛打されて気を失っていた。これまでの肉体的疲労や負傷等の
影響で、数日は目を醒まさないだろう――それが趙雲の見解だった。劉備は趙雲を責めたが、趙雲はあくまで冷やかに言った。
「理屈の通らぬことを、幾ら喚いても無駄なこと。我らの立場を御考えになるが良い」
むきになった劉備は趙雲に食って掛かるも、冷静な趙雲に悉く理路整然と反論され、遂には目に涙を浮かべて黙り込んでしまった。
そんな中、孔明は牢の隅でぽつんと膝を抱えていた。先の謁見で明かされた数々の事実は、今の孔明にはあまりにも重かった。
(……私は一体、御二人の何を見ていたの?その言葉の何を聞いていたの?)
一刀達の言動の端々には、今回のことに繋がる手掛かりが見られた。その理由も、今の孔明には理解出来た。二人は劉備の理想を
実現するために平原に来たのではない。劉備を――いや、劉備軍を試すために平原に来たのだ。劉備軍が自分達の同志たり得るか
否か、それをはかるために。そして劉備軍はものの見事に袁紹らの虚言に乗せられ、民を苦しめる結果となってしまった。掲げた
理想さえも裏切り、無意味な戦いを求めてしまった。そんな為体では、こうなるのも当然と言えた。
(私が止めなきゃいけなかったのに。私が止めていれば、こうはならなかったかもしれないのに。どうして出来なかったの……?)
自分が止めていれば――過去についての仮定は常に人を苛む。そうなった理由を理解しているが故、余計にそれは孔明を苦しめた。
(……私は一体、何のために軍師をやってるの……?)
固く膝を抱え込み、深い後悔に沈んでいく。もうどうにもならないとわかってしまった。取り返しのつかないことをしてしまった。
そんな失敗を主君に犯させないためにここにいる筈なのに、自分は一体何のために――その自問の解は、今は見い出せなかった。
□洛陽宮殿 / 謁見の間(side:一刀)
――処罰対象となった者達が居なくなり、すっかり広くなった謁見の間。そろそろ昼餉の時間という頃合である。
処罰対象者達が入牢し、その後の盧植の巡回も既に終わっている。体調に問題がある者は特にいなかったそうで、それは良かった。
だが、盧植は何か思いつめている様子で、暫く歓談している間も中々表情は晴れなかった。
その後、まだ北董卓連合軍の面々や才華、司馬防といった『仲間内』でしか知られていない各種情報について、知らない者達への
説明会といった趣の会談が持たれた。皇帝である才華までもが目線を同じくして参加するということもあり、初めのうちは色々と
盛り上がったのだが――。
「……」
――『あること』を説明し終わった今は、静寂に支配されている。驚愕のあまり石像と化した者達と、その様子に既視感を覚えて
必死に笑いを堪える者達が顔をつき合わせている。『仲間内』がどちらに属しているか、言うまでもないだろう。
「……なあ、白蓮」
「……?」
「いや、そこで恋みたいな反応をしなくても。それより君、実はあんまり驚いていないだろう」
「……おや、バレたか。ま、お前に関しては色んな意味でほぼ驚き終わっているからな。もういい加減、驚かんさ。驚いたけどな」
つまり、表に出すほど驚いてはいないのか。白蓮も母さんや婆ちゃんと面識があるから、なんとなく納得がいったのかもしれない。
「いやしかし、桜花殿が高祖で、常盤殿が光武帝……なんとなく常人とは違う部分があるようには思っていたんだ。流石にこれは
予想外だったけど、お前といると超常現象が当たり前のように起きるもんで、感覚が麻痺してきてるんだよ。慣れって怖いな」
「俺は『自分は凡人だ』という自己認識で今まで生きて来たんだぜ?なのにこれだ。驚いているのは俺も同じさ」
「……いや、お前を『凡人』と呼ぶのはかなり苦しいぞ?あっという間に順応して色々な方面で活躍したお前が『凡人』だって?」
「含みのある言い方だな」
「ふっ……はっきりと全部言った方が良いか?私だって、お前の『活躍』の影響を受けてるんだからな?」
人の好い彼女にしては珍しい、少々黒い笑みを浮かべて俺を弄りにかかってくる白蓮。心当たりがあり過ぎて何も反論出来ません。
記憶を甦らせる以前から思っていたが、『今回』の白蓮は人間性に余裕があるな。今となっては積み重ねられた過去による精神的
成熟もあるだろうけど……これも俺の『活躍』の影響、ということか?
「……さて。話が纏まったところで、皆の石化をいい加減に解くべきでしょうね……そなた達、いつまで固まっているのだ!!!」
「「「「「「「……はっ!?」」」」」」」
やや悪い笑みを浮かべてそう言った才華が、先の大音声にも負けない音量で一喝する――すると、冗談のように全員一斉に甦った。
「目が醒めましたか?」
随分と人の悪いことで……さっきも曹操を弄りまくってたから、案外才華はSの気があるのかもな。多少黒くないと為政者として
立ち行かないのは事実だけど。やはり形式ばったことが苦手なようで、裁定の間はずっと張り詰めていた反動もあってさっきから
茶目っ気を出している、というかはっちゃけている。出会ったばかりの頃のどこか儚げな様子は、そこには見られなかった。
そんな才華の振る舞いの御蔭か、石になっていた皆も割とすぐに落ち着きを取り戻すことが出来た。殊に、公孫賛軍の面々は俺と
接してきた時間が長いせいもあって、北董連合軍の面々と同様に「なんとなく納得出来た」らしい。接した時間が短い筈の静里も
同じ反応だったが――
「別に、驚くほどのことではないですの。寧ろ、今まであった違和感が解消されて、より親しみを感じられるようになりましたの」
――ということらしかった。って、君も十分驚いていたからね?何をドヤ顔で落ち着き払っているんだか。
一方の理穏や盧植だが、これが問題だった。理穏は俺達と直接の面識があり、ある程度は交流もしている分まだ落ち着いているが、
盧植とは昨日の晩餐で顔を合わせたばかりなので、彼女は酷く動揺していた。
「そ、そそ、そそそっ……そんなことが!光武帝の実子で、高祖の実孫……そんな人が現実に存在するなんて……!」
「抑々、こことは別の世界からやって来たという時点で現実離れしていると思いませんか?盧植、彼ら自身は常識を弁えた方々で
あっても、色々と良い意味で常識破りです。そなたとて何も知らぬわけではあるまい。そなたの住居は涿県に所在し、一刀達の
施策を肌で感じることが出来ていた筈なのですから」
「は、はい……それは、もう」
「だからこそ、馬騰や陶謙といった有力者達が彼らに協力したり、支援をしたりしたのだと思っています。一刀達が真摯に臨んで
いたからこその信頼なのでしょう。あの二人に、生半な想いや覚悟が通用するとは到底思えぬ。人や事を動かすのには、相応の
姿勢が求められる……公孫賛、そなたとてそうでしょう?彼らの『常識破り』を最も近くで見続けて来たのですから」
「はっ。私の取った方法は間違いではなかったようで、正直ほっとしております」
「だからこそ、亡き父も黙認という形でだが期待を懸けた。支援は何も出来なかったが、結果的に父は私達に『可能性』を残して
くれたことになります。或いは、父は何かを知っていたのやもしれない……今となってはそれを知る術はありません。それでも、
彼らを庇護し、苦難を救う力を護り育て、そして自らもその力の一部となった。公孫賛よ、そなたの功績はとても大きい」
「はっ……」
才華は先程から白蓮を称賛しきりだ。この時代には無い概念に基づいた施策など、確かに俺達がやって来たことは『常識破り』と
表現されるようなことも多い。だが、それを常識的な手法で運用し、確固たる支持基盤を形成したのは、間違い無く白蓮の功績だ。
俺達が今こうしてここに居られるのも、彼女の御蔭。俺達は、彼女に深く感謝しなければならない。
「さて……ここからは少々厄介な話題です」
柔和な笑みを浮かべていた才華が、急に顔を引き締めたことで場の空気が一気に緊張する。
「……『天の御遣い』の存在に関する政治的問題は、ある程度解消されたと言って良いでしょう。少なくとももう、彼らについて
口喧しく言ってくるような輩は出て来ないと思われます。ただ、二人の『現在の関係性』ですと、今後出て来る問題があります」
「……成程、派閥か……それに、政略結婚だとか問題はまだ山積みね」
「その通りです、簡雍。一刀達が今後中央に属することになれば、組織の長は私です。そのようなことは無いと思いたいのですが、
如何せん二人は有名になり過ぎました。二人を政治的に引き裂こうとする輩は当然出て来るでしょう。それに政略結婚……この
問題については、派閥問題以上に厄介ですね。殊に一刀は男性ですから、多くの縁談が舞い込むことは想像に難くない」
政治的な話を始めた才華の言葉を受け、政治家が本職である優雨が反応する。そういった懸念は以前からあった……俺達が別れる
ことなど有り得ないが、そういった謀略を仕掛けられないとも限らない。政略結婚という問題も、当然考えていた。現状では俺と
朱里はあくまで義兄妹であって、夫婦ではない。割り込んで来ようとする者は――居ることはわかっている。
だが、実際の所はそこまで問題にはならないだろう。『計画』の影響は、こういうところにも顕れてくるものなのだから。
「まあ、それは一刀が突っ撥ねれば良いだけなのですが……そうなると余計な問題が生じる懸念もありますから、迂闊には……」
「……ですが、陛下。それについてはあまり御心配なさらずともよろしいかと」
「む?」
優雨の反論に一瞬怪訝な顔をする才華。そんな彼女に、優雨は丁寧かつ適度に端折った説明を始める。
「別に一刀は『公』や『王』ではありませんし、今後も無いでしょう?政略結婚とは、将来的な利益を想定したものであるべきで、
禅譲を受けるどころか、いなくなること前提の一刀に縁談を持ち込んでも、血統以外に何の利益もありません。それに、一刀は
朱里と『義兄妹である』とは言ったことがあっても、『夫婦ではない』と言ったことは無い。要はそういうことです」
「……つまり、割り込む余地が無いということですね?」
「はい。それに、誰も口出し出来ないように事は進められています。反董卓連合軍十二万超もの大軍勢を思うさま翻弄し、さらに
その中でも特に精鋭である曹操軍・孫策軍計六万程度の精兵をたった二人で退け、その怒りは天変地異すら引き起こす……この
噂は、生存者という証人が大量に放たれることによって『事実』同然に語られるでしょう。その上、後ろ盾も強い」
「成程。仮に政略結婚を突っ撥ねたとしても、迂闊に動くことは出来ないということですか。軍事的にも、政治的にも」
「そうなりますね。そんなことを申し込んでくる人は大概、地位や名誉などのことしか頭に無いでしょうから、態々一刀達と争う
ために他の勢力と手を組むような真似はしないでしょう。奪い合いになることは明白ですし、そうなれば自滅は必至です。例え
健全な縁談だとしても、拒否する相手にごり押ししようとすれば、目的を疑われるというおまけが付きますので同じことですね。
況して背後に陛下が居るとなれば、政略結婚を申し込むことは半ば謀叛も同義。申し込んでくるのは余程の馬鹿です」
俺達が『力』を示したことは、後々大きく響くことになる。実際の体験者が大量に生存していて、それらが噂を広めてくれるから、
此方で広める噂との相乗効果で限り無く事実に近い真実として認識されることになるだろう。
だが、そこで終わりではなかった。優雨はふっと微笑み、そして俺達も想定していなかった「とんでもない提案」をしてきた。
「後は……そうですね。祝言を挙げ、二人の関係を明確に提示するのがよろしいかと。今ならちょうど『参列者』もいますからね」
そう言った優雨は、これ以上無いくらいの黒い笑みを浮かべて俺達に視線を送ってくる。さっきまで政略結婚云々言っていた割に、
政略結婚同然のことをしろと?有効なのはわかるが……しかも、『参列者』だって?意味深過ぎるじゃないか。何を企んでる?
「……あ~、なるほどぉ~」
優雨の提案に、一人したり顔で頷くのは風。したり顔と言えるほどの表情は無いが、その眼が一瞬鋭くなったのは見逃していない。
「何が『なるほど』なんだ、風?」
「流石は優雨ちゃんなのです。政治面での腹黒さはとんでもないのですよ~」
「だから何が?」
「……ぐぅ」
「「「「「「この状況で寝た!?って、寝るな!!」」」」」」
「――おぉっ!?お兄さんにずずいっと追及されて、その迫力から逃避しようと思わず……」
こいつ平常運転だな……いくら才華が些細なことを咎めない性質だからといってもなあ。ちなみにツッコミを入れたのは俺、白蓮、
涼音、霞、真桜、沙和である。才華の性質を承知している司馬防は特に反応しなかったが、この緊張感の中で持ちネタを披露して
ボケに走った風の大胆不敵ぶりには理穏も盧植も呆然としてしまっている――その一方、どうも才華はツボに入ったらしく、手で
口を覆って身を屈めてしまった。台無しである。
「くっくくっ……良い。程昱、そなたの見解を申しなさい」
「はい。先ずは二人の祝言についてなのですが……これについては何の変哲も無いですね~。ただ、大々的にやるというだけで~。
洛陽の皆さんをお兄さんがどれだけ誑し込んでるか把握し切れていませんが、まさか二人の結婚を祝福しない人なんていないと
思うのです。そこに、牢に入れられて悶々としている人達も参加させたら、面白いことになりそうですね~」
何も言うまい……風がまた俺を弄りにかかるから何も言うまい……否定し切れないから何とも言えない、だから何も言うまい……。
「……皆と一緒になって祝福せざるを得ないという訳ですか」
「はい~。もしそこで不満ぶーたら垂れるようなら、民衆から『何だこいつ』的な白い眼で見られますし。後で二人の関係を否定
しようにも、抑々否定する為の明確な根拠が無いので、否定しようとすれば只の難癖ですね~。為政者だとか以前に、人として
疑われてしまうのですよ~。それも、よりによって陛下に人格を疑われるという、とっても芳しくないことになりますね~……
ま、戦が終わったばかりの今やる必要は無いですが。色々と落ち着いてからやるのでも十分効果はあると思います~」
つまりは俺達をダシに、牢に入っている連中をにっちにもさっちにも行けない状態にしてしまうわけか。相変わらず発想がえぐい。
いや、策を提示したのは優雨だ……政治面に限って言えば、優雨は風以上にえげつないのかもしれないな。
「……取り敢えず、一刀自身の身辺の問題が生じ難いことがわかったのは良いことです。それでは、もう一方の問題は如何するか」
「それについては……一刀、一つ訊きたいことがあるのだけれど?」
それは何らかの確信を持って発せられた問い。モルタルボードの下から覗く優雨の鋭い視線がそう物語っている。
「何かな?」
「不可解な点があるのよ。あなたの御両親は何故、封印殿の鍵を片方だけ持ち帰るなんてややこしいことをしたのか……封印殿を
開けさせる気が無いかのような、過度に厳重な封印もそうね。条件を完全に揃えなければ解除が出来ないという仕掛けとしては
運任せ過ぎるわ。陛下が仰ったように、一刀達には結果的に討伐令が出されなかったけれど……博打にしては危険よね?」
「……それは俺も考えてはいた。仮に俺がこの世界に来ることを想定しての行動だったとして、その時俺に開けさせたいなら両方
持ってくるよな、普通に考えれば……いや、待てよ?片方だけ持って帰って来たということ自体に何か意味があるのか?」
「鋭いわね、あなた。私もその可能性に思い至ったのよ。討伐例が出されなかった理由……霊帝様は何かしら御存知だったのかも
しれないわ。尤も、あなたについて『知らされていた』とは、当時の状況的に考え難い。そうなると、霊帝様は何かしら独自の
情報源からあなたのことを知ったのかもしれないわ……陛下、当時霊帝様の意向に沿って動ける臣下の方はどれほど?」
「……当時そのような臣下は、司徒の王允くらいだった。司馬防も父上にはあまり近付けず、ごく自然に父上に近付ける臣は王允
くらいしかいなかったのです。だから私も、父上は王允の情報網を使って一刀達のことを知ったのではないかと思って、姉上が
涼州に発つ前に王允を質したのですが……確かに王允は調べることは調べたが、それらは月も知っているようなことでした」
「つまり、ごく普通に手に入る情報だけであったと?」
「身も蓋も無く言えば、そうなりますね。一刀達の隠匿が完璧だったのか、王允の情報網を以てしても特別な情報は得られず……
とはいえ、悪い情報などありませんでしたから、父上が罪に問おうとしなかった理由もわかるのですが。『天』を名乗る者達が
漢に利益を齎している以上、黄巾党とは違って漢王朝の味方であるとの認識があったのだろうと思っていました」
成程。確かにそういう考え方であったとするなら、不可解な点は残るが納得は出来る。霊帝が何を思って俺達を放置するようにと
張譲に命じたのかはわからないが、宦官や外戚の専横を許してしまっていた霊帝が明確な意思を持ったという事には大きな意味が
ある。そうなっては宦官や外戚も逆らえないだろう。それだけ、皇帝という地位には重みがあるからだ。
だが、果たしてそんな実利優先な理由で俺達を放置するものだろうか。そんな理由なら、中央に招聘されても可笑しくはないのに。
「……協、霊帝は俺達について他に何か言っていなかったか?」
「いえ、殆ど何も。少なくとも私は何も知りませんし、姉上も同じでしょう。王允ならばある程度は知っているやもしれませんが」
「そうか……もし霊帝がそんな理由で俺達を罪に問わなかったとしたら、中央に招聘する理由にもなるよな?」
「……言われてみれば、そうですね。あれほど状況の打開を望んでいたのに、何故父上はあなた方を呼び寄せなかったのか……」
考えれば考えるほど疑問は湧き上がってくる。詰みも近いかと思っていたその時、今まで沈黙していた司馬防が徐に口を開く。
「……陛下、一つよろしいでしょうか?」
「司馬防?……良い、申せ」
「はっ。私見ですが……霊帝様はもっと別の理由から、御二方を放置されたのではないかと。簡雍殿の指摘は実に鋭いものですぞ」
「……『独自の情報源』という部分が、か?」
数拍の思考を挟んで発せられた才華の問いに、司馬防は頷いて見せる。
「片方は『天の国』に齎され、北郷家に伝わった。もう片方は漢王朝に残され、陛下に受け継がれた。簡雍殿の指摘の通り、その
こと自体に何か意味があるのでしょう。北郷家に伝わった雌鍵には『封印殿の最後の封印の解除』、そして『北郷一刀様の身分
証明』という役割が与えられていたと見て良い筈。さて、もう一方の鍵の役割とは……」
「……皇帝の身分証明手段は幾らでもある……玉璽という最高の証明手段が存在しますから、私の持つ鍵にはそのような役割など
与えられてはいない筈。しかし、封印殿の扉は妖術による封印まで施されていた。どうにか解除は出来ましたが、簡雍の言葉を
借りれば『運任せ過ぎる』という印象が拭えない……例え鍵が揃っても、妖術を解呪出来なければ話にならないのですから」
そうだ。地和という妖術使いがいたからこそ、封印殿の厳重な封印を解除出来たのだ。まさか俺が妖術を扱える人間になっている
などと当時の両親は想定しなかっただろうし、結果的にそれは正しかった。それに、妖術師を仲間・配下に加えていることを想定
するというのも無理がある。そうなれば、何か別の方法で解除出来るようになっていなければどうしようもない。
――そこまで考えたところで、俺は親父の嗜好を思い出してしまった。そんな親父が何をするのかも、理解してしまった。
「……協、それに建公殿。もうわかってしまったからそれ以上の議論は無用だよ」
「むっ?」
「一刀、何がわかってしまったのですか?」
「……俺の親父は推理好きでね……俺も鞘名も親父の悪戯には小さい頃から悩まされたものさ。鞘名はすぐ解決出来たけど、俺は
酷い時には知恵熱出して休日が台無しになった。教育の一環だったんだろうけど……今でもちょっとトラウマだね」
「あ~……御義父様なら有り得ますね」
遠い目をした俺の言葉に朱里が同意する。朱里や鞘名はIQ高いし、親父の悪戯程度問題にもしないのだが……それが余計になあ。
「だから、親父はきっと俺達がこうやって推理することを見越して、何かを残している筈なんだ。妖術使いといえば五胡のそれが
比較的知られているが、それは噂に過ぎないしな。俺の仲間に妖術師が居たり、或いは俺自身が妖術を扱えるなら兎も角として、
流石にそんな運任せなことはしない。確実に何かロジックな……論理的な想定のもとで仕掛けがされている筈だ」
厳密に言えば、親父は黄巾党の存在と事象の流れを知っている筈なので、『三国志演義』にて妖術を得意とすると描写された張宝、
つまりこの世界における地和の存在を予見はした筈だ。『黄巾の乱』は大陸動乱、やがては三国時代に至る切欠となる事象。その
発生と結末を予見しなかったとは思えない――だが、それでも運任せだ。彼女達を仲間に出来る保障など、どこにも無い。
そう考えると、ある一定の仕掛けが存在する筈だ。目に見えない、人間を巻き込む仕掛けが。
「……協、霊帝は確実に何かを知っていた。他の誰も知らない何かを……霊帝はいつから病床に伏していたんだ?」
「『黄巾の乱』が始まって、然程時を経ない頃です。それ以前の父上は、頻繁に書庫の方に足を運ばれていましたが……あっ!?」
才華が口元を手で覆う。これは、決定的だ……霊帝は何かを知った上で、俺達を放置していたんだ。そしてそれを才華や劉弁には
伝えなかった。だから才華が俺達を呼ぶことは無かった……何も矛盾は無い。有るように見えて、実は無い。
「……一度、この宮殿内を徹底的に洗う必要がありそうですね。とはいえ、もう昼餉時です。流琉、昼餉の仕度はそなたに任せる」
「はい!」
取り敢えず、昼餉を済ませてからにしよう。腹が減っては戦は出来ぬ……食べると、眠くなるんだけどね。
□洛陽宮殿 / 城壁(side:白蓮)
――昼餉の後、調査に参加しなかった私は理穏を伴って城壁の上に来ていた。
「こうして洛陽の街を見るのは久方振りですね、白蓮。あの頃とは、都の様子が全然違うけれど……」
「そうだな、理穏。麗羽や華琳がこの洛陽を見てどう思ったのかはわからんが、本当に良くなった。まだまだ途上だろうがな……」
この洛陽を離れてから数年。激動の数年だったと言って良い。この洛陽にて南部尉を務めていたことに始まり、涿郡の太守として
赴任した。そこで『天の御遣い』と出会い、旧友と再会し、共に戦い……そして、その旧友とは名実共に敵となってしまった。
「……劉備殿のことは、本当に残念でしたね」
敵となった旧友を思い浮かべた途端、同じく旧友である理穏にそれを指摘された。青州で理穏と出会って人助けをしたとの報告は
受けているので、おそらくその時に一刀は理穏に劉備軍を離れた経緯についてある程度説明したのだろう。それに、元々洞察力が
鋭い理穏のことだ。完全にとは言えずとも、早くから劉備軍の実情を推察していただろうな。だが……抑々の原因は。
「義勇兵を兵力として与え、独立の機会を作ったのは私だ。今にして思えば、そのまま飼い殺しにするべきだったんだ。あいつの
狙いはわかり切っていたのに。酷い方法だが、一刀達を餌にしておけば、或いは檄文が来るまで独立などしなかっただろうに」
「あなたがそんなこと、出来るわけがない。華琳ならそうするべきだったと言うかもしれません。ですが、あなたはあくまで友を
友として遇した。それの何処がいけないのですか?一刀殿や朱里殿に対してもそうです。確かに、こんな事態になるならいっそ、
というのもわかりますが……それをしないのが、あなたの強さだと思います」
「……すまない」
桃香達と敵対することを避けるだけなら、そうすれば良かっただろう。私も心のどこかではそれをわかっていたが、出来なかった。
(それをしてしまったら、私は私でなくなる……独立の機会を与えることはおそらく最良の手段ではなかった。だが、飼い殺しに
するのは桃香達の人格を踏み躙ることになるし、それは一刀達についても同じだ。だが、それだけじゃない……おそらく外史の
因果がそれをさせず、桃香達を独立させたのか……これが、外史か。一刀や朱里は、こんな絶望と戦っていたのか)
世界の真理に触れたからこそ、理解出来る。そして今、それが実感を伴って降りかかって来た。反董卓連合軍が董卓軍に敗北する
など、『正史』には無い。それは世に秘されてきた一刀達の動きが齎した変化だ。私自身、一刀達が我が軍に加わっていたことで
桃香達に関わる諸々が変わったことを知っている。それもまた一刀達の動きが齎した変化……だが、『外史』はそれ以上の変化を
許さず、桃香達を独立させるよう仕向けた。謂わば、辻褄合わせ……例え一刀が居なくても、桃香達は独立するのだから。
「……青州黄巾党のことに掛かり切りだったとはいえ、青州牧たる私が劉備殿を止めるべきだったのかもしれません。一応は下部
組織なのですから、私にはその暴走を止める義務がある筈。劉備殿の為というだけでなく、何よりも民の為に……いえ、抑々の
問題として麗羽や華琳を諌めれば良かった。そうすればまだましだったかもしれません。戦を止められないまでも」
青い長髪を風にさらわれるに任せ、理穏は沈んだ顔でそう言った。確かにそれはそうだが、あの二人が相手ではな……。
「お前が自分を責めたところで何にもならん。きっとあいつらは戦いを起こした。誰のせいでもない。月が陛下を御守り……悪く
言えば手中に収めたことも事実。洛陽の情報が外部に殆ど伝わっていなかったのも事実。月が勝者となったからこうなっただけ
であって、月に全く非が無いということでもないからな。尤も、このことで月を安易には責められないが」
「十常侍と外戚の権力争いに巻き込まれて命の危険が迫り、その状況を強引な手段を使ってでも脱出したと思いきや、今度はこれ
ですからね。月殿を責めるのは酷でしょう。それに、そうした腐敗を強引にでも排除したことは、語弊がありますが、功績だと
言えます。漢王朝を在るべき姿に戻すための必要悪だったと評することは出来るでしょう。私見の域を出ませんが」
「……それが出来なかった連中の嫉妬が高じて、こうなったんだろうな。誰の、とは特定出来ないが」
そうじゃない、それは違うんだ――真相を話してしまいたい衝動が湧き上がって来るが、奥歯を噛み締めてそれを堪える。理穏は
真相を『知らない』……いや、『知るべきではない』。少なくとも、今はまだ。だから『誰のせいでもない』としか言えなかった。
細かい人間関係の諸問題は兎も角、それもまた覆し難い事実だ。誰がどうやっても、こうなるしかなかった。
――重い。
この事象を現出させた『選択』が、完全に私達自身の意志故であると言い切れない。私達が選択したことだというのは事実として
否定しないし、それに伴う責任も喜んで背負う。だが、それが本当に私達自身の意志に因るものだったのか……ともすれば外史と
いう巨大過ぎる力に屈してしまいそうな、鉛のような諦観が私の心を蝕もうとするのを感じる。
だが、外史の規定だから仕方無い、という言い方はしたくない。確かに事実としてそれはあるだろう。外史の規定に逆らえるのは
一刀達、即ち『天の御遣い』のみなのだから。外史の住人でしかない私達は、どうあがいても自力では規定に逆らえない。そして、
その一刀達でさえも『規定』に完全には抗えない。この戦い――後世に『陽人の戦い』と呼ばれることになる戦いを避けることは
不可能だった。『黄巾の乱』が不可避だったのと同じように。そしてこれからも、こういった事態は連続するだろう……それでも、
私達が選択し、その代償として現出した事象であることに違いは無い。責任は負わなければならない。それだけは確かな現実だ。
「……
ふと、理穏が西に振り返りながら言う。私や理穏が都勤めをしていた頃の同僚には華琳や麗羽がいるが、あともう一人いる。当時、
霊帝の奉車都尉を務めていた励華――現益州牧・劉璋。今回も動かなかったが、あいつは何を思っていたのだろうか。
「あいつは……どうだろうな。間違い無く、この状況を悲しんだだろう。あいつも御家騒動という『闇』の中で戦っていたからな」
「当時の洛陽で最強を誇った『五人衆』……河北から中原にかけて散らばった私達四人と違って、唯一巴蜀の地へと帰っていった
彼女なら、或いは私達よりも冷静な視野で中原を見つめているかもしれません。やり取りも頻繁ではなくなりましたが……」
「……もしこの場にいたなら、泣きながら麗羽達に殴り掛かったかもしれんな。あいつは怒ると怖い」
「それは有り得ますね……でもどこかで止めないと、麗羽達が泣き出すまで止めそうにないような気もします」
「違いない」
懐かしい思い出が甦る。当時、私達『五人衆』の中でも一番気弱でありながら、驚異的な剣の技量によって最強を誇っていた励華。
麗羽と華琳が喧嘩を始めると、私と理穏が二人を止めようとするのをおろおろと見ていることが多かった。だが喧嘩が酷くなると、
毎回あいつの拳骨が麗羽達の脳天に炸裂したものだ。麗羽はそれでやめるのだが、華琳がそれでやめないことが度々あった。そう
なると華琳が泣き出すまで殴り続けるものだから、最後は励華を止めるために三人がかりだった……青かったな、色々と。
「……励華の話題が出たところで、ふと思ったんだが……当時の私達が今の私達を見たら、どう思うんだろうな」
「あれから数年……為政者となった私達の価値観は、それぞれ変わりました。あの頃の私達は青かった。でも、今は違いますから」
「何を言っている。まだ為政者になって数年なんだぞ?それに、十代を終わりかけているとはいえ、大人ぶれる歳でもないだろ」
「大人など、意外に簡単になれるものです。責任を果たす者も然り、果たそうとする者もまた然り……責任を負えるのが大人では
ないですか。とはいえ、言うは易く行うは難し……私も実際、重いと感じたことは幾度となくあります」
それはそうだ。大人の一番の仕事は責任を負うことだ。子供はそうする必要が無いし、抑々責任を負える社会的立場ではないしな。
社会に出た以上は大人として扱われるのが普通だ。例え流琉や鈴々のような者でも、社会に出て軍人となっている以上は大人だ。
「より大きな責任を背負うようになれば、価値観も変わってきます。同時に、それは『力を手に入れた』のとほぼ同義ですが……」
「責任と力は比例するからな」
「これからあなたの負う責任はより大きくなりますよ?これほどの功績ですし、高位の将軍位に任じられてもおかしくありません」
「……複雑だな。友人達を散々に蹴落として手に入れたようなものだ、素直に喜べないな。だが、そうも言っていられんか」
功を讃えられ、褒賞を受けることに異存は無い。だが、それはこれから転落することになる者達が背負っていた責任を少なからず
代わりに背負うことと同義だ。直接的に責任を引き継ぐわけではないにしても。勝者にも払うべき代償があるということだ。私は
勝者としての責任を果たさなければならない。人間、生きていればどうあがいてもあらゆる『責任』が生じるものだ。
「それが『生きている』ということです。若い世代は、大人から責任を引き継いでいく。そしてまた、若い世代に引き継ぐのです」
「そうだな。だが、理穏。お前は私と同い年なんだから、そんな年寄り臭い物言いはしない方が良いぞ。老け込んでしまうからな」
そう言っている私が一番、年寄り臭い物言いをするようになったかもな……心は十代だ、多分。
「苦労性なあなたのことです。必要以上に気苦労を背負い込んで早々に老け込みそうな気もしますね」
「失礼だな」
わざとらしくむっとして見せれば、次の瞬間には互いに噴き出して笑う。そして、それは一つの理解を私に齎した。
(結局、こういうことなんだろうな……道を同じくする友がいる。道が並ぶ友もいる。そして、道を違えた友もいる。それだけか)
私も、友人達も個々の『意思』を持って生きている。こうなるのもまた然り。自然の摂理だ。外史云々関係無しの、生命の摂理だ。
生きていれば、こんなこともある。そして、その度に責任を負う。責任を果たそうとすることは、生きることだ。逃げるのもまた
一つの選択と言えるが、結局は誰かが代わりにそれを背負わなければならない。それを解っている以上、私は逃げない。
(抑々、逃げ場なんて無いしな。一切が無駄になるかもしれないとわかっていても、立ち向かって足掻くことにこそ『生』がある)
生き足掻くのは、生きる者の特権だ。責任を負うこともまた然り。それも生きる喜び、生命の祝福だ。決して苦しみだけではない。
だから、最後まで生き続けよう。
――私達は、生きているのだから――。
あとがき(という名の言い訳)
……長らく沈黙していまして、申し訳ありませんでした。Jack Tlamです。
『今後の展開について』というお知らせ文を掲載してから、もう一年が経過するという事実。
社会人になると本当に大変ですね。いやはや。
やっと完成しました。とはいえ、今回も「全消し→書き直し」を何度か繰り返してしまったんで、そのせいもあり
投降期間が伸びに伸びてしまいました。本当に申し訳ありませんでした。
今回、今迄散々醜態を晒してきた桃香はあまり目立ってませんね。
いや、目立ってはいるんですがそれ以上に華琳が目立っているといいますか。覇王(笑)状態の華琳です。お蔭で
才華に弄られまくってブルブル震える始末。ドSの女王がSっ気のある皇帝に弄られる……
やってみたかっただけのことをやってしまった結果がこれだよ!
才華は無理を承知の上でああ言っているわけですが、華琳の言い分がまるで責任逃れなので、才華の側に分がある
ように描写しましたが……上手くいったかな?
確かに反発する官の動きを抑え切れないというのは現状のNo.2である月の責任問題になりかねませんし、月の側に
全く非が無いわけでもないのですが、それを最初から『戦』という形で『咎める』という行為に理が無いのは明白。
ってか、霊帝崩御から一月経たないうちに連合軍を組まれるなんて事態です。使者を出す余裕も無かったかも。
というか、マジで武力による排除にかかってただけなので、何を言っても説得力無し。咎めるなんてとんでもない。
華琳もそれでなんとか意趣返ししようと思ったら、またも才華の術中に嵌まって恥を晒す羽目に。あんなの事前に
予想しろってのが無理かもしれないけど……。
敗軍の将が兵を語ろうとするからこうなる。
鍵の件、伏線は終わってませんでした。はい。今はそれだけです。
今回の白蓮はそこまで存在感を出せないんじゃないかと思いきや、またしても抜群の存在感。
こいつ本当に白蓮かと疑いたくなってくる。準主人公の位置付けだから、これが妥当な待遇だといえばそうですが。
白蓮が『反董卓連合軍と敵対する』、もっと言えば『桃香と敵対する』という選択は間違いなく彼女自身が決めた
ことなので、そこは疑わなくても良いのですが……そこに至るまでの諸々が、白蓮を苦しめているようです。
白蓮が存在感を発揮する一方、メインヒロインの台詞が今回たった一言だけ。影薄い!?
メインに朱里を選んだのにはちゃんとした理由があって、ヒロイン性の考証も完成しつつあるのに……駄目だなあ。
今回はこれにて。次回は雑多な内容になると思われます。主に一刀と朱里の祝言のせいで大騒ぎになるかと。
こんなの策略として提案する優雨も優雨だが、一刀達もその辺は嫌がるべきでは……もう怖いくらいの意志力です。
ってか、別に今やらなくても良いじゃんか……ここまで来るとただの当て付けかも?
まあ、諸侯はどの道この後暫くは謹慎することになるので、ちょっと時間が飛びますかね。もう諸侯の軍は解散と
いう処置にしちゃっても良いかな。孫呉が厄介そうだけど。そして捕虜の明命は空気化しました(ぇ
次回もお楽しみに。
次回予告
大いなる力を示した御遣い達。その背に迫るは強欲の衝動。昏き妄執と侮蔑に塗れた求めは、勝者を尚も脅かす。
次回、『祝福の刃』。
果て無い悪意に対するは、時を越え往く終わり無き愛。共に望んだ未来のために、愛の幸福すら刃に変えて。
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戦闘がメインだった第四章で久しぶりの、政治回です。
皇帝・劉協による反董卓連合軍への裁定がメインとなります。
では、どうぞ。 ※アンチ展開有
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