「陽炎さん。そろそろ時間ではありませんか?」
陽炎が目を上げると、いつのまにか鳥海が立っていた。両手に抱えた書類の束は、先ほど陽炎が司令に押し付けたものだろうか。
「え、ああ、もうそんな時間ですか……」
「ここは引き継ぎますから」
鳥海は、そう言って陽炎を秘書艦室から送り出した。
諸々の案件が積み重なって、今日の秘書艦室はいつになく大わらわだった。陽炎は、ひっきりなしに呼び出されては司令部と工廠を往復し、その度に書類は滞っていた。
終日フリーのはずの鳥海は、陽炎が昼飯のおにぎりを頬張りながら幾度目かの工廠からの帰還時には、既に呼び出されていた。
たまたま今日は、赤城と陽炎、そして神通が秘書艦室にて司令の補佐に当たることになっていた。ところが、午前中の緊急出撃で空いた待機メンバーの穴埋めに神通が出て行くと、書類整理にやや難のある赤城と陽炎という組み合わせになってしまったのである。そういう時に限って、余計な仕事は舞い込む。二人で途方に暮れようか、としていた時に現れた鳥海には後光がさして見えたものである。
当然、赤城さんが呼んだんだろうな、と陽炎は推察した。鳥海のおかげで絶賛炎上中の秘書艦室は、あっという間に沈静化され、決して日付けの替わる前に終わることは無いだろうと思われていた書類の山にも目処がついた。その上、小休止の際に陽炎がポロッと口にした、不知火との約束のことにまで、彼女は便宜を図ってくれるようである。これが女神でなくてなんであろうか。
司令室に暇乞いに行くと、それは大層な身分だな、と司令から皮肉られたが、そんなことは陽炎自身が痛い程身に染みてわかっている。
「おかげさまで。司令のご高配にも感謝いたしておりますよ」
頭で考えるよりも先に口から言葉がついて出た。司令は何が面白かったのか、愉快そうに笑ってから、下がっていいぞ、と陽炎に言った。相変わらず何を考えているのか伺い知れないが、陽炎の中では、今はそんなことはどうでもよくなっている。鳥海さんにも、後日何かしらの形で報いないと、と心に刻み込んで、陽炎は本部棟を飛び出した。
不知火との約束は二〇〇〇。ゲートで待ち合わせて、むこう側の酒場に行こう、という話をしていた。ゲートとは、基地の内部と外部とを隔てる表向きの門のことではない。基地内部のこちら側とむこう側、つまり艦娘の所属する鎮守府という組織が占有している基地内部の一角と、それ以外、一般的な海軍基地エリアとを分ける門のことである。艦娘も、一般の軍人も自由に通行できるものではなく、きちんとした手順を踏んで許可を得る必要がある。艦娘も司令の命令で、軍部との折衝に行く時や、健康診断などの定期的な理由以外ではあまり出る機会が無い。陽炎はたまにふらりとむこう側の酒場に行く。もちろん司令から許可をもらう。酒場に行っても、特に酒を飲むわけでもなく、ぼーっと雰囲気に漬かってるだけのことが多い。
さて、そんな話を不知火にしたのは、たまに門限延長を申請している陽炎が一体何をしているのか、と質問されたからだ。特に隠すことでもないので、正直に話したところ、不知火はすこぶる良い食いつきを見せた。次は是非連れて行ってください、と言ってきたので、陽炎は二つ返事で了解した。
時刻はもう二〇〇〇を過ぎた。陽炎は五分程遅れてゲート前に到着した。だが、不知火の姿は見えない。門衛に訪ねても、ここには来ていないとの回答が帰ってくるばかり。今日の不知火の予定は、午後に演習があったはず、と陽炎は頭を巡らせた。後輩の教導を行うことになっている。それでも夕食前には切り上げるはずだが。陽炎は漠然と、何かあったかなぁ、と思いながら、しばし待機することを選んだ。
二〇一五。陽炎は門衛から、電話が入っている、と詰め所に呼ばれた。礼を言って、受話器を取ると、かけてきたのは鳥海だった。
『陽炎さん、午後の演習のことですが、能代さんからの連絡がありました』
「はい」
『午前中のスクランブルの後に、司令官さんから、後方支援のため、接続海域での待機を命じられていたそうです。ええ、無線封鎖していたので、このことは司令官さんしか』
「そう、ですか」
『今回の出撃で、深海棲艦との会敵はありませんでしたが、その後、対象海域を念入りに哨戒したため、先ほどの帰還となったようです』
「わかりました」
『皆さん、怪我などはありませんが、お疲れのようですから』
「わざわざありがとうございます。はい、では」
受話器を置くと、陽炎は詰め所の門衛に礼を述べてから、寮の方へ歩き出した。
待ち合わせの約束をしたけれども、状況がそれを許さないのは、仕方ないことだと陽炎も理解している。だが、今回のことを何故自分に伝えなかったのか、と司令に憤りを覚えたのも事実である。ではあるが、陽炎と赤城が、鳥海の助力を得たとはいえ、東奔西走しているうちに、司令は刻々と変わる状況を見据え、対処していた。その事実を鑑みれば、自分が不甲斐ないせいだという思いばかりが強くなる。そう考えると、陽炎は、自省して気分を切り替える方が清々する、という結論に達した。
「帰って、お風呂、かな」
陽炎は、ひとしきり頭を掻いてから、走り出した。
「今日はすみませんでした」
自室に戻ると、不知火が頭を下げてきた。
「何であんたが謝るのよ。謝んなきゃいけないのは、奴らの方でしょうが」
「理由はどうあれ、刻限までに行けませんでしたから」
「はいはいやめやめ。私達は自分の都合で動けるわけじゃないから。どうしようもないことだってあるのよ。そんなことより、一っ風呂浴びにいくわよ」
陽炎はそう言って、入浴セットを引っ張りだすと、不知火に振り返る。不知火は自分の入浴道具を手渡されると、小さく頷いた。
「そうしましょう。その酒場は、また次の機会に連れて行ってくださいね」
「うん。わかってるって。そん時はちゃあんとエスコートしてやるんだから」
「期待しています」
不知火は、顔をほころばせながら、陽炎に向かって手を伸ばす。陽炎はその手をぐいっと引っ張って、廊下に飛び出した。
「当然よ。大船に乗ったつもりでいなさい」
「あ、でもお酒は結構ですから」
「たまには飲ませてみるのもありかしらね!」
「いえ、そういうのは本当に結構ですから」
「冗談冗談」
陽炎と不知火は、勢いよく階段を駆け下りた。
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8/20 第12回 #かげぬい版深夜の真剣創作60分一本勝負
お題「待ちあわせ」
において作成。