梅雨前線が上空に停滞し、6月に入ってまもなく梅雨入り宣言が報せられた。
深行がバイトを終えて外に出ると、ぽつぽつと雨が降り出した。見上げた空は墨を薄く溶かしたような色をしていて、思わず溜息をつきたくなった。
天気予報のとおりだ。急いでかばんから折り畳み傘を取り出す。傘を広げた途端、待ち構えていたかのように雫が飛びついてきた。
傘をきちんと持っていたとしても、気持ちが沈んでしまうのが雨の日というものだろう。髪が湿気でうねったり服が濡れるとうっとおしいし、こんな土砂降りの日は、水溜りを避けて歩く意味もない。
昔から雨はなんとなく苦手だ。
子供のころ、ひとり家にいた時のことを思い出す。土砂降りの音を聞いていると、大切ななにかが全部、流されていくような感覚がしていた。
そんなバカなことはありえないし、もちろん、今は思わない。それでもふと「何かが足りない」と感じてしまうときがある。
深行は歩調を速めた。足元でぴちゃぴちゃと水音が響く。
毎日顔を合わせていても、すぐに会いたくなる。今日だって、つい半日前に大学で顔を見たばかりだ。
『深行くん』
自分の名前が嫌いなはずなのに、泉水子に呼ばれる音はとても心地いい。
時々しか言えないが、深行が呼ぶ『泉水子』という音は、彼女にどう聞こえているのだろう。
綻ぶような泉水子の笑顔を早く見たいと思った。
* * * * *
深行の家に向かう途中、いつもとは違う道を歩いて見つけた。
冷たい雨に打たれても、けっして負けない、梅雨を彩る黄金の野草。キンシバイ。
どんよりと薄暗い梅雨空の下、さわやかに光るように咲いている。その存在は紫陽花に比べて目立たないけれど。可愛くて優しくて、見かけよりもとても強い。
梅雨の花は、元気をくれるだけでなく、心をじんわり癒してくれると思う。この花に気づくことができて、泉水子は嬉しい気持ちになった。
夕食後、泉水子が後片付けを終えて戻ると、深行はパソコン画面の前で目頭をおさえていた。
「深行くん、どうしたの? 頭痛い?」
隣に座って遠慮がちに声をかけると、深行は「いや」と言って、目をこすった。
「少し目が乾いただけだ」
再びキーボードをかちゃかちゃと叩き始める。泉水子は息をひそめて、軽やかに動く深行の手を見つめた。
深行が帰ってきたときから、珍しく疲れの色が見えた。
考えてみれば当然だと気づいた。先日大学で、試験の日程とレポートの課題が発表されたのだ。
深行は泉水子と違って、最小限の仕送りで生活をしている。アルバイトと勉強の両立、そして、泉水子の勉強の面倒。
ただでさえ体調を崩しやすい梅雨の時期、きっと疲労が蓄積しているのだろう。泉水子は深行にそっと手を重ねた。
「深行くん・・・。少し、休んだら?」
深行は泉水子をじっと見つめ、一瞬考える素振りを見せてから、
「そうするか」
言うが早いか横になると、泉水子の腿に頭を乗せた。
泉水子は、途切れることなく響く雨音に耳を傾けた。
しっとりとした空気も、この静寂も、たまにはいいものだと思う。こうして耳を澄ませていると、心ごと洗われていくようで心地がいい。
テーブルとソファーの間に足を伸ばして座る泉水子の腿を、深行は枕にしている。背をこちらに向けているので、顔はよく見えない。
最初は驚いた。恥ずかしくて、くすぐったくて落ちつかなくてそわそわしたけれど、次第に嬉しさがこみ上がった。
深行について、まだまだ知らないことは多い。
おそらく世間一般の常識としては、三年以上も付き合えばある程度相手のことを熟知しているのが普通だろう。けれども深行は泉水子に心の内をすべて見せないので、その距離を測るのは未だになかなか難しい。
どこまでなら踏みこんでも構わないのか。どこからが踏みこんではいけないところなのか。
だけど、今日は甘えてくれたから。
以前、深行は泉水子の役に立つ人間になると言ってくれた。もう十分すぎるほど感じているけれど、深行は努力を重ね続けてくれている。
いつも助けてもらってばかりだけど、泉水子だって少しでも深行の役に立ちたいのだ。
ラグマットが敷いてあるとはいえ、身体に負担がかかるのではないだろうか。こっそり覗き込むと、泉水子の懸念をよそに深行は気持ちよさそうに寝息をたてている。
6月の上旬。今日は特に蒸し暑いので、風邪をひくことはないだろう。
(でも、なにかかけてあげたほうがいいよね)
ソファーの上に薄いブランケットがあるので、どうにか引っ張り寄せて、深行の身体にふわっとかける。深行がわずかに身じろいだのでドキッとしたが、目を開けなかったのでホッと息をついた。
泉水子はあらためて深行の横顔を眺めた。
いつもよりずっとあどけない顔。普段感じることのない庇護欲が生まれて、胸がきゅうっと収縮する。
軽く頭をなでてみた。少し癖のあるやわらかい髪が、触っていて気持ちいい。ゆっくり、ゆっくり、起こさないように髪をなでる。
なでている泉水子の心も、ほんのりあたたかくなっていく。
ほのぼのした気持ちでいると、突然振動音が響いてビクッとなった。テーブルの上においてある、深行のスマートフォンが震えている。
すぐに止まったので、どうやらメールのようだ。急いで深行に視線を戻すと、目は閉じたままだった。起こさずにすんだらしい。
安堵したのもつかの間、なんだか胸にもやもやしたものが広がった。
(誰からなのかな・・・)
そのとき、今度は泉水子のケータイが着信した。ソファーの上なので、こちらはさほど振動音が響かなかった。
深行を起こさないよう注意しながら、身体をひねってケータイを手に取った。
「誰から?」
「えっ」
突然下から声がかかって驚いた。深行は仰向けになると、泉水子のおさげを掴んで見上げた。起き上がろうとはせず、泉水子の足に頭を乗せたまま。
「ええと、大学の友達」
友人の名を口にすると、深行は表情を緩めた。深行も知っている女子だからだろうか。
深行は少しだるそうに身体を起こすと、自分のスマホを確認した。軽く舌打ちし、ぞんざいに床に放る。思いきって泉水子も尋ねてみた。
「誰からだったの?」
「雪政だ。すげえ、くだらない用」
深行は機嫌を損ねたようだが、泉水子の心はみるみる明るくなり、思わず微笑んだ。
しばらく、くすくす笑っていると、深行は泉水子の頬に触れた。手の熱が伝わってくる。
泉水子を見据える真っ直ぐな視線に耐えられなくて、反射的に目を閉じた。唇がそっと重なり、確認するように何度も角度を変えて落とされる。
やがてその深さは増していき、深行の手が泉水子の腰に降りてきた。優しく触れられるだけで息が上がってしまう。泉水子はごまかすように、深行の胸を押しやった。
「深行くん、疲れてるんでしょう? そろそろお風呂に入ったほうが」
あんな短時間の仮眠で疲れが取れたとは思えない。ゆっくり温まってほしくて言ってみたが、素直に応じる深行ではないだろう。流されるまいと身構えていると、深行は意外にもあっさりと泉水子から離れた。
「そうだな」
それから泉水子の手を握り、微笑んだ。表情は完全にいじめっこのそれで、泉水子は戸惑った。
「え・・・? あの」
「入るんだろ?」
意味を理解すると同時に、泉水子の頭が沸騰しそうに熱くなった。どっと汗が噴出しそうになる。
「え、ええええっ だ、だめっ 絶対にだめ」
必死になって頭を振った。頭も、頬も、耳も、掴まれている手も、身体中が熱くて、すでにのぼせてしまいそうだ。
一緒に入ったことはあるけれど、どうしたってあの恥ずかしさは慣れるわけがない。そんな日は永遠に訪れないと断言できる。泉水子の目に涙が浮かんだ。
(・・・でも・・・)
泉水子が拒否をすれば、深行は絶対に無理強いをしない。強引なところもある深行だけど、結局は泉水子のことをいつも考えてくれている。
疲れている深行のリクエストを、たまにはきいてみてもいいのではないだろうか。
ひどく恥ずかしいだけで、嫌なわけではないのだから。
「冗談・・・」
「へ、変なことをしない、なら・・・いいよ」
泉水子と深行が言葉を発したのは同時だった。
ハッと口を押さえても遅く、完全に墓穴を掘ってしまった。深行は笑いを堪えている。
逃げようとしても、手をがっちりと握られていてかなわない。深行は暴れる泉水子を抱き寄せて、「変なことはしないよ」と耳元でささやいた。
「俺は、変なことだとは思ってないから」
甘い声が鼓膜を揺らした。
終わり
キンシバイの花言葉は『悲しみを止める』だそうです。
深行くんが『救命ブイ』なら、泉水子ちゃんは『安心毛布』的なイメージです。私の勝手妄想ですが。
深行くんは、膝枕でうたた寝とか、毛布をかけてもらったり頭を撫でてもらったりって経験があまりない(よく覚えてない)のではないかと思いました。
そりゃ嬉しくて寝たふりもしちゃうよねと(え?)
そしてケータイ。黙って見るのは絶対にNGだけど、誰からとかは気になっちゃうんじゃないかなーと書かせていただきました。
悶々として聞けない泉水子ちゃんと、ずばり聞いちゃう深行くん。
もろもろイメージが違ったらスミマセン・・・。
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未来捏造・大学生設定。とある梅雨の小話です。
妄想捏造激しいので、原作のイメージを大切にされたい方は閲覧にご注意ください。