【熊秋熊】
「自己暗示ぃ?」
「えぇ、恐らく無意識下における自己防衛の為の暗示なのでしょうな」
夏、やかましい蝉がジージーと鳴きわめく中、彼奴がいる部屋とは遠い部屋で医者(なのか詳しくは知らない)の爺さんが淡々と告げてきた。
ついうっかり素がでかかってしまうが慌てず立て直す。
「...自己防衛って...何故それが目がみえなくなることになるんですの?」
「さぁねぇ、ただまぁ目自体には何の異常も無い筈なんだよ。ただ脳が、何も見たくないと、そう願ってるんだろうね」
「何も、見たくない....」
「自己暗示ってのは案外侮れないもんでねぇ、ま、時間が経てば治るでしょう。それじゃあ」
去って行く医者を一応一礼して見送った後、急いで彼奴がいる部屋に向かう。
「おい熊」
襖を開けて最初に声を出すと、中で寝ていると思っていた人間は体を起こし、天井を見上げていた。
「...ん、茜か......」
顔をこちらに向けてきているが、その男の目は固く閉ざされ、此方の姿を映すことはなかった。
「....目に異常があるわけじゃないってよ、良かったな」
「...そうか」
言いながら男の方へ近づき、その横へと腰を下ろす。男はそれに気配で気づいたのか、少しだけ顔を動かして反応した。
「.....なぁ、熊、お前はもう何も見たくないのか」
「...?何の話じゃ...?」
「医者が言ったんだよ、目に異常がないのにお前の目が見えなくなったのは、お前が無意識下に自己暗示をかけてるからだって」
「...?」
あまり意味がわかっていなさそうに首を傾げる、少し難しい言葉を並べすぎたか。
「....つまりお前が、頭のどっかでもう何も見たくないって思ってるから、その通りになっちまってんの」
「....オイがか.....」
「そ。.....なぁ熊、何でそんなことなってんのか、わかんねぇのか?」
事の始まりは、つい昨日のことであった。
何か目的があるわけでもなく、町を歩いていると、山の方へ続く道が何やら騒がしいことに気づいた。
ガヤガヤと聞こえる野次の話から、大男が山から転げ落ちてきたとのことだった。
大男、山、この二つの単語だけである一人の男が浮かんでしまった茜は、ただ覗いて行こう、という気持ちでその野次から顔を覗かせたのだが。
「本当、驚いたんだぞ?お前が血だらけで倒れてるもんだから。......ま、ほとんどがお前の血じゃなかったがな」
そう、山から転げ落ちてきたのは今目の前で療養している男、熊染であった。
村人たちに肩を貸してもらい運ばれていた熊染は、血だらけだった。
その赤茶の髪色が合い増って血が目についたあの時の彼の顔は、まるで生気がなかった。
しかし、その血を吹いてみれば、彼自身が怪我をしている箇所は少なく、熊染自身の血は恐らく山から転げ落ちた時にできた怪我からのものくらいであった。
「心配させやがって....」
意識したわけでもなく呟いた小さな言葉は気づいて口を閉じた時にはもう遅く、目が見えないせいで聴覚に集中している熊染には簡単に聞こえたらしい。
「.....すまん」
「あーあーもう、謝るのはもういい。だから、何があったんだよ」
「......」
何があったのか、それを聞こうとすると熊染は顔を俯け口を歪め閉じ、開こうとはしなかった。
「......このまま目が見えないままでいいのかよ」
「...オイの目見れんで、丁度えぇじゃろ。こがぁなもんは無くてえぇもんじゃ」
「だぁぁぁもう!うざったらしいなぁ!!」
「っ!!??」
話してる途中だったが衝動の勢いに任せて熊染の胸ぐらを掴む。
勿論見えてない本人は一瞬何が起こったのかわからないのか大きく動揺している。
「お前の持ってるもんで、無くていいもんなんて一つもないっ!!!」
「...!」
「あーあるとしたらそれだ!その自分への評価の低さ!!もう少しお前は自信を持てって何回言えばいいんだ!」
「確かにお前の目はちょっと怖いかもしれねぇけど、それは絶対に欠点じゃない。無くてもいいもんなんかじゃない。お前にとって、必要なものだ!」
「.....」
「お前、見えない方が、いいのかよ....」
私のことだって、見ることができないんだぞ。
あの馬鹿どものバカ騒ぎも、見れなくなるんだぞ。
「.........オイ、は」
胸ぐらを掴む手を緩めることなくじっと熊染を睨みつける。
しかし、そこで、あることに気づく。
(.....震えてる?)
「.......目が見えんと、...嫌ん事が目に浮かぶ....聞きとぉもない虫ん声のせいで、あんなぁの姿が目に浮かぶ..!!!!!!」
「....なら、なんで目を開けようとしない」
嫌なことが目に浮かぶなら尚更じゃないか。
なんでもう、何も見たくないなんて思ってるんだよ。
「......山ん中で、オイん目ん前で、人が、死んだ.....いや、殺された」
「...!」
「知らんお人じゃった、突然目ん前に現れ、何を言うんでものぉて、ただ目ェで助けてくれと、言われた気がしたんじゃ.....じゃけんど、そん人はすぐに....」
その続きは話さず、熊染は先程より増して震え始めた。
状況からもわかる。
その突然現れた奴はなんかしらで追われてるかなんかで逃げてて、熊染は運悪くぶつかり、それが逃げていたやつの一瞬の足止めにもなり恐らく追手か何かがいたんだろう、そいつらに殺された。
熊染が見ている目の前で。
...熊染が生物の生き死にに関して少し敏感なのは察していた。
全部は知らないが彼の過去に、自らが護り通すべきだった人を死なせてから死に敏感なのだと。
.....しか目で助けてくれと言われた気がすると、熊染は言った。
「...そいつの死はお前のせいじゃねぇよ、熊」
声をかけて手を握ると、熊染は一瞬大きく体を震わせた。
「それで、もう誰かが目の前で死ぬのは見たくない、って?」
でもそれじゃあ
「っ...わかっちょる....わかっちょるんじゃ...自分でも、こりゃ甘えじゃと。...誰かを護れんで死なせんがいびせぇなら、そいこそ目を開けて護りきるべきなんじゃと.....」
「なら....」
なんで、と言おうとしたところで、思い出した。
この男はそういえば、見た目よりもずっと臆病なんだと。
「....言ったろ、自信持てよ。お前は、充分護れてるんだ。あの愉快な馬鹿どものことも、アタシのことも」
「.....茜.......」
「お前は本当いちいち、面倒くせえ奴だな」
と、ぐいと顔を熊染の方へ近づける。
未だ此方が何をしようとしているのか気づいていない様を見てついニヤリと笑ってしまう。
「それに.....」
そしてさらに顔を近づけて
「っ!!!!?????」
「目見えないんじゃ、アタシは幸せになれねーぞ?」
軽い口付けをした後には、熊染の瞳は大きく見開き、そこには不敵そうに笑う自分の姿が見えた。
【熊秋熊】
まだ朝にはなっていなかった。
夜明けとも言えない。日が登るよりはまだ少し早い時間。
鳥の鳴き声、自然のざわめきが聞こえ始め山へ響き渡る頃。
一人の男はそっと目を覚ました。
「....朝か」
勿論朝ではないが男にとってはこの時間帯から朝であった。
昨夜遅くに寝て早くに目覚める彼は満足に疲れもとれていないであろうにその体を起こし、クマがハッキリと見えるその目で辺りを見渡した。
若干霧が立ち込めており、視界としては悪い方だろう。
「.....」
眉をひそめ、霧の向こうを見据えた後、男は自らの荷物を持ち道を進む歩みを再開した。
「....よぉ熊」
「.......」
山から町へ降りてきた男、熊染は知った顔に声をかけられる。
....知った顔どころではすまない関係だが。
秋津茜、女の偽り人だ。
「町に用事でもあったのか?」
その美しくさらりとした緋色の髪を右手で耳の後ろへとあげながら、自分より背が幾分も高い熊染を見上げながら問うた。
「.......」
すると熊染はその秋津の目線からそっと逃げるようにゆっくりと視線を逸らし、口をギュッと結んで俯いた。
「....熊?」
よく目線を逸らす熊染だが、それが気に食わない秋津はグイと更に顔を近づけて睨みこむ。
それでも尚俯くのやめない熊染にしびれを切らし、挙句には顎を掴んで無理やり自分の方へと顔を向けさせた。
「...!」
「熊ぁ?」
「....あ...と.....」
少しだけ表情を歪めながら名を呼ぶと熊染は目をソワソワと動かしつつもゆっくりと目線を合わせた。
いつもは目つきが怖いというのを気にして長い前髪でその目を隠す熊染だが、丁度今秋津の角度からはその長い前髪の隙間から彼の目がきちんと見える。
「ん?」
「....特に町に...用はなかったんじゃけんど.....」
用はなかったと聞いてじゃあなんで来たんだと瞳をパチクリさせる秋津だが、未だ熊染の顎を掴んでる手は離そうとはしない。
「.....なんとのぅ...会いとうなって....」
「会いたくなった?誰に?」
いつものここのつ者の愉快な奴らだろうか。
ぼんやりと脳内で見知ったここのつ者の姿を浮かべる秋津であったが熊染がまた目線を逸らし始めたのを見て何となく察し、「あぁ」と笑った。
「もしかしてアタシに会いにきたのか」
「っ!? な...なんで....あ...う.....」
「実はアタシ人の心が読めるんだ」
「!!!?? あっ茜のは...今まで人ん心を読んでたんか...?」
「信じるなバカ、嘘だよ」
熊染の顎をつかんでいた手を離して熊染の腕を組む。が、腕を組まれた熊染は慌てるようにその秋津の腕を掴み、離した。
「? どうしたよ熊」
「....いや...い、今、その...」
またしどろもどろと目線を逸らし始めた熊染に口角をひきあげながら「言いたいことがあるならハッキリ言え!」と喝をいれる。
「...今...まで....ずぅっと山ん居たから.....に、おう...じゃろ.....」
喝を入れられたことで戸惑いながらも顔を少しだけ赤くしながら熊染は小さい声でそう告げる。
つまるところ、自分は今臭いからくっつかない方がいいということだろう。
「...っぷ、ははははは!!」
「...?」
「そうか!そうだな! よしっじゃあ今から風呂にでも入りに行くか~」
「っ!? えっ...あっ...茜のっ..!!ちょっ...」
「そうかそうか、熊がついに自分の匂いまで気にするようになったか~」
「.....そりゃ...好きん人ん....茜の...の前じゃし......」
「....風呂はお前の金から出せよ。っさ行くぞ、ついでに服も洗っちまえ」
「?...茜の...顔赤ぉないか..?」
「気のせいだバカ、ホラちゃんと歩け」
風呂に入るついでに宿にも泊まることとなり、その宿の亭主に妙な気を使われ色々とあるのだがそれはまた別の話。
【熊秋熊】
「今お菓子持ってるか?」
「...?持ってるが....」
人のいない忍社の縁側、間も無く月も上へとあがるだろうという頃、秋津は熊染の肩に寄りかかりながらそんなことを聞いた。
「イヤな、異国じゃこうやって秋ぐらいにお菓子か悪戯か、子供が聞いて回るんだとよ」
以前忍社で開かれた行事に参加した際に知ったことだ。
そういやあれからもう一年も経つのか、と小さく秋津は呟く。
「熊とはまだ会ってなかったな、そういや」
「?..いつん話じゃ...?」
先ほどの秋津の問いを小腹が空いているとでも受け取ったのか、金平糖の入った袋を取り出した熊染は秋津へと渡しながら首を傾げる。
本来熊染は甘いものが苦手だが、甘いものが好きな人の方が多いということは幾らか理解し始めており、こうして金平糖なども持ち歩いているらしい。
「...これで悪戯は出来なくなったな」
ニヤニヤと金平糖の袋を眺めながらどんな悪戯をしようとしていたのか、秋津はただ金平糖を一つ口に入れた。
「茜のは菓子もっちょらんのか?」
「....は?」
と、熊染の急な発言に金平糖をポロリと落としてしまう秋津。
「菓子か?悪戯か?」
顔を上げて熊染の顔を見ればそこには悪戯を覚えたばかりの子供のような小さな微笑み。
「....とびっきり甘いのくれてやる」
【檮杌難訓】
「お父様!!」
愛おしい娘が私に笑顔で抱きついてくる。
あぁ何て幸せなんだろうか。
その愛らしい顔に手をすりつけて一撫ですると、くすぐったそうに畝ってまた笑い、私に飛びつく。
「えへへ、お父様大好き~!!」
そのまま抱きしめ返し、その美しい髪を何度も何度も撫でる。
ふと顔をあげれば、息子の方がモジモジとこちらを伺っていた。
おいで、そう手を広げると、嬉しそうに顔を明るくし、私の方へ飛びかかってきた。
愛おしい子供二人が、私の腕の中に収まる。
「お父様!」
「父さま!」
子供たちも笑い、私も笑う。
あぁ、なんて幸せな
「.....」
静かに目が開いた。
何故だか少し肌寒い。
チラと横を見れば、暗い表情で眠りにつく娘と、ひたすらに泣く息子の姿。
「...どうした、また怖い夢でも見たか」
「あぁぁぁ...うぁぁぁ...」
そっと近づいて抱えて撫でてやっても、体を動かして泣きわめくばかりだ。
愛おしい娘は表情が変わることがなく
愛おしい息子は泣き止むことがない
笑っているのは、私だけか
「あぁ....」
あぁ、なんて幸せな夢。
【檮杌難訓/※弟】
寒い。
あの暗闇から、また彼奴が僕に手を伸ばしてくるようで、また同じことを繰り返すようで。
思い出すだけで体の震えが止まらずに少しでも目を閉じればその隙に襲われるのではないかと、布団にくるまり闇を見つめたまま、眠りにつくことができなかった。
挙げ句の果てには幻覚まで見えるようになってしまい、弟を困らせた。
「あっあぁ...やめろ..やめてくれこないでくれ!!ぼっ僕にっ...あっ、も、もう殺してくれぇ!!嫌だぁ!!」
「兄さん!!私です!!大丈夫です、もう彼奴はいません!」
「殺してくれ...!!殺して...殺してくれ.....」
「っ...兄さん...」
夜が訪れ、さぁ眠りにつこうと言う時、決まって難訓は眠りにつけず、ただひたすら闇に怯える。
忌々しい記憶が重なるように、歯を震わせる音すら聞こえるほどに、恐れ。
ただそんな兄の姿を、黙って見ていることしか出来なかった。
体に触れようとするだけで今のように自分ではない誰かに過度に怯えて会話すら出来なくなってしまう。
かといって放っておいても、このままじゃ体の疲れもとれないまま眠れず、更に彼へと負担をかけてしまうことになる。
「...牢で.....この一年であなたは....彼奴に何をされたのですか....」
牢に入る前とはまるで違う様へと変わってしまった兄へ、ただただ心を痛めるばかりで。
何故もっとはやく助け出すことが出来なかったのだろうと、後悔ばかりが弟の頭の中で渦巻いた。
弟の呟きなぞ耳に入っていないであろう、膝を抱え何処を見るでもなく目を見開いたまま視線を彷徨わせ震える難訓を見て、またただ唇を噛み締めて俯くことしかできなかった。
その、時だった。
「....爸?」
「ラ、鸞様...申し訳ありません、起こしてしまいましたか...」
「爸ァ?」
難訓の愛息子がよじよじと、匍匐前進でそっと襖から姿を覗かせてきた。
両脚がない彼は、そうして行き来をしていた。
「爸ァ」
齢ではまもなく十だが、どうしてだか知能が幼い子で止まってしまった彼は、その単語しか口にすることはなかった。
ただ、父を呼ぶことしか。
「.......鸞?」
「!兄さん...」
「あっ...あぁ..鸞...鸞....」
今の今までただ震えていただけだった難訓が、息子の声を聞いただけでその顔をあげた。
そして息子の顔を確認するやいなや、大層安心したかのような表情で、立ち上がれない息子を抱きかかえたのだった。
「あぁ鸞...眠れないんだね....一緒に眠ろう....」
「?おー....」
難訓は鸞を抱えたまま自身の布団へ潜り、我が子を愛おしそうに抱きしめながら、安心しきった表情で目を閉じた。
「...」
その光景をただ見ていた弟は、その難訓と息子の心地良さそうな寝顔を見てただ心から安堵し、守り続けようと心に誓った。
【檮杌難訓/モブ女】
「....?」
ぼやけた頭が次第に覚醒していく
脳の中に岩でも突っ込まれたかの様に頭は重く、体はふらつく。
目を開けたと思っても視界は暗いままで、それが目隠しをされているせいなのだと気づくのにさほど時間はかからなかった。
次第に状況を理解してきた、自分は今目隠しをされて、更には頭上で両手を鎖のようなもので拘束されているらしい。先ほどから響く金属の音が不愉快だ。
何故こうなったのか思いだそうとするが生憎何かに首を突っ込んで恨みを買うことはしていない。というよりかは、恨みを売った人間は皆殺したはずなので自分が何故今拘束されているのかさっぱりわからない。
思い当たる人間がいないわけでもないが、自分が知っている彼らはこのようなことをできる人間ではない。
信用とはまた違うが、彼らは面と向かって堂々と話をするくらいの器はある。
持ちうる最後の記憶といえば、子供のために作る料理の材料を買いに出た記憶だ。
町についたところまでは覚えているが何がし頭が痛くて思い出すのが難しい。
頭に強い衝撃を与えられたか薬でも飲まされたか。
どちらにしてもただでさえ老い先短い自分の寿命を縮めるには充分だ。
「ふっ....何にせよ、早いところこの拘束を解いてもらわねばな」
静かに呟いた言葉は反響して、自分の拘束されている部屋の広さを教えてくれる。
そしてその音は目の前で息を潜めている人物にも、恐らく届いた。
「成る程地下牢か、そこまで広くはないが人一人を捕らえ入れるだけなら充分であるな。ならば私がいたあの町からは随分と離れておるな? あの町は地盤が不安定だからな。 見張りはお前一人だけか? 他に足音のようなモノも聞こえてはこない、忍の館というわけでなければ、お前一人の暮らしだ」
グラグラと痛む頭では偽るにもとぼけるにもうまく行きそうにない、必ずいつかボロがでる。
ならばもう最初から偽りはせず、問いに近しい言葉を投げる。
返事に期待しているわけではないが、これに対する反応でどのような人間かは大体わかる。
暗闇である以上、どうも昔の経験が邪魔をして体が震えるのだが、そんな震えはふらつく体でうまく誤魔化せる。
相手の目的がわからない以上下手に弱みを見せるわけにもいかない。
状況があの頃の一日と重なるが、もうあの日々は終わった、大丈夫だ。と自分を落ち着かせる。
「ところで目隠しは本当に必要であったか? 顔を見られない以外にあまり利点はないぞ? 」
「いいえ、あるわよ」
響いたのは女の声だった。
つい舌打ちが漏れそうになるが咳をして誤魔化す。
気配はそのまま自分の方へと近づいてくる。
踏み歩く音を地下牢に反響させて近づく。
目の前で止まったと思えば、手を伸ばしてきているのがわかった。
堪えろ、と自らの両手を拘束している鎖を強く握る。
「だってそうすれば、貴方は暗闇に震えて、他の感覚に頼り切るしかなくなるもの」
案の定、不快な大きさの手が自分の顔に触れてくる。
全身に悪寒が走り、鳥肌がたつ。
今すぐその手を払いのけてしまいたいが生憎それは叶わない。
ただ歯を食いしばってまた強く鎖を握りしめる。このまま鎖が千切れてしまえばいいとも、願いながら。
「...お前の目的は私を震わせることか? 随分と手間のかかることをするな。生憎私はお前に覚えがないのであるが人違いじゃないのか?」
「間違いないわよ、檮杌難訓さん。確かにこうやってお話しするのは初めてだけれど私貴方のことずっと見てたの、目がいいから、ずっと遠くからずっと貴方を」
参った。
と名まで言われた難訓は漸く焦り始める。
自分では手に負えない性格の人間だこいつは。
多分話も通じないし、拘束されてる以上相手が満足するまで解放されないし、こういうのは何をしたいのかさっぱりわからない。
参った。早いとこ異変に気付いた饕餮あたりが来てくれないもんだろうか。
今自分にできることはなるべく時間を稼ぐことだ。
何かをされる前に、なるべく時間を。
「っ!!? おい!何を触っている!!」
「何って貴方の髪よ。本当に綺麗ね、この桃色」
「なっ....」
最悪だ、よりにもよって一番触れられたくないところに。
しかもその言葉から、髪の塗料が落とされていることに気づく。
「私ずっと貴方のこの髪に触れたかったの....サラサラしてて...風になびくその様なんてもう最高...あぁ、幸せだわ...」
「...満足したなら解放してくれないか」
「私知ってるわ、貴方髪に触れられるのが一番嫌なんでしょう?」
あぁ誰だそんなことを教えたのは。
思いつくのが少ししかいない。
トカゲちゃんとかトカゲくんとか。
金次第で何でも言いそうだ。そんなところも好きだが今ばかりは恨もう。
「知らない人間に、体の一部を触られるのが好きなわけあるまいて」
髪に触れている手がサラサラと髪を梳いてくる。ハラリと頬に髪が一房落ちてはまた相手の手がそれを掴む。
飽きないのか繰り返されるその行為にはいよいよ吐き気がこみ上げる。
「顔色が悪くなってきたわよ? なんだか息も荒くなってきた様子だけれど」
「....好い加減にしてくれ、斯様なことをいつまで続けるつもりなのか」
「まぁ本当に髪に触られるのが嫌なのね」
そう、いつだって他人には触らせなかったのだ。
触れても嫌悪感が出なかったのは、子供と。
「でも体に触ってないところに私の好意を感じたりはしないの?」
「ははっ、好意? 生憎だがお前から受けるもの全て嫌悪尓だ。そも私に斯様な仕打ちをして、どこに好意を感じさせるつもりだ」
会話している間も、相手は項から指を伝わせて髪を一房救い、恐らくは口元に運んだ。
考えるだけで歯が震えたが、悟られないよう努む。
「ん....はぁ、本当に、なんて美しい髪なの....香りまで....」
「やめろ、おい、やめろ、やめてくれ」
髪から漸く手が話された、と思えば嫌な予感が身体中を走る。
「っ......」
衣服に、手が添えられているのがわかった。
何をするつもりなのか、気持ち悪いくらいに耳に入る女の興奮した息遣いで、察しがつく、ついてしまう。
「おい...やめろ。離せ、今すぐ」
「ふふ、怖がらなくても大丈夫よ」
「煩い黙れ!!今すぐ私に触れている手を離せ!!私に触るな!!!」
地下の遠くにまで響き渡るほど大声を出して拒絶するが女がやめる気配はない、どころかそのまま触れていた手を腰にまでおろしてきた。
「ヒッ.......」
足に拘束はされていなかったので動かせないこともない筈なのだが、しかし動かすことはできなかった。
恐怖が、
「やめっ、やめろ、離せ、触るな、離せ離せ離せ、嫌だ、」
何も、何も見えない、何も映らない。
暗い暗い視界の中に映るのはかつて仕えていた主君、あの下卑た笑みを浮かべる男。
男が、近づいて、笑って、手を、触れて、嫌だ、暴かれ、やめてくれ、熱くて、ごめんなさい、笑って、身体が、ごめんなさい、痛くて、ごめんなさい、愛が、ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい
「ひっあっ、あぁぁぁぁぁ!!!やめろ!!!やめろ!!!ごめんなさい!!!申し訳ありません二度としません許してください!!嫌だ!!違う!!殺してくれ!!殺してください!!!」
「あららぁ少し虐めすぎてしまったかしら」
女の笑い声子供達も笑ってる幸せだ笑顔だ『体に触られて』甘い匂いあの子の好きな金平糖私の好きな大福子供達の好きなお茶菓子『髪に触られて』嫌なことなんて何もなかったいつだって子供達と笑っていられて私は愛を『暗闇に浮かぶ笑顔は』愛を
「殺して、殺してください...もう嫌だ、嫌だっ、ぼっ、僕はっあっひっ..!?」
「...?あら?」
嫌だ、嫌だ、これ以上何をこれ以上何をこれ以上何をこれ以上何をこれ以上何を
「.......そう、成る程ね、変に嫌がると思ってたけどそういうことなのね。折角挿れてもらおうと思ったのに、そう、残念だわ」
「ひぃっ、嫌だ何を、ごめんなさい、もっ、もう嫌です」
手が離れた違うこの後はなんだっけなんだっけ何を何を何を何をすればごめんなさい手が離れた後は駄目だもっと何か嫌な
「っ!!!!!!!やめろ!!髪に触るなぁっ!!」
「あら、正気に戻ったのかしら」
駄目だ駄目だ暗闇は駄目だ浮かびたくもない記憶が浮かぶ浮かんでしまう駄目だ既に醜態は晒した殺すしかない殺すしか殺すしか殺す
髪は駄目だ髪だけは髪だけは髪だけは何もかも体の至る所はもう醜く穢れた有様だ。だけれど髪は髪だけは誰にも髪だけは父様が髪だけは子供達が髪だけは髪だけは私が
「今すぐ、今すぐ髪から手を離せ...!!」
呼吸が安定しない、落ち着け、今は、違う、落ち着かないといけない、これ以上動揺を見せてはいけない。
「本当に触られるのが嫌なのね、予定なら貴方と交合したいと思っていたのだけれど、どうやら貴方はそれが出来ない様だから」
「っ!!!.....したいとも思わん...!!この尻軽めが...!!」
「ふふ、したくても出来ないのだものね?」
「いちいち癪に障る言い方をするのはなんだ? 」
「そうね、少し怒ってるのかしら、貴方は髪も綺麗で髪色なんてまるで天女のようだし、それでいて男の持つべきものがないなんて、本当、まるで女みたい」
殺す。
「物足りないか? 何をすれば解放するのだ、私にはもう何もできぬぞ?」
「いえ、まだすることはあるわ?」
「ほう?」
女の気配が近づいて、次第に顔の近くにまで女の息を感じるようになった。
成る程。それは良いな。
「接吻はまだでしょう?」
「......それで満足するのであれば好きなだけしろ、早くなっ、っむ...」
言い終わらない内に口に生暖かい、独特な香りと粘りをもったものが吸い付いてきた。気持ち悪い。
目隠しをしていて良かったのか悪かったのか、どちらにせよ耐えねば。
「っ...ん、はっ...」
一瞬離れたと思い息を吸おうと口を開ければその隙に口内にまで入ってくる、支えが必要になったのか両肩を掴まれて悪寒が走るだけだ。気持ち悪い、しばらくは口に食事を通したくない。
ヌメヌメとした感触悪いものが暫く口内を蹂躙した後漸く離されて両肩の力も抜ける。
口の端しから唾液が垂れてしまっているのが不快でならないが今の自分にそれを拭う手段はない。
「はぁ...貴方って随分と甘い味するのね、大福とか好きでしょう」
「...もう一回、良いだろうか」
「え?」
「...すまないがもう一度顔を近づけてくれないか」
「..なぁに?もしかして、その気になってくれたのかしら」
女は嬉しそうに声を弾ませた後に再び顔を近づけてくる、ご丁寧にくっつける寸前で止まってくれている。
漸く落ち着いてきた頭で女は私より少し小さいことに気づいた。残念だ、こんな性格でなければ、目隠しされていなければ、愛せていたかもしれぬのに。
「あぁ、すまないね...」
息を少し吐くと女の前髪か何かが鼻をこすった。鎖で吊るされている体を精一杯女の方へ近づけて小さく微笑んだ後ゆっくりと、
彼女の首へ思い切り噛み付いた。
「.....え?」
口内に広がる鉄の味、先ほどの良い口直しだ。上手いわけではないがあの気持ち悪さよりもマシだ。
歯をどんどんと頸へ食い込ませていき、なにかがブチブチと千切れる音を聞いてから、ゆっくりと口を離した。
口周りも血で汚れてしまっただろうか、と舌なめずりでその血を拭う。
「え、あ...」
「痛みは一瞬の筈だ、頸動脈をたた切っただけではそう簡単には死なないからな。ほら、見えるか」
あ、と口を大きく広げて見せる。目隠しをされているので女がみているかはわからないが説明は続ける。
「奥歯の色が、紫色であったろう? あれは変に病気になっているわけではなくてな、この歯自体が歯ではなく毒の塊であってな。正直私にも害があるのであまり使いたくはないのだがな」
奥歯に仕込まれている毒は本当の奥の手、しかも手間もかかるし効率が悪いが、まぁ仕込んでいて悪いことはなかったな。
「な...に..」
「先ず目眩に襲われる、次に頭がぼうっとし始め、そして次には無意識に失禁してしまうほどの快楽を覚え愉悦のまま死ぬ」
勿論頸動脈に直接入り込めていないと無理なのだがまぁこの様子から成功だろう。さて、解くか。
試しに二三回足踏みをして動くかどうか確認した後、懸垂の要領で鎖に力を込めて自分の身体を地面から持ち上げた後、そのまま逆さまになるように足を天井につける、思ったとおり低い天井だ。そのまま膝を曲げその一瞬拘束されている両手で目隠しを掴み全身の力を抜く。
「ふぅっ、涼しい気持ちであるな」
上手いこと目隠しは取ることに成功した。
漸く自分の現状と相手の顔を把握することができた、先程からあまり声がしないと思っていたがもう女は体を痙攣させながら失禁していた。
「さて鎖はどうしたものであろうな」
呟いてはみたが実際どうにでもなる。しかし少し疲れたな、と一息ついていると。
「...チッ、遅い」
数人の気配が近づいてきた。
遅いとは言ったが早い方だ、流石私の愛する弟たちだ。
とりあえず今日はもう彼らに任せて休もう。醜い女の死骸を最後視界に入れて目を閉じた。
【檮杌難訓、小鳥遊命/※子供、弟】
その男は、フラフラと山道を歩いていた。
息を荒くし、肩を震わせながら、一歩ずつ歩を進めていた。
「っげほ!!...っぐ...ぅ...」
一度咳き込んだかと思えば、男は近くの木にもたれながらズルズルと座り込んでしまった。
「ぁ...っは...と...う、てつ....」
「お呼びですカ」
聞き取れるか聞き取れないかも不安な酷く小さな、うめき声に近い言葉であったが、突然姿を表した男はその言葉に反応して男の前に跪いた。
「す、まん.....もっあるけっ、ぬ...っは...げほっげほっ」
「...わかりましタ」
その言葉に小さく頷いた後、跪いていた男は目の前で震えながら小さく呻く男を抱え、また姿を消したのであった。
「.....難訓ニイサンは意地を張りすぎなのデスマス」
「うるさい、薬を切らしておらねばこのような、ことっ....」
自宅に無事運ばれ、自室にて布団に寝かされた難訓は体を横にしたことで少し発作が収まったもののまた呻きながら体を丸くした。
「........ニイサン、少し待っていてくだサイ、今すぐ薬を取ってきますノデ」
難訓の持病を抑える薬は漢方の類で、特殊な調合で出来た薬だ、少々離れた場所へ赴かなければ手に入らないものであった。
発作は収まっているものの薬が切れてしまった今早急に取りに行かなければ。
饕餮はそうして片膝を立て立ち上がろうとした、のだが。
「....ニイサン?」
弱々しい力で腕を掴まれ、阻まれてしまった。
「げほっ...いま、すぐ...獬豸を、連れて来い.....」
「...そうでスネ、わかりましたニイサンすぐにお連れ致しますデス」
失念していた、彼は一人では眠れないのであった。
焦っているのか、ともあれ急がなければ。
饕餮は地下室から獬豸を抱きかかえて連れてきて、そっと難訓の横へとおろす。
難訓はそれに満足したのか愛おしそうに自らの娘を見た後にそのまま頭を抱えて目を閉じた。呼吸は安定していなかったがこの調子ならまだ大丈夫だ....。
そうして難訓が眠りに落ちたの確認した後、饕餮は急いで家を出たのだった。
◾︎◾︎◾︎
「〜♪」
ひと気も獣の気配もない山道を鼻歌まじりで歩いていたのは小鳥遊命、幼き偽り人であった。
少し大きめの包みを抱えた彼女は今、檮杌難訓の自宅を目指していた。
何度かお邪魔したこともあり、彼の「いつでも遊びに来るといい」という言葉に遠慮せず甘えているのだ。
遠慮しないで甘えることができる相手が出来たことに、喜びを感じつつ、命はいつの間にか難訓の家の前へとたどり着いた。
「..よし、お土産もちゃんとあるし...」
包みを視認した後命は小さく息を吸い家の扉を叩いた。
「ごめんくださーい!難訓さん、遊びにきましたよ〜」
少し緊張しながら返事を待つ.....が数秒待っても返事はない。
「?留守なのかな? すいませ〜ん」
また数度扉を叩く...と、命はそこであることに気づく。
「...あれ、開いてる...」
扉の鍵がしまっておらず、開いていた。
恐らくは急ぎすぎた饕餮が閉め忘れたのだろうが、勿論命はそんなこと知る由もない。
何かあったのではないかと恐る恐る扉を開けつつ中へ入った。
「...難訓さん?....いないんですか?」
中へ入っても返事はおろか人の気配する感じられないことに対し不安を覚えながら、命は奥へと進んで行った。
何度か来たことはあるし、部屋もだいたい覚えている。
部屋の数が無駄に多いことに、今だけ命は「何で」を脳内で連呼するのだった。
「...出かけてるのかな...でも鍵閉めてかないなんて不用心だなぁ...」
そんなことを小さく呟きながら、命は彼の寝室前に着いた。
彼がいるとするならここ.....もしくは地下にあった部屋だが、できることなら地下の方には行きたくなかった。
ここの部屋にいますように、など願いながら命はゆっくりと襖を開けた。
「....難訓さん...」
いた。布団で眠っている。
何かあったのではないか、という心配は無用であったことに安堵しつつ命は眠っている難訓の方へ音をたてずに近づいた。
よく見ると難訓は誰かを抱えて眠っていた。
そういえば、と命は以前彼と共に寝たことを思い出した。
「...誰かと一緒じゃなきゃ、眠れないんだっけ」
小くクスリと微笑んだ後、命は眠っている難訓へ手を伸ばした。
そして彼の体にその手が触れた瞬間。
「っ!!」
「えっ? 難訓さ...」
今まで目を閉じ眠っていた筈の難訓が勢い良く目を見開いた、かと思えば自らの体に触れた命の手を大きく振り払う。
「触るなぁっ!!!」
「...な、難訓さん..?」
突然のことに驚きながら、彼の様子を伺う。
何故だか、いつもの難訓とは様子がおかしかった。
「さわ、るな...はぁっ、私、に...」
大声をあげ、命から距離をとった難訓であったが、そのまま呻きながら座り込み先ほど眠っていた時とは違う荒い呼吸をし始める。
肩を大きく動かしながら咳き込み呼吸を整えようとするその姿はとても苦しそうで、命はどうしようと駆け寄ったが、先程腕を振り払われたのもあり触れることができずにあうあうと慌てるのだった。
「どっ、どうしよう..難訓さん大丈夫? えぇっと...えぇっと....」
と、その時、命は布団にいた少女と目が合った。
先程は難訓が壁となってわからなかったが、そう、その少女はいつか地下室で見た....。
「か、獬豸..ちゃん...?」
彼の最愛の娘であった。
年は近しいと聞いていたがしかしその姿は、本当に同い年なのか確認しようもできなかった。
両手両足がない。
少女はそのせいか体を起こすこともせず、ただ視線だけを命に向けていた。
「....」
「...あ、あの....」
何か用なのだろうかと口を開いた命であったが、しかしそれはすぐに遮られることとなる。
「あ...れ、命、ちゃん...?」
「! 難訓さん、大丈夫ですか?」
顔を上げ命の方を見ながら、いつもより更に血色を悪くした難訓が、小く呻いた。
「なん、で君が、...っ」
「そ、そんなことより大丈夫なんですか? ごめんなさい私あの、しちゃいけないことしちゃいました....?」
先程手を振り払われたことに対して、難訓の反応から恐らく触れてはいけないところであったのだろう。
そのことに関して謝ったのだがしかし難訓は、その言葉に関しては首を小く傾げた。
「...?なんのこ、と、...っ!!」
その途中で、難訓は大きく体を痙攣させそのまま横に倒れこんだ。
口を大きく開いてなんとか酸素を入れようと荒い呼吸を続けている。
「!? 難訓さん!? 大丈夫ですかっ?」
数秒してすぐに難訓の呼吸は落ち着いたが、彼の体力が最早保たないのか、彼は娘の方へ手を伸ばしたままそのまま目を閉じた。
気配からも、どうやら眠りについてしまったらしい。
未だ状況が把握できないまま命は少しの間行動を停止していたが、布団から少しでてはだけた姿で寝ている難訓を見てハッとして彼の体を布団へと戻すのだった。
難訓の体を運ぶ時、彼の体に手が触れると彼の体は大きく震えた。反射で手を引っ込めたが起きる気配がないことを確認したあと、またゆっくりと体を布団へと移した。
まだ整いきらない呼吸をして苦しそうな表情で眠りに落ちている難訓を見て、しばらく彼の家に残ろうと決めた命であった。
【檮杌難訓、小鳥遊命/※子供、弟/過去】
夜になったが、難訓が目を覚ますことは未だなかった。
自分の娘にすがりつくように、抱えながら苦しい表情を浮かべ、彼は長いこと眠りについている。
「......」
命はただじっと難訓と、彼に抱かれて共に眠っている娘、獬豸を見つめた。
獬豸....難訓の実の娘であり、その四肢を切断したのは他ならぬ、難訓その人であった。
以前一度だけ、この家の地下室へと入ったことがある。
そこにいたのは、まるで赤子のような言葉しか発さない自分と近しい年の難訓の息子と、動くこともできず布団にただ寝かされている獬豸の姿と、人の姿を失った、元は普通の子供たちであった何かの姿だった。
難訓はその光景を命に見せながら言った、淀みない笑顔で、悪意のない笑顔で
『皆、僕が愛してあげたんだ』
正直悪寒が走った。
言葉も出ず、ただその光景に恐怖し、檮杌難訓という存在がわからなくなった。
それまではただ、優しくて、どこか抜けていて、色んなことを受け入れてくれる。まるで父親のような存在だった。
けれどその光景を見せられたその瞬間に、途端に難訓は畏怖の対象となってしまった。
命は、恐ろしさで顔を俯けてしまった。
けれどその後、普段と一切違わぬ難訓の優しい声が耳に入った。
『ただいま、獬豸、鸞、お前たちの友人を連れてきたよ』
その声から聞き取れる彼の嬉しそうな感情と、優しい声から命は理解した。
(あぁ、この人は、ただ愛の表現を間違えているだけなんだ)
畏怖の対象でも何でもない。
むしろ憐れみの対象なのだと、命は瞬時に理解した。
見上げた時にうつった彼の子供を見る時のその表情、その声から、彼が子供へと、ちゃんと愛を持っているのはわかる。
『だからすまない、今日は彼女の相手をするからお前たちを愛すのは遅くなってしまいそうだ』
自分に向けるような笑顔となんら変わりない笑顔で自らの子供へ告げ、そのままの表情でこちらを見て
『じゃ、上でお茶でも飲もうか?』
正直あの時は茶なんて飲める気分ではなかった。
しかしあの部屋での惨状を見ても今こうしてまだ難訓の元へ来て、彼のことを信用し続けているのは、彼が自分の過去を受け入れてくれた。そのことが大きいのだろう。
またあれから接するに連れて、彼が子供へと好意しか抱いていないのは十分に伝わった。
問題は、その愛情表現の方なんだ。
今娘と共に寝ている難訓に一度、獬豸の姿に関して問うたことがあった。
彼は一度悩んだ後『命ちゃんなら言っても大丈夫かな』と小さく呟いた後
『あの子が大人になるのが嫌だったんだ』
と、笑顔で言った。
「.....難訓さん、愛は...そうじゃないよ....」
震えた声で小さく呟いた言葉は暗闇の中へと消えていった。
と、命がそっと難訓の方に手を伸ばした時だった。
「誰ダ」
自らの首元に、冷たい何かが背後から突きつけられた。
その感触ですぐそれが刀だとわかり、動きを停止し緊張が走った。
背後に誰か近づいてくることに気づかないほど、警戒心が薄れていたということだろうか。
「わ、私は小鳥遊命で、難訓さんの、えっと.....友人?です」
父親とも慕っている人物との関係を友人というのも変な話だが、他に適切な言葉が浮かばなかった。
「友人?」
後ろにいる人物はキョトンしたような口調で小く聞き返してきた。
気のせいかもしれないがどうにも先程から言葉が片言だ。
「え...えっと、はい...」
当人である難訓が目を覚ましていない以上自分と彼の関係を証明できるものは何もないのだが。
未だ刃物への緊張を緩めずに固唾を飲み込んだ。
「あぁ〜なんだそうだったのデスカ、申し訳ないデスお客様だったのデスネ」
先程までの空気とはガラリと変わって後ろの男は素っ頓狂な声を出して突きつけていた刀を退いた。
「へっ....」
今ので疑いは解けたのか、と命は振り向いてその姿を確認する。
「あぁ女の子、そういえば何度かウチにも遊びにきてマスデスネ? いやぁ暗かったカラ...刀はしまったデスのでニイサンには内緒にして下さいマスデス? 刀アナタに向けたこと」
やはりどこか片言な口調で喋る男は、顔を確認しようにもその全体を覆面で隠していた。
確認できるのは、唯一隠していないその碧の左目だけだった。
「えっえっと...あの、貴方は...?」
全く正体のわからない突然の存在に動揺しつつその正体を問いかける。
いまの口振りだと、男は難訓の弟だろうか、それに「ウチにも何度か遊びにきてる」とは...難訓以外の男とこの家で会ったことはない筈だが。
すると命の言葉にしばらく首を傾げていた男はようやくわかったかのように自らの覆面を解き始めた。
顔全体を包んでいた布が払われ、中から金の髪と中年男性が姿を現した。
その右目には痛々しい切り傷がハッキリと残っており左頬には、怪我でもしているのか湿布が貼られていた。
瞳の色からでも思っていたが、その金の髪はどう考えても、難訓と血のつながりがあるとは思えなかった。
難訓の地毛は、桃色だ。
「そういえばこうして顔を面と向かわせるのは初めてデスネ、命さん、饕餮と申しマスデス」
深々と彼は跪きそっと顔をあげて命の右手を取った。
「難訓ニイサンの弟デス、いつも見ておりマシタ、ニイサンがお世話になっていマスデス」
そうしてまた深く頭を下げ命の右手を下ろす。
多々言葉を間違えているし気になる発言があるが今は深く聞かないでおこう。
「えっと、初めまして?...小鳥遊命です、えっと饕餮さん...?」
「ハイ」
饕餮は顔をあげニッコリと微笑んだ。
難訓とは違った種類の笑顔だ。
「....難訓さんにいつもお世話になってるのは私の方です...今日だって、甘えに来ちゃったようなものだし...」
「...ニイサンはそれで嬉しかったハズデス。....ただ今日は、日が悪かったデスネ」
難訓の方を見ながら饕餮は苦々しい顔で答える。
「..命サン、ニイサンは目を覚ましましたカ」
「...はい、私が来た時に一回だけ...でもその時なんだか様子がおかしくって...すぐ倒れちゃって...あの、私なにかいけないことを...」
昼間、難訓は一度目を覚ましたものの、普段とは全く違った様子で激しく取り乱した後、また意識を失ってしまった。
その原因が自分にあるなら。
命は不安な表情で俯いた。
「...ニイサンの体に、触ってしまったのデス?」
「はい...あの、起こすつもりとかなかったんですけど....私が触れた途端にいきなり起きて....その...」
「...大丈夫デス、命サンに触られるのが嫌というわけではないんデス。強いて言うナラ、誰相手でも触られるのが、ニイサンにとっては苦痛なんデス」
「....触られるのが、苦痛?」
そういえば、と、命は以前難訓の背中をさすろうとした時強く腕を掴まれたことがあった。
まさかあれも....
「...あの、詳しく聞いても、大丈夫ですか?本当はこういの、難訓さん本人に聞いた方がいいんでしょうけど...」
「....多分ニイサンからは話せない、と思うマス。....ニイサンには、内緒デスヨ?話したこと」
難訓がいまだ目を覚ます気配がないことを確認した後、饕餮は命を別の部屋へと手招きした。
恐らくは客間であろう、6畳ばかしの部屋だった。
適当に腰をかけるといつの間にもってきたのか饕餮が茶と金平糖を出してきた。
「金平糖が好きデシタ?」
「はっ、はい、ありがとうございます...」
何故知ってるのだろうか。と目をパチクリさせつつ出された金平糖をつまむ。
命と少し離れた向かいに座り、饕餮は穏やかな顔で口を開いた。
「....ニイサンが、大きい方のコトが嫌いなのはご存知デシタ?」
「えっ」
子供が好きというのは解っていたが、大きい方....大人が嫌いというコトだろうか。初耳だ。
いつもの他の人への態度からもそんなこと伺えなかったが...。
「哈哈、流石ニイサンデスネ。上手く偽ってらっしゃるのデスマス」
「し、知らなかったです....」
偽り人、その肩書きは、伊達じゃなかった訳だ。
「昔、ニイサンが別の場所で働いていた時デス。恐らく命サンもまだ生まれてないデショウ。その頃ニイサンは偽り人ではなく、ある野郎...ある方に仕えておりマシタ」
自分が生まれてない頃。
それなら結構前か...。あまり親身に聞けそうにない。
...物騒な言い直しが聞こえた気がするが、気のせいだろうか。
「ずっと平穏だったのデス...ニイサンも獬豸サンや鸞サン、....橤サンもとても仲良くすごしていたのデス」
「橤さん....?」
初めて聞く名前だ。難訓にもう一人子供がいたのであろうか。
「....ニイサンの、奥方サンです」
「!!」
「この名は決してニイサンの前で言ってはいけませんデスヨ。命サンでも、絶対に」
難訓さんの、奥さん。
彼に奥さんはいないのかと聞いたコトはあった。しかしその後の彼の様子から、聞いてはいけないことだというのは察した。
「...平穏だったのデスガ、ある時ニイサンは罪を犯しました。あまりウォも詳しくないのデスガ」
「橤サンを殺してしまったようなのデス」
「え...」
妻を、殺した。
まさかそれは、彼のあの、愛がねじれてということだろうか。
「事情はウォもあまり把握できていないのデスガ...、あの時ニイサンとウォは大きな仕事を任され、橤サンたちの元を離れていたのデスマス。...それで、ようやく終わる目星がついた頃に、ウォはニイサンを先に帰らせたのデス....とても会いたそうにしておりましたノデ」
成る程、先程から聞いてると、この人はすごく良い人だ。
兄思いの、良い弟。
「....しかし、ウォが帰った頃には、ニイサンは既に牢にいれられていマシタ...」
「......その、牢に...牢にいる間ニイサンは、ニイサンは、ある方、から拷問を、受けて....」
「難訓さんが仕えてたって人ですか?」
「.....ハイ、その、方は....自ラの鬱憤晴らしの為ニイサンを、..........嬲り続けたノデス...」
後半の方は、声から怒りと憎しみと、悔しさが感じ取れた。
自分の手前、堪えてるようにも見えた。
この様子から嬲る、といっても生半可なものではなかったんだろう。
「あの...それってどれくらい....」
「......およそ、一年デス」
「えっ...そんな、一年....?」
「ッ...ハイ...ニイサンは一年もの間、屈辱を受け続けたノデス.....ウォがニイサンを牢から連れ出す時には、もう以前のニイサンではなくなってマシタ。....牢の中で何が行われていたか、詳しくはウォからも言えませんガ、それ以来ニイサンは大きい人間も、体を触られることにも、酷く嫌悪感を覚えるようになってしまったのデス」
一年。
難訓の体に、傷があったのは知っていた。彼の胸のところに大量の鞭打ち跡が痛々しく残っているのを、着物の間から見てしまったことがある。
その時は色々あったのだろうと、聞くことはしなかった。
....あれが、その名残なのか。
一年間も屈辱的な行為を受け続け、果たして正気を保っていられるのだろうか。
少しだけその惨状を想像したが、背筋が震えて到底先を思い浮かべるのは無理だった。
大きい人間と、体を触られるのが嫌い。
その頃のことを、思い出してしまうからなのだろうか。
「あ、.....あの、その難訓さんが仕えてた人....難訓さんをその、嬲ったって人はどうしたんですか」
「殺しました」
間髪もいれずに饕餮は答えた。
その目つきに思わず命の身はすくんだ。
「....ウォが話せるのはこれぐらいデス、未だ言葉に慣れないノデ聞きづらかったデスマスガ、ご容赦下さいマス」
そうして饕餮は深々と頭を下げた後、難訓の寝室の方へ戻るのか、部屋を後にして行った。
「......」
難訓の過去の片鱗を聞いた。
浮かぶのはいつもの難訓の笑顔と、先程寝室で苦しそうに寝ていた彼の姿だった。
「...何で難訓さんは...奥さんを殺したの....?」
茶と一緒に出された大好きな金平糖は、まだ皿の上に残ったままだった。
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