No.784919

艦これファンジンSS vol.40「教えること、教わること」

Ticoさん

ズイカツして書いた。やっぱり反省していない。

というわけで艦これファンジンSS vol.40をお届けします。

2015春イベント五部作が戦闘回続きだったので、今回は日常回がいいなーと思い、

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2015-06-21 11:20:17 投稿 / 全6ページ    総閲覧数:1375   閲覧ユーザー数:1366

 彼女が海を駆けると、飛び散った波飛沫が白い花びらのように舞った。

 右へ左へ舵をきり、なめらかな弧の字の航跡を海面に描いていく。

 目をみはる機動性。素晴らしいまでの速度。

 彼女が属するカテゴリーで同じ速さを出せる者は、彼女以外にそうはいない。

 勝気な印象の端整な顔。ツインテールに結わえた銀の髪。

 身にまとうのは青紫の弓道着、薄茶色の袴を模した短いスカート。

 胸当てには緑を基調とした迷彩が施され、左肩には長大な飛行甲板を備えている

 年の頃は十六、七に見える少女は、しかし只者ではない。

 海面を自らの足で滑るように駆ける者が人間の女の子のはずはない。

 艦娘。人類の脅威、深海棲艦に対抗しえる唯一の存在。

 彼女の手には、一張の短弓があった。

 速度は落とさないまま、弓に矢を一本つがえ、構える。

 はるか遠くに見える小さな的に向かって、彼女は引き絞った矢を放った。

 矢が空を裂いて飛んでいく。

 そして、銀光がきらめいたかと思うと、矢は艦載機に変じて舞った。

 猛々しい緑の猛禽は、的に向けて機銃を撃ち放つ。

 連続して弾丸を浴びた的にいくつもの穴が空き、そして砕けた。

 それを見届けて、彼女はふうと息をつく。

 ――まったく、お手本を見せるというのも大変だわ。

 的には命中させられたものの、はずしたらと思うとプレッシャーをおぼえる。

 岸壁からの二組の視線を感じながら、彼女は内心、気が重かった。

 航空母艦、「瑞鶴(ずいかく)」。

 それが彼女の艦娘としての名前である。

 

 

 「深海棲艦」という存在がいつから世界の海に現れたのか、いまでは詳しく知るものはない。それは突如、人類世界に出現し、七つの海を蹂躙していった。シーレーンを寸断されて、なすすべもないように見えた人類に現れた希望にして、唯一の対抗手段。

 それが「艦娘」である。かつての戦争を戦いぬいた艦の記憶を持ち、独特の艤装を身にまとい、深海棲艦を討つ少女たち。

 鎮守府は日々変化している。新しい艦娘が戦列に加わり、それまで後輩の立場に甘んじてきたものが、ある日いきなり先輩になる。教わる側が教える側になってみて、初めて分かることもある――単に学べばいいだけの立場の気楽さもそのひとつだろう。そして、人に教えるということの難しさも、また然りであった。

 

 的を撃ち貫いて岸壁へ戻ってくると、二人の艦娘が待っていた。

 一人は小柄な背丈で茶色の髪をツインテールにしていた。サンバイザーに似た独特の帽子が目を引く。道士風のデザインをした臙脂色の服を着込み、巻物をたずさえていた。顔立ちはやや幼い印象を受けるが、そのまなざしにはどこか達観した古参の風格が漂う――軽空母娘の龍驤(りゅうじょう)だ。

「いやー、相変わらず見事なもんや。さすが正規空母は違うわあ」

 関西訛りの明るい声はいつものようにさっぱりとしている。

 賛辞を送る龍驤に向けて、瑞鶴はふわっと顔をほころばせた。

「ありがと。わたしの動きが参考になればいいんだけど――どうかしら?」

 瑞鶴の言葉はもう一人の艦娘にも向けたものだった。

 その彼女は目を輝かせ、頬をかすかに上気させて瑞鶴を見つめている。

 うねるように波打つ長い黒髪。目鼻立ちがすっと通った顔立ち。美人の部類だがまだ幼い印象を残しており、初々しい。細身の体型に翠と白を配した衣装を身につけていた。そして手にはしなやかな弧を描く弓が一張――空母娘の葛城(かつらぎ)だ。

「はい、すごかったです! さすが瑞鶴さん! 栄えある機動部隊の主力ですね!」

 弾むような声であげられる賞賛の言葉に、瑞鶴はむずがゆいものを感じた。

 こほん、とひとつ咳払いをしてみせてから、改めて訊ねてみる。

「いきなり同じこと、なんてのは無理と思うけど、真似できそう?」

「わかりませんけど、やってみます!」

「……どこか、よく見ておきたいとか、聞いておきたいとか」

「わからないけど、たぶんだいじょうぶです!」

 返事だけは元気な葛城だが、瑞鶴にはどうも心配でならない。

 良い子だとは思う。挨拶も丁寧だし、態度も素直だ――正直な話、彼女を見ていると自分の過去の行いがなにやら恥ずかしく思えてくる。ことあるごとに“一航戦”の先輩にくってかかっていた自分のことが。

 とはいえ――瑞鶴が先輩にぶつかっていたのは、自分なりに考えておかしいと思ったからこそだ。それを踏まえれば間違ったことはしていないとも思う。

 さて葛城はどうか。演習本番に至るまでの座学を振り返ると、言われたことを丸呑みしたくせに消化しきれていない節が見受けられる。返事は元気で性格は素直でもバカでは困る――それなりのおつむはないと艦娘は務まらないからだ。

「……まあ、とりあえずはやってごらんなさい。それで教えていきましょう」

「はい! 了解しました!」

 声は明るく大きく、丁寧に敬礼までつけてみせる葛城。

 そんな彼女に苦笑いを浮かべながら、瑞鶴は思うのだった。

 ――そもそも、わたし向きじゃないのにな、この仕事。

 

「いやいや。なんかお疲れの様子やな、瑞鶴はん」

 葛城が桟橋から海面に降りて飛沫を立てながら駆けていくのを見送ってから、龍驤はにやにやと笑いながら瑞鶴に声をかけた。すでに葛城の耳に会話が聞こえる心配はない。それでも瑞鶴は声をひそめて答えた。

「素直な子だと聞いていたから教えやすいと思っていたけど」

 はあ、と瑞鶴は大きなため息をまじえて言った。

「あそこまで天井なしに素直だとかえってつらいわね」

 瑞鶴の弱音に、龍驤は彼女の背中をぽんぽんとたたいてみせた。

「まあ教官役をおおせつかったのは瑞鶴はんやからな。葛城はんが半人前になるくらいまではつきおうてやらんとあかんやろなあ」

「……ずいぶん気楽に言うけど、あなたも教官役なのよ?」

 じとりとした目でにらみつける瑞鶴に、龍驤は涼しい顔で答えた。

「ウチが任されたのは副教官。あくまでサポート役や。主役は瑞鶴はんやで――それともなんや、ウチがでしゃばって手柄独り占めしてもええのん?」

 彼女の言葉に、瑞鶴はうなった。そんな言い方をされては文句の言いようもない。

 同じ空母娘でも、正規空母の瑞鶴と軽空母の龍驤とでは、自分の方が格上だ。

 しかし、龍驤は重宝がられて多種多様な作戦に参加することが多く、それだけに人付き合いは幅広いベテランだ。古参はずるがしこい、という例に龍驤も漏れなく入っているということか。

「しかし、ウチと瑞鶴はんが教官役なあ」

 龍驤が腕組みしながら、ぼそりと言った。

「この組合せ……そこはかとなく恣意的なもんを感じるんやけどな」

「なによ、それ」

 瑞鶴が眉をひそめて訊ねてみると、龍驤は胡乱な視線を向けてきた。

「ウチと瑞鶴はんは共通点があるやろ」

「共通点って……髪型?」

 瑞鶴はそういって、自分のツインテールをさわってみせた。龍驤が口を結んで、うーんとうなってみせる。

「いや、まあ、間違ってへんけどな。ちゃうねん。葛城はんにもあるねん」

「葛城にもある特徴……?」

 瑞鶴は首をかしげた。龍驤が何を言わんとしているのか、さっぱりつかめない。

「あるっちゅーか、むしろ“ない”んやけどな、この場合」

「いったい何なのよ」

「……ええねん。『知らぬが仏、知ってキリスト』って言うしな」

 龍驤が瑞鶴を見つめる。顔に向けられていた視線が、つい、と下へ向く。

 彼女の視線の先に何があるか――自分の胸をぺたぺたとさわってみてから、瑞鶴は息を呑み、思わず耳たぶまで赤くなり、目を吊り上げて龍驤を見た。

 またたくまに赤鬼の形相になった瑞鶴に、龍驤がなんとも言いがたい表情をうかべている。瑞鶴は海上の葛城に目をやった。スレンダーな体型の彼女にも、なるほどたしかに共通して“あるけどない”特徴だ。

 つるーん。ぺたーん。フルフラットな、控えめにすぎる胸。

「――この組合せ、バストサイズで選ばれたって言うの!?」

 小さいながらも金切り声をあげた瑞鶴に、龍驤は肩をすくめてみせた。

「偶然と思いたいけどな。せやけど気が合うかもしれんという理由はあるかもなあ」

 わなわなと瑞鶴は震えた。そんな理由で教官役を任されたとは思いたくはないが、もしそうなら決めたやつを許さない。まさか提督か。そうだとしたら鎮守府の司令官といえども容赦はしない――艦爆隊の一群で執務室を空襲してやる。

「……瑞鶴せんぱーい! そろそろいきまーす!」

 ふつふつと怒りがたぎりそうになった瑞鶴を我に返らせたのは、葛城の声だった。

 こほんと咳払いし、瑞鶴は手を挙げて振ってみせた。

 葛城は海面を駆けて弓矢をつがえる。

 弓弦を引き絞り、矢を放った。

 空を切って飛んだ矢は――しかし、艦載機に変じず、程なく力尽きて海上に落ちた。

 戸惑い気味の顔で葛城がこちらを見る。

 どうしてでしょう。なにがわるいんでしょう。どこがおかしいんでしょう。

 葛城の表情には、不安と困惑が入り混じっていた。

 瑞鶴には――原因が分からない。空母娘が矢を放てば艦載機に変わる。それは当たり前のことで、やり方など意識したことがなかった。歩いたり息をしたりするのと同じ、空母娘にとってそれは至極自然のことのはずだった。

「――だいじょうぶ、もう一度やってみよう?」

「はい!」

 返事はまだ元気なまま、葛城が波を蹴ってスタート位置へ戻っていく。

 頭をかきながら眉をひそめている瑞鶴の横で、龍驤がぼそりとつぶやいた。

「……やっぱり、普通の方法じゃ艦載機にならんか、あの子の場合」

 先ほどとはうってかわって、低い真剣な声。瑞鶴は思わず訊きとがめた。

「あなた、予想していたの?」

「もしかしたら、とは思うとった――あの子の矢を見てみい。矢の先端に式神を張りつけとるやろ。式神を使うのは軽空母に多いけど、葛城のお姉さんたちもそうや。姉妹の中であの子だけ弓使いってのはなんか変やと思ってたけどな」

 そう言って、龍驤が瑞鶴の方を向く。険しい眼差しをしていた。

「……弓矢で艦載機を出す瑞鶴はんと、式神を使って飛ばすウチ。二人してわざわざ新人の専任教官に選ばれたのはちょっと厄介な理由かもしれへんで」

 彼女の言葉に、瑞鶴は眉をひそめた。

 

 

 空母にカテゴライズされる艦娘が、艦載機を飛ばす方法には大別して二通りある。

 ひとつは弓を使って矢となっている艦載機を撃ち出すもの。

 弓はカタパルト代わりであり、これを用いることで柔軟に艦載機を展開することができる。艦娘自身の速度をあげることによる合成風力があれば展開も速いが、必要とあれば停止状態でも艦載機を飛び立たせることが可能だ。

 その代わり弓自体の扱いに技量を要する。揺れる海面で矢を放つという芸当はなかなかに難易度が高く、弓を使う空母艦娘は日々の修練が欠かせない。

 いまひとつは式神を用いて艦載機に変じて飛び立たせるもの。

 広げた巻物の飛行甲板の上で式神を走らせながら念じることで、艦載機として発進させる。この場合はカタパルト代わりのものがないので、艦娘自身が全力で海を駆けて風力を生み出す必要がある。

 こちらの利点は念じるだけで良いということで、コツさえ掴めば艦載機を展開できる。艦娘が訓練で磨くのは効率よく加速することと、集中力を途切れさせないことだ。

 瑞鶴をはじめとする正規空母の艦娘は弓矢を使う者が多く、龍驤などの軽空母には式神使いが多い。他にも例外的にからくり使いやボウガン使いもいるが概ね二種類だ。

 だが――葛城は弓と式神のハイブリッドだった。

 なぜこうなったかは分からない。元になった艦の記憶がそうなさしめたのか。あるいは艤装を設計するのに際して実験的に施されたものか。

 いずれであれ葛城に要求されるのは、弓手の技と術士の念の両方なのだ。

 

 太陽が西の空に沈みかけて、茜色の光が大気に満ちている。

 落日の最後の日差しが、教官二人と教え子一人を照らして長い影を作っていた。

「……ありがとうございました」

 葛城が、瑞鶴と龍驤にぺこりと頭を下げる。その声は明らかにしょげていた。

「すみません、せっかく教えていただいたのに、うまく飛ばせなくて……」

 彼女の謝罪に瑞鶴は口をへの字に結び、龍驤は苦笑いを浮かべて手を振った。

「気にすることはあらへん。誰でも最初はあるさかいにな。これから徐々におぼえていったらええ――せやろ、瑞鶴はん」

「……もちろんよ」

 龍驤から振られた言葉に、瑞鶴は心なしかむすりとした声で応じた。

「あの……明日もよろしくお願いします!」

 葛城はもう一度頭を下げると、くるりときびすを返して早足で立ち去り――そして、すぐに駆け出していった。彼女の後姿を見ながら、龍驤がため息をひとつついた。

「あれ、泣いているんと違うかな」

 龍驤はそう言うと、隣に立つ瑞鶴を肘でつついた。

「もう、いつまでそないな顔しとるん。もうちょっと優しい顔したり。先生がそんな顔やと教わる生徒の側が萎縮してまうで」

「わかってる……わかってるわよっ」

 瑞鶴は語気も荒く応じた。

「でも一機も飛び立てないってどういうことなのよ!」

「ああ、そないな声で――気持ちは分かるけどな、別に瑞鶴はんのせいちゃうやろ」

 龍驤が帽子のつばに手を添えて、葛城が駆けていった方をみやった。

「手に持った式神を艦載機に変えるのはできたんや。見込みがないわけとちがう」

「そりゃそうだけど」

 瑞鶴はため息交じりの声で空を仰いだ。

「それを飛ばせなきゃ意味がないじゃない。わたしたちは空母なんだから」

 弓を使っての葛城の成果はさんざんだった。矢を飛ばせないわけではない。飛ばした矢を艦載機に変えることができないのだ。式神をつけた矢が主の元を離れては念が薄れてしまうのか。あるいは弓矢を飛ばすことと念を込めることを同時にはできないのか。

 いずれにせよ、葛城が空母のくせに艦載機を飛ばせないのは事実だった。

「飛ばし方くらい本能で覚えているものでしょう。でないと何のための空母よ。何のためのかつての記憶よ」

 恨みがましく言った瑞鶴を、龍驤はじろと横目で見て低い声で言った。

「……葛城はんの中に、艦載機を飛ばした記憶はちゃんとあるんやろか」

「なんですって?」

「艦としての記憶じゃ、うちは葛城はんのことは知らん。なにしろかつての戦いで末期に作られた空母やっちゅう話やからな。せやけど、負け戦が色濃い中で空母から艦載機を飛ばせることがはたして満足にできたんやろか。そこらへん考えな、いかんのと違うか」

「それは……」

 瑞鶴はうつむいた。そういえば、と思い出す。葛城の姉たちも空母としての運用はほとんどされなかったらしい。物資にとぼしく、満足にパイロットもそろわず、せっかく作られてもあてがわれるのは輸送船か浮き砲台の任務。

 負け戦とはいえ、戦いの中で沈むことができた瑞鶴たちはまだ幸せかもしれない。

 与えられた役目をまっとうできないままにあらねばならないことがどんなに苦痛か。

「……それでも飛ばし方を教えるのが教官のつとめじゃない」

 瑞鶴は悔しそうに言うと、頭をかかえて、わしわしと髪をかきむしった。

「ああ、もう。こんなことをしている場合じゃないのに! わたしは練度を上げなきゃいけないのに! あのままでいるなんて我慢できない!」

 瑞鶴の言葉に、龍驤はやれやれと首を振ってみせた。

「演習で雲龍(うんりゅう)はんと天城(あまぎ)はんに負けたって話か」

 彼女が挙げた名前はどちらも葛城の姉たちだ。

 瑞鶴にしてみれば後輩も後輩、ついこの間までは新人だった二人である。瑞鶴とその姉――通称“五航戦”は、超ベテランの一航戦に比べれば練度は及ばないが、それでも新人に遅れをとることはないと思われていた。

 それが、負けた。判定勝負だったとはいえ、負けた。新人だと思っていた雲龍と天城は落ち葉を拾うようにどんな小さな任務でもまめにこなし、時間の合間をみては練度をあげていたのだ。その成果が瑞鶴たちを半歩出し抜くことにつながった。

「……いままでは一航戦の背中だけ見てればよかったのに……」

 追いかける立場だった。目指すべき目標があった。超えるべき先輩を目指して走り続けていればよかった。それがいま、後から来た者に追いつかれ、追い抜かれた。

 焦燥。不安。苛立ち。瑞鶴の心の水面下には、負の思いが渦巻いている。

「――どうしてわたしが先生役なのよ」

 瑞鶴はぼそりとつぶやいた。それはまぎれもなく愚痴だった。

「こんなことしてる暇、わたしにはないのに……」

「まあまあ、加賀(かが)はんも何ぞ考えあってのことと違うかな」

 龍驤の言葉に、瑞鶴は目をむいた。

「なんで一航戦の先輩が出てくるの――というか、加賀さんが決めたの?」

「あれ、知らんかったんか? 最終決定したのは提督やけど、誰が適任か意見具申したのは一航戦の二人や。中でも加賀はんは、特に瑞鶴はんを推してたそうやけど――なんや、その顔。ほんまに初耳か」

「初耳どころじゃないわよ……」

 瑞鶴はわなわなと震えた。この状況、よりによってあの人の仕組んだことだとは。

 

 

 東の空がようやく白み始め、鎮守府の空気が宵闇から明け方に変わり始めた頃。

 総員起こしにもまだ早い時間にも関わらず、彼女は弓術の練成場にいた。

 射場に立って弓をつがえる姿は凛として美しい。

 丈の短い青い袴に白い弓道着。サイドポニーに束ねた髪に、硬質の美貌。的に向かって意識を集中させ、弓弦をひきしぼったさまは、一幅の絵のようだった。

 彼女こそ、一航戦の片割れ、空母陣にあっては副長の立場といえる加賀である。

 研ぎ澄ました表情のまま、加賀が矢を放つ。

 ひゅんっと鋭い音をさせて矢が大気を貫き、ほどなくカツッと的に当たる音がした。

 物陰からうかがう瑞鶴からはどう当たったのかは見えなかったが――それでも加賀の射形からおそらくはど真ん中に違いないと思った。

 もともと一航戦の練度は化け物じみているのだ。艤装の単純性能であればおそらく瑞鶴の方が上回る。それでもなお、戦略上の重要局面で投入されるのが加賀たち一航戦なのは練度の高さによるところが大きい。

 加賀はじっと的を見つめていたが、ややあって声をあげた。

「――いつまでそこにいるの。用があって来たのでしょう」

 言われて、瑞鶴はぴくりと身体を震わせた。いつの間にばれていたのか――瑞鶴は、ばつのわるそうな顔でそろりそろりと物陰から這い出した。

 こちらに向いた加賀の顔は凪のように静かだった。いつものようにどんな感情もあらわにしていない。瑞鶴は徹頭徹尾クールなこの先輩が大の苦手だった。穏やかなように見えてその実辛辣なその言葉はなぜか自分に向けられることが多いのだ。

「……いつから気づいていたのよ」

 険しい目つきでにらんでみたものの、加賀は涼しい顔で答えた。

「最初から。早朝のこの時間なら、自分以外の息遣いはすぐに分かるわ」

「お見通しなら先に声をかければいいじゃないのよ」

「朝の一射めは一日の調子を計るもの。邪魔されたくないの」

 加賀はそう言って、的の方へ顔を向けた。

 瑞鶴もそれにならい、的に刺さった矢を見て、思わず目を丸くした。てっきりど真ん中と思っていた加賀の矢は、中心をわずかにそれていた。

「――わたしもまだまだ未熟ね」

 短く言ってみせる加賀に、瑞鶴は思わずカチンと来た。嫉妬と反感。加賀で未熟と言うのなら、自分などいったいどうだというのだろうか――とはいえ、言い返したくなる気持ちをこらえて瑞鶴は大きく息を吸い、改めて加賀に向かって言った。

「……訊きたいことがあって来たのよ」

 瑞鶴の言葉に加賀は的に目を向けたままだった。

 しばし黙りこくっていた加賀であったが、やがて静かに一言口にした。

「ひとつ、射てごらんなさい」

「……はあ? なんでよ。わたしは質問があってきたのよ」

「射たら答えてあげるわ」

 短く言って、加賀はじろと目だけで瑞鶴を見た。

 彼女の眼差しの鋭さに瑞鶴はぐっと声を詰まらせた。しばしにらみつけて、それでもなお加賀の視線が揺るがないのに、息をついて弓をひとつ手に取る。

「射ればいいんでしょ。射れば」

 瑞鶴がうんざりした声で言うと、加賀は無言のまますっと下がってみせた。

 代わりに瑞鶴が位置に立つ。

 的をにらみつけ、矢をつがえ、弓を構える。

 視線の先に、的に刺さった加賀の矢が見える。

 せめて、あれと同じぐらいには当てなければ――

 そう思った瞬間、不意に視界の中の的がぐにゃりとゆがんで見えた。

 はっと息を呑むや、つがえていた手の力がゆるんだ。

 思いも寄らぬ形で放たれた矢が空を切り、そしてカツンと音を立てた――はずさなかったのが幸いなぐらい、端の方ぎりぎりにかろうじて矢は刺さっていた。

「……かなり、崩れているわね」

 冷ややかに聞こえる加賀の声が、瑞鶴の耳朶を打った。

「本来のあなたなら、もっときれいに当てられるはずよ」

 加賀の言葉に、瑞鶴は唇を噛んだ。仕方がないではないか。自分はいま悩みを抱えている。不満だって持っている。そんな状況で上手に射れるはずがない。そもそも、空母の艦娘の戦い方は弓道ではないのだ。こんなところでいくら的を射たところで実戦で役に立つはずもない。

 だが、自分がうまく射ることができなかったのは事実だ。

「――次はわたしが射ます。よく見てて」

 加賀がそう言い、瑞鶴は眉をひそめながらも場所をゆずった。

 無言のまま加賀は再び構え、そして、矢を放った。

 なめらかな所作はなめらかで美しく――果たして今度の矢はど真ん中を貫いた。

「……わかった?」

 加賀が瑞鶴の方を見て、言う。

 言われた瑞鶴は眉をしかめた。なにを分かれというのか――そう言いかけて、ふと思い出した。これは、かつてと同じだ。瑞鶴が鎮守府に来たばかりの頃に、加賀はよくこうやって練成場に瑞鶴を連れてきて、矢を射させた。

 加賀は、あまり親切な先生ではなかった。説明は不十分。指導も最小限。

 ただ自分が射る様を見せてから、瑞鶴に射させる。

 当たらなければ、再び自分が射る様を見せて、また瑞鶴に代わる。

 何十回もそれを繰り返した。瑞鶴は加賀の射形を見習おうと必死で目をみはり、その隅々まで覚えこみ、自分の身で再現しようとした。繰り返す中で、加賀は短いアドバイスをかけてきた。それは端的すぎて、瑞鶴は拾い集めて繋ぎ合わせるのに苦労したものだ。

「――正射必中は射形だけの問題ではないわ」

 不意に加賀が口にした。

 聞いた途端、瑞鶴は息を呑んだ。かつて加賀が言ったのと同じ言葉だ。

 記憶の中の言葉がよみがえり意識に浮かび上がってくる。

 必死に覚え、脳裏に刻み付けた教えの数々が、自然と口をついて出てきた。

「……弓は身体で引くものじゃない。心で引くもの。心が乱れていれば射形も乱れる。当てようと思えば、勝とうと思えば、上手く射ろうと思えば、放った矢は必ず外す。的と己を重ね合わせてひとつにすれば、すなわち的が己自身。そうしてとった射形は正しく、それゆえに必中――狙う必要などどこにもない」

 口に出しながら、かつての教えが再び自分の心の中に染み入ってくるのを感じた。

 それは瑞鶴がいつの間にか忘れていた言葉であり――そして、いまもっとも必要としていて、あの子に伝えるべきことだった。

「……よく覚えていたわね」

 加賀が静かに言う。瑞鶴は目をみはって、加賀を見た。

 彼女が、わずかに目を細めている。

 瑞鶴の目には、微笑んでいるように見えた――嬉しそうに、あるいは誇らしげに。

「――もう質問はいいわ。別の答えが見つかったから」

 つんと顔をそむけて瑞鶴は言った。耳が赤くなっているのを感じる。

 加賀にはなにもかもお見通しだったのだ。

 だから、この人は苦手なのだ――自分の至らなさをいつも痛感させられるから。

「お礼なんて言わないんだからね! ちょっと用事があるから、それじゃあ!」

 きびすを返して立ち去ろうとした瑞鶴の背中に、そっと言葉がかけられた。

「がんばるのよ」

 短い言葉。だが、瑞鶴の耳には百万言の応援に匹敵した。

 顔を真っ赤にして、瑞鶴は練成場から駆け出していった。

 加賀は彼女が見えなくなるまでずっと見送り――姿が見えなくなったあとも、しばらく彼女が駆け去っていった方を見つめていた。

 

 

 総員起こしのラッパが鎮守府に鳴り響く。

 普通に考えれば、あの子はようやく起きた頃だ。

 だが、瑞鶴には予感があった。自分が同じ立場ならきっとそうするはず。

 昨日の葛城の様子を見ていれば分かる――失敗してもめげずに弓矢をつがえ続けたあの子が、ぐっすりと寝こけているはずもない。

 自分の弓をたずさえて、息を切らしながら瑞鶴は岸壁にかけていった。

 桟橋に立っているのは、うねる黒髪を潮風になびかせ翠の衣装をまとった艦娘。

 そして、なぜかもう一人、岸壁に腰かけて彼女の様子を見守る人物がいた。

「おや、瑞鶴はん――おはようさん」

 龍驤はそう声をかけると、ふはあっとあくびを噛み殺した。

「まあ、教え子も教官もそろって精が出るもんやな。こんな朝早よから」

「どうしてあなたがここにいるのよ……」

「さあて。まあ瑞鶴はんと同じ理由、ということにしとこか」

 龍驤はそう言うと、離れた距離にいる葛城に目を向けた。

 朝の光を浴びて立つその姿は、細身の体型もあって頼りなく見える。

 それでも、すっくと立ち、弓矢をつがえる姿は折れない芯の強さを感じさせた。

「……いつまでも瑞鶴はんの手をわずらわせたくないんやて」

 龍驤は瑞鶴の方を向かず、視線は葛城に注いだまま、背中越しに言った。

「ほんまは瑞鶴はんが教官なんぞしたくないのは気づいているんやと。それでも、あれだけ頑張って教えてくれるんだから、自分は応えなくちゃいけないといけないんやと――こわいなあ、教え子ってのは。教官のことをよう見とる」

 淡々とした龍驤の声は、瑞鶴の胸にはぐさりと刺さった。

 瑞鶴はぎゅっと拳を握り締めると、大きく深呼吸した。

 そうして桟橋の方へと歩いていく。静かな足取りで葛城の隣に立ち、声をかける。

「……おはよう」

「――瑞鶴先輩! おはようございます」

 声をかけるまで葛城は気づかなかった。それだけ集中していた証だ。

 瑞鶴は葛城の目をじっと見て、こくりとうなずいてみせた。

「よくみておいて。そして、隅々まで目に焼き付けて」

 そう言って、矢を一本取り、弓につがえ、構える。

 ゆっくりと、丁寧に。この子によく見えるように。

 葛城が自分の所作をじっと見つめている。

 視線を感じることで、瑞鶴は自分の構えをより強く意識した。

 不快な感覚ではない――むしろ、心が不思議と冴え渡っていく。

 海原の彼方、的も何もない方向へ、瑞鶴は矢を放った。

 ひょうっと大気を貫く音を響かせて、矢はまっすぐな軌跡を描いて飛んでいく。

 自分でも予想以上によくできた一射だった。的があればど真ん中だろう。

 先輩の動作にきらきらと目を輝かせる葛城に向かって、瑞鶴は言った。

「それじゃ、次は一緒に射てみよう」

「えっ……?」

「わたしに続いて、わたしを真似る形で構えて。そして狙うの」

 瑞鶴の言葉に、葛城が戸惑った表情を浮かべる。

「狙うって……的なんてないじゃないですか」

「違うわ。的に当てるんじゃないの。同じ音を出してごらんなさい」

 真剣な瑞鶴の声に、葛城がややあってこくりとうなずいてみせる。

 今度は二人揃って弓矢をつがえる。葛城がやや遅れているのは瑞鶴を見ながら構えているからだ。そろって弓弦を引き絞り、そして、瑞鶴が声をあげた。

「――放て」

 号令と共に、二人同時に矢を放つ。二種類の異なる音が大気を震わせた。

 葛城の矢が瑞鶴の矢よりも早く海面に落ちる。

 矢の行方を見届けて葛城がため息をつきそうになるのを止めるかのように、

「まだまだ。次、いくわよ」

 瑞鶴は声をかけた。葛城がきりと眉を引き締め、再度弓矢をつがえる。

 再び放たれた矢は――先ほどよりもわずかに音が近くなっていた。

「良い感じよ。さあ、続けよう」

 みたび声をかけ、弓矢をつがえる。

 何度も何度も、二人の放つ矢の音は揺れ動きながらも、徐々に近づいていった。

 瑞鶴は――内心で驚き、そして喜んでいた。

 この子は見込みがある。素質も備わっている。

 これほど早く自分の音に近づけてくるとは。

 昨日の自分なら、そのことが不快に思ったかもしれない。

 だが、いまの瑞鶴にはそうでなかった。葛城が音を寄せてくるのと共に、自分が放つ矢はより速く、より鋭く飛んでいくのが感じられた。彼女を高みへと引き上げるのと同時に自分もまた見えない何かに引っ張られていくように思える。

 三十回は弓矢を放っただろうか――二人の放った矢の音が、不意に重なって響いた。

 瑞鶴は満足げにうなずき、葛城は目を丸くしてみせる。

 穏やかな声で、瑞鶴は彼女に言った。

「それじゃあ、“飛ばして”みようか」

 瑞鶴の言葉に葛城がぴくりと身体を震わせた。表情をかすかにゆがめ、何事か言いかける――その機先を制して、瑞鶴は彼女の唇に人差し指をそっと当てた。

「だいじょうぶだよ。さっきと同じ音を出せばいいから――二人一緒にね」

 葛城の瞳が揺れる。口を開きかけた彼女は、しかしきゅっと唇を締めなおすと、それまでとは異なる矢を取り出した。式神付きの矢――本番の矢だ。

 瑞鶴が矢をつがえ、構える。ゆっくりと、葛城の手を引くように。

 葛城が矢をつがえ、構える。瑞鶴の呼吸に合わせるように。

 二人揃って弓弦を引き絞り、矢を放ったのは同時だった。

 ひょうっと音を鳴らして大気を裂いて矢が飛ぶ。

 そして、銀光がきらめいた。

 矢が光に包まれ、ほぼ同時に姿を変じた。

 緑の塗装に赤い日の丸を尾翼に掲げた、零式艦上戦闘機。

 二機の猛禽がプロペラ音を響かせながら、弧を描いて宙を舞う。

 瑞鶴は大きく息をつき――そして、葛城が歓声をあげて抱きついてきた。

「できた! できました! 先輩と一緒なら飛ばせました! 本当に艦載機になった! あんなにきれいに飛ぶなんて――すごい、すごいです!」

 はしゃぐ葛城の目に、涙が浮かんでいる。

 ずっとこらえていただろう。飛ばせなくて悔しかったろう。

 瑞鶴は目を細めてみせると、彼女の目じりをそっと指で拭ってやった。

 涙を拭われた葛城が微笑んで、瑞鶴から離れる。そうして、しゃんと背を伸ばすと瑞鶴に向かって一礼して、言った。

「先輩、ありがとうございます――これで、わたしもちゃんと艦載機を飛ばせます。だから、もうわたしの先生役をしなくたって……」

 口上を聞いて瑞鶴はため息をついた。殊勝げに言う葛城の頭を優しく撫でる。

「何を言ってるのよ。桟橋の上から一回成功しただけじゃない。海面に立って放ったり、全力機動しながら発進させたり、まだまだこれからでしょう?」

「でも先輩――ご自分の練成の方は……」

 言いかける葛城の唇に再度人差し指を当てて、瑞鶴は言った。

「いいのよ。回り道に思えるけど、たぶんあなたを教えることがわたしの役に立つと思う――それとも、わたしが先生役じゃ不満?」

「いいえ……いいえ! あの、今後とも、よろしくお願いします!」

 葛城が深々とお辞儀をしてみせる――と、同時に腹の虫が盛大に鳴る音がした。

「あら、朝ごはん忘れていたわね」

 瑞鶴が言うのに、葛城が頬を染めながら答える。

「一生懸命でそれどころじゃありませんでした」

「食堂に行こう? いまならまだ間に合うよ。続きは食べ終わってからね」

「はい、先輩――いえ、先生!」

 葛城が言い直してみせるのに、瑞鶴は照れ笑いを浮かべた。

 二人揃って歩き出す。

 ふと瑞鶴が岸壁に目をやると、いつのまにか龍驤が姿を消していた。

 

 

「――とまあ、上手くいったんと違うかな。もう心配いらんやろ、二人とも」

「そう……よかったわ」

「なんや、相変わらずそっけないなあ。可愛い後輩なんやろ――加賀はん」

「後輩というのはみんな可愛くて手のかかるものだから」

「いやいや、瑞鶴はんに対する入れ込みようはちょっと違うやろ」

「気のせいよ、龍驤さん」

「しかし、教官役をやらせて瑞鶴はん自身の成長をうながすなんてなあ」

「……あの子に必要だったのは、冷静に自分を見つめなおすきっかけよ」

「ほーお?」

「学んだこと、身につけたこと――日々の実戦でまぎれて見失ったものをいま一度見出すこと。それには他者の目を通してみるのが一番。でも、教わる側の立場ではいままでと同じ。今回の葛城さんの件は立ち位置を変えてあげる良い機会だったわ」

「……そのこと、瑞鶴はんに伝えてもええか?」

「だめよ。あの子はつけあがると足元を見失う性格だから」

「やれやれ……ほんま不器用なお人やな」

「誰が?」

「さあて、どっちやろな」

 練成場の射場に座り込んだ龍驤がにかっと笑ってみせる。

 正座して相対していた加賀は表情を変えないまま。

 ただ、ふっと目を細めてみせた。

 それが、加賀が笑うときの仕草だと、龍驤はよく知っていた。

「……抹茶でもいかが。一煎立てるわ」

「おっ、それはええな、およばれしていこか」

 穏やかに言葉を交わして、二人の古参は茶室へと向かう。

 練成場に差し込む朝日が、的に刺さった三本の矢を照らし出していた。

 

〔了〕


 
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