とある魔法使いと弟子とバレンタイン
神楽坂庵は魔法使いである。
今年で91歳。とはいえ外見は20代に見える様にしている。
今日は2月7日
「邦子」
彼と同居し、彼の弟子であり所有物であり許嫁である少女の名を呼ぶ。
彼らの今までの事の起こりは長くなるのでまた別な機会に話すとしよう。
「何」
長い黒髪をアップに纏め、白い割烹着を着けた邦子が姿を見せた。手には味噌汁の味噌を溶いていたのだろう、おたまが握られている。
長谷川邦子17歳。花も恥じらう正真正銘の女子高生である。
歳の差にして74、最早差やらなにやらがどうでも良い気がしてくる。
邦子が庵に向ける言葉はいつも通りとげとげしい。
こうでなくては。と庵は密かに思っているが伝えれば少女はやめてしまうだろう。口には出さない。
「今年は焼き菓子が良い」
庵は甘い物が好きだ。コーヒーは無糖を好むが、付け合わせには甘い菓子がいい。
毎年、この時期だけは庵は邦子に菓子の無心をする。
バレンタインである。製菓メーカーの陰謀である。
根無し草だった時間も長い庵である。国内に未練は無いのだが、この風習は海外に行くと恋しくなる。
妙なチョコレートが量販店にひしめき、町中がどことなく甘ったるい臭いに満ちるこの行事が、庵は存外嫌いではないのだ。
「分かったわ」
庵は邦子にだけは冗談を言わない。
邦子も庵に冗談を言わない。
恐らく2月14日の朝には食卓に庵のチョコレートが準備されている事だろう。
分担である朝食の準備を終え、邦子は音を立てずに配膳すると食卓の対面に座る。
無言の朝食。いつものひととき。
「庵」
ふと手を止めて邦子が顔を上げた。珍しい。
「今年は他の子にもチョコをあげても良いかしら」
庵は思わず立ち上がりそうになるのをぐっと堪えたが思わず片足を伸ばして食卓にぶつけてしまった。重いテーブルを撰んだ事に感謝しつつ爪の折れた感触を頭のすみに押しやる。
「恋愛は禁止だと言った筈だよ」
「何を言っているの。子といったはずよ。相手は女の子です」
「百合か」
「殺すわよ」
邦子は溜息をついて続ける。
「友達よ。環。あなたには交友関係の許可は取ったわよね」
そういえば、数ヶ月前に邦子がたまには仕事を手伝った褒美が欲しいと言ったのだ。
珍しい事に思わず許可したが。そうか、友人を作ったのだったか。
「在学中だけの付き合いだったね。まぁいいだろう」
庵は黙ってやればいいものを、と少しだけ考えたが。
しかして、邦子が庵以外の分のチョコを作っているのに気づかない事はほぼあり得ないだろうなとも思うのだった。
「材料費は出してもらうもの。代わりにはならないけれどあなたの分は2個用意するわ。いいかしら」
邦子には高校在学中のアルバイトを禁じている。買う物がある時はその都度渡しているが未だに釣りをレシートと共に渡して来る。しかし材料費を気にしていたというのは多少厳しくしすぎたかもしれない。
「好きにすると良い」
実はとても嬉しいのだが、気取られない様味噌汁に手を付ける。
邦子の料理は美味い。庵が手ずから彼好みの味を教えたのだからまぁ当然と言えば当然なのだが、『邦子の作った食事』という概念的な物を庵はことのほか気に入っていた。
いつも無感動に食事をする邦子の頬が少し緩んでいる。
嫌な予感と期待を同時に抱きながら、庵は朝食を咀嚼する。
ああ、今日もワタシの邦子は綺麗だ。
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無垢鳥の前のはなし