[1]
その日、突然私のもとを訪れたそのひとは、印象的な澄んだ眼で私に語りかけた。
「姜維どの。私が出陣した後は、丞相のこと、よろしくお願いいたします」
胸に染み込むような声でそれだけを言い、かれは来た時と同様、静かに幕舎を出て行った。
これまでは、互いに顔を合わしても、会釈をする程度で親しく言葉を交わしたこともない。思いがけない申し出に、返す言葉もすぐには見つからず、私は黙って後ろ姿を見送った。
静かなまなざしの中に、懐かしむような温もりを感じた気がしたのは、私の思い過ごしだったろうか。
馬謖幼常――。
それがかれの名前だ。
蜀漢の丞相 諸葛亮孔明にその才を愛され、常に側にあって数々の難局を乗り越えてきた。自他ともに、諸葛丞相の後継者として認められた逸材だという。蜀漢に仕えるようになってからまだ日の浅い私にとって、馬謖幼常の名は、まぶしく、またかすかに苦い存在でもあった。
その馬謖が、諸葛丞相と蜀全軍の期待を一身に負って、街亭の守りに赴くことになった。かれが私のもとを訪れたのは、出陣の前日である。多忙な準備の合間をぬってのことだったにちがいない。
◇◆◇
蜀漢の先帝劉備玄徳の遺志を継いだ諸葛亮孔明が、何年もかけて周到な計画を練り、準備を重ね、ついに魏討伐の軍を起こしたのは、蜀の建興五年のことである。
蜀漢の命運を賭けた北伐は、当初順調に展開した。またたく間に南安、天水、安定の三郡を平定した蜀軍は、翌年には祁山に進出し、長安を窺う構えを見せた。
魏の中郎将 姜維伯約は、このとき、太守とともに天水を守っていた。だが、「蜀軍攻め来る」の報に恐れをなした太守は、あろうことか姜維ら部下を残して城から逃げてしまったのである。しかも姜維には、謀反の疑いまでかけられていた。
進退きわまった姜維は、やむなく蜀の軍門に降る。自分と行動を共にした部下の命を助けんがため、あえて縄目の恥辱を受けたかれは、やがて丞相諸葛孔明の前に引き出された。
(即刻打ち首は覚悟の上――)
だが、足元に引き据えられた敗残の将に向かい、意外にも孔明はこう言ったのだ。
「姜維とやら。蜀に降り、私を輔けてはくれぬか」
「何と?」
「私の夢をそなたに語りたい。そなたなら、ともに同じ夢を語れるのではないかと、そう思ったのだ」
おだやかな、それでいて強い意志を秘めた双眸が、じっとこの身に注がれている。姜維は、思わず頬が熱くなるのを感じた。
「孔明どの……」
それが、姜維と孔明の出会いだった。
◇◆◇
(このお方にお仕えするために、私は生まれてきたのだ――)
確信といっていい。私はその瞬間、若者らしい感性で、この出会いを運命的なものだと信じた。二十七歳のこの日のために、今日まで生きてきたのだと。
主を裏切り、祖国を捨てるに至ったのには、それなりの経緯がある。だが、何を言っても言い訳にしかならないだろう。しかし、私は決して後悔していない。
敗残の将に対して、丞相は自ら縄を解き手を取り、自軍に招いてくださったのだ。自分の後を継いで蜀漢を支えてほしいとまで言ってくださった。
諸葛丞相こそ、この命を捧げるに足るただ一人の人だ。そのためなら、不忠不孝の汚名をも甘んじて受けよう――。
涙をぬぐうことも忘れ、私はまっすぐな瞳をそのひとに向けた。
「姜維伯約、今日よりこの命、孔明どのに捧げまする」
こうして、自分は蜀の人となった。あの日の心の泡立ち、決意の厳粛さを、私はまだ昨日のことのように覚えている。
街亭は交通の要衝であり、関中深く進入した蜀軍にとって、生命線ともいえる場所だ。ここをもし魏軍に奪われるようなことになれば、補給路を断たれた蜀軍は撤退せざるを得なくなる。
馬謖が街亭守備の大任を命じられたことは、おおかたの予想を裏切っての大抜擢だといっていい。羨望と嫉妬。期待と不安。諸将の視線が、かれの全身に痛いほどにつきささる。
さらに。
「街亭を守り抜けば、そなたの軍功を第一としよう」
軍議の席で馬謖に向けられた丞相の言葉は、皆を驚かせた。
「これは、そなたに与えられた試練じゃ。将の中には、若さゆえにそなたを軽んずる者がいることは、そなたも知っておろう。だが、儂は馬謖幼常こそ、この諸葛亮の後を継ぐに足る唯一の男と思うておる――」
「丞相……。かたじけのうございます。この馬謖、必ず――必ず、丞相のご期待に添い奉ります!」
馬謖は感涙にむせび、勇躍出陣していった。その後ろ姿が、いつしか自分の幻影に重なる。
あれが、私だったなら。自分が、丞相に選んでもらえたのであれば。
(丞相のためなら、あらゆる困難を排し、命をかけて任務を遂行しよう)
私もきっと、馬謖と同じ顔をしているにちがいない。
ふと、胸がしめつけられるような気がした。これは、悋気(りんき)だろうか――。
馬謖を送り出して以来、丞相は落ち着かない様子だった。
「伯約――。儂の決断は正しかったと思うか? 幼常は大丈夫だろうか」
「馬謖参軍のことならご心配にはおよびますまい。必ず街亭を守りきられましょう」
出陣の前夜、私の幕舎を訪れた馬謖の双眸には、一点の曇りもなかった。丞相の選択に誤りはない、この人こそ誰よりも適任だと、あのとき私は確信したのだ。
――街亭は砦もなく、攻めるに易く守るに難い場所じゃ。そなたは街道を守ってじっと動かず、ここを死守することだけを考えよ。
丞相の指示に何度もうなずいていた馬謖の顔が、今も目蓋に残っている。自負と誇りにあふれた、あの眼。そう、あれは私自身の眼でもあるのだから。
「どれほど完璧な策を立てたとしても、すべてがその通りに運ぶとは限らぬ。まして相手は、魏随一の策士司馬懿仲達ぞ。その時、幼常はどう切り抜けるであろう?」
「………」
「言葉が足りなかったかもしれぬ。すぐに伝令を――。いや、あの者に限ってそのようなことは……。ああ、誤らねばよいが」
まるで幼子を気遣う老親のようだ。
丞相の祈るような思いが否応なしに伝わり、私の心はまたちりちりと痛んだ。
◇◆◇
やがて。
恐れは現実のものとなった。
魏に先んじて街亭に着いた馬謖は、何を思ったか孔明の指示に背き、街道脇の高地に陣を張った。そして、魏軍に包囲されて水を断たれ、ほとんど戦闘らしい戦いもできぬまま全滅したのである。
街亭からの悲報が届いたとき、孔明はひとり幕舎の中にいたが、取り次いだ者がいぶかるほどに冷静だった。
大事を聞いて続々駆けつけた武将たちの前でも、とくに慌てる様もなく、粛々と漢中撤退の指示を出し続けた。
だが、感情を押し殺した怜悧な顔の下で、孔明の心は、今にも張り裂けんばかりに嘆き、血を流していたのだ。
(幼常よ――)
(そなたほどの者でも、軍令を誤ることがあるというのか)
(――なぜ、儂の命に従わなかったのだ?)
どれほどの後悔、どれほどの悲嘆を重ねても、こぼれた水はもとには戻らない。
気が遠くなるほどの準備を積み重ねて、ようやくここまできた孔明の悲願は、馬謖の信じがたい失策によって霧のように瓦解してしまった。街亭に向かった軍は散り散りになり、指揮官である馬謖の生死さえわからぬ有り様だった。
◇◆◇
――なぜだ?
(あなたはあのとき、丞相の言葉にあれほど真剣にうなずいていたではないか。命がけで任務を全うすると誓ったではないか)
全軍があわただしく撤退の準備に追われる中、丞相とふたり、黙々と軍関係の書簡を燃やしながら、私は腹立たしくてならなかった。馬謖の失態は、丞相に対する裏切りではないか。
黙って炎を見つめていた丞相が、急に私の方を振り向いた。
「私は今、どんな顔をしている?」
「は?」
いつもと変わらぬ冷徹な軍師の顔だ。
唐突な問いに戸惑いながらも、私がそう答えると、丞相は深いため息をつき、寂しげな微笑を浮かべた。
「以前は、幼常によく同じことを聞いたものだ。先帝に諫言したとき、戦に行き詰まったとき、先帝が亡くなられたときも……。それに対する幼常の答えは、いつも決まって同じだった。――哀しくとも、悩みが深くとも、丞相は常に、常のままでいらせられませ、と。その言葉に支えられて、ここまできた」
炎が揺れ、丞相の顔に刻まれた陰影も静かに揺らめく。その明暗の中で、丞相の双眸は、澄んだ泉のように静謐だった。
「今はもう、泣きたくても涙が出ぬのだ」
「丞相……」
(このお方は、泣きたいときに泣くこともできないのか――)
私の中に、突然、自分でもどうしようもない激情がせき上げてきた。
「丞相! 私なら……、丞相に好きなだけお泣きくださいと答えまする!」
きっと、少年のような顔をしていたのだろう。
丞相は、温かいまなざしで私を見つめ、やわらかく笑った。
「伯約は、優しいのだな」
「………」
「その気持ちだけを受け取っておこう。わかっておるのだ。私が泣いていては、皆が困るであろう。それに、泣く暇があるのなら、次の手を考えねばならぬ」
撤退。
将士も兵たちも一言も発せず、重苦しい空気の中、私たちは漢中へ引き上げた。蜀の桟道と呼ばれる険しい道だ。私にとっては、初めて辿る蜀への道だった。
唯一生き残った五虎大将のひとり趙雲将軍とともに、私は志願して殿軍(しんがり)を務めた。それが、丞相のために、今自分にできる唯一のことだと思えたのだ。
追撃してくる魏軍を相手に、幾たびか死線をくぐりながら、しかし私はこの戦を楽しんでいた。皆に軍神とたたえられる趙雲将軍を間近に、ともに戦うことができたのだから。
将軍はもうすでに五十半ばを超えていたが、戦場ではまったく老いを感じさせない見事な戦いぶりで、常に敵味方の双方を圧倒した。
「趙将軍――」
秦嶺山脈を越え、ようやく一息ついた夜営でのひととき、隣に座った趙雲将軍に、私はおずおずと声をかけた。
「将軍は、馬謖参軍をよくご存じでしたか?」
「それほど親しかったわけではないが……」
厳しい武人の顔を崩さず、将軍は遠くの稜線へと視線を投げた。
「奇をてらうところがあったやもしれぬな。時にはじけるような才を見せたが、裏付けとなるものが少ないように思われた。しかしそれも、白眉とたたえられた兄馬良どのを越えたい一心だったかもしれぬ」
馬謖には五人の兄弟がおり、皆字(あざな)に常の文字がついていた。五人とも秀才の誉れ高かったが、中でも馬良の才が一頭地を抜いていたという。丞相とは荊州以来の刎頚の友であり、その信任も厚かったというが、その馬良はもうこの世にはいない。先帝が呉に出兵し、大敗を喫した夷陵の戦いに、かれもまた帰らぬ人となっていたのだ。
馬謖は、どうあがいても自分が兄に遠く及ばないことを知っていたのだろう。それゆえに、奇をてらい、弁舌を巧みにして、自分を大きく見せようとしたのかもしれない。
「馬謖は馬謖で、何とかして丞相の役に立ちたいと願っていたのだろう」
「しかし、私は許せません! 今回のことは……」
焚き火の炎に照らされた趙雲の横顔に、暗い翳がさした。
「姜維どの。ご辺は、人に期待されることのつらさを知っておるか?」
期待されることの、つらさ――?
私には、趙雲将軍の言葉の意味がわからなかった。
期待され、信頼を寄せられることは、誇らしく喜ばしいことではないのか。
今まで、ずっとそう思って戦ってきた。
少しでも、人から期待され、信頼を寄せられる男になりたい、と。
では、私がもし馬謖だったら?
何としても丞相の期待に応えたいと思う。応えなければ、と焦ったかもしれない。
万一その期待を裏切ってしまったとしたら、どれほどわが身を呪い苛むことだろう。
それが、将軍の言う「つらさ」なのか……?
「丞相は、馬良どのの才は高くかっておられたが、気持ちとしては、むしろ兄上よりも馬謖の方を愛しておられたようだ。馬謖とて、むろんそのことはわかっていたはず。それゆえ、期待に応えたいという思いは、人一倍強かったのではあるまいか」
そこまで言ってから、将軍は空を仰いだ。風もなく、静かな夜だった。中天にかかる銀河が降るようだ。
おそらく趙雲将軍も、これまでずっとその重圧に耐えてきたにちがいない。先帝の、あるいは諸葛丞相の、さらにはすべての蜀軍将兵の期待と信頼を一身に受けてきたかれには、馬謖の心が手にとるようにわかったのだろう。
「今、誰よりもつらく惨めな思いをしているのは、きっと馬謖だと思う。生きておればの話だが」
いつの間にか、火が小さくなり、消えかけている。私はあわてて薪を継ぎ足した。
「これからは、ご辺がそのつらさに耐えねばならぬ番だ」
「………」
「馬謖に替わって、これからはお主が丞相を支えてさしあげてくれ」
将軍の分厚く大きな手が、私の肩をぽんと叩いた。その手の温もりが、胸の奥深いところまで沁み込んでいく――。
「はい。姜維伯約、この命にかえて必ず――!」
将軍の顔を真正面から見据えた私は、自分でも驚くほどの声で答えていた。
[2]
蜀軍が漢中へ撤退してから半月ばかりたったある日。
夜も更けた頃、人目をはばかるように姜維の館の門をほとほとと叩く男の影があった。
「あなたは!」
「姜維どの、笑ってくれ。私は死ぬために、ここに戻ってきたのだ」
乞食のような身なりで、すっかり面変わりしていたが、それはまさしく馬謖幼常そのひとだった。
「生きて……おられたのですね」
「死ぬ前に、どうしてもお主と話がしたかった」
「馬謖どの――」
姜維は穏やかな眼で微笑した。
「それがどのような話であれ、私を相手に選んでくださったことをうれしく思います」
姜維は、急いで馬謖を邸内に招き入れると、家人に命じて湯をわかし、何よりもまず、逃避行に疲れきった馬謖の身体を癒させた。馬謖を抱えるようにして湯殿に入ったかれは自ら垢と埃に汚れた体躯を洗い清めた。
「姜維どの、何を――?」
「遠慮はいりません。ご自分の家だと思ってください」
痩せた身体のあちこちに、生々しい傷痕が残っている。主も客も、何も問わず、何も答えず……。そのひとつひとつをなぞるように拭いながら、いつしか姜維は声を殺して泣いていた。
「――お主は、泣いてくれるのか? この愚かな男のために」
「私は悔しくてなりません。なぜあなたが、あのような誤りを犯したのか。丞相の志を、またその思いを、誰よりもよく承知しているはずのあなたが……」
「俺にも分からぬ。気がついたら、すべて終わっていたのだ」
あの戦場からどうやって逃げることができたのか。それすら馬謖は、さだかには覚えていない。自分を逃がすために、何人の部下が犠牲になったのだろう?
混乱した意識の中で、ただひとつ、はっきりと分かっていることがあった。
何としても生きて漢中に、孔明のもとに帰ること。そして、己の死をもって敗戦の責を償わねばならぬということ。それだけだった。
◇◆◇
「今宵は、お主と語り明かしたい」
馬謖は、立っていることもできないほどに疲労困憊していたが、決して眠るとは言わなかった。かつて、しばしば丞相と夜を徹して議論したという昔日のままに、その夜のかれは饒舌だった。
兄馬良のこと、家族のこと、先帝の思い出、丞相と過ごした日々。そして、今はもう砕け散ってしまった遠い夢――。
「私はうぬぼれていたのだな。丞相の描く夢を、私もともに見ることができると思っていた。先帝から託された大いなる志を現実のものとする、私もその一助になれるかと。だがそれは、とんでもない思い上がりだった。……私は兄にはなれぬ」
「馬良どの、ですか?」
「どれほど努力しても、私は兄には及ばない。どんな難しい役目でも、兄は軽々とこなしたものだ。丞相の期待にいつも見事に応えてみせた。私もそうなりたかった。いつかなれると思っていた……。だが、私は兄とは違う。違うのだ!」
馬謖の眼に涙がにじんだ。後悔と、慙愧と、怒り、悲しみ――。抑えきれない感情が次々にあふれ出て、やつれた頬を濡らしていく。
「兄上の替わりとしてではなく、馬謖幼常としての自分を丞相に見てもらいたいと、私はいつもそう願ってきたような気がする――」
馬謖が兄に対してどのような感情を抱いていたか、他人である私にわかるはずもない。だが、かれはおそらくずっと、魂の奥底に隠すようにして抱え続けてきたのだろう。言葉にできない葛藤、憧憬と嫉妬、挫折や痛みといったものを。
「お主を初めて見たとき、私は兄が戻ってきたのかと思ったぞ」
「どういうことです?」
「お主のその眼、兄上にそっくりだった」
蜀軍の司令部で初めて会ったとき、馬謖は一瞬絶句し、いぶかしげに私の顔を見つめていた。あのときは、なぜかれがそんな表情をしたのかわからなかったが。
「お主の眼を見て、私は納得したよ。なぜ丞相が、我が後継者を得たと言われたのか。やっと丞相は見つけられたのだ。兄に替わって、同じ夢、同じ志を語れる人物を。姜維伯約という男をな」
「馬謖どの……」
「これからは、お主が丞相を支えてくれればいい。それで、私は心置きなく死ぬことができる」
兄に替わって、と馬謖は言った。なぜ、自分に替わって、と言わないのか? 兄馬良とは、そして私という存在は、かれにとってそれほど大きなものだったのか?
その時初めて、私は馬謖の中の深い闇を見たような気がした。
「もしや、あなたが街亭で策を誤ったのは、私のせいではありませんか?」
「………」
◇◆◇
あのとき。
確かに俺は、自分でもわからなかった。
なぜ、丞相の指示通り街道に陣を張らなかったのか?
なぜ、一気に敵を殲滅しようなどと大それたことを考えたのか?
――勝ちたかった、丞相のために。
はたして、それだけか?
見事な勝利をおさめて、丞相の賛辞を得たかったのではないのか。
やはり私の後継者はお前しかいないと、そう言ってもらいたかったのだ。
怯えていたのか、俺は――?
丞相の関心が、姜維伯約という若い武将に移ることを。
新参者のかれに、兄と同じ眼をしたあの男に、負けるわけにはいかなかった。
だから……?
◇◆◇
「――いや。お主のせいなどではない。それに、たとえお主の存在が私の心に何らかの影響を与えていたとしても、それは、私自身の問題だ」
馬謖は、口元に自嘲めいた笑みを浮かべると、遠い眼をした。何のよどみもない、哀しいくらい静かなまなざしだった。
「だからこそ、私自身の手で、その始末をつけねばならん」
馬謖の笑顔は透き通るようだった。
「あなたは、死ぬためにここに戻ってこられたのですね」
「それが、丞相のために、今の私にできる唯一のことだと思っている」
国家の命運を賭けた戦に失敗したのだ。宮廷はもとより家臣から民衆に至るまで、負担が大きかっただけに、敗戦による落胆もまた計り知れない。今ここで、誰かがすべての責を負わなければ、いずれその不満は諸葛丞相に向けられるだろう。
――だから、あなたがその贄(にえ)になるというのか!
「何を言っても、言い訳にしかならぬ。私はもう、誰にも何も語るつもりはない。ただ、お主にだけは聞いておいてほしかったのだ。私のわがままだと笑ってくれていい」
馬謖の言葉を耳にしたとき、私の中で震えるものがあった。
――何を言っても……。
(それは、あの日の私の思いだ。諸葛孔明という運命のひとに出会い、魏を捨てて蜀に降ると決意したあのときの)
ああ、そうなのだ。
(あなたは、一言の申し開きをすることなく、逝かれるのですね。運命がどのように過酷なものであろうと、黙ってそれを受け入れられるのですね。……それでは、もう、私にできることは何もない――)
斬――。
蜀漢の文武百官が見守る中、馬謖の刑は執行された。
多くの家臣が助命を嘆願したが、丞相は頑として首を縦に振らなかった。それが、馬謖に手向けられる精一杯の餞(はなむけ)であることを、誰よりも承知しておられたのだろう。
(刑場では、あれほど毅然としておられたのに……)
自室に戻ってきた丞相の憔悴しきった顔を見たとき、私はかすかな戦慄を覚えた。
「丞相――」
「伯約か。私は今、どんな顔をしておる?」
声が震え、血の気の失せた顔は幽鬼のように蒼白だった。このまま昏倒してしまわれるのではないかと、不安になるほどに。こんな表情の丞相は見たことがない。だが、私の口をついて出たのは、かつて馬謖が丞相に言ったのと同じ言葉だった。
「丞相は、常に……、常のごとく、おわさねば……なりません」
「そうか。そうだな。そなたの言うとおり――」
言葉が終わらないうちに、突如、堰を切ったように、滂沱の涙が丞相の目蓋を溢れ出た。
「私が、幼常を、殺したのだ!」
肺腑をえぐられるような叫びだった。
「助けようと思えば、助けられた……のに。すべての責を幼常ひとりに押し付けて、私はぬくぬくとこうして生きておる」
「いいえ、丞相。馬謖どのは己で死ぬことを選ばれたのです。それだけが、丞相のために、今の自分にできる唯一のことだと申されていました。その気持ちを分かっておられたからこそのご処断でありましょう。ならば、お泣きになってはなりません。後ろを振り向かれるべきではありません。馬謖どのは、命尽きる最期の瞬間まで、丞相のことを案じておられたのです!」
「幼常……」
「私の先ほどの言葉は、馬謖どのの言葉だとお思いください。馬謖どのは、血を吐くような思いで、私に己の夢を託されました。そしてその夢は、私の中に、今も馬謖どのとともに生きております」
「馬謖の夢、か……。幼常は、そなたにそれを語ったのか?」
「はい。漢中へ戻られた夜に我が家をお訪ねになり、一晩語り明かしました」
「そうであったか」
丞相は私を誘い、庭へと続く回廊に出た。
立ち木の奥、山の端をぼんやりと染めて、遅い月が昇っている。
あの夜、死を覚悟した馬謖が、どんな思いで私の館を訪れたのか、その心中は察するに余りある。かれは、私にすべてを託したのだ。おそらくは、一番負けたくないと思っていたその相手に。
私が馬謖から託されたもの。私は包み隠さず丞相に伝えた。かれが最後まで夢見た、ただ一つの願いを。
◇◆◇
一度だけ、丞相が私に話してくださったことがある。夷陵の敗戦で兄馬良が死に、先帝が崩御なされたすぐ後のことだ。
「幼常。そなたは、人の夢を笑えるか?」
「は?」
「この孔明がそなたよりまだ若かった頃、私に人の夢の美しさを教えてくれた方がおられた」
「劉備……玄徳さまですね?」
「この世に、今のこの乱世に、これほど純粋な思いを持ち続けている方がいるということに、私は驚き、そして心打たれた。地位も権力も持たぬ男が、天下を憂え、民草を思う。国家の平安とすべてのひとの幸福を願い、己が手でそれを成し遂げんとする。たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても、それを信じる者がいる以上、誰にもそれを笑うことなどできぬ。――玄徳さまの語る夢は、瑠璃のように儚く、そして美しかった。その頃何かに飢(かつ)え、何かを求めていた私の心は、その美しい夢に秘められた熱い志に、激しく魅了された」
丞相の語る夢。それこそが、私にとっては瑠璃の夢だった。
私は憑かれたように丞相の話に引き込まれていった。
「それ以来、私もともに、その夢を追い続けて来たのだ。だが、私に夢を語り、進むべき道を指し示してくださった方は、もう……」
丞相の声は悲痛だったが、表情は常のごとく静謐だった。その言葉は、私の心の奥底に入り込み、沈み込み、私の全身を熱く魅了していった。
「玄徳さま亡き今、その夢を継ぐ者は私しかおらぬ。どれほど険しい道であろうとも、私は進まねばならぬのだ。そして、そなたにも、同じ夢を継いでもらえたら、と思っている」
(たとえ、どれほど身の程知らずな夢であったとしても――)
では、私も信じてよいのですね。この美しい瑠璃の夢を。丞相に選ばれたのだということを。
そのときの歓喜、震えるような喜びを、私は終生忘れないだろう……。
◇◆◇
「瑠璃の夢か――。ひとは夢を見なければ生きてはゆけぬのかもしれぬ。先帝も私も、見果てぬ夢を追い続けてきた。できることなら幼常にも、私と同じ夢を見、私を助けてほしかった……」
丞相は、もはや取り乱してはいなかった。
「だが今となっては、詮無きこと。私にできることは、あの者が命を懸けて守ってくれたものをしっかりと受け止め、前に進むことだけだ」
常のごとく冷徹な眼で、はるか彼方の空を見据える丞相の高潔な姿にうたれ、私は思わずその場に拝跪した。
この方は、蜀漢にあって、常に独りそびえる巨人だった。ことに先帝が崩御されてからは、内治外交のすべてをその双肩に担ってこられたのだ。その重責、その孤独を、誰が理解しえただろう?
――丞相の重荷の万分の一でも、私に担うことができれば。その孤独をほんの少しでも癒してさしあげることができるのならば。我が身など何で惜しかろう。
「丞相。どうか私に、丞相の夢を継がせてください!」
私は憑かれたように叫んでいた。
「私が蜀に降ったあの日、丞相は、自分の夢を私に語りたいとおっしゃいました。この姜維、どこまで丞相のお力になれるか分かりませぬが、何としても丞相をお助けし、その夢をかなえる手助けをしたいのです。それが、馬謖どののただ一つの願いでもありましたから」
初めて――。本当に馬謖の心がわかった。かれに託されたものの大きさ、重さに、胸が震えた。後から後から、涙があふれて止まらなかった。
私もまた、瑠璃の夢を見ているのだろうか。
先帝が残した見果てぬ夢。丞相が託された大いなる夢。
その夢を、私が継ぐのだ。
馬謖が最後まで夢見た願い。その願いを、私は引き受けたのだ。
どれほど身の程知らずな夢であろうと――。
誰にもそれを笑うことなどできぬはず。
私もまた、夢に殉じよう。
かつてこの国の多くの男たちがそうしてきたように。
最後の最後まで、決してあきらめぬ!
たとえ我が命尽きるとも、信ずる心は誰にも砕かせぬ!
私は、夢を継ぐ者なのだから。
長い時間、私は丞相とふたり、黙って夜空を見上げていた。静寂の中、満天の星が降り注ぐようにまたたいている。数刻前、天に昇ったあのひとの魂も、どこかで輝いているのだろうか。
馬謖――。あなたの思いが、天地にしみわたっていくようだ。
完
あとがき
姜維と馬謖のお話です。とはいえ、なんだか盛り上がりに欠ける、暗い話ですみません……。m(__)m
当然、主人公は姜維のつもりで書き始めたのですが、いつの間にか馬謖の存在感の方が大きくなってしまいました。
実を言うと、この馬謖は、もっとワイルドな感じにしたかったのですよね。でも結局、なんかフツーの「ぼんぼん」になってしまいましたけれど。
馬謖という人、以前は、あまり好きではありませんでした。何しろ、諸葛亮の夢をぶち壊した張本人というイメージが、どうしてもついてまわってしまって……。「何もかも、お前のせいだ~~!」みたいな。
そんなかれが、ちょっぴりいいヤツに見えたのが、東映動画の劇場版アニメ「三国志」。さらに、中国湖北電視台制作のTVドラマ「諸葛亮」でけっこうグラッときて、とどめはスーパー歌舞伎「三国志Ⅱ」の、段治郎さん(現月之助さん)演じる凛々しい馬謖でした。
それにしても、どうして馬謖は諸葛亮の指示に背いたのでしょうか?
この疑問に対する私なりのひとつの答えが、この小説です。
兄に対してずっと抱き続けてきた劣等感。姜維という、新しいライバルの出現。そして何よりも、諸葛亮に認められたいという「恋」にも似た情熱――。それらが混然となって、馬謖の冷静な判断を失わせてしまったのかもしれません。
馬謖にすれば、街亭は、自分に与えられた最後のチャンスだと思えたのでしょう。
この話、最初は、姜維と馬謖それぞれのモノローグで交互に語っていくという形式だったのですが、あまりに難しくて挫折しました。
それから、姜維側から見た話と馬謖側から見た話、2編でひとつという形も考えてみましたが、やはりこれも挫折。結局、現在の形になりました。
同じシチュエーションを、今度は馬謖の目で語ってみるのも面白いかもしれません。(でも、やっぱり暗そうだから、パス!)
蛇足ですが、この話はかなり大昔に書いたもので、現在サイトで書いている一群の姜維作品とは微妙に設定が異なっている部分があります。
ご了承ください。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
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魏の中郎将だった姜維は、諸葛亮に出会い蜀の人となる。新参の姜維にとって、諸葛亮の信任を一身に受ける馬謖は、まぶしいと同時にどこかほろ苦い存在でもあった。
やがて、街亭守備の大任を受けた馬謖は、勇躍出陣するが……。
馬謖には心中に深く秘した、姜維に負けられない理由(わけ)があった。
劉備が諸葛亮に託した「大いなる夢」。その夢を継ぐのは、果たして姜維か、それとも馬謖か?