真恋姫無双 幻夢伝 第四章 11話 『から騒ぎ』
〝もう一度、あの突破口から突き進め、もう一度!〟 (シェイクスピア「ヘンリー五世」より)
なぜ『黄河』というのか。それはまさしく黄色いからである。
黄土高原から流れ出る黄砂は、黄河を通って海へと運ばれる。そのために黄河の水は黄色く濁る。この水で生活する人々の歯は黄色く、他の地域の人々とは一目瞭然で違いが分かるらしい。また、その細かさから風でも大量に飛ばされ、風の強い日には目を開けられない。
一見、何の変哲もない地質学上の話ではあるが、この黄砂が実は中国の生みの親と言っても過言ではない。黄砂にはミネラル分が豊富に含まれており、水や風によって華北全土に運ばれることで、栄養が豊かな陸や海の状態を生み出した。この景色の中で生まれたのが黄河文明であり、今日までに至る東アジアの歴史である。たかが砂と言っても侮ってはいけない。
官渡で曹操軍と袁紹軍が対峙していたこの日も、黄色い風が大地を吹き抜けていた。その官渡の砦の見張り台。霞は敵の旗がはためく光景を見つめている。
太陽は中天に指しかかっている。その眩しさに耐えながら前方を見つめていたところに、春蘭が梯子を上ってきた。
「なんだ。霞か」
「なんだとは、なんやねん。誰か探しとるんかいな」
「いや、そうではないが」
曖昧に答えつつ彼女は霞の隣に立った。彼女たちは暇つぶしに試合を行った際に、互いの真名を交換していたのだった。
「どうだ?敵の様子は?」
「さすがに戦い慣れとるわ。陣形は重厚。隙はまったくない。それにな」
霞は敵の右陣を指した。
「あれは多分、烏桓の兵や。あいつら、平野では強いで」
「やはり砦を出て戦うのは難しいか……」
官渡の砦の士気は、明白に下がっていた。少ない食糧。来るかどうかわからない援軍。これでも兵の統率が取れていたのは、いかに曹操軍の将校の指揮能力が高かったかという証拠になろう。
彼らにとって幸いなことは、まだ袁紹の本軍が到着していないことだ。目の前の顔良や文醜の軍勢は兵力不足から砦には攻めてきてはいない。
それでも本軍はもうすぐ到着するはずである。そうなれば、こちらに勝機は無い。
今度は霞が尋ねた。
「どうなんよ。なんか策はあるんかいな」
「……無いな、多分。華琳様たちは連日会議を行っているが、その表情はいつも晴れない。最近では、華琳様は部屋をあまり出られなくなってしまった」
「厳しいこっちゃなあ。なんかしないと」
いけない、と言いかけた霞は、急に目を凝らした。風が吹く景色の向こうで、敵の左陣の陣形が乱れている。
「お、おい!あれ!」
「むっ!」
春蘭も片方残った目のピントを遠くへ向けた。すると、あれほど強固に感じた袁紹軍の左陣が、崩れているではないか
何が起こっているのだ。
二人は力を込めて目を凝らす。
「見えた!旗印!」
春蘭が先にその原因を見つけた。奴らを襲っている軍勢の旗に“李”と“関”の字が描かれている。
霞もその旗を見つけたらしい。思わず大きな声を挙げる。
「アキラや!アキラや!」
そう言うなり見張り台を飛び下りた。その表情は打って変わって満面の笑みだ。
「お、おい!」
「早よせい!春蘭!出陣や!」
大声で呼んだ彼女は、跳ねるようにして駆けて行く。その姿を見た春蘭も、笑みをこぼしてながら見張り台を飛び下りていった。
「敵襲!敵襲!」
「敵の大軍が来たぞ!」
急に現れた敵に怯え逃げる袁紹軍の兵士。何人かの兵士は、その恐怖からもたらされる妄想を盛んに触れ回っていた。
その恐怖に陥っていた兵士の後頭部を強烈な衝撃が襲う。彼は地面に転がった。動かないところを見ると、気絶したらしい。
その衝撃を与えた馬上の武将が、他の兵士に大声で叱責する。
「敵は少数です!そんなことで怯えないでください!」
こう言いながら、乱れた陣形を必死で整えようとする斗詩の元に、猪々子が馬に乗って寄ってきた。
「斗詩!敵が来たのか!」
「文ちゃん!動かないでって言ったのに!」
本陣を守っているようにと伝えていたはずの彼女がなぜここにいるのか、という斗詩の文句を全く聞いていないのか、猪々子は気にすることも無く敵の様子を質問した。
「敵はどいつだ?!どこにいるんだ?!」
「落ち着いて!敵はちょっとしかいないから!」
彼女の予測は正しかった。急に現れたということは、味方の情報網に引っ掛からなかったということだ。ということは、そんなに多い軍勢が動いている訳はない。一万以上いるこちらが気にすることも無い。
「だから大丈夫なの。分かった?」
「じゃあ、すぐに倒されちゃうじゃんか!早く行かないと!」
活躍できるチャンスが無くなってしまう。手綱で馬の背を叩いた猪々子は、馬の鳴き声と共に駆け出した。
「文ちゃん!文ちゃん!」
悲痛な彼女の叫びは、蹄と風の音に消えていった。
不思議な感覚だ、と愛紗は思った。
彼女が馬を進めるたび、青竜刀で薙ぐたびに、敵が倒されていく。だけど、以前まで感じていた高揚感が無い。いや、高揚感というよりも、無謀さであったかもしれない。冷えた頭の中では、敵の動きが緩慢に見えている。
この間も、彼女はずっと考え続ける。自分は今、誰のために戦っているのか。本当に一刀の元に帰るだけのためにやっているのか。怒りに任せてこの戦いに参加してしまったが、そこに利己主義的考えはあったのではないか。牢から出たあの時、ホッと安堵した自分はいなかっただろうか。愛紗の脳裏で自己嫌悪と現状への疑念が渦巻く。
一つだけの正義を信じていた頃が懐かしい。
「ちょっと待った!」
その愛紗の前に現れたのは、敵の武将と思しき騎士であった。対峙するように馬を止めると、鞘から勢いよく剣を抜いた。
「袁家随一の猛将、文醜!ここに推参!」
息巻いて猪々子は名乗り上げる。そしてアピールするかのごとく自身の剣を音を立てながら振り回し、ぴたりとその剣先を愛紗に向けた。
「お前が敵の大将だな!覚悟しろ!」
そう言い終わると、愛紗が話す間も無く、彼女は襲い掛かってきた。
愛紗は冷静であった。
(馬との呼吸があっていない)
こちらに向かってくる相手に対して青竜刀を、猪々子の馬を驚かすようにして一回振り回す。
すると、どうであろうか。猪々子と比べて息も気持ちも整っていなかった馬は怯えてしまい、ヒヒーンと大きく鳴きながら、前脚を天高く上げてその体勢を崩してしまった。
「うわっ!ちょっ!」
必死に馬を抑えようとする猪々子。ようやく馬の前脚が地面に着いたと思った瞬間、馬の陰になっていた所から愛紗が飛び出てきた。
「覚悟!」
愛紗は腹に青竜刀を横薙ぎにして叩き込む。それに対して猪々子は反射的に自らの剣でカバーした。
火花が散り、甲高い金属音が鳴り響く。
次の瞬間、猪々子は粉々になった剣と共に吹き飛んだ。辛うじて真っ二つになることは防いだものの、剣の刃では無く平たい地の部分で防御してしまったようだ。青竜刀の威力に負けた剣は砕かれ、その衝撃で彼女の身体は宙に舞って行った。
ドサリと猪々子は地面に叩き付けられる。すぐに立ち上がろうとするも、腹部に激痛が走る。
「ぐっ!かっ!」
彼女は腹を手で押さえながら、激しく嘔吐してしまった。もう戦うことは出来ないだろう。
「文ちゃん!!」
猪々子が吹き飛んだ方向と反対側から、また別の敵将が近寄ってくる。彼女は仲間の姿を見ると、その穏やかそうな顔つきを豹変させて、武器である鉄槌を構えた。
「よくも!!」
目を血走らせながら斗詩は迫り来る。手綱を持っていない片腕で、鉄槌を上段に振り上げた。
愛紗は冷静だった。
(鉄槌の太刀筋がみえみえだ)
頭上に振り下ろされる鉄槌を、横にずれてあっさりかわす。そして駆け抜けようとする斗詩の姿も良く見ずに、青竜刀をその背中に打ち込んだ。
「あ゛っ!」
斗詩に振り返る暇さえ与えなかった愛紗の攻撃は、背中側からわき腹に強烈な一撃を与えていた。声にならない声を発した彼女は馬から転げ落ちる。
うつ伏せに倒れ伏した彼女は、そのまま動かない。そのまま意識を手放してしまったようだ。
愛紗が捕えようとする。ところが、その戦いを見守っていた袁紹軍の兵士がどこからともなく現れて、倒れた斗詩の前に何人も立ちふさがった。その一人一人を倒していくと、終わった時には斗詩の姿はどこにもなかった。
いつの間にか、猪々子の姿も無い。捕えることは出来なかったが、彼女は声高々に自らの手柄を叫んだ。
「敵の二将、この関雲長が倒したり!!」
その雄叫びは、袁紹軍に恐慌を走らせた。大将である二人が倒されたことで、敵は統制を完全に失った。その上、この時城に籠っていた曹操軍も打って出てきたことで、その混乱ぶりは頂点を極めた。
敵は雪崩の如く、対岸の本陣の元へ逃げて行く。
「関羽!」
ちょうどその時、アキラが愛紗の元へ駆け寄ってきた。そして彼女の肩口を軽く叩く。
「先ほどの一騎討ち、見事!さあ、敵を黄河へ追い落とすぞ!」
そう言うとアキラは号令をかけて、自らも駆けて行く。愛紗もその後ろ姿を追った。
彼女はまた考える。
(先ほどの敵将2人。以前の私もあのようであったのかもしれない)
太陽は中天を越え、体から汗がにじみ出る。それなのに、彼女は寒気さえ覚えていた。
彼らが砦に戻ってきたのは、辺りが暗くなってからだった。顔良と文醜の部隊の一部はまだ川を渡ろうとしている所だが、暗くなってしまっては追撃のしようがない。兵士たちに疲労の色も出てきたこともあり、引き上げたという次第である。しかし大勝利には違いなかった。
門をくぐったアキラと愛紗、そして汝南軍は、他の兵士たちの鬨の声に歓迎された。松明の火が照らす中に、多数の兵士がこちらに笑顔を向けていることが分かる。
にこやかに手を振るアキラ。馬を下りた彼の元に、二つの小さい影が駆け寄ってくる。
「兄ちゃん!」
「兄さま!」
季衣と流琉がアキラの胸にダイブする。彼はそれを優しく受け止め、そして彼女たちの頭を撫でた。
「2人とも、大丈夫だったか?」
「おそいよ!兄ちゃん!」
「大丈夫じゃないです!」
アキラの顔を見上げる彼女たちの眼には、うっすらと涙が溜まっていた。華琳の近くに常にいる二人だ。この砦に漂っていた不安の空気を敏感に感じ取っていたであろう。彼に会うことで、やっと安堵したに違いなかった。
彼女たちを撫でながら優しく微笑んでいたアキラに、華雄と霞が近寄ってきた。
「遅いで、大将!待ちくたびれたわ」
「アキラ、助かった。だが、この軍勢の数は……?」
「ああ、それはだな」
華雄たちに気を取られていたアキラは、無意識のうちに“三つ目の”頭を撫でていた。
「に、兄ちゃん」
「うん?」
季衣の声に反応したアキラが下を見る。彼が撫でていたのは金色に輝く髪。おそるおそるその顔を見ると、アキラは驚きの声を挙げた。
「うわ!華琳!」
「あ、あんたねぇ……」
体を震わせて華琳は彼を睨んでいた。その顔はほのかに赤かったことは、ご愛嬌である。
アキラはしどろもどろになりながら謝った。
「あ、いや、すまなかったな」
「……まあ、いいわ。今回は助けられたことだしね。礼を言うわ、アキラ」
華琳はにっこりと笑って小さな右手を差し出す。アキラはその手を包むようにして握り返した。固くその不均等な握手は結ばれる。
「……やっぱり、大きいわね」
「うん?」
「なんでもないわ」
手を放して、彼女は彼に伝える。
「今日は疲れたでしょう。作戦会議は明日にしましょう」
その声を皮切りに、各将や兵士たちは寝床へと移動を開始した。アキラは自分たちの部隊に宿営の準備を指示した。
この一連の様子を、愛紗は黙って眺めていた。その彼女の隣をアキラが通ろうとする。
「お前も」
「む?」
「お前も、感謝されるのだな」
その言葉に対して、彼は淡々と返した。
「勝ったからな」
彼は行ってしまった。
兵士たちが動く喧騒の中で、彼女は秋の星空を見上げる。
「勝ったから、か」
自分たちの陣営には無かった考え方だ。これもまた、正義の一つなのだろうか。分からない。
ひとつ、星が流れた。それを見つめる彼女の胸には、遠い大地に取り残された異邦人のようなもの悲しさが去来していたのだった。
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官渡の戦いの続編です。お楽しみください。