在ることはそれだけで奇跡なのに、自分が不幸だと感じている人々をあの奇跡が救えないのは何故だろうか?
Aはいつものようにエレベーターのボタンを押した。
しばらくして、液晶画面はエレベーターが上り始めたことを示した。
液晶に映るオレンジの数字が変わる度に、Aは13階までは止まるなといつもと同じように心の中で呟いていた。
遂に液晶が13の数を示した。
エレベーターが開いた瞬間、作業着を着た大柄のでっぷりと太った中年男性が泣き崩れた。
Aは一瞬混乱したが、その外人に手を差し伸べた。
外人はAの手を借りて、再び自身の足で立ち上がった。
外人は1階に着くまでの間に何度もAにお礼を述べた。
おかげでAと外人の2人は束の間の沈黙に押しつぶされることはなかった。
1階に着くと2人は何事もなかったように別の方向に歩を進めていた。
もう2度と2人は会うことはないだろう。
Aは学校へと続く道を歩む際、人生で味わった中での最高の喜びを味わっていた。
それは偶然とはいえ、自分があそこにいた結果として、あの外人の自殺を防ぐことができたからだ。
自分というつまらない人間でも誰かに貢献できたことが嬉しかったのだ。
誰かの役に立ったという事実が、本当に喜びを与えてくれたという奇跡に感動したからだ。
そして、なにより、今まで無価値だった自分の存在に意味を感じることが出来たのが嬉しかったのだ。
これは決して自身のエゴイズムを利他・博愛と宣言する詐欺師の言葉ではない。
残念なことにAの喜びは唐突に終わりを迎える。
それは校門の前であった。
Aは自身の愚かさに呆れ門と道路の境界に座りこんでしまった。
彼は外人を死へと誘惑した原因が何も解決していないこと、そして辛い人生にまた連れ戻してしまったという事実に気付いたからだ。
結果論ではあるが、もしあの外人が苦しむことになったとしたらAは無用な延命をしてしまったことになる。
勿論、あの外人の人生にこれから幸福が訪れればいいのだが、弱い人々はそもそも可能性が限定されている。
可能性とは甘美な言葉であるが、そこには間違いなく不幸も含まれていること、人によって開かれている幅の違いがあることも忘れてはならない。
ある時は居るだけで幸せなのに、またある時は居ることそれ自体が最大の不幸を齎す。
この不条理を人はどう表現すればいいの
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何かを考えるきっかけになれば幸いです。
途中で外人を車に轢き殺させようと思ったのですが、主題が見えなくなくため断念しました。