蛇崩は部屋を出ようとして立ち止まった。出入り口の隣に設置してある棚に、興味深いものを見つけたのだった。
「これって」
鬱陶しそうな仕草で、犬牟田が首だけで振り返る。蛇崩の好奇心の原因を知り、隠しておけば良かったと後悔した。犬牟田は彼女が大概の行動で見せる、女子特有の距離感が、少し苦手だった。
「小腹が空いたときのためさ」
当たり障りなく返したが相手は当然満足しない。自分から始めた会話にもかかわらず、ふうんとつまらなそうに相槌して、袋の裏面を眺めている。そこには製造元も記載されているのだ。
「飴とかチョコの方が良いんじゃないの。頭脳労働なんだから」
「そういうのも入ってるだろ。…腹もちのよさも必要ってことさ」
好きなのを食べていいよと付け足すと、蛇崩はやや声を弾ませて、遠慮なく、と棚から棒付きの飴を取り出した。
「猿くん?」
「俺は食べ物に執着がないから。蒟蒻菓子を何袋もストックなんて正気ならしないよ」
「そうよね」
背後でがさがさ音がする。飴の包みを剥がしているのだろう。
「あんた達って、案外仲が良いわよね」
ごちそうさま、と挨拶して(こういうところで曲がりなりにも社長令嬢なのだと犬牟田は思い出す)蛇崩は彼の領域から出ていった。
闖入者が去った室内では、止んでいた風が再び吹き始めたような調子で、打鍵音が絶えず流れていた。犬牟田は滞りなく処理をしていたが、ふと彼女の去り際の言葉が脳裏に浮上して、指を止めた。
眼鏡を外し伸びをする。背もたれに体重を預けぼやけるディスプレイを眺めながら呟いた。
「仲が良い、か」
口にすればおかしさがこみ上げてくる。二進法の溢れる室内に、くつくつ笑いが響いた。
いつも女心が分かっていないなんて言いながら、君だって男の心理を理解していないじゃないか。
「何なんだよ、てめーはよおっ」
輪廻堂中学の一室で喚き声が響いた、たまたま廊下を通りかかった生徒は一瞬肩を竦め、よそ者に怪訝な視線を引っかけながら去って行く。犬牟田が思い切り眉根を寄せた。
「彼が何か言っているようだけど生憎俺は猿語が分からなくてね。誰か通訳してくれないか」
「ああん?」
「ちょっとあんたたち、いい加減にしなさいよ」
猿投山が加わって以来日常と化した小競り合いである。止めようとする蛇崩にも、倦みの色が見える。
「仲よくしろとは言わないけど、体裁だけは気にしなさいよね。あんたたちの見苦しい行動が、皐月ちゃんの品位に関わるんだから」
「彼が先につっかかってきたんだよ」
「てめーがいちいち癪に障る言い方するからだろうが」
「あーもうっ」
蛇崩が大きく息を吸った途端、彼女の目の前で、ごちん、と二つのやしの実のような影がぶつかった。下を見ると、猿投山と犬牟田が這いつくばって、各々頭を抱えて悶絶している。
「いい加減にしろと言っているッ」
今度は遥か上方から怒声が降ってきた。蟇郡が強引過ぎる手で、喧嘩両成敗の決を下したのであった。
「貴様ら自覚はあるのか、建設的な議論ならばともかく、今のように子供じみた下らぬ口論を他人の前で晒してみろ、皐月様のお顔に泥を塗る愚か者として、この蟇郡苛が今度こそその頭蓋を粉々にしてくれる」
もとより迫力を持つ外見の大男が、目を極限まで見開きどすの利いた声で脅し文句を言う様は相当に威圧的である。無関係の蛇崩すら少しだけたじろいだのだから、当事者二人は完全に抑え込まれてしまった。
「……」
なお双方わだかまるものを持て余して睨みあう。動いたのは、犬牟田であった。踵を返す。嫌なものからは、離れてしまうのが良い。ふてくされた態度で去ろうとする彼の後頭部に、猿投山が悪あがきの小石を投げ付けた。
「そんなだから、いつも独りなんだろ」
振り返ってから、犬牟田はしまったと思った。取り繕うように顔を背ける視界の端で、一瞬見開いた猿投山の目が映り、背後でゴンという拳骨音、次いで「いてっ」という声を聞いた。
パソコン室で犬牟田は携帯端末を弄っていた。
この学校は今や鬼龍院皐月に完全に掌握されているので、配下である彼は部外者でも自由に設備を利用できる。幸い、無人だった。
電子機器の怜悧な稼動音にも、ぶつけた額が痛む。触れてみると、熱を持っていた。赤くなっているかもしれない。それでもどういう訳か眼鏡には傷ひとつ付いておらず、蟇郡の妙な器用さが今は腹立たしかった。頭を冷やそうとここへ来たが、画面へ集中できずにいる。なにか嫌なことがあっても、いつもならこの手の平大の宇宙を泳ぐうちに紛れてしまうのだ。彼の脳裏には、最後に見猿投山の目が浮かぶ。あの挑発に反応してしまったのがいけなかった。無視というのは一番単純だが難しく、ゆえに効果的な反抗なのだ。それができなかった。そのために、気取られてしまった。憎たらしいほどに目ざとい猿投山が、見逃すはずもない。だから彼は驚いていたのだ。
あんな言葉で傷付くなんて、馬鹿みたいじゃないか。
眼鏡のレンズを無為に滑って行く文字にすらうんざりして、犬牟田はとうとう端末をポケットにしまった。こんなことは初めてだった。明日は大雨だな。つまらない常套句だった。
ため息を吐きだす。なぜ、柄にもなく傷ついたのか。そもそも、なぜあの男がこんなにも気に食わないのか。……きっと、妬ましいのだ。劣等感、と言っても良いかもしれない。それが皮肉となって口から零れる。嫌味が原因で眉をひそめられたのは、一度二度ではなかった。同じ言葉を、蛇崩からもう10回はくらっている。それでも、猿投山のあの直情でもって言われて、蛇崩の10倍こたえたのだろう。
「俺って、嫌な奴だよなあ」
「そうか?」
かなり近い距離で声を聞いて犬牟田は飛び上がった。いつの間にか、皐月がそばに立っていた。
「やはりここにいたか。また猿投山といざこざをやったそうだな」
気まずく目を逸らす。親に叱られても心が動いたことのなかった彼は、こういう心境に慣れていない。
「奴は貴様から売って来た喧嘩だと言っていたが?」
「…そうですね、向こうからしかけてくるよう、彼にも気付く程度の嫌味をわざと言ったので。白状してしまえば今回は俺が完全に悪いでしょう」
あいつに謝りたくはないですが、という言葉は飲み込んだ。犬牟田が、怒りを買うのを恐れる心理が自分にもあると気付いたのは、ごく最近のことだった。
皐月の瞳が、じっと向けられている。全てを見透かそうとして、実際全てを見透かしてみせる、目だ。いやだなあ、と犬牟田は俯いた。皐月が、ではない。自己嫌悪というものは、どうしてこうも惨めな気持ちになるのか。
「ひん曲がってるんですよ、だから、まっすぐなものを見ていると、嘘だろう、って気持ちが先に起こる。口を開けば皮肉が出てくる。こういう性格だと、俺の趣味には良く役に立ちますけど、まあ人に好かれないってことくらいは自覚してますよ」
「私は嫌いではないが」
え、と思わず顔を上げると、皐月と目が合った。彼女はずっと、しっかりと犬牟田を見ていた。
「お前が捻くれているところを出すと、人なのだと思えるからな。私が使っているのは、機械ではなく犬牟田宝火という人間なのだと」
「そ…そうですか」
犬牟田は、マフラーを引っ張って、顔を隠した。口元を覆うのは彼の癖だが、このときは眼鏡の下半分まで布を被せようとしたため、吐く息でレンズが曇ってしまった。
頬が熱くなるという経験を、彼はこれまでしたことがなかったのだ。
「だが、このままというのも困る。猿投山との無意味な衝突は避けよ」
「……はい」
釘を刺した皐月は、にやり、と年相応のいたずらっぽい笑みをしてみせた。彼女にしては珍しい表情だった。
「拳の喧嘩は勝敗が分かりやすいことが多いが、実は口喧嘩にも、明瞭な勝ち方というものがある。今から教えてやるから、見事勝ってみせろ」
皐月の言った通り、猿投山は屋上にいた。扉の開閉音が聞こえなかったはずはないが、彼は丸めた小さな背を向けるのみだった。なんとかと煙は高い所に、という言葉が出かけて、犬牟田は飲み込んだ。
近づく歩調が、なぜか忍ぶものになる。天気はよく心地よい風が滑っていて、揺れる相手の髪はススキヶ原の草原を匂わせた。
相手と5歩の距離で、立ち止まった。注意深く呼吸をして、発言の時機を掴もうとする。よし。腹を括って口を開いた。
「あの……」
「悪かったよ」
犬牟田はポカンと、言いかけた口の形のまま固まった。この場に至るまで、パソコン室を出る、屋上の扉を開ける、その言葉を言う……3つの慣れぬ決心を乗り越えてきた彼の努力は、猿投山のひと言で粉砕された。胸中皐月に頭を下げた。すみません、俺は負けました。
「どうして言ってしまうんだい」
「はあ?」
「いや…何でもない、俺の方こそ、すまなかったよ…」
「…お前、本当に謝る気あんのか」
これでは負け惜しみだ。犬牟田も、そう思った。妙な悔しさがこみ上げてくるのだ。
「……あれ、反省してる。言いすぎた」
「気にしていないよ。蛇崩にしょっちゅう言われてるの、見てるだろう?」
「でもお前があんな顔したのは初めてだ」
思わず舌打ちしそうになった。敏すぎる。同時に、鈍くもある。表に出ているものには嫌なくらい鋭いのに、触れないでほしいという、内に秘めた気持ちは悟らない。こういうところも嫌なんだ、思いかけて、彼は嫌悪が膨らむ前に蓋をした。
「……そうだね、どうしてだか、君に言われたときは。コンプレックスを刺激されたのかな」
「俺は」
見ると猿投山は、言われた方以上に深刻な顔をしていて、犬牟田はおやと片眉を上げた。
「肩身の狭い思いってもんが嫌いだ、するのもさせるのも。総代をやってるのは、居場所のないやつらに、作ってやるためだ。それには迎え入れるだけじゃ足りねえ。心の領域を侵さない。そうしねえと、せっかく居場所ができても居づらくなる。さっき俺は感情に任せて、お前の領域に踏み込んじまった。俺の、北関東番長連合総代の恥だ。本当に、すまなかった」
「お、おい、よしてくれよ」
猿投山がきちんと向き直って頭を下げてきたので、犬牟田は動揺した。相手は謝罪の姿勢を崩そうとしない。
「気にしてないって言ってるだろ」
「いいや、もしかしたらこれまでも、やらかしてたかもしれねえ。俺達は長い付き合いになって行くと思う、それなのに居づらいと思わせちまったんだ」
「大半は俺の自業自得だし、覚悟をしてなかったわけじゃないよ。とにかくこういう場面は苦手なんだ、頼むから顔を上げてくれ、気味が悪い」
おずおず相手が背を伸ばすのを前に、さっきとは逆の言い合いだな、と犬牟田はぼんやり考えた。得意技の皮肉が鈍るのも、気後れしたせいなのか。だが猿投山はなお、何か言おうとしていた。視線が定まらないのは、言葉を選んでいるためらしい。
「…お前のことをあえて知る気はないし、お前だって嫌だろう。だからこれだけ言っておく。独りでいる分には領域なんて必要ない。鬼龍院皐月の下で、お前がお前なりに自分の居場所を作っていくのを、俺は邪魔しない」
犬牟田は返事ができなかった。猿投山渦のデータを、訂正する必要がある。この男は鈍くない。あの一瞬で、一体どこまで嗅ぎ取ったというのか。
これは、徹底的に負けてしまったなあ。
悔しくはなかった。
「……さん、犬牟田さん」
呼びかけにうっすら目を開けると、猿投山がこちらを覗き込んでいた。
「うん…?戻っていたのかい」
「うたた寝してると風邪ひくぜ。ほら、土産だ」
猿投山が得意気に差し出してきた袋を見た途端、犬牟田は寝起きの顔を思い切りしかめた。
「君はうちの棚を蒟蒻菓子で埋める気か。誤解されるからやめてほしいんだが」
「良いじゃねえか。減るもんでもなし」
「増えるのが困るんだよ」
「だったら、減らせば良い」
言うなり袋を開け、個包装の菓子をひとつ、マウスの隣に置いた。食品は古いものから消費するべきだ。しかし眠気の完全に去っていない頭では、指摘するのは億劫だった。
「今、何時だい」
「1時、夜中の」
「3時間か」
思ったより、長い時間眠っていたようだ。やはり疲れがたまっている。皐月からの許可も下りている。質の良い睡眠を取るべきなのだろう。
ふとディスプレイに目をやると、スクリーンセイバーの黒い画面に、猿投山が映り込んでいる。
「…そう言えば、夢を見たよ」
「夢?」
相手が珍しく雑談を持ち出してきたので、猿投山は面白そうだと先を促した。骨張った手がマウスを操作して、パズルゲームを起動した。解きながら喋る。
「ああ。君が、皐月様の下へ来て間もない頃のね」
「へえ」
「あの頃は俺たち、すごく仲が悪かったじゃないか」
「そんなこともあったなァ」
土産を、猿投山自身が食い始めた。長居を決めたらしいが犬牟田は咎めなかった。こちらが消費しなくて済む。
「俺はきっと、君が羨ましかった。自分が欲しくても手に入らないもの、なりたくてもなれないものを、全て相手が持っていると考えるのはひどい錯覚だが、そう思わずにはいられなくなるケースがあるんだろうね」
「あんたの場合、それが俺だったって?」
相手を後目に一瞥して、皮肉な笑いをしてみせる。
「別に欲しいなんて思っていないはずだったんだけど。それが子どもの意地だって気付いてしまった。初めは君のこと、昔の少年漫画の主人公みたいだって思っていたよ」
「へ、へえ」
「だからこそ気に入らないってね。まあ実際はただのコンニャク馬鹿だったわけだが」
「何だと」
犬牟田は喉の奥で低く笑う。
「ともかく、あの件で俺は、鬼龍院皐月に自分の領域を預けても良い、と思った」
あの件、だけで、猿投山には十分通じる。
「そういやあのとき、犬牟田さんやけに素直だったな。気持ちが悪かった」
「同意するよ。あれは俺の人生の中で一番可愛らしい瞬間だった。皐月様の仕業さ」
「皐月様の?」
1問目を解き終えた。画面にはあまり可愛くないマスコットと、その上に「おめでとう」と書かれた吹き出しが表示される。犬牟田はすぐに次の問題に取りかかる。
「俺は、『好き』って言葉が好きじゃなくてね」
「ひねくれてるから」
「ははっ」
思わず笑いが出た。「その通り」
原因ははっきりしている。彼の記憶はずっと遡る。
母が、……母を演じようとしていた女が、阿呆のように繰り返していた言葉なのだ。それは幼い犬牟田にとって、鬱陶しい以外の何物でもなかった。自分のこういうところが嫌いだと思っても、母はあなたが好きよとほほ笑んで彼を無視した。
「でも皐月様はあのとき、『嫌いではない』と言ってくださった」
すらすらと問題を解いていた手が、ほんの少し遅くなる気配を、猿投山は感じ取った。犬牟田が軽い頭脳労働をするのは、思考の歯車に潤滑油が欲しいときだ(もっとも猿投山には、犬牟田の言う「軽い」は信用できない)。それが鈍り始めている。
「まだ出会って日の浅い、お互い相手のことをろくに知りもしなかった頃なのに……後になって、あれは俺が一番欲しかった言葉だと気付いたんだ」
一旦、言葉が途切れた。しばらく電気的な沈黙が流れる間に、犬牟田の手元が徐々に解答の意思を失っていき、猿投山はそれに大人しく付き合った。
やがて完全に動きを止めた彼は、画面に目を向けながら、別の遠い何かを見るような眼差しでぽつりと、
「俺は、嬉しかったんだなあ」
「……」
独り言だ。猿投山は返事をしなかった。ただ、この男はこんなに穏やかな話し方もできるのかと、興味深げに心眼通を以て眺めていた。きっと少年らしい顔をしているのだろう。彼が伊織と居る場面で垣間見るような。
いつになく饒舌に、犬牟田は自分のことを明かす。何が彼に夢を見せたのだろう。一世一代の大いくさを目前に、望郷にも似た情が彼を抱いている。悪いことではないのだろう、と猿投山は思った。
「皐月様は、人というものをよくご覧になっている」
「そうだね」
画面上のカーソルが動いて、解きかけのパズルが閉じられた。椅子が半回転し、二人が向き合う。
「だから君のような男も集まるんだろう。最初は絶対に相容れないと思っていたよ。典型的な体育会系で血の気が多く頭より先に身体が動く」
「言うねえ」
「一生関わり合うことのない人種だろうってさ。それなのに、何がどう間違ってこうなったんだか」
犬牟田はしかし、満更でもなさそうに肩をすくめる。
「俺だってそうさ。あんたみたいな、なよっちそうで根暗そうで理屈が脚生やして歩いてるような奴は別世界の人間だと思ってた」
だが、実際には、猿投山は心の領域というものを繊細に見極めるし、犬牟田は無感動に見える眼鏡の奥に、幼い寂しさを飼っている。人は見かけによらないという言葉を陳腐だと笑っていた犬牟田は、今相応の興味を以てこれを受け入れる。
本来彼は、生徒会室に自分の席を設けるなど、想像もしていなかった。自室さえあれば、他は不要とすら思っていたのだ。
人間も悪くない。むしろ面白い。そう考えるようになってから、皐月のもたらした世界は、いっそう鮮やかに彼を惹きつけた。思考の転換は、憎たらしいことに猿投山がきっかけだった。
「そう言えばさっき、蛇崩が来てね」
「やはりそうか。あえて触れずにいたんだが。まさかあんたから言い出すなんてな」
「お気づかいどうも。…それで、そこの棚にある蒟蒻菓子を見て彼女、なんて言ったと思う?」
「さあ?」
「俺と君が、仲が良いってさ」
「はははっ」
猿投山の笑い声が、けたたましく響いた。
「そいつはひどい勘違いだ。俺たちはただ、仲が悪くないってだけさ」
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小説ベース
犬牟田と蛇崩がもう少しだけ長く会話する
北関東から帰って来た猿投山が犬牟田の所に来る