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それから二人はとても仲がよくなった。
同じ夢を持つ者同士惹かれあったのもそうだが、若干浮いていた者同士だったこともある。
しかし二人が少しずつ仲良くなっていくにつれてそれがよい方向に作用したようで、自然とまわりとも打ち解けはじめたのだった。
その中でも徐庶とは、特に仲良くなった。
歳も近かったが、もともと面倒見の良いところがあった徐庶は、二人に得意な料理を教えてくれたり、単福などと呼ばれていたことの経緯を話して聞かせたりして、よく二人を構ってくれた。
そんなある日、水鏡先生が講義の前に話があると皆に言った。
そしておもむろに孟建を呼び、皆の前に立った彼女自身が語った。
「近く、水鏡塾を去り、故郷の汝南に帰って仕官の道を探そうと思います」
水鏡塾は入塾するのも去るのも自由であったし、水鏡先生も学友達もとめることは出来ない。
だが孔明は「襄陽で仕官先を探すわけにはいかないのですか?」と、聞かずにはいられなかった。
何故なら汝南は曹操の治める地であったからだ。
しかし孟建は「もう決めたことなの」と譲らなかった。
その日の講義の後は、いつもの討論会はなく、皆孟建の元に集まって別れを惜しんでいた。
孟建は物事をはっきりというきらいもあるので口が悪くも見えるのが難点でもあるが、まわりを引っ張っていく力があり、結局のところ全員に慕われていた。
そんな孟建が皆としばらく話したあと、士元のもとにやって来た。
「士元、象棋をしましょう」
「えっ…」
答えを待つこともなく、孟建は机に駒を並べはじめた。
おろおろとしていた士元に、「付き合ってあげて」と徐庶が肩を叩き、孔明もうなずいて、士元も駒を並べた。
以前一度だけやったときに比べ、二人の戦いは長引いた。
「私強くなったでしょう?」
士元が孟建を見つめると、孟建は士元を見ることなく、盤に集中していた。
見るに、孟建は押していた。
孟建の主力が突出した時のことだった。
士元は少し考えて、やがて両翼をあげる手に出た。
一見して、定石の手に思えたが、孔明と徐庶は、わずかに眉をひそめていた。
次の孟建の手を待っていた士元だったが、ふと気がつくと、孟建が士元の目をまっすぐ見つめていた。
「あ、あわわ…」
孟建は何も言わずにじっと士元を見つめ、士元は孟建を直視できなかった。
やがて孟建は局を進めた。
士元の手に対して主力を右翼へ、後衛を左翼へ回し、見事に士元の攻めを防いでみせ、まわりからは歓声が上がる。
孟建は主力だけを士元の主力へ向かわせ、後衛を下がらせ後詰めとした。
歓声が上がる中、士元は困った様子であった。
そのまま左右から挟撃していれば、恐らく士元の軍は崩れていたに違いない。
そのことには孔明も徐庶も気付いていたし、恐らく、孟建ほどの才覚なら気付いておかしくないことであったからだ。
士元はその隙をつき、主力を下がらせ後衛を左右に割って、突貫してきた主力を三方から挟み込み、形勢は逆転して、またまわりから歓声が上がった。
そのまま後方に下がる主力までも2つに割って結局士元の軍は孟建の軍を通す形になった。
孔明と徐庶が思わず顔を見合わせた。
その対局は、一見双方が互角の戦いに見えていたが、とても奇妙であると見てとっていたのは孔明と徐庶、それに石韜等一部の者達だけであった。
その後も何度も形勢が変わるが決定打には至らず、一方が勝ちそうで勝てないといった展開が続き、とうとう孟建が折れた。
「全く、強情ね」
言いながら、対局を放棄して孟建が席を立った。
その言葉を皮切りに、孔明、徐庶、石韜が声を上げて笑い出し、孟建もまた笑った。
士元は困ったようにおろおろとしていた。
孟建が水鏡塾を出て間もなく、石韜、崔州平等もまた水鏡塾を去って行ったが、皆襄陽にとどまって世にでる機会をうかがっていた。
更に共通して、襄陽のある荊州は劉表が治める地だが、その中の誰もが劉表の元に仕官しなかった。
劉表は大した人物ではなかったし、病でふせっていて、その間の実権を家臣に奪われ掛かっていると専らの噂だったからだ。
水鏡塾に残ったのはとうとう徐庶、孔明、そして士元だけとなっていた。
近隣の邑で流行り病が広がり、医者にかかれない貧しい農民達は藁をもつかむ思いで水鏡先生を頼ってやって来た。
水鏡先生は医学にも明るかった。
見かねた水鏡先生は薬を煎じ、近隣の農民達を助けてまわるようになった。
病は襄陽全域で蔓延しているらしく、噂を聞きつけた遠方からの要請を受けて、水鏡先生は徐庶を連れ、薬を持って往診に出掛けることとなった。
水鏡先生を見送った後、士元と孔明は裏山に山菜と薬草を摘みに出掛けた。
あまり遠くまでは行けないので、川に沿って少し行った程度で二人が薬草を摘んでいると、孔明が士元に言った。
「士元ちゃん、私益州に行こうと思うんだ」
「え?」
「劉備さんに会う前に、益州を見ておきたいの。いつか入蜀することになるなら、まだ私達が何処にも仕官していない今のうちに」
「わ、私も行く…」
「本当!?じゃあ水鏡先生が戻ったら一緒に…」
と、その時、空が一層明るくなった。
『きゃー!』
まばゆいばかりの光に包まれ、激しい轟音と共に水しぶきがまるで滝のように降り注ぎ、孔明が思わず士元に抱きつき二人は悲鳴を上げた。
震える肩を互いに感じながら、長い間目を開けることすら恐れ怯えていた二人だったが、互いの震える微かな声の間から、水のせせらぎや遠くの虫や鳥の声が聞こえる頃になって、ようやく孔明が声を上げた。
「し…しし、士元ちゃん…」
士元は未だ「ううっ…ひっく…」と嗚咽を漏らしていて返事も出来ない。
「だ、大丈夫?士元ちゃん、何か…みえる?」
孔明は声が震えていて、言ってる自分も目を開けられずにいた。
「ううっ、目…あけ、られない…」
士元は絞り出すようにそう言うと、「私も怖いけど、頑張って目を開けよう?い、一緒に…」
「…ううっ、うん…」
「…じゃあ、いくよ?…せーの」
二人はゆっくりと目を開けた。
山、空、森、川…司会の中で違和感はなく、変哲のない景色がそこに広がっていた。
「士元ちゃん、そ、そっち、な、何もかある?」
「う、ううん…いつもの…景色…」
ようやく少しほっとして、抱きついていた二人はやがて互いに身体を離し、しかしその直後「ひっ、あわわっ!」と声を上げて士元が孔明に抱きついた。
「はわわ!どど、どうしたの士元ちゃん!?」
「あわわわ、ひと…人が…!」
士元が恐る恐る指をさしたのは、二人のすぐ足元であった。
そこに、真っ白な服に身を包んだ青年がうつ伏せで倒れていた。
「はわわ!」「あわわ…」
と狼狽えていた二人はまるでお化けを見たように身をこわばらせ硬直した。
暫時そうしていたが、まるで動かない青年に、少し落ち着きを取り戻した孔明が、「し、士元ちゃん、く、苦しい」と、力一杯抱きついていた士元の背中を優しく撫でると、僅かに力が抜け、代わりに足の震えが身体全体に伝わってきた。
「こ、この人、何処から現れたんだろう…?」
青年は膝から下が川に浸かっていて、全身は少し濡れていたが、青年が上流から流れてきたようには思えなかった。
孔明と士元も水しぶきを浴びてびっしょりと濡れていて、青年もそれに似ていた。
「し、死んじゃってるのかな?」
まったく身動きしない青年を見て孔明がそう言うと「ひっ」と士元が低く悲鳴を上げた。
恐る恐るその様子をうかがってもわからなかったので、士元とは手だけ繋いだまま、とうとう孔明は青年に近づいた。
「きをつけて」と小さい声で士元の手が力を帯びて、孔明はうなずいて、青年の顔に近づいた。
「息は、あるみたい」
二人は相談した結果、青年を運び込むことにした。
二人では青年を持ち上げられなかったので、近くの農民に声を掛けて水鏡塾まで運んでもらい、服を着替えさせてもらった。
医者と呼べる人もおらず、しいていえば水鏡先生がそれで、二人は彼を介抱することにしたが、さしあたって目立った傷も熱もないようだったので寝かせておくだけでよかった。
「孔明ちゃん…どう…だった?」
孔明は、農民が帰ったあとは定期的に青年を見に行っている。
とは言っても、入り口から少し入った程度で、青年にはあまり近づけなかったが。
「うん、まだ目を覚ます様子はないみたい。ところで、あの人の服…」
日の当たるところに二人の服とともに干していた白い上着を見つめた。
「あれってきっと、凄く高いものだと思う。見たこともない布だもん…」
「うん、凄く綺麗」と、士元も、さっきからその服ばかり見つめていた。
白く光を反射していて、形の崩れないパリッとした上着には細かな装飾も施されていて、およそ二人が目にしたことなどない、否、この世のものとは思えないほどの印象だった。
二人は、それもふまえて彼の存在をはじめ高貴な生まれか身分の高い人物と思っていたが、心のどこかではそれ以上の何かではないかとも思っていた。
ただ、いつ戻るかも分からない水鏡先生と徐庶の留守中に、彼が目をさましてしまうのだけは少し怖かった。
青年は結局夜まで目を覚ますことはなかったので、万一に備えてその日は士元と孔明は倉に布を敷き、寄り添って眠ることにした。
「あの人…誰なんだろうね」
何度ともない質問を、孔明は呟くように隣の士元に問いかけた。
「うん…」
士元は言いたくても言えない言葉をどこか抱えているようだった。
それはなんとなく孔明の中にもあったが、上手く言葉にすることも出来なかった。
まどろみ始めた頃、ただ孔明は一言だけ「でも、綺麗な顔をしてた…」とこぼすように言うと、どこかホッとしたように「うん」と士元は頷いて、二人は眠りに落ちていった。
翌朝、遠くで鳥のさえずりが耳をくすぐった。
まだ夜明け前のようで、空は白んでいる程度の明るさで、目を覚ましたのは士元だった。
まだとろんとした目はうつろで、いつもと違って何故倉で寝ていたのかもよく思い出せず、とりあえず横で寝ている孔明を起こさないようにそっと倉を抜け出すと、水を汲み顔を洗おうと井戸に向かう。
歩いていると、井戸を組み上げる音が聞こえてきた。
朝もやに紛れてはじめそれが誰かはわからなかったが、水鏡先生が帰ったのだろうと思った。
そのまま近づいていくと、士元の気配に気付いたその相手が振り返った。
「あ」
「あ…」
寝ぼけていて完全に油断していた士元は、青年のすっとんきょうな声をこだまのように返してしまい、固まった。
昨日の青年が、井戸の水を汲みあげた格好のまま、「あ、えっと、おはよう」と挨拶をした。
士元はまるで石になったかのように固まったまま、ぴくりとも動かなかった。
青年が困ったようにして、「ごめんね、勝手に使って」と水桶を地面に置いた。
「えっと、俺は北郷一刀。君はこのお寺の娘かい?」と笑顔で問いかける。
士元は、ハッと我にかえって、しかし、すぐに怯える表情を見せた。
それに気付いた一刀と名乗った青年が、「あっ、こ、怖がらないで!怪しいものじゃないから。あ、えーと、その、起きたら誰もいなくて、ここがどこか分からなくてさ、とりあえず外に出てみたんだ」捲し立てるように言うがどこか冷静なのか、青年は言葉を選ぶように言った。
士元は驚きはしたものの、不思議とあまり怖くないと思った。
だから、次に口をついて出た言葉は、自分でも信じられなかった。
「ほ、龐統…士元…でしゅ」
噛んでしまった。だが青年には通じたようで、「名前?士元ちゃん、でいいのかな?」
士元はコクコクと頷いた。
東の空から朝日が登る瞬間のことだった。
(多分続く…)
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続き。前回わかりにくいかなと思ってたら意外と伝わったので、今回もちょっと含みのあるポイントあります。ポイントは孟建と雛里ちゃんの対局ですが、伝わるかな…厳しいかな…。SSって難しい…