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スフィーと聖なる花の都の工房 ~王立アカデミーのはぐれ綴導術士~<1>【2章-2】

みっくーさん

◆既投稿ページを再利用したまとめ投稿です。最新投稿分からの続編になります。長らく放置しており、申し訳ございませんでした><(2015/05月)

2014-08-12 22:00:15 投稿 / 全30ページ    総閲覧数:483   閲覧ユーザー数:483

 と短い声を上げる間に、彼女は唇に指を当てるジェスチャーをしながら、顔を近づけていた。

「昨日言われたばかりだし、用心しなくちゃ。……いいこと? 今からあたしが『ちょこっとだけ』ドアを開けるから、外にいるのがアヤしい人物だったら、次に開けた時に猛烈に飛びかかるのよ!」

 もう一度「えっ」と言ってから、フォルシイラ。これはスフィールリアから評点を得るチャンスだと思いついた。

「た、タウセンのヤツだったらどうすればいいんだ?」

「そしたらなにもしないで。タウセン先生以外の悪者だったら、飛びついて!」

 いつの間にか、外の人物は悪者に確定していた。

「わ、分かった」

「いくわよ……」

 コン、コンコンコン――

「あ、あのぅ――さっきから声が聞こえてるんですけどぉ、い、忙しいのかな? あ、怪しいモノじゃないんだけどぉ……え、えへへへ……」

 続く声は無視されて、ドアノブをつかんだスフィールリア。ドア前にスタンバイしたフォルシイラ。両者の間で緊張が高まってゆく……

 そして!

 ガチャバタン!

 スフィールリアが電光石火の素早さでドアを開け閉めした。構えたフォルシイラの体躯(たいく)がびくっと震えた。

「え。あ、あの」

 もう一度。

 ガチャバタン! びくっ!

「あ、いや、だから」

 ガチャバタン! びくぅっ! ガチャバタン! びびくぅっ!

 ぐぐぐぐぅっ……!

 フォルシイラの体躯が引き絞られてゆく……!

「その、」

 もう一度……と見せかけてスフィールリアは玄関を大きく開け放つ!

 ガルアァッ――!!

 瞬間、緊張の限界に達していたフォルシイラが飛び出していた。金色の突風のような勢いで隙間から流れ出てゆく。スフィールリアはすぐに扉を閉めた。

「わぎゃあああああああああああああああああああああああ!?」

 ガルルルルゥッ! ゴシュ、フシュ、グルアアアアア!!

「ぎゃあああ! ぎゃああああああああ! ぎゃあああああああああ!? ころっころさっ殺さないでええええええええええ!? フォルシイラ、わたし、わたしだからああああ!!」

「……?」

 最後の部分を聞き咎めてスフィールリアは顔半分だけドアを開き、外を見た。

 そこにあったのは、フォルシイラの顎に振り回されて服がずたぼろになり、半泣き状態で地面を転がっている中年男性の姿だった。

「ひいぃぃぃぃ、うひぃぃぃぃぃぃぃ……!」

「……知り合い?」

 きょとんとした顔で振り返り、フォルシイラ。

「……イガラッセだった。ここの教師だ」

「えーーー!」

「だ、だってあんなにフェイントかけるから」

 フォルシイラが、しゅんと耳と尻尾の位置を落とした。

「と、とりあえずだいじょぶですかっ」

「う……うん、な、なんとかね。え、えへへ」

 スフィールリアが駆け寄るよりも前には教師は立ち上がっていた。ぽんぽんと叩いているのはたしかに教師の正装(ボロだが)だった。

「す、すんません……」

「ああ、い、いいのいいの、うん。さすがは特監生(とっかんせい)だね。それくらい気をつけるのが正解だよ」

 イガラッセという教師は、なんというか……非常に地味な男であった。

 やや中年太りした体躯は猫背気味で、高くない彼の身長をさらに小さく丸っこく見せている。中途半端に禿()げかけた頭髪、常に気弱そうに下げられた眉に、人懐っこそうな微笑……。

 なんとも言えない哀愁(あいしゅう)(ただよ)っている気がする。

 しかしこの男は今〝特監生〟と言った。その存在を知っているということは教師に違いないのだろう。

「そりゃどうも……。ええっと。それでその先生が、なんのご用件だったんです?」

 首を傾げたスフィールリアにイガラッセ教師は大仰に手を振って、

「ああっ、そんな大げさなことじゃないの! い、いやね、ほら。この工房に新しい特監生が入ったって聞いたから、どんな子なのかなと、お、思ってさ。きたの。えへへ」

 そうなんですか? と聞くと「そ、そうそう。そうなの。ね、フォルシイラ?」と金猫に話を向ける。

「まあな……そういえばそろそろくる頃合だったな」

「そうそう、そうだよね。……ね?」

「はぁ。なるほどです」

 やや(あき)れた風に息をつく以外、フォルシイラにも態度の変化はない。危険の匂いは()ぎ取れなかった。

 しゃべり方や態度が妙に(せわ)しいのは、別にやましいことがあるのではなく、これがこの男の〝()〟であるらしかった。

「あ……お、お取り込み中、だった?」

「ああ、忘れてました。今、最初の監察っていうのやってて」

「へえ。な、なに作ってるの?」

 水晶水です。

 と答えてやるとイガラッセ、なぜか「おお!」と嬉しそうに目を輝かせた。

「見ていってもい、いい? だ、ダメ?」

 それにはどういう意図があるのだろうとフォルシイラを見る。金猫はもう一度ため息をつき、

「ああ、問題ない。特に害のあるヤツじゃない」

「そ、そうそう。えへ」

「はぁ。それじゃあどうぞ。まだお茶もお菓子もないですけど」

 いいの、いいの。と言いながら嬉しそうについてくる教師を(ともな)って、スフィールリアは再び工房の扉をくぐっていた。

「おっ……〝練成維持〟ですか。さ、さすがだね」

「って言っても、もう終わっちゃうところですよ? ――はい、できあがりっ」

 晶結瞳(しょうけつとう)がひときわ大きく輝き……次にはパイプから水晶水専用の小瓶へ、うっすら蒼い輝きを宿した不思議な液体が満たされていった。

「はい、フォルシイラ。どうぞ」

「いや。見るまでもない。普通に合格。ランクS。上級術師に渡しても驚くか喜ぶ品質だ」

「やったねっ!」

 スフィールリアは、その場でぴょんと跳ねて喜んだ。

「うん、うん……これは……すごくいいものだね。最近入った特監(とっかん)の子が作ったものの中でもこれは一番い、いいものだよ、うん、うん……!」

「ずいぶん贅沢に素材を使ったからな。逆を言うと、これほどの品質は普段は必要ない。赤字になるしもったいない」

「なるほどー、そっか……」

「うん、うん、そうだね、うん……!」

 しきりとうなずきつつ、しかしイガラッセは小瓶をためす(すが)めつ眺め回す手を止めない。その子供のような目の輝きには惜しみのない賞賛と(かたむ)けるべきものを知っている情熱が宿っているように思えて、この時だけはスフィールリアも、いい目をする人だなと素直に感心した。

「えと……気に入ったなら、差し上げますけど、それ」

 あんまり熱心に見つめてくれるのでむず(がゆ)くなって提案すると、意外なことにイガラッセ教師は「あっ、いいのいいの、ごめんねっ」と、やたらあっさり小瓶を机に置いてしまった。

「それで、そのぅ……アーテルロウン君? でい、いいよね? それでね、そのぅ」

「?」

「仕事の依頼だ。水晶水作って欲しいそうなんだぞ」

 と、唐突(とうとつ)に言ったのは、フォルシイラだった。

「……」

 一拍(いっぱく)の間を置き、

「……さ、先に言わないでよぉ、フォルシイラ。えへへ……」

「いつものことだろうが……」

「え? 水晶水ですか?」

「そ、そうなの、えへへ……」

 仕事の依頼――

 教師から――

 タイミングとか内容とかいろいろと突拍子もないことだったので、スフィールリアは首を(かしげ)る。

「なにに使うんですか?」

「け、研究とかね。教職もしながらだとな、なかなか自分の分を充分に用意する時間が、と、取れなくてね、えへへ……。報酬はけ、けっこういいよ、わたし? えへへ」

「それで、あたしみたいに〝作れる〟生徒に依頼してるってことですか?」

 イガラッセは気弱くうなづく。

「でもあたし生徒なんですけど、いいんですか、そういうのって?」

「いや、本当はダメだぞ。ダメってことになってる。どこがダメかっていうと、生徒と職員間の個人的な金銭の受け渡しがダメだ。校則にも書いてある」

「そうなんだ……じゃあ、」

「あーーっいや、で、でもね! それは表向きの話であって、そ、そんなに(めずら)しい話じゃないんだよ。自分から言ったりしなければだ、大丈夫なの。うん、うん。当然わたしも言わない」

「……そなの?」

「まあ、な」

 フォルシイラが疲れたようにうなずくと、イガラッセはパッと表情を輝かせて言い(つの)ってきた。

「け、けっこうね、ほんとにね、ほかの先生方もやってらっしゃることなんだよ。だから先生同士の間でもあ、暗黙の了解ってことになってるし。それに普通は弟子にした生徒さんに〝手伝わせる〟っていう形を取る人がほとんどだから。たとえ〝裏〟でも報酬を渡すわたしの方が生徒にとっても、う、嬉しいんじゃないかな~。えへへ」

「なるほど……それで? どれくらい必要になるんですか?」

 イガラッセが立てたのは、両手の指全部だった。

「十本ですかっ? それだと瓶がちょっと、買い出しにいかないと……じゃあひとまず今作ったこの一本を」

「あ、いや、ち、違うんだ、えへへ」

「? ? ?」

 微妙に()れつつまた首を傾げると〝耳貸して〟なジェスチャーを送ってくるので顔を近づける。

「十本じゃなくてね……」

「――荷車十台ぃっっ!? なんに使うんですかぁーそんなのぉ!?」

「わ、わ、わっ」

 さすがのスフィールリアも度肝(どぎも)を抜かれて叫ぶと、イガラッセは慌てて(あたり)り(特に窓)を見回した。

「ふぅ。と、というわけだからさ。今一本持ち帰ってもこ、こちらとしては大した意味はないんだよね。だから、納品はできるだけ()()()が嬉しいかなって、えへへ」

「……」

 スフィールリアは答えられず、腕を組んで(うな)っていた。いろいろと偉そうな人や裏がありそうな人との大型な取引も多かった師を手伝っている時にだって、こんなに大量の水晶水を要求されたことはなかったのだ。

 なにに使うのだろうか?

「あ……だ、ダメ? む、無理強(むりじ)いはもちろんしないから」

「……いえ。ちょっと。待っててください」

「?」

 と言ってスフィールリアは机の上に残っていたいくつかの素材の小瓶を手に取り、次に流し台に向かった。

 一転なにかをすぱっと決断したような歯切れのよさに今度はイガラッセとフォルシイラが小首を傾げていた。

 なにを始めるのかと思えば、スフィールリア……流しの蛇口にホースを繋ぎ、練成釜へと大量の水を注ぎ始めた。水が溜まる間に小脇にしていた瓶類から、無造作に素材を落とし入れてゆく。

 え……。と、イガラッセがびっくりした声を出した。

「ひょっとしてい、今作るの? 今じゃなくてもいいんだけど……ご、午後の講義もあるし」

「はい。蒸留水はないですけど。すぐだから。ちょっと見ててください」

「……?」

 最後に釜に専用の密閉蓋をかけ、ハンドルで空気を抜き、パッキン部分にパイプを()して晶結瞳(しょうけつとう)に連結。

 スフィールリアが両腕を(かざ)し、晶結瞳が強い輝きを放った!

『――!』

 イガラッセとフォルシイラが閉じていた目を開けると……

「……ふう」

 今度こそふたりは驚くことになった。

「こ、これは!」

 ふたりが見ているのは、彼女の前にある晶結瞳。

 そこから、アメ玉のような小さな球体が、次々とこぼれ出してきていたのだ。スフィールリアは脱いだ上着を袋にして、それらをいくつも取りこぼしながらあたふたと受け止めている。

 玉はビー玉くらいのサイズで、それぞれ青、赤、緑色の、()き通った輝きを(とも)している。

 青、赤、緑色……それは、つまり――。

「こ、これって――水晶水か、かな、アーテルロウン君?」

「あっはいそうです。小さいですけど、これひとつで小瓶一本分くらいなんです。あわわ……久しぶりでちょっと加減間違えた……!」

 イガラッセとフォルシイラが、それぞれ手元に寄せたそれを、不思議そうに(なが)めた。

「ふ、ふむ? これは、面白いね。面白いなぁ。表面部分に『〝硬質〟を振舞(ふるま)わせる』ことで、小瓶を使わず純粋に水晶水のみで保管ができるわ、わけだね。うん、うん」

「圧縮もしてあるのか……たしかに面白いな。これもアイツが?」

「うん。水晶水は物質としても振舞うから水みたいに見えるけど、本当は純粋な情報世界のソースだから。表面だけ固めてあげちゃえば、瓶も必要ないでしょ? お金かかるし――あ、床に落ちたものは捨てちゃうんで放っておいてくださいね。一度汚しちゃうと、ひと粒ずつ洗わなくちゃで面倒でしょ?」

「そういう欠点もあるわけか」

「うん。品質を維持するならやっぱり瓶使うのが一番って師匠も言ってた。調整はデリケートだし、表面の変成の分手間も二重だし。これは非常時用」

 スフィールリアは抱えた袋いっぱいの水晶水を教師に差し出して、こともなげに首を傾げてみせた。

「これなら持ち運びの手間と、保管のスペースも少ないと思うんですけど……どうですか?」

 一時、きょとんとした顔をしていたイガラッセ教師だったが、

「うん、うん……!」

 すぐに満面の笑顔になって、何度もうなづいてきた。

「ぜ、ぜひ、これで頼むよ!」

 本当に嬉しそうな笑顔だった。

「了解ですっ。それじゃこれで作りますけど、どこにお届けすればいいんですかね?」

「えっ、あいやそれは悪いから、時期を見てわたしから引き取りにうかがうよ……報酬もその時に。できばえ見て、良いものだったら色もつけるからね、え、えへへ」

「はあ、そりゃ助かりますけど留守にしてる時もあるだろうし……一応、あたしからも連絡できる場所とかって、ないですか?」

「それなら、そ、そうだね。……第三研究棟っていう建物に『イガラッセ室』っていう部屋があって、一応そこ、わたしの研究室になってるの。講義のない時なんかはた、たいていそこにいるから、受け取れるかな」

「分かりました。じゃあ、届けられそうな時はお届けにうかがいますね」

「そ、そう? た、助かるよ。えへへ」

 そういうことになり、講義に向かうイガラッセを見送って玄関を開けると、

「わわっ」

 開けた瞬間、ドアのすぐ外に立っていたのは、タウセン教師だった。

 驚いた声を上げたのはイガラッセ教師だ。

「……イガラッセ先生。またですか」

 タウセンもノックをしようとした姿勢で面食らった顔をしていたが、すぐに呆れた表情に変わっていた。

「え、えへへ」

「もはや毎度のこととは言え、せめてわたしにひと声かけていただけると助かるのですが?」

「え。えへへ。い、いいじゃないタウセンちゃん。わたしとタウセンちゃんの仲じゃない」

「はぁ~。もう毎度のことなんで細かいことは言いませんけれどもね……トラブルだけは勘弁してください。頼みますよ」

 うん、うん……! とひとしきりにうなづいてから、イガラッセ教師は小走りに立ち去っていった。

「まったく……あの人は」

 メガネのフレームを持ち上げ、タウセン教師は目尻を揉みほぐした。

「……タウセン先生。なんかマズいところでもある先生なんですか、あの人?」

「いや? これといってトラブルの経歴や、悪評のある人ではない」

「じゃあなにがダメなんですか? なにも悪いことしてないのにそんな態度取ることないじゃないですか」

 と言うと、タウセン教師。また疲れたように目尻を揉んだ。

「水晶水の作成を依頼されたんだろう?」

「はあ、ええまあ」

「言っておくが、それは校則違反ギリギリのグレーゾーンな行為だからな」

「うぐっ」

「……とはいえ、あくまでもグレーだ。教師と生徒間と言えども、正式な校内クエストとして依頼をする分には物品と金銭の取引も問題のない行為だ。両者の違いは、学院に正式なクエスト登録申請をしているかしていないかということにすぎない」

「じゃあなにが」

 言い募ると、タウセンはため息をひとつだけ。次には至極真面目な表情になって彼女の目を見返してきた。

「わたしから言えることは、ただひとつだ。どのように仕事をこなそうが自由だが、イガラッセ先生には気をつけなさい」

「? どゆことですか? 悪い人じゃないんですよね? っていうか仕事はしていいんですか?」

 矢継ぎ早とも言える質問にも、タウセンは冷静にひとつだけうなづいた。

「仕事は生徒の自由……というか、推奨項目のひとつだ。自分で積極的に仕事をしてゆかないと、この学院ではやっていけないぞ」

「そうなんだ……」

「そうそう。これから言おうと思ってたんだけどさ、学院の総合クエスト掲示板っていうのがあって、そこで学院内・学院外から集まった仕事がわんさと掲示されてるんだ。中には、もう卒業とかそっちのけで仕事だけして暮らしてるヤツもいるって話だ」

 と口を挟んだのは、スフィールリアの脇に行儀よくお座りしていたフォルシイラだった。

 昨日までとの態度の違いにきょとんとした顔して、タウセンはふたりをよく観察する。

「そうなんだ……それで? イガラッセ先生に気をつけろっていうのは?」

「……ああ。先ほども言ったが、彼の素行や人間関係に問題のあるところはまったく見受けられない。そこだけは勘違いしないように」

「じゃ、なんで」

 もう一度、繰り返す。

「いいかね、スフィールリア君」

「は、はい」

 名前を呼んでまで前置きをしてくるタウセン教師。その表情と声音があまりにも真面目だったため、スフィールリアもやや緊張して居住まいを正した。

 本当に真面目な――真摯な眼差しだった。

「こればかりは、わたしや周囲の印象を率直に伝えてもしかたのないことだ。これからの学院生活の中で、君が、君自身で嗅ぎ取り、学んでゆくしかないことだ。なにも〝彼〟に限った話ではない。だからわたしからは、このことだけを教えておこうと思う」

「は、はい……」

 そしてタウセンが告げてきたのは、短く、ひと言。こんなことだった。

「わたしは君がこの小屋へ割り当てられたことを、彼に教えてはいない」

 一拍の、間。

「……え?」

 と呆けた声を出したのは、意味がよく分からないためだった。

 こちらの無理解はあらかじめ想定していたのか、タウセン教師。メガネの位置を指で直しつつ、よどみなく続けてきた。

「君たち特監生の人数や、割り当てられたそれぞれの寮の場所……これは、原則として教師に対しても秘匿情報となっている。もしもこれらの情報を制限なくだれに対してもつまびらかにしておけば、君たちのような特監生は、その立場の特殊性と性質上、さまざまな悪事や陰謀に巻き込まれかねないからだ。これは君たちの身の安全と有意義な学院生活を、保護するための意味合いも含まれている」

 聞いてから、「え?」ともう一度、疑問の声。

「じゃあ、なんでイガラッセ先生はここにきたんですか?」

 タウセンはため息をついた。

「だから、それが分からないから気をつけなさいと言っているんだ。――いいかい、スフィールリア君。先ほども言ったが、これは彼個人の人格や素行に注意を払えという意味ではないのだ。この学院は『普通の学校』とは違う。王室とも直接の繋がりを持ち、時には協力し、時には渡り合うようなことまでしている〝組織〟なのだ。王室とは、つまり、〝国家〟だ。そんなものと渡り合うような組織なんだ」

「は、はぁ……」

「……当然、そんなところに所属するあらゆる人間も、ただ者だとは思わない方がいい。ひとくせもふたくせもある人間ばかりだ。たとえ〝表〟の顔がどれだけ品行方正だったとしても、〝裏〟ではどんなことをしていたとしたって不思議じゃない。教師も、生徒でもだ」

「……」

「だから、〝だれ〟が〝どのような〟類の危険を持っているのか。〝だれ〟の〝どこ〟までが自分が安全を確保できる領域なのか。それは、君自身でしか獲得してゆけない情報なのだ。……だから、気をつけなさい」

「……わ、分かりました」

 うん。とうなづき、タウセン。

「……まあ、イガラッセ先生に関しては今までの特監生やその他の生徒との取引でも、これといった問題は起こしていない。先ほどの通り君がどの仕事をこなしてゆくかは自由だ……あの膨大な量の水晶水をなにに使っているのか。〝そこ〟にさえ踏み込まなければ大丈夫だろう」

「は、はい」

 タウセンの声音は、少しだけどこちらを気遣う風でもあった。なんだかんだで心配はしてくれているのかもしれない。

「それで、タウセン先生。今日はなんの用事だったんです」

「ああ、そうだった。また、上手くやれているかどうかを見にきたんだが……」

 もう一度、スフィールリアとフォルシイラのふたりを、じっくりと見比べる。

「ふーんだ。なんですか先生今さら? そんな心配してくれなくったって、ちゃんと上手くやってますよ。ね、フォルシイラっ」

 抱きつかれたフォルシイラがビクっと震えた。

「お、おう。この通りだぞ」

「……」

 タウセンは無言で、まだ見つめてきている。

「な、なんだ?」

 そして、ため息。

「……妖精を恐怖で支配したところで、いいことなんかひとつもないぞ」

「ぬがっ……!」

 先日は見てみぬ振りをしようとして今日のこの言いざまである。スフィールリアもカチンときた。

「だって、仕方ないじゃないですか……ちょっと強引でも、あたしにとってのデッドラインってもんを伝えておかなきゃどんどんエスカレートしてたし」

 むくれて言うスフィールリアに、タウセンはしかし、明確な返答を寄越すわけではなかった。

「……それはいい。だが、本当に君と彼の関係がこのままなら、君は嫌でもこれから思い知ることになるだろう」

「……」

 スフィールリアは、むくれっ面のまま、なにも言わない。

 ――と言いつつも、タウセンにも実は分かっていた。彼女が彼の言葉の通り、フォルシイラを恐怖で支配するつもりでなにごとかをしたわけではないのだということは。

 だからこそここぞとばかりに食ってかかってくるのだろうと思っていたのだが……彼女は、なにも言ってこない。

 タウセンは覚えた違和感に「ここだな」というある種の確信を得ていた。

(昨日も思ったが、この子は妙なところで、突然、大人しくなるな。我慢強いのか、なんなのか)

 かといってあと数日は続くと予想していたフォルシイラとの関係の均衡は、こうしてあっさりと(そしておそらく思い切った手で)破ってしまっている。

 タウセンの本当の心配ごとは、彼女とフォルシイラの関係ではなく、彼女自身の内面についてだった。

 特監生は、その立場に至るまでの過去背景から、表面上からは分からない、様々な問題を抱えていることが多い――

 分からないからには、関係の浅い人間ではいざという時に力になってやれないということなのだ。

 それが〝帰還者〟という自らの出自に端を発しているであろうことは分かるが……。

 まだまだつかみきれていないなと、タウセンは自分自身に言い聞かせた。

「まあ、君なりに上手くやっていけそうだと言うのなら、わたしからもこれ以上言うことはない。なにか問題がありそうなら相談には乗るので言うように。いいね」

「……はぁい」

「そうだ。これも渡すつもりでやってきたんだった。――君の始業予定が決まったぞ。よかったな。学院長がかなりの無理を圧して、君の始業もほかの生徒と同じ日程に間に合うようになった。この書類に君が最初に受ける講義の行なわれる建物と部屋番号その他が書いてあるので目を通しておきなさい」

「えっ、ほんとですか!? やったぁ!」

「しっかりやるんだぞ」

 そう言って、タウセンはその場をあとにした。

「えっへへー、やったねー♪ うれしいなぁ。フィリアルディとも、ひょっとしたら会えるかも。あっ、タウセン先生の授業を受けることもあるのかなぁ」

「お前がアイツの授業を選択すれば受けることになるだろう。最初の講義でもたぶん説明あるけど、ここの授業は最初のころ以外は、基本的に全部選択制になってるからな。決めるのは全部お前だ」

「そっかぁ……ねぇ、フォルシイラ?」

「ん? なんだ?」

 フォルシイラは、なんの気なしとスフィールリアの顔を仰ぎ、

「ごめんね?」

「……」

 その、突然の謝辞に、閉口した。

 一瞬だが――彼女の表情が、なんだか泣き出しそうなようにも見えたからだった。

 その、表情が――

『おい娘、いったいどういうことだこら! 俺に、俺だけに、ここに残れだと……なんの冗談なんだよ!』

『わたしは、大切なものを探しにいかなくちゃいけないから。だからフォルシイラには、ここの子供たちを見守っていてあげてほしいの。……これからこの学院を訪れる、たくさんの、未来たちを』

『嫌だね。そんなもん、知ったことか! なにが〝黄金の可能性〟だ……そんなものあるわけない! 俺がお前以外の人間なんか認めるもんか! 人間なんか嫌いだ! 人間しかいないこんなとこに俺だけ残るなんてのも、ごめんだ! お前なんかも、もう大っ嫌いだ!』

『……ごめんね、フォルシイラ』

 ――あの時見た、表情に――

「っ……」

 ぶるんぶるんと頭を振って、フォルシイラは夢想を振り払った。

「……別に、気にしてるわけじゃない。俺もやりすぎたかもしれない……本当は、あんなに怒るつもりじゃなかった」

「……そっか」

「……うん」

「うんっ」

 最後にうなづく彼女の笑顔は、なぜかとてもうれしそうで――思い出の中にいる『彼女』も、きっとこんな風に許してくれるのではないかと思わせてくれた。

「じゃ、早速お風呂、入ろっか!」

「えっ」

 と情けない声を出すも、今度にスフィールリアが向けてきた笑顔は、本能的に凍りつかざるを得ない類の笑みだった。

「なんでも言うこと聞くって、言ったよね?」

「う、うう」

「さっ、いくよっ。このために二階より先にお風呂場掃除したんだから」

「ううう」

 スフィールリアに後足を持たれ、フォルシイラは。

 前足で立てた爪をカリカリと言わせながら、お風呂場まで引きずられていった。

 

「うーん、脂が厚すぎてほとんど泡が出ないなぁ。一番泡立ちがいいっていうの買ってきたのに」

「う~」

「一回流してもう一回洗おうね。はい、耳畳んでねー……ざっばーーん」

「うう~~」

 

 そして、最初の講義の日が、訪れる――

 

 春の十四日。

 スフィールリアは渡された書類に記された指示に従い、第十講義棟3-9教室の扉をくぐっていた。

(うわぁ……すごい人がたくさん。これ全部同級生で、おんなじ授業受けるのかな?)

 と、せいぜい人口百人にも満たない町から出てきたスフィールリアが驚くのも無理はないことだった。

 教室内は講師の上がる教壇を囲んで扇型の階段構造になっており、ずらっと並んだ木製机には、実に百名近くの生徒が居並んでいたのだ。

 故郷の町と同じだけの人数、年齢もさまざまなの男子女子が講義前の時間にて、友人との談笑や、もしくは新しい友人作りのための話題作りに勤しんでいる。

 それでも、教室内のすべてを満たすには足りていない。

 本当にすごい学校にきたんだなとスフィールリアの胸に実感が灯ってくる。

「スフィールリアっ!」

「?」

 入り口付近でひたすらぽかーんとしていたところに突然名前を呼ばれ、ちょっとびっくりしたスフィールリアは、きょどきょどと左右を見回した。

 声の主は、そのどちらでもなく、正面から現れた。

 上品にウェーブした亜麻色の髪の毛をうれしそうに弾ませ、笑顔で駆け寄ってくる少女は――

「あ……! フィリアルディ!」

「スフィールリア!」

 もう一度名前を呼んで、彼女はすぐ前にたどり着いた。

 それほど長い距離を走ったわけではないだろうが、胸に手を当てて息をついて。

「よかった……今日、ひょっとしたらあなたがこないかって、ずっと探してたの。スフィールリア……」

「あ、そうなんだ? えへへ。名前も覚えててくれたんだね。うれしいなぁ」

 実際、知り合いと呼べる同級生がいないに等しかったスフィールリアなのでこうして真っ先に話しかけてくれる人物がいたのは本当にうれしかった。

「あっ……ご、ごめんなさい。まだほとんどお話もしてないのにファーストネームだなんてわたしってば。その、アーテルロウン……さん」

 しかしフィリアルディの方は彼女の言葉で真っ先にそのことを思いついたらしく、申し訳なさそうに目を伏せた。スフィールリアはからからと笑って、彼女の肩を叩いた。

「いいーっていいーってそんなのー。あたしの名前なんてそんな大したモンじゃないんだし! それに、名前で呼んでくれた方がうれしいよ。あたしもあなたのこと、フィリアルディって呼びたいもん。だめ?」

「……ううん。わたしも、そっちの方が(うれ)しい」

「ほんとっ? あーよかったぁ。なんだかいろいろあったから、友達ってまだひとりもいなくてさびしかったんだぁ」

「わたしも……同じ地方からきた人がひとりもいなかったからひとりだったの。スフィールリアみたいな人と知り合えて、よかった」

「えへへ」

「ふふっ」

 照れ隠しに笑うと、そんな風に()み返してくれる。それはまるで、春の野花のような笑顔だった。

「あたし、どこ座ればいいんだろ? フィリアルディのそばだったらいいなぁ」

「それなら、席はどこに座っても自由だよ。わたしの左がまだ()いてたから、あそこに――」

 と、自分の座っていた席を示そうと指を向けかけて……気がついた。

 いつの間にか、教室内が静まり返っていたことに。

 そして、そのほとんどの生徒たちが自分たちを注視していることに。

「え? ……えっ?」

 ひたすらおどおどしていると、ほど近くの生徒が教室後ろの扉に指を向けて、静寂の原因を知らせてくれた。

 その扉から半身(はんみ)(のぞ)かせて、何度も手招(てまね)きしながら呼びかけてきていた人物は……

「あ、学院長先生。どしたんですか?」

「スフィールリア。スフィールリア・アーテルロウンっ。おいでなさいっ」

 なんとフォマウセン学院長その人であった。

 そんな大人物に、名指しで呼ばれていたのだ。注目されない方がどうかしていた。

「ああ、はい、はい。すんません今いきます」

 が、今いちよく分かっていないスフィールリアは昨日の今日会ったノリのまま気楽にとてとてと駆け寄っていった。

 扉を出ると、見たことのある紙箱を抱えた学院長。そして、タウセン教師も付き()いで控えていた。

「ああ、間に合ってよかった。あなたに渡さなくてはならないものがあってね。つい先ほどできあがったから届けにきたのよ」

「え~。またですかぁ?」

 そ、また。と抱えていた紙箱を開けると――出てきたのは、またしても先日と同じ黒板(たしか、導宝玉板(どうほうぎょくばん)といったか)だった。

「またこれですか?」

「そう。といっても、今度は特注品なのよ。手を触れてごらんなさい?」

 スフィールリアは最初は若干(じゃっかん)嫌な顔をしたが、言われた通りに触れてみる。

 すると……

「あれ? 〝青〟だ……」

 その通り、本来の彼女の色であるはずの〝金〟は現れず、基礎色である〝青〟が現れたのだった。

「ああ、よかった。成功のようね。これであなたも、自分の〝色〟がバレないようビクビクしなくて済むでしょう?」

「あ、ありがとうございます」

「で、あなたに渡すのは計測用のではなく、正式な備品としてのこちらの方。これからの六年間ずっと使うことになるから、大切に扱うように。――で、学院生活の本格始動の前に、大切なお話があります」

 渡されたのは、先日もセットで目にした、スゴロクのようになっている方の導宝玉板(どうほうぎょくばん)だった。

「大切なお話?」

 そう。と、真面目な面持(おもも)ちでうなづく学院長。

「スフィールリア。あなたが〝帰還者(きかんしゃ)〟であること……〝金〟の素質を持っていること。これらのことは、『本当に信頼できる友人』以外には決して()かさないように。そして、だれかに打ち明けた時は、かならず私たちに相談するように。かならず、約束なさい」

「……」

「すでにミスター・タウセンからも、本学院が普通の学校とは違うということの片鱗(へんりん)は聞かされているはず――あなたが持っているこの事実というのは、この場所においては、あなたが今まで恐れていたことよりも、もっともっと多くの困難をあなたにもたらしかねないの」

 スフィールリアが、今まで恐れていたこと――そのために負うことになった傷の数々。

 それはだれよりも彼女自身が分かっていることだった。

 だからスフィールリアは、一切の反駁(はんばく)もなく、無言でうなづいていた。

「……だから、この人となら、どんな困難も乗り越えられる――そう思えるお友達に出会えるまでは、あなたのことは一切の秘密。なにかあればわたしかミスター・タウセンが相談に乗るわ。あなたの顔は覚えさせておくので、いつでも学院長室にくるように。……昨日今日出会ったばかりで姉弟子だとか家族だとか気取るつもりはないけれど、よろしいこと? これでもわたしは、ヴィグルマインよりは親身になってやれるつもりですからね?」

「あははっ、そりゃきっとそうですよね。……はい、ありがとうございます」

 よろしい。とうなづき、学院長。スフィールリアの肩をくるりと回して、教室へ向け、

「それじゃ、頑張りなさいなっ。これがまだなにものでもないあなたの第一歩っ!」

「はいっ」

 ポンとひと押しして、教室へ戻ってゆく彼女の背を見送ったのだった。

 

「さぁ、これですべてのお膳立(ぜんだ)ては(ととの)ったわけで……あの子たちがこれからどんな成長を見せてくれるのか、楽しみではありませんか、ミスター・タウセン?」

「楽しみではありません。これからどんな面倒ごとを起こしてくれるのかを想像するだけで頭痛がしますね」

「あら、まあ」

「……だいいち、よろしかったのですか? スフィールリア・アーテルロウンをあの教室に割り当ててしまって。あの教室には……」

「それもまた、一興ではないかしら? 〝似たもの同士〟、どんな化合を見せてくれるのか楽しみです」

「やはりですか……知りませんよ、わたしは……」

 そう言いつつタウセンは、置き去りにしてきた心配事を振り返るように、ため息とともにつぶやきをもらしていた。

「〝金〟と〝黒〟の少女たち、か……」

 

 スフィールリアが教室に戻ると、先ほどの静寂とはまた違った意味で熱のこもった注目が、彼女に向けられることとなった。

 ざわ……

 ざわ、ざわ……

 ――あの子、だれ? 学院長が直々(じきじき)に教室に出向いて、話しかけられるなんて。

 ――なんか、すっげぇ親しげだったよな……信じらんね。

 ――あたしあの子知ってるかも。入学式の日に綴導術(ていどうじゅつ)使って不良を追っ払ったって……教師クラスの……

 ――この教室ヤバいんじゃないのか? フィルディーマイリーズ家の秘蔵(ひぞ)っ子もいるんだぞ……

 といった具合である。

 さきほどよりもずっと騒がしいのに、そのどれを取ってもスフィールリアを向いているのだ。

 はっきり言って、重い。

「う、うう……なんなのよぅ」

「あ、あのね、スフィールリア。学院長って、わたしたちからすると雲の上の人で――」

「それは学院長ともあろうお方が、直々に教室に出向いてまでお声をかける新入生なんてものが通常あり得ないからですことよ。もう少し、ご自分のお立場を自覚なすった方がよろしいのではなくて?」

 ざわ……!

 ――いったぁーー~、さっそくフィルディーマイリーズ家の秘蔵っ子……!

「?」

 フィリアルディの背後から聞こえてきた声に、疑問符とともに(のぞ)き込む。

「あっ、こないだのお人形みたいなコ!」

「あなたには言われたくありませんわね」

 スフィールリアの突然の不躾な言葉に仏頂面を返したのは、アリーゼルだった。

「どうやら、退学の危機は無事に乗り越えたようですわね。ご入学おめでとうございます、と言わせていただきますわ」

次に彼女が見せた笑顔は試すようなものだったが、当のスフィールリアは暢気(のんき)なものだった。

「ああ、うん。なんとかね、えへへ……。え~っと――」

「アリーゼル・フォア・フィルディーマイリーズ、ですわ。よろしければ以後お見知りおきくださいませ」

「おおっ。お嬢様っぽい! あと、こないだはありがとねっ」

「? なにがですの?」

「だって、あなたもフィリアルディのこと助けようとしてくれてたでしょ? あの時は気がつかなかったけど、あとになって気がついたの。だから」

 まったく分からないというように首を(かし)げていたアリーゼルだったが、スフィールリアの言葉を聞くと、頬を少しばかり染めながらそっぽを向いた。

「……ですから別に、わたくしは王都七柱の一家であるフィルディーマイリーズ家の一員としてなすべきだと思うことをしようとしただけですわ。わたくしが直接なにかしたわけではありませんし。まったく……そろいもそろってお人よしさんですのね」

「あっ照れてんの? かぁーいいねっ。好きな食べ物なに? 貴族様なんだ? アリーゼルって呼んでもいい? でもなんであたしが退学になりかけたの知ってるの? あ、何歳?」

「そんなにいっぺんに言われても分かりませんわよっ!」

 がしかし、ぱっと回り込んで(たた)みかけてくるスフィールリアの勢いに照れ隠しすらままならないのだった。

 顔を真っ赤にして突っぱねるアリーゼルの様子は普段の貴族然とした物腰が引っぱがされて、歳相応のものになっていた。

 そんなふたりのやり取りを見て、フィリアルディは、くすりと笑う。

 大声を出してから周囲の注目に気がついたアリーゼル。後ろ手に髪を整え、呼吸も落ち着け、吸った息の次にはすらすらと答え始めた。

「おっしゃる通り、一応、当家はディングレイズ王家より貴族の位を(さず)かっておりますわ。好きな食べ物? ……なんの意味があるのか存じませんが、常食ならまあ、お肉料理など好きですわね、特に煮込み料理など。嗜好品という意味でしたら城下西区<パルッツェンド>一号店のケーキ、特にチーズケーキなどが絶品ですわね。アリーゼルと呼称してよいかどうかについて、構いませんわ、ご自由にどうぞ。あなたの事情を知る理由については、まあ、事情を聴取される際に先生方からうかがったということで。十四歳ですわ」

「おお~~」

 スフィールリアは、ぱちぱちと拍手を送った。

「でも、パンツの色が抜けてるよ?」

「聞かれていませんわよっ! セクハラですの!?」

「えへ。引っかからなかったか~」

「どんな目的でなんの意味があって引っかけるおつもりなんですの……! ていうか引っかかっても答えませんわよ!」

「青かな? 色のコーデ的に」

「違いますっ。推・理・を・始・め・な・い・で・く・だ・さ・い・ま・し……!」

 ――お嬢様の今日のパンティの色は青以外。メモメモ……。

 ――は~、夢が広がるなぁ~。

 ざわざわ……。

「~~~っ」

 早くもファンを獲得しつつあるらしいことがうかがえるざわめきに、アリーゼルは顔を真っ赤にして両腕をぷるぷると震えさせた。

「かわいいなぁ……」

 そんな彼女を見てスフィールリアも、性別が逆だったら一転して危険なつぶやきを漏らしながら、ほんわか表情を和ませている。

 アリーゼルは観念したようにぐったりとして、ため息をついた。

「はぁ……なんだかもう、いろいろどーでもよくなってきました」

「ごめん」

 一度ジロリと見やってから、アリーゼル。気を取り直したらしく、()ました表情に戻り、言ってきた。

「まあともかく。無事に始業までこぎつけたと言っても気をお抜きにならないことですわね、これからが本当の試練なのですわよ――退学の危機も乗り越えたというのなら、ここが対等なスタート地点でもあるわけですし」

「えーっと……うん?」

 よく分からないような顔を返すスフィールリアに、アリーゼルはくすりと涼しく、余裕のある微笑みを送った。

「退屈させないでくださればよろしいのです、ということですわ」

「退屈なの? 遊ぶ?」

「それを伝えたかったんですの。ではわたくしはこれにて。おふたりも先生がいらっしゃる前に自分の席を確保した方がよろしいですわよ」

 まったく取り合わず、まさに伝えることを伝えるだけ伝えたといった風に、アリーゼルは一方的に打ち切って自分の席へと戻っていった。

「なんだったんだろ? ……はっ! ひょっとして貴族様だからあたしの態度が失礼だったとか。どど、どうしよっかフィリアルディっ。あたし明日には湖に浮かんでるかも。(たる)とかに詰められてっ」

 それはどうだろうかとあいまいに笑いつつフィリアルディは、人間を湖や海に浮かべる(というか沈める)のは違う(たぐい)の人種であるということは指摘しないでおいた。

 ついでに、アリーゼルがスフィールリア退学の危機に、なんらかの救援の一手を差し挟んだのだということも。

 寮に入り、フィリアルディもアリーゼルに関するいくつかの情報を手に入れていた。

 彼女はきっと、ライバルが欲しいのだ。

 綴導術師(ていどうじゅつし)の名家に生まれ。幼いころから英才教育を受け。家の名に恥じぬ非凡な才を開花させて、この<アカデミー>に飛び越しで進学してきた。

 そんな彼女につきまとう憶測や噂は、たとえ貴族の身分を使うことなく一般生徒として入学したとしても、尽きることはないのだろう。

 だから、願った。

 焦燥に駆られた敵愾心(てきがいしん)も、嫉妬にまみれた噂話も、全部全部を正面から受け止めてなお爽快に吹き飛ばしてしまえるような――そんな競争ができる好敵手の存在を。

(きっとなれるよ。スフィールリアなら)

 密かに高鳴る胸へそっと手をそえ、フィリアルディは微笑む。

 この子と一緒にいると、なんだかわけもなく元気が()いてくるような気がする。

 この子ならきっと学院のだれもが思わなかったようなすごいことや、面白いことだって見せてくれそうな気がする。そのことを十何年も前から知っていたような――そんな気にさせてくれる。

 だからフィリアルディはスフィールリアを応援してゆこうと決めた。

 自分の目的だって忘れてはいない。自分をここまで送り出してくれた両親や兄妹に報いるためにも、知識と技術を身につけ、立派な綴導術師になって村へ帰るのだ。

 そのためにも有望株なスフィールリアの(そば)にいることは、きっと、とてもすばらしい刺激になるに違いない。

(それにスフィールリアって思い込んだり頑張りすぎちゃうところがあるみたいだし、わたしがブレーキになってあげなくちゃいけないよね)

「? どしたのフィリアルディにやにやしちゃって? ……はっ。まさかフィリアルディ……アリーゼルとふたりで共謀して……あたしを……!?」

「ぷっ。違うよ」

「ほんとう? 嘘ついてる人間は嘘でも本当って言うって師匠が言ってたから本当って言っても分かるよ?」

「はいはい。もうすぐ先生きそうだから席に着いちゃおうね。こっちだよ」

 やんわりスフィールリアの肩を押して席へ誘導するフィリアルディ。ほどなくして初日の講義を受け持つ教師が現れて、どこか別棟から瀟洒(しょうしゃ)な鐘の音が響き、始業の刻を告げた。

 講師の簡素な自己紹介と挨拶ののちに開かれた初日の講義の内容は、主に歴史になぞらえた綴導術(ていどうじゅつ)の起こりと理念について。これからすごす六年間の学業の大ざっぱな階梯(かいてい)、基本的な講義のシステム。そして学院の基本構造や、その内部で運営される、まず新入生が関わりそうなさまざまなシステムなど……そういった基本事項の説明会という色合いが深かった。

 そんな講義の間も警戒心を解かないスフィールリアは折を見て「あのね、もう見抜いてるよ?」とか「でも三年教室のミランジュとオラムは吹雪の夜にポルテス池に呼び出して氷の穴に落として上から塩水かけてあたしを封印しようとしたよ? 寒いからいかなかったけどね」だとか一生懸命にこちらから言質を取ろうとしてきていた。

 その様子がなんだか、母親と喧嘩をしてむくれているのだけれどなんだかんだで結局親の(そば)を離れられずにいる子供みたいでとてもかわいらしく、フィリアルディはクスクス笑い出したくなるのをこらえるのに全精力を(かたむ)けなければならないのだった。

 

 

「さあ、では早速最初の講義ですが――皆さんにはまず〝綴導術の起こり〟〝理念〟……綴導術というものがなぜ、なんのために在るのか。そのことを理解してもらいたいと思います」

 肝心な講義の内容だが、それ自体はスフィールリアを始めとして、大多数の新入生たちも承知済みな内容が過半を占めていた。

 それもそのはずで、この<アカデミー>を目指してきたということはだれしも少なからずは綴導術についての基礎知識を身につけているからだった。実際に現役の綴導術師に師事していた者も珍しくはない。

 とはいえ個々人それぞれの苦労を乗り越えてようやくやってきた憧れの<アカデミー>、最初の授業である。

 志も新たとすべく、初心に帰りあらゆるものを吸収する構えを作るために、全員が講師の言葉に耳を傾けていた。

「綴導術――世界の根源に働きかけ、その様相、物質の形相を紡ぎ導いてゆくこの秘術が体系化され、世に広められ始めたのは、今からおよそ1200年前。〝偉大なる始祖〟フィースミール様によることだとされています」

 知った名前が出てきて、スフィールリアの表情にも、胸に凍てついた鉄芯が滑り込んだような緊張が灯った。

 1200年という数字にも驚いたが、同時に「ああやっぱり」という納得もあった。

 というのも、スフィールリアは師であるヴィルグマインからしてが人間のケタを外れたとんでもない高齢であることを知っているからだった。

 そして、王都にたどり着くまでの間に気のいい旅人たちから聞いた<アカデミー>の情報も。<アカデミー>が創立されたのは600年以上も前で、ディングレイズ建国よりも古い歴史を持つのだと。

 ――この学院はね、スフィールリア。フィースミール師が立ち上げた学び舎なの。

 ――わたしがそれを引き継いだのはかれこれ百年ほど前のことだけれどもね……。

(……)

 綴導術師とは、世界を構築する根源たる情報へと働きかけることができる人間である。

 そうであるならば、〝ニンゲン〟という生物の在り方――それどころか〝生命〟〝魂〟と呼ぶべきものそのものの情報にも手を加えることができるということなのだ。

 いつか、彼女の師はこう語った。

 巨大な力を持つ綴導術師は、その力を行使するたび、力(術)の構成を精緻にしてゆくたび、その存在を<アーキ・スフィア>へと近づけてゆくのだ、と。

 それは、自身の存在を肉もつ〝生物〟から純粋な〝情報生命〟へと置換してゆくということ。

 自らが〝自覚する<アーキ・スフィア>の一部〟となり。自らの情報を自ら作り出し循環させる。永久機関。<アーキ・スフィア>が〝在る〟限り、自身もまた存在し続ける――

 ――ししょー。ししょーはそれ、さみしくないの? ひとりぼっち。かなしくない? いいこいいこしようか?

 ――ああ、さびしくねーぞ。今はお前がいるかんな。どれ、いいこいいこしてやろうウリウリウリ。

 ――あぅえうあうぅぅっ、あたしじゃないのぉ~~。

 ――ヘッヘッヘ……。

 1200年。人は生き、そして死ぬ。彼女はどうだったのだろうか? 膨れ上がり、また自らも研ぎ澄まされていった結果、不死とも思える存在にまで純化した、暖かくも心優しい綴導術師は。

 1200年。友が親となりその孫もが老いて逝く。王国が変わり、文明が変わり、言葉も変わり、地形もが変わってゆく様を眺めながら……なにを思っていただろうか? なにを目指していたのだろうか?

 その〝道〟の途中で、自分と出会ったのだろうか?

(あなたの起源は〝ここ〟にある……)

 学院長の言葉が嘘などではなかったことを彼女は知る。

 フィースミールが学院の祖であったこと、ではない。

 自分が、〝彼女〟に救い出されてここにいる〝スフィールリアという個〟が、なぜ今在るのか。そのことをずっとずっと疑問に思い追い続けていたことに、である。

 からっぽの自分――

 だれにも知られず、〝なかったこと〟になっていたかもしれない自分――

(あたしは…………)

 わたしは、あなたのことが知りたい。

 歴史すら埋没する時の流れの果て、わたしに出会い、わたしを連れ出してくれたあなたが。

 なにを思い、なにを考えて、なにを願っていたのか。

 あなたの〝道〟にわたしは関係があったのかもしれない。なかったのかもしれない。

 そう、どちらでもいい――あなたがいてくれたからわたしがここに在る。わたしが〝在る〟ことの〝結果〟としての〝わたし〟が、どのようなものになってゆくのか。

 それが、あなたというひとを曇らせるものであってほしくない。

 いつかまた会えたなら。

 その時、わたしが〝わたし〟の中に意味あるたくさんのものを注ぎ込めていたのなら。

 あなたがそんな〝わたし〟を見て、笑ってくれるようなわたしであってほしい。

 そう願うから。

(あたしは、あなたのことが知りたい……)

 夢より淡く朦朧と。恋よりも強く、陶然と。

 広大な教室と多くの旧友のただ中にあり、霞の海をひとり歩くような心地で、スフィールリアは引き続いて講師の紡ぐ声に耳を傾けた。

 それは、神話。

 それは、物語だった。

 

 かつてこの世界には〝魔術師〟と呼ばれる、人知を超えた力を操る人間たちがいた。

 彼らは綴導術師たちと根元は〝同じ〟存在と言えたかもしれない。

 ただ彼らが綴導術師と違ったのは、綴導術師らが蒼導脈に触れて新たなる物質のカタチを紡ぎ導いてゆくのに対して、彼らは物質の在りようを強引に崩して変容させる。また、物質をエネルギーへと換え、破壊や動力へと用いるという点だった。

 物質の形相を崩壊させて得られる莫大なエネルギーは、人類が持てる文明の栄華を極致と称せる段階までへと押し上げたという。

 物質の正しい姿を捻じ曲げてまで作り出された新しい素材は天にまで届く尖塔をいくつも――地平の見渡す果てまで埋め尽くすほど建造することを可能とした。そのひとつひとつの内部には数百万もの人々が暮らし、雨にも嵐にも脅かされない安全で豊かな日々が約束されていた。そのひとつひとつには昼にも負けぬ灯火が常に満たされ、夜の闇と寒さに怯えずにすむ世界が約束されていた。

 天候さえもが人為的に作り出された。春に芽吹く菜も、夏に溢れる果実も、秋に恵みこぼされる種も、冬を生き延びる草であっても、一年なん時だろうと収穫ができた。

 距離が克服され、ほとんどの病が克服され、痛みが克服され、老いさえ克服されようとしていたのだ。

 ――この大地のほとんどに〝ヒト〟は満ち満ちていたのだという。

この大地にすら収まり切れず、天をも貫き渡す塔を創り出してさらに〝その先〟にある大地にまで住処を求めるほどに。そういう〝記憶〟が発見されているのだ。古代人たちの文明についての研究は数多くの優れた綴導術師たちの功績の賜物だった。

 人々は、魔術師たちは、思っただろう。

 冬を下した。夜を下した。

 老いを下した。病を下した。

 距離すらも我らを妨げる壁になぞなりはしない。どこにでもいける。どこにだって存在できる。

 自分たちは〝神〟の座を約束された種族なのだと。

 しかし、それら人造の恵みのすべては、ほかの〝なにか〟を犠牲にした末に得られる代替物でしかなかった。

 

「そして、世界は崩壊しました」

 

 ――〝霧〟

 今ではただそう呼ばれる、その存在によって。

「〝霧〟を知らない人はこの中にはいないでしょう。ですが聞いてもらいます。それこそが、わたしたち綴導術師が背負うべき使命のひとつなのですから。

〝霧〟の発祥について――いったいいつ発生し、どこから広がり始めたのか。これについてはなにも分かっていません。理由のひとつには当時の〝彼ら〟の文明末期の情報が皆無に等しいことが挙げられます。

〝彼ら〟がその存在の可能性を予見し、戦争のための〝兵器〟として人為的に発生させたのか。あるいは〝霧〟の発生により〝彼ら〟の文明もまた疲弊退行し、失った力を取り戻すための略奪戦争として戦争が起こったのか……。研究の界隈では後者であろうというのが主勢を占めますが、実際のところそれを裏づける根拠とできる痕跡は、今日に至っても、なにひとつとして発見されてはいません。

 いずれにせよ、〝彼ら〟は互いに争った。世界を引き裂くほどの争いの中、疲弊し……〝霧〟の中に姿を消したのです。

〝彼ら〟も〝霧〟を退けることはできなかったのです。退ける術を持たないがために問題を置き去りにするしかなかった……最後に、滅んだ。

〝霧〟のよりどころとする原理と法則については、現在最新の綴導術理論を以ってしても未だに分かっていません。〝霧〟の持つ性質が、綴導術とも、この世界のあらゆる法則に対しても、あまりに異質すぎるためです。

 では〝霧〟とはなにか。

 それは、それこそ理論もなににも頼らない表現をするなら――

〝霧〟とは――世界を消すものなのです」

 

〝霧〟は、すべてを〝消し去る〟。

 消すのだ。

 そこに存在する草木や建物、生き物も…だけではない。

 空気も、温度も、重さも、方向も、光さえも。

 果てには、そこにあったはずの思い出や記憶、記録……〝歴史〟と言うべきものまでもが、〝世界〟から消えうせる。〝なかったこと〟になる。

 すぐにすべてがなくなるわけではない。

 まずは人間を始めとした動物が消える。次に草木などの植物。そして岩、建物と消えてゆく。どこからともなく漂い、たゆたい……〝霧〟に包まれた世界はやがて、自らを忘れるように消えてゆくのだ。極寒の地に迷い込んだ旅人に訪れる眠りのように。

 本当に消えて切ってしまったものがどこへゆくのか、どのような形になるのか。それはだれにも分からない。〝消えた〟〝あった〟という認識すら人々から消え去ってしまうと目されているためだ。

 そして、〝霧〟がどのようにして存在を〝消して〟いるのか――これも、分からない。

〝霧〟が世界を消すの一切のプロセスへアクセスができないためである。

 観測しようにも、物質が消失する際の一切の反応が得られない。そもそも〝霧〟そのものを採取して解析を行おうとしても、〝霧〟自体から得られるデータがまったくない。

 その存在を裏づける一切の値が得られない。

〝無〟いのだ。

 ないものを観測することはできない。〝無〟というのは、綴導術師たちにとってすら、それこそ〝存在しない〟ものなのだった。

 

「〝無〟とはなにか。それは哲学、または神的な〝絶対無〟と呼ぶべき純粋概念などではなく、本来わたしたちにとっては物質が〝有る状態〟に対する対義語としての便宜的な定義にすぎません。真空の状態にあってもインフレーションの揺らぎによって、この便宜的な〝無〟は〝有〟へと転じるからです。

 しかし〝霧〟は違う。

〝霧〟は最終的には重力や色、空間――〝時空〟をも消去してしまう。これでは三次元世界に住む我々にとっての〝有〟と〝無〟の、双方もが消えてしまっていることになる。

 ではこの場合の〝消える〟とは、なんなのか? 便宜的な〝無〟ですらない〝霧〟のもたらす〝無〟とはなにか?

 フィースミール師は、結論づけました。

 ――<アーキ・スフィア>の消滅。

<アーキ・スフィア>の情報を強引に捻じ曲げて自らの望む形相・様相を求めた魔術師たちの技は、<アーキ・スフィア>の消滅を招いたのです。

 在るべきでない形に姿を捻じ曲げられた情報たちは、その強引な変性のプロセスにおいてそぎ落とされた情報の〝断片化〟を起こしていたのです。

 本来であれば〝断片化〟された塵のような情報はゆっくりと他系の世界構成情報クラスターへと吸収され、世界構築の一部へと還ってゆくはずだった。しかし惑星を埋め尽くす文明の過渡期に無尽蔵と振るわれた魔術によって発生した断片化現象は、他系への吸収の許容枠を超えて、無意味な塵同士の独立したクラスターの形成へとつながったのだと。

 それらひとつひとつは他の情報素子との結びつきを持たないがために、無意味系クラスタに次に起こったのが、〝意味消失〟でした。<アーキ・スフィア>総体における循環を失った断片たちの、それが末路だったのです。

 そして消失して空洞化した無意味形クラスターは――いいえ、<アーキ・スフィア>そのものに、〝消失〟という概念が生じたのです。

〝霧〟とは<アーキ・スフィア>に空いた〝空隙〟にすぎないのであると。

 それがフィースミール師の出した〝霧〟発生の結論でした。

 この空隙である〝霧〟の上に重なったあらゆる事物・事象は、底なし沼を踏んだ鹿のように飲み込まれて、消えてしまう。

 そう。この世界に住む我々の前には本来現れないはずの〝絶対無〟とも思えるものが、我々の前に現れたのです」

「……」

 講師の声以外、教室内は静まり返っている。

 スライド式の二面黒板にはすでに語る口のままに講師の書きつけた用語や数式の羅列で埋め尽くされ、それらすべてを理解できている者もいれば、半分も理解できていない者もいた。

 しかし、だれもが理解していることはあった。

「この〝霧〟の発生と進行を食い止める。……綴導術とは、そのために存在しているのです」

 多くの生徒が重苦しい表情でうなづく。

 彼らの目には教師の書きつけたひときわ大きな字面が浮かんでいる。

 E・F・M。エンハンス・フォームド・マテリアル。E・F・ロジック。

「〝霧〟の発生を突き止めたフィースミール師が踏み込んだ『もう一歩』がここにあります。綴導術によって<アーキ・スフィア>の面から〝より強い情報〟を持った物質を生成する。従来よりも強く、それでいて正しき物質の編成を紡ぎ出し再び<アーキ・スフィア>内への循環へと還すことにより、〝霧〟に侵食され続ける<アーキ・スフィア>の保全とする。

 それこそが、綴導術の使命」

 それこそが、綴導術の持つ〝もうひとつの顔〟だった。

 彼らの作り出す物品・素材は余人では作り出せない特別な性質が持たされる。だからこそ彼らのもたらすアイテムの数々は世界中の需要を呼ぶ。

 しかし、彼らがそうした特別な生産活動を行うのは『だからこそ』という理由があったのだ。

「かつて世界を崩壊へと導いてしまった先人たちと同じ力を持つわたしたちの、それこそが役割なのです」

 

 

 合間ごとの休み時間を取りながら四回目にして本日最後の講義を終えて講師が退出すると同時、教室内は一斉と賑やかになる。

 ある者はせっかくできた友人とすぐにでも話したいと言わんばかりに思い思いの席を陣取ったり、またある者はさらなる学友を獲得しようと、木の実を探す小動物のように忙しなく教室内を動き回り始める。

 しかし、やはり大半の生徒たちは教室を出てそれぞれの思うところへと向かうようだった。

 人数が人数だ。一斉に雪崩れ込んだために、最初の三分はふたつある出入り口前は渋滞状態になってしまったほどだった。

「ねぇ、スフィールリアはこのあと予定とかある? よかったらわたしと学院内を見て回りませんか?」

 そんな喧騒を眺めつつフィリアルディが丁寧に提案をすると、スフィールリアはまだちょっと警戒心の残る眼差しをして、一拍を置いてからコクコクとうなづいた。

「う、うん、いいよ。湖以外ならね」

 フィリアルディはにこりと笑って促すように席を立った。

「学院内に湖はないよ。それじゃあ、いきましょう」

 廊下へ出ると、まさに人の河が流れているようなありさまだった。

 それもそのはずで、今出てきた教室だけでも百人の人口を抱え込んでいたものを、さらに同規模の授業が複数セットも隣接する室内で行われていたのだ。

 結果として広大な講義棟教室のそこかしこから一斉に生徒が流れ出してくることになる。

 だからこの学院では、始業と終業それぞれのタイミングで、予鈴の鐘が二回ずつ鳴らされる。

 一度目の鐘は生徒が教室に集まるまでに用意されたタイムリミット。一回目から二回目の鐘の間は、教師が生徒の群れにもみくちゃにされずに廊下を移動するための時間、といった按配だ。

「あれ?」

 なんとか講義棟の外に抜け出てから数歩して、スフィールリアは声を出したのだった。

 初日の講義を終えた生徒たちのいくらかはこれから王都へいこうだのどの店にゆこうだのと情報の断片を残しながら散り散りになってゆく。

 反して、なぜか半数ほどは、統制されているかのように一緒の方角向けて歩いてゆくのだ。

 数人ごとの小グループの雑談はある。しかしグループごとの間に会話や示し合わせがあるわけではない。なのに、まるで自分たちがどこへゆくのか、そのことが当たり前の認識であるかのように人の河が流れてゆく。

 思わずスフィールリアらのふたりもこの流れがどこへたどり着くのかも知らないのに釣られて十数メートルを歩き、戸惑った顔を見合わせた。

 なんだか、初めて向かう試験会場だとかお祭り会場を目指す最中のようなあいまいな冒険感があった。ふたりはそのまんまにあいまいな笑みを浮かべた。

「ねえ、フィリアルディ。なんかこれ、ついてった方がいいのかな?」

「えっと……わたしは学院内をいろいろ見ておきたかっただけだから。別に場所とか順番はなんでもいいんだけど」

 と、そんなところに。

「ついてきた方がいいですわよ」

 ちょうどふわりと優雅に金の髪をなびかせたアリーゼルが、いたずらっぽい笑みの横顔で列に倣って追い越してゆくのだった。

「……」

「……」

 沈黙したのはほんの数秒。

 スフィールリアは、キランと目を輝かせた。

 ついでに言うとフィリアルディからは、彼女が口の形を猫のようにして笑うのが見えた。ニマリ、というよりは、ニャンマリ、という感じ。

 その両目は、今やしっかりとアリーゼルをターゲットにしているのだった。

 そして道端でじゃれる相手を見つけた猫のような足取りで駆け寄って(ぎょっとしたアリーゼルもほんの数歩ばかり駆け足したが追いつかれた)、アリーゼルの両肩に前足(手)を乗せた。フィリアルディも小走りで合流する。

「えへへ~」

「なっ、なんですのいきなり」

 スフィールリアはアリーゼルの肩を大味に揉みほぐしながら、にっこりと笑いかけた。

「アリーゼルってさ、なんだか学院のこと詳しそうだよね、あたしたちよりさ。ついていったらいろいろ分かるかなーって」

「だ、だったらくっつかなくてもいいでしょうっ。流れについていけば分かりますわよ!」

「いいじゃんいろいろ教えてよ~。あたしたちまだなんにも分かってないからさ~。よっ、大先輩っ。アネゴと呼ばせてくださいっ。肩でも胸でも揉みますよっ」

「だからやめ……あ、ちょ、ふぁぁ……なにこれ……やっ、――――! どどどこ触ってるんですの!」

「あれ。ノーブラだね。つけないの? つけてもいいと思うけど」

「……! なななどうしてそういうこと普通の声で言うんです! 最悪ですわ!」

 ――ふおおおおん! お嬢様はノーブラぁああん!

 ――夢が張り裂けそう……。

 ――明日も生きてゆけそうだよ。

 ざわざわ……。

「~~~っっ」

 どこかで聞いたような声が聞こえてきた。アリーゼルは顔を真っ赤にして腕をぷるぷるさせた。

「分かった! 分かりましたから! 離してくださいな!!」

「やったぁ!」

 スフィールリアは揉む手を離し、フィリアルディと一緒に彼女の横へ並んだ。

「なんなんですの……!」

「ぷりぷりしてるところもかぁいいなぁ」

 ほんわかと顔をだらけさせるスフィールリアを、アリーゼルは涙目で睨みつけた。

「もう、ダメだよスフィールリア。そういうことしたら……」

「えへへ~。だってさ~」

「ダメだよ。めっ」

 ぴっと差し出されたフィリアルディの指を眺めて、一拍。

「はぁい」

 素直にうなづくスフィールリアに、アリーゼルはため息をついた。

 

「おお、なにこれ……!」

 一行が人の流れの終わりにたどり着くと、そこには恐ろしいまでの人だかりがあった。

 とにかく、人、人、人、としか言いようがない。なにかを見物するように囲ってこうなったのは分かるが、中心になにがあるのかまではもはや絶対に確認不可能だ! と断言してもいいくらいのふざけた人数だった。

 もうだれがなにを言っているのかも分からないような熱気と喧騒の中、アリーゼルが涼しげなわけ知り顔でスフィールリアを見た。分かっていて、からかっているのかもしれない。

「お分かりになりまして?」

 しばらくぴょんぴょんと跳んでいたスフィールリア。

 げんなりと肩を落として彼女を見た。

「分かんないよ~。なに、見世物……? サーカスでもきてるの?」

「違いますわよ……あれですわ。ここからでも見えるでしょう。あの<クエスト掲示板>ですわ」

 アリーゼルの指を追ってよくよく見てみると――たしかにそこにはいろいろな紙を張りつけられた〝掲示板〟と思しきものがそびえ立っていた。

 そびえ立っていたのである。

 掲示板、なんてサイズではない。いっそ城壁と言ったほうがまだしっくりくる巨大にして広大な範囲いっぱいに、びっしりとなにごとかを書きつけた紙が張り出されているのだった。

 あれだけ大きければここからでも目に入らないわけはなかったが、てっきり地面に珍しいものがきているのかと思ったので意識に入らなかった。

「クエスト掲示板?」

 ですわ。と淡白にアリーゼル。

「ここは通称<クエスト広場>――<アカデミー>内外から集まったさまざまな〝お仕事募集情報〟が毎日張り出されてますの」

(あ、フォルシイラが言ってたのってコレかぁ)

 アリーゼルがポーチから取り出した双眼鏡で掲示板を眺め始める。スフィールリアも片手で目元にかかる日差しを調節して目を凝らしてみる。

「気を抜くということをせず自分の目標をしっかり持っている者なら、まあ、こうして早速自分でも取りかかれるお仕事を見つけにきますわよね。寮の仲間なり、先輩方なり、情報収集の手段ならいくらでもありますわ。

 ……こうしたクエストのポータルを知らないまま、入学できたからといって都の空気に浮かれていますとあっという間に置いてけぼりを食ってしまうことになりましてよ。お仕事情報の獲得は生き馬の目を抜く競争です」

 今も掲示板ではハシゴを昇って張り紙の交換を行なう上級生や、主の指示でひたすら掲示物を剥がしに飛び回る小型の使い魔の姿が見えていたりする。

「そ、そっか。わたしたち新入生だと、特にできるお仕事なんて限られてるものね……奪い合い……は言いすぎだけど、早い者勝ちでどんどん手に入れていかないといけないんだ」

「言いすぎなんかではありませんわよ? まさにその通りです。そもそもライバルは新入生だけではないですし。スキルを身につけた上級生とて、基礎クラスのクエストを糧にしてはいけないなどという決まりは……ないですわよね?」

「う、うん。……うん。そうだよね」

「ではフィリアルディさん。これ、お使いになります?」

「え、い、いいの?」

「ええ。わたくしはほかにもツテや心当たりはありますし。

 それに始業数日は学院側からの指示で掲示板付近での上級生のクエスト観覧は自粛されてますの。これが普段でしたらサークルの勧誘や自発行クエストのアピールなど、毎日お祭りのような騒ぎですからね。上級生の方たちは、ほら、後ろのあの、サークル棟などに。

 ――今がチャンスですわよ」

 アリーゼルが言葉の途中で示したサークル棟という建物では、そこかしこの窓から双眼鏡を手に身を乗り出した生徒の姿が見える。木に登っている者までいるからすごい。

 なるほどとフィリアルディは気圧されたように声を出した。

 そして礼を言って持ち手つきの双眼鏡を受け取る。数十メートル幅はある掲示板の右へ左へと装置を泳がせて、目まいを起こしたようなため息をついた。

 スフィールリアも似たような状態だった。

「うへぇ、なになに……。

『急募! <アガルタ山>遠征メンバーあと二~四名。戦士職随行(紹介)者様には別途200アルン。募集者:マテリアルストレイジャー(サークル)』『猫探してください詳しくは窓口で。学内完結。募集者:個人(匿名)』『募集・〝生命の蛇杖〟の情報(特に関連の〝アーティファクト=フラグメ〟について)。確定情報報酬500,000アルン。募集者:サークル(匿名)』……?

 なんかもうどれがどれだか分かんないねぇ~、フィリアルディ~」


 
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