No.695035 真・恋姫†無双 想伝 ~魏†残想~ 其ノ三十一2014-06-19 00:43:25 投稿 / 全8ページ 総閲覧数:10074 閲覧ユーザー数:7104 |
【 覚悟と痛み 】
正直言って、呆気に取られた。
眼が点になった、という表現の仕方があるが、まさにそのような感じだった。
「よーし大漁大漁。天然の池須だな、ここ」
白い服の人はそんなことを言いながら、足元に置いてあった籠に魚を入れる。そして不意に、目が合った。
「……」
「……」
沈黙。
こんなところに人がいるとは思っていなかった、とでも言うような少し驚いた表情で、その人は私を見ていた。しかしすぐにその表情は柔らかな笑顔へと変わる。
「こんにちは」
「あ……こんにちは」
戸惑いつつも挨拶を返す。……いや、おかしい。
「あなたは何者だ」
言って、警戒しながら構えを取る。
端的で単純な問い掛け。だが最も基本的な質問だ。
この場所はちょうど村と砦の中間くらいの場所にある。
稀に村の者が訪れることもあるだろう。無論、砦にいる味方や噂を聞いて集まってきた者も当然。
だが、この人の風貌はそのどちらでも無いように思えた。
上等そうに見える白い服。凛々しさと優しさが同居しているような端整な顔立ち。
少なくともこの辺りの人間でないことは確かだった。
「ん~……釣り人?」
声を発しながら、その人は自分の手に持った竿と足元にある籠を見比べ、そして答えを出した。
正しくは無いのだろうが間違いでも無いだろうその答え。
なんと返そうか、と言葉を探している間に自称釣り人は池の袂に腰掛けた。
そのまま自然な動作で池に向かって竿を振る。
どうすればいいのか判断に困る状況だった。
構えを取ったものの、この人からは敵意を感じない。
敵意を向けていない相手に対し攻撃をするべきか否か。
いや、敵意を向けていないどころかこの人は武器すら持っていないように見える。
「この辺りが穴場だって村の人から聞いてさー。いや、大漁だよ大漁。やっぱりその手のことは現地の人に聞くに限るよな。君もそう思わないか?」
考えている内に、迷っている内に。独り言のような言葉を掛けられた。
「まだ質問に答えてもらっていません」
自分でも分かる固い声。
「……ああ、そうだったな」
その人はどこか、気持ち沈んだ声でそう言った。
「俺は北郷一刀。あの村に駐留してる『黒山賊討伐隊』の隊長、夏候惇の指揮下に入ってる傭兵隊の長で――君の敵だよ」
その人はどこか、強固な意志を感じさせる声でそう言った。
混乱する。
この人――北郷殿は自分の素性を語り、自ら敵だと名乗った。何故?
「……北郷殿。あなたは何故自分の素性を素直に明かしたのですか?」
答えろと言ったのは私だ。そんなことを言われる筋合いは無いだろう。だが北郷殿はそんな私の問いを受け、軽く笑った。
「北郷殿、か。貴様とかお前、とか言われないだけマシだよな」
少しだけ愉しそうに。嬉しそうに。……寂しそうに。
何故この人はこんな顔をするのだろう。妙に胸がざわつく。
そして何故、私はこの人とこんな風に、普通に話せているのか。
この人は私に、自分は敵だと名乗った。そう聞いた時点で私は警戒の構えでは無く、敵対の構えを取るべきなのに。
「素性を明かしただけで襲い掛かってくるほど直情型じゃなく見えたから、かな」
やはり正しいような正しくないような答え。
本心のようで、どこか空々しささえ感じさせる答え。だが、嘘は言っていない気がした。
「それは褒めて頂いているという認識でいいのですか」
「ああ、褒めてるよ。もちろん――っと……む」
北郷殿は言いながら竿を引き上げる。
竿の先に着いていたのは、池底の泥に塗れた葉だった。
少しだけ悔しそうな表情で北郷殿は再び竿を池に向けて振った。
また沈黙。
そこでふと気付いた。礼を失していることに。
「私の名は楽進。字を文謙といいます」
「大将がそんな簡単に名乗ってもいいのか?」
北郷殿はそう言って軽く笑う。
「本来素性を明かすべきではないでしょう。ですが名乗られたのなら、名乗りを返すのが道理だと思うので」
「律儀だな」
「愚か、と言ってくださっても」
そんな自虐的な私の台詞に、北郷殿は笑わなかった。
「取り敢えず君の敵だとは言ったけど、ここで事を構える気は無いよ」
「何故ですか? 山賊の大将が一人でいるこの状況。あなた方にとっても好都合でしょう」
「こっちも色々と思惑はあるけれどね。でも単純に、ほら」
北郷殿は竿を持っていない方の手を上げ、降参とでもいうような仕草をした。
「俺、無手だからな。現実問題、こんなんじゃ討伐どころか鎮圧も出来ないよ」
「……武器を隠し持っていないという証拠にはなりません。あなたが無手でも強い可能性もある」
「そんなことないって分かってるくせに」
水面に目を向けたままで、北郷殿は口角を上げてそう言った。
そう。なんとなく、この人はそんな卑怯な真似はしないだろうと思った。明確な理由など無いのに。
「俺はただ、話をしに来ただけだよ」
「敵だと名乗っておいて話をしに来た、ですか」
「『君たちの味方だ――』とか嘘言って近付いた方が良かった?」
自分の言葉に冗談めかして笑う北郷殿。それこそ冗談、だった。
「……あなたは変わった人だ」
「はは、よく言われるよ。んで、どうする?」
北郷殿の視線が私を射抜いた。
「武器も持ってない変わり者の敵が、ただ話をしたいと言ってここにいる。あとは煮るなり焼くなりお好きにどうぞ、だ」
しばし考える。もしかしたらこれは彼の作戦なのかもしれない。
間違いなく戦力の中核は私、沙和、真桜の三人。その戦力を、騙し討ちで一人でも削ろうという魂胆かもしれない。もしくは今、何らかの作戦が練られていて、これは私をここに留める為の策であるのかもしれない。
「お」
小さく、意外そうな声。
私はそれまで考えていた色々なことを一度放棄し、北郷殿の隣に腰を下ろした。もちろん、完全に警戒は解かず。すぐにでも動けるような心持ちで。
「出来るだけ手短にお願いします」
話を聞く。情報を得ることは大事だ。……そんなことを言い聞かせる。
心の底では分かっていた。それが建前であるということを。何の建前かは、自分でも分からなかったが。
「ああ、そうするよ」
そう言って、北郷殿は竿を池から引き揚げた。
その声色が少し寂しげに聞こえたのは気のせいだろうか。
北郷殿は竿を傍らに置き、体勢を変えて私と対峙する。そして、急に頭を下げた。そのことに面食らう。
「まず、ありがとう。敵だって分かっても、話を聞くと言ってくれて助かった」
「い、いえ」
そうとしか返せない自分。思いの外、混乱しているみたいだった。
「じゃあまず一番肝心なことを聞こうかな。楽進、君達は」
言葉通り肝心なことを聞くように一度言葉を切り、そして。
「本当に、賊か?」
『黒山賊』と称されてしまっている私達『義勇軍』にとって最も重要なことを尋ねた。
な――楽進の表情が固まる。
その表情は殆んど答えのようなものだった。
表情。格好。仕草。妙に律儀で真面目すぎるところ。
自分の知っている“楽進”という少女との違いが殆んど無いことに安堵しつつ、殆んど違いが無いことに、苛ついた。
その理由は明確。その身体にある数多の傷だ。
……そういうところも変わらないのな。
護る者としての立ち位置、性分、性格は変わっていない。いや、違ってないと言うべきだろうか。つまりそれは周囲も――
「……質問の意図が分かりません」
む、そう来たか。
まあ敵だと明言している俺に対してその返事は当たり前なのだけど。でも
「否定はしないのか」
「え?」
「賊か、っていう質問に対して君は否定はしなかった。本当にそれでいいのか?」
言葉に詰まる楽進。やがて
「……略奪を」
「うん?」
しばしの沈黙の後、楽進は俯きながら小さな声を発した。
「……略奪をし、村の人間を襲う者達。それが、自分達は賊ではないと言ったところで信じる人間がいますか?」
「いないだろうな」
即答した。
だがそれは殆んどの場合事実だ。
事実は事実として受け入れなければいけない。
楽進は表情を強張らせ、更に俯いた。
――様々な衝動を抑えるために握り締めている右の拳を、更に強く握り締めた。
「だけどそれとこれとは別の話だ」
「……?」
困惑した表情で顔を上げる楽進。
その瞳は何か、救いを求めているように揺れていた。
「俺が聞いてるのはそこじゃない。略奪して襲撃するのが賊なんて、そんな分かりきった解釈を聞いてるんじゃないんだ」
そう。そんな答えはいらない。一般的な回答なんてどうでもいい。大事なことは一つだけ。
「じゃあ質問を少しだけ変えよう、楽進。『君は』本当に賊か?」
複数形では無く単数形。楽進個人はどうだ、という問い。
やがて小さく
「……私は、賊ではありません」
そんな答えが返ってきた。
心の底から安堵した瞬間だった。
「私は――いえ、私達は『大梁義勇軍』という集団です。各地で暴れる黄巾党の被害を少しでもなんとかできないかと、同じ志を持った者達と結成しました」
続けて楽進はそう言った。
自分達は賊では無く、義勇軍だと。自分の口で、自分の言葉で。意志を示した。
その事実に一刀の口元は少なからず綻ぶ。
「義勇軍……じゃあなんで、郡の正規軍と敵対を? いや、それよりもなんで村を襲っているのかだな」
「……その質問に答える前にお聞きしたいことがあります」
「ん。ああ、そうだな。俺だけが質問するのはフェアじゃない」
「ふぇあ?」
「あーいや、なんでもない。それじゃあどうぞ」
笑って誤魔化した一刀は楽進に話をするよう促した。
少しの間、不思議なものを見るような眼で一刀を見つめていた楽進。
しかし自分と相手の関係性を思い出したらしい。
それなりな警戒の表情を浮かべながらも口を開いた。
「北郷殿。あなたは陳留太守、王肱がどれだけ圧政を敷いているか知っていますか?」
「俺達は傭兵だからな。雇い主がどんな人間でも報酬さえちゃんとしてればそれ以外のことは知ったこっちゃ――って分かった分かった。冗談だからそんな怖い顔しないでくれ」
表面上は軽く、内心では割と焦りながら。冗談を口にしたことを謝罪する一刀。
楽進は眉間に皺を寄せたジト目で、そんな一刀を凝視していた。
「……あなたに対する警戒度が上がりました」
「仕方ない。自業自得だと思って受け入れるよ。んで質問の答えだけど、ノーだ」
「のー?」
「ああ、ったくこれも華琳に英語教えてるからか? 気を付けてるけど、ほんと無意識に出てくるな」
言いながら一刀は頭を掻く。
「ノーってのは『いいえ』。否定の言葉。つまり、知らないってことだ。もっとも、王肱にそういう気配が漂ってるっていうのは分かるけどな」
「……なるほど。少し納得しました」
「何に」
「知っていればあなたが王肱の側に付くはずないですから」
「ええと……それは俺を買ってくれてるってことか?」
「多少、ですが」
困惑の表情で苦笑交じりに、楽進は問いに頷いた。
そこに明確な、これと言える確かな感情は無いのだろう。だからこその多少、という表現。
なんとなく納得した、と同じようなものだろう。
幾分か柔らくなった表情を楽進は浮かべた。ほんの少しだけ和んだ雰囲気に当てられたのか
「君は……」
抑えていた自分の右拳が解かれ、殆んど無意識のまま楽進に伸びる。
楽進はそれに対して不思議と抵抗を感じなかった。故に身を引くことも無くその場に留まり続ける。
あと数センチ。
楽進の頬に触れるか触れないか、という位置で。その手がピタリと止まった。
楽進の前にあるのは、多少の残念さと多少の寂しさが混ざったような一刀の顔。触れかけていた手が静かに引かれて行った。
「はあ……」
そして一刀は大きな溜息を吐く。
「こりゃ危険人物認定かなあ」
「北郷殿?」
「俺は彼女に何もしちゃいないし何もしないよ。だから出てきたらどうかな、お二人さん」
妙に気落ちしたような、あまり覇気を感じられないような調子で一刀は楽進の背後に広がる森へと声を掛けた。そして
「なんや、気付かれとったんか」
「むむむ、油断できない人かも~」
楽進が背後を振り返るのとほぼ同時に、草を掻き分け森から二人の少女が現れた。
二振りの剣と回転槍。彼女たち固有の武器をその手に持って。
一刀は悲しさと寂しさが入り混じった顔で、もう一度だけ深く溜息を吐いた。
「沙和。真桜」
楽進は親友二人の登場に、その真名を呼びながら腰を上げる。
「まったく、一人で勝手に出てったら心配する言うてるやろ?」
「真桜ちゃんの言う通りなの~」
呆れた顔で苦言を呈する李典――真桜。それに賛同する于禁――沙和。
「……ん、すまない」
流石に自分の行動は褒められたものではないと自覚していたからか、楽進は殊勝に頭を下げた。
「ほんまに頼むで。心配やろ」
「真桜ちゃんの言う通りなの~」
「……沙和はそればっかりやな。他に言うことないんか?」
「真桜ちゃんが先に言うから私の台詞が無くなっちゃうの~!」
「落ち着け、沙和」
李典に抗議した于禁を楽進が宥める。
そんな、いつかどこかの日常のような光景を一刀は黙って見ていた。口元を綻ばせながら。
「んで、誰なん? そこの兄さん」
しかしそんな時間はすぐに終わりを告げた。
軽いながらも多少の敵意が籠った李典の問い掛け。
その問いは楽進に。そして一刀に。
「俺は北郷一刀。君達が襲撃した村を護ること。そして『黒山賊』を討伐することを陳留太守の王肱殿から請け負った、ただの傭兵だよ。一応、長やってる」
楽進が口を開く前に先んじて一刀は自己紹介をする。少し恥ずかしそうにして。
それを聞いた李典、于禁は一瞬呆気に取られた表情を浮かべ、そして次の瞬間には警戒の表情で武器を構えた。
「ちゅうことはウチらの敵なんやな?」
「……ああ。『黒山賊』の敵だ」
その名を聞いた李典は顔を顰める。
自分達にとっての敵だということにか。それとも『黒山賊』という名にだろうか。
どちらにしても肯定的な感情でないことは間違いない。
「北郷殿。その発言はつまり、私達が『大梁義勇軍』という集団であることを信じていないということですか?」
楽進のその言葉に驚いたのは李典と于禁だった。
「な、凪ちゃん! 喋っちゃったの~!?」
「さ、さすがに驚いたわ。いや、まあ喋ったところで信じるか信じないかは相手次第やけど……」
言いながら李典は一刀を見る。
一刀は変わらず地面に座ったまま、ただ静かな眼で三人を見つめていた。
その様子が李典の眼には不気味に映る。
見たところ武器を持っている様子も無い。なのに何故この一刀という青年はこんなにも落ち着いていられるのか。
得体の知れない相手に対する恐れから、李典は汗ばむ手で回転槍の柄を握り締める。
「いいや、そういうことじゃないよ。でも少なくとも俺の敵は『黒山賊』だ」
楽進の問いに答えた一刀。
しかしその答えは不明瞭で。直前まで話をしていた楽進はともかく、李典と于禁は首を傾げた。
「お兄さん、沙和達がそう呼ばれてるってことは知ってるのー?」
「ああ、知ってるよ。というか一人称に真名を入れるのは止めたほうが良いと思うぞ」
「そればっかは沙和の癖やからなあ……ウチも直した方がええとは思ってんねんけど――ってウチは何普通に会話してんねん!」
自分にツッコミを入れる李典を見て笑う一刀。
その眼は細められ、遥か遠いものを見るような表情になる。
だがそれは本当に一瞬のこと。
誰に悟られることも無いまま、閉じられた。
「よいしょ……っと」
声と共に重い腰を上げる。
たったそれだけのことだというのに、慌てて武器を構え直す二人の少女を見て一刀は苦笑した。
そしてそのまま三人に背を向ける。
「逃げるんか」
一刀の背に掛かる李典の声。そこには少なからず敵意が籠っている。
「楽進には言ったけど、俺は今丸腰でさ。三対一じゃ分が悪い。さっさと退散させてもらうよ」
「……北郷殿」
「楽進、話が出来て良かったよ。そっちの二人は楽進のことをちゃんと見てやってくれ。なんとなくだけど、楽進は一人で抱え込むような性分に見える」
「何の立場やねん、兄さん」
「……その通りだな。ああ、それと出来れば今後は村を襲わないでくれると助かるよ。そうなったら否が応にも戦わなくちゃいけなくなるからさ。よろしく頼んだよ、『大梁義勇軍』の――三羽烏」
答えも待たぬまま、それだけを言い残し、ひらひらと手を振って一刀は歩き出す。
その背はあまりにも無防備。まるで、後ろから襲われることなんて絶対に無い、とでもいうような行動。
李典の心の中で、何かが囁く。
于禁の心の中で、何かが囁く。
それは本来、自分達の置かれている状況から考えれば、あって当然の考え。
相手は村に駐留している正規軍への援軍として来た、傭兵隊。その長が自分達に対して無防備に背を向けている。
残酷などでは無い。無慈悲などでは無い。卑怯などでは無い。
それは危機的状況をなんとか打開しようとする本能のようなもの。
二人の少女の本質ではないとしても、状況がそうさせる。
躊躇いながらも、二人の少女は足を一歩前に踏み出した。そして二歩目を――
「止めろ!!」
その行動は森に響く大音量の声に阻まれた。
楽進では無い。
李典では無い。
于禁では無い。
なら、誰か。
答えは一つ。声を発したのは一刀だった。
その足は止まっていたが、体の向きは変わっていない。
何かを感じ取るように顔を上げ、前方に見えている森の木々を見渡す。
そして――何事も無かったかのように歩みを再開した。
挨拶だと言わんばかりに再び、背後の少女三人に向かってひらひらと手を振って。
やがてその姿は森の中に掻き消えた。
池の畔に、呆然と立つ三人の少女を置いて。
「なんやったんや……あの兄さん」
「不思議な人だったの~」
声と共に発された喝によって、李典と于禁が先ほどまで抱いていた考えは掻き消えていた。
「……北郷殿」
楽進はポツリと呟いた。
今日初めて知ったその名を。今日初めて会った青年の名を。
――何故か、胸に痛みを感じた。
楽進、李典、于禁の三人と別れた一刀は、村に向かって歩いていた。
しかし唐突にその足が止まる。周囲に道らしき道は無く、純粋に森の中。
何の建造物も無いし、特筆して珍しいものがあるわけではない。
だが一刀はそこで足を止めた。何故か?
もちろん、そこで足を止めるだけの理由があるから。
「いるのは分かってるよ」
誰かに語り掛けるような台詞。直後。
ガサガサッ、というそれなりの重さの者が落ちてくるような、そんな音。
「ちょ、真上!?」
上にいるということは分かっていたものの、まさか真上とは思わなかったらしく、一刀は慌てて自分の目の前に両腕を突き出した。掌を上に向けて。
一拍遅れて、その両腕に重さと柔らかな感触。
だが、さすがにそこまで重くないとはいえ人一人の重さ。しかしなんとか耐えきった。
――さて、どちらだろう。
視界に入った情報が脳に届く。少しだけ一刀は眼を見開いた。
「お、お館様……」
「ごめん、まさか真上だとは。なんとか受け止められてよかった」
そこには見事腕の中に収まっ――てはいないがともかく。
一刀が口にした通り、彼の腕の中には桔梗が収まっていた。つまり所謂、お姫様抱っこ状態である。
「い、いえ。儂の方こそ下をよく確認せず降りてしまいました。む……それにしても我らが潜んでいる場所がよく分かりましたな」
自分の置かれている状況を恥ずかしく思いつつ、だがこれはこれで満足と頬を紅く染める桔梗。
「俺に場所を隠そうとしてなかっただろ、元々。本気で気配消されたら流石に無理だったよ。俺に向けての気配を辿ったらここに行きついただけだし。それと」
ふと視線を動かす一刀。
ちょうどそこには、斜向いにあった木から降り立つ、紫苑の姿があった。
「紫苑の殺気があったからね」
「一刀さん……」
どこかシュンとした表情の紫苑に一刀は苦笑いを浮かべた。
「分かってるよ。俺を護るためにこうしてくれてたっていうのも、だからこそあの二人を射抜こうとしてたってのも。でも――」
「ですがお館様、気付いていたのなら危険なことは自重していただきたい」
手の中にいる桔梗の苦言に、一刀の台詞は遮られる。多少、罰の悪そうな顔で一刀は尋ねる。
「それって、どっちのこと?」
思い当たる節は二つ。
「「両方です」」
「……はい、すいません」
紫苑と桔梗。両者からのまったく同じ言葉に一刀は謝った。
「まず、武器も持たずに一人で危険に近付いたこと」
「そしてもうひとつ。我らの射線に入ったことです」
紫苑はともかく、桔梗は今この時も一刀にお姫様抱っこをされた状態。残念ながら、時折見せる経験に裏打ちされた威厳は微塵も威力を発揮しない。
「あ、入れてた?」
「一度目は立ち上がった時。二度目は攻撃の意思を示した敵が足を踏み出した時。まったく、あれだけ大きな声で制止しておいて何を言っているのか」
呆れたように桔梗は溜息を吐く。
一刀は苦笑いを浮かべて、紫苑と桔梗が登っていた木を、そして池の方向を交互に見やる。
「にしても……ここから池までそれなりにあるぞ。しかも間には木とか葉っぱとかさ」
「これぐらいのことが出来なければ弓将は務まりませんわ」
「ふっ、違いない。無論、そちらに関しては紫苑には劣りますがな」
「いやいや」
得意げに微笑む紫苑と桔梗。
どこの狙撃主だとツッコみたくなる衝動を堪え、わりと出来なくは無さそうな二人の腕に頼もしさと、ある種の恐怖を感じる一刀だった。
「一刀さん、その」
「うん?」
「そろそろ、よろしいのではありませんか?」
言い辛そうな、しかし確固たる意志の元で口にされた言葉。
自然と一刀の視線は自分の手の中にいる――自分がお姫様抱っこをしている桔梗へと動く。
「っ!」
もっと言えばその豊満な二つの双丘に向いた。即座に視線を外したが。
「紫苑。嫉妬はみっともないだろう」
桔梗は含み笑いをしながらそう口にする。
「あら桔梗。偶然にも一刀さんの手の中に落ちて、しかもそんな羨ましい抱き方をされているからって、もしかして驕っているのかしら?」
「ふ、お主の言う通りこれは偶然だろう。ならばその偶然を愉しまずにどうする」
「私だってそんな抱き方されたことないのよ?」
「なに。してほしい、と言えばお館様なら二つ返事で快諾するだろう」
「そ、それは……ごにょごにょ」
乙女のように顔を赤らめて言葉にならない声を口の中で発する紫苑。
時と場合によって性的な方面には非常に積極的な彼女だが、こういう甘いシチュエーションへの対応へは不慣れらしかった。
「はいはい。当事者の意思を放っておいての話はそこまでにしてくれ。桔梗、降ろすよ」
「むう、仕方がありませんな。少しの間だけでも堪能できたことを悦ぶべきか」
一応の了解の元、一刀はお姫様抱っこを終えた。
残念そうな台詞のわりには満足そうな表情で、桔梗は二本の足で地面に降りる。
そこまでして、やっと紫苑は安堵の息を漏らした。
「さて、戻ろうか」
「はい」
「御意」
一刀は美女二人を連れ立って歩き出す。仲間の待つ村へ向けて。
歩みを進める中、ふと思い当たったことがひとつ。
「なあ、二人ともここに来るって誰かに伝えて来たのか?」
「星ちゃんには伝えてきましたわ」
「星か……はは、共有されてるかどうか不安だな」
――と、そこまで考えて一刀はあることに気付く。嫌な汗が噴き出した。
「な、なあ。紫苑、桔梗」
「「?」」
「華琳には……言ってないんだよな」
「ええ。桔梗は?」
「儂も特には」
その答えを受けて一刀は立ち止まる。
ギシギシ、と錆びついた機械のような動作で首を回した。そのまま紫苑、桔梗、と交互に視線を移す。
「この状況、どう見える?」
そしてやっと、それだけを絞り出した。自分と、紫苑と桔梗を順番に指差して。
まだ一刀ほど物事を捉えきれていない二人はその様子に首を傾げながらも、自分達の置かれている状況を再確認し始める。
「私と桔梗と一刀さんが一緒にいて、それを誰も知らない……あら?」
「星には言ってあるが、それは儂と紫苑だけのことだ。……む?」
言葉にした時点で、それらが繋がっていく。二人は疑問の声を上げた。
紫苑や桔梗、一刀といった個人の視点では無く、第三者の視点で見た場合、どうなるか。
ちなみにひとつ付け足すと、一刀は華琳に『釣りに行く』と言った。華琳にだけ言った。
その言葉の裏に隠された感情や、そこから導き出される行動を察せるとはいえ、言葉面だけで言えば一刀はただ釣りに行っただけなのだ。
つまり今の状況は。
・一刀が何をしに行ったかは華琳だけが知っている(紫苑と桔梗がどこに行ったのか、華琳は知らない)
・紫苑と桔梗が何処に何をしに行ったかは星だけが知っている(華琳は知らない)
・そして今、一刀は両手に花状態で村に帰還しようとしている。
総合的に見て、三人がどこへ行ったのかという情報を全員が上手い具合に共有出来ていない状態。
そんな中で、この状態のまま村に帰還したらどうなるか。主に覇王様的な意味で。
もう一度だけ言うが、華琳は一刀が釣りに行ったということだけを知っていて、紫苑と桔梗がその傍に居るなんてことは知らない。
まあ、単純な話。
過激にぶっ飛んだ見方をすれば――三人が逢引をしていたように見えなくもない。
「ヤバい。これはヤバい」
頬を引き攣らせながら一刀は額の冷や汗を拭う。
下手をすると北郷一刀の人生において最大のピンチかもしれない。
そしてそれに追加される材料という意味で言うならば。
華琳は体のとある部分に非常にコンプレックスを抱いている。
育っている、育っていないはともかくとして。
まあ、その。こう言ってはなんだが、大きいわけでは決してないのだ。
そのコンプレックスを刺激する代名詞の二人が一刀と共に、帰還する。
自分のあずかり知らぬところで何かがあったかもしれないと思うには充分な材料になるだろう。
――と、まあそんな感じに戦々恐々としている一刀は気が付かなかった。
状況を正しく理解した美女二人が、ニヤリという笑みを浮かべながら互いに目配せをしたということに。そして
「一刀さん」
「お館様」
「なっ!?」
語尾に音符のマークでも付くかのような声色で囁かれると同時に、一刀の身体は両側から挟まれていた。武官としての経験でも活きているのか、抵抗できないまま一刀は紫苑と桔梗と両腕を絡め組む形になる。
唯一救いだったのは、二人がその豊満な部分を押し付けず、身体をピッタリと寄り添うだけに留めたことだろうか。
もっとも、それが二人の良心かどうか定かではないが。
「さあ、帰りましょう一刀さん」
「早く戻らなければなりませんな。華琳も心配していることでしょう」
「ちょっと待って!? 分かっててやってるだろ! 紫苑も桔梗も!」
悲鳴に近い声。しかし変なところで真摯な北郷一刀。
刻一刻と死に近しい何かが迫っているのを理解しているにも関わらず、紫苑と桔梗を振りほどくという選択肢は彼の中に無いらしい。
「さあ、なんのことでしょう? ふふっ」
「恋も愛も、時には刺激があった方が燃えるというものでしょう」
「俺が物理的に燃やされる可能性も少なくないんだけど!? あの覇王様に挑発を仕掛けるってどういうことか分かってます!?」
「一刀さんが大変なことになります」
「お館様が大変なことになりますな。……覇王様?」
「わーすごい。分かってるのにやろうとしてるよー」
既に半分諦めたようにどこか遠くを見ながら一刀は言った。
「そんな一刀さんを私が助ければ、一刀さんの中で私は……ごにょごにょ」
「漏れてる! とんでもない思惑が口から漏れ出てるよ!」
「ほう、なるほど。そういう策もあるか」
「桔梗が納得した!? 駄目だ、本当の意味で味方が一人もいない!」
そんな風に言っている間も、三人は歩を進めていた。
一刀の場合、紫苑と桔梗に挟まれているので『歩を進められていた』が正しいのだが。
魏興郡太守。傭兵隊の長。
かつての仲間であり身体を重ねたこともある少女達に対し、覚悟を持って敵だと宣言した青年――その名は北郷一刀。
種類は違えど、彼はそれらと同等の覚悟を決めなければならないようだった。
【 あとがき 】
今回、最後はギャグのように締めましたが一刀にとってはギャグではないですね。
わりと命の危機ですw
物理(大怪我とか)的には大丈夫だとしても、後々性的な意味で華琳様に絞られてしまうでしょう。原作にもあった房中術とか使われてw
コンプレックスは根深いんですよ、マジで。
各恋姫が抱えるの女性関係のイライラとかは大体、矛先が一刀に向きます。これは世界の理です(理不尽)。
好かれ過ぎるのも考えものですね。
このお話、我らが凪ちゃんが基本的にはメインでした。
ほんのちょっとだけですが気持ち、凪を饒舌にしています。
原作ではもう少し三点リーダーが多かったかなー、とか、もっと端的な受け答えというか会話だったなー、とか色々考えながら書きました。
その理由は……まあ、皆様察せているかと思います。
そもそも一刀と関わりの浅い状態の三羽烏なんて想像しにくいですし。原作でも序盤ちょっとだけで、しかもわりと最初から好感度は悪くない状態だった気がする。ま、原作は味方という認識も強いですからね。
※真桜の関西弁と沙和の語尾?が書き辛くて仕方ないww
さて、次のお話は一刀が華琳様にマウントを取られてボコボコにされている描写から――かどうかは分かりませんが、この流れに沿ったお話になるかと。
次回更新をお楽しみに。ではでは~。
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今回は会話中心。
ここのところ天気が不安定で仕事がし辛いにゃあ。
子供の時は天気が悪いことがマイナス要素になることってあんまり無かったのにね。