~ダブル&ダブル~
YOMIKO
夏休みも近づき、一般的には待望であろうプール開きの日。全校最初の水泳の授業に当たったウチのクラスは、あたし以外はほとんどみんなが朝から浮き立っていた。
あたし、根本夜見子はお兄ちゃんが大好きなごくごく普通の中学一年生である。以上。
……え? もーちょいきちんと自己紹介しろって? はー、しゃーないわネー。
実はあたしは、二人分の心を持っている。つーても二重人格とかそーゆーのじゃァない。幼いころ死んだ、お兄ちゃんの実の妹であるあたし、平坂洋子の魂と、今のこの身体のあたし、根本夜見子の魂とが人為的に合一された〈霊的改造体〉ってヤツらしい。ただし、あたし、夜見子とあたし、洋子の心はほぼ完全に合一されていて、もうどっからどこまでが洋子で夜見子なのか自分でもわからないくらいになっている。
どーやら、あたしが一部の連中から〈黄泉姫〉って呼ばれてるのは、この二つの心が完全に合一されてることが理由らしーんだけど、これについてはまだわかんないコトも多い。
ともあれ、そのせいで、あたしはずっと出会ったことの無いお兄ちゃんの記憶を持ち、やがてその面影に恋するようになった、ってワケなのョ。
そして、去年の冬、ようやくお兄ちゃんに出会うことが出来て、そんとき色々と起きた事件の末、お兄ちゃんに妹として認めてもらえ、彼のそばにいることが出来るようになった、ってワケ。
「わーい夜見ちゃんほっぺすりすりしてなー」
「あン? するわけねーでしょーがバカネ」
現れるなりまたぞろ阿呆なことを言いだしやがった我が悪友の沢村明音。ゆるふわウェーブのかかった栗色の髪を肩までのばし、ゆるふわな細いたれ目とノー天気な笑顔がトレードマークな、あたしと同い年の中学一年生とは思えないでっけぇ女である。いつものパターンだとこーゆー行動に出るときは大体なんかのアニメとかゲームとかにハマってそのネタをやりたがってるのが大抵だ。まったくこのヲタ女ときたら……。
「ぐにゅぬぬ夜見ちゃんるみなするみなすほっぺすりすりー」
「やめんかこのヴォケ暑苦しいっつーのョ!」
「わーい根本殿ーこの沢村明音一生ついていくやんなー」
しつこくあたしの顔に自分の頬を無理やり寄せて来るバカを押しかえしながらあたしは大きくため息をつくのだった。どーも今度は多重ネタで攻めて来てやがる気配がある。果てしなくどーでもいいが。夏になっていよいよ本格的に頭が涌きやがったかこやつは。
「まーそれはともかくやねー、せっかくの夏やしー、休みになったらいろいろ遊びにも行きたいやんなー」
「まァ……それはそーネ」
夏休みにどっかいろいろ遊びに行きたいってーのはあたしだって全く同意だわョ。コイツと一緒かどーかは別だ・け・ど・ね!
「考えてもみてやー、夏、夏休みやでー? 海へ行くも良しー、山へ行くも良しー、まあウチと夜見ちゃん二人っきりてーのがそりゃ理想やけどー、やっぱ夜見ちゃん的にはお兄さんと一緒やあらへんとつまらへんよなー?」
「……う、そ、そりゃまーネ」
いまさら隠す必要もねーけど、図星をつかれて顔を真っ赤にするあたし。くそ、見透かしたよーににまにましやがってからに。
「それでやねー、今日の放課後、夜見ちゃんさえよければー、ウチと一緒に水着買いに行かへんー?」
「水着……ね。一応去年のはまだ着れるけど……」
残念ながらどこもかしこもぜんぜん育ってないしなしくしくしく。
などとあたしが切なさを噛みしめていると。
「去年と同じ? そんなん乙女としてあり得へんやろー! 第一、今年はお兄さんがおるねんやろー? せっかくの夏に、お兄さんにおニューの水着でアピールせんでどないすんねんー!」
そう、細い目をそれなりに見開き、瞳に炎まで燃やして拳握って力説する明音。普段だったら呆れるとこだけど、今回ばかりはそうはいかなかった。
「お……お兄ちゃんに、み、水着でアピール……」
あたしの背中に電流走る。
「そ……そうよネ……こ、今年はお兄ちゃんとすごす初めての夏だもんネ……」
「せやろーせやろー?」
「わ、わーったわ、ここはひとつアンタの下心だろーと乗ってやるわ」
あたしは、明音の両手をがっちりと握る。
「ふっふっふー、大船に乗った気でウチにどーんとまっかせてーなー!」
多分泥船だろうとは思ったが、ここは泥船だろーと覚悟を決めて乗るべき場面だと不覚にもあたしはそう思ってしまったのだった。後から思えば、あたしって、ほんとバカ。
そして、お兄ちゃんへのアピールのことで頭がいっぱいになっていたあたしは、もう一つの問題をうっかり忘れていたのであった。
で、その数時間後の水泳の初授業。
「よ、夜見ちゃん泳げへんかったんやねー」
「う……わ、悪い?」
そう、今年はじめての水泳の授業で、あたしはクラスみんなの前で、盛大に自分のカナヅチっぷりを披露してしまったのだった。
「いやべつにそないなこたーあらへんけどー、夜見ちゃんホラ運動神経ええしー、意外……っちゅーかー」
「うー、なんつーかさー、あたしって体脂肪率低いらしくてさー、水に浮いてくんないのよ。その、全然……」
びきっ。なんか空気に亀裂が入ったよーな雰囲気が。
「そ、そーなんかー」
ん? 顔ひきつってんぞ。
「あたしもさー、ちったァいろいろあちこち育ちたいとは思ってんし、まァ色々とさ、なるべくきちんと食べるよーにはしてんだけどねー。自分としちゃ小食な方でも無いと思うんだけどネー。大食いとまでァ思わんけど。そんなのに、なぜか食べた分全然身体に付いてくんないっつーの? 参っちまうわョねーホント」
あたしはそうため息をついた。
「よ……」
「よ?」
なにぷるぷる震えてんのョあんた?
「夜見ちゃん、いまダイエットに悩むすべての女性敵にしてんねんでー!」
なに涙目で叫んでんのョおめーは。
「何言ってやがんのョ、アンタだって付いてほしートコに肉付いてくんないすべての女の子敵にしてンだかンな、わーってンのかョこのおっぱい魔神」
そー言ってあたしはその中学一年生としてはあまりに巨大な二つの肉を鷲掴みしてこねくり回してやる。
「あァん」
そんな無駄に色っぽい声を出しやがる馬鹿。
だんだんムカついてきたぞコノヤロー。
「この、この、この!」
「あふん、夜見ちゃんもっとー」
とろんとした目でそんなウワゴトを抜かすバカネ。
ずざ。
引いた。ええ引きましたとも。一瞬で物理的に三メートルくらい引いた。さらに心理的には三光年くらいの勢いで。
KAORI
「うーん……」
私は、自分の髪を弄りながらため息をつく。
「やっぱ……地味……だよね」
そりゃあ、別に派手にしたいと思ってるわけじゃない。茶色に染めるとかそんなのは、校則どうこう以前に考えようとも思わない。けど……。
適当に切っただけの髪を、かるく二つに分けておさげにしてるだけとか、楽っていえば楽だけど、いくらなんでも気を使わなさすぎって、最近さすがに思うようになった、ってだけ。
そろそろ夏も近づいてきたし、実際的な面でももう少しさっぱりしたいと思ったことでもあるし。
「派手にならなくても……っていうか、派手にはしたくないし、けど、もう少しこう、女の子っぽく……」
悩ましいなあ。
私の名前は、双葉香織。高校二年生で、写真屋さん……ていうか、写真館のひとり娘で、そのせいか小さい頃から写真を撮るのが結構好きで、学校でも写真部に入ってる。あと、本も好きなので、委員会は図書委員をやってます。
じつは、私は昔からときどき前触れ無く意識が途切れることがあって、気が付くとそれまでとは全く別の場所に居たりすることがある。不思議とそれで危ない目に遭ったりしたこともないんで、困りこそすれそれほど深刻に悩んでるってわけじゃないんだけど。
だけど、この前のときのことは、それどころじゃなくて。あの日、放課後の校舎にいたら、空がぐるぐると変な風になって、怖くなって校舎内をさまよってたら、私の入っている図書委員会の委員長……平坂くんと行き会ったの。
そのとき彼は、新学期になって新しく委員会に入ってきた、平坂くんの昔からの知り合いだっていう下級生の亀井三千代さんっていう子と一緒にいたんだけど、そしたらいつものようにふっと意識が遠のいて、次に気付いたら銀色の髪の女の子……ときどき、とくに私の意識が戻ったときによく見かける不思議な女の子に手を引かれて歩いてた。
直前の状況、意識が戻ったときの状況、それぞれに普通じゃなく、普段の意識断絶とくらべても、その間に何か普通じゃないことが起こっていた感じが強くって……。
その子は、私が我に返ったと思ったら、にっこりと笑って手を振って走り去って行っちゃったけど……。
でも、その子のことはともかくとして、やっぱり、彼と亀井さんのことはとても気になる。亀井さんって、とっても柔らかな雰囲気で、私と同じように地味な眼鏡の女の子だけど、私と比べて……ううん、比べるだけ憂鬱になりそうなくらい女の子としての基本スペックが高すぎる感じの子なんだもの。
それに、彼ともとっても親しそうで……かろうじて救いと言えるかもしれないのは、その親しさが、どちらかというと男女間のものというより、兄妹みたいなそれだってことくらい。幼なじみみたいな関係らしいってことは察せられるんだけど……。
私が彼を知ったのは、高校に入ってからだから、まだ一年くらい。そういう意味でも、亀井さんにはかなり後れを取ってるのは否めない。だけど、たとえ叶わなくても、せめて後悔だけはしたくない。
「……よし、決めた!」
私は、そう踏ん切りをつけるように声に出して言い、立ち上がった。
HIRASAKA
「お兄ちゃん、ど、どうかナ?」
そろそろ暑さを増してきた今日この頃。しばらく夏の普段着の着こなしを悩んでいたらしい夜見子が、思い切ったイメチェンをしたというので、いつもの学校帰りの待ち合わせで、一度家に帰って着替えて来た夜見子の姿を見る。
「……!」
俺の脊髄をまさに衝撃が走り抜ける。
可愛かった。
それはもう途轍もなく可愛かった。
これが可愛くないなどと言ったらこの世界に可愛いものなどひとつとして存在しねェってレベルで。
まず真っ先に目を引くのは、言うまでも無く、長い黒髪を向かって右側で大きくまとめたサイドテールにしていることだ。結び目は愛用のカチューシャと同じ色の赤いリボンで結んでいる。
赤い半袖のTシャツとデニムのミニスカートはこれまでと変わらないが、ニーソックスをはかず、素足に直接いつもの足首の高いバスケットシューズを履いている。上着はというと、濃いグレーのベストを小粋に羽織っている。いつも元気いっぱいな夜見子が、夏らしい軽装になって、より活発な印象になったというか。
「……」
その姿を見た途端、思わず黙ってしまった俺にちょっと不安げになった夜見子が声をかけて来る。
「お、お兄ちゃん?」
ちょっと戸惑うように夜見子が俺を呼ぶ。
「……」
「に……似合わなかった?」
夜見子が瞳をうるっとさせたが俺はまだ言葉を発しない。かわりに、無言で夜見子を手招きする。
「……お兄ちゃん?」
夜見子がとことこと俺の傍まで近づいてくる。やがて、俺のすぐそばにきて、ちょっと不安げな顔になり上目づかいで見つめて来る。そこで、俺の理性は限界に達した。
「……ひゃわぁっ!?」
夜見子があられもない声をあげる。そりゃまあ何の前触れも予備動作もなく突然ぎゅっと抱きしめられたら声も出るよな。
可愛い可愛い可愛い夜見子可愛いぞ夜見子可愛いにも程があるああ夜見子可愛いよ夜見子。
「……お、お兄ちゃん?」
ああううう、と声にならない声を上げながら俺は抱きしめた可愛い可愛い可愛い夜見子の頭を撫でたり肩や背中を撫でたりさすったり前髪をかるく指で梳いたりぎゅっと両腕のなかに小さな身体をすっぽりと収めて力いっぱい抱きしめたり髪に顔を寄せて甘い匂いをくんかくんk
「何やってんのよアンタは!」
すぱーん、といい音がして、俺は正気に戻された。
「は、俺はいったい何を?」
「ふにゃあ……」
気が付くと、夜見子が真っ赤になって頭から湯気を上げながら俺の足元の地面にへたり込んでいた。
「つーか、どーして私がツッコミ役せにゃいかんのよ……」
「よ、よお光紗。奇遇だなこんなところで」
しゅた、と右手を挙げて俺はハリセンの主に挨拶を返す。
俺にツッコミを入れて正気を取り戻させてくれたのは、肩にでっかいハリセンをかついで指でこめかみを揉んでいる紅・エリサベタ・光紗であった。
「奇遇じゃないっての。まったく帰りに見かけたんでついてきげふんげふん様子をみにきたと思ったら……つくづくアンタのシスコンは悪化する一方ね……」
と、光紗は俺にはまったくわけのわからないことを言いながらため息をついた。
「とにかく、とってもよく似合ってるぞ。見違えそうなくらい可愛い」
俺は気を取り直し、夜見子に正直な感想を伝えてやる。
「あ……えへへ、嬉しいな……」
夜見子が顔を真っ赤にしながら両手を後ろで組んで身体をくねらせて照れる。そんな姿もまた可愛くてかわいくてもう俺ときたr
すぱーん。
「……ブレーキとかそーゆーのはないのかアンタのシスコンには!」
「はっ、俺は今何を?」
「ふにゅう……」
我に返ったと思ったら今度は夜見子が俺の腕の中でくたっととろけていた。い、一体何が起きたというのか?
「危険人物かアンタは……」
光紗がそれはそれは深くため息をついていた。
YOMIKO
「夜見子って泳げなかったのか?」
「う、うん、ちょっと恥ずかしいんだけど……」
お兄ちゃんのお部屋に上がり、よーやく落ちついてくれたお兄ちゃんとお話してる中、自然と話題が今日の水泳の授業でのことになっていた。
「意外だな。あんなに運動神経良いのに」
「まー……ネ、その、あたしってなんか体脂肪率低いらしくって、水に浮いてくんないのョ」
この前明音にもおんなじコト言ったけど。
「うーん、そうなると練習してどうこうってワケにもいかないのかな」
「うう、でも、ちょっとくらいは泳げるようになんないと体育の授業が……」
それにお兄ちゃんとの夏のイベントだって!
「そうか、どうしたものかな」
「話はきいたでー」
といきなり二階だとゆーのに窓から馬鹿がやってきた。
「わぁい夜見ちゃんの水着ー、あかね夜見ちゃんの水着大好きーうぇへへへー」
「相変わらずアンタののーみそは腐ってるァね……」
「つーか窓から入ってくるなよ……」
お兄ちゃんも当然のように呆れた声でツッコミを入れる。
「いやー大家はん苦手なもんでなーあははー。あ、光紗はん、コレこの前のイベントの新刊やでー」
「あ、ありがとうございます沢村せんせー!」
わーい、と紅さんがバカネからなんか薄い本を受け取っていたりする。例によって表紙にはアニメ絵の女の子が描いてあったりするんだけど。つーか沢村『せんせー』って……。
それにしても紅さんてば貰った本嬉しそうに抱きしめてるァね……。マンガやアニメの可愛い女の子大好きとか、こんだけの美人さんなのにこのシュミはしょーじきどうかと思わんでもないんだけど。
いや別に人のシュミどーこー言うつもりァないし、アニメとかだけだったらかまやしないンだけどさ、ときどきあたしンこと生温かい目で見てる気がするンはちょっと……その……微妙な身の危険が。あたしン周りこんなんばっかかいとか思わずツッコミ入れたくなっても無理ないわよネ? ネ?
「ともかく、練習するしかないのかな。あとはもう少しくらい体脂肪付けるような食生活をだな……あんまり低くてもよくないだろうしな」
「やっぱ結局はそーゆーコトになんのかしらネ……」
「あんまり落ち込むな、今度市民プールにでも連れてってやるから、そこで俺と練習しよう、な?」
「うん……うん!?」
思わぬ言葉に、ちょっと落ち込み気味だったあたしはぴきーん、と顔を上げる。
「お、おおお兄ちゃん、そ、そそそれってあたしと一緒にプール行こうって……コト?」
「いやだからそう言ってるんだが」
「ちょ! ちょちょちょーっと待ちなさいよ! それは! それはたいへんによろしくないんじゃないかと!」
紅さんが慌ててこっちに迫ってくる。
「大体アンタ! さっきの夜見子ちゃんへの理性ブッ壊れた行動忘れたの? さっきのでアレじゃ、み、水着なんか見たらアンタけーさつのお世話になりかねないわよ!」
「うゎ酷ェなお前それ」
「……否定できんの?」
「ぐ」
「ふっふっふー、せやったら、プール行く前に夜見ちゃんの水着姿に慣れとくっちゅーのはどないやねんなー?」
「それョ!」
珍しく明音が妙案を出してくる。
「もちろんお兄はんを抑えるためにウチも付き合うねんなーぐぅぇっへっへー夜見ちゃんの水着見放題ー」
……前言撤回やっぱバカネはバカネだった……。
「とはいえ、やっぱそれしかないかもねー」
「そうね仕方ないわねー。夜見子ちゃんの安全のためにも私もついてってあげるわよ。有り難く思いなさいよね」
紅さんも何故かそわそわしながらそんな事を言う。
「お前も何気に酷いな……」
「言いかえせる立場かしら?」
「ぐぬぬ」
あたしの水泳の練習をみてもらうため、お兄ちゃんにあたしの水着姿に慣れてもらう……しかし改めて言うとわけわからんわよネ。ううむ。
「ともかく、細かいことは近いうちにな」
とまァそういうことになった。
HIRASAKA
「こんにちは、委員長」
いつも通りの放課後、いつも通りの委員会。そういつものように挨拶をしてきた双葉香織の姿を見て、俺は一瞬言葉を失った。
なんだか、別の女の子がそこにいたような気がしたからだ。どうしてかというと……まァ、単に髪型を変えていたせいなんだが。流石に眼鏡はそのままだ。眼鏡もそう安いものじゃないし、そうそう気軽に替えられるようなものじゃないしな。
何て言うか、耳の前の方を少し伸ばし気味にしたおかっぱ……ボブカット……と言えばいいのかな。肩くらいまでの長さにぱっつんと毛先を揃えて切って来ている。
以前はやや長く伸ばしていたのを二つおさげにしていたので、かなり印象が変わっている。
それに加えて見慣れたいつもの一見野暮ったいようにも思える黒ブチの眼鏡、刷毛でかるく刷いたみたいなちょっと太めの眉、くりっとしたまるい目、やや細面な頬、あれ、なんだ……なんで俺こんなにどきどきしてんだ。
元々やや子供っぽいながら整った顔立ちをしていたし、地味だけど一緒にいると安心するような雰囲気を持っていた子だった。
しかし、これは……いままで見慣れていた女の子がこんな風に違う姿で現れると、男って生き物はこんなに動揺するものなのか。自分の心の動きが不思議なくらいだった。今の双葉香織を形容する言葉を最も端的に一言で言い表すならば……そう。
可憐。
その言葉より相応しい言葉は今のところ思い浮かびそうになかった。
……ところで、俺が彼女を心の中でとはいえ、〈香織〉なんて下の名前で呼んでるのは、彼女の中にいるもう一人の人格、〈双葉沙織〉と区別するためであり決して他意は無い。無いんだからな!
何にせよ、たとえ彼女の中のもう一つの人格、人間の肉体に人間以外の魂が受肉した―人為的にさせられた―存在である、非―人間の魔術師・双葉沙織が俺たちと敵対関係にあるとはいえ、香織の方はそれとは関係ない。そのことを気にして香織との関係を考え直そうとは、俺は全く思っていない。
香織は沙織のことを知らないようだが、沙織の方は香織と記憶を共有していると思われる。これは、一般的な多重人格症例でもよく見られる傾向だ。だから、沙織に知られるべきではない情報、会話などは香織の前では警戒する必要はあるものの、問題はせいぜいその程度でしかない。少なくとも俺は気にしていないし、どうやら夜見子や光紗、カメちゃんたちもそのあたりに関しては理解してくれているようだった。
もちろん、なんとも奇妙な状況だな、とは思わずにはいられないが。
だが、最も大きな理由としては、前回の異次元校舎事件をともにして、沙織ってヤツのことも決して嫌いじゃない、と思えたことが一番大きいんじゃないか、って気がする。もし、沙織のことが危険性のあるヤツだと思ったなら、香織への評価を変える必要まではないにせよ、香織の背後にいる沙織への警戒心は大きくならざるを得ないだろう。
それと、思い返してみて気付くのは、妙な話だが、リリス―俺の実の妹、洋子の肉体に人間以外の魂を受肉させ生みだされた、やはり非―人間の黒魔術師―と違い、沙織は黒魔術師じゃないっていうことだった。
あれだけ霊的治療の得意な黒魔術師なんてのは普通はいない。それだけじゃなく、カメちゃんに治癒の素質があることまで見抜き、適切な指導のもと、わずかな時間でその力を導いてやれるなんてのは黒魔術師にできるようなことじゃない。
なにより、率先して夜見子の足を診てくれた気持ちの優しさ。それこそあんな黒魔術師なんているわけがない。それどころか、非―人間としてもあんな優しさと思いやり、他人に対する共感能力を持ったヤツなど極めてまれな存在とすら言っていいだろう。これは、やはり香織と同じ肉体を共有しているために、香織からの影響でリリスや他の非―人間と比べて人間味を身に付けているからだと思っていいのかね。
とはいえ、多分、沙織の目的は俺たちとは相いれないものを持っている。出来れば争いたくは無いが、それでもいつか俺たちは衝突しあうことになるだろう。だが、それが判っていてなお、俺は双葉沙織ってヤツが嫌いにはなれないらしい。
だけど、それ以上に……今、こうして髪型を変えた彼女を見たことで、双葉香織が、〈女の子〉だって気付かされた。もちろん性別が女だと気付いたって意味じゃない。ンなことは当たり前だ。女性。俺とは違う性別。ああもう、まどろっこしいことは抜きにして言っちまおう。異性。自分にとっての異性。つまり……香織が、俺にとって女の子として気になる存在で……少なくとも、そうなり得る可能性のある存在だっていうことを意識させられてしまったのだ。
「そ、そういえば平坂くん、写真部の方には出てこられないんですか?」
「ん?」
委員会の仕事も思いのほか早めに片付いて、カメちゃん含めて他の委員会メンバーもみんな帰宅し、なんとなく俺と香織だけが残って雑談していたとき、彼女がそう尋ねてきた。あーそういや写真部入ってたんだよなー俺。文化部系でそれなりに興味無いでもないってコトで何となく。
しかし委員会の方は義務だけに優先せんといかんし『仕事』の方もあるだけについつい幽霊部員状態になってたんだが……そういやなんで香織は俺が写真部なの知ってたんだ?
俺がそれを尋ねてみると。
「えっと……私も、写真部だから」
「そ、そうだったのか?」
あー考えてみりゃ香織は写真屋の娘だし、元々写真好きでもおかしくないんだよな。ほとんど出てないからほかの部員のコトもまるきり知らないからなー。よもや同じ部活だったとは。ちょい反省。
「あー、そうだな……たまには顔出さんとまずいか。近いうちに行ってみっか」
「そ、それじゃあ!」
香織が勢い込むように身を乗り出してくる。
「き、今日……来ませんか?」
「今日か? まあ別に構わないけど。時間も……まああるな」
「そ、それじゃ、早速行きましょう」
香織が俺をせかすように促してくる。
と、そのとき。
「やほー、委員会終わったんでしょ、今日帰り私に付き合いなさいよー」
そう図書室に入ってくるなり俺に声をかけて来たのはクラスメイトでヴァンパイア・クォーターの紅・エリサベタ・光紗だった。
「あ、いや今日は」
「用事なの?」
横を見ると、香織が息をのんだような顔をしている。
香織は、すーはーと深呼吸をすると、思い切った顔で口を開く。
「ひ、平坂くんは、今日は部活に出てもらうんです。そ、その、写真部の方に」
「あれ、貴女……」
光紗が香織の方を見やる。と、すうっと光紗の目が細められる。と、香織が一瞬気圧されたようになるが、両こぶしを胸元でぎゅっと握ると、口元を引き締めて光紗を見返す。
「まあ……先約だったらしょーがないけど……」
そう、光紗が一歩引いたかと思い、俺も香織も肩の力を抜きかける。が。
「ね、どーせだったら私も見学についてっちゃダメかしら?」
とそんなことを言いだした。
「え……っ」
と絶句する香織の顔がみるみる曇ってゆく。その様子を見た光紗は、慌てて、
「じょ、冗談だって。それじゃ、埋め合わせに明日はちゃんと付き合ってもらうからねっ」
と言い置いて、俺たちに手を振って教室を出て行ったのだった。
MISA
「……ふぅ、ちょい心配だけど、さすがにあの顔見ちゃったらね。あの子に悪いもん……ね」
私は、そう呟いてため息をついた。
双葉香織ちゃん。あのリリスの〈姉〉だという双葉沙織のもうひとつの……ていうか本来の人格である女の子。そして……実は私がヤツに告白するずっと前から気付いていた、私の……恋のライバル。まったく人間関係複雑になりすぎよね、とか思うけどしょーがない。
たぶん、アイツ……平坂を好きになったのは、あの子の方が私よりも先。もちろん私が譲っちゃったのはそのせいってわけじゃないけど、ときどき委員会やってるとこチラ見したりするとき、いつだってあの子はヤツのことをじっと見つめてた。
そんな子の中に、私たちの敵の人格が潜んでいるとかまさか夢にも思わなかったけど、あの沙織の方も、この前の事件で行動をともにしたとき感じた限りでは、彼女自身はそんなに悪いヤツって気はしなかった。
互いの立場さえこうじゃなければ決して嫌いなタイプじゃないと言っても良いくらい。
それより、気になったのはあの子……香織ちゃんが髪型を変えていたこと。そして、明らかにヤツとの関係を一歩踏み出そうとしていたこと。それに気付かされてしまったことが、さっき私にお邪魔虫的な発言をさせてしまったわけで。だけど、結局それ以上押すことは出来なかった。うう、私ってばなんてチキン。
もちろん、本気でライバルを蹴落とすつもりだったらそうするべきなのかもしれない。でも……。
「やっぱお人よし過ぎるのかな……」
正直に告白すると、私はあそこで引き下がっちゃったことを、いま物凄く後悔していたりする。だって……多分、アイツの女の子の好みは、私よりあの子みたいな子なんじゃないか、って気がしているから。私みたいな前へ前へな性格の子より、あの子や三千代ちゃんみたいなおとなしい子の方がきっとアイツ好みな気がする。
……まあ夜見子ちゃんは例外にして別格としても。
たとえ十人二十人から綺麗だの可愛いだの言われたって、この世でただ一人、アイツ一人にそう思ってもらえないんじゃ、私にとってはまったく無意味。
こんな普通の人間じゃなくなっちゃった私を、それでも当たり前に受け容れてくれたアイツ。私にとって、もう一生これ以上の男になんて出会えない。十六歳にしてそう確信させられちゃったアイツ。
でも、今さら自分を変えようと思ったって仕方ない。それに、アイツにとっては無理にアイツ好みを演じる私なんて、きっと魅力を感じてなんか貰えないんじゃないかと思う。だって、アイツはそーゆー奴だから。それが……私が好きになったアイツ……だから。
結局のところ、ありのままの私が必ずしもアイツの好みじゃないって判ってても、その上でありのままの私で勝負するしかないってことなのよね。まったく前途は多難だわ。
そして、ありのままの私って奴は、たとえライバル……それも、私より有利かもしれないライバルでも、あんな、私がお邪魔しちゃおうとしただけでどん底に落ちたみたいな顔されちゃうと、これ以上押せなくなっちゃう奴……なのよね……ホント、バカみたい。
だけど、それでも……私は、真正面から堂々と勝負して、アイツの気持ちを勝ち取りたい、そうでなくちゃ意味が無い。アイツはそう思わせてくれるくらいのヤツだし、私のライバルたち、夜見子ちゃんや、三千代ちゃんたちも、そんな風にして競い合いたい、と思えるような素敵な子たちばかり。あの、香織ちゃん……彼女のさっきの顔にも、そんな真剣さが感じられちゃったから、私もつい引き下がっちゃったのよねぇ。
だから、せめて、アイツの、あの子たちの前で恥ずかしくない自分でいよう。嫌な子になって勝負に勝ったって、きっとアイツの顔が正面から見られなくなっちゃうものね。
大体、たとえ報われなくなって、アイツの傍に居たい、って思ったからこそ、アイツに告白したんだもの。だったら、きっと大事なことは、勝負に勝つより、アイツの顔を真っ直ぐ見られる自分でいること……よね。はあ。
HIRASAKA
「そういえば、香織はどんなカメラ使ってるんだ?」
他の部員は来ていないのか、俺たちふたりきりで部室に来た俺は、ちょっと気になって聞いてみる。
「ふ……ふぇっ!?」
だが、香織から返ってきたのは、驚いたような、慌てたような声だった。
「……な、なんか変なこと聞いたか?」
「だ、だって、いままで双葉、って苗字で呼んでたのに、急に名前で呼んでくれるから、びっくりして……」
……あ。
沙織と区別するために、心の中では名前の方で呼んでいたのが、ついぽろっと言葉に出てしまったようだ。
「……わ、悪い」
「そ、そんなことないです。むしろそのほうが……」
そう言って香織は耳まで真っ赤になりながら小声でつぶやいた。
「そ、そうか」
そんな香織の反応に、思わずこっちの方も顔が熱くなるのを感じる。まったく、どうして身近にこんな可愛い子がいたことに気付かなかったんだろうな、俺。
「と、ともかく!」
「お、おう」
「私のカメラ……ですよね。やっぱり……気になります?」
「まあ……な」
「それじゃ、お見せしますね。ちょっと恥ずかしいですけど。えへへ……これです」
はにかみながらもいそいそと香織が部室のロッカーから取りだしてきたカメラは、俺の使っているのと同じメーカーの、手のひらに載るくらい小ぶりなレンズ交換式のカメラ、いわゆるミラーレス、ノンレフレックスなどと呼ばれるタイプのカメラだ。
ただし、全体がピンク色だった。
ボディはもとよりレンズもストラップもフードも全部ピンク。限定販売のスペシャルピンクキットってヤツだ。うわすげぇ。いやもちろんこのカメラの存在はよっく知ってはいたがこう改めてカタログ写真じゃなく現物フル装備状態ででこのオールピンクっぷりを目の当たりにするとだな、なんか独特のオーラが出ているというか……。
しかし、これを、とことん地味ながら、その地味であるということの魅力を最大まで発揮しているかのような可愛さを持った双葉香織が、ちょっと照れたように掲げているのを見ると、これはこれで中々悪くないんじゃないか、なんて思えて来る。香織っていう女の子の内面の可愛らしさがちらりと覗いているような、そんな感覚さえ俺の中に生れて来る。
「これ、自分で選んだのか?」
俺が聞くと、香織は恥ずかしそうに答えを返してくれる。
「え……っと、実は、お父さんが誕生日にプレゼントしてくれたんです。じ、自分からだと、ピンクなんて選ばないかなー……って。あ、でも、私このカメラとっても気に入ってますよ。自分からは恥ずかしくて選ばない、ってだけで、むしろ、これプレゼントしてもらったとき、すごく嬉しくて、ホントは出たときからずっと気になってたの。お父さん気付いてくれてたんだ、みたいな気持ちになって、とっても……」
たしかに、照れて饒舌になった香織のその表情を見ていれば、本当にこのカメラを気に入って大事にしているって何の抵抗もなく伝わってくる。加えて、家族のこともとても大事にしているんだと。そんな香織の笑顔を見ているだけで、こっちの胸にもなんだかほんわかした気持ちがわいてくるようだ。
「いいな、それ。香織にぴったりだ」
自然と、俺の口からそんな言葉がすべり出ていた。
「それ……褒めてくれてると思っていいのかな?」
「ああ……もちろん」
「あ……ありがとう」
香織が嬉しそうに微笑む。柔らかで愛らしい笑顔に思わず引き込まれそうになる。
「あっあのっ、そ、それじゃ、今度、一緒に写真撮りにいきませんか? もちろん、そ、その……写真部の活動の一環としてですけど」
だから、香織がそんなことを言いだしたとき、ごくごく自然な気持ちで俺は頷いていたのだった。
KAORI
き、きゃー! さ、誘っちゃった……平坂くんのこと、誘っちゃった……。
も、もちろん、あくまで写真部の活動としてだけど……そ、それでも物凄い大進歩だよね、私!
それに、いろんな話もできたし……委員会の仲間としてだけじゃなく、部活仲間としても、も、もちろん、それ以外……かの……じゃなく、そ、そう、ともだち! ともだちとしても、もっと仲良くなれたらいいな……。
自宅に帰ってきて、お夕飯を済ませた私は、お風呂につかりながら、真っ赤になった頬を両手ではさむようにして今日のことを思い出して含み笑いを浮かべていた。ハタから見てたら結構気持ち悪いかもだけど、お風呂でひとりきりだし、べつにいいよねっ!
そのとき。
『かおり……』
……え?
誰の声? お父さんでもお母さんでもない、女の子の声……。
『香織……きこえる、香織?』
小さいけれど、はっきりとした声。耳のそば……ううん、これは、私の頭の中に響いて来てる?
わたしは、はじめて聞くのに不思議となじみ深いようなその声の主を求めて浴室の中をきょろきょろと見渡した。
そして、私が、鏡を覗いたそのとき、そこに映っていたのは、私とは違う……ううん、私だけど、私じゃない『誰か』だった。
『ああ、やっと会えたわね、香織』
彼女は、私の心の中にだけ伝わる言葉で、そう言った。
「だ……誰?」
『私は沙織。あなたの中にいるもう一人のあなた。双葉沙織よ』
SAORI
そう。私は双葉香織の中にいる、いわばもう一つの人格。っていっても、普通の多重人格のそれじゃなく、ある秘密の一団の手により、おそらく(自分でおそらくなんて言うのもなんだけど)ある種の自然霊? 精霊? と思われる霊的存在を、人為的に幼いころの香織の肉体に受肉させられた存在なのだ。
もっとも、霊的存在だった頃の記憶や意識はかなり曖昧だ。こうして論理的な思考力や記憶力を持つことが出来たのは、香織の肉体といういわば〈ハードウェア〉と一つになったから。受肉前の自分のことにせよ、現在の自分がいわゆる非―人間と言われる存在であることも、後から学んだことだ。
なんにせよ、私は、香織には彼女が理解できるであろう範囲は包み隠さずすべてを話すことにした。私の正体から目的まで。私が香織のことを嫌いじゃなく、騙すようなことをしたくないからってのもあるけど、そもそもあの男から真実が伝わる可能性だって決して低くない。
そうなると、もし嘘をついて香織に言う事を聞かせようとしたとしても、それがバレたとき、一気に香織からの信頼を失うことになる。だったら、ダメ元のつもりででも初めから全部話して、彼女に自発的な協力を求めるのが一番良い。
もちろん、そう上手く行くとは限らない……つーかはなから思わないが、たとえ協力が取り付けられなかった場合でも、何とか秘密だけでも守ってもらえるようには出来ればと思う。
繰り返すが、ここで私が香織にコンタクトを取らなくても、あの男が香織に先にすべてを伝える可能性があるのだ。だから、とにかく私が先に香織にコンタクトして、最悪の事態だけは防がなくてはならない。あの男に先を越された場合、十中十まで、香織は奴の方に付くことは間違いない。
それに、それだけじゃなく、今でこそ私は多重人格症例でいうところの『上位人格ポジション』であり、『私は香織の記憶は持つが、香織は私のことを知らない』状態となっているが、場合によっては通常の多重人格症例のように『統合』が起き、相互に記憶を共有するような事態も発生するかもしれない。
外部から他者の魂を結合させられた〈私たち〉の場合は、通常の多重人格症例と違い、その可能性は低いとは思うものの、皆無とも言い難い。
なにしろ私は〈黄泉姫〉の実験体、しかも失敗例だから、この先なにが我が身に起きるかは、正直なところ自分自身でも不透明な部分が多いのだ。結局、ここでコンタクトを取るならば、私は香織に全てを伝える必要があるってこと。
また、念のため言っておきたいのは、仮に私と香織との間に『人格の統合』が発生した場合でも、それで、私が根本夜見子のような〈黄泉姫〉となれるのかというと、そう単純な問題でもないのだ。ハッキリ言えば、その可能性は限りなく低いと思っている。ぶっちゃけてしまえば、多分、無理だと思う。
私なりの研究の結果、〈黄泉姫〉となるためには、霊的な改造により、単純な1+1ではない、乗算的と言っていいだけの霊的回路の強化、魔力容量の爆発的とも言える拡大がほぼ最低条件と言っていいだけの必要性がある。
人智学でいうところの『第二・七年期』の最後である十四歳を過ぎ、すでに一六歳となっているこの香織の肉体では、今さら人格統合が行われたところで、ほとんど有意な影響などなく、通常の心理学的な統合としての意味合い程度しか恐らくは持たない。
あの、おそらくは現存する唯一の〈黄泉姫〉である根本夜見子のような、ほぼ完璧な人格統合が幼少期から達成され、かつ、『霊的エネルギーの吸収能力』『火のエレメントへの半自動変換能力』『変換済みエネルギーの放出・使役』などといった、現時点ですらすでに常識のレベルを超えた能力をわがものとした真の〈黄泉姫〉となど比べ物になるはずもない。
私の持っているものは、半・非―人間として常人よりはマシである程度の魔力・霊力の容量、適性と、香織の意識が眠っている限られた時間を費やした学習と修練で得られた魔術師としての知識と能力のみだ。
僅かながらでもこれから〈黄泉姫〉となれる可能性があるのは、私の血のつながらない実の妹、リリスだけだろう。それにしたところで、可能性は決して高くなく、しかも、根本夜見子ほどの完成度に至れるとは思い難い。
だけど、それでも私たち〈姉妹〉はそれをやるのだ。リリスもまた、その成功率の低さも、成功してさえ根本夜見子に及ばないであろう結果も充分に知っている。
それでも……。
あ、でも……さ、流石に、この前の異次元校舎事件のとき、あの男が、アクシデント……そう、純然たるアクシデント、あれは事故! だったとはいえ、その、私のスカートに頭を突っ込んで、おまけに私がその頭を自分の……その……口に出来ない部分に自分から押しつけてしまった件だけは……秘密にさせて頂きました。ンなコト話したら、香織のことだもん、ヤツと顔合わせられなくなっちゃいそうだもんね。
それに、この件に関してだけは、たとえ万が一さっき言ったように私と香織との間に『記憶の共有』が発生した場合でも、内緒にした事情はさすがに理解してもらえると……思うし。ははは……。
『ところで香織』
「……え?」
ひととおりの説明を終えた私は、香織の中へ引っ込む前に、平坂のヤツに対するにおいて私の気付いたことをアドバイスしてやることにした。
『私はそろそろ引っ込まなくちゃいけないけど、とりあえず今出来るアドバイスがひとつだけあるの』
「……なん……ですか?」
『あなた、間違ってもコンタクトにしたりしちゃダメよ?』
「ど……どうしてですか? 目に悪いから?」
『うんにゃ、アイツ……平坂ね、多分だけど、眼鏡好きだから』
これは、割と自信あるわよ。あんとき、必死で私に眼鏡かけさせようとしたのはヤツが眼鏡好きの証拠だと見た!
「……ほぇ?」
KAORI
私は、あまりに信じがたい内容に、しばらく何も言えませんでした。
……いえ、眼鏡のことじゃなく。
「……くちゅん!」
湯ざめしそうになってくしゃみが出てしまったところで我に返った私は、慌ててお湯に浸かって身体を温め直したのでした。
それから数日が経ったある日の放課後。
「こんちゃー、双葉香織はんやねー」
「えっと……あ、貴女は?」
学校帰りの途中、とつぜん私の前に現れたのは、私よりも十センチ以上も背が高く、胸とかのボリュームもひとまわり……どころか、下手をするとなん回りも大きそうな、そのくせなんかのコスプレなのか中学校の制服を着た、細いたれ目と笑顔の印象的な女の子でした。
「どもー、ウチは沢村明音いいますー、お兄さん……平坂はんの知り合いですねんー」
「平坂……委員長……の?」
その笑顔と同じ、ほんわかした声と、ちょっと胡散臭い感じの間延びした関西弁のしゃべり方に、私は、何故か警戒を覚え、思わず身構えてしまいます。そういえば、なんとなく見覚えがあるような……どこでだろう。や、やっぱり、彼のことを好きなひとなんだろうか? そ、そんなひとが私なんかに何の用なんだろう……そんな風に、いろんな考えが不安とともに頭を駆け巡っていると、彼女は、人を安心させるような柔らかな笑みとともに、私の不安を打ち消すように言いました。
「あー、ちゃうちゃう、ウチはやねー、どっちかっちゅーと、あの人の妹の方の友達でなー、まあ……どっちかっちゅーと、お兄さんの方には苦手意識っちゅーか……あーいや嫌ってるとかそーゆー意味やないんやけどなあははー」
「い、妹さんなんていたんですね」
知りませんでした。話の感じからすると、亀井さんのことじゃ……ないんですよね?
「まーなー、ちゅーても割とややこしい関係だったりもするんでー、血は繋がってへんのやけどなー」
……血が繋がってない? な、なんか微妙に不穏な……。でも、そんな複雑な家庭の事情かかえてらしたんでしょうか?
と、そこでハッと気付く。そうか、これが沙織の言ってたことなんだ、と。
「それで、沢村……さんは、私にどんなご用なんでしょうか?」
そのことを知っているってことは……私は、彼女に抱いた警戒心を隠しながら問う。
「あー明音でええよー、どの道年下なんやしー」
「……としした?」
えええええ? ど、どう見ても私より身長もずっと高いしむ……胸だって……なのに。
「なんやー傷つくなーちゃんと中学の制服着てるやんー」
え、あ、あまりに発育良くて貫録があるんでほんとに中学生とは思わなかったっていうか。
「ごっごめんなさい」
とは言ったものの沢村さんはけらけらと屈託なく笑っていたので、あんまり気にしなくても大丈夫なのかな?
そのとき。
「あぶない!」
明音さんが、さっきまでと打って変わった鋭い声で私に叫び、手を引いた。さっきまで私の居た空間を、なにか大きなものがさっと通過する。
「な、なに?」
「……ウチがおるっちゅーんに襲ってくるとはなー……いよいよウチの立場も微妙になってきたっちゅーことかなー」
彼女が私にはよくわからないことを呟く。それを聞きながら私はそのなにかを見る。
「お、狼?」
そう、それは、灰色……ううん、銀色の毛並みを持った大きな狼だった。うん、どう見ても犬には見えない。狼だ。それも、それこを私くらいだったら背中に乗れそうなくらい大きな。その狼が、私たちに向き直り、いまにも跳びかかろうと身構えている。
「香織はん、ウチの後ろに」
明音さんが、私をかばうように左手で私を自分の背後へとまわす。女の子としては大柄な彼女だけど、いくらなんでもあの大きな狼にはかなうわけがない。私の顔はきっと真っ青になっていただろう。
「ふん、高々人造人狼一匹でウチがどーにか出来ると思うとるわけやらへんやろ、となると」
彼女は前の狼を警戒しつつも、周囲にも気を配っている。まだなにかあるんでしょうか?
『香織、しゃがんで!』
突然頭の中に響いてきた沙織の声に私は反射的にしゃがみ込む。
私の頭上を通り過ぎるモノ。見ると、もう一頭の狼が私たちを挟み込むようにしていた。
「ひ……っ」
こんなの普通じゃない、一体なにが起こっているの……?
『香織、私と替わりなさい!』
沙織の声が私の頭に響く。
「さ、沙織!」
私は、ポケットから取り出したコンパクトを開き覗きこむ。果たして、そこにはもう一人の私である『双葉沙織』の顔が映し出されている。もちろん、それは私のイメージの中だけであり、他人には普通に私の顔が映って見えているはずだ。そして、鏡と私の内面との間に閃光がきらめく。これも、私のイメージの中だけだ。だけど、その閃光とともに、ぐるりと何かが入れ換わるような感覚が私を襲ったその次の瞬間、今度は私が鏡の中にいて、少し淡い色となって、長くなった髪を持つもう一人の私を鏡の中から見上げていた。
つまり、私、香織と沙織とが入れ換わったのだった。
もちろん、私の魂はあくまで私の身体の中にあり、鏡の中に入ってしまったわけじゃない。沙織にしても、さっきまで鏡の中にいたわけじゃない。鏡はあくまで私たちにとって、一種の連絡手段みたいなものであり、沙織が出ているときでも私の意識を覚醒させ、沙織と対話できるように、また、沙織の方からも私と対話できるようにするための一種の『窓』なのだ。
続けて沙織は小さな鏡をあしらったイヤリングを一つ取り出し、右耳たぶに着ける。これで私の方も、鏡を通して、沙織のなかだけにいるより外の様子をある程度はっきりと捉えられるようになる。
「私だって戦闘は得意じゃないけど……香織のままよりはマシだからね」
〈表〉に出た沙織が呟き、明音さんと背中合わせとなり、新たに現れた方の狼に向き直る。たしかに、何もできない私のままよりはマシかもしれないけど、状況はいまだに改善されたとは言えない。沙織の額を汗が一筋流れる。
「へっへー、二匹とおいでなすったかー、挟み撃ちであわよくばさおりんくらいは始末しようっつーハラかいなー」
しかし、明音さんの声には余裕がある。彼女には、こんな状況を切り抜ける自信があるのだろうか。
「てゆーか、あんたならこんな連中簡単に始末できるでしょうに、ソロール・ウンディーネ」
あ……ソロール・ウンディーネって昨日沙織が説明してくれた話に出てきた……彼女がそうなの?
「ウチが両方始末したってもえーんやけどな、出来たらアンタのジツリキってヤツをちょっと見てみたいしなー、一匹あんたに受け持ってもらってえーかいなー?」
「……だから、私は戦闘は苦手ですのに……わかりました、わかったわよ! ええもうそのかわり、最低限もう片方は責任持ってくださいよね!」
憤懣やるかたない感じで沙織が言う。だ、大丈夫かしら……。
「おっけーおけー、つーかもう片付けとるよーん」
「……へ?」
そう言うと、明音さんが片手を挙げるや、彼女の足元から伸びた影の片手もまた上がり、彼女に正対した狼の顔に重なる。
「ほい掴まえた」
彼女が言うなり、狼の顔に落ちた影の手形に真っ白い霜が浮かび、そのまま頭部全体があっという間に凍りつく。
「うりゃー」
気の抜けた声とともに明音さんが右手を握る。その瞬間、狼の頭部が粉砕する。残された胴体も、糸の切れた人形のようにぱたりと倒れ、あっという間に風化して塵となった。
「な……」
沙織もあまりのことに絶句する。沙織は彼女のことを〈水〉魔術の天才だとは言ってたけど、その沙織でさえこれほどとは思ってなかったにちがいない。沙織に向かい合った狼も、たじろいだ様子を見せる。
「ほななさおりんそっちは任せたでー」
影で凍らせた狼の頭を握りつぶした右手をひらひらと振ると、彼女はそう気楽な声で言う。
「どうしろっていうのよもう……」
沙織がぐぬぬ、と小さく唸る。明音さんはあっさりと塀に背中をもたせて腕を組み、傍観の態度を取る。狼の方も、それを確かめるや、私たちの方へと向き直る。沙織が持っている攻撃用の魔術といえば、初級的な護身用のアストラル・パンチと……。
「ま、あんまりソロール・ウンディーネみたいな厄介なヤツに手の内は見せたくないんだけどね……」
沙織はそう言うと、右手で剣指を組んで頭上に掲げる。
MISA
……ったくもー、平坂のトーヘンボクの朴念仁め……。
下校中の通学路、私は、そうぼやきながら何度目かのため息をついた。
「よぉ光紗」
「うゎひゃあ!」
な、なななんでどうしてあんたいるのよ!
「ずいぶんだなおい」
苦笑しながら平坂のヤツが立っている。さ、さっきぼやいてたの聞かれてないわよね?
「と、ととところでどーしたのかしら? あんたの方から声かけて来るなんて珍しいわね」
「明日は付き合えって言ったのは自分だろーが。一人でとっとと行っちまったくせに」
……あら、そーだったわね。迂闊だった。
「……今日は双葉さんの方はいいのかしら?」
我ながら声にトゲが出てしまうのを抑えられなくてちょっと自己嫌悪。
「いいも悪いも約束したろ?」
その言葉に思わず頬が熱くなる。だって、私の方から一方的に言い捨ててったみたいなもんなのに、〈約束〉と捉えててくれたんだ……。
「う、うん、ありがと」
ホントやっすい女よね私。でも大安売りは平坂にだけだもん! だからいいの!
「それで、どこに付き合わせたいんだ?」
「……へ?」
そう言われてはたと困る私。か、考えてなかった……つーか、今日こんな風に付き合ってくれるとか本気では思ってなくてひとりで帰りかけてたくらいだし……。
うゎあなに勿体無いコトになってんの私。こんなことだったら普段から不測の事態に備えてしっかり計画立てとくんだったわうゎあうゎあ。
「……まあいいよ、適当に気の向くままぶらつくのだって悪くないだろ」
私の困惑を見てとったのか、平坂がそう言ってくれる。ったく、こーゆートコは気を使ってくれるんだもんなー。
「そ……だね。そんじゃ、とりあえず駅前あたりにでもれっつごー!」
そう彼に返し、私は平坂の左腕をぐいっと抱きしめて引っ張っていく。
「お、おい、急に走るなって。そ、それにおい! あ、当たってるってーの!」
なにがって? ふっふっふ、当ててるんだもんねーだ! 恥ずかしいけど、このくらいしなきゃ、強敵たちにはかなわないからね!
YOMIKO
「夜見子さーん」
お兄ちゃんからの今日は用事があるってメールを見ながら学校からの帰り道をちょっと肩を落としながら歩いてると、後ろからそうカメ子の声がした。
振り返ってみると、果たしてたったったったと駆け足のはずなのにヤケにゆっくりとカメ子が近づいてくる。ああそーか歩幅がやたら小さいのネ。あーゆートコが女の子らしーのかしらん。
「よっ。で、どーしたのョ」
あたしはしゅた、と片手を軽く挙げて応え、振り返って腕組みして仁王立ちになり、カメ子の近づいてくるのを待つ。お、遅い……それにしても改めて考えると恋するオトメとして仁王立ちはどーなのかあたし。今さらポーズ変えるのもなんか癪なんでそのままあえて開き直ってどっしり構えた風を装うが、カメ子の女の子っぽさを目にしながらだと、自分が女の子としてどーなのかって気がして内心はあまり穏やかでない。
「あ、髪型変えたんですね。素敵です」
軽く息を弾ませながらよーやくあたしのそばまで来たカメ子がサイドテールにしたあたしの髪を見てそう言ってくれる。ほら、恋敵のはずのあたしに対してからがこれだもん。だんだん意地張ってカメ子のコトライバル視してるのがバカらしくなってくる。
「ん、まァもーすぐ夏だしねー」
とはいえ、さすがにこの前お兄ちゃんにこの髪型見せたときの話はしないほーが良さそうな気がする。
「夜見子さん、顔赤いですけどどうかされました?」
「あ、ううん、何でもないわョ」
と誤魔化す。油断すると顔がへにょりそうになるのを引き締める。
「今日はお兄さまと一緒じゃないんですか?」
「ん、今日は用事なんだってさ」
「そうなんですか、残念です。それじゃ、今日はおヒマなんですよね、この前、みつ豆の美味しい甘味屋さん見つけたんですが、一緒にいきませんか?」
「……む?」
その言葉にあたしの耳が反応する。
「みつ豆ともーしたか?」
「はい」
「美味しい?」
「はい!」
「そ、それじゃ仕方ないわネアンタがどーしてもってゆーなら一緒に行ってあげてもいいわ」
「はい、どーしても夜見子さんとご一緒したいです」
カメ子のやつがくすくす笑いながらそー言う。思いっきり見透かされてる感じだけど、あんまり不快じゃないのは、なんだかんだであたしもカメ子のコト、恋敵云々を別にすれば嫌いじゃなくなってるってコトなのよネ結局。やれやれ。
MISA
「えっへっへー」
思わずにやけた声が出てしまうけど仕方ないわよねっ。少なくとも今だけはコイツのことひとりじめだもん。そんな浮かれた気持ちが私の足をなんとなく人気の無いほうへと向けていたのは、やっぱり下心めいたものがあったことを否定するのは難しいと思う。
「こっちだと駅前へは遠まわりじゃないのか?」
「いいじゃない。それとも……二人っきりになるのいや?」
ちょっと上目づかいで攻めてみる私。はたしてヤツめの顔が赤くなる。言葉は無いけど、むすっとしてるくせに真っ赤になった耳たぶ見れば、嫌がられてはいないってのは充分伝わってくる。カワイーヤツめ、うふふふふ。
なんだかんだ言っても、少なくともまったく脈が無いなんてことはないと思うのよね。こーゆーときの反応とか見てもさ。
あとは、どーすればコイツの気持ちを私の方へとぐっと引き寄せられるかなんだけど……難問よねー。コイツの重度のシスコンっぷりはとりあえず置いとくとしても、どーも女の子のタイプとしては、私みたいなのはコイツの好みのタイプとはかなり食い違ってるような気がしてるのよね。
一年の頃からずっとコイツのこと見て来た限りでは、多分コイツの好みは、ストレートの黒髪で、小柄で、しかも胸が……ぶっちゃけその、小さめ、ってのが好きなんじゃないかと思われるのよねー。夜見子ちゃん、三千代ちゃん、それにあの香織さんも程度の差はあれどほとんどみんなこのタイプじゃない。そして、私はっつーとこの全部にほぼ当てはまらないってゆーね……。
なんせ、髪はクォーターなせいで染めてるわけじゃないけどウェーブがかった茶色だし、胸も自慢するわけじゃないけど……つーか好きな人の好みでない以上自慢になんてなりよーもないわけだけど、どっちかってーと大きい方だと思う。
身長に関してはさすがに学年平均とそう変わらないし、大柄ってことはないんだけど、少なくとも今挙げたライバルたちの誰よりも高いのもこれまた事実、とくる。
うう、でも、それでも私が好きになったこの人は、女性を好きになるのにそーゆー外面的な要素にはそんなに本質的に重きを置かない……と信じてはいる、信じては……いるんだけど、それでもやっぱり少しばかりではあっても不利なことは間違いないわけで。
「ここの公園突っ切れば近道なのよね。それとも、ここでちょっと休んでく?」
公園前までやってきた私は、彼の顔をちょっと斜め下からのぞきこむようにしてそう言う。
必殺のななめ上目づかいをくらえっ!
「そうだな。どうせ足任せだし、それも悪くないか」
そう言いながらも彼の頬がちょっと赤くなっている。効いてるかしら? 効いてるわよね?
夜見子ちゃんほどストレートにはなかなかなれないけど、気持ちの強さならそうそう負けてないつもりだもの。周りは強敵ぞろいだけど、引き下がる気はないんだからね。
私は、彼の前を踊るように歩く。たったったっとステップを踏むようにかけてみたり、くるっと振り向いて笑いかけてみたり。私のこと可愛いって思ってくれるかな、思ってくれたら嬉しいな、そう思いながらふたりっきりの公園ではしゃぎまわる。好き。好き。大好き。そんな気持ちをふりまくように。
「光紗!」
そのとき、とつぜん彼が私の名前を呼び、手を取って引き、抱き寄せる。えっなになに、これどんな状況なの?
そう一瞬嬉し恥ずかしななんかを期待したけど、彼の顔をみたときそんな甘い気分は即座に吹きとぶ。私のことを庇うように抱きよせながら、彼の目は私じゃなく、公園の生け垣の方を見ている。鋭く、厳しい目。完全な戦闘モードに入っている。私も、それを見て、気持ちを切り替える。
甘い展開はお預けになっちゃったけど、私を引き寄せてくれたあの真剣な顔と声で十二分にチャラ! それよりも、生け垣をざわめかしてなにかが出現しようとしている。私たちをじらすように、ざわざわ、と僅かだけども不自然なざわめき。
彼はカバンから三段式の警棒を取りだすと、一振りして伸ばす。でも、街の不良のひとりやふたりならいざ知らず、この前のときみたいな化け物相手にはあまりに心もとない。だけど、不安は不思議なくらい感じない。彼は普通のひとだし、私だって今は、ようやく夕方ちかくになったとはいえ日中だから普通の女の子と変わらない力しか持っていないっていうのに。それはきっと、彼のしん、と静まった眼差しと口元に浮かんだ冷ややかな微笑のせいだろう。
彼は、警棒(良く見ると、それは市販のそのままではなく、塗料などを使って何かの図形や彩色がなされている。きっと彼のいうところの魔術武器ってやつにしてあるんだろう)を右手で掲げ、すっ、とざわめく生け垣の方へと向ける。指された生け垣は、まだざわめいている。わざとらしいくらいに。
「エロヒム・ゲボォル!」
彼はそう叫んで警棒を突き出した。振り向きもせず、私たちの背後に。
「グギャア!」
喉を潰されたかのような短い悲鳴とともに、どさりと音をたてて地面に落ちたのは、灰色の毛皮をまとった狼だった。そして、彼は返す刀で生け垣の方へと再び警棒を突き出す。真っ赤な閃光とともに、僅かな時間を置いて生け垣から同じように跳びかかってきた狼が迎撃されて地に落ちる。
「つまんねェ手だなおい?」
彼はそう言い放つや、まず最初にたたき落とした狼の頭に、警棒の先端を地面と垂直に突き立てる。ぱきゃっ、と頭骨が砕ける音とともにまたも赤い閃光が走り、頭を砕かれた狼は瞬く間に塵になった。
YOMIKO
意気揚々と甘味屋への道を歩くあたしたち。近道をしようと公園を横切っているときにそれは起こった。
そのとき、あたしの盆の窪のあたりの産毛がざわり、と逆立つのを覚えた。
間一髪、あたしはそのとき感じた直観に忠実に、大きく転がるようにその場から離れることで難を逃れた。
「お、狼?」
カメ子の怯えたような声がする。
「マジか……」
つい一瞬前まであたしのいた空間を切り裂くように跳んできた銀色の大きな塊が、地面に降りたつや、ふたつに分裂し、二頭の大きな狼の姿へと姿を変える。
赤く爛々と燃える目があたしたちを射抜くように焦点を結んでいる。何をどー考えても、あたしたち二人を狙って襲ってきたものに間違いない。それも、明らかに普通の狼ですらない、超自然の怪物だ。さっきの表現は、例えでもなんでもなく、見たまんまのこと。本当に、不定形の銀色の塊が分裂して、二頭の狼に姿を変えたのョ。
あたしは、咄嗟に周囲の状況を見渡す。なるべく身体や顔は狼どもに正対する位置を外さないよう、視線だけで。人気はない。不自然なほど。
例によって結界が張られているようだ。あたしらが公園に踏み入ってから張ったんだろう。結界が張られている中に踏み込む場合すぐにそれと判るしネ。警戒の姿勢を崩さないままカメ子を後ろに庇う体勢にじりじりと移動する。
「例の〈高天原〉ってトコの奴らかしら?」
後ろに庇ったカメ子に小声できく。
「……わかりません。可能性はあると思いますが、団員すべてを知ってるわけじゃありませんし、けれど、それにしても術が高度すぎると思います。むしろ上位結社の方が可能性は高いかも」
「この前お兄ちゃんの学校襲ったヤツらの仲間かしらネ。アイツもメルなんとかって金髪マネキン野郎が変身してンのかしら?」
「メルキジデクですね。でも、あれはもう少し低級な使い魔の方かも。強さの方まで低級ってわけじゃないと思いますが……」
そう話してるうちにも、狼どもは二手にわかれ、あたしたちを挟み打ちにするようにゆっくりと移動している。あたしの方も、カメ子をかばうとゆーより、カメ子と背中合わせになってそれぞれの狼と向かい合う体勢になってゆく。あたしは、さりげなくカメ子の三つ編みを留めているリボンを後ろ手にするりと解く。カメ子が頷く気配を背中に感じる。カメ子の三つ編みにした髪が内側からするすると解かれてゆく。あとは彼女が合図するだけで、彼女が髪の中に棲まわせている黒猫の使い魔、ノワが跳び出せる。ノワが髪の中で力をためている気配があたしにも伝わる。当然、狼どもにも伝わっているだろう。あたしらの間の緊張が高まってゆく。
「夜見子さん、呼吸を……」
カメ子が背中越しにあたしに囁いてくる。
「1、2、3、4……」
あたしは、カメ子の言う通りに胸式で四つ数えて吸い、二つ数えて止め、また四つ数えて吐く呼吸法を試みてみる。狼と向かい合っている状況だけど、カメ子はあぶなくなったらノワを出すからリラックスしろという。カメ子もまた呼吸をあたしに合わせて来る。やがて、急激に意識がクリアーになる感覚。うゎ、なんだこれ。
「四拍呼吸。魔術の基本になる呼吸法です」
カメ子があたしに囁く。なるほど、あたしの中の霊的パワーが純化されて、また呼吸によって周囲の霊的エネルギーが効果的に取り込まれているようだ。もちろん、直に相手のパワーを奪ったりしたときとは比べ物になんないけど、それにしたってこれまでみたいにただ闇雲に周囲のパワーを集めようとするよりは何倍かはマシだ。
「サンキュね」
あたしは、短くカメ子に礼を返す。カメ子も頷き返してくる。やがて、あたしらと狼たちとの緊張感がピークに達しようとしていた。
SAORI
私は、右手の剣指を狼に向けて牽制しつつ、慎重に左手で脇にかかえたカバンから、香織のピンク色のカメラを取り出す。そう、何を隠そう、これが私の切り札なのだ。
『なんかときどき妙にバッテリー減ってるときがあると思ったら沙織が使ってたんだ……』
香織がなんか言ってる。なるべく壊さないようには気を付けるから見逃してねてへぺろ。
『てへぺろじゃないー!』
香織のツッコミが入る。
『それはそうと、なにをするつもりなの?』
狼の動きを警戒しながらも、レンズキャップを外し、電源を入れてカメラをヤツに向ける私に香織が語りかけて来る。
とにかく、ヤツの……出来れば、心臓のあるあたりを撮影したい。私は、心の中でそれを香織に伝える。だが、それには、この位置では不可能だ。あの狼が、跳びかかってくるのをかわし、その隙を狙わなくてはならない。しかし、狼を警戒しつつもほとんど手探りでカメラを操作しなくてはならないため、どうしても手つきが危なっかしくなるのはどうしようもない。時どき背面液晶の表示をチラ見して確認するが、いつ狼が襲いかかってくるかと思うと気が気じゃない。
『しょーがないわね、撮影は私がやったげるから、沙織は回避の方に集中して』
……え?
そう思うや、私の両手が急に流れるようにカメラを操作し始める。このカメラだと少し面倒な高速連写の設定を、ほとんど見もしないであっという間に完了する。まるで私の手じゃないみたいに……ううん、実際に両手が私の意志を離れて……はいないが、基本的には私の意志に沿いつつも、カメラの操作に慣れた香織がサポートしてくれているのだ。私は、そのことに少し衝撃を受ける。
一度……一度だけ、しっかり回避するのよ。一度なら……私でもなんとか出来る、きっと出来る。
私は、狼の初動を見逃さないよう、前肢の動きに意識を集中する。
「来た!」
私は、跳躍した狼の爪と牙を、間一髪でかわす。だが、どことなく自分の動きに違和感を覚える。いや、思うように動かなかったとかじゃない。むしろ逆。間一髪には違いないにせよ、思ったよりは余裕があったというか。
『あぶなかったね』
そう、香織の声が私のなかに響いたとき、私は思い当たった。
どうやら、私と香織、ふたりの意志がひとつの目的に統一されることで、若干だけど、身体能力が引き上げられているみたいだ。体感からすると、大体通常の二~三割程度向上している感じだろうか。これは、私が香織にぜんぶ告白したことによる嬉しい副産物、というところだろうか。ただし、逆に言えば、私が香織の意志に反する行動をとる場合、引き下げの覚悟もしなくてはならない、とも言える。
『撮ったよ。それで、これをどうすればいいの?』
私の頼んだ通り、私が意識しない間に香織は〈自分の〉手で、狼のヤツを撮影してくれていた。これで……ヤツをやっつけられるわ。(いやシャレでなく)
私は、香織の撮ってくれた画像をカメラの背面モニターで確認する。もちろん、ふたたび私に向き直って今にも飛びかかってきそうな狼を警戒しながら、横目でちら、ちら、とだ。
そして、高速連写されたその中から一枚を選び出し、モニターに表示する。ヤツの胴体、だいたいこの真ん中がヤツの心臓があるあたりだ。
右手で剣指を切った私は、モニター上に写しだされたヤツの心臓の位置に指先を突き立てるように当てて、大天使ミカエル召喚の聖句を振動させる。
「イーヴァ・アロアー・ヴァ・ダート」
ぱっ、ぱっ、と黄色いフラッシュ光が瞬く。
狼は、私の行動をどこか人間臭くも訝しげな様子で伺っていたが、やがて、びくん、と痙攣するや、がくがくと全身が震えだした。
遂には狼の頭部が膨れ上がり、やがて、目、耳、鼻など頭部に開いた穴という穴からぴゅーと鮮血が吹き出し、ぱたり、と地面に崩れ落ちた。そして、そのまま明音の斃した狼と同じように、塵となって行った。
「……何をやったんや?」
「心臓をね、ちょっと」
私は、それだけを口にした。デジカメの撮影画像を通して、狼の心臓に過剰に生命エネルギーを集中させ、鼓動を通常の五十倍の速さにしてやった、なんていつ敵になるかもわからない相手に詳しく説明してやる義理はないわよね。
「ふむー、応用力に優れてるんは優秀な魔術師の条件のひとつやねんからなー、流石はウチが見込んだだけのことはあるやんなー」
「おだてたって何も出ませんよ?」
つくづくこの女は考えてることの底が見えない。いやが応にも私が本気を出さざるを得ない状況に持ち込んで、私の能力の、少なくとも一端を見ようとしたってのは間違いないでしょうが、いったいそれで何をしたいのだろうか。そう思ったとき、馬鹿が口を開いた。
「いぇーウチと契約して魔法少女になってーなー」
……おまえは何を言ってるんだ。
「……何言ってるんですか貴女」
思っただけでなく、呆れた気持ちが口にも出た。
「なにって、優秀な魔法少女の沙織ちゃんに、我らが高天原ロッジへの勧誘やあらへんのー」
「……いえ、そうじゃなく……私たち、〈魔法少女〉じゃなくて〈魔術師〉でしょ?」
ソロール・ウンディーネの能天気なへらへら笑いに頭痛がしそうな気がしつつ私は言った。
「はっはっはー頭固いねんなーさおりんはーええやんそないな細かいこたー」
「……っ、貴女が無駄に柔らかすぎるんでしょーがこのヲタ魔術師! 私たち〈魔術師〉は、自らの意志で秘儀参入を受け、己の力を磨きあげ、一歩一歩位階を登り、修練を積んで魔力を鍛えあげた誇り高い存在でしょ! 外部から力を付与されたりなんかアイテムで変身したりして一気に魔力を手に入れるよーなアニメの魔法少女と一緒にしないでください! つーかなによさおりんて!」
「……ふーん」
「な、なんですか」
「さおりんは生真面目で可愛いやんなー」
ぶっ。
面白そうにニヤニヤして私の顔をねめあげるソロール・ウンディーネ。うう……憎たらしいヤツ。
「まー魔法少女の設定にしても作品ごとにいろいろやねんけどなー」
「いやそういう話はいいですから」
なんかもう際限なく関係ない話へと脱線していきそうなヲタ魔術師を制止する。
「えーせやかてー」
「ていうか、貴方たちと敵対関係にあるはずの私をその結社に勧誘するとか、それこそ貴女なに考えてるんですか」
さっきまでのバカ話を置いておくとしても、全く言っていることがわけがわからない。彼女の意図は一体なんなのかしら?
「まーおバカな話はさておくとしてやなー、ウチとしちゃ、アンタがどこで誰に師事したんかっちゅーことが気になるワケやねー。いくら何やかて、アンタの年齢でその実力は、独学でどーにかできる範囲を明らかに超えとるからなー」
ソロール・ウンディーネの細い目が鋭さを増す。ふん、そういうことですか。だけど、そうそう私の秘めたる師のことを、とくにコイツになんて話せるわけがない。
「それに、ウチかてそろそろ高天原での立場もあやしくなってきよったみたいやしなー」
と、やや自嘲気味に呟く。
「……だったら、何故?」
「アンタは〈黄泉姫〉の秘密が欲しい、ウチもそろそろ高天原におるんは潮時かもしれへん。まー、ぶっちゃけた話、暫定でええんで、ウチと組まへんか、ってコトやねー」
「……」
なるほど、ようやく見えてきました。要は取り引きをしよう、ってことね。私の仕掛けもまだ完成には至っていない。もうしばらくの時間を必要とする。その間に、〈黄泉姫〉に関する情報はすこしでも手に入れておきたい。
ヤツの方も、なんだかんだで高天原への敵対と見られかねない行動を繰り返しているし、このまま留まるか離反するかの選択を迫られているんだろう。そのため私を利用したい、ってとこか。私を味方に付けて離反するか、逆に捕えて残留のための手段とするか。その辺は今後の状況次第ってとこだろう。油断はならないヤツだけど、お互い利用価値はあるってとこか。とはいえ……。
「……すこし考えさせてもらっていいかしら?」
ヤツ、沢村明音が黄泉姫……根本夜見子に入れ込んでいる、という事実は忘れてはいけないだろう。ヤツの思惑とは別の次元で、私が黄泉姫に手を出そうとした途端後ろからバッサリってこともあり得ないことじゃない。
それを考えると即答するのは危険な気がするので、私はとりあえずそう答えておく。
「ええでー。さすがにすぐ返事もらえるよーなことでもあらへんしなー」
明音はへらっと笑ってそう言った。
「ほななー、ええ返事ぃ待ってるでー」
明音は右手をひらひらと振って立ち去って行った。
「ワケわかんないヤツ……」
私は自分がえもいわれぬ顔をしているのを自覚しながらそう呟いた。
しかし、私、双葉……香織でなく、沙織、という普通の意味では存在しない個人を二度もはっきりとした形で狙ってきた以上、奴らは私の計画にある程度気付いていると考えてもはや間違いあるまい。問題は、どの程度のところまで私の手の内を読まれているか、ということだ。
私が作ってばら撒いた偽心霊写真は、香織が家で自分用に貰っていた印画紙をバレない程度に拝借して少しずつ作ったものだ。それをある程度入手されていたとすれば、そこから香織にたどりつくことは不可能ではないだろう。
もう少し用紙などの入手先を考えるべきだったかもしれないが、さすがに香織のおこづかいにまで手を付けたら香織自身も不審を抱いただろうし、今さら言っても仕方ない。
本当に、ほんとうに香織が気付かない範囲でほんのちょっぴりずつ拝借してこっそりと某所にへそくっていた小銭貯金はここぞという使いどころを慎重に考えないといけないし。大体そんなに大げさにいうほど貯まってるわけでもないし。
ともかく、私の計画についてもそろそろ次の段階へ進むべきだろうか。ばら撒いた写真で多くの人の無意識に僅かずつ働きかけることでアストラル界に少しずつ構築していったあれも、かなりのところまで行っている。完全とはいかないのは残念だが、無理押しで完全を期すことでかえって元の木阿弥になっては仕方ない。
私は、そんなことを身体を香織に返して帰途につきながら考えていた。
YOMIKO
「今ョ!」
あたしの掛け声とともに、カメ子がノワを飛び出させる。あたしも、体内の〈火〉のパワーを制御しつつ開放する。この前みたく、服を焼いちゃったりしないように。下手に広範囲に広げるんじゃなく、細く、小さく凝縮するように。数瞬の集中の後、あたしの右手には、〈火〉のエレメントが約三十センチほどの長さの短刀状に結晶化されて逆手に握られていた。
「凄い……」
赤く結晶化されたクリスタルのような短刀の中に、炎のゆらめきが見て取れる。こんなの初めてだ。そこに込められたエネルギーの膨大さもまた右手を通してあたしに伝わってくる。
でも、感心している場合じゃない。あたしは、逆手に握った短刀を掲げると、するすると狼に向かって仕掛けてゆく。まるで短刀に導かれるかのように身体が動く。こんどは高く跳ぶんじゃなく、低く伏せた姿勢から飛びかかってくる狼をさばくように避けると、そのまま横薙ぎに短刀を振るい、狼の背中やや側面を大きく切り裂いた。なんと、切り裂いた傷口からぼっ、と炎があがる。
「ギャァアアア」
また、妙に人間くさい悲鳴を上げると、狼はごろごろと転げ回り、どうにか火を消した。傷口からは、血は流れず、しゅうしゅうと黒い煙があがっている。血が出ないというより、最初からあの狼の身体には血など流れていないのかもしれない。
ノワの方はというと、小さな身体を活かしてちょろちょろと狼の足の間を駆け回り、後ろ足を一瞬にして爪で切断してみせた。これでもう動けないも同然だ。返す刀でたーん、と跳び上がるや、狼の背中に乗り、もう一度跳ぶと、狼の頭頂部に着地し、また跳んで、くるくる回って今度こそ地面に着地する。
一瞬の後、ノワの乗った背中、頭頂部から黒い霧か煙が噴出し、狼は完全に力尽きて塵となり、消滅した。それにしても、あの子ホントに強いわよネ。もうほとんど無敵じゃね? 飼い主(?)とはエラい違いだァね。一頭の最期を確認し、あたしはよろよろと立ち上がったもう一頭に向き直る。ダメージは受けているみたいだけど、目には怒りが燃えている。でも、あたしも負けずに狼をにらみ返す。
しん、と周りから音が消えたかのような不思議な感覚とともに、狼があたしに飛びかかってくるのがまるでスローモーションのように見える。あたしは、自分の喉を狙ってくる牙につけこむようにして、短刀をするすると狼の首に走らせた。
「夜見子さん!?」
カメ子の声とともに、あたしの感覚が元に戻る。あたしに飛びかかってきた狼はそのままあたしの横を通り過ぎ、べしゃりと無様に地面に叩きつけられる。その首と両の前肢が胴体から離れて転がり、次の瞬間、双方の切り口から炎を上げて燃え尽きたのだった。
「ふぇあぁあー」
緊張の糸が切れたあたしは、そんな情けない声を上げてぺたんこ、と地面に座り込んでしまった。短刀も、あたしの手から離れるとともに、ぱっ、と火の粉となって消えた。
「だ、大丈夫ですか?」
カメ子とノワが心配そうにあたしの横に同じようにぺたんこ、と座り込んで背中や肩を撫でてくれる。
「だ、大丈夫ョ、ありがとネ」
にはは、って感じであたしはカメ子にお礼を言いながら笑いかけたのだった。
HIRASAKA
一体は上手いこと不意をつくことで斃すことができたが、問題はもう一頭の狼だった。
日が出ている以上、ヴァンパイア・クォーターの力を発揮できず、普通の女の子と変わらない光紗をかばいながらの戦闘は、さすがに思うに任せない。自作の魔術武器、サマエルのタリスマンを三段式警棒の柄に仕込んだ、いうなれば〈タリスマンロッド〉は期待以上には役立ってくれているが、なにしろ使っているのが素人に毛が生えたようなものである俺だ。残った一体に手を焼いているのは仕方ないところだろう。
「だあっ!」
掛け声とともにタリスマンロッドを振るう。赤いフラッシュ光とともに飛びかかってきた狼をはじき返すが、タリスマンにチャージされたパワーは明らかに目減りしている。さっきまでの半分近くになったフラッシュ光がなによりもそれを物語っている。このままじゃジリ貧だ。さてどうしたものかな。
日が落ちるまではまだ数十分はある。それまでは光紗は普通の子と同じ力しか持たない。まあそんなことはどうでもいい。そんなに長い時間光紗を怖がらせたままにするつもりもない。
そんなわけで、俺は、そろそろ本格的に次の手を打つことにした。
MISA
「きゃあっ」
狼の爪が一瞬前まで私のいた場所を薙ぎ払う。その爪になびいた髪が数本だけ持って行かれるが、幸いそれだけで済んだ。彼が私の肩を引いてくれたおかげだ。
「怪我はないか?」
「うん、大丈夫」
もどかしい。夜間やあの異次元のときみたいにヴァンパイアパワーを発揮できたなら、あんな狼なんて一発でぶっとばしてやれるのに。ただ昼間ってだけでこんなにまで何も出来なくなるなんて。判っていたつもりでも、これほどまでに無力になってしまうのか、私は。でも、同じように普通の人と同じ力しかないはずの彼は、あの狼に必死に立ち向かっていて、さっきは一頭を斃してすらいる。
それにしてもこの人はどういう人なんだろう。奇妙なくらい修羅場に慣れているっていうのか、単に武器を用意してあったとかそんなレベルじゃなく、こんな少しでも気を抜いたら即座に殺されてしまいかねない状況でも冷静さを失っていない。もちろん必死であることは当然だけど、それは全力であるっていうだけで、むしろ、こんな状況下では、全力を出すことが出来ている、ということそれ自体が冷静であるっていう証明だと言っていい。
考えても見てほしい。誰がこんなふうに突然こんなところにいるはずの無い獣に襲われて、それでも慌てもうろたえもせず戦えるっていうのか。しかも、さっきまず一頭を斃してから、二頭目には手を焼いているとはいえ、幾つかの打開策を一つ一つ試しては次の方策を淀みなく繰り出している。本当にこの人の頭の中はどうなっているのかと思ってしまう。そのとき。
「そろそろ捨て身で行くしかないか」
彼はそう呟くや、なんと狼に正面から向かい合ったまま棒立ちになってみせた。
「そろそろケリつけようぜ、ほら、ここだ」
そう言いながら、彼は自分の喉をさらし、左手の親指で指し示して見せる。
「平坂!?」
私は、思わず叫び声をあげてしまう。果たして、狼は彼の喉笛に牙を突き立てようと跳躍する。
「だから単純なんだよ」
彼はそうせせら笑いを浮かべながら呟くと、自分の喉首の前にロッドをかざし、それを狼に噛ませた。だが、狼の体重の激突に喉首こそ守れたものの、そのまま押し倒されてしまう。
「掴まえたぜ」
彼は、跳びかかられる方向をおそらく考えに入れていたのだろう、路面じゃなく、柔らかい芝生の上に、だけどそれでもしたたかに肩や背中を打ちつけられ、その衝撃に顔をしかめつつもそう口にして、ぐりん、と力任せに両手で噛まれたロッドを狼の首を中心にして回す。
ごきり、と嫌な音とともに、これまでで最大の真紅の輝きがロッドから発せられ、狼の首の上下がが百八十度ひっくり返る。それとともに、びくん、と狼の身体が跳ね上がるように痙攣し、どさり、と横倒しになる。
「……ひっ」
凄惨な光景に思わず私の喉から短い悲鳴が漏れる。だけど、それで終わりじゃない。
「ま、まだ生きてるわ」
首を百八十度ねじられたにもかかわらず、狼はまだどうにか動こうともがいている。やっぱり普通の生き物じゃないんだろう。
「返してもらうぜ」
そういって彼は狼からロッドを取りかえすや、一頭目のときと同じように、ロッドの先端を地面と垂直に突き立てるように狼の頭蓋に振り下ろした。とどめを刺された狼は、例によって塵となって消えたのだった。
「やれやれ、参ったぜ」
そう言うと、彼はようやく緊張を解いたようにどっさと芝生の上に腰を落としたのだった。
「大丈夫、怪我はない?」
私は、大急ぎで彼のそばに駆け寄ると、彼の全身をぺたぺたと手で触って怪我の様子を確認する。
「お、おい、大丈夫だって。大丈夫だからそんなにぺたぺた触らなくて良いって」
「あ……ご、ごめん」
我に返った私は顔を赤くした。
「でもまあ、光紗の方こそ無事で良かった」
彼は、そう言ってにっこりと笑いかけてくれたのだった。
SAORI
「~♪」
浴室に香織の気持ち良さげな鼻歌が響く。
私は香織のなかで、香織が身体を洗う感触を味わいながら今日のことを思い返していた。
それにしても、意外だったのは、香織が想像以上に私に協力的になってくれ、それだけでなく、非常時にもかかわらず、腹の据わっていたことだ。
その上、〈私〉が肉体の主導権を持っているときに、ある程度自分の意志を私の動きに対して乗せて来たこと。もちろん、私と香織とが基本的に同じ意志を持って動いていたときだからこそ、であるにせよ。香織って子は本当に普通の女の子だと思っていたのに、これには驚きを禁じ得ない。
ん……ふゃん。
香織の手が胸を洗っている。香織はそりゃ自分の手で洗ってるわけだから平気なんだろーけど、私の意識の方はそうはいかない。
なまじ普段より意識を表面に上らせて、身体との同調率を高めてたのがその……いまの私からすればこれは、なかば自分以外の手で自分の身体を洗われているようなものなわけで……あン。泡立ったスポンジが……その、先っちょを……くぅん。
「……ねえ、沙織?」
『……な、なに、香織』
私たちは、浴室の鏡を介して対話してる。香織の主観のなかでは、いま鏡には私の姿が映っているだろう。
「その……なんかヘンなこと考えてない?」
香織の顔が熱くなってる。きっと真っ赤になっているんだろう。なんだか、腰のあたりをもじもじさせている。や、ヤバい、私の変な気分が香織にも影響与えちゃったのかも。
『う……いやいやべつにそんなんじゃなくてねそのあの私からすると香織に身体洗ってもらってるような感じになっちゃったんでねそのあの』
恥ずかしさのあまり、思わずしどろもどろになってしまう。
「あー……そ、そなんだ……」
なんか言いたいことは伝わったみたい。は、恥ずかし……。
「でも、なんだか妙な気分だね」
『なんの話?』
「沙織のこと。ふふ」
『私の?』
香織は、なんだか不思議なくらいに私のことを受け容れている。普通なら、もっと動揺するなり反発するなりしてもいいと思うのに。
「なんだか、急にふたごの姉妹が出来たみたい」
香織が、そんな言葉を私に伝えて来る。
『……姉妹、か……』
そうだな、言われてみると、たしかに、私の方も、なんとなく香織に対しては姉妹みたいな感情を持ってる気がしてる。リリスに対するのとはまた違うような、近いような。
……しっかし話は変わるけど、常々思っているんだが、気に喰わないのはアイツ、平坂のヤツの、あの人を見下すようなせせら笑いだ。思いだすだけでムカムカしてくるわよねもう。
そんなことをぶつぶつ呟いていると、おかしそうにくすくすと笑う香織の声が私に語りかけて来る。
「ねえ、知ってる沙織? 彼があの顔するのってね、自分より強いと思った相手だけなんだよ?」
……へ?
『……私の方がアイツより強いとは思えないんだけど』
よーしゃなくボコられたし。むかつく。
「うーん、じゃ、言い方を変えよっか。そうだね……自分を殺せる相手だけ、って言った方がいいのかな。その方が近いかな?」
『……アンタ結構怖い表現するわね』
「そうだね。ようやく彼と同じ場所に立てた気がするから……」
『え? ちょ、香織? あんた、アイツがああいうことしてるって知って……?』
「そうだよ、沙織、気付いて無かった?」
くすっ、と笑って香織が驚くべきことを言う。
「私ね、あのときから、ずっと知ってたんだよ。彼がああいう事件を調べたり、解決したりの仕事してるって。だけど、私じゃ彼と同じ場所に立てるなんて思ってなかったから、一線を踏み越える勇気もなくて、離れたとこから彼のこと見てるだけで、でも、ずっと憧れてて。だからね、沙織、あなたが私のなかにいてくれて、よかった」
『香織……』
「でもね、今はまだ、あなたの力に頼ってるだけだから、彼の隣りにはたどり着いてない。だから、彼の隣りには、いつか、ちゃんと私自身で行ってみせるからね」
おっどろいたなあ、香織ってこういう子だったんだ。物心ついた頃からずっと〈二心同体〉だったってのに、初めて知った。
香織がこれほど激しい想いを秘めていただなんて。香織がこれほどの芯の強さを秘めていただなんて。
香織が、これほどまでにアイツのことを好きだったなんて。
『それにしても、あの顔って怖いとは思わないの?』
「え? そんなことないよ? だってあんなに素敵じゃない」
そう言って、香織は頬を染める。鏡に映るその顔は、同じ顔した私でも見とれてしまいそうな可愛らしさ。これが恋する乙女の顔ってやつなのかね。つーか、私にゃこの顔は出来ないわ……。
……そういえば。
そもそもの香織がアイツのことをハッキリと意識したあの事件でも、アイツはあの顔をしてたっけ。
あのときの私は意識を沈められてたから、香織を助けることも出来なかったし、事件の詳細すらほとんど記憶していないんだけど。ただ、危機に陥った香織を結果的に助けたのがアイツだったってことと、香織の脳裏に強く残ったアイツのあの顔の印象だけが私の知っている全てなんだけど。
とはいうものの、それ以前から、香織がアイツのことを気にかけていたのもまた事実。
私は、改めて気になって、香織に尋ねてみる。
『そういやさ、香織はなんでアイツのこと気にし始めたの?』
「え、沙織、知らなかったの?」
『私は、香織と〈記憶〉は共有してるけど、思考や気持ちを読めるってわけじゃないのよ。だから、香織の見たものや聞いたことはわかるけど、そのとき考えたことや感じたことまでは必ずしも判らないのよ』
「そうなんだ」
『そうよ。それに、すべての記憶を共有してるってわけでもないし。とくに、私の意識も表に出てないときは眠ってることは多いから、そういうときの記憶は私にとっては欠落してる部分が出やすいみたいね』
「複雑なのね」
『まあね。だから、香織がアイツのことどうして気にするようになったのか、ちょっと知りたいな、って』
「……うん、じつはね、最初の切っ掛けは彼の撮った写真だったの」
『写真?』
「うん。それも、作品として撮ったようなのじゃなく、図書委員の仕事の掲示物のために撮った、ただの記録みたいな写真。なのに、何故かとっても惹かれたの。直截で、ぶっきら棒で、ただただリアルな感じ。なのに、対象にまっすぐ向き合って、ありのままを捉えよう、っていう意志……とでも言えばいいのかな。そういうのを感じたの。そして、思ったの。このひとの写真をもっと見てみたいな、って」
『そいつは知らなかったわ……それとも、気付かなかったって言えばいいのかな?』
もっとも、言われてみればその写真のことはうっすら覚えてる気がするし。
「だから、彼が実は同じ写真部だって知ったときは嬉しかったなあ。なかなか部には顔出してくれなかったけどね、あはは……」
『ところで、アイツの写真を見てみたいとか言ってたけど、それだけじゃなく〈撮られてみたい〉とかは思わなかったのかな?』
私は、ちょっとからかうように言ってみた。
「な、な、なに言ってるのかな沙織?」
なにこの慌てっぷり。私は急にいたずら心が湧いてきて香織に追い打ちをかけてみる。
『ほーかほーか香織ってばそんなにアイツに撮られたいんだにやにや』
「そ、そそそそんなことないよ? いいいくらなんでもまだわたしたちこうこうせいだしそんなはだ」
……おい。今なに言おうとしたコラ。
『……いや、私そこまでは言ってないんだけど。香織って意外とえっちだったんだ……』
私の素で呆れたような口調で、香織は我に返って顔をさっきよりさらにぼん、と爆発的に赤く染めた。
「はぁうううー」
ずぶずぶと口元のあたりまでお湯に浸かりこんでぷくぷくと口元を泡立てている。お湯に負けないくらい頭から湯気が出ているわよ大丈夫かこの隠れえっち娘。それにしてもまさかホントに撮らせたりしないわよね? 私ら身体共有してるんだからね? 貴女の裸は私の裸でもあるんだからね? ちょっとだけ心配になってきたわ……。
「そ、そんなことしないよぉ……それに、私そんなに可愛くないし……」
『……ずっと思ってたけどね、香織のいちばんよくないとこはその自己評価の低さよね』
「そんなこと……ないと思うけど」
『うんにゃ、香織はもっと自分に自信を持っていいと思う。大体アイツだってね、香織が髪型変えてったときの顔覚えてる? 大口あけてあんたの顔に見とれてたじゃないの』
「そう……かな? 私にはよくわからなかったけど」
『まあ……香織も結構テンパってたからね。でもね、真面目な話、間違いなくアイツはあんたのこと意識してるわ。女の子としてね』
「けど、それにしたって紅さんや亀井さんにかなう気はしないし……」
『そんなことないんだけどなあ……第一ね、私に言わせればね、少なくとも〈アイツの好み〉で言うなら、香織、あんた誰と比べてもそうそう負けてないはずよ?』
「こ、このみ?」
ざぶん、とお湯が揺れる。
『私の見るところじゃね、アイツの好みのタイプは紅光紗よりは、あんたや亀井三千代の方に近いと思う。そして、亀井三千代はアイツにとっては妹的存在……なら、香織の勝ち目は決して低くないわ』
そう。多分、香織にとって最大のライバルは今挙げた二人よりむしろ……。
「ほんと……かなあ」
『自信持ちなさい。あんたは自分で思ってるよりはずっと可愛いんだから』
「はう……」
私の言葉に香織は真っ赤になって口元までお湯に沈み込んで真っ赤になった。
……ちゃんとのぼせる前に上がるのよ?
ところで、さっき香織にも言ったように、たしかに私は香織と〈記憶〉は(私の方が一方的ながら)共有しているけど、その思考、思いまで完全に共有しているわけじゃない。だから、香織の思っていることでも、私が知らないこともあるんだけれど……。
それでも、翌日の香織の行動には、私も改めて驚かされたことを告白しなくてはならない。
HIRASAKA
翌日の放課後、委員会活動のとき、香織にこっそりと手渡されたメモで俺は写真部の部室になっている教室に呼び出された。
一体何の用だろう、と思いながらも、俺は昨日の襲撃事件のことを振り返っていた。俺がどうにか恐らくは刺客なのであろう二頭の狼から光紗を守り切った後のことだ。
「あ……ありがとう、平坂。私がこんなトコに来たせいて襲われたのかも、なのに私、何も出来なくて……」
しょげる光紗に、俺はぽん、と右手を彼女の頭に乗せて言う。
「ンなわけないだろ。襲おうと思ったのは向こうの方だし、本気で襲おうと思ったならば、いつかは襲われるよ。むしろ、光紗が一人のときじゃなくて良かった。それに、本音を言うなら、光紗が戦わなくて済むならその方が良い。お前に戦わせなくて済んで良かったって思ってるんだぜ、俺は」
自分の力で女の子を守ってやれたこと、光紗を戦わせずに済んだことにささやかな満足を覚えつつ、俺は光紗の髪をかるく撫でてやる。
「平坂……アンタってやっぱ、私のこといつも助けてくれるんだね……えへへ」
「……う」
そうはにかむように笑顔を浮かべた光紗は、とても愛らしくて、惹きこまれずにはいられなかったことを告白せねばなるまい。
「でぇえええーい!」
「おぅわっ!?」
そんな威勢のいい声とともに、俺の腰に後ろからいきなり抱きついてきたのは、まァ言うまでも無いが夜見子であった。
「よ、夜見子、どうしたんだいきなり」
「むぅー、だってお兄ちゃんと紅さんが仲良さそうだったからうううー」
ちょっとほっぺをぷうっと膨らませた夜見子が可愛過ぎてまた理性を失いそうになるがさすがにここは堪えました。本当です。
「その……実は、私たちもさっき襲われたんです」
「カメちゃん、本当か?」
「夜見子ちゃんと三千代ちゃんも?」
こちらはしずしずと現れたカメちゃんが驚くべきことを言う。
そのときの様子を二人から詳しく聞きだした俺は、じっと考え込む。俺たちがともにそれぞれ二人でいるときに、二頭の狼に襲われたってのはどういう意味を持つのだろう。本気で俺たちを殺す気だったんだろうか、と考えると、どうもそう言いきれないものも感じる。
たしかに、俺たちが全力で立ち向かわなければ殺されていただろうが、あれは、俺たちに対する一種の探り、乃至脅しであり、殺しても構わないが、何が何でも殺そう、とまでは思っていなかったのではないか。そして、襲われたのは果たしてここにいる四人だけだろうか?
そこまで考えると、俺たち同様襲われる可能性がある者たちにあと丁度二人の心当たりがあることに気付く。つまり、明音と……香織だ。この二人も俺たち同様二人でいるときに襲撃を受けた、あるいは受けるのだろうか?
しかし、この二人っていうのは今一つ組み合わせとしてピンとこない部分がある。接点が少なすぎるのだ。〈香織〉ではなく〈沙織〉の方としても、むしろ明音と沙織はこの前の異次元校舎事件を思い返すと、あまり反りが良くないようだった。むしろ反目していると言ってもいいくらいだろう。
「夜見子、明音と連絡はとれないか?」
「あ、ウン。ちょっとケータイかけてみるネ」
俺の言いたいことを察してくれた夜見子が、明音に電話をかけてくれる。
「あ、もしもし明音? いやそーじゃねーっての。えっとネ、今日なんか変わったコトとかなかった? え、べつにないって? そんじゃサ、双葉さん知ってるわよネ? ホラあの人」
どうやら明音はさすがに無事のようだ。彼女のことだから、俺たちと同様の相手に襲われたのなら、苦も無く撃退できるだろうから、襲われたかどうかは彼女が正直に話してくれないことにはハッキリしないだろう。どうやらシラを切っているようだしな。
「ン、わーった。そんじゃまた明日ネ」
そう言って夜見子は電話を切る。
「……明音のヤツ、あたしに隠しごとトカ百年早いっつーのョ」
「そうか」
「ン、あのバカ、襲われたかって聞いたら急に棒読みになりやがって、アレじゃ本当は襲われましたって言ってるよーなもんよネ。それともワザとか」
「香織の方は?」
「おんなしョ。多分知っててシラ切ってるわネ。まァあいつが一緒だったらきっと無事ョ」
「……そうか」
俺は少しホッとした。
「てゆーか、お兄ちゃんは双葉さんの連絡先知らないの?」
「……ああ、知らない。そういえば聞いて無かった」
この前部活に行ったときに聞いておくんだったと後悔する。なかば家族同然だったカメちゃんや、大事な妹である夜見子、強引に番号メアド交換させられた光紗と違い、まだ互いに距離感を手探りしていた感がある香織に対し、俺の方から連絡先を聞いたりするのがちょっと気恥ずかしかったからなのだが。だから、今日登校してきたとき、隣の教室に入ってゆく香織の姿を見たときは心底ホッとしたものだった。
……と、そこまで思い出したところで部室の前にたどり着く。しかし、来たはいいが、香織の姿が……と室内を見回したところで、入口からはすこし影になった机に、香織が突っ伏してすやすやと寝息をたてているのを発見した。
どうやら、香織は俺を待っている間に、うたた寝をしてしまったようだ。
「う……ん」
机にうつぶせになって眠る香織の頬に、俺はつい手を伸ばし、指先で、その頬をそっと撫でた。
ずきん、と胸が痛む。この頬を、俺は殴ったのだ。もちろん、あのとき、この頬の主は、俺たちの前に敵として、命のやりとりをする相手として、すなわち魔術師・双葉沙織として現れたのであり、いまでも、あのとき『沙織を』殴ったことに関しては後悔しているわけじゃない。
対等の敵として、殺し、殺される可能性がある立場で出会った沙織を殴ったことは、いまでも間違いだったとは思っていない。それを否定することは、むしろ、危険を冒してまでリリスを助けるため、敵である俺たちの前にその姿をさらした沙織の覚悟を侮辱することだと思っているから。
だが、その沙織の頬は、香織の頬でもあった。何も知らない少女の顔だ。俺は、いまさらながらに、あの翌日、香織の頬が僅かに赤く腫れていたことを思いだす。あの腫れは、俺の拳で出来た腫れだ。知らなかったとはいえ、なんの罪も故もなく俺の手で打たれた痕だ。
「ごめんな……」
俺は、うたた寝する香織を起こさないよう、声を低くして謝罪の言葉を口に乗せる。
だが、彼女に直接届かない謝罪などに、なんの意味があるのだろう。とはいえ、それを彼女に届けるためには、沙織のこと、リリスのこと、夜見子たちの秘密、そして『黄泉姫』のことを、ある程度までは話さなくてはならない。彼女が『香織』でいる限り、できるだけそんな隠された世界のことには関わらせたくない。彼女の安全のためにも。だったら、俺はこの秘密を胸にしまい、あえてこの罪悪感をずっと抱え続けて楽になったりなどしないことが、香織に対する最大の謝罪なのかもしれない、と思う。
俺はそう思いつつ、香織の頬を慈しむように撫でた。と、つい、その頬の柔らかさに心を捉えられ、触れた手を離す機会を失ってしまう。触れていれば触れているほど、この同じ委員会で同じ部活の女の子に気持ちを惹かれてゆくのが自分でも判る。もう離さないと、と思いながらその柔らかな感触を惜しみ、やがて、右手のひらをぴったりと彼女の頬に触れさせたとき、香織の目が開けられた。
「ん……あれ、寝ちゃったん……だ、え?」
彼女の意識が覚醒するにともない、俺の手が彼女の頬にぴったりと付けられていることに香織が気付いてゆく。
「ひ……ひひ平坂くん?」
触れた手に、熱が伝わってくる。それとともに、当然のように香織の顔も真っ赤に染まってゆく。
「あ……す、すまん」
俺は、慌ててその手を引こうとする。が。
ほかならぬ香織の手で、俺の右手は引きとめられていた。
「か……香織?」
俺の手を取ったまま、香織がゆっくりと身を起こす。俺の瞳を真っ直ぐに見つめたままで。
こんな香織は初めてだった。
そして、彼女は言ったのだった。
「あ、あのっ、い、委員長……う、ううん、平坂くん……」
「お、おう」
香織が思いつめたように俺の名を呼ぶ。
「そ、その、来てくれて、ありがとう」
「ああ、待たせちゃって、悪かったな」
「ううん、私こそ、自分で呼び出しておいて寝ちゃったりして……」
そう言って、香織は照れ臭そうに苦笑する。
「それで、俺に話ってのは……」
俺は、話を本題に振った。
「あ、はい。そ、その、平坂、くん……」
「ああ」
香織は、俺に真っ直ぐ向き直り、意を決した顔で、真っ赤になり、つっかえつっかえになりながらも、それでもはっきりと俺にその言葉を伝えて来た。
「す、好き……です。い、一年の頃から、ずっと、好き、でし……た」
震えた声で香織が声を絞り出す。
衝撃。頭を横からブン殴られたような。
「め、迷惑かもしれませんけど……言いたかったんです。私なんて、紅さんみたいに綺麗じゃないし、亀井さんみたいに可愛くも無いし……望みがないんだったら、フって下さって構いません……ただ、伝えたかったんです……」
俺のことを見上げて、思いつめた顔でそう口にする香織。その目が不安と諦めとほんの欠片ほどの期待……希望との間で揺らいでいる。
俺は……彼女にどう伝えればいい?
断るのか? 受け入れるのか? 彼女の思いつめた態度は、以前紅に答えたような先送りの回答を許さない切羽詰まった響きをはらんでいる。きっと、香織はずっとこの想いを俺に知られることなく抱き続け、それに踏ん切りをつけるつもりで伝えに来たのだろう。生半可な気持ちで答えるには、彼女の想いはあまりに真剣なものだと思う。俺が……もし、数分前の俺が、それに応えて真剣に返事をするなら、きっぱりと断るべきだったろう。だが。
綺麗じゃない? ふざけんな。
可愛くない? 馬鹿言ってんじゃねェ。
だったら、どうして俺はこんなに動揺して……これまでの誰に告白されたときでさえこんなになったことがないくらいドキドキさせられてんだよ。
そして、たった今、気付いた。
気付いてしまった。
俺は……どうやら、双葉香織って女の子を、いつのまにかひとりの女の子として好きになってしまっていたらしい、ということを。
さらに言うなら、これが自分で自覚している限りでは、俺の初恋ってヤツであるらしい……ということを、だ。
口の中が乾いてうまく声が出ない。いや、そのせいだけじゃないけどな。
どうにか絞りだした声は、何を言うべきかとか考える余裕も無く、ただそのとき思っていたことを迂闊にもそのまま言葉にしてしまっていた。
「俺も……たぶん好きだ、香織のこと」
香織のくりっとした瞳が一瞬大きく見開かれ、潤んでゆく。頬が薔薇色に染まり、嬉しそうな、信じられないような表情が浮かんでくる。なんてことだ、俺の馬鹿野郎。いまの俺と香織との関係は、たとえ好きだからって、簡単に付き合うだの何だのといったことが出来る関係じゃない。なにしろ、潜在的な敵同士なのだ。いずれ必ず訪れるはずの沙織との対決。沙織が夜見子を狙っている以上、それは避けることが出来ない全面対決となる。そのとき、俺と香織の関係もまたこれまで通りでいられるはずもない。
だから、俺は香織との関係は普通の友達、普通の部活仲間、委員会仲間にとどめておくべきだったのだ。だが、口に出してしまった言葉はもう取り戻せない。俺にとっても、香織にとっても。それでも、最後に決定的に香織を傷つけないようにしたいのなら、ここで『それでも』と突き放す以外にない。俺と香織の関係をここで、この場で終わらせるしかない。
「平坂くん……」
そう思っているってのに、俺の両手は、なんで香織の両肩に乗せられてるんだ。
切なげに瞳を閉じて背伸びしている香織を押しとどめようとしないんだ。
そうして、俺たちの間にあった何かが限界に達しようとしたとき、悲鳴のような声が空気を切り裂いた。
「ダメえええええっ!」
そう叫びながら教室に飛び込んできたのは誰あろう夜見子だった。
「夜見子、どうしてここへ……?」
動顛しながらも俺はきく。
「だって……お兄ちゃんが遅いから、迎えにきたの……ョ」
今にも泣きそうな顔で、いつもの夜見子からは想像も出来ないようなか細い声で夜見子が答える。
「よみこって……それじゃ、この子が黄泉姫って子?」
香織がそう口走り、ハッとしたように手で口を覆う。
「黄泉姫って、どうしてお前がその言葉を知っているんだ、香織?」
香織は、バツが悪そうな顔をしていたが、すぐに気を取り直し、俺の気持ちを惹きつけてやまない柔らかな笑顔を浮かべて言った。
「……うん、知ってる。沙織から聞いたから。それに、あなたのことも。あのときから、ずっと」
「知ってるって……それに、あのとき、って、いつのことだ?」
思いもかけぬ事態に困惑しながらも、俺は香織に問う。さっきの香織の言葉は嘘じゃないと思う。だが、今香織の口から沙織の名前が出た。いったいいつ香織は沙織のことを知った?
「え」
返事の代わりに香織の口から洩れたのは、そんな意外そうな、間の抜けたような声だけだった。
香織の胸の真ん中に剣が突き立っていた。ただし、実体の剣ではない、影、あるいは闇で出来たような……そうとしか言いようがないものが。
彼女の肉体には傷一つついていない。無論、一滴の血も流れていない。香織の制服の胸元も剣の切っ先で切り裂かれてすらいない。だが、判ってしまう。その剣は、香織の……恐らくは肉体よりもむしろ、彼女の中にある魂に、霊体に突き立っているのだ。
「香織!」
俺の凍りついていた身体がようやく動き出し、俺の好きな、そして、俺のことを好きだと言ってくれた少女の名を叫んだのは、影の剣が夕日に溶けて消え、香織の身体が糸の切れた人形のように教室の床にくずおれた直後のことだった。
つづく
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黄泉姫夢幻Ⅴ~ダブル&ダブル~の全文を公開します。激動の第5巻です。