人通りが少ない廊下だと、
やや間があってから、“どうぞ”という声が中から返ってくる。部屋に入ると、書類に眼を落としていた斗詩の顔が上がった。
「すみません。まだ仕事が片付いてなくて……」
「手伝おうか?」
「いえ、もう終わりますから。申し訳ないんですが、少し待っていてもらえますか?」
“わかった”と答え、近くにあった椅子に腰掛ける。ただ待つのも手持ち無沙汰なので部屋の中を眺めていると、本棚が目に入った。
「待っている間、ここの本読んでてもいいか?」
「ええ、もちろん。どれでも好きに取ってもらって、結構ですよ」
本棚から適当に一冊抜き取り、パラパラと中を流し読みする。乗馬術について書かれた本らしく、こちらの本にしては珍しく画が多い。文字ばかりだと骨が折れるが、これなら俺でも読破できそうだ。
『猿でもできる乗馬術 ~初級編~』
著:武霊王
表紙に記されていたタイトルに、深く感銘を受ける。
この時代から“猿でもできるシリーズ”は出版されていたのか。これは本腰を入れて、読み進めないと。
○ ○ ○
「気に入ったのなら貸しましょうか、それ?」
頭上から不意に声をかけられ、首を持ち上げると湯のみを持った斗詩が側に立っていた。湯のみから立つ白い湯気から、茶の良い香りが漂う。
「すまん。とっくに終わってたんだな」
読みかけの本を膝の上に置き、出された湯のみを恭しく受け取る。
「お茶まで淹れさせてしまって……」
「私から呼び出しといて待たせていたんですから、これぐらいさせてください。もっとも、本職だった一刀さんのお口に合うかは、保証できかねますが」
「斗詩が淹れてくれたんだ。美味いに決まってるよ」
茶の作法は小間使いのときに一応仕込まれたが、披露する機会は一度も訪れることなく御伽衆に転職してしまった。そんな実践経験ゼロの俺が淹れるより、斗詩のような美少女が淹れてくれたお茶のほうが美味いのは、自明の理というものだ。
「おだてても、お菓子ぐらいしかでませんよ?」
「それで充分さ」
出された菓子を頬張り、お茶を口に含む。甘味に満たされた口に茶の渋みがよく合った。
「警備隊の仕事が忙しいのに、呼び出してすみません」
「軌道に乗るまではかなりバタついていたけど、最近はそうでもないよ」
今の発言、斗詩に気を遣せない狙いもあったが、時間に余裕が出てきたというのも本当だ。
治安が向上すれば他国にいる仲間も呼び寄せるという、多数の商人から進言を受け、そこから予想税収を算出。その数字を交渉材料に一区画のみではあるが、詰め所の増設と警備隊試験運用の許可が下りる。これまで治安維持は軍が行っていたため、演習や賊の討伐に無縁な警備隊の効果が現れるのは早かった。森林の開墾作業を元黄巾兵にあてがったことで、罪人への恩赦を優先したと、不満の声を上げていた職の無い移民らを隊員として雇入れたことで、失業率が低下したことも治安向上に一役買ったのだと思う。懸念していた資金面も、治安向上と税収増加という結果を出したことで、出資者の数と国からの予算も徐々に増え、一区画から始まった警備隊も今では、街のほぼ全域をカバーできる組織にまで成長した。
「その節は、顔良将軍にも大変お世話になりまして」
立ち上げ当初の警備隊には、鍬しか握ったことが無いような人間ばかりだったため、警邏のやり方から暴漢の対処法といった、警備のノウハウを教わる必要があった。そこで講師役として呼ばれていたのが、軍部の人間というわけだ。
ちなみに講師の一番人気(非公式)は、数回の出演にも関わらず分かりやすい説明とその愛らしい外見で多くの隊員を虜にした斗詩がダントツ。“グッとやれ”や“バッといけ”といった分かりづらい感覚的な説明を多用し、無茶な訓練で多数の怪我人を出した猪々子が最下位を飾っている。
「いえいえ。警備隊のお陰で、治安維持に軍部から人員を割く必要がなくなって、大助かりです」
「けど、今は厄介な案件でも抱えているんじゃないのか?」
「……どうして、そう思うんですか?」
「いや、部屋に入ったとき難しい顔してたから……」
斗詩は少し考えこむが、やおら立ち上がり机の上から何かを取ってきた。
「これを見てもらえますか?」
手渡されたのは竹簡。紐を解き膝の上に広げると、そこには多数の名前が羅列されているだけだった。
「今、新しく文官を入れようとしていて、その責任者を私がやらせてもらっています」
「じゃあこれは、候補者の名簿ってこと?」
「はい」
「へぇ、結構いるなぁ」
名簿にざっと目を通していくと、ある名前で視線が留まる。
「知った名前でも書いてありましたか?」
「あぁ。前にいた所で、だけどな」
名簿を卓の上に乗せ“沮授”と書かれた箇所を指さす。
「この沮授さんと同一人物かはわからないけど、俺が知っているのは優秀な人物として名前を残しているよ」
シュミレーションゲームだと、政治と知力のステータスが90台の強キャラだったはず。どのような功績を挙げて、その評価なのかまでは知らないが。
「他に見覚えのある名前は?」
言われて今度はじっくり眺めてみるが、
「――う~ん? 他には見当たらないなぁ」
「そう、ですか」
竹簡を元通り丸めて、斗詩に返す。
「これから試験を設けて、実務能力を見極めるのに試験雇用するとかなったら……」
「ええ。それなりの期間が、必要になるでしょうね」
これで、難しい顔の理由に得心がいった。
「それで眉間の皺が、あんな大変なことに……」
「えぇ!? そんな寄せていましたか、私?」
「うん。五台山の渓谷並にふっか~いのがね」
慌てて手鏡を取り出し、指の腹で眉間を揉み始める斗詩。大して深くもなかったが、いたずら心がムクムクと膨らんでしまい、つい話を盛ってしまった。
期待以上の反応を見られたことに満足し、茶を一口啜る。
「手間がかかると分かっても、人材の確保で手抜きはできませんから」
眉間から始めたマッサージを顔全体にまで施して満足したのか、ようやっと体をこちらに向けてくれた。
「人材確保が大事、ってのはよく分かるよ。俺がこうして呑気に茶を飲んでいられるのも、そのお陰だからね」
「それって、張郃さんのこと言ってます?」
組織の立ち上げ部分では深く携わっていたが、最近は警邏などの運営面は、新たに雇い入れた“張郃”という人物を中心に行っていた。
「経験者だけあって、現場の指揮とか上手く仕切ってくれるんだよね。後ろに付いて色々と学ばせてもらっているよ」
なんでも、他国で軍の部隊長をしていたが上の人間と反りが合わず、出奔。職を求めて各地を転々としていたところで警備隊員の募集を知り、応募したとのことだった。
「優秀だということは、私のところにも届いています。一刀さんは、初めから知っていたんですか?」
「元いた所で名前は知っていたから、雇うきっかけにはね。落とした人達へ言い訳するわけじゃないけど、指揮を任せるようになったのは、一緒に働いて彼の能力や人柄を知ったからだよ?」
俺の言葉を受けて、斗詩は黙り込む。今言ったことを疑っている、という感じではなさそうだが?
「今日呼び出したのは、一刀さんに――」
「ん?」
「――任せたい仕事があるんです」
急に口を開いたと思ったら、予想外の要請。
「……とりあえず、話だけでも聞かせてもらえるか?」
驚きつつも内容が気になり、先を促す。
「詳しい説明をする前に、会ってもらいたい人がいます」
斗詩が言い終えると、示し合わせたように扉の外から声がかかった。
「顔良様、よろしいですか?」
「はい、どうぞ」
扉から入ってきた男は、初めて見る顔だった。これといった特徴らしい特徴が無い顔立ちで、第一印象だけだと記憶に残りにくいタイプの人間だ。
「袁家に古くから仕えている、李さんです」
紹介を受けて李さんが会釈するが、俺は挨拶を返すのも忘れて記憶を探っていた。城に仕えている者の顔全てを覚えているわけではないが、各部署の人間から聴き取りを行っていた頃、古参と呼ばれる方々には念入りに挨拶させてもらったが、李さんはどこにもいなかったはず。
「あの、間違っていたらすみません。初めてお会いしますよね?」
紹介の途中だったが、たまらず疑問が口をつく。
「こうして面と向かい合うのは初めてですが、すれ違った際に何度か挨拶させて頂いたことは」
「そ、そうだったんですか。これは大変な失礼を……」
気分を害してしまった。おそるおそる李さんの表情を伺うと、予想に反し涼しげな笑みを浮かべている。その笑顔の真意がわからない俺は、狼狽するしかなかった。
「そう気になさらないでください。私の場合、顔を覚えられると都合が悪いですから」
「は?」
前準備として李さんを紹介されけど、謎が深まっただけなんだか?
こみ上げる笑いを必死に抑えている斗詩を横目に捉える。皺の仕返しか……。
「こ、混乱させてごめんなさい。李さんは、我が国の間者なんです」
「……あぁ。顔を覚えられると困るって、そういうことか」
間者。他国に潜入し、自国に有益な情報を収集する役目。現代でいえばスパイや工作員とも呼ばれる。映画でしかお目にかかれないような人種と対面していることに、思わず喉が鳴った。
「つまり李さんは、殺しのライセンスを持っていると……」
「「は?」」
気が昂っているのか、二人にはおよそ理解不能なこと口走ってしまう。
「今の発言は忘れて。それより、間者の李さんと会わせて、俺に一体何をさせたいんだ?」
斗詩が一瞥すると李さんは一礼し、部屋から出てしまう。その理由を尋ねる前に、視線を戻した斗詩が話し始めた。
「現状、我が国を含め多くの国で、間者の数が不足しています」
「そうなの?」
「潜伏という技能は、教えたから身につくという類のものではありませんから」
正体を隠して活動しなければならないのだから、李さんのような印象が残りにくい人間の方が適していても、こればかりは生まれ持った資質が大きく左右するのだろう。
「少ない間者をどう使うか。いかにして増やすかにどの国も心を砕いているんですが……」
「ですが?」
「麗羽さまを含め一部の上層部は、諜報活動をあまり重要視していないんです」
「……それ、かなりまずいんじゃ?」
他国に攻められてから迎撃するのと、侵攻の情報を事前に掴んでから迎撃するとでは、戦果に雲泥の差がでることは、黄巾軍との守城戦で痛感している。だがこの時代、情報を得る方法は人の眼と耳頼り。市井の噂話でもある程度は他国の様相も知ることができるが、所詮は噂話。他国の深部から引き上げる間者の情報とは、精度も鮮度もまるで違うはずなのに、麗羽はその努めを放棄しようとしている。
「間者の重要性を説くためにも、諜報活動で大きな成果を上げる必要があります」
そこで一呼吸間を置き、俺の眼を真っ直ぐに見据えた。
「任せたい仕事というのは、間者の派遣場所を一緒に考えてもらいたいんです」
「俺にそんな重要な判断を?」
もし、見当違いの場所に数少ない間者を派遣したら、その期間に掛かった時間も金も全て無駄になるのではないか。
「もちろん最終判断は、他の臣下と意見を交えて私が下しますけどね」
「その話し合いに俺を交える理由は、天の国の知識か?」
「はい」
歴史を知っている俺がいれば、事が起きる前に間者を派遣することができるわけだ。そんなオカルトじみた話、そりゃ他の人には聞かせられないわ。
「狙いはわかる。けど、前にも言った通り俺の知識にはズレがあるぞ?」
斗詩は卓の上に置かれた文官候補の名簿を指さす。
「ここに載っている候補者は全て、他国で文官をしていた人間で国内の人間と面識がありません。けれど、一刀さんは沮授さんのことを知っていた。そして、他国に名の通っていない張郃さんを知っていて、一刀さんの予想通り彼は優秀だった」
目線を名簿から俺に戻す。
「何の標もなく、この大陸に針を打ち込むより確かだと私は思います。それと、もう一つ」
「まだあるのか?」
「一刀さんは、元の世界に帰りたくないんですか?」
「……え?」
今の今まで、自身の変化に全く気付かなかった。それほど時が経っているわけでもないのに、以前の生活をすぐに思い出せなくなっている。
「……来たばかりの頃は考えもしたけど、ここでの生活が濃すぎるせいかなぁ? 帰りたいって気持ちが、薄くなってたみたい」
「けど、あちらにはご両親や友人に……その、お、想い人のような方もいたんじゃないですか?」
家族に学校の友達。あちらに残してきた人達の顔が次々と浮かぶ。恋人の顔は……まぁ、うん。お察しください。
「そりゃ、家族はいたけどさ。そもそも、帰る方法なんて――」
そこまで言いかけて、なぜ斗詩が帰ることに触れたのかわかった。
「他国の情報を収集していれば、何か手がかりを見つけるかもしれません」
こちらに来た当初それとなく探ってみたが、有益な情報を得ることが全くできない上に、仕事が忙しくなり調べるのを止めてしまった。だが、もっと広範囲それこそ大陸全土でやれば、あるいわ……。
「それに、一刀さんと同じ境遇の人がいるかもしれない」
ハッとさせられた。斗詩の言うとおりだ。時を超えてきたのが、どうして俺だけと言い切れるのか。ここへどうやって来たのか? 俺が覚えていないだけで、その人は覚えているかもしれない。
「……ありがとう」
斗詩の立場上、未来の知識が他所に流れないようにする思惑もあるだろうが、純粋に俺の身を案じてもいるだろう。それがわかるから、俺は頭を下げた。感謝と謝罪の意味を込めて。
「けど、今帰ることは考えてない」
「では、引き受けて頂けないんですね……」
うなだれる斗詩の誤解を解こうと、慌てて手を横に振る。
「違う違う! 頼まれた仕事は、やらせてもらうよ。帰らないってのは、そのぉ……」
「その?」
「あ、ぅ」
あまり期待で目を輝かせないでおくれよ。こう改まって言葉にするとなると、照れくさいんだからさ。とはいえ、この状況で言わないわけにはいかないよな。
覚悟を決め、切り出そうとしたその時、
「チョリーッス! 一刀いるかぁ!? ……って、何かお取り込み中?」
勢い良く闖入してきた猪々子に、出鼻を挫かれる。
「ちょっと、文ちゃん! 部屋に入る前はひと声かけてって、いつも言ってるじゃない!」
「あたいと斗詩の仲に、今更そんな気遣い必要ねぇだろ?」
「必要よ! だいたい、こないだも――」
猪々子をまくし立てることにヒートアップし始めた斗詩は、俺が何か言いかけていたことも忘れてしまったようだ。こりゃあ、とても言い出せる雰囲気じゃねぇな。つい深いため息が漏れてしまう。
麗羽、斗詩に猪々子。君らに受けた恩を返すまで元の世界に帰る気はないよ。
「……猪々子、俺に用事があったんじゃないの?」
「おぉ、そうだ。一刀に客が来てるぜ」
今日会う約束をしていたのは、斗詩だけだったはず。予定にない来客は経験上、良くない報告を伴ってやってくることが多いが……。
「警備隊で何かあったか?」
質問に対し猪々子は、意味ありげに笑う。
「いんや。鍛冶屋の親方だよん」
○ ○ ○
俺達が部屋に入ると、親方はわざわざ立ち上がって頭を下げてくれた。俺も挨拶を返すが、意識は親方が抱えている物にしか向いていなかった。
「待たせてしまって、すみません」
「いえ、こちらこそ約束も取り付けず訪ねてしまい、申し訳ない。しかし、打ち上がった今、一刻も早くお見せしたくて」
布に包まれた棒状の物が、机の上に置かれる。
「打ち上がった、ということは?」
「はい。これが、旦那の刀です」
ついに。ついに完成したんだ。俺の求めた“軽く丈夫な日本刀”が。
興奮で震える手で触れようとしたそのとき、横から伸びてきた手が刀に巻かれた布を引剥返してしまう。
「おまっ!? それ、新車のシートに被せてあるビニール勝手に剥がすぐらいの暴挙だぞ!?」
密かな楽しみを強奪したことを責め立てるが、猪々子はどこ吹く風。ダメだ、文化が違う。
「お前の言ってることはよくわかんねーけど、布切れ一枚でそんな騒ぐなよ。って、なんだこりゃ?」
「これは?」
布から現れたのは、二振りの刀。それぞれの長さは太刀と小脇差ほどだが、太刀の珍妙な形状に猪々子は素っ頓狂な声を上げ、斗詩も顔を寄せてきた。
「手にとっても?」
「旦那のために打った刀なんですから、もちろん」
鞘から引き抜くと、重く鈍い光を携えた黒鉄の刀身が現れる。
「ふっ!」
軽く素振りをすると、反りのある片刃が風を切る音が小さく鳴った。
「おぉ……」
見た目に反して、重さはそれ程気にならない。だがそれ以上に驚きなのは、中国刀を振っていた時にはなかった、手に吸い付いてくるような感覚。感嘆の声が漏れる。
「具合が良いのはお前の顔を見ればわかるけど、横から生えてる枝みたいのは何なんだ?」
猪々子が指差したのは、日本刀でいえばハバキの辺りから伸びた鉤爪。
「受け太刀した時に手首を返せば、鉤爪と刃の部分で相手の武器を挟み上げることができるだろ?」
「武器というより、捕具に近いですね」
「うん。参考にしたのが十手っていう捕具だからね。だから、この鉤付きで相手の攻撃を止めて、短刀で攻撃っていう戦い方になるかな」
切れ味・軽さ・強度。一本の刀に付与できる要素は三つの内、二つのみと言われて思いついたのが、役割の分担。攻撃と防御を一本で行えないなら、二本でやればいい。
鉤付きは、軽さと強度を兼ね備えた防御役。切れ味と強度に特化させた攻撃役を小脇差にしたのは、重量を抑えるためと鉤付きで鍔競り合いにもちこんだとき、短い方が取り回し易いと考えたからだ。最短で敵の体に刃を入れることができるよう小脇差は両刃の直刀、突きに重点を置いている。
「綺麗……」
鏡面を思わせるほどに磨き上げられた小脇差の刀身に斗詩は魅せられているが、俺は妖しさも覚える。まるで、手を近づけただけで、指が切り落とされるような……。
「んじゃあ早速、その刀で仕合ってみっか!」
「へ?」
猪々子の唐突な誘いが、迷妄を断ち切る。
「やり合ってみねぇと、本当に使える得物かどうかなんて、わかんねぇだろ」
「……お前作ってくれた本人の前で、よくそんなこと言えるね」
どれだけ美しい形姿をしていても、猪々子にとって刀は刀でしかないようだ。
「いや、旦那。将軍の言うとおり実際に使って見極めるべきですよ」
今の親方の台詞だけを切り出せば、猪々子に同意しているように聞こえるが、そうでないことは抑えきれていない闘志で一目瞭然だ。
「おっしゃ! 決まりだな。じゃあ、準備してくるから庭で待っててくれよ」
気炎を上げている親方に全く気付かないまま、猪々子は意気揚々と出て行く。鈍感系ヒロインのせいで、職人のプライドを双肩に担う羽目になってしまった。
(負けられない理由ができた、と考えよう)
打ち上がったばかりの二振りの刀を携え、決戦の地へいざ向かわん。
○ ○ ○
半身をこちらに向け、刀の重さに委ねたようにだらりと垂らした右腕。稽古をつけてくれる時の猪々子の構えは一見、やる気のなさそうに見えるが、油断していると――。
「っ!?」
右腕が陽炎のように歪んだかと思うと、瞬きする間に三歩分の間合いを潰し、俺の首を狙った横薙ぎの一撃が飛んでくる。寸前のところで鉤付きで防ぎ、猪々子の訓練用の刀を挟みあげようとするが、距離を取られてしまう。
初めの頃は、剣道ではありえない太刀筋に散々苦しめられたが、ここ最近になってようやく眼が慣れてきた。
(けど、この剣戟の重さは、いつまでたっても慣れないな……)
踏み込んだ脚が地を穿ち、捻りを入れた腰から振りかぶった刀へ力を乗せる。全身のバネを巧みに操る術は、あの冗談じみた大剣を振ってきたことで培われたのだろう。そこから繰り出される猪々子の一撃は、遠心力も相まってとんでもなく重い。斬撃を受け止めた手の痺れも辛いが、喰えば即失神という恐怖が心を削る。
「今日は、いつもより粘るじゃねぇか?」
顎の先から汗を垂らす程に消耗した俺とは対照的に、余裕綽々の猪々子が軽口を叩く。
「ったりめーだ。今日はお前から、一本取る予定になってんだからな」
自身を鼓舞させるため強気な言葉を選んだが、普段より善戦しているのは事実。初めて握る刀なのに違和感無く振れているし、鉤付きも猪々子の斬撃をあれだけ受けたのに傷一つ無い。
(さすが親方。いい仕事してる)
「守ってばっかりなのに、ずいぶんな自信だな。もう一本は飾りか?」
猪々子の言う通り、仕合いが始まって鉤付きしか抜いていないが、問題ない。この刀での戦い方は役割分担だ。鉤付きで相手を抑え、小脇差しで討る。もう一振りを抜くのは、止めの瞬間だけでいい……二本振り回す、二刀流なんて真似できないし。
「攻めなきゃ、あたいから一本取れねぇぞ?」
「すぐに見せてやるから、安心しろ――よっと!」
すり足から一気に踏み込み、打突を放つ。この仕合い初の俺からの攻撃。しかし、この程度の奇襲では猪々子の虚を付けず、あっさり躱される。
(まだっ!)
打突は囮。そのまま渾身の横薙ぎに繋げる。
「ちっ」
剣戟の音に混じって、猪々子が小さく舌を打った。瞬時に身体を寄せ鍔迫り合いにもっていき、手首を返す。鉤付きが猪々子の刀をガチりと挟みあげた。ここが好機と小脇差しに手をかけようとした瞬間、
「おべぇ!?」
腹部を衝撃が貫き、後ろに吹っ飛ばされる。見える景色が二回転してようやく止まった。 痛みで腹が引きつり、呼吸がうまくできない。身体も地面にしこたま打ち付けたせいで、いたるところが痛む。
「くっそ……」
疲労と痛みで立ち上がることができず空を仰いでいると、切っ先を顔に突きつけられた。
「相手の得物を捕えて気ぃ抜いってから、まともに蹴りを喰らうんだよ」
「……以後、気をつけます」
相手の動きを止めたとき、俺も止まっているんだ。鍔迫り合い時の攻防は剣道で慣れていたつもりだったが、もっと工夫が必要だな。
猪々子が差し出してくれた手を掴み、引き起こしてもらう。
「他に気付いたことがあったら、何でもいいから言ってくれないか?」
服についた砂を払い、手合わせの感想を聞いてみる。
「そうだなぁ……捉えたと思ったのに躱されたり、ゆらゆらした動きが戦り辛かったかも? 受け太刀されたら鉤爪に捕まるって思うと、手が出しにくかったし」
剣道の時と同じ動きをイメージしていたが、どうにか再現出来たか。鉤爪が攻め手に圧力を与える嬉しい誤算も分かったし、試験運用としては上々の出来だ。
「眼だけは良い一刀に、その鉤付きは合ってると思うぜ? ただ――」
「引っかかる褒め方だけど、なんだ?」
「――今みたいに一対一の場面なら使える戦法だけど、敵が大勢いる戦場じゃ守りに徹した方がいいだろうな」
目の前の敵の武器を捕らえても、小脇差を抜く前に文字通り横槍に突き殺される、か。
「戦場で武功を上げるために作ってもらった武器じゃないから、その辺を履き違えなければ大丈夫だと、思う」
守りに徹し攻撃は最小限で済む戦い方にしたのは、真剣を振ることに躊躇があったからでもあるし、間違っても自ら戦場の真っ只中に突っ込む真似しない、というかできない。
「ふたりともお疲れ様」
観戦していた斗詩と親方が、手ぬぐいを渡してくれた。礼を言い、顔についた砂と汗を拭う。
「せっかく作ってくれたのに無様な戦い方しかできないで、すみません親方」
「いやいや、善戦してましたよ。正直、旦那が将軍相手にここまで粘るとは思っていませんでしたから」
「けど、短刀なんか抜くこともできませんでしたし」
イメージに近い動きができて欲が出てきたわけではないが、製作者自慢の性能を披露してやりたかった。
「しかし、将軍の身体で試し切りするわけにもいかんでしょ」
「そりゃ、そうですけど」
小脇差しの切れ味をどう確かめるか相談していると、猪々子が口を挟んできた。
「一刀の一物でも、切り落としてみたらどうだ?」
「まともに使ったことないのに、切り落とされてたまるかっ!」
「それじゃあ、あとは辻斬りぐらいしかないかぁ……」
「……お前の引き出し、どんだけ少ないんだよ」
日本刀だと、竹の軸に畳表を巻いた物で試し切りするらしいが俺でも作れるだろうか? 上手い方法はないものかと思案していると、今度は斗詩に肩を突かれる。
「これ、使えませんか?」
斗詩の手に握られていたのは、
「豚肉、か? それ」
淡い桜色の肉の断面には、旨みが凝縮された白い脂がサシ状に入っていて、焼いても煮ても実に美味く仕上がるだろう。って、そんなことはどうでもいい。
「なんだってまた、こんな物を……」
「お肉の断面って、触れていると心が落ち着くじゃないですか」
「え」
うっとりとした表情でなぞる手つきは蠱惑的だが、それを部位肉に対してやられたら恐怖しか感じない。仕合いで暖まった身体は瞬く間に冷えていく。
「冗談ですよ。文ちゃんとの仕合いじゃ試し切りはできませんから、厨房で借りてきました」
「あ、ああ。なるほど」
女性からのどんな欲求でも、笑って受け入れる懐の深い男(になる予定)の俺だが、特殊な性癖を享受したら、引き返せなくなりそうだったのでよかった……本当に冗談だよね?
○ ○ ○
「じゃあ、やるぞ」
木の杭に刺した豚肉に小脇差を軽く振り下ろす。柔らかい粘土に鉈を入れていくような感触が伝わってきた直後、カッという音と共に刃が止まった。小脇差を引き抜き、切り口を確認する。豚肉に真っ直ぐ入った切り込みは、杭から3センチ程の地点で止まっていた。
「俺が軽く振っただけで、これかよ……」
相手を“打つ”竹刀と“斬る”真剣。道具の目的が違ってくれば、当然扱い方も変わる。竹刀に慣れた俺がいきなり真剣を握っても“打つ”癖が無意識に顔を覗かせ、うまく扱えなかった。“斬る”のが下手でも一定の殺傷力を発揮させるため、長さの利を捨て切れ味を高めたが、ここまで鋭いものを見せられると背筋が寒くなる。
(慎重に扱わないと、本当に自分の指を落としかねないな)
刃に付着した肉の脂を拭き取り、鞘に収める。
「どんな塩梅ですか?」
「最高ですよ。両方ともね」
掛け値なしの感想だった。
「では、最後の仕上げに名をつけてやりませんとな」
「それなら、親方の名前になるんじゃ?」
「製作者が誰かというのと、刀が何者かは関係のない話でしょ?」
刀をまるで人か何かのように言うものだ。さっきから、微妙に噛み合っていないような?
「名付けるということは、他者と区別するということ。唯一無二の存在であることを自身と世界に認識させることで、道具という枠から解脱できると信じられています」
俺が理解できていないことを表情から察し、付け加えてくれた親方の説明。聞いて改めて思う。ここの人々にとって“名前”は、本当に意味深いんだな。
「異国の方である旦那には、理解し難い話でしたかな?」
「そうでもないですよ。俺の国でも、長く使った道具には命が宿る、なんて言い伝えもありましたし。
けど、刀に名前ですか……」
共感できるところもあったし、苦労して作ってくれたオーダーメイド品をいつまでも“鉤付き”と“小脇差”呼ばわりは、いかがなものかとも思う。だが、元の世界なら厨二病疾患者扱いされるような行為に気後れもあり、中々考えがまとまらない。
「そうだ。猪々子と斗詩は、どうやって名前をつけたんだ?」
経験者の話を聞けば何か参考になるのではと思い、二人に尋ねてみる。
「あたいは、山でもぶった斬れるような刀が欲しい! って、思ったから“斬山刀”って名前にしたけど?」
「私の場合は、どんな悪人でもこの鉄槌に砕かれた者は金色の光に還れるように、という思いを込めて“金光鉄槌”と付けました」
ツッコミどころはあるが、二人の性格がよく表れたエピソードだった。ようは、遣い手の想いにちなんだ名前を付ければいいわけだ。なら、俺が何を望みこの刀を打ってもらったかを思い出せば、この刀に適した名前が自ずと浮かぶのではないか?
「……よし、決めた」
左手に掴んだ小脇差を掲げる。
「この刀は“
続けて右手に掴んだ鉤付きを掲げる。
「そして“
考えた刀の名前を明かすと、斗詩が遠慮がちに手を挙げる。
「刀なのに矛と盾、ですか?」
もっともな質問だ。
「この刀ってほら、攻防の役割を分担してるだろ? だから“攻撃”と“防御”から連想される武器の名前を入れようと思ったんだ」
「それで“破矛”と“御盾”なんですね」
斗詩は今の説明で納得したようだが、この名前にした理由はもう一つある。
“袁家に仇なす敵を破る矛と、災厄から御身を守る盾に”
今はまだ身の丈に合っていない望みだが、この名を冠した刀を佩いてれば理想を忘れず、少しずつ近づいていける。二人は笑わないで聞いてくれるだろうが、そこまで胸の内を吐露するのが気恥ずかしくて、言えなかった。
「親方、どうでしょう? この名前」
「その刀は旦那のものなんですから、好きに付けてくれて構いませんよ」
「いや、けど……」
苦心して打ち上げてくれたのは親方なんだから、伺いを立てるのが筋というものだろう。
「ただ、言いわせてもらうとしたら、良い名だ、とだけでしょうかね」
「そ、そうですか。ありがとうございます」
「礼を言うのは、私の方ですよ」
感謝される憶えなどなく戸惑う俺を他所に、
「今回の仕事は“南皮一の名工”などと言われ、浮ついていた己を戒める良い機会でした」
親方は深々と頭を下げた。
「最後まで私に打たせてくれて、感謝します」
“頭を上げて下さい”という言葉を寸前で飲み込み、破矛と御盾を再び掲げる。
「打った甲斐があった、親方がそう言える働きを約束します」
「その時は、旦那の活躍劇を肴に酒でも酌み交わしましょうや」
「ええ、必ず」
次に会う時もこうやって笑って話せるように、約束と握手を固く交わした。
○ ○ ○
曇天。立ち込めた黒雲から雷が時折鳴っている。いつ降り始めてもおかしくない天象だ。
傷んだ家屋が多く立ち並ぶ中に忽然と屹立した宮殿。そこが漢王朝の中枢・洛陽だった。贅を凝らし作り上げた雅な佇まいは、そこだけ異世界からくり抜いてきたようだ。その宮中の奥、謁見の間を墨汁のような闇が満たしていた。視界は皆無に等しいが、立ち込める臭いと今の宮中の状況を知っていれば、何が起きたのかおおよそ想像できる。
「灯りをつけよ」
燭台に火が灯され、人影がうっすらと浮かび上がってきた。濁った目に土気色の肌は、この暗闇だと幽鬼を思わせる。彼らは皆、宮中に仕える宦官だった。
「ようやく静かになりましたな」
宦官たちが囲んだ輪の中心には男が一人、仰向けで倒れていた。身なりからして、かなり身分の高い者のようだ。奇妙なことに、その体から何本も枝が生えているように見える。
「くくっ、無念を画にかいたような死に様よのう」
枝の正体は、突き立てられた短刀だった。苦悶の表情にカッと見開かれたままの眼が、恨み辛みを訴えているようだ。
「お飾りだったとはいえ、大将軍が死んだのだ。すぐに各地の諸侯共が騒ぎ出すぞ」
「早急に傀儡を用意せねばなりますまい」
「西涼の董卓はどうだ? 先日、匈奴の討伐に失敗し大きな被害を出したと聞く」
「援助を申し出れば、乗ってきそうじゃな」
死体から流れでた血が床を紅に染めていく中、顔を寄せ合い平然と話し合う異様な光景。帝を含め、彼らに唯々諾々と従う者だけが息をすることを許され、意にそぐわない者は始末される毒蛇の巣、それが今の宮中だった。
雨粒が屋根を打つ音が聞こえてくる。とうとう、降りだしてしまった。
「ならば、すぐに董卓に使者を出せ」
「我らの安寧は、漢の安寧」
「そう。全ては、陛下の御身の為……」
宦官たちのくぐもった笑いは、次第に強まっていく雨あしに紛れて聞こえなくなってしまう。大事が起きる前は、いつも雨だ。
あとがき。
いい歳して、自分の考えた武器の設定と名前をネット上に上げるとか、変態行為でしかないですよね。ということは、TINAMIは変態の巣窟か。でも、一刀の武器を考えるのは、恋姫の二次創作の醍醐味の一つだと思います。
原作でも春蘭の斬撃を木刀で流したり、何気に一刀の防御スキル高いですよね。一刀の性格上、受けのほうが性に合うだろうと思い、こんな変則二刀流になりました。
鍛冶屋に作ってもらったもう一つアイテムも出したかったんですけど、この話の流れで出すと不自然な気がしたので、次回に持ち越し。そんな引っ張るような物でもないんですけどね。
そういえば、恋姫†英雄譚で田豊さんのビジュアル公開されてましたね。
委員長キャラっぽくて、とても好みです、はい。
ここまで読んで頂き、多謝。
久しぶりの投稿なのに、麗羽さま出せなかった……。
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新年、あけましておめでとうございます。
……はぁ、やっと言えた。