No.68400

ここはシャングリ・ラ

遊馬さん

「ひぐらしのなく頃に」より、「負けない沙都子」と「圭一の決意」の物語です。

2009-04-12 19:53:54 投稿 / 全1ページ    総閲覧数:1377   閲覧ユーザー数:1310

ここはシャングリ・ラ

                            

 

 

 

 

 亜鉛色の空から小糠雨が降る。

 ねっとりとぬるま湯のような空気が肌にまとわり付く、梅雨の終わり。

 俺、前原圭一は金魚のように口をぱくぱくとさせていた。

 傘が重たい。

 

「まいったなぁ……」

 よりによって学校に英語の辞書を忘れてくるとは。

 いつだって二度寝の誘惑は耐え難い。

 せっかくの休日、午前中は惰眠をむさぼろうと目論んでいた。当てが外れた。

 せめて帰りには沙都子をからかって遊ぶとでもしよう。

 

「何が悲しくて休みの日にまで学校へ行かないと……あれ?」

 

 雨に煙る道の遠く、もつれ合っている三つ四つの小さな影がある。

 黒っぽい傘の群の中に、見慣れた黄色い傘が揺れている。沙都子の傘だ。

 黄色い傘を持った影がぺたりと座り込んだ。突き飛ばされたように見えた。黄色い傘が立ち上がると、全員分の傘がいっせいにそれぞれに地面に散った。

 霧のような雨の中、黒い影だけが勢い良く動き回る。

 

「……沙都子、か?」

 

 二つの影が一つになって泥の中を転げまわる。

 そのうちの一つが起き上がり、横たわったままの影に手を上げた。

 沙都子の絶叫が聞こえる。

 

「沙都子ぉ!」

 

 沙都子が危険だ。俺はもつれ合う影に駆け寄った。

 立ったままだった影の一つが俺に気付いたのか、大声で呼ぶ。

「助けてぇ! 誰かコイツを止めてぇ!」

 

 少年たちが三人と沙都子。少年たちは体格からみて、沙都子より少しだけ年上なのだろう。見ない顔である。でぶ、のっぽ、メガネの三人組だ。

 そのうちのメガネの少年が助けてくれ、と俺にしきりに懇願してくる。

 あろうことか、沙都子はでぶの少年にマウントポジションを決め、掌で顔をメッタ撃ちにしていた。のっぽの少年は沙都子を引きはがそうとやっきになっていたが、そのたびに沙都子に髪を引っ張られたり、噛み付かれたりしていた。

 

 殺されるぅ、と情けない声を上げる少年たちには一瞥もくれず、

「もう止めておけ、沙都子」とだけ俺は言った。

 沙都子は無言で立ち上がった。

 口の中を切ったのだろう、血の混じった唾をぺっと吐いた。

 頭の天辺からつま先に至るまで泥にまみれながらも、沙都子の獰猛な闘争心はいささかも萎えていなかった。肩で息をしながらも、少年たちを睨みつけている。

 

「悪いが、このちっこいのは俺の仲間だ。お前たちの態度次第では三対二になるが、それでも続けるか? 」

 俺の言葉に少年たちは悪態を付きながら、その場を去ろうとした。

 のっぽの少年が振り向いて俺に言った。

 

「余所者のクセに。さっさと出て行け」

 

 

 

 沙都子は何も言わなかった。傘は折れていた。

 俺の傘に入って、二人で学校へ向かう。

「……ちくしょう」

 遠くで沙都子の声が聞こえたような気がした。俺は何も言わなかった。

 

 学校の玄関は閉まっていた。

 途方に暮れそうになる俺の隣で、沙都子は襟の裏から針金を取り出し、無言で鍵穴に差し込んだ。重たい音を立てて、鍵が開いた。

 沙都子の目が校舎に入るようにうながす。

 感情の薄い瞳だった。

 

 

 

「とりあえず、洗面所で顔洗ってこいよ」

 保健室から拝借した大小のタオルを沙都子に渡しながら、俺は言った。

「服も泥だらけだしな。どこかで乾かさないと」

 沙都子は震えていた。こぶしを握り締めて震えていた。

 それが寒さから来るものでないことは俺にだって分かっている。

 

 何も言わずに背を向けた沙都子に、俺は言った。

「なぁ、アイツら興宮に通っている連中だろ? 何でお前に絡んできたんだ」

 言ってから俺は後悔した。振り向いた沙都子の無表情が全てを語っていた。

 部屋を出て行くときに、沙都子が小さく笑ったのが俺にとってせめてもの救いだった。

 

 

 

 洗面所のドアの前に、乱雑に脱ぎ散らかされている沙都子の服。泥にまみれた小さな服。

 さっきまでこの服を着ていた少女が、年上の男子三人と大立ち回りをやらかしていたというのか。いまだに怒りで震えが止まらないというのか。

 激しい水音が聞こえる。洗面所の中で、頭から水をかぶっているのだろう。

 

「ちくしょう」と声が聞こえた。

 

「ちくしょう! ちくしょう! ちくしょう! ちくしょぉう! ちくしょぉぉう!」

 

 俺は驚く。

 水音に負けない怒りの声だ。

 獰猛をむき出しにした咆哮だ。

 その小さな身体にたぎる、あふれ出す憤怒の叫びだ。

 

 

「ちくしょぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉう!!」

 鏡の割れる音がした。

 

 

 

 俺たちは保健室にいた。

 沙都子はバスタオル姿のまま、所在無げにベッドに座っていた。髪からしずくがたれている。

「ちゃんと髪を拭かないと風邪引くぞ」

 俺は沙都子の頭にタオルを乗せた。沙都子はごしごしと乱暴に髪を拭く。

「あー、それと……」

 俺は着ていたシャツを脱ぐと、沙都子に向かって放り投げて軽口を叩く。

「服が乾くまでそれを着ていろ。その……魅力的すぎるのは、困る」

 沙都子がくすりと笑った。

「心にもないこと、おっしゃいますのね、圭一さん」

 やっといつもの調子で沙都子が喋ってくれた。俺の軽口もたまには和みの効果があるようだ。

「……このシャツ、なんだか汗くさいですわよ」

「しゃぁないだろ。もうすぐ夏なんだから」

 

「わたくしは……かまいませんわ。圭一さんのシャツ、ですから」

 

 

 

「あんまりじろじろ見ないでくださいましね。恥ずかしいですわ」

 俺は沙都子の脚を見ていた。

 脚の傷。傷だらけだ。普段から野山を駆け回っているのだから不思議はないのだが、それにしても多すぎる。それとも普段から喧嘩は日常茶飯事なのだろうか。沙都子は少年を掌底で殴っていた。喧嘩慣れしている証拠だ。

 

「――裏切り者の北条」

 

 俺は一瞬、沙都子の低く発した言葉の意味が分からなかった。

 

「圭一さんには関係のない言葉ですわね。圭一さんは――『余所者』ですから」

 

 なんだよ、それ、と言いかけて俺は――ようやく沙都子の言いたいことを理解した。

 聞いたことがある。ダム戦争。沙都子の両親はダム誘致派だったという。

 

「それをアイツらが言ったのか。『裏切り者』と」

 沙都子は小さくこくりと頷いた。

 

「しまった」と俺は言った。

「それなら俺も一発殴っておくべきだった」

 

「――よくあることですわ」と沙都子が言った。

「圭一さんが泥を被る必要はございませんわ。これは村の問題ですのよ」

 

 言葉に詰まる。

 楽園のような、ひなびた小さな村。 

 俺はこの村に馴染んでいると思っていた。村の人たちとも気さくに挨拶を交わしていた。

 でも実は分かっていた。所詮俺は「余所者」なのだ。あのガキもそう言っていた。

 だが、それを沙都子の口からは聞きたくはなかった。

 

「『余所者』か。沙都子にとっても俺は『余所者』なんだな」

 しかし。

「圭一さんは――」と沙都子が言う。

「ずっと昔から村にいたら、わたくしを構ってくださったでしょうか?いつものようにわたくしのトラップに頭から突っ込んで、大騒ぎして、怒って、わたくしを追いかけたりしてくださったでしょうか?今日のように喧嘩になったら、無条件にわたくしの味方になってくださったでしょうか?圭一さんは――」

 

「もうやめろ、沙都子」

 堰を切ったように喋る沙都子を俺は制した。だが、沙都子は最後にうつむきながらこう言った。

 

「わたくしは――圭一さんが『余所者』でよかった」

 

 

 

 この俺に何が言えるというのだろう。

 どん底を歩むような卑怯者の俺に何が言えるというのだろう。

 俺は逃げ出したのだ。勉強から。「事件」から。「あの少女」から。

 全ては俺が愚かだった。尊いものを全て失って、そうして俺はここ、雛見沢村に逃げて来た「余所者」なのだ。

 

 沙都子の両親が村の方針に異を唱え、村八分同様になった。こんな小さな村だ。それは在り得ることなのかもしれない。

 

 だが、沙都子自身に何の罪があるというのか?

 いったい誰が何のために、沙都子の小さな肩にまで十字架を負わせようとするのだろうか?

 

 沙都子は俺とは違う。

 沙都子はいつだって勇気を持って立ち向かった。

 

「なぁ、沙都子」と、俺は沙都子の隣に座って言った。「お前は――」

 お前は村を敵にする。

 お前は世界を敵にする。

 それがお前の生まれながらの道標なのか。

 ならば沙都子、お前の楽園はどこにある?

 

 俺もお前の怒りに付き合う。最後まで付き合ってやる。

 きっと「余所者」の俺にしか出来ないことだ。

 お前が大きく俺には見える。

 お前が尊いと信じるものを俺も信じる。

 言葉に出さず、俺は決意する。

 

 

 

「圭一さん」と沙都子は言った。

 いつも通りのちんまりとした沙都子だ。

 言いたいことを言ったせいか、ようやく晴れやかに笑ってくれた。

「大騒ぎをして少し疲れましたわ。休んでもよろしゅうございますか?」

 ことり、と目を閉じて沙都子は俺にもたれかかった。

「喧嘩したり、怒ったり、世の中は上手くいかないことばかりで――それでも圭一さんののおそばにいられるのは、幸せなのかもしれません。圭一さんがいらっしゃらなかったら、わたくしは――」

 

 その言葉の続きを聞くことはなかった。沙都子は眠りの島へと漕ぎ出した。

 たぶん、そこだけが沙都子にとっての楽園、シャングリ・ラなのかもしれない。

 沙都子、お前の夢の杜が安らかであらんことを。

 

 

 

 いつだって午睡の誘惑は耐え難い。

 俺はふと目を覚ました。ぼんやりと右腕が重い。

 

 ――沙都子が、いる。

 

 すぅ、と寝息を立てながら沙都子が俺の隣にいる。雨の音が聞こえない。窓からは西日が差し込み、保健室を満たしている。しばらく、俺はぼんやりと落陽と戯れる。目に入るのは、その朱色。

 

「おはようございます、圭一さん」

 

 俺は右を向いた。目が合った。ごくわずかの距離で沙都子の、夕映えを映す瞳と目が合った。くるくるとよく動く、はしっこそうなその瞳。沙都子はマーマレードのような笑顔で起き上がった。

 

「お寝坊さんですのね、圭一さんは」

 明るい声で振り向き、頬を染めて沙都子は保健室から出て行った。

 

 

 

 しばらくして、湯気の立つカップを両手に持って沙都子が戻って来た。

 

 ちょっと気取って、「グッドモーニング」と沙都子は言った。

「アーリーモーニングティーはいかがでしょう、圭一さん」

 

「朝じゃねぇだろ」俺は笑った。辞書のことなんか忘れていた。

 

 

 

 

 

 ――俺は。

 俺は今まで、自分の罪の意識から沙都子のことを見守ってきた。

 あの少女。俺が傷付けたあの少女。

 でも、沙都子はあの少女ではない。

 それは沙都子にもあの少女にも何の役にも立たない自己満足の行為だった。

 沙都子に対する憐れみなど、もうなかった。

 それは沙都子の怒りや、闘志、それらに対する侮辱に他ならない。

 今頃、それに気が付いた。

 そうして、もう一つ気付いたことがある。

 俺の心に湧き上がってきたのは沙都子への敬意だ。その意志、その勇気、その笑顔、全てに対しての尊敬の念だ。

 

 沙都子そのものが、いつしか俺にとっての尊いものになっていた。

 

 楽園がないのなら、探せばいい。

 探しても見つからないのなら、創り出せばいい。

 そしてそれは、それをするだけの価値のあることなのだ。

 だが、今ひと時は沙都子との会話を楽しもう。

 たわいのないこと、昨日のこと、明日のこと。今のこと。これからのこと。

 

 沙都子。

 俺はお前に出会えたことが嬉しい。

 

 

 

 夏近く、夕日の溢れる保健室。ふたりぼっちの俺と沙都子。

 今、ここは、俺にとっての楽園、シャングリ・ラ。

 沙都子にとってもそうであるように願わずにはいられない。

 

 


 
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