小さな気泡がボトルの中を駆け上がり、ウォーターサーバーは鼓動のような音を立てた。
こんな代物がこの小さな芸能事務所に必要だろうかと最初は迷いもしたが、業者からサーバーを無料で貸りられるということもあり、事務員の音無小鳥は彼女の独断で導入の手続きを済ませてしまった。おいしいお茶を淹れるには水が大切だと言われれば確かにそう思うし、この水で作るラーメンは旨いと言われればそんな気もするし、何より喉に優しくて歌のためによいとまで言われれば、小鳥は自分が正しかったのだと疑わなくならざるを得ないのであった。
「あれ? 出ないわ」
事務所の金庫番である秋月律子も、自分が愛飲するコーヒーをウォーターサーバーで作る手前、この不測の経費については口を挟まないようになっていた。
「コツがあるんですよ」
そう言って小鳥がボトルを横に廻してみたり注ぎ口を押したり引いたりすると、何かつっかえていたものが取れたかのように水が流れ出てきた。腑に落ちない律子は、インスタントコーヒーの粉だけが入ったタンブラーを片手に屈みこみ、中の構造がどうなっているのか探ろうとした。
「業者に取り替えてもらった方がいいのかしら?」
「機嫌が悪かっただけですよ」
ウォーターサーバーにまで嫌われたのかと思いながら、律子は赤いプラスチックのボタンを押し、放たれるコーヒーの香を吸い込んだ。少しだけ口に含んでから、テレビ番組のオーディションを受けにいった真美を連れて帰ってくるよう小鳥にお願いした。都内なので一人でも帰れるのだが、落選とあれば一人は辛いだろう。帰ってきたら何か作ってあげようか。そんなことを考えながら、律子は車の鍵を小鳥に手渡した。
車の鍵がついたキーホルダーをチャラチャラと鳴らしながら、小鳥は事務所の近くの駐車場に向った。律子一人が残った事務所ではウォーターサーバーがトクトクと密やな音を立て続けていた。
オーディションの会場はテレビ局関連会社の建物であった。少し肌寒かったが、迎えに行くだけだったこともあり、小鳥は事務服に上着をあおった楽な格好で軽自動車を走らせていた。往きの車中でありながら、小鳥は帰りの社内で真美にどう声を掛けてあげればよいか考え始めていた。ひどく落ち込んでいたらどういう言葉をかければよいだろう? 落ち込んでいる様子を見せなくても同じだ。みんな真美ちゃんや亜美ちゃんはいつも明るそうだと言うけれど、彼女達も自分たちの立ち位置が分かっていて、嫌な事があっても我慢していることが多いのだ。それでもオーディションの一つや二つでくよくよするような弱い子のままではいけない。でも難しい年頃よね。自分だっていちおう夢見る少女だった時代があったから。でも正解を知っているわけじゃないし。
都内ではワイパーを動かすかどうか迷うぐらいの小雨が降り続いていた。小鳥は車を会場の地下駐車場に滑り込ませ、苦手な駐車を四回やり直し、真美が待っているであろう控え室へと向った。
「絶対許さないんだからね!」
憤慨した真美を出迎えることになろうとはさすがの小鳥も想像できなかった。口論の相手となっていたのが余所の事務所のアイドルだったこともあり、小鳥は直ぐにこの事態を沈静化しなくてはならないと判断した。うちの真美が申し訳ございませんと真美の頭を抑えて下げさせ連れて出ようと手を引いたが、激しく抵抗され手を振り解かれてしまった。
「ちょっとピヨちゃん何すんのさ! 悪いのはあっちだよ! 謝る必要なんてないよ!」
真美の叫び声に部屋中のアイドルや関係者達の視線が集まった。こうなると相手も引くに引けなくなったようで、腕組みをして真美を睨みつける構えをした。不測の事態に狼狽してしまう小鳥。そんな緊張した状況の中、一人の女性が二人の中に入りこんできた。
「こんなところで熱くなっちゃ駄目でしょう。私が二人の言い分を聞いてあげるわ」
突然の物言いを二人は訝しく思ったが、衆目もあったこともあり、真美と相手のアイドルはその女性に導かれて別室に移動することにした。忙しい身のアイドルばかりの控え室は再び何事もなかったように静かになった。ただ小鳥だけは、事の展開よりも、仲介に入った者が旧知の人物であることに驚いていた。
――瑞樹ちゃん……。
小鳥は彼女に二人を任せ、自販機があるリフレッシュルームで真美の帰りを待つことにした。
川島瑞樹が聞いた真美の言い分はこうだった。
真美と亜美の活動を昔から知る相手のアイドルが真美に二人は半人前だと言いがかりを付けたのが始まりだった。彼女は彼女なりに今まで自分一人でがんばってきたという自負があり、時々交代しながら芸能活動をしていた真美と亜美のやりかたが気に入らなかったらしい。真美もそれは昔のことだし最初は気に掛けなかったが、亜美を馬鹿にする発言を切欠に真美が激昂し言い争いに発展したというわけである。
「亜美の悪口だけは許さないんだからね!」
「『半人前』なのは事実でしょう?」
川島は相手のアイドルを諭そうとした。
「ねぇ、あなた、一人でがんばってきたって言うけど、事務所の人とかにお世話になっているんじゃないの?」
「知らないわよ。あいつらは私がお金になるから色々してくれるだけよ」
「そう……、かわいそうな子ね」
「はあ? うるさいわよ! 何なのよ突然入り込んできて!」
敵意をむき出しに突っかかってくる彼女に微塵も臆せず、川島は彼女に優しい視線を投げかけ続けていた。
「私……、私はね、ずっと一人でがんばってきたんだから……」
「わかるわ」
「何よ! あんたに私の何が分かるっていうのよ!」
川島は彼女に背を向けてわざとらしいようにこう言った。
「あなた、真美ちゃんのことが羨ましかったんでしょう?」
相手は虚を突かれて一瞬言葉を失ってしまった。
「な、何よそれ! そんなわけないでしょう!」
否定はするもののその少女の顔は真っ赤になっていた。決まりの悪い彼女は恥ずかしそうに真美と視線を合わせた。その気恥ずかしさが感染し、真美も少し頬を赤らめた。真美から同情的な視線を投げられた彼女は我慢がならなかったようで、時間がないのと言い捨ててオーディション会場から去っていった。川島は肩をすぼめて真美に微笑んでみせた。
二人は別室から出て小鳥を探しに会場の廊下を歩いた。
「ねぇ、あなたを迎えに来ていた人」
「ピヨちゃんのこと?」
「よかったら名前を教えてもらえないかしら」
「いいよ。お・と・な・し・こ・と・り。小鳥だからピヨちゃんって呼んでんだ」
――ああ、やっぱり、小鳥ちゃんだったんだ……。
「あーあ、今日はもう散々だよぉ」
「私もNGだったわ」
「えっ、おばさん、オーディション受けたの?」
「ちょっと、『おばさん』じゃなぁーいーのぉー」
そういって瑞樹は真美の頬を引っ張った。考えてみれば、私はこの子の倍ぐらいの歳なのか。それにしても若い子の頬ってよく伸びるわね。
「でもさぁ……、真美もね、あの子みたいに自分一人でがんばってきたって言える人、ちょっと羨ましいのかも」
「それもわかるわ」
事務所の女性達にはない瑞樹の落ち着きを前に、真美は少し大人げなかった自分の行為を反省し始めていた。
「なんか、今日はありがとうね、お姉ちゃん」
「いいのよ」
川島の浮かべる大人の笑みを、真美は彼女なりに写し取って笑い返してみせた。
小鳥はリフレッシュルームの端で小さな文庫本を読んで時間を潰していた。
「小鳥ちゃん……だよね」
「あっ。やっぱり、瑞樹ちゃんだったんだ! あのー、うちの真美が迷惑かけたみたいで……」
「大丈夫よ。何ともなかったから」
二人が旧知の仲と知り、再会劇を邪魔しないよう真美は黙っていた。
互いに古い型の携帯電話を手に取り連絡先を交換する二人を眺めながら、真美は川島が別室で言っていたことを思い出していた。
「あのさー、ピヨちゃん」
「あっ、ごめんごめん。待たせちゃったわね」
「ううん、今日はなんだか一人で帰りたい気分かなって」
「えーっ、せっかく迎えに来たのに」
川島に助けを求めるような視線を投げかける小鳥。それでも好きにさせたらいいわと川島が言うので、小鳥は真美の自由に任せることにした。律子には真美が先に帰っていたと言えばいいだろう。
「ありがとうね、ピヨちゃん」
小鳥は手を振って真美を見送った。いつもかしましい真美に素直に謝られると、許さないことの方が難しい。照れ隠しのように、真美は小走りで会場から去っていった。
「真美ちゃんに気を使わせちゃったかしら?」
小鳥は真美のフォローをしてやれなかったことを気にし始めていた。
「気にする事ないわよ。あの歳の子って、一人になりたいことあるじゃないの」
「……色々難しい時期ですよね」
「私達だってあの歳だった頃があったでしょ」
「でも、もう、忘れちゃいましたよ」
「そう? 私、あの頃からあまり変わった気がしてないわ」
小鳥から見ても随分と落ち着いた大人の女性に見える川島から出たのは、そんな少し間の抜けた言葉であった。
「瑞樹ちゃん。あの、よかったら送って行こうか?」
「いいの? じゃあ、お言葉に甘えるわ。直ぐ準備してくるから」
川島の事務所は少し遠回りすればそれほど時間を取られない場所にあった。地下の駐車場まで歩く間に川島は真美に起こったことを小鳥に説明した。小鳥は川島に真美と双子の姉妹の亜美とが暫くソロアイドル『双海亜美』として一緒に活動してきた経緯を説明した。車に乗り込んだ後も、小鳥はやはり真美のことが気になっていた。
「真美ちゃんは亜美ちゃんと二人でずっとアイドル活動してきてたから、そういうこと言われるの気にすると思います。ずっと仲良しだったから」
「そう甘やかすのがいけないんじゃないの?」
川島のつれない答えに小鳥は言葉を重ねることができず、車は沈黙の中で地下駐車場から薄暗い幹線道路に流れていった。小鳥が黙ったままだったので川島は独り言のように捕捉した。
「あの子ね、いままでその亜美ちゃんって子と一緒に扱われていたんでしょう? でもそろそろアイドルとして、いえ、一人の人間として認められたくなる年頃なんじゃないかしら?」
「そういうものでしょうか……」
「そうじゃなくても背伸びしたがる年頃でしょ?」
「うーん、……でも、どうしてあげたらいいんでしょう?」
川島は昔と比べて随分お節介になっている小鳥を笑うかのよう首の後ろに手を組んで答えた。
「そんなの放っておけばいいのよ。ちゃんと自分で答えを出せないようじゃ、この先この世界で生きてゆけないわ」
「厳しいんですね」
「あらやだ、心配してあげてるのよ」
――瑞樹ちゃん、変わってないな……。
川島と出会った時のことを小鳥はよく覚えていた。
短いレポートであったが、大学を卒業して間もないにも関わらず、彼女は全国に放送される番組で堂々と自分の言葉で話していた。偶然の重なりでテレビ出演が決まり心ここに在らずであった小鳥にとって、アナウンサー川島瑞樹とは自分が何度人生を繰り返しても到達できない場所で生きている女性であるように見えた。それから紆余曲折あって二人の短かな友好が始まり、いつしか疎遠となっていった。
――自分と変わらない年頃の人なのになんて自分とは違うんだろう。
今日こうして再会しても彼女に抱く感情は同じだった。
「なんだか話し足りないわね」
車が目的地に近づくと川島は名残惜しそうに言った。小鳥も同じ気持だった。
「お茶とかだったらいつでも誘ってくれていいんですよ」
「あら、いい人はいないの?」
「たまには女子会もいいかなって」
「そうね」
話題を逸らした小鳥を逃したのは川島の情け。
「本当にいつでもいいの? 今週末でもいい?」
少し間を置いてから、小鳥は空いていると答えた。もともと空いていたのだが、暇だと思われるのが嫌だったからだ。暇人の発想である。
「今日は会えてよかったわ」
そう礼を述べた川島を降ろしてから、小鳥は週末の楽しみに暫く心を弾ませたが、事務所に帰ってから律子に弁明しなくてはならないことを思い出し、行きと同じようにあれこれ思案しながら車を走らせたのであった。
地下鉄の中、真美は端の優先席にうずくまりオーディション会場での出来事を反芻していた。
『ねぇ、あなた双海さんでしょ?』
――どうして自分は川島さんに嘘なんかついたのだろう?
『今日は一人なの?』
――どう考えても悪いのは自分だった。
『いつも二人だったじゃない』
地下鉄が急なカーブに差し掛かり、車輪とレールの摩れる金属音が心を削っていった。亜美と真美、亜美と真美、この子もそんなふうに私を見るんだ。真美は苛立っていた。一人でなにが悪いのさ。真美と亜美は違うんだよ。売り言葉に買い言葉。その後の顛末を思い出したくなかったが、その映像はコンクリートの暗闇の中で脳裏に何度も蘇った。このまま沈んでゆけばいいのにと思った。
それでも地下鉄はいつも通りに事務所の最寄の駅に到着した。真美は大層面倒そうに改札口に向った。外は雨に冷やされ肌寒く、真美はポケットに手を入れ少し屈むように歩き始めた。いつもは使わない歩道橋を登り、下で往来する車を暫く眺めてみた。世の中が自分のことを放って動いているような気がした。アイドルとしての『双海真美』は未だデビューして半年足らず。歴然と横たわるアイドル『双海亜美』とのキャリアの差。そんな現実を、少しずつ受け入れなくてはならなかった。
――亜美はどう考えているんだろう?
亜美は亜美で、二人が築いてきた経歴を傷つけぬよう一人で奮闘しなくてはならなかった。そのことに真美が気付いてあげられるようになるには、まだ時間が必要だった。
いつもは一躍で駆け上がる事務所の階段を、音を立てぬよう一段一段昇り、ただいまも言わず事務所のドアを開けた。それから事務所の長いソファーに身を預け、律子が仕事でキーボードを叩く音を聞いていた。合間合間に連打するので、まるで自分が早口で怒られているように感じられた。
「あれ?」
律子が真美に気付くのは暫く時間が経った後だった。小鳥はどうしたのかと聞かれたが、真美は知らないと誤魔化した。そんな勝手をするならば明後日の仕事も自分で行きなさいと小言を言われた。今日の結果のことを尋ねられなかったのは、律子に情けを掛けられてのことだと真美は考えてみた。そんな思案に呆ける姿をみかねて、律子はココアが入ったマグカップを真美の頬に容赦なく押し付けた。あつっ。口を尖らせて拒んでみせると、なお強く押し付けられた。仕方なく取っ手を持ち、口元にそっと寄せ、ゆっくり息を吹きかける。跳ね返る空気で前髪がふわりと浮いた。飲み干して暖を得ると、真美の当てのない思考が一箇所に落ち着いていった。
――謝らなきゃ。
真美は事務所のタレント図鑑を手に取り、彼女の連絡先を探し始めた。
「私って、『クソ』真面目だったわ」
オープンカフェに佇む元アナウンサーの女性にそんな表現をされても小鳥が困ってしまうだけだった。それでも自分語りに火が付いた川島は、遺言でも残すかのように話し続けた。
「自分で言うけど優等生。スピーチコンテストとか出ちゃってさ」
それだけの才女でありながら自分の人生についてはあまり真面目に考えておらず、そのままなんとなくアナウンサーを目指していたら程なく地方のテレビ局に採用されてしまったのだという。そんな順風満帆に見える彼女の人生にも色々な失敗もあったり、キー局のアナウンサーに対する対抗心のようなものもあったり、普通の女性が抱く悩みもあったりしたそうだ。いつもインタビューする側の人間とはされる側になると饒舌になるらしく、小鳥にあれこれ聞かれると嬉々とした川島は答えていった。きっと事務所に同世代の女性が少ないからだろうと小鳥は推測した。
そんな休日のカフェの一時であったが、小鳥は違和感を募らせる一方だった。川島は自分を語りながら、今アイドル稼業をしている理由には決して触れなかった。むしろ、その話題にならないように、その他の話題で場を埋めようとしているようだった。
二人は小さな店を冷やかして巡った。川島は裏通りに構える海外ブランドの老舗をよく知っていた。店員も、賑やかす女性客が居れば入店の呼び水になることを知っているし、川島の問いかけに刺激されるのか大抵のショップでは彼女達に良く応対してくれた。
「そう、この皮を水で濡らして型で整えてゆくの。凄く根気がかかる作業らしいわ。皺一つないでしょう。大変よ」
川島はまるで目の前の皮バックを自分がフィレンツェで作ってきたかのように語った。それが嫌味に感じられなかったのは彼女の深く感情移入しているからだった。小鳥はただ値札を見て眩暈を覚えるだけだった。そんな渋めの革製品に興味があるかと思えば、別のブティックでは少し年齢にはそぐわない大胆な服を手にとって試着してみたりもした。背中が大きく開いたドレスにも躊躇なく手を出した。川島は小鳥に肩甲骨の曲線が美しい背中を披露してみせた。
「素敵」
「ありがとう。小鳥ちゃんもどう?」
「いやぁ、私の贅肉は見せられないわ……」
そんな調子であちこちのお店を荒らしていった彼女達であるが、結局買ったのはマニキュアだけだった。川島の指はアイドルにしては短めに整えてあった。料理の邪魔になるからだという。現役のアイドルに容姿が劣るのは諦めがつくが、最近コンビニの惣菜に世話になりっぱなしの小鳥にとっては耳の痛い話であった。
「瑞樹ちゃんって完璧ね」
「そんなことないわよ。この間だってロールキャベツが壊れちゃって、そのままキャベツと肉だけの野菜炒めになったわ」
そんな話題になったのでお腹がすいてきた二人。
夕食には早い時間であったが、二人は近くにあったイタリア料理店に入った。開店前であったが、言ってみるものである、店のオーナーシェフが構わないよと通してくれた。
「飲んじゃいましょうか」
ワインの銘柄はおろか産地も分からない二人であったが、メニューの真ん中ぐらいにあったものを頼んだ。店員が少し苦めだが大丈夫かと尋ねてきた。昔話に花が咲く今日はそういう味が合うような気がして、二人はそれがいいのよとあたかも通であるかのように答えた。店員もそういう客の知ったかぶりには慣れていたので適当に調子を合わせて厨房に戻っていった。胴回りが広いグラスで見た目よりも容積があったらしく、メインディッシュが来る前に二人はボトルを一本空けてしまった。店員がいう程の苦味ではなかった。
酒が入ると川島の饒舌はますます拍車がかかった。小鳥が川島のプロポーションを褒めると、口だけではなく手も伸びた。
「鍛えてるのよ、ほら」
そういって川島は服を捲り小鳥に自分の腹筋を見せてみた。綺麗に割れた腹直筋であった。小鳥がそんな単語を知っているのは、事務所に二人ばかり筋トレ馬鹿がいるからだ。横で店員が新しい皿を持って立ち往生していた。川島は構わずに腱画をなぞってみせるのだった。小鳥はウェイターに視線を投げ川島に気付かせると、川島は恥ずかしがるでもなく君も見たかと若い男性の店員に得意気な表情を投げかけてみせた。小鳥の方が恥ずかしくなってきた。不意にこんな子供のような仕草をすることは、昔の川島にはないことだった。
「あのね、瑞樹ちゃん」
小鳥は思い切って川島に抱いていた疑問を投げかけてみた。
「どうしてアナウンサー辞めてアイドルしようって思ったの?」
川島の食具がピタリと止まった。長い沈黙があった。
「別に」
暗転する川島の表情。小鳥は話を逸らそうとメニューを手にして次の料理を勧めようとした。
「あら、聞きたくないの?」
川島は飄々とした表情で小鳥を見つめた。拙い質問をし、その手を早々に引っ込めた小鳥は、彼女の視線の前に立場がなかった。川島はワインを飲み干し、一息ついて、自分の指マニキュアを眺めて暫く思案していた。その間、小鳥は呼吸もできないくらい苦しかった。
「特に理由なんてないわよ」
言葉に窮した小鳥をみかねたのか、川島はその場を取り繕うような回答をした。小鳥はずんと気持が沈んでしまった。その言葉は自分と旧友の間に一つの壁ができてしまったことを意味していたからだ。
「……ごめんなさい、私、余計なこと聞いちゃったかな?」
「気にしないで」
川島は指先の光沢の先に、オーディション会場で声を荒げて怒る双海真美の姿を見ていた。子供同士の喧嘩など大人からすればくだらない理由が殆どだ。それでも真美の激しい口調は川島の胸を打った。川島が密かに動揺していたのは、子供達の言葉ではなく、その訴えに動じなくなってしまう程、自分の心が鈍くなってしまっていることに対してだった。
「ねぇ、小鳥ちゃん」
「……」
「私、強くなったわ」
川島は丹念に磨がれた自分の指先を相対する指でなぞっていた。
小鳥は両手を自分の膝に乗せて子供のように指遊びする川島を見守っていた。
「私、瑞樹ちゃんのこと、理解しようと思うから……」
「同情?」
「同盟」
「あら、頼もしいわね。何かしてくれるの?」
「ううん。『放っておいて』あげる」
したり顔をする小鳥に川島はおちゃらけた口調で答えて見せた。
「あーら、厳しいのね。私挫けちゃうわー」
周りの席の客の視線が、大笑いする二人の女性のテーブルに集中した。
歩き疲れ食い疲れ、それでも終電まで休日を満喫したかった二人は、足を休めるついでに映画を観ることにした。
つまらない映画だった。選んだ理由といえばポスターの男優がハンサムという理由だけだった。ロシアのバレエ団の話で、ヒロインが苦労して美男子の師匠と結ばれるというありきたりの話であった。退屈し始めた二人は、出演している男優の誰が好みであるとか、映画の展開の先を予想して当たった外れたとか、映画の内容はそっちのけになっていた。
しかし、映画が進むにつれて、川島は見入り始めてしまった。ヒロインがバレエ団の主役になる手前、以前のプリマが年齢を理由に引退する場面。プリマの引退には年齢以外にも男性師匠との関係やヒロインに対する嫉妬などの複雑な事情が絡んでいた。一人のプリマの時代の終りが告げられ、男は去ってゆき、旧きプリマは消え去った。三流映画よろしくその後の彼女の描写はなかった。それでも川島はスクリーンの奥の彼女の姿を追っていた。つまらないヒロインと美男師匠との恋愛が大写しで繰り広げられる中で、川島は彼女が挫けずバレエを続けている別のストーリーを脳内で描いていた。
川島は一人泣いていた。彼女の涙は今まで彼女の中に蓄積され続けてきて行き場もなく体内を巡っていた。小鳥に気付かれやしないかと思ったが、小鳥はハンカチを右手に軽く持ったままの不自然な格好で眠っていた。
「借りるわね」
川島は小鳥の右手からハンカチを取り、汚さないようそっと涙に押し当てた。それでも、これ以上泣くまいと思う度に涙が粒となって頬を流れた。
「ふふっ、いやね、涙もろくなっちゃったのかしら?」
長い間涙を流す事がなかった川島は、小鳥のハンカチを随分汚してしまった。
映画が終わるぐらいの時間を見計らったように小鳥は目覚めた。
「ちょっとお手洗いに行ってくるわ」
「じゃあ、下で待ってますね」
「あら、私ハンカチ忘れちゃった」
「あっ、じゃあこれよかったら」
小鳥は暗い廊下でバックからハンカチを探して川島に渡した。
「洗って返すわ」
「いいのに」
「そうさせて」
続きを言葉に出しなくても、分かり合える二人なのであった。
――灰が降る灰が降る
――世界一列灰が降る
とある地方の文化番組で読み上げられる三好達治の詩。声の主は、なんと双海真美である。川島の秘密訓練を受けた真美が仕留めた仕事であった。亜美の動揺は穏やかなものではなかった。この仕事の後で、業界の一部では『かしましい方が亜美で大人しい方が真美』という不名誉な識別方法まで広がり始めていた。録画の再生に群がるアイドル達は、一斉に真美を讃え始めた。事務所に立ち寄っていた川島は、自分のスキルが真美の役に立ったことを満足に思っていた。
――昔々あの星に
――利巧な猿が住んでいた
最後の部分で勝ち誇ったように亜美をみる真美。なんぞ、利巧な猿とは私のことだと言いたいのか。
「あぁ、灰でも浴びせられた気分だよ」
愚痴を言う亜美に川島は捕捉した。
「あら、シンデレラって『灰被りのエラ』って意味だから、そのうちいいことあるんじゃないの?」
「うぅ、それってお姉さん達にいじめられた人の話だよね」
悔しい思いの亜美が考えることは一つであった。
「ねぇ、川島のお姉ちゃん! 亜美にも教えてよぉー」
「うーん……、いいわよ」
「私もよろしいですか!」
「僕も」
「私も、いいですか?」
こうして急遽川島の一日音読教室が事務所の控え室で開催されることとなった。
川島の授業は本格的だった。30分ぐらいの座学を誰もが真剣に聞いていた。
「顔の筋肉だって鍛えないと駄目なのよ」
とぼけたつもりだったが、衝撃を受けてたじろくアイドルが二人いた。真と千早である。そうか。そうだよな。そうね。そうだわ。僕は顔の筋肉が足りないからかわいい表情ができないんだ。私も首から上の筋肉が足りないから音域が広がらないのね。二人の不穏を察知した雪歩が慌てて彼女達の思い込みを否定した。が、反論されたじろく雪歩。仕方なく律子を援軍に呼び、業務命令としての顔筋トレ禁止の儀を発して貰った。それでも二人の態度がなお渋々だったのは、川島の完全を求める姿勢に多少の感銘を受けていたからだった。
しかし、実習に移ると、真面目な練習のはずが、途中から笑いの絶えない遊戯になってしまった。原因はやよいの残念至極な滑舌だった。笑っちゃ可哀想でしょうと最初は伊織も咎めていたが、『隣の客はよくキャッキュキュうぅぅー』『バスガズがつはつぅぅぅ』といった調子で皆の爆笑を誘ったので、伊織もその笑いの渦に引き込まれてしまった。終いにはやよいのが何か言おうと口を開くだけで指を指して笑われる始末。耳まで赤くなったやよいは、一念して挽回しようと力んで早口言葉に挑んでみるのであるが、それがなおのことやよいの舌を絡ませるのであった。
「あおパッジャマ、あぁー、あく、う、ううぅぅ」
両手で頭を被いうずくまるやよい。パッジャマって何よと笑い転げる一同。
「はいはい。今日はこれまでにしましょうね」
と川島は皆が笑い疲れたのを見計らって切り上げることにした。
「面白い事務所ね」
川島は真美にそっと囁いた。
「まぁね」
二人の仲が妬ましいのか、亜美が中に割り込んできた。
「いやいや、うちの真美が世話になったようで」
「何が『うちの』だよう」
「でも今日は勉強になったよ。ありがとう。おばちゃん」
だからね。おーばーちゃーんーじゃーなーいーのぉー。川島は両手で亜美の頬を掴み、その感触を楽しむよう引き伸ばし続けた。それに習って、亜美と真美が悪戯事を言うと、頬を伸ばして咎めるのが暫く事務所で流行った。
それから数ヶ月。川島が真美達の事務所に顔を出す事はなかった。自分はどんな大人になるべきだろうか。そう思案する時の真美はよく川島のことを思い出した。それでもまだ真美には川島がどのような人生を歩み何を考えてアイドル活動を続けているのかは分からなかった。川島は何かを信じているようだった。ふと、川島と同世代である小鳥の後姿を眺めてみた。いつも遊んでくれる面白いお姉さんだとしか思っていなかったが、自分が知らないだけでピヨちゃんにもピヨちゃんなりの人生のドラマがあったのかもしれないと考えてみた。
事務所のドアが開いたかと思うと、がっかりした表情の亜美が入ってきた。亜美はソファーに深く腰を下ろし、何も話をしようとしなかった。双子の片割れは、亜美が今日のオーディションで落選したのだと察した。真美はココアをいれ、そっと亜美の前に差し出した。
「わかるよ」
真美はカップに添えるようにその言葉を残し、事務所から出て行った。
亜美はカップを手に取り、ウォーターサーバーが優しい音を立てているのを聞きながら、止め処なく立ち上がる湯気を暫く眺めていた。
Tweet |
|
|
0
|
0
|
追加するフォルダを選択
小雨の中オーディション会場に真美を迎えに行く音無小鳥。
そこで待っていたのは意外な人物との再会であった。
pixivにリリースしました。http://www.pixiv.net/novel/show.php?id=4786535