『――』
それは……小さくとても聞き取れない音から、
『――かちゃん』
始まりを告げる世界。
『――さやかちゃん。……届いてる?』
わたしの声、届いてる? と、誰かが言ってくる。
違う誰か、誰かじゃない……何度聞きなおしても間違いない。
これは、あたしのよく知る、まどか本人の声だった。
声以外――何もない世界で途切れ途切れまどかの声だけが一方的に聞こえてくる。あたしは……またこの夢を見てるのか……。
『――さやかちゃん』
嗚咽混じりのその声は、不思議な印象をあたしに与えてくる。まどかだけど、まどかじゃない――そんなおかしな幻想を感じさせる……綺麗な旋律。神秘的な……あたしの知らないまどかがあたしの夢の世界にいる。
『小学校からずっと一緒』で……聞き間違えない声なのに――、
『――もう届かないのかな』
きっと泣きじゃくってひどい顔をしてるまどかを見ることも、手を差し伸べてあげることも、抱きしめてあげることも出来ない。
この夢の世界では、あたしの干渉は許されてない。
『――ちゃん』
あたしの悔しさはまどかには届かない。
水滴が作り出す波紋のようなまどかの声が聞こえるだけで、まどかを助けられない。
『――ねぇ』
残酷な幻想だった。あたしの夢なのにどうすることもできない。
『――むらちゃん』
最後はいつも、聞き取れないまどかの声で――あたしは、
「……っ!」
今日もまた悔し涙と共に朝を迎えた――謝罪の言葉すら、あたしは、今回も……言えなかった。
「……」
上半身だけ身体を起こすとピンク色の『羽根』が机の上にあるのが目に入った――夢から覚めると、必ずあるもの。だから、いつも不思議に思う。
「……」
完全に起き上がると、あたしは机へと歩き出した。
近づいてみても、羽根は消えない。あと数秒、一分くらいは何もしなくても……消えない。
でも目の前にあるこの羽根は手に取れば、
「……」
――すぐに消える。
放っておいても、消える。何をしても消える。だから、調べようがない。
突然羽根が現れて、消える事実は何一つとして変わらない。
「……」
これは幻惑、幻想……寝起きだから、こういうのを見るなんてこともひょっとするとあるのかもしれない。そんな風に考える日もあるにはあった。
でも、二日に一回ぐらいの確率で見るこの夢は、到底幻に思えなかった。
「……」
だって――このピンクの羽根がどうして今ここにあるのか意味がわからない。あの夢が幻としたら、この羽根は一体何だというんだろう?
あの夢との関係性がないと、あたしにはどうしてだか思えなかった。
そういえば――あの夢はいつからみるようになったんだろう。
……もう覚えてないな。
気がついたら、あの夢を見て、羽根があたしの直ぐ側にあった。
「……」
あたしはいつものように机の上にある羽根を掴んだ。
掴んだ瞬間――羽根はピンク色の優しい光を放って、あたしの中へ消滅した。それはまるであたしの身体の一部だと言ってるみたいだった。
「……」
羽根は消えたはずなのに、温もりだけはいつも手の中に残ってる。
「……」
――懐かしい感覚だった。
暖かい陽だまりのような温もり。かつて、そんな世界にいたような気さえする。だからなのかもしれない――身体の一部って感じるのは。
でも、あたしには羽根はない。魔法少女になっても、羽根なんて生えない。だから、羽根は誰かの一部……昔誰かにこんな翼があった。
でも……あたしはそんな存在を知らない。
そもそもこんな現象……マミさんからだって、杏子からだって、聞いたことなんてない。少なくとも、二人と一緒に寝ても、まどかと寝てもあの夢は絶対に見ない。
どうしてか、あたしが一人でこの家で眠ると見れる夢。たったそれぐらいのことしか、
「……はぁ」
あたしには答えが出せなかった。
「……あっ」
時計を見ると、大分時間が経ってるのに気付き、机の上においてある二つの写真立てを一度見て、急いで制服に着替えると部屋を出た。
恭介とあたしの小学校の卒業写真、そして六人まで増えた魔法少女で撮った写真。二つとも大切な写真だった。
でも、違和感。どっちもおかしさを感じる写真だった。
家の外へ出ても、その違和感は今日もやっぱり消えてくれそうになかった。
「……はぁ」
通学路に向かうために一歩を進めながら、気にしないようにいくらしても、頭の片隅でずっと考えてしまう。
……癖になってる。でも、答えは誰も知らないから、結局あたしの頭の片隅で眠っては起きての繰り返し。
あたしには、まどかと小学校に通ってた記憶がある。
そして――魔法少女も六人じゃなくて、五人だった気がする。
それは……ありえない。
だって小学校から一緒なのは、まどかじゃなくて、恭介だから、まどかであるはずがないんだ。でも……夢の中にいると――あの写真も本当なら『まどか、恭介、あたし』の三人で撮った気がする。
まどかは転校生のはずなのに、一体どうしてなんだろう……? あの娘は一体誰なの?
ただの転校生……友だちで仲間なんだけど、親友っていうには早過ぎるし、
「……はぁ」
よくわからなかった。
誰が本当はいて、誰が本当はいないのか、わからない。
けれど、一つだけ確かなのは、今日もパッとしない一日が始まるような気がしてしまうさやかちゃんなのでした。
学校は何事もなく授業が進んで昼休みになった。今日は杏子のやつは、マミさんと何か話す用事があるらしくて、今はまどかと二人っきりだ。
だから、夢のことについて聞こうと、
「ねぇ、まどか」
箸を止めて、口を動かした。
「なに? さやかちゃん?」
「えっと、その、ね。ごめんね」
あ、あれ……おかしいな……そんなことじゃなくて、
「えっ、さやかちゃん急にどうしちゃったの!?」
夢の話を聞こうと思ったのに――、
「あ、あれ……?」
なぜか言葉が出てこなかった。それどころか、涙がこぼれ始めて、
「あ、あれれ……おかし、いな……」
「さやかちゃん、大丈夫? お腹痛いの……?」
「ち、ちがっ」
あたしは静かに頭を振った。自分のことなのによくわからなかった。涙の意味も、謝罪の意味も……。
「それなら、いいんだけど、何か困ったことがあったら、もしそれが私に相談できるようなことなら、何でも言ってね?」
その言葉に一瞬だけ、朝見た写真のことが浮かんできた。
本当は誰が写ってるべきで、誰が写ってないのか、疑問が再び浮かんできた。
「うん、ありがとう」
うっすらと見えたのは、恭介しかいない写真だった。
「さやかちゃん?」
――ありえない。あたしがいない……世界? そんな世界があるはずない。ここには確かにあたしがいる。自分の手元を見ても、透けてたりしない。
あたしはここにいる。
「ううん、大丈夫。ありがとう、まどか」
まどかの微笑みにあたしは、笑みを返した。涙はいつの間にか止まってた。
「まどかが転校してきてからしてもらったことはたくさんあるけど、ここでそれをいう――、」
タイミングじゃないよねと言いかけたあたしの言葉を、
「――そのお礼はわたしにいうべきことであって、まどかに言うべきことではないわ」
まるであたしの思考を妨害するように影が刺した。
「……またか――暁美ほむら」
暁美ほむらの影だった。
「またとは何よ……? わたしも一緒にお昼を食べる予定だったと思うのだけど?」
「それは……そうだけどさ」
本当毎回タイミング良い時にくるよね、あんた。あたしがまどかの小学校の頃の話を聞こう、夢の話をしようとすると、そのタイミングで現れる。
――まるでこの世界を支配してるみたいな登場の仕方だよね?
まぁ、そんなことはありえないので少し嫌味を込めた視線を送ると、
「それに転校生を独り占めするのはよくないわ」
大して気に留めるような素振りもせずにそう返された。
「そんなことは思ってないけど……ほむら?」
それにしても……転校生ねぇ。もうまどかが転校してから、一ヶ月も経つから違う気があたしはちょっとするけどなぁ。
そりゃ、最初の週は質問される格好の餌食になってたけどさ。
「まぁ、いいわ。お昼にしましょう」
そういって、ほむらはまどかの隣に腰を下ろすと、自分のお弁当箱を開き始めた。毎度おなじみの定位置というか、あたしの隣に座った試しがない。
「そうだよ、さやかちゃん。お昼食べよ」
ほむら、まどか、あたしというまどかを中心にしたいつもの座席指定が今日も決定してしまった。あんまり納得がいかないけど、
「……うーん」
若干首を傾げつつ、あたしは二人の言葉のままに箸を動かし始めた。聞ける機会はまたあるだろうし、今日は諦めるかなぁって思ってたら、
「でも、ほむらちゃん。さやかちゃんがさやかちゃんの不思議な夢の話をすると、何だか――いつも嬉しそうだよね? 私そういうのだけはちょっとだけわかるんだ」
「……そうかしら?」
ほむらが言葉を返すその顔は無表情で、まどかのいう嬉しそうってのがあたしには一体なんのことか全然わからなかった。
「そうだよ? うーん……何だろう。うきうきしてる感じかなぁ? それか――何かを待ってるみたいな感じかなぁ?」
「……」
まどかの言葉にほむらが一瞬だけ、はっとしたように見えた。
「……そうね。そうかもしれないわ。でも、それはまだ先のことよ」
ただそれは一瞬のことで本当にそんな表情をしたのか判断がつかなかった。こいつの表情は本当にわかりにくいから、見間違えた可能性もある。
「ほむらはひょっとすると何か知ってるの?」
だから、手っ取り早く言葉にすることにした。わからないなら、結局のところ聞くしかない。杏子の奴は聞かなくてもある程度顔に出るからわかりやすいんだけど、こいつは例外。でも、結果は聞くまでもない。
「……いいえ。美樹さやかの夢を、赤の他人がわかるわけないじゃない。そんな魔法、わたしが使えないことを知っているでしょう?」
期待通りの回答が返ってきて『そりゃそうだね』と納得しそうになった時、ほむらが言葉を続けた。
「でも――、」
そしてその表情を変化させた。無から、有。
「もしかしたら同じ存在であるなら、わかるかもしれないわ――、」
その表情は笑顔というのかもしれないけど、
「そうでしょ、まどか?」
薄気味悪い笑顔。腹黒というのか、何を考えてるのかよくわからない笑顔だった。何を考えてるのかわからないのはいつものことなんだけどさ。
そんな表情をほむらはまどかに向けてたのだけど、
「ん? 私……? うーん、わからないなぁ? ほむらちゃん、それはさやかちゃんの夢と何か関係あるの?」
「……そう」
でもそれは、まどかの言葉で元に戻った。ほむらお得意な――いつもの無表情に。そして頭を傾けながら、あたしの方に視線を向けてきた。
「――それじゃぁ、美樹さやか。あなたの疑問もその時になったら、きっとわかるかもしれないわ」
「それってどういう意味なのよ?」
「……深い意味はないわ」
こいつ……! もしかして、わざと言ってるのか!
「意味わかんないし……、というかあんたの言葉には深い意味があるようにしか思えないんだけど?」
「……さぁ何のことかしらね?」
そこまで切り出しておいて、白を切るつもり!?
「何よそれ! はぐらかすとかほむら、それってずるくない?」
「……今はそれでいいのよ。それだけで十分。それにこれは『そんなに悪いことじゃない』わ」
「これが良いことだって、あんたは言いたいわけ……?」
「そう……漠然とだろうが、殺伐とだろうが、何もないより良いじゃない? 『今が一番幸せ』って気持ち、あなたにもわかるでしょう?」
「ほむらちゃん……殺伐は良くないような気がするよ」
「そうね、まどか」
ほむらがそうまどかに微笑んだ。
「あ、あれ……?」
そのまどかが驚きの声色を漏らしながら見上げた途端、
「……雨ね」
ほむらも続いて、あたしも確認のために――
「えっ、う、そ? 晴れてるよね?」
空を見上げれば、青い空が広がってる。
「えぇ、青空ね。星が見えればいいのだけど、さすがに昼間は見えないよううね。残念だわ」
雨雲というか、雲すら頭上にない。それなのに、雨が突如として降りはじめた。ってか、星!? 星空っていうのは、だいたい一応見えてるんじゃないの、ほむら!?
「って、そんな、の、のんきなこと言ってる場合じゃないでしょ!」
「――美樹さやか。慌てたところで、何も変わらないわ」
「そ、そうだけどさ」
これはひょっとしてお天気雨ってやつですか……?
まだ極小の粒というか、霧というべきなのか、蛇口を少しひねったくらいのぽつり、ぽつりというくらいな雨が降ってる。でも、雨粒は少しずつ大きくなってる気がする。
「雨が強くならないうちに、はやく学校の中に二人共入ろう!」
あたしの言葉には『慌てることない』って言ってたのに、ほむらはまどかに合わせるように、
「……そうね。残念だけど、お昼ご飯は学食辺りで食べましょう」
急いでお弁当に蓋をして、屋上の扉へ足を早々と向かわせはじめた。
こいつ……言ってることとやってること全然違うじゃない!
それに――何でこうも都合よく雨なんか降るの?
これじゃぁまるでほむらへの追求を世界そのものが拒否してるみたいと、困惑に陥りそうなったあたしも二人を見てるだけじゃなくて、
「……そうだ」
お弁当に蓋をしなきゃと、自分の手元に視線を戻した時、
「えっ……」
『それ』は突如として見えた。
ピンクの羽根があたしの周りにいつの間にかあった。
「……なにこれ?」
お弁当を手に持って立ち上がってみても、それは消えない。むしろ、増えてる? しかも羽根は雨と同じように生まれたばかりの水溜まりに、波紋を雨粒と一緒に作ってる。
「……えっ?」
気付いてみれば、あたしの周りにはたくさんの羽根が落ちてた。
……こんなの見たことない。
夢を見た後でも、こんなにたくさんの羽根を一度だって見たことない……けど――どうして、今ここにあるの?
ピンクの羽根は夢を見た後にしか現れないはずなのに――そうだ!
「ま、ど――」
足元から視線を上げようとした時、黒いものが視界に割り込んできた。それはカラスみたいな真っ黒い羽根で、光を放ちながら、あたしの知ってるピンクの羽根の側に舞い降りてきた。
視線は自然とそっちに吸い寄せられた……あたしの知らない風景だった。
「……っ!」
あたしの身体は自然と勝手に動いて、足元にあったピンクの羽根を拾った。羽根はいつもと同じように、あたしの中へ消滅した。
それじゃぁ、黒い羽根は……?
「っ――」
それを手にした瞬間痛みを感じた。黒い羽根は、あたしを拒む衝撃を指先から全身に与えてきて、あたしはいつのまにか尻餅をついてた。
「……っ!」
何が一体自分の周りで起こってるのか、よくわからない。頭が追いていかない!
だけど、今まどかに声をかけなければ、一生後悔するような気がして、あたしは今度こそ視線を上げ、目の前で起きてることに、声を失った。
――ほむらの背中にある黒くて大きな翼が、傘のようにまどかを雨から守ってたから。
まどかの頭上にあるその翼は、優しくて、でも禍々しかった。まるでまどかを飲み込んでしまうようにさえ思えて、
「――」
あんた一体何を……という言葉が、どうしても口から出てこない!
それにどうしてだか足が震えてきた。しかもじわじわと痙攣みたいに全身に伝わり始めてきた。
これは……恐怖? でも一体……何を恐れてる……の?
魔法少女だし、翼の一つや二つ生えるくらい何もおかしくない。
「――」
まどかに視線を移せば、その背中には小さなピンクの翼がある。でも、その翼は『翼』っていうにはあまりにも小さくて、何より違和感がした。
ほむらの翼と比べると圧倒的に違う。ほむらのが翼だとすると、まどかのは羽根のない翼。羽根だけが数枚あるだけの翼だ。数枚……? ひょっとして――夢の後に見るあの羽根は、まどかから抜け落ちた羽根?
じゃぁ……これは恐怖……じゃ……なくて違和感……?
確かにあたしの夢で見るまどかの感じに今のまどかの翼は全然似てない。イメージ的にはもっと大きな翼がまどかの背中にあるはず。
そう――今まどかを守ってるほむらの黒い翼がちょうど同じくらい。優しくて、誰もかもを救ってくれる大きな翼があるはず、なんだ。
「……」
今のあたしに一つわかるのは……それが例え小さな翼であっても、屋上の扉まで続いてるピンクの羽根の持ち主に、まどかは違いないってこと。
「さ、やかちゃん?」
「美樹さやか」
扉の前で振り返った二人が一瞬だけ、
「えっ――」
制服姿でも、魔法少女姿でもない。
空想上に存在する『天使』と『悪魔』の姿に二人が見えて、
「――美樹さやか」
ほむらの声で、
「……どうかしたのかしら?」
「ふぅ……」
目を閉じて深呼吸すると、
「さやかちゃん!? 早く中に入らないと濡れちゃうよ!」
「美樹さやかはそういう趣味があるのかしら?」
屋上の扉の先には見慣れた制服姿の二人がいた。
「……そうだね」
翼も、羽根もなくなってた。
『幻を見てた』そう思うしかなかった。
だから、あたしは立ち上がって駈け出した。もう濡れてるけど、これ以上濡れても良いことないしね。
でも、もう一度だけと――。
「――えっ」
室内に入る瞬間屋上を振り返ったら、ピンクの羽根が黒い羽根に変わろうとしてるのが目に入った。
……なんだやっぱりあるじゃん。
でも、どうしてほむらに呼ばれた瞬間消えたんだろう……?
深呼吸したから?
目を閉じたから?
違う――――――よね?
……まどか。そう、あたしはその名前を呼ばなきゃいけなかったんだ。
「――まどか?」
やっとその名前が口から出た時、もう屋上の扉付近にはほむらしか残ってなかった。あたしの問いに答えるのは、
「……まどかなら、先に行ったわ」
当然ほむらで、まどかの声は聞こえなかった。
それにしてもまどかはいつの間にいなくなったんだろう? 足音も声も聞いた覚えがない。振り返った瞬間に消えるなんてことあるのだろうか……?
――もしかして……記憶が一瞬飛んでる?
えっ……? 眠ってたとか、気絶してたってこと……?
いや、いやいやそれだったら、まどかが残っててもおかしくない。
あぁ、でもそれならまどかが保健の先生か誰かを呼びに行ったってこともあるって思ったんだけど、あたしは脳裏に残ってた言葉を思い出した。
ほむらの一言目。『先に行った』 つまりは、そういうことなの……?
「……まぁあんたでもいいや」
もし、あたしの推測が正しいのなら、この状況を誰かが作りだしてるってこと以外思いつかない。
「今屋上に『黒い羽根』が見えるんだけど、ほむら……あんたに見えない? しかも、その羽根はあんたの翼から落ちたように見えたんだけど?」
おかしくなってるこの場所に今も残ってる――ほむらが関係ないわけがない。
「……さぁ? わたしには見えないわ。少なくとも雨が降っているようにしか、見えないわ。それと綺麗な色を反射させた綺麗な虹色のような――水溜まりが見えるわ。えぇ、それはもう凄いのが見えるわ」
そうでも思わなきゃ、こいつの普段の行動が理解できない。
そういえば……あの時からもうおかしかった。まどかが転校してきた日。まどかの側には自然とほむらがいた。それに今まで何も違和感がなかった。
でも、今は違う。さっきの二人の姿を見たせいなのか、羽根に触れたせいなのか、今は違和感だらけだ。
「水溜まり……ね」
ほむらの視線を追ってみると、確かに屋上のあちこちで水溜まりがいくつかできてた。にわか雨だろうが、お天気雨だろうが、水溜まりができるのは当然のことで、何もおかしくない。
でも、水溜まりはもう違和感しかない。
……黒い羽根とピンクの羽根がその水溜まりの上をアメンボみたいにスイスイと動くなんてありえない。
どこからか次々と落ちてくる羽根は、落下と共に波紋を水面で作ってる。
波紋……そういえば、夢のまどかも波紋みたいなのを作ってたっけ……?
「――あなたには見えているのね」
あたしの思考を遮るように聞こえたほむらの声に振り返ってみれば、
「えっ?」
ほむらは見たことのない表情をしてた。
「……なんでもないわ、気にしないで」
ほむらの表情はなんていうんだろう……泣きそうというか、曇ってた。それもどこか、夢で感じるまどかを思わせる表情。波紋を作るだけ作って泣いてるまどかの雰囲気に似てた。
「……見えてる? それって……」
泣き顔のほむらと、泣き顔のまどかが重なって……あたしの中で何かがざわついた。同じはずないのに、何かがあたしの中で木霊してく。
「……つまりあんたに羽根が見えるってこと?」
何でなんだろう? 今は声が出る。さっきはあんなにも無理だったのに。
「さぁ、どうかしらね」
というか、こんな無愛想な奴が泣くなんて想像できない。信じられない。
でも、今こいつは悲しそうな顔――それも他の誰よりも、ずっと暗い表情。
「そう……これは……ただの独り言。そう思ってくれて構わないわ」
「独り言……?」
独り言にしては、重大発表みたいな印象を受けるんですが……? あたしの疑惑めいた視線をものともせず、
「……美樹さやか、あなたはあなたがすべきことをすればいいわ。わたしはそれに対して何も干渉しない。もうそれも無理――」
ほむらは言葉を続けた。
「無理って一体何のこと? あんた何をしてるのよ?」
一体こいつは何をしてたんだ? さっきも今も……。
「――わたしには時間がない」
「あんた、それ本当に独り言……?」
時間がなくて、無理とかよくわかんないんですけど? 意味深すぎて、正直引くレベルのもの……だよ、ほむら!
「独り言は独り言だわ。忘れてしまって構わないわ」
そういって、今までの表情を崩してなぜか笑みを零しながら、ほむらは階段を降りてった。その背中には寂しさの色が見えた気がした。
「……じゃぁ一体なんなのよ――これは」
依然として、屋上には羽根がある。今はもうピンク色の羽根がないと言った方がいいくらいの侵食具合。
……侵食、その言葉が正しいのかあたしにはわからない。でも、ピンク色の羽根が反発せずに一枚一枚黒い羽根に変わってく様子は、そうとしか思えない。
燃やされて焦げたという表現もできるかもしれないけど、何か……違う気がする。なんていうんだろう……胸の奥でそう何かが呟いてる気がする。
そんな存在いるわけないのに、『違うよ』って誰かがあたしに囁いてくる。あたしの中でこだまがずっと続いてる。
「……」
羽根は――ほむらが降りた階段の上空にもある。今まさに鳥から抜け落ちましたっていうみたいに、黒い羽が滑空しながら階段の宙を舞ってた。
「……本当に独り言なの、ほむら」
あたしは誰もいなくなった屋上近くで、独り言を呟いた。当然答える人なんて誰もいない。だって、それが独り言なんだから……じゃぁあいつのはなんなの?
ほむらの言葉の意味はわからなかった。
でも、何か嘘をついてるように、あたしには感じられた。本心っぽくないから……? あたしはまどかほどあいつにべったりじゃないから、それはやっぱりわからない。
「……まどか」
屋上にもう一度目を向ければ、雨は止んでた。
あたしは二人を追わずに晴れた屋上の中心へと向かった。
「……」
……黒い薔薇、もしそんなものがこの世にあるなら、目の前の風景はそう呼ぶのかもしれない。
黒い羽根が屋上一面に広がってる――黒薔薇の庭園、そんな感じのもの。マミさんが見たら、喜びそうだ。
「……っ!」
違う、そんなことを考えてる場合じゃない。あたしは無理やり首を左右に振って、考えを吹き飛ばした。
……あいつに言われたからじゃないし、あたしはあたしの中にある『何か』に従うだけ。そう――あたしがやりたい通りにすればいい。
ほむらなんて、関係ない。
あたしはしゃがみ込んで、今度こそ『それ』を掴みとった。
「……」
この手には黒い羽根があった。痛みは感じない。あるのは、懐かしさがある優しい温もりだけ。
それに……いつの間に変わってたのだろうか、もう黒薔薇の庭園はなくなってた。
ここにあるのは――手の中にある一枚のピンクの羽根と同じ色をした薔薇だけ。
「……っ!」
どうしてだか、また涙が出てきた。
どうしてなんかはもうわかってる。
――全てを思い出したから。
あたしは壊したくないなんて甘いことを考えちゃってる。
「……」
今あたしのあるべき場所、それはあいつが作ってくれて、守ってくれてる。だけど、
「……まどか」
あたしの手のひらにあるピンク色の羽根。
これが全てで、これが始まりで終わり。
……まどかはずっとあたしを待ってくれてるんだよね?
いつかあたしが夢から覚めるのをずっと、ずっと待ってくれてたんだよね?
――円環の理。あたしはその一部だった。
この世界は――偽りだ。
「……転校生」
ほむらが守るこの世界を壊すのが、あいつの救いになるのかわからない。あいつが待ってるのは破滅だから、救いなんてものじゃない。
でも、円環の理はほむらを救う。それがまどかの願いだから。あたしも救ってくれた。他の魔法少女だって、たくさん救ってきた。
あいつは……あたしにどうして欲しいんだろう?
あいつの言葉は昔にあたしが言ってやった言葉だ。
『今が一番幸せ』、『これってそんなに悪いことなの?』
あいつは一人で苦しんでる。だから、これはきっと終わらせなきゃいけない。
「……っ」
あいつは悪魔になってでも、まどかの幸せを選んでくれたんだ。今になってあたしはやっと気付けた。違う、まどか以外の人の幸せも同時に守ってくれてたんだ。
「……ぅ!」
涙が止まらない。拭う気も起きなかった。
「……ふぅ」
しばらくして涙が流れ終わったのを確認しながら、あたしも学食にいる二人の後を追うことにした。
「……」
屋上の羽根はもう全てあたしの中に吸収されて、消滅してた。
空には星空が見えた。
宇宙――『星が見えればいいのだけど』ってあいつは言ってたっけ。
あいつは――まどかを待ってるんだよね? この偽りの宇宙の先にあるまどかを。
だったらどうしてこんなことしてるの……? あいつの真意がわからない。
「……」
階段まで戻ると、そこに羽根はなかった。あたしの中に吸収されたのかもしれない。
「……ほむら」
……あいつは知らないんだ。
あたしがあいつの想いを知らなかったように、
あたしたち――『円環の理』がそんなに悪くないってことを――。
まどかはあの中でも幸せに感じてるってことを――。
だから、始めよう。
二人が泣いてる世界なんて、あたしには耐えられない。
瞳の奥に暖かい何かをまた感じながら――あたしは階段を降り始めた。
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叛逆の物語、崩壊の始まり――。