No.661382

お得意様は裁判官! 第1巻~第3巻(修正ver.)

瀬高 澪さん

 
モブヒロインが月活動を手伝うお話。

第1巻と第2巻の全文公開です。
現在は頒布を終了している為、全文を修正の上web掲載させて頂きます。

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2014-02-07 22:53:53 投稿 / 全17ページ    総閲覧数:535   閲覧ユーザー数:535

 

【一】

 

 人を殺した罪を償う方法は1つしかない。殺した奴も死ぬことだ。それも被害者と同じか、それ以上の苦痛を味わいながら。

 私の両親を殺した男はヒーローによって捕らえられ、今は刑務所に入っている。人からすれば終身刑になったあの男は罪を償っているように見えるんだろう。けれど遺族ならばそんなこと決して思わない。殺された人の無念を思えば、決してそんなことを言うわけがない。

 社会の大多数は犯罪者とは無縁の生活を送っている。だから私のこの思いは誰にも知られちゃいけないんだ。犯罪者はヒーローと警察に捕らえられ、法の下裁かれてそれでおしまい。それが市民にとっての、卑劣な輩に接することなく生きてきた人たちにとっての正義。それに反する少数はこのシュテルンビルトでは抹殺される運命にある。今でこそヒーローのおかげで市民権を得ているNEXTだけど、それでもNEXT差別者が居なくならないことからもそれは窺える。大多数と異なる存在は歓迎されない。思想であれ能力であれ何であれ。

 理解してはいたけれど納得していたわけじゃない。もう限界だった。あの男が憎くて堪らない。私が殺傷能力に優れたNEXTだったならすぐさま刑務所に乗り込んであいつを殺してやったのに。残念ながら私の力はそんなに物騒な類じゃなく、単に布の構造を変え、耐久性や耐火性に優れた物にするという平和的なものだった。両親の跡を継いで仕立屋として仕事をする分には役に立つけれど、この恨みを晴らすには何の足しにもならない微々たる力。

 あの日私はヒーローに泣いて縋り付いた。犯人を殺してと。駄目だと言うから私が殺そうとしたら止められた。気持ちは分かるが駄目だと。

 私の気持ちがどうして分かるの? 目の前で両親を殺されたことがあるというの? 司法に引き渡せばあの男は死ぬまで刑務所に入るかもしれない、でもそれだけ。父さんと母さんは死んだのにあの男は生かされたままなのよ!

 泣きながら怒鳴ったらあのヒーローは何も言わず、ただ抱き締めて頭を撫でてくれたっけ。

「どうかしましたか?」

 1976年が終わろうというその冬、店でぼうっとしていたら声を掛けられ我に返る。カウンターの向こうにはお得意様のペトロフさん。相変わらずトレードマークともいえる顔色の悪さは健在だ。

「あ……いえ、ついぼーっとしちゃって。すみません、えぇと。あれですよね、ダンス衣装。今持って来ますから」

 一昨日衣装が完成したと連絡したのを思い出し、慌てて奥に引っ込んで目当ての物を手に取る。ペトロフさんは長年ダンスをやっていて、毎年冬の大会用に衣装を新調してくれる。それだけでなく普段からスーツやらネクタイやら様々と注文してくれる大事なお客様だ。それと両親とも知り合いだったからか何かにつけ面倒を見てくれる頼れる裁判官でもある。

「お待たせしました、ペトロフさん。はいどうぞ」

「ありがとうございます」

 衣装を入れた袋を渡しお代を小切手で頂戴する。いつもならこれでおしまい。今年から単独審が出来るようになったこと、そしてヒーロー管理官に任用されたことから益々忙しくなったペトロフさんは、いつもなら用事が済めばさっさと帰ってしまう。けれど今日は少し首を傾げこちらを眺めているばかりだ。

(顔色はあれだけど、やっぱりいつ見ても美人さんだなー。身体も細いし見応え抜群。眼福だよね)

 本人に聞こえたら穏やかな口調でお説教を食らいそうなことを考えていても、やっぱりペトロフさんは無言のまま。つられてこちらも首を傾げた頃、漸く彼が口を開いた。「何か悩み事でも?」

「へ?」

「いえ、いつもと様子が違いましたので気になって」

「はぁ……いや、いつもと大して変わらないですけど」

「変わりますよ。貴女、店の外の札を『Closed』にしているのにどうしてここに居るんですか?」

 言われて入口のガラス扉を見遣れば『Open』の文字。う、わ……だから今日お客さん来なかったのか!

「それとこれ」左肩の上で結んでいるシュシュを指して続ける。「貴女、こうやってわたしが派手な色を着けていると途端にからかってくるでしょう」

 言われて彼の左肩を見遣れば蛍光ピンクのシュシュ。う、わ……三十路の成人男性が気軽に着けられる色じゃないよそれ!

「そればかりか、声を掛けるまで貴女はわたしが入って来たことにも気が付かなかった」

「いやぁ、まぁぼーっとして」

「上の空と云うのはあんな風に殺気立ってするものではありません。先程の貴女はあの日傍聴席に居た時と同じ空気を纏っていましたよ」

 言われて彼のオリーヴグリーンの瞳を見遣れば鋭い視線。一昨年起きた事件、ペトロフさんは裁判を担当していない。判事補であった彼は私を気遣い、わざわざ仕事を休んでまで公判に付き添ってくれた。終身刑の判決を聞いた瞬間傍聴席を飛び出そうとした私を、犯人に掴み掛ろうとしていた私を、あの男を殺さんとしていた私を、こんなに細身なくせにやけに強い力で抑えてくれた。そうでなかったら係官に取り押さえられ、法廷侮辱罪で投獄されていただろう。

 話してしまいたいと思う。でも法に則り悪を裁く立場のこの人に、あの男を殺したくて狂いそうだなんて言いたくない。法律は正義の味方じゃないだなんて言えるわけがない。けれど今まで散々お世話になりっぱなしなこの裁判官に、真実を捻じ曲げて伝えるだなんて一番したくない。

「訊かないでくれると嬉しいです……」

 彼の目を見ていられなくなって俯く。困った。本当に困った。いつもはもっともっとお喋りしていたいけれど今日は駄目だ。早く帰ってくれないかな、ペトロフさん。

 先程と同じ長い長い沈黙。アンティーク物が好きな父さんが生前購入した振り子時計が時を刻む。それが更に空気を張り詰めさせていく。

「……5年前」不意に頭上から静かに声が落ちて来る。「判事補として司法局に勤め始めた頃はこれで悪を裁けると信じ切っていた。だが現実は違った。命を奪われた者の苦痛を決して罪人は味わわない。咎人の言葉1つで罰は軽くなり、或いは無実にすらなる。解放を求める者の為に法は何もせず、正義の名の下で人を偽りの裁きの庭に導くのみだ。君の思想は恐らく、わたしが抱く司法への絶望と同等だろう」

 頤に彼の指が宛がわれる。ひんやりとした指がゆっくりと顔を上げさせ、再び私は彼を見上げた。その瞳には、蒼の炎が宿っていた。

「だが憎悪に身を委ね罪人を罰するだけでは報復に過ぎず、義挙には決してならぬ。己もまた虚妄の庭に迷い込もう」

「でも私はあいつを殺したい。あいつが生きているだなんて許せない。ヒーローがどうにもしてくれないのなら、法があの男を生かし続けていくのなら、それがみんなにとっての正義というのなら」

 彼の指が頬に滑る。炎が勢いを増すのが見えた。

「そんなもの、要らない。作られた正義なんて、誰かにとって都合のいい正義なんて必要ない。死に値する償いは死だけ。この考えを、私は絶対に変えない」

「その信条がいずれ己を滅ぼしても?」

「構わない」

 裁判官の手が頬から離れた。そのまま私に右手を差し出す。「心(うら)無きその言葉聞き届けた。我が手を取るがいい。共に堕ちる覚悟があるのなら、わたしは君に力を貸そう」

 

 理義を捨て非義の共を見付けたその夜、空には緋色の満月が浮かんでいた。

【二】

 

 仕立屋の朝は早い――なんてことはなく、完全自営業なので好きな時に寝て好きな時に起きている。そんな気儘な生活を送っているけれどたまにユーリさんが爆弾を落とす日もある。両親の死後「心配だから」と合鍵を作った彼が抜き打ちで家にやって来て、世の姑様も顔負けなお説教を口喧しく垂れるのだ。

 4時に寝てその3時間後に起こされた今日の私は、パジャマ姿にぼさぼさ頭にすっぴんという凡そ女らしさの欠片もない格好でこの人の前に立っている。7つ年上のユーリさんは子供の時から面識があるので最早従兄と言っても過言じゃなく、素を見られても最早あんまり恥ずかしくはない。それはあちらも同様らしく顔を合わせるとオフモード――つまりは素でいつも接してくる。精神衛生上出来ればオンで話してくれると嬉しいのだけれど、この人、オフを知っている人間には容赦ないから絶対にそんなサービスはしてくれない。

 支度を整えテーブルに着く。近所のパン屋さんで買ってきてくれたサンドイッチが皿に盛ってあった。ついでに紅茶党の私の為にと紅茶も置いてある。ついでのついで、その隣には蜂蜜も。

「ユーリさ~ん、私紅茶は砂糖なしのミルク派だって知ってますよねー?」

「わたしは砂糖もミルクもなしの蜂蜜派だと知っているでしょう」

「朝ご飯と紅茶を用意してくれるなら牛乳もテーブルに置いてくれたらいいのに」冷蔵庫に向かいながら文句を言ってみる。

「そこまで甘やかすのは主義に反します」

「何だかな~」

 牛乳を手に戻るとユーリさんはスプーンの蜂蜜をぺろっと舐めていた。それから紅茶を飲むのだけれど、だったら最初から紅茶に入れればいいのにとは絶対に言わない。以前何の気なしにそう言ってみたら「入れる時と入れない時があって――」ととんでもない薀蓄話に発展したからだ。

「ユーリさんは食べないんですか?」サンドイッチは私の分しか置かれていない。

「朝は珈琲だけです」

「そんなんだから顔色悪いんですよ」

「良く言われますから気にしていません」

「気にして欲しい……夜暗がりで見ると心臓が……あ、いえ、何でも」

 上目遣いで睨まれたので口を噤む。本当は朝一で見ても死にそうに怖いと続けて言おうとしたんだけど、そんなことを言ったらお説教だけでは終わらなそうだ。さっき目が覚めた途端飛び込んできたゾンビな顔色に悲鳴を上げなかったのは、長年の経験と努力の賜物による。

「ところでスーツの調子は如何ですか」朝は珈琲だけと言っておきながらサンドイッチを横取りされた。

「そろそろです。完成したら連絡しますね、ユーリさん。多分今週中には出来上がります」取り返そうと手を伸ばしたら半分千切って寄越された。もう半分は既に彼がもぐもぐしている最中。おいおい。朝は食べないって、さっき、自分で、言ったよね?

「結構。近々ヒーローが1人増えますからね、出来れば早目に試着して調整しておきたい」

「へー! 誰ですかそれ。どんな人?」

「公式に発表されるまで待ちなさい」

 ユーリさんは半分サンドを食べ終えると口元をハンカチ――ネクタイとお揃いの柄で勿論私特製――で拭い、リビングにも置いてある振り子時計を確認する。もう行きますから戸締りはしっかりとなさいと言いながら立ち上がった。

「そこまでチラ見せしといて言わないとかないわー。マジないわー」

「無事に結婚まで漕ぎ着けたいのならその口調は正しなさい」

「え、駄目ですか?」

「貴女の恋人は許しても彼のご両親が許さないでしょう」

「むー……そうかなぁ」

「わたしがお相手の父親なら願い下げです」

「というよりユーリさんが舅だったら結婚する気萎えるかも……」確実にいびられそうだもん。

「こちらも女性らしさの片鱗も窺えない義娘だなんて嫌ですね」肩越しに嘲笑をくれながらユーリさんは出て行った。

 オフのユーリさんは毒舌全開で来る。オンのユーリさんは腹の中だけが黒くなる。どっちみち彼の考えていることはオンだろうがオフだろうが変わりはないけれど、出来ればオンの方が直接言われないだけマシだと思うのは気のせいかな。とはいえオフの付き合いが長いから、オンで出会っても何を考えてるか分かっちゃうのがちょっと辛い。そして私が分かっているのをあちらもしっかり気付いているから、オフに戻った時が結構怖い。なので出来るだけオンで会わないようにしているのだけれど、実はそうもいかないのが現状だ。

 だって私、ヒーローズの仕立の仕事も始めたから。

【三】

 

 ユーリさんの手を取ったあの日から彼のファーストネームを呼ぶようになり、眠る前に電話をするようになった。ユーリさんはといえばそれまでより頻繁に家を訪ねて来るようになった。でも仲が良くなったからじゃない。お互い、それは全てある意味監視に近いものがあった。どちらかが音を上げたり壊れたりしないように。そうなってしまえば理想を具現化させる手段が失われるからだ。

 片方が捕らわれれば片方は闇に消える。いつ訪れるか分からない最後の時まで運命を共にする。そして2人の秘密は地獄まで持って行く。これは暗黙の了解だった。

 戦闘能力がないので必然的に表に出るのはユーリさんの役目となった。流石に顔出しはまずいということで、解決策としてヒーロースーツ的な物を用意することまではスムーズに決まった。けれどそこから一悶着……どころか百悶着あった。構想から活動開始まで実に1年近く掛かったのは、どちらも譲れない拘りがあったせいだ。

「ヒーローを見たい?」

 ユーリさんの自宅の地下に案内されたその日のこと。配線に足を引っ掛けてモニターを3台壊したせいでお説教を食らい、部屋の内装や彼の武器収集の趣味にうっかり正直な回答をしたせいで興奮させてしまい、漸く相手が落ち着いた頃合いを見計らって申し出てみた。案の定ユーリさんは「何を言い出すんだお前」という目付きでこちらを睨め付けている。あ、目付きが悪いのはいつもと変わらないか。

「ヒーローたちの普段の動きをちょっと見ておきたくて。何とか潜り込めません?」

「……それ、本当にスーツの完成度に影響するんでしょうね?」

「なると思います。はい」

「……ヒーロー管理官である立場を利用すれば、ひょっとしたら“仕立屋”として何らかの機会を設けることは可能かもしれません」

「おっ、やった!」

「ですがわたしとしても非常にリスクが高い。そこで」

 あ、嫌な予感。

「マントは常時着用ということで手を打ち――」

「却下」

 即答したせいでユーリさんのこめかみが引き攣った。「ではこの話はなかったことに」

「ちょっと待って! マント常時着用だけは嫌なんです!!」

「だからってマントなしはわたしが嫌なんですよ!」

「だってマント着けちゃったら肉体美が見れない!」

「貴女の趣味に付き合うつもりだけはありません!」

「マスクで散々譲歩したんだからこれ以上は無理!」

「マントを譲歩するつもりはさらさらありません!」

 怒鳴り合ったせいでちょっと息が切れたけれどあちらは平然としてる。ちぃっ。

「ともかくマントの件が何ともならない限り貴女の要求を呑むわけにはいきませんから」

 困った。本当に困った。本気でマントは嫌なんだ。マントの色彩とちぐはぐな形とか、ここ半年で議論し尽くしたからもう悟りの境地に入ってる。だけどマントを常に着けられた日には……! 細い腰や細い腰や細い腰を強調するべくあのスーツデザインにしたのにマントで隠されたら私がやっていけない。考えろ考えろ、どうすればユーリさんのご機嫌を取りつつマントなしに持って行ける? ……そうだ! 「ユーリさん、マント着けていいです」

「おや」

「その代わりすぐ燃やして下さい」

「……失礼、今何と?」

「出動までは着けてていいです。でもじゃじゃーんと犯人の前に登場したら即座に燃やして下さい。それで解決です」

「……お休みなさい」

「あっ、ユーリさん待って! 現実逃避しないで帰って来て下さい!!」

 その後2ヶ月説得に説得を重ね、何とか彼からマント燃やしの譲歩を引き出した。だけど彼に誓ってこの時は思いもしなかったんだ。実際に活動を開始してから、まさかマント燃やしが市民のネタにされるだなんて。

 ともかくそういう涙ぐましい努力の果てに漸くヒーローたちと会うことが叶った。布の材質変化の NEXTということで、「じゃあまずはアンダースーツを作ってみて」という話になった。サンプルを納品したら結構好評だったので本契約を見事もぎ取り、以後も何かと彼らに会う機会を得ている。

 といっても毎度毎度店に来て貰うわけにはいかないし――完品アンダースーツは合計16回の微調整が入るから――彼らの会社を回るのも地味に手間だし――特にファイヤーエンブレムに時間を取って貰うのが大変!――結局我儘を通しトレーニングセンターにお邪魔している。これが非常に有益だった。トレーニングの様子を観察出来た上に、彼らのアンダースーツやヒーロースーツまで見させて貰えたのだから。

 ちなみに本当だったらヒーロー業関連の注文だけ受ける予定だったのに、どうしてだかワイルドタイガーの私服まで注文を受けた。「既製品だと体型にフィットしないし、かといってオートクチュールだなんて尻がむずむずする」んだそうだ。で、私なら丁度良いお値段で提供出来ると彼は気付き依頼されたわけだけど。

 ……うん、彼の目とか表情とか仕草とか、ともかく全てがいけない。「駄目かなぁ?」なんて、アラフォーのおじさんが首を傾げながらやめて欲しい。「ちゃっかりしてんな、このおじさん」と思うより先に「可愛い」と感じてしまった自分はきっと重症だ。依頼を受けた帰り道、ワイルドタイガーのヒーローカードを即座に買った自分はもう末期だ。

【四】

 

 ユーリさんは私がどうして彼の手を取ったのか知っている。けれど私は、どうして彼がこれ程までに“正義”に拘るのかを知らない。知りたくないと言えば嘘になる。隠しているわけじゃない、単に私が訊かないから彼は話さないだけ。そして問えばきっと、知らなくていいからと言って話すことを拒否するだけ。

 散々拘ったスーツにも意味があるんだろう。特にマスクの手形は細部に亘って注文が付いた。ユーリさんには私よりずっとずっと深い理由があるんだろうと、少しずつ出来上がるスーツ――人を殺める際の隠れ蓑――が形を成していくのを見て目を細める彼の姿に、流石の私でも気が付いた。

 人からすれば私も立派な共犯者。でも実際にその手を血で染めるのはユーリさんだけだ。手伝いたいと言ったら首を振られた。手を下すのは己だけでいいと、そう彼は言う。なら私はその言葉を信じていればいい。どの道私たちに立ち戻る場所はないのだから。

 

 朝ユーリさんがいつもの如く突撃訪問。生憎と彼が来る20分前に寝たばかりだったので流石にこれには怒った。「おじさんのいけず! 乙女の園にずかずか入って来るとかどんだけ無神経! そんなんだから31にもなって――」

「ハニープリン、買って来ましたよ。食べますか?」

「食べます」

 テーブルに着くとピンクの箱が置いてある。どうしたのこのファンシーボックス。ユーリさんの私物? いや別に個人の趣味だけどさ。世間体とかあるでしょこの人の場合。

「はい、どうぞ」

 彼はその箱からプリンを出して手渡してくれた。何だプリンが入ってたのか。しかも24個入り。今日は月曜日で、賞味期限は明後日まで。

「女性は甘い物が好きだと聞きましたので」視線の意味に気付いたらしいユーリさんが紅茶に蜂蜜を入れながら答える。

「限度がありますよ、いくら何でも。こんなに食べれませんって」

「嫌いでしたか?」

「好きか嫌いかの二択ならそりゃ好きですけど」

「余った分は冷凍庫に入れておけば腐りませんよ」

 何だそのずぼらな独身男の必殺技的解決法。いや独身男だったそういえば。この間彼氏と別れた私が言えたものじゃないけどさ、この人彼女とか恋人とか愛人……いや愛人はちょっとあれだけど、ともかくそういう女性はいないのか。別に男性でもいいけどさ、偏見ないから。

 何にせよズレた感覚の人なので議論に入る前に放棄した。真顔で朝から論争なんてしたくない。どうせ口じゃ勝てないんだし。

 そういえばいつの間にやら家にはこの人の私物が置かれるようになった。一緒に飲めるからという理由だけで少し前に買ったティーセット――訊いてみたら高そうな見た目を裏切らず素敵なお値段だった――を筆頭に茶葉、蜂蜜、色とりどりのシュシュとヘアピン、着替えを始めとしたお泊りセット、あとどうしてだか鉄球。嫌がらせか。

「ところでスーツですが、調整をお願い出来ますか」

「え? ユーリさん、サイズ合いませんでした?」

「いえ」

「動きにくかったとか?」

「いえ」

「私の提案したデザインに変更したいとか?」

「有り得ないですね」

「ちっ」

 ユーリさんは予備スーツの入ったケースを指し「貴女との約束でしたからね。試作品を着てマントを燃やしてみたんです。そうしたらスーツも一緒に燃えました」

「あらら。早速調整しますね。ちなみに燃えた部位は?」

「全部です」

「アンダースーツは?」

「全部です」

「マスクは?」

「何故か無事でした」

 マントを燃やした途端全裸かぁ……ギャグにするならいっそ耐火性このままでいいんじゃないかな……あ、全部燃えるならギャグじゃなくセクシー路線? それとも下手をしたら猥褻物――。

「次に試着するまでにスーツの耐火性が変わっていなかったら、貴女の好きなお説教2時間のフルコースを振る舞いますよ」

「すみません、調整しておきます」

 ユーリさんはその答えに満足してくれたらしい。紅茶とプリンの朝食を摂るとさっさと出勤した。

 紅茶にも蜂蜜、チョイスしたプリンも蜂蜜味。ハニーガイにも程がある。蜂蜜だけをペロロフするのははしたなく見えるから嫌だと、その為だけに紅茶を飲むぐらいの蜂蜜狂いだ。ちなみに珈琲派のくせしてどうして紅茶なのかと訊けば、「だってそうすれば貴女も一緒に飲めるでしょう」と言われた。その拘りに何か意味はあるんだろうか。

 ところでどんな顔してこれ買ったんだろう。だってこの箱、購買層は確実に10代がターゲットだよ。ピンクでファンシーで、それを三十路越えの男性が買うとか、普通だったら勇気要るよね。

 ん? ソーサーの下にブルーのメモ。畳まれた薄紙を開くと、裁判官らしいかっちりした筆跡で「今夜のHERO TVを見逃さないこと」とあった。さっきまで一緒に居たんだから口で言えばいいのに。ユーリさんはこうした悪戯を仕込むことがある。時々プレゼントだとか言って勝手に家のどこかに隠して私に探させるし。見付けられないと滅茶苦茶怒るし。だったら最初から手渡せばいいのに。

 その日の夜HERO TVを見て、彼が何故番組の視聴を指示したか分かった。これが前言ってた新しいヒーローかぁ。イケメンだなぁ。でも個人的にはユーリさんの方が好み。

 そう思う女性はどうも私だけじゃないらしい。というのも司法局に隠れファンクラブがあるからだ。“隠れ”とはユーリさん本人に対して隠れているだけで、司法局ではメジャーなクラブらしい。ロビーで堂々と勧誘されたぐらいだから司法局公認なのかもしれない。仕事しろ司法局。

 ファンクラブのことはヒーロー仕立業を請け負ってジャスティスタワーに通い始めてから知ったけど、まぁね、納得納得。うん、クマと顔色さえ除けばユーリさん、本当に美人さんだもの。顔だけは、ね。性格と腹は黒いけど。

 テレビを確認した旨メールで送ると案外すぐに返信された。

 

『今打ち上げの会場です。貴女はどちらに?』

『そういえば私にも招待状来てたかも。行くの忘れてました』

『道理で捜してもどこにも居ないわけですね。ところで調整しましたか?』

『しましたー』

『近日伺います』

『了解でっす! 調整が完了したら開始ですか?』

『いえ、様子をまずは見たい。解析が終了次第です』

『らじゃー』

『ではまた』

 

 返信速度からするに壁の花してるんだろうなぁ。容易に想像出来る彼の姿に思わず笑みを零した。

【五】

 

 そろそろ始動すると聞いて、何か出来ることはないだろうかと考えた結果がルナスーツ柄のネクタイだった。どんどんと目付きが鋭く、雰囲気がぴりぴりとしていく彼に、せめて少しでも笑って欲しくて作ってみた。我ながら素晴らしい出来だと思う。

 トレーニングセンターにワイルドタイガーの私服採寸とデザイン要望について聞き取りに行った際、ついでにと司法局に寄って贈ってみた。予想通りのお小言。ジャスティスタワーにそもそも何をしに来たんだと訊かれて、素直にワイルドタイガーの用事のついでと答えたら尚一層嫌味を言われた。

 アンダースーツやルナスーツと違い私服であるなら仕立てるのにそれ程時間は掛からないので、その2日後トレセンに届けに行った。鉢合わせたドラゴンキッドに「タイガーさんなら裁判所に行ったよ!」と教えて貰い、礼を伝えて裁判所フロアに向かう。そういえば昨日の出動時に壊し屋のお家芸を披露したツケとしてユーリさんに呼び出されたんだったっけ。本人が「いやー呼び出されちった! てへぺろ☆」とメールで寄越したのだから確かだ、というより裁判沙汰に慣れ過ぎにも程があるだろこのおじさんマジ可愛いな。でも開廷時間の40分前なのにどうしてもう裁判所に? いつもはぎりぎりに行くって聞いたんだけど……もしかして、この間タイガーの全裸を見ちゃったことがトラウマになって避けられてるのかな?

 そのセンセーショナルな出来事が起こったのは、先月トレーニングセンター内の男子ロッカールームでのこと。「タイガーは休憩室に飲み物を買いに行ったから、戻るまでロッカールームで待っていればいい」とのロックバイソンの言葉を信じ、「じゃあ遠慮なくー」と入って程なく、隣接のシャワーブースから出て来た全裸の彼と遭遇した。おいおいバイソン! あなたを信じてみたのに!

 その後タイガーがびっくりし過ぎて大声を上げてしまい、偶然トレーニングセンターの視察に訪れたユーリさんが悲鳴を聞いてロッカールームに入って来たことで事態は一気に悪化した。

 あの人はどうして、悪戯を見付かって欲しくないなっていう心境の時にばかり鉢合わせるかね。

 状況を一目見るなり彼に首根っこを掴まれ、あっという間にエレベーターに押し込まれ、無人の第7簡易裁判所に連れて行かれ、みっちり2時間、裁判長口調かつ鬼のような形相で叱られた。今までにも怒られたことはあったけれどあんなに本気だったのは初めてで、だからこちらも彼のお説教タイム中初めて泣いた。

 騒ぎの翌日改めてワイルドタイガーに注文品を届けに行ったら、ファイヤーエンブレムに「ねぇ? タイガーはプッシーキャットだった? それともちゃあんとワイルドだった?」と訊かれたのはまた別の話。

 記憶に新しい第7簡易裁判所を通り過ぎ、あれそういえば今日タイガーの裁判はどこだっけと辺りを見回していた時、真向かいの第8簡易裁判所から法服を纏ったユーリさんが出て来た。相手は慌てて胸元を分厚い法律の本で隠したけれど、その一瞬でしっかり私は目にした。ルナ色のネクタイを。伊達に仕立屋をやっているわけじゃない。

「ユー……ペトロフ裁判官、それ!」

「何故貴女がここに居るんですか!」

「ワイルドタイガーにお届け物です、ご注文の品を。と・こ・ろ・で! ペトロフ裁判官――」

「忙しいので失礼!」

 競歩で廊下をちゃきちゃき進み、曲がり角は無駄なく直角にターン。流石ダンス歴ン十年、逃亡姿もキマってる。てか普段からあんな動きしてたのか。

「おっ、仕立屋ちゃんだ……ん? どうかしたか?」

 視線を裁判所入口に戻せば、今を時めくBBJと、今も崖っぷちWTが出て来るところだった。

「あ、いえ、今そこでぺトロフ裁判官に出会して、ちょっぴり驚いただけです、顔色に」

「ぶはっ! ひっでぇ!」

 からから笑うタイガーに歩み寄り、品を渡そうとしたその時だ。さっとBBJが割り込んで来た。「タイガーさんに何かご用ですか?」

 うわ怖い顔。いつもの胡散臭い愛想笑いはどこにやったのかね。

「あ、それひょっとしてこの間俺がお願いしたやつ?」

 タイガー、あなた凄いね。ブルーローズの放つ攻撃より冷え冷えとした空気を読んでよ。「はい」

「あーそうだった! ごめんな、今日の時間を間違えちゃっててさ! いつもは14時からなんだけど、今日は1時間早かったんだよ。もーさぁ、賠償金裁判は14時からっていうのがお決まり――」

「おじさん、そんなことより仕事が先です。さっさと行きますよ。これが品物ですか? 代わりに受け取っておきます、この人に渡したらまた壊しそうだ。代金は後で取り立てるなり何なりして下さい、何なら僕宛でも構いません。では急いでいるのでこれで」

 勝手に自己完結して勝手に袋を取り上げられた。挙句擦れ違い様「次におじさんの裸を見たらストーカーとして訴えますよ」と囁かれた。

「おい、ちょっと待てよ、おいバニー!! ごめんな、お金次会った時絶対払うから! ちょっとあいつ拗ねさせたら面倒だから、ほんっとごめん! また今度な!!」

 何の意味があるのか、右手チョップを眼前で固定してこちらに謝りつつ、ワイルドタイガーは後ろ走りで相方を追い掛け姿を消した。

「……あれ?」BBJの言葉を正しく脳内で組み立てられたのは、大分時間が経ってからだった。

【六】

 

 裁判所での邂逅から3日後、ユーリさんが店にやって来た。聞けばニューヒーローの行動解析が終了したのでいよいよ活動を開始するとのことだった。

「ユーリさん、BBJといえばこの間HERO TVで放送されていたあの派手な攻撃ですけど」

「派手な……? あぁ、“GOOD LUCK MODE”のことですか」

「当たらないで下さいね。耐久性限界まで上げてますけど、衝撃でマスクが壊れちゃうかもです」

「見た目が派手なだけで能力に変化はないらしいですが、貴女がそう言うなら」

 予備のマスクが入ったジェラルミンケースを渡しながら訊いてみる。「そういえば名前って決まりました?」

「えぇ。“ルナティック”と」

 告げる彼の瞳は穏やかだった。これから血みどろの道を歩もうとしている人にはとても見えない程にオリーヴグリーンの海は凪いで輝いている。ハロウィンの夜を境にユーリさんは恬淡とした雰囲気を見せ始めていた。だからこそ、余計にその名が異質に響いた。

「……もう、私たち……狂っているんでしょうか……」彼の手にあるケースを見つめながら問う。

「たとえそうだとしても構わない」

「へ?」

「狂乱の果てでも君が居るなら心強い」

 う、わ……オフモードのテンションMAXだ。目が燃えてるもん、文字通り。「あのー、ユーリさん。ルナティックってどういう路線でいくんですか?」

 彼の目の前でひらひらと手を振ると炎が消え、常の裁判官然とした面持ちに戻った。「取り敢えず仕事の時とは別の雰囲気でいきますよ。そうでないと正体がバレてしまいますからね」

(それってつまりオフモードってこと? それはそれで結構危ないと思うんだけどなぁ)

 店を出るユーリさんを見送りながら頬杖を突く。HERO TVに映ることを考慮してのオフモード路線なんだろうけど、きっとユーリさん気付いてないんだろうな。オンよりオフの方がかなりインパクト強いから、そっちの方がバレやすいかもしれないってことに。

 一週間後の夜。ユーリさんに紹介された業者に改装して貰った隠し部屋で、ルナティック・マントを量産していた時だった。品質にユーリさんは非常に拘るので、燃やす為のマントといえど作成には手間が掛かる。活動開始となれば大量消費も間違いないので、今からたっぷり作り置きしておこうと集中していた。そのせいで入って来る音を聞き逃したらしい。不意に感じた気配に振り向いたらルナティック・マスクのどアップだった。

「ぎゃあぁああぁああっ!!!」

「落ち着きなさい、わたしです」

「わわわ、分かってますよ! 分かってるけどそのマスクは怖いんですよ!!」心臓止まるかと思った……。

 落ち着いて話を聞くと、ルナティックとして最初に殺そうとしていたターゲット――即ち両親を殺害した男――とは別の犯罪者を殺害してしまったから謝りに来たのだと言う。刑務所に下見に行った際今夜殺した男たちの声が聞こえ、居ても立っても居られず粛清してしまったのだと。

「明日また改めて刑務所に行って来ます……」

 ユーリさんは項垂れながらそう締め括った。心臓に悪いからマスクを取ってと頼んだので、彼はルナティックを腕に抱えながら悄気ている。31歳の男性にこう感じるのはきっと、いや確実に失礼だと分かってはいるのだけれど、小動物が飼い主に叱られて落ち込んでいるように見えた。

 う、頭を撫でたい……でもそんなことしたら「髪が乱れる!」って怒られるからやめておこう。マスクオフしてどの道髪型は色々あれだから別に平気だと思うけど、それを告げたら今度は拗ねる。それは大変面倒臭い。

 だから代わりにこうしよう。

 ルナティックを取り上げて傍らの机に乗せ、彼をぎゅっと抱き締めた。息を呑む音、次いで躊躇う気配、そうして回される暖かい腕。

「いってらっしゃい、ユーリさん」

 背中を軽く叩いてあげると、耳元で彼が安堵の吐息を零した。

 翌日の夕方、OBCにチャンネルを合わせるとキャスターが刑務所内での殺人事件を告げた。映し出された被害者は、この2年間、1日たりとも忘れたことのない男だった。

 最初に訪れたのは笑いだった。笑って笑って、喉が痛くなった頃頬が濡れているのに気が付いた。身体中から力が抜けて、床に頽れ胸掻き毟る。

 歓喜も恐怖も憎悪もない。達成感も充足感もない。ただ、虚しかった。

 

 目を開ける。眠っていたらしい。ソファに移動した覚えはなかったけれど、きっと泣き疲れて無意識の内に横たわったんだろう。いつの間にかテレビと部屋の電気が消えていた。なのに室内は明るくて、それが出窓から差し込む月の光だと気付いて、頭だけを動かしてそちらを見遣る。

 窓枠に腰掛け、天を見上げながら涙を流すユーリさんが居た。月の光に溶けてしまいそうで、目を逸らしたら居なくなってしまいそうで、怖くてずっとずっと彼を見ていた。視線を感じて彼が私を見る。流れる涙はそのままに、ユーリさんはゆっくりと右手の人差し指を己の唇に当てた。「おやすみ」と音もなく紡がれて、おとなしく従い目を閉じる。

 微睡に引き込まれる直前「パパ――」と囁く声がした。

【七】

 

 ユーリさんが両親の敵を粛清してから3日後の夜。ワイルドタイガーのアンダースーツを仕立てていると携帯電話が震えてユーリさんからの着信を知らせた。

「疲れた裁判官の癒し相談室で~す。今夜はどんな癒しをお求めですか~?」

 応えながら時計を見れば午後9時20分。大多数の市民は仕事から学校からまたはどこかから帰宅して、まったりしながらテレビを見ていることだろう。そういえば今日はHERO TVでスカイハイの特集があった筈。スカイハイって元々何かズレてるなとは思っていたけれど、中の人はもっとずっと天然だった。恐るべしKOH。

「……テレビを点けて下さい」くぐもった声が、たっぷりの間を取って命じた。

「癒しは――」

「そんなもの要りませんから、ともかくテレビを点けて下さい」

「もう点いてますよー。9時半からのスカイハイ特集を見ようと思って……あっ、勿論私情じゃないですよ? ヒーローに関する情報はあって困ることはないですからね!」

「……私情でも何でも構いませんが、スカイハイ特集は中止です。直に中継が入りますから」

「ブルーローズのコンサートですか?」

「いえ、ルナティックのデビュー中継です」

 電話から落とし込まれた言葉に息を呑む。HERO TVで中継されるということはヒーローが出動するということだ。ヒーローは基本全員が現場に急行する。対するユーリさんは――ルナティックは、たったの1人。ヒーローは犯罪者を殺害することはないけれど、万が一ということもある。不慮の事故が起きる可能性もある。そう、命を落とす危険性が。

 ヒーローに対峙する必要性はない。これからもずっと、闇夜に紛れて罪人を処刑していけばいい。けれど彼は言うのだ、遅かれ早かれいずれは見(まみ)えることになると。それにいくら人殺しと変わらぬとはいえ義があると。ヒーローと相容れぬからこそ、彼らに己の正義を示して戦いたいのだと。

「ユーリさん」

「はい」

 その声は全く平静だった。3日前、こちらの心が潰れそうになる程悲哀に彩られたあの声は、やはり月明かりによる幻か夢だったのか。「あ、の……」

「……はい」

 何が出来るわけでもない。何が言えるわけでもない。よしんば可能であったとしても、そもこの人がそれを望んではいない。なら私に出来る唯一のことは。「……今……どこ、ですか?」

「これから中継が入る現場の、人目に付かない所です」

 どこだそれ。「じゃあちなみに、ですけど。ひょっとしてルナスーツを着たまま電話してるんですか?」

「……は?」

「いや、人目に付かない場所で、しかもあのマスクを着けたまま電話してるって想像したら……うん、すっごくシュールなんですけど」

「……テレビをちゃんと見ておくように。いいですね!」

「あっ、ユーリさん!!」

「何ですか!」

「メルブリンの新作の紅茶、お客様から頂いたんです。後で一緒に飲みましょう」

 手を緋色に染めるのは己だけでいいと、そう彼は言う。私はスーツを提供する、ただそれだけでいいと。1度ルナティックとして闇夜に踊り出た後は、帰りを待たず、その存在自体忘れろと。そうすると約束したし、その答えにユーリさんは満足した様子を見せた。でも彼は1つだけ忘れている。帰りは待たないし、手伝わないし、彼が死んでしまっても一般市民の見せる好奇心以上の感情は抱かないと請け負ったけれど、帰って来た彼を抱き締めて、紅茶を一緒に飲むぐらいのことは出来るんだってことを。

 私の言葉に束の間の沈黙。やがて軽く笑う気配が鼓膜を震わせて、次いで唐突に通話が切れた。ややあって特集中止のテロップが出てCMに入る。2分。中継が開始された。

 映し出されたのは夜に浮かぶ教会と、突如燃え上がる蒼の炎。

 マリオ・ザ・イエロー――いつも黄色のスーツを着用していることから、視聴者からこのニックネームを贈られた――が、堅い声で視聴者に状況を説明する。犯罪組織の根城にヒーロー総出で突入しようとしたところ、突如謎のNEXTが現れ火を放ったと。

『炎の勢いは凄まじく、ヒーローたちも苦戦している模様です。礼拝堂にはワイルドタイガーとロックバイソンが向かいました。翼廊は既に全焼し崩れ落ちており、焼け跡から生存者を救出しようと折紙サイクロンとドラゴンキッドが奔走。ブルーローズは必死の消火活動を。スカイハイは上空から、周囲に風の壁を作りこれ以上燃え広がらないよう食い止めつつ救助を試みています。しかし現在のところ生存者は――……あっ! 4ヘリから連絡が入りました。ハンドレッドパワーを発動させ、突如この突入作戦から離脱したバーナビーを捉えたとのことです。彼は教会を襲った謎のNEXTを追い掛けていると! カメラを切り替えます、皆様少々お待ち下さい!!」

 教会の映像が乱れ、人命を救おうと尽力するヒーローたちの姿が消えた。代わりに画面に登場したのは、ブロックスブリッジを走るルーキーと、手の平から炎を出して滑空するルナティックだった。

 知らず両の拳を握り締めていた。ユーリさんがヒーローと遣り合えるとは思えない。あんなに細くて顔色が悪くて生っ白い人に、あのガタイのいいルーキーと渡り合うことなんて。まだKOHじゃなかっただけマシだけど、それでもJr.はかなり手強い相手だ。怪我だけで済めばきっとマシな方。下手をしたら捕まってしまう可能性も――。

 不安は全くの杞憂に終わった。ルナティックは滑空しつつルーキーを空中で翻弄し、くねくね動いて相手の攻撃を躱し、挙句カメラ目線でオフモード全開トークを全市民に披露したのだ。私がテレビの前で頭を抱えたのは言うまでもない。

「何考えてるのこの人! 動きがまんまユーリさんじゃない! しかも何で喋るかな!? 声聞けば一発で彼だって分かっちゃうでしょ!! てかそもそもどうしてオフモードでルナっちゃってんの! ルナモードでルナってくれよ! 何の為にこの1年掛けてルナスーツを作ったと思ってるんだこれでバレたら意味ないだろもういっそBBJみたくすっぴんでルナれぇえぇえええっ!!!」

 テレビに向かっての渾身の野次は盛大にご近所迷惑だったけれど、そこはゴールドステージ、近隣住民のお宅はきちんと防音設備が整っていて全く問題にならなかった。

 放映から2時間後やけにご機嫌なユーリさんがやって来た。顔を合わすなり「明日早いのでもう寝ます。紅茶は朝に頂きますよ。ところでテレビは見ましたか? ちゃんとマントを燃やしたでしょう?」ときた。

「見ましたよ! そりゃ確かにカッコ付け過ぎってぐらいにカッコ良く燃やしてくれてましたけど! それより! もぉっ! ユーリさんってば何ですあれ!」

「あれ……とは?」左手を顎に添え、こてんと軽く首を傾げる。

 くそぅ、何か可愛いな! 「オフモード全開だったじゃないですか! どうしてルナモードでやってくれなかったんです?」

「オフモード?」

「あ、まぁともかく。素で喋ったらバレちゃうでしょう?」

「ご心配なく。素で話すのは貴女の前でだけです」

「なら、まぁともかく。素で動いたらバレるでしょ! あんな風にクネクネするのユーリさんの特徴だもの!」

「普段からあんな動きはしていません」

 嘘吐け! してるし!

「何を心配しているかは知りませんが、ユーリ・ペトロフとルナティックを結び付ける要素は皆無です。正体を知られることにはなりませんよ」

「でも裁判官とルナティック、声が同じじゃない!」

「……アイパッチ1つでワイルドタイガーの正体がバレないシュテルンビルトですよ?」

「う……ん、じゃあ平気かな」

「平気ですよ。それより流石に今夜は疲れました、もう寝ましょう」

 年だしね……と言葉には出さずに思っただけだったけれど、しっかり空気は伝わって、少々むっとしたらしいユーリさんに無表情で頬を軽く摘まれた。間近に美人の無表情を拝めるとか誰得ですか。私得ですありがとう。

 翌朝「BBJに呼び出されたので」とユーリさんはかなり早い時間に出掛けて行った。昨日の今日であの人良くヒーローに会えるよね。その肝っ玉には恐れ入りますホント。

【八】

 

 戦慄デビューから一夜明けた朝のトップニュースはどこもルナティック一色。その日の夜は報道番組にまで進出し、犯罪心理学の専門家やらシュテルンビルト市警の元警部やら元ヒーローやら、ともかく様々な人が好き勝手にルナティックを分析し意見を述べていた。総意をユーリさんに話してみると鼻で軽く嗤われた。やっぱりメディアの見解は的外れだったらしい。

 謎のNEXTについての興味と好奇心はテレビを始め、主にインターネットを通じて市民に急速に広がっていった。結果として、インパクトのある登場シーン、圧倒的な強さ、仰々しい台詞運びとその思想が一部にウケて……じゃなかった受け入れられて、デビューから僅か1時間後には有志によるファンクラブが作られたらしい。ニュースで知ってサイトを覗きに行ったら既に2万アクセスを叩き出していた。完全匿名で個人情報を一切公開せず会員になれるので入会してみた。会員名は「ルナっ娘テイラー」だ。

 ちなみに「その者蒼き炎を纏いて紅月の夜に降り立つべし」と唱えればルナティックが降臨するとサイト開設者は本気で信じ切っているらしい。ンなアホな。けれど何気なく夜空を見上げた日に蒼い炎を避雷針の先に見付け、人らしかったからその呪文を唱えたら、3日後HERO TVにルナティックが登場したという。偶然でしかないのだけれど管理人は運命の出会いだったのだと感じているようだ。何ておめでたい。

 とかツッコミを入れてはみたものの、「もし本当に召喚出来たら予めいつ来るかが分かって便利よね、うん」と思って試してみることにした。よせば良かったのに。

 その日の夜我が家を訪れたユーリさんは、家主がそんなことを企んでいるとは露知らずに上着を脱ぎソファに座ってネクタイを解いている。折りしもお湯が沸いてやかんがぴうぴう鳴き始めた。キッチンへ向かう為ソファの後ろを通り過ぎながら「今しかない!」とばかりにぽそっと唱えてみる。本当にぼそりと。テレビも点いていたし、やかんも鳴いていたから、絶対に聞こえないと思ったのに。

「ぎゃあっ!」唱えた途端恐ろしい形相で振り返った裁判官に腕を掴まれる。ちょ、ナニコノ握力!!

「……ルナっ娘テイラー」

「へ!?」

「貴女、ルナっ娘テイラーですね」

 何故バレてるしー!

 あうあうと視線を彷徨わせていると、ソファから立ち上がったユーリさんに腕を引かれてキッチンへと連れて行かれる。彼が火を止めると漸くやかんががなり立てるのをやめた。リビングからかすかに聞こえるOBCニュースキャスターの声をBGMに、細められたオリーヴグリーンの瞳が私を見下ろす。

「……ああいったサイトは規模が大きくなればなる程大勢の人間が集まります」纏う空気同様、静かな声で彼は切り出した。「一箇所に纏まってくれればこちらも違法者を摘出し易くてね。良くも悪くも話題になりそうな、或いは既に話題となっているサイトは司法局の専門部署が監視しているんですよ。今朝のニュースで流れた<ルナ様のスカートを捲り隊>というサイトも然り。逸早くルナティックについて取り上げていましたからね、サイバーチームが24時間監視しているんです。ルナティックの成り済ましもちらほらと現れている中、本人が訪問する可能性も鑑みて登録者の照会も行っています。次々と類似サイトが立ち上がる中あそこが元祖ですからね、市民のアクセス数も桁違いだ。それもあって当局もあのサイトを最重要視しているんですよ」

 ……ん? 登録者の照会?

「今日の午後、急増する登録者に対応すべくわたしも照会作業を手伝いましてね。その中に“ルナっ娘テイラー”という人物が居ました。まさかと思いましたよ、よもや貴女である筈がないと。どこから情報が漏れるとも限らないのに、そんな軽はずみなことは、いくら貴女でもしないだろうと。しかし念には念を入れてリストから削除しておきました。照会をしてしまえばそれだけでデータベースに残りますからね、調べたいのは山々でしたが我慢して。だから“ルナっ娘テイラー”が本当に貴女だったかどうかは分からないままでしたが……先程の反応を見て確信しました。あれは。貴女。だったんですね」

 ピンチ! 肯定しても否定してもどのみちピンチ! どうする私! ユーリさんの好きなコーヒーでご機嫌取りを……いや銘柄良く分からん! 蜂蜜は……いやどんな拘りがあるかそもそも知らん! 詰んだ! 好奇心は仕立屋を殺すだこれ!!

 混乱しつつ彼を見つめていると相手は目を閉じて軽く溜息を吐いた。垂らした前髪が憂鬱そうに揺れる。「……反省、しているでしょうね?」

「……あー……その」

「だと思いました。貴女、どうにもあの登録を取り消す気はなさそうですからね。反省を促すだけ無駄だとわたしも理解しています。しかし軽はずみな真似は慎んで下さい。卑劣な輩が貴女を狙わないとも限らないのですから」

 ルナティックを脅す為に正体を探る為に、或いは意のままに操る為に。彼に働き掛けたところで返り討ちに遭うのが関の山。だからこそルナティックと関わり合いのありそうな、かつ弱い私を標的とする可能性があるのだと。

 そこまで考えるのは裁判官という職業病か生来の神経質な気質故か。勘繰りが過ぎるだけと言い切るのは容易い、けれどそうだと断言出来ないのは彼の方がずっと“ヒーロー”を、そして“犯罪者”というものを知っているからだ。

 彼には“ルナティック”にならなければならない事情があるからだ。

「ごめんなさい……」

 謝罪の言葉を紡いでも彼の眉間から皺は取れない。困って俯くと、数瞬の沈黙を経てユーリさんのひんやりとした指がそっと顔を上げさせた。

「……今回は事無きを得ましたが次はないものと思って行動して下さい。わたしの杞憂に終わればそれでいい、しかしどう転ぶとも分からぬのが現状です。常に傍に居られるわけではありません。貴女を守り切るつもりではありますが、万が一ということもある。決して注意は怠らないように」

 頷くと、ユーリさんは僅かに口角を上げた。

「最後まで共に在れるよう、少しだけでいい。ほんの少し用心をしてくれればそれだけで。後は全てわたしが1人でやりますから」

 肩を軽く叩かれた。それを合図に彼はやかんへと向き直り、「少し冷めてしまいましたね」と火を点ける。コンロの上でやかんがからからと音を立て始めた。

 手際良く紅茶を淹れる彼を眺めながら、最初の頃のたどたどしい様子を思い出す。あのもたついた淹れ方からここまで進歩したということは、それだけ彼とお茶を共にしてきたということ。それだけ長く2人で居て、どこに続くとも分からぬ道を歩んで来たということ。

 行き着く先がどうなっているのかは分からない。最後まで本当に一緒に居られるのかも。

【九】

 

 ヒーローがいるにも関わらずシュテルンビルトから犯罪が絶えることはない。彼らが所詮は企業の広告塔に過ぎないと皆が正しく理解しているからだ。そうでなければ何故“正義の使者”に逮捕権も与えられず、裁きの剣(つるぎ)を振るうことも許されぬということがあろうか。

 そんな中、絶対的な強者としてルナティックが現れた。ヒーローの存在意義について予てより疑問を抱いていた者は勿論、此度の騒動でそれについて考え始めた者、シュテルンビルトの異常なまでの犯罪発生率に怯える者など、断罪者の出現によって彼らのアンチヒーローの動きは益々広まっていく。「ルナティックさえいればヒーローは要らない」と宣う者も出始め、ヒーロー派と真っ向から対立していた。

 それら全ての動きを、ユーリさんはただ傍観し続けた。否定するもせず、況してや肯定すらせずに、ただ市民の動きを見守り続けた。感情を一切排除し、ガラスのような瞳でただずっと。

 人形じみた生気のない表情が一変したのは、OBCコメンテーターが「最近の流れをヒーローの父ともいえるMr.レジェンドが知ったら、きっと嘆き悲しむことでしょう」としたり顔で発言した時だ。その瞬間、ソファに座る私の隣に腰掛けていたユーリさんの瞳が真っ青に燃え上がった。そんな彼の様子を知ることもなくコメンテーターが更に続ける。

『ルーキーといえど流石ヒーロー、バーナビーはルナティックと遣り合った際あと一歩というところまで追い込んだそうです。惜しくも逃してしまいましたが、彼ならば次の機会に必ずや捕まえてくれることでしょう!』

 今まで見た中で2番目に恐ろしい形相でテレビを睨むユーリさんの顔に何かの痕が浮かび上がっていた。赤く爛れたその皮膚は、まるで人の手のような。酷く痛々しいそれから視線を外して問い掛ける。「ユーリさん、大丈夫ですか?」

「虚像の英雄には負けません」

 どうやら違う意味に捉えてしまったみたい。というより虚像ってどういうことだろう。うーん、どうもBBJがお好きじゃないみたい?

 その疑惑が確信へと変わったのは、後日、眉間にたっぷり皺を寄せてやって来た裁判官が開口一番「T&Bを殴りたい。特にあのルーキーを」と告げた時だった。詳細は話さなかったけれど、余程腹に据えかねる事件があったらしい。落ち着いて貰おうと紅茶を淹れてあげたら、むすっとした顔でティーカップを握り割られた……お気に入りだったのに。

「アカデミーには暫く近寄らないように」

 熱々の紅茶を被って赤くなった彼の右手を支えながら火傷に効く軟膏を塗り込む。明日アカデミーに生徒用のジャージを納品しに行く予定だと世間話をした途端、相変わらずむすっとしながら彼は言った。仕上げにと包帯を巻くと「大袈裟です」と嫌がる素振りを見せつつ、おとなしく手を差し出したままにしている。

「何かあったんですか?」

「何かあるんです、近日」自身の右手に目を落としたまま暗く嗤った。

 日付が変わった夕方、OBCにチャンネルを合わせていると「ルナティック出現!」のテロップと共に速報が流れた。曰くヒーローアカデミーにルナティックが現れたものの、キャンペーンで居合わせたT&Bと折紙サイクロンが追い払ったのだという。折紙はルナティックに襲われた市民を庇うべく身を挺して立ちはだかり、ワイルドタイガーはヒーロースーツなしでルナティックの攻撃を受けながらも果敢にやり込めたと。

 キャスターが手放しで折紙を誉めちぎっているのを、眉を顰めながら聞くともなしに聞いていた。ルナティックが市民を? 気高く、理想に煩いあの人が? 自身の信念を曲げてあろうことか襲った?

 アカデミーに来るなと話していた以上、きっとそこにはルナティックにとってのターゲットが居た筈だ。遺族が怒りに拳を震わせ、けれどもその命を奪えぬ犯罪者が。だがキャスターはその人物について言及せず、あくまで“市民”と言い張った。ルナティックが狙う相手は犯罪者のみだと、先日他ならぬ彼本人が宣言したにも関わらず。

 どうにも気になってPCを立ち上げる。訪れたのは<ルナ様のスカートを捲り隊>だ。会員だけが閲覧・入力出来る掲示板には早速私同様の疑問を抱いた人が書き込んでいる。暫く眺めているとレスもどんどん増え始め、やがて決定的な情報が齎された。

 

『見切れ職人が庇ったのはアカデミー時代の同級生。殺人犯で脱獄犯』

 

 この書き込みを発端として情報提供が相次ぎ、一気にヒーローバッシングの動きが広がった。折紙のブログは瞬く間に炎上、アポロンメディアとOBCにも問い合わせが殺到し、一時はサーバーがダウンした程だ。ルナティックのファンだけでなく、“都合の悪いことを隠した”事実に憤った市民も多かった。

 

『ルナティックは見切れの同級生を殺しに来たのにどうしてそのことが放送されないの?』

『つか脱獄するなんざ最低だろ。人殺しのくせに反省してないって思われてルナ様にお仕置きされるの当然』

『あれだな、“これからの拙者は見切れだけでは終わらないでござるよ?”ってさ。自分の同級生がそんなクズだってこと隠して、さも自分がいいことしたみたいなアピールするってことを言いたかったんだな。流石見切れの匠、やることが違う』

『T&Bって脱獄野郎のこと知ってたのかな? 殺人犯で刑務所抜け出してたって』

『そりゃそーだろ。だからインタビューでBBJ、いつもみたいに“僕ならもっと上手く捕まえられたかもしれません”とかカッコ付けたこと何も言わなかったんだろうし』

『おいおい、天下のアポロンがそんなことでいいのかよ』

『アポロン様だから官僚体質で何事も揉み消すんじゃねーの? つかBBJも大したことねーな』

『結局WTと見切れに全部持ってかれてんだもんな。出番はインタビューだけってどんなヒーロー様だよ』

『あの駐車場に車停めてたアカデミー関係者なんだが、壊し屋のせいで車壊された……ローンと、今となっちゃ役立たずなキーだけが残されたぜ』

『×壊し屋のせい ○ルナ様のおかげ』

『ルナ様に会えた?』

『遭遇してたらスカート捲りの断罪で今書き込めてねーだろ』

『つかもうルナ様さえいれば街は平和だよ。ヒーローマジイラネ』

『実はヒーロー全員が【KOH(キング・オブ・ホントに役立たず)】な件』

『KOH()なんて折紙には一生縁がない称号だと思ってたのに!』

 

 HERO TVは「ヒーローは市民に愛されている」という偶像を作り上げているけれど、この掲示板に書き込んだ人たちの反応からも窺えるように、アンチヒーローは今も多くいるし、NEXT差別者は未だ幅を利かせている。年々凶悪化する犯罪のほとんどにNEXTが関与しているということもあり、「ヒーロー諸共NEXTが滅んだらこの世は7割平和になる」と言われる始末。だからこそ、こうしたほんの些細なきっかけが反NEXT感情を増長してしまうのだ。

 バッシングから数時間後、異例の謝罪会見が開かれた。その中で折紙サイクロンは自身が庇った市民は友人であるとし、アカデミー時代に2人が遭遇した事件のあらましを話した。そうして「番組内で既に友人について言及されていたと思った為にインタビューで何も言わず、また番組側及びT&Bも自分が言うであろうと考え友人についてのコメントを控えた。互いがそのように思い込んだ結果視聴者を騙すようなことになってしまった。誠に申し訳ない」と述べた。

『友人が脱獄した責任は自分にあります。彼とはアカデミー時代、擦れ違いと誤解を抱えたまま別々の道を歩んでしまいました。もっと早く自分が彼に会いに行っていれば、きっとこんなことにはならなかった。そのせいでお騒がせしてしまい、大変申し訳ありません』画面の無効で折紙は深く深く頭を下げた。

『……自分が見切れに徹していたのは、無論実戦向きの能力ではなかったということもありますが、その友人との過去から“本当に自分なんかがヒーローでいいのか”と悩んでもいたからです。けれど漸く僕たちは分かり合えました。だからもう迷いません。僕はもっとヒーローとして成長していきます。それが友人へのお礼でもあるし、そして謝罪でもある。市民の皆さんへの償いになる。そう思うからです。ですからどうかチャンスを下さい。信じて頂けないかもしれませんが、これから僕は変わります。もっと皆さんに頼って頂けるよう、もっとシュテルンビルトをより良い街にしていけるよう頑張ります! 宜しくお願いします!』

 ござる口調も忘れて必死に話し頭を下げた折紙。そんな彼に記者から矢継ぎ早に質問が投げ付けられる。その中で最も多かったのは、「T&Bはこの件について知っていた筈なのに何故コメントを出さないままなのか」だった。折紙が面を上げて答える。

『お2人はたまたまキャンペーンでアカデミーに居合わせただけで、今回の件には関係ありません。全て僕の問題で、責任は僕にあります。ですからこれからは、タイガーさんにバーナビーさん、それにアポロンメディアさんへの問い合わせはご遠慮下さい。どうかお願いし――』

『問い合わせ窓口はアポロンメディアのヒーロー事業部だ!』

 その声が聞こえた瞬間思い出した。この街には、どんな場面如何なフラグでもばっきり壊す男が居るんだってことを。

【十】

 

 再び頭を下げようとした折紙だったが、突如割って入って来た声を聞くや中腰のまま一瞬固まり、すぐさま直立になって画面の右側を凝視していた。ヒーロースーツのせいで全く表情は窺い知れないが、その全身で動揺を顕にしている。彼が数歩後ろに下がるとそこへ1人の男が現れた。

「ヒーロー保護法があるから直接アポロンのヒーロー事業部に来訪は出来ないけど、メールだったら俺たちヒーロー同様、24時間・年中無休で受付中です! 電話は……えーと……」

「――平日9時から20時、土日は10時から21時まで受付です」

 またも割り込んで来た声の主は数秒遅れで画面に出現した。折紙を真ん中に、向かって右にワイルドタイガー、左にBBJが立っている。突然のバディ登場に記者たちも色めき立った。

『え、えっ、何で……』

『水臭いぞ、折紙。何でお前1人で全部背負おうとしてんだよ』

 アイパッチを着けたタイガーに勢い良く背中を叩かれ折紙がほんの少しよろける。そのやり取りを傍でBBJが見守っていた。

『だ、だけど、これは全部僕が……!』

『ったく。お前さー、ちっとは俺たちを頼れってんだ。仲間だろーが』拳で軽く折紙の頭を小突くと、ワイルドタイガーは顔を引き締めカメラに向き直った。アイパッチの奥で琥珀の瞳が眩いている。

『いきなりの乱入ですみません。でもどうしても皆さんにお話ししたいことがあったので、無理を言って来ちゃいました』タイガーはちょこんと会釈する。良く日系人がやるあれだ。

『さっきの折紙の話ですが、言葉だけじゃ分かりにくいって思った人もいたかもしれません。言うだけなら誰だって出来るってね――あっ! 違うぞ折紙、別にお前がどうこうってわけじゃない! ただ、やっぱり言葉だけじゃなくって、自分で実際に見て確かめた方がもっと信じられるって人も居ると思うんだ。俺はそれが悪いとかいいとか、そういうことを言う為に来たんじゃありません。言葉って便利だけど、でも“言うだけならタダ”ってあるでしょ? だからちゃんと証拠がなけりゃ信じられないって人も居るかもしれない。

『それに今回の騒動は、謝ろうが決意を語ろうが、起こったという事実は変わらない。だから余計に“形のあるもので示せ”って思う人だっていると思う。でもそれって本当に難しいんです。決意や思いを分かり易いもので示せってなると、ヒーローだと何ポイント獲得しているか、順位は何位かってことにやっぱりなるかもしれない。勿論それだって形あるものの1つにはなります。だけど、ヒーローやってる俺が言うのもアレなんですけどね、結局は上っ面なんですよ。ポイントが少なかろうが順位が低かろうが、ヒーローとしてやる気がないってことや街を守るつもりがないってことにはならないんです』

『……現にその熱意が空回って、誰かさんは逆に街を壊して順位が上がらないままですしね』

『っだっ! お前余計なこと言うなってばっ!』

 ワイルドタイガーはガシガシと頭を掻く。それを横目にBBJはくすりと小さな笑みを零した。

『まぁともかくそういうわけで、そういったモンばかりじゃなくこれからの俺たちを見て欲しいんです。あなたの目で見て、そうして決断はあなた自身で下して欲しい。他の人の意見や、分かり易いけれど上っ面をなぞるだけのデータの鵜呑みじゃなく。あなたが見て、聞いて、感じた全てで判断して下さい。起こったことは変えられないけど、これから起こることは変えられる。変わっていく俺たちを、どうか見ていて下さい……えーと。言いたかったことはこれだけなんだけど……後何かあるかな?』

 いつの間にかタイガーの隣に立っていたBBJに尋ねる。青年は「どうして僕に?」と表情だけで問い返した。

『ルナティックをどう思いますか!』

 コンビが視線を交わしているその隙を突いて記者が叫んだ。すると異口同音、次々とルナティックについての質問が飛び交う。バーナビーが答えようとするのを留め、ワイルドタイガーがマイクの前に立ち一言返す。『人殺しです』

 記者たちは途端に口を噤んだ。私は息を呑んだ。

 タイガーは目を閉じ、そうしてゆっくり瞼を開ける。会場を見回し、最後にカメラに目を据えた。『市民の皆さんの中にはヒーローよりもルナティックを支持するという人が居るのは知っています。ヒーローと違ってルナティックは市民のことを考え、何より市民の為に、正義を遂行し犯罪者に裁きを与えることが出来ると。だけど誰が何と言おうと、そしてあいつがどれ程綺麗事を言い繕おうと、やってることはただの人殺しなんです。だから俺はあいつを捕まえる。それだけです』

 タイガーは頭を下げると折紙サイクロンを促して壇上から降りて行く。一拍遅れてBBJが後に続いた。

『……こ、これにて会見を終了とさせて頂きます』

 進行役のヘリペリデスファイナンス社員が締め括り中継は終了した。いつの間にか前のめりになり息を詰めていたらしい。息を吐き出しながらソファに凭れる、と、後頭部に何やら違和感。上体を少し仰け反らせて見上げれば、白のワイシャツとルナネクタイが目に飛び込んで来た。「……ユーリさん、いつ来たんですか」

「丁度ワイルドタイガーが乱入する前です」

「チェーン掛けてましたよね、私」

 目を細めてユーリさんはこちらを見下ろす。「わたしの能力は人を燃やすだけではないんです」

「……ふぅん?」

「……教えませんよ」

「ちっ」

「女性が舌打ちしない。はしたない」

 腕に掛けていたジャケットを真上から落とされる。「うっぷ!」と情けない声を上げて上着を撥ね退けると、ユーリさんが隣に腰掛けるところだった。会見について何も言わない。

 上着をハンガーに掛け、用意しておいた救急箱を手にソファに戻る。先日目にしたばかりのそれに、ユーリさんのオリーヴグリーンの瞳が先程よりも細められた。「しつこい人ですね。火傷はもう何ともないと言ったでしょう」

「や、そうじゃなく。左手です、今日は」

 裁判官は目を見開くと、さっと左手を後ろに回し、ソファの上を少しだけ後退さった。

「湿布を貼るだけですよ。普段殴る蹴るしないから、手、痛めてるでしょ?」

「……どうして分かるんですか」

「どうしても何も」声を上げて笑った。「包帯でぐるぐる巻きにしてたら嫌でも気付きます」

「いえ、どうしてわたしが殴る蹴るをしたと」

 目を泳がせながらこの人は言う。今夜の邂逅は放送されなかった。あの後中継車が現場に駆け付けたようだが、精々がルナティック出現を報じる程度、詳細はあの場に居た自分とあのコンビしか知らない筈だと。そして自分の知る限り、コンビは一切メディアで対峙した際の出来事について発言していないと。

「あー。まぁテレビでは何も言ってなかったですけど。ほら、タイガーってさっさと病院送りされちゃったでしょ? それでマリオ・ザ・イエローが病院に容体を確認しに行ったんですって。そうしたらどういうわけかブルックスJr.もついて来たそうなんです。で、丁度治療が終わったタイガーから『冷やしときゃ治るって言われました!』ってサムズアップされたんですって」

『あのグローブ野郎なら1発ぶん殴って撃退しましたよ!』

『でもしっかり1発食らってふら付いてましたよね?』

『だっ! 余計なこと言ってんじゃねーぞ、バーナビー!』

「――って2人が話してたって、マリオがブログに書いてたんです。『ユーリさん有言実行したんだー』って、それで知ったんですよ」

 眦を朱に染めて、ユーリさんは無言で左手を差し出した。

【十一】

 

 シュテルンビルト市立高校はこの街で1番の名門高校だ。ここに入れないならば国内難関大学の1つであるシュテルンビルト大へは進めないとされ、また大学入試の際にもこの高校出身かどうかは極めて重要な審査項目となる。それは学問だけを教える高校ではない為だ。「勉強が出来る人」より「頭の良い人」を重用するこの街では当然のことといえた。

 生徒1人ひとりの特性を伸ばすことを最重要視しているこの学校は、NEXTという超能力者が多く存在するこの街ならではの教育を提供する。ヒーローアカデミーが設立されるまでは市で唯一NEXTを受け入れていた学校であり、故にアカデミー設立後の現在でも、減ったとはいえ未だに多数の能力者が在籍している。受け入れ体制が整っている為だ。

 ヒーローを目指す、或いはNEXT能力をコントロールすることに特化したアカデミーと異なり、本人の希望や特性に応じたカリキュラムが組まれるシュテルンビルト市立高の人気は衰えることを知らない。名門中の名門として、その名声は市民のみならず世界にも轟いている。そのせいか全国各地、果ては海外からも入学希望者が来る為、学校は年4回の入学時期を定めていた。

 今日は来年1月の入学生を対象とした学校指定着の最終調整日。そういうわけで私は、シュテルンビルト随一の高校であり、実は母校でもあるこの学校に仕立屋としてやって来ている。入学試験が面接だけという稀有な試験方式でなかったならまぁ縁がなかった場所だろう。

 月に数回お邪魔していることもあり警備員さんたちとは最早顔馴染みになっている。規則なので身分証を提示して身体検査を受けるけれど最早様式美。終わった後のちょっとしたティータイムが楽しみだったりする。持参したお茶請けを提供し、警備責任者であるモーマントさんが淹れる紅茶でほっと一息。日頃某裁判官に苛められて溜まったストレスを発散する、ここは絶好の場所でもある。

 いつも通り警備員詰所に入るとモーマントさんがすぐに私に気が付いた。「よっ!」

「モーマントさん、おはようございます」

「はよー。いつものでいいだろ?」

「はい、お願いします」

「今日のサンドの具は?」

「モーマントさんが好きなやつですよ」

「さっすが気が利くな! いい嫁さんになれるぜ!」

「……だといいんですけどねぇ……」この間恋人に振られた理由は「お前って空気読めなさ過ぎ。結婚したら大変そう」だったんだけどな。まぁいいか。

 モーマントさんの紅茶を頂きつつ、彼と私の朝ご飯として作ってきたサンドイッチを頬張る。美味いよこれ。あらどうも。そんなお決まりの言葉を交わしていると、到着した当初から点いていたテレビが内務省高官殺害のニュースを流した。

「俺さ、このニュース最初に聞いた時さ。正直『良くやった!』って思ったよ」ツナサンドを齧りながらモーマントさんが呟く。「誰もこの悪党に手を出せなかったのに、あっさりルナティックの野郎がさ。そりゃ確かにルナティックってヒーローとか警察とかからしたら犯罪者だけど。一般市民の俺からしたらこれ程頼もしい奴ぁいないね」

「……そう、ですね……」

「ん? ノリ悪いな。このニュース知らねぇの?」

 知らないわけがない。ルナティックが手を下した事件だ。

 殺害された男は警察局と外務省の幹部らとグルになり、移民を片っ端から犯罪組織に売り捌いていたらしい。劣悪な環境下で命を落とす者数知れず、戯れに嬲り殺される者も多かったとか。当局の必死の捜査にも関わらず証拠は浮かばぬまま、逆にその事件に携わった人間が次々に変死体で見付かるという始末。段々と人員も少なくなっていき、あわや捜査打ち切りといったところでの粛清だった。高官殺害現場に残されたUSBメモリから悪事の全ての証拠が見付かり、現在当局が容疑者を次々と検挙しているそうだ。

 今日の明け方いきなりやって来たユーリさんが、いつもより5倍増しの青白い顔でぽつぽつ話していたから間違いない。話の途中で寝落ちした裁判官のリボンを解き――オンではリボン、オフではシュシュを着けるという変な拘りがある――ネクタイを取って上着を脱がせ、ブランケットを掛けてから家を出た。多忙を極めると分かっていながらも決して犯罪者は見逃さないのが、本当にあの人らしいと思ったっけ。

 無理矢理笑顔を浮かべ、モーマントさんと当たり障りのない会話を続ける。やがて「仕事をしなくっちゃ」と切り上げて、ほんの少し暗鬱とした気持ちで詰所を出た。

 ユーリさんはルナティックを追う側と共に仕事をしている。当然職場でもルナティックの話題が出ることは多いだろう。それでもあの人は感情をぶれさせずに淡々と、裁判官として、そしてヒーロー管理官としての仮面を被り続ける。引き換え私は誰かが彼を話題にしただけでこんなにも動揺してしまう。ルナティックを肯定的に見ている人の前ですらこうだ。1人で最前線に向かい矢面に立つあの人に比べて、私はどれ程ちっぽけなんだろう。

 誰も居ないベンチに腰掛けて空を見上げる。授業中の学校、時折生徒の笑い声が遠くから響く。こんなにも弱い心で、本当にあの人の隣に立っていられるのだろうか。その資格はあるんだろうか。私は彼の足を引っ張っていはしないだろうか。本当に私は、彼と共に在ることを望まれているんだろうか。

「……あーもー!」ベンチの上で両手足を伸ばしてじたばた。悩んだところで答えは出ない。それを与えてくれる唯一の人は、最初からそのつもりがないんだから。「……だったら考えてたって仕方ないかな……」

 時計を見れば正午まであと5分。そろそろ授業が終わる。生徒たちより前に体育館に行っておかないと。指定着は既に昨日搬入して準備済。今日は実際に試着して貰っての最終調整という体だけど、前回から急激に体型が変わっていない限りまず調整希望が出ることはない。そんなに時間も掛からないで終わるだろう。

 体育館に入って程なくして生徒がぱらぱらとやって来る。今日は半日で学校は終わりで、上級生を始めとした有志が人員整理などを手伝ってくれることになっていた。彼らに挨拶をし、注意事項などを伝えて持ち場に移動して貰う。その頃には気が早い入学予定者が数人現れて、さっさと終わらせたいのが本音の私は時間前ではあるけれど仕事を開始した。

 ボランティアメンバーがさくさく入学予定者を移動させ、こちらも仕事のリズムが整ってきた頃それは起きた。体育館のドアが音を立てて閉められる。次いで響いたのは、学び舎には凡そ似つかわしくない2発の銃声。全員が床に伏せ、そうして入口を窺った。

 身体に爆弾を巻き付けた男が1人、銃を両手に立っていた。

【十二】

 

 何が起こったのかすぐに理解した。そこは伊達にシュテルンビルトに住んでいるわけじゃない。この街に住む人間は、どれだけ幼くとも最低限自分の身を守る術を叩き込まれる。だから銃声かそれに似た音がすれば全員が床に伏せるし、ヤバいと感じたら一目散に退避する。それが出来ない人間は、この街では長生き出来ない。

 今回は非常に厄介だ。まず体育館には出入口が1つしかない。そこは今、爆弾を腹に巻いて銃を持った男が陣取っている。ゴールドだろうがシルバーだろうが層を問わず犯罪率は高い為、随所にある窓には全て格子が付いていた。壊さなければ脱出も叶わない。けれどそんなことをすれば、間違いなく身体に大穴が開くだろう。まぁつまり、万事休すというやつだ。

 下手に動いて犯人を刺激したらマズいので、全員が息を潜めて乱入者の出方を待っていた。男は銃を構え直して叫ぶ。「君たち、悪いが全員ステージ前まで移動してくれたまえ」

 その指示に一斉に皆が動いた。この街に住む人間は、以下省略。舞台前まで集まった私たちに携帯電話他、外部に連絡が取れる全ての機器を男の指す場所に置くよう命じた。従った全員に今度は座るよう促す。

「長丁場になるしね。それに生き残りたいのなら、少しでも体力を温存しておくに限るだろう?」座り込んだ人質を順繰りに眺め、暫し私にその視線が留まる。理知的な瞳と優しそうな口元。

 ……私、どこかでこの人を……?

「……おや」

 相手もこちらに見覚えがあるらしい。しげしげと眺めていたかと思うと不意に近付かれた。周囲の学生たちが一斉に息を呑む。「君は……確かゴールドステージの。どうやらわたしに見覚えがあるようだね?」男がにっこり微笑むと、その目尻にうっすらと皺が現れた。「知り合いが君にスーツを仕立てて貰っていてね、出来栄えが素晴らしいから今度頼もうかと思っていたところだったんだ。一度店の様子を見に行った際に車中のわたしと目が合ったが……まさかあの一瞬で顔を覚えていたとは。驚いたな、君は見た目にそぐわず存外目端が利くらしい」

 覚えていたのは、あまりにも体型に合わないスーツを着ているものだと思ったから。オーダーメイドなのだったらぼったくりもいいところな代物だった……等と今言い出したらヤバいだろうなぁ。穏やかそうな男の翠の目を見上げる。

 相手は銃を握った拳を唇に当てくつくつ笑った。「君を紹介してくれと言ってもね、彼は頑として教えたがらなかったが……その訳が分かった気がするよ。こんな状況下でもいやに落ち着いている。彼にそっくりだ――あいつはどんな場面でも決して取り乱したりはしない。上司が暗殺されようが、わたしの父がルナティックの手に掛かったせいで激務をこなす羽目になろうが、決してね」

 ルナティックがその炎で焼き尽くした相手は刑務所内の犯罪者3人組と両親の仇、そして内務省高官だけ。まさかこの人のお父さんって。

「……ああ、どうやらご到着のようだ」ノックの音が体育館に響くと、こちらに銃を突き付けつつ入口を振り返る。「入りたまえ」

 男の声に促されてゆっくりと扉が開かれ、おずおずと誰かが顔を覗かせた。

「素晴らしい、時間通りだ。流石にOBCのクルーともなると違うね」左手に握る銃で入口に隠れたままの相手を促す。「だがどうやらわたしの予告文はそれ程本気にして貰えなかったようだ。見ての通り人質も居るし、わたしのこの格好を見れば嘘ではないと分かるだろう? さあ、だから今すぐカメラマンを連れて来たまえ。とっておきのネタを提供してあげるから――ああ、君。扉はきちんと閉めて行くんだよ。招かれざる客は不要だからね」

 入口がすぐさま閉ざされる。生徒たちから落胆の溜め息が漏れた。聞き咎めて男が銃を左右に振る。「おいおい、まさかそう簡単に解放されると思ってはいまいね? 君たちにはわたしのショーに於ける重要な役割を担って貰わなくてはならないのだ、それが済むまで残念ながらここから帰すことは出来ない。だが安心おし、言うことを聞く限り手荒な真似はしない、絶対にだ。こう見えて普段は紳士で通っているものでね」

 胡散臭い笑みを振り撒く男はそう言い終えると口を噤んだ。皆も唇を固く結び、視線を落として必死に沈黙に耐えた。時計が12分の時を刻んだところでノックの音。男の許可を得て入口がまたも開かれる。カメラを担いだスタッフと、先程顔を覗かせた青年が立っていた。

「お帰り。待っていたよ、さあ中に入って。扉を閉めるのを忘れずに」

 言われた通りに体育館の中央へと歩を進めるテレビクルー2人。男から10フィートの距離で止まるよう指示が出た。

「よしよし、素直で宜しい。さて、中継の用意は出来ているかね」

「は、はい」カメラマンが頷いたことを認めてから青年が答えた。

「結構。ではわたしの隣に来てくれるかな。ほら、そんなに緊張しないで。街頭で男性にインタビューをする時のように、どうか気楽にやって欲しい」

 両手に銃を構え、身体に爆弾を巻き付けた男を前にそんな芸当が出来るのってどんな人だ。ユーリさんレベルで腹黒いか、ワイルドタイガー並に常識諸共クラッシャーか、或いはスカイハイみたく天然じゃないと無理だと思う。ん? タイガーはドジっ虎属性だから、ひょっとしたら犯人の爆弾を刺激しちゃって誤爆させるかも……あ、それはBBJの方が可能性大か。てか普通爆弾蹴らないよな、いくらヒーローだからって。やっぱドジっ虎とコンビを組んでるとドジ属性が……いやでもドジ属性なBBJってかなり微妙。やっぱタイガーがやるからサマになるんであって……。

「……んん?」

 我に返って辺りを見回すと犯人を始めその場に居る全員が私を見つめていた。後ろを振り返るが誰も居ない。え、何だ何だ。まさか顔にルナ布でも付いてるとか!?

 あわあわと顔やら髪やらを触っていると、堪え切れないといった様子で犯人が噴き出した。「いやはや、驚いたね! こんな状況下でも臆せず、逆に楽しんでいるというわけか」

「えぇ?」

「先程からくるくると表情が目まぐるしく変わって……けれどそこには微塵も恐怖がなかった。それどころか笑顔まで浮かべていたね。ああ惜しい。実に惜しい! もし違った状況で出会っていたのなら、きっと君を屋敷に迎え入れていただろうに」

「……謹んで辞退させて頂きます」

「それは残念」右手に握っていた銃をしまうと目尻に浮かんだ涙を拭った。マイクを片手に硬直しているスタッフに向き直る。「さて、それでは中継を開始してくれたまえ。こちらのお嬢さんのおかげで気分良く始められそうだ」

 襟足の長い赤毛の青年は首がもげそうになる勢いで頷くとカメラマンに合図を出した。相方がカメラを操作し、担ぎ直して軽く頷く。ややあって青年がカメラに向かって話し始めた。「こ、こちらはシュテルンビルト市立高校の第2体育館です。我々OBC宛にある人物から犯行予告文が届きました。11月24日の午後1時に、シュテルンビルト市立高校にて人質を取り籠城すると。わたしが高校に到着した時1発の銃声が聞こえました。教員や生徒に聞き込みをした結果、第2体育館からではないかとの情報を得ました。そしてここにやって来たところ――」身振りで隣を示す。「――皆さんもご覧の通り、犯行予告文を送った人物と遭遇したのです。彼の名は――」

「結構。自分の名ぐらい自分で言えるよ」

「あ、は、はい」スタッフが急いでマイクを向ける。

「ありがとう。さて、と。テレビをご覧の諸君、わたしはコリー・ヘインズ。司法局に勤めているしがない役人の1人だ。この度は突然の中継で番組を台無しにして大変申し訳ない。だが警察が来ると厄介でね。仕方なくこのような突発的な手段に出ざるを得なくなってしまった。言い訳になるがわたしも時間が足りなかったものだから、これぐらいしか手持ちのカードが残されていなかったのだよ。しかし期待してくれて構わない。これから諸君らは非常に有意義な時間を過ごすことだろう。何しろ今シュテルンビルト中で話題の人物とコンタクトを取る瞬間を、ひょっとしたら目撃出来るかもしれないのだからね」

「あ、あの、ミスター・ヘインズ。それはひょっとして……?」

 ヘインズは腕を組む。未だその左手にある銃身が体育館のライトを浴びて鈍く光を放った。「そうだね、きっと君の想像通りの人物だろう。ところで君――ああ、失礼をした。名前をまだ訊いていなかったね」

「ジ、ジョシュア・ファーナムです」

「ではジョシュア君、君が想像した人物とは一体誰なのか尋ねようじゃないか」

「あ、あの……ルナティック、ですよね?」

「素晴らしい! 流石だ、ジョシュア君! では次の質問だ。ルナティックとはどんな人物だね?」

「あーと……犯罪者を……特に殺人犯を狙って襲う……独特な正義感で動く人、ですかね……?」

「いいぞいいぞ!」ヘインズが破顔した。手に持つ銃と身体に纏う爆弾さえなければ、少し出来の悪い生徒を導いている教師にも見える。「じゃあ最後の質問だ。そんな彼を呼び寄せるには一体どうしたらいいと思う?」

「え? えーと……」

 弾かれたように顔を上げた。青年は考え込んでいて動く気配がない。「逃げて!」

 大声に驚いたジョシュアが私を振り返る。違う、そうじゃない! 早く――。

「時間切れだよ、ジョシュア君」

 体育館に響き渡る1発の銃声。目の前で、かつては人の一部を成していた頭部が肉片となって弾け飛ぶ。途端に広がる悲鳴の渦の中、コリー・ヘインズは柔らかく微笑んでいた。「――答えは『殺人犯となって彼を挑発する』だ」

【十三】

 

「さて、テレビの前の諸君らが目撃した通り――ああ…五月蠅いな」ジョシュアが落としたマイクを拾いカメラに向かって語り出したヘインズは、ゆるりと左腕を上げると3発の銃弾を天に撃ち込んだ。次いで人質にその銃口を向ければ辺りを満たしていた悲鳴が即座にかき消える。「話の途中遮られるのが大嫌いでね。わたしが話している間は静粛に願いたい。ご理解頂けたかな?」

 全員が頷いて同意を示す。そんなものに理解を示したくはなかったけれど、こういう状況下でのスタンドプレーは危険だったので周囲に合わせた。自分だけに害が及ぶならまだしも、他の人がとばっちりを食う羽目になることが多いからだ。

 ヘインズは私を見て唇の端を上げる。「……君はもう少しポーカーフェイスを学んだ方がいい。何を考えて動いているのかすぐに分かる。まあそこが“らしい”といえば“らしい”がね」

 むぅと睨み付けると男は軽やかな笑い声を零した。鮮やかなグリーンが更に煌く。

「他の皆を見たまえよ! 怯えて逆らう気力すらない、それなのに君ときたら! 全く、君のように勇敢なお嬢さんとはもっと早くに出会っていたかったよ。こんな人生の終わりなどではなくね! 聞かん気なお転婆娘を躾けるのが好きなんだ。君はすぐには屈服しないだろうから、きっとわたしたちはとても楽しめただろうに!」

 この人、突っ込み所満載な発言をマイクに拾われているのに気にしてない。カメラはまだ回ってるからテレビを見ている市民全員が聞いている。それなのに全然構わない様子だ。外には警察がとっくに来ているだろうし、中継されている以上ひょっとしたらヒーローだって来るかもしれない。そうなったらどの道捕まるだろうから、何を話そうが聞かれようが気にしていないんだろうか。とすれば“人生の終わり”と表現したのも頷ける。

 だけどこの計画を実行に移した当初からそれは予測出来ていた筈。いくら人質がいるとはいえ踏み込まれればそれまで。捕まることは覚悟の上であろうとはいえ、ルナティックを炙り出したい彼がおとなしくそんな結末を受け入れるつもりだとは到底思えない。もし万が一ルナティックが現れれば、殺人犯である以上その命すら危うい。

 追い詰められていたとはいえ、対策もなしにこんな強硬手段に打って出るようなキャラじゃないことぐらいは分かる。つまりコリー・ヘインズには警察やヒーロー、果てはルナティックが来ようとも打ち勝つ秘策があるということ。その自信の源が分からない限り下手に動くのは禁物だ。

「さて、いつまでもお嬢さんと話していたいのは山々だが如何せん我々には時間がない。先に視聴者諸君にわたしが何故このような暴挙に出ねばならなかったのかご説明差し上げようではないか!」

 カメラへと2歩進みヘインズは大きな動作で胸に手を当てた。その様子を、青褪めつつもしっかりとカメラマンがレンズに収めている。

「わたしの父――ヘインズ内務省書記官は過日ルナティックに殺された。それはもう二目と見れたものではなかったよ。親子仲は良い方だったからね、流石にショックは大きかった。その後何が起きたかは諸君らもご存知だろう。父は犯罪者呼ばわりされ、次々と関係者が捕らえられている。先程『時間がなかった』と発言したのはそれが理由だ――わたしも摘発者リストに名を連ねているのだよ。その事実を教えてくれた警察局の知人も数時間前に捕まったがね。

『しかし諸君、考えてもみてくれたまえ! 何故我らが犯罪者扱いされねばならぬのかを!この街には全世界から移民がやって来る。しかし彼ら全てを受け入れていては我々の生活が立ち行かない。生粋のシュテルンビルト市民ばかりが職を奪われ、街の治安は失われ、結果として移民がのさばることだろう。本当にそんな世界を諸君らは望むかね? いや、違うだろう。建前としては彼らを受け入れているが、その実疎ましく思っているだろう? 故に我々が――他の誰でもない、我々が! 諸君らの代わりに社会にとって不要な存在を始末してきたのだ。感謝されこそすれ非難される謂れは更々ない。そう、これはとどのつまり必要悪なのだよ。ルナティックをダークヒーローとして受け入れる諸君らが、何故我々を非難するのか理解に苦しむね。彼と同じことをしているだけだというのに」

 体育館の外にヘリの音。1機、2機……いや、音の重なり具合から数機。HERO TVの無人ヘリだとすればヒーローが到着したことになる。微かな人声の後、俄に物音が止んだ。

「……ふむ」ヘインズは俯いて瞬考の構えを見せるもすぐにカメラを見上げた。「だが既に賽は投げられた。時間は戻らないし、今更嘆いたところで父はもう帰っては来ない。だからわたしは先を見据えることにしたのだ。父が命を落とし、我が同輩が罪人として裁かれるようになった全てのきっかけである輩を、わたし自身が滅殺しようとね。あれがいなければここまで苦労させられることもなかったのだから。

『そういうわけで善良なるシュテルンビルト市民諸君! 君たちも先程目撃した通りわたしは殺人者だ。然るにここに居ればルナティックが訪れるかもしれない、そうだろう? しかし簡単に彼が現れるとは思っていない。それにただ待つだけというのも、わたしは勿論諸君らにとっても苦痛でしかないだろう。そこでだ。ルナティックが現れるまでの間、5分毎に1人ずつ人質を射殺させて頂くことにした。それならば本気であると分かって貰えるだろう。そうまでして彼が現れなかったのなら、市民諸君、彼は偽りの正義を振り翳す小男に過ぎなかったということだ。しかしもし現れたならその時は、君たちの想像を超える事態がきっと起こるだろう」

 1人の生徒が立ち上がり悲鳴を零しながら走り出す。が、数歩の後、何故か彼女は不自然な格好で動きを止めてしまった。

「ところでルナティックに対峙しようというわたしが、まさか何の力もない人間だとは諸君らも思うまいね」そう告げる男の体は青く光っていた。「今君たちも目にした通りわたしはNEXTだ。残念ながら能力の詳細を明かすことは出来ないが、まぁルナティックに打ち勝てるだけの力だと断言しておこう……ところで先程から体育館出入口に待機しているヒーロー諸君。君たちの誰か1人が入って来たと同時に爆弾を爆発させるのでそのつもりでいたまえよ? それと銃を使わずともわたしには殺人が可能だと、一応忠告しておこう。信じる信じないは君たちの自由だが、それで人質が死んだ場合責任はきちんと取りたまえ。5分で1人、そのルールは決して違えない。それ以外でわたしが人を殺すなら、警察やヒーローがわたしの警告を聞かなかった場合のみだ」

 誰も動かない空間に少しずつ啜り泣きが満ちていく。「帰りたい」という声も上がり始めた。「死にたくない」「嫌だ」「怖い」「助けて」――そんな声が大きくなり始めると、ヘインズは溜息を吐いて彼らに向き直る。「静かにしないか。どう足掻いたところでわたしとここに居る事実は変えられない。彼女を見習いたまえよ」男は私を示した。「死に直面しつつも冷静なままだ。君たちもあれぐらい堂々としていて欲しいものだな。それとわたしは先も告げた通り五月蝿い人間が大嫌いでね。耳目も憚らず泣き喚く輩から射殺していくからそのつもりでいたまえ……ああほら、そう怯えなくてもいい。1番に殺すのは彼女だから」

 先程から立ち止まったままの女子生徒をヘインズが指すと、皆の口から音のない悲鳴が微かに漏れ出た。

「生き延びたいのならわたしの機嫌を損ねないよう精々頑張りたまえよ」

 躊躇いもなく人を殺す男から生き延びるには命令だけを素直に聞いていては駄目だ。よし、まずはあいつに撃たれても耐えられるようにしないと。けれどNEXTの不利な点として、生身で能力を使うと青の光を放ってしまうことにある。気付かれないよう、ヘインズの注意が完全によそを向いたところを狙うしかない。今日は帽子を被っていて本当に良かった。これを強化すれば頭部は万全、あとは洋服の全箇所に力を注いで一気に作り変えればいい。

 問題は他の人質をどうするかだ。能力を発動すればまず間違いなく皆が私を見るだろう。そうなれば、いくらヘインズがこちらに注意を払っていなかったところで意味がない。どうにかして彼らに能力を発動させている間は私を見ないよう伝えないと……。

「あと3分」時計に視線を落としながらヘインズが嬉々として呟く。

 時間がない。このままだと何も出来ずにあの子が殺される。もうこうなったら賭けだ。爆弾はこけおどしだと思い込むしかない。ルナティックが現れるまでに自爆しないことを、そして本当に人質は5分に1人しか殺さないことを祈るしか。

「あと2分」

 息を吸い込んで集中する。少しずつ身体をずらして彼女に近付いていく。

「あと1分……どうやら彼は来ないようだな」

 ゆっくりと体勢を変えて走り出す準備をする。

 ヘインズは身体を小刻みに揺らしながらカウントを始めた。「40……30……20――」

 弾かれたように飛び出して女生徒の下へ。能力を発動させて自身の全身を強化した。彼女の服に触れない限りこの力は作用しない。だからともかく今は自分が盾になるしかない。残り2フィートのところで飛び掛かり、即座に能力を発動して彼女を強化する。

「――言っておいた筈だよ、お嬢さん」

 至近距離で囁かれ、振り仰ぐとヘインズが目の前に居た。

「君はもう少しポーカーフェイスを学んだ方がいいとね」

 目で指し示されて見下ろすと、彼女は既に息絶えていた。

【十四】

 

 骸と化した少女を仰向かせた。胸の前で両手を組ませ見開かれた瞳を閉じる。死体には詳しくないから死因も、死後どれぐらい経過しているかも分からなかった。

 自分がぶつかる前に既に事切れていたのならどうして立ったままでいられたのだろう。いや、そもそもがおかしかった。走っている最中の格好のまま彼女は立ち止まっていたのだから。ヘインズは、誰か或いは何かの動きを止められるNEXTなんだろうか。でもそれなら何故彼女は声を出さなかった? 動きが止まったと同時に悲鳴も消えた筈だ。

 銃を使わずに人を殺せる。ヘインズは確かにそう言っていた。この生徒に外傷は見当たらない。苦悶の呻きを上げさせずに殺す手段があったということか。けれど少女の歪んだ表情から察するに絶命の際にはきっと苦しんだのだろう。動きを止めるだけの能力で声まで封じられるものなのだろうか。

「そう気を落とさずともいい。誰しも過ちは起こすものだ。その勇敢な振舞いに免じてこの反抗は見逃してあげよう」

 少女の傍を微動だにせぬ私の肩を犯人が軽く叩いた。振り払いたい衝動をじっと我慢する。男は私の様子に笑いを1つ落とし、生徒たちに向き直った。「ああ君たち、よく静かにしていてくれた。言い付けを守る人間は大好きだよ。しかしだ、君たちの中から次の生贄を見付けなければならない――勿論それについても理解してくれるね。さて。どうにもルナティックに本気と分かって貰えていないようだ。2人程度の殺人では来てくれないのかもしれないな」

 銃弾が、またも空気を切り裂いた。ヘインズから見て4時の方向に座り込んでいた男子学生が仰向けに倒れる。付近に居た学生が小さな悲鳴を上げ離れようとした。しかしその学生を始め、突如全員が身動きが取れなくなった。

「……5分に1人。そのルールは違えていない。いいかね、諸君。300秒経過する毎に殺すとはわたしは言っていない。10分の間に連続して2人殺すことも、5分待ってから1人殺すことを2回繰り返しても、殺害する人数に変わりはない……ふむ、7分の間に2人殺してしまったから、あと3分待たないと次には移れないか。視聴者諸君、3分間のブレイクタイムだ。そしてルナティック、君にとってはシンキングタイムだな。さっさと来てくれないと、いい加減人質が居なくなってしまうよ」

 立ち上がれないが上半身は辛うじて動かせた。皆も同様らしい。誰かは両手で顔を覆って泣き始め、誰かは両手を組んで祈り始め、誰かは自棄になってヘインズを罵り始め、或いは必死に逃げ出そうと試みていた。私はといえば、膝の上で握り締めた両の拳を見つめていた。

「……絶望に落ち込んでいる姿もまたいいものだ」

 頭上から落とされた言葉に顔を上げる。銃だけを手に、マイクはどこにもない。

 ヘインズは優しく私の髪を梳いた。「1つ訊きたい。何故あの小娘を庇おうとしたのかね」

「……誰かを助けるのに理由が必要ですか」

「君が代わりに死ぬ可能性を少しも考えなかったと?」

「そんなことより彼女を助けることの方が先だったので」

「ふむ」ヘインズは屈んで私と目線を合わせた。「ところで、まさか君がNEXTだったとは。どうだろう、どんな能力なのか教えてはくれまいか。君はわたしの力を知っているがこちらはそうではない。教えてくれたとていいだろう?」

「お断りします」

「答えないと誰かを射殺すると言っても?」

「……その爆弾、本物ですか?」

「……ああ、本物だよ」

「ということは、ここに居る全員をあなたは殺すつもりなんでしょう? ならばその脅しは意味を成さない。だからあなたに答えるつもりもない」

「答えないと、誰かが死ぬ時間が早まるかもしれないとは?」

「あなたはそんな卑怯な真似をする人じゃない」

 男は目を丸くさせた。数度瞬き、そして肩を震わせ笑い出す。その笑顔を見ているだけなら、本当に、こんなことを仕出かす人には到底見えない。

「まぁいい。君の力が何であれ脅威には到底なるまいよ。今までにも機会はあった、けれど君は全く行動に移っていない。わたしを脅かす類の力ではなさそうだ」

 小馬鹿にした様子でヘインズは立ち上がりカメラマンへと歩み寄る。マイクを受け取り暫しの会話。クルーは強張った表情で、ヘインズはにこやかな仮面のままで。カメラマンは私たちと違って自由に動けるらしい。当然といえば当然か。

 ヘインズの分析通り私に誰かを倒すだけの力はない。この能力はあくまで触れた材質の構造を変えるのみ。意思を持たせたり、服に着衣者を襲わせたりといった攻撃は一切出来ない。爆弾を無害な物に変えることも無理。この力は衣服にしか影響を及ぼさないからだ。

 だけど矛にはなれずとも盾にはなれる。既に服には衝撃耐性を付けた。爆弾の上に被さることが出来たなら、起爆されたとて何もしない時よりは遥かに被害の規模は小さくなるだろう。あの男が黙ってそれをさせるとは思えないが、よしんば撃たれたところで、況してやそれが至近距離であったとて、肌が露出していない個所であるなら私は死なない。ワイルドタイガーのハンドレッドパンチ以上の衝撃でなければ決して死なない。

 大丈夫、絶対に出来る。あの男がこの力を見縊っている限り、絶対に出来る。

 不意にふとおかしくなった。どうして自分はこれだけ冷静なんだろうと。助かる可能性が絶望的な現状で、どうしてこれだけ落ち着いていられるのだろうと。

「……当たり前か……」

 ルナティックが必ず来ると、分かっているからだ。ユーリさんなら必ず来ると、知っているからだ。

 彼を信じている。誇り高くて気難しくて、腹黒くて口喧しくて、悪戯が趣味でお説教が特技で、美人だけど顔色の悪さで大損している、けれど彼が微笑む度未だに見入ってしまう、そんな複雑なあの人を。

 いつまでも傍にとそう彼は言う。私が信じている人がその隣に立つことを望むなら、最後まで共に在れと希むなら。それを可能にすべく動こう。力がないことを嘆くのではなく、持ち得る全力を出し尽くすことだけを考えよう。だから、何としてでも生き延びること。これ以上の犠牲を出さないこと。

 今ユーリさんが私に望んでいることはきっとそれだ。

「10分が経過。だが依然状況は変わらぬまま時間ばかりが過ぎていく。これではルナティックが来る前にヒーローが――特にあの壊すだけしか能がない馬鹿が来てしまうかもしれない」眉間を右手で揉む。「……わたしはね、楽しみは初めに味わい尽くす主義なのだよ。いつまでも手元に享楽を置いておいては次なる出会いを妨げる。だからここは断腸の思いでこうせざるを得ない」

 男は振り向き様その銃口を私に向けた。途端頭部に走る衝撃。先までヘインズを睨み付けていた筈なのに、いつの間にか天井を眺めていた。

 目の前が幾度も暗転する。駄目だ、駄目! 今気を失っては駄目! 気絶したところで1度掛けたこの能力が消えることはないけれど、犯人がいつ何時どう動くか分からない現状、絶対に意識を落とすわけにはいかない!

「……成程。わたしの脅威ではないが、実に目障りな能力のようだ」

「がっ……!!」仰向けの私の喉元を男の靴底が圧迫する。必死に相手の足首を掴むが抵抗にもならない。

「ふむ。どうやら銃は効かないようだが、こうした直接的な攻撃は通用するらしいね。多少野蛮だが仕方がない、君が言うことを聞かないのが悪いのだよ? さっさと死んでしまえば苦痛もなく済んだものを。全く、本当に君はあいつにそっくりだ。腹立たしい程にそっくりだ!」

 その脚に力が入った時誰かが叫ぶ声がした。首を少しだけずらすと生徒たちが出入口を見つめているのが分かった。

 そちらに視線を転じたヘインズの目が爛々と輝き始める。「やっと来たか――!」銃を扉に向け叫んだ。「ルナティックよ、君の訪ないを許可しよう!」

 閉ざされた扉にじわりと蒼の円形が現れていた。そこから炎が立ち昇り、やがてその中央が揺らぎ始めた。

「――貴様に我が出で来への権限はない。口入るのは控えよ」

 扉からゆらりとルナティックがその姿を現した。扉は一切の損壊なく、彼が完全に体育館に入ると炎が消えた。歩き始めたルナティックはゆっくりとマントを燃やしていく。

「我が名を呼ぶその意味を、その結末を、貴様は聢と理解しているか? コリー・ヘインズ」

「勿論だよ、ルナティック。そして君こそ理解しているだろうね?」男が青白く発光する。「わたしには人質があるということを」

【十五】

 

 ヘインズが私を見下ろした。刹那、息が出来なくなる。声も出せない。焦る私に男はにたりと笑って靴底を退けた。

 口は開いている、それなのに酸素を取り込めない。ああ違う、全くじゃない。必死に息継ぎをしている動作の中で、ほんの一瞬だけ空気が肺に流れ込む。それだけじゃ足りない。生きるのに必要な酸素に到底足り得ない。

 苦しさに顔を歪めるとルナティックが歩を止めた。ヘインズがしゃがみ込んで私のこめかみに銃を押し付ける。「さて、早速本題に入るとしようか。見ての通りこのお嬢さんは呼吸困難に陥っている。今まで君がターゲットにしていなかったことから、きっとこの子は犯罪者ではないのだろう。言うことを聞かないせいで彼女が死んだら、君は犯罪者以外の市民を間接的に殺したことになる。それが嫌ならばこちらの要求を呑んでもらいたい。まずはその武器を手放してくれたまえ。炎も厄介だが、そのボーガンも殺傷能力は充分高いのでね――君が操れば特に」

 ルナティックは無言のまま私を見つめていた。ひっひっと、音にならない声を上げながら必死に空気を吸い込もうとしている私を。「……フン」幅広のベルトを外しルナティックはボーガン諸共その場に落とす。そうして歩き出そうとしたところで突如動きを止めた。そのまま微動たにせず佇んでいる。

「君が強力なNEXTだと知っている。一方わたしの力は、殺傷という点では君に劣る。劣るがしかし、汎用性という点では遥かに勝る。動けない理由は賢明な君なら察しが付いていると思うが、無論わたしの力によるものだ。能力は対象者の動作を操ること。対象者に、何をして何をしてはならないか許可を与えることが出来るのだ。現状君に許可しているのは呼吸と発声、そして生命維持に必要な最小限の身体活動だけ。お得意の炎は操れまい。

「……そう。君の命はね、最早わたしの手の内にある。いつでも殺せるのだ――シュテルンビルトのダークヒーローとやらをいつでもね。だが安心してくれたまえ、君の正体を暴く心積もりはない。そんな下世話なことをする程零落しちゃあいないさ。殺せればそれで充分だ。そういうわけで、ルナティック。まずは少しばかりお喋りを楽しもうじゃないか」

「その前に1つ訊きたいことがある。詰所の警備員6名が頭部を撃ち抜かれて死亡していたが、あれは貴様の仕業か?」

「わたし以外の誰がいるというのだね? 身分証を提示した途端騒ぎ始めたのだ、殺すしかないだろう? こう見えて銃には自信があるし、彼らは職務を全うしようとしただけだと理解しているから、一息であの世に逝かせてあげたのだよ。テレビには映っていなかったから殺人件数にはカウントしなかったが、間違いなくこのわたしが手を下した。能力も併用してだがね。

「そうそう、視聴者諸君の中には何故自ら動くのかと疑問に思う向きもあるかもしれないな。しかしだね、殺しの依頼というやつは、たとえ相手がプロといえどするものではないのだよ。1度頼んだから知っている、あれは非常に面倒だった。並の人間であれば足元を掬われるのがオチだ。自分で手を下すことこそ最も確実で、かつ最も安全なのだよ。諸君には是非覚えておいて貰いたい」

「大層な言い分だな」

「ほう! 人のことを言える身分かね!」ヘインズは笑い声を上げた。「君とて独自の理論をお持ちじゃないのかね! 初めてテレビで君を見た時は歓喜に震えたものだ。同志を見付けることが出来た悦びに、我を忘れたものだ!」私から離れると、ヘインズはルナティックに向かって両腕を広げた。「この世には不要な人間はどうしたって存在するものだ。皆がどれだけ綺麗事を繕ったとて、心の奥底では彼らを疎ましく思っていることを決して否定は出来まいよ。不要な存在を誰かが葬ってはくれないだろうかと密かに願っているのだ。それを肩代わりしてやることについて、君はどう思う?

「別に感謝されたくてやっていたわけではない。見返りが欲しかったわけでもない。我が理念を支持していた協力者の数人は、それを履き違えて利潤を貪っていたようだがわたしは違う。只管に己の時間を労力を捧げ、骨身を惜しまず市民の為に働いてきた。だのにこうして罵られる羽目に陥るとは、全く想像すらしていなかった。社会のごみを片付けて、何故邪険にされねばならぬのだ。この世から塵芥を消滅させたというのに、何故悪と見做されねばならぬのだ。市民のことを考え動いたというのに、君と同じ行為をしたというのに、何故わたしはここまで追い詰められねばならぬのだ!」

 ヘインズは話す内に興奮してきたようで、完全に人質から注意を逸らしていた。男の背を睨む。息苦しさに時折視界が霞み、指先が痺れて頭痛が段々と激しくなってきた。それでも自身を叱咤し、何とか腕に力を入れてほんの少し半身を起こす。

 ルナティックスーツは撃たれたぐらいでは破損しない。けれど爆弾となると話は別だ。元の素材が衝撃に対し強くないのなら、どれだけ材質変化の力を使ったところで限界は知れている。布強化スーツと金属強化スーツ、後者が防御面で優れているのは当然のこと。ユーリさんは防御性よりも敏捷性を取ったから布で作ったけれど、こんな場面で彼は圧倒的に不利だ。

 撃たれたぐらいで彼も私も死なない。ならば恐れるのは爆弾だけ。

 このまま話し続けていればいつ激昂の末自爆するとも限らない。ルナティックが動けない以上、自分が何とかして犯人を引き付けなくては。

 ヘインズの能力は常時注意を払っていなければ効力が落ちるようだ。先程よりも動かせる箇所が増えている。それでもまだ走れない。多分立ち上がって数歩がやっと。躙り寄って近付くしかない。

「……それすら分からないからこそ貴様は今ここに居るのだ、コリー・ヘインズ」

「な……に……」

「市民から嘉讃を送られなかったことへの憤り、共感を得られなかったことへの腹立ち、事態が思い通りにならなかったことへの八つ当たり。真に貴様の行いが正義に基づくものであったなら、感情を暴発させ、癇癪を爆発させ、市民を見せしめに屠るような羽目には陥らなかった筈だ。貴様がここに居る理由、そしてわたしとの決定的な違いはただ1つ――わたしは正義に則り悪を導くのに対し、貴様は所詮偽善に過ぎなかったという点だ。自己を犠牲にしようとはせず、自己の振る舞いに陶酔し過ぎていた。その傲りに溺れた思い違いが、貴様にとっての破滅たるこの結末を招いたのだ」

 歯を食い縛り、脚に渾身の力を込めて立ち上がる。気付かれぬよう近付いて爆弾を覆うんだ。足を踏み締められない現状、腕や顔を狙おうにも容易に振り解かれてしまうだろうし、逆上して起爆でもされたらそれこそ全てが終わってしまう。それであれば爆弾を覆い隠した方がまだマシだ。胴に腕を回すぐらいならそれ以外の行動よりも遂行率が上がる。確率が上がればヘインズの意識が逸れる時間も長くなる。たとえそれが一瞬でしかなかったとしてもルナティックには充分だ。

「偽善だと? 傲りだと!? 君とて思い上がりで犯罪者を消しているだけではないか、わたしと一体何が違う!!」

 激昂した男は片手に握っていたマイクを床に叩き付けた。ルナティックの顔面に銃の狙いを定める。そんな男に1歩、また1歩と私は近付いていった。あと2歩。あと2歩で辿り着ける。

「……わたしは最期までこの道を歩み続ける覚悟を持っている。我が身とて断罪の秤からは逃れられぬことも理解している。だがそうであっても罪人(つみびと)を裁きの庭に誘(いざな)う役目は誰かが担わなくてはならない。誰かがやらねばならぬなら、わたしを措いて他にはいない。これこそがわたしの正義だ」

「またお得意のそれか! 愚かな! 正義に踊らされればそれは道化に過ぎない!!!」

 身体が自由に動かせるようになった。ヘインズの注意が完全に逸れたのだ。すぐさま男の真後ろを取った。

 犯人が慌ててこちらを振り返る。「なっ……どうして――!?」

 驚愕に満ちた表情がすぐさま怒りに歪み、銃身を振り上げるのが見えた。右手を背広の内ポケットに入れようとしている。銃が振り下ろされそうになる直前、男の胴に上着を巻き付ける。爆弾はこれで完璧に覆い隠せた。

「小娘がっ!!」

 男の叫びが頭上から投げ落とされる。けれどいくら待っても頭部への衝撃が訪れない。急いで身を起こすとヘインズは蒼白の面持ちで立ち竦んでいた。男の両腕はルナティックに捉えられている。

「う、嘘だ……君もこの小娘も何故動ける! 何故わたしの能力が及ばない!!」

「――道化には2つあるのだ、コリー・ヘインズ」

 ヘインズの右手に握られていた起爆装置がゆっくりと燃え始めた。間近でその炎を見つめる犯人の顔が更に色を失っていく。

「真実を知る者と、真実そのものである者と。そのどちらでもない者は、正義に絡め取られた操り人形に過ぎない」

 男が首を巡らせ背後のルナティックを見た。「何故それを……まさか君は!」

「そう、わたしは」ルナティックの瞳が蒼に染まった。「――誠の事実を知る者なり」

 ヘインズの頭部と両手首が勢い良く燃え上がった。悲鳴を上げて崩れ落ちたが、男は必死の形相でルナティックのスーツを掴む。しかし手はすぐに原型を留めなくなり周囲に肉の焦げる臭いが充満した。それでもルナティックは男の傍から離れなかった。溶けゆく男の腕をしっかりと握っている。

「君が……ルナティ……ッ……」その囁きが、コリー・ヘインズの最期の言葉となった。

【十六】

 

 体育館の出入口が音高く壊されヒーローたちが突入して来た。ヘインズの能力から解放された人質が次々とそちらに駆けて行く。ルナティックは肉の塊と化したヘインズを見下ろすだけで彼らには露の注意も払わなかった。

「ルナティック……」声を掛け、腕を伸ばしたその瞬間。青の閃光が目の前で煌めいたかと思うと、強風が巻き起こり後方に勢い良く飛ばされた。壁への激突を覚悟したが、ややあって身体がふわりと浮かび上がり止まる。

「大丈夫でござるか!」

 宙に浮く私を折紙サイクロンが下ろしてくれた。怪我の有無を問われ、特にないようだと答えれば、傍に降り立ったスカイハイが「それは何より。良く頑張った!」と肩に手を置き頷いた。

 先まで居た場所に目を転じればバーナビーが立っていた。足元がめり込んでいる。どうやらルナティックを狙った攻撃の衝撃で吹き飛ばされたようだ。

 カメラマンがファイヤーエンブレムの腕を解いて床に滑り落りた。彼もバーナビーアタックの被害者らしい。カメラを前に必死の面持ちで何とか生き返らせようと躍起になっている。カメラ中央から真っ二つになっているところからも、まず復活は無理であろうことは素人目にも分かった。可哀想に。

「急躁な! 市民を巻き込むことを良しとしてまでわたしが憎いか!」

「黙れ!」

 ハンドレッドパワーを発動させたルーキーが飛び上がり、数フィート離れたところに着地したルナティックに脚を降り下ろす。しかし真上からの蹴りをルナティックは半身を回転させて避けた。バーナビーのキックを受け止め、床が木片の雨となって舞い踊る。

「離れろ、バーナビー!」

 ワイルドタイガーの叫びが響いた。それでもルーキーは聞き入れず、ブースターの力を借りて体勢を整えるや殴り掛かった。ルナティックはバーナビーの拳を、両手を床に着け大きく上体を仰け反らして躱した。両腕に力を入れ、バーナビーの胴を真下から蹴り上げる。その勢いを借りて後転し様、腰から引き抜いたボウガンを2発打ち込んだ。矢に弾かれ赤のヒーロースーツが弧を描いた。

「背中、がら空きだよっ!」

 ドラゴンキッドが雷を纏わせた如意棒を手に宙から攻め寄った。ルナティックはボウガンを頭上に掲げて受け止めるも、如意棒から雷撃が放たれ彼の身体に纏わり付く。しかし雷は霧散してしまった。戸惑うドラゴンキッドを、ルナティックは身体を回転させて振り払った。

「小手先の手品じゃアタシの炎は消せないわよ!」

「アンタの火力程度じゃ私の氷は溶かせないんだから!」

 火玉と氷柱がルナティックの両サイドから迫り来る。

「ボクも居るよ!」

 真上からは、2人のヒーローにやや遅れてまたもドラゴンキッドが。

 ルナティックは素早くボウガンを仕舞うと両腕をクロスさせ、ファイヤーエンブレムとブルーローズの攻撃を自身の炎で迎え討った。ヒーロー2人の攻撃を呑み込んだ炎は急激に勢いを増しルナティックをも包み込む。

「そんなんじゃ隠れたことにならないよ!」

 ドラゴンキッドが蒼火を雷で払いながら、渾身の力で如意棒を、彼が佇んでいるであろう場所に突き立てる。蒼が搔き消え無人の空間だけが現れた。

「バーナビー君、危ないっ!!」

 それまで周囲に風の壁を作り人質に害が及ばぬよう努めていたスカイハイが注意を促す。ルナティックの立て続けの攻撃に頭を振りながらやっと立ち上がったルーキーが、慌てて身構え周囲を見回した。

「……もう手遅れだ」

 バーナビーの後方頭上、逆様で現れたルナティックの手にはボウガンが握られている。気配に振り仰いだバーナビーだったが、蒼の光を帯びた矢が彼の心臓へと放たれた。

「――何が手遅れだって!?」

 ロックバイソンがバーナビーの前に立ちはだかり、気合いの声と共に矢を身体で受け止めた。同じくしてワイルドタイガーがルナティックの左手に現れる。これは予想外だったらしく、ルナティックはパンチを喰らってバランスを崩してしまう。

「……ちっ」

 空中で全身を半回転させると壁を蹴って舞台へ着地した。淡い蒼の火が彼の周囲を揺れ動く。マスクの口元を拭う仕草を見せると、ボウガンを引き抜いて構えた。

「我が眼目はコリー・ヘインズであって貴様らとの接触ではない。此度の邂逅はここまでとしよう」

「待て!」

「無茶すんな! 今は他にすることがあるだろ!」ワイルドタイガーがバーナビーを押さえ込んだ。

「でもっ……!」

「……急かずともいずれ必ず見(まみ)えよう、虚像の英雄よ。紅月の夜に必ずや――!」

 ルナティックがボウガンを連射させた。ヒーローズが或いは叩き落し或いは氷漬けにし、或いは人質の保護を最優先にしている内に舞台が蒼翠に染まる。全ての炎が消え失せた時、ルナティックの姿はどこにも見当たらなかった。

【十七】

 

 他の人質同様病院送りになり、精密検査を受けさせられた。身体の数ヶ所にちょっとした痣と擦り傷がある程度だったけれど、念の為にと言われ1日だけ入院する。同室になった学生4人は夜通し塞ぎ込み啜り泣き、彼女たちより年上の私は否応なしに慰め役に回らざるを得ず、おかげで一晩中付き合わされた。

 死に掛けたという実感がまだないのか、泣きじゃくる女の子の背を摩りながらぼんやりと白い壁を眺める。ショックを受けてもおかしくない、いや、確実に心に傷を負っただろう。それなのに涙1粒落ちる気配がなかった。どこかで精神のバランスを取るべきなのに、心は忙しなく動き続けて休まらない。

 翌朝もう1度検査を受け、昨日同様異常なしとの結果が出た。退院を許可され帰宅を促される。ついでのように渡された名刺はカウンセラーのもの。お世話になる子も多いだろう。

 素直に受け取って、そのままトイレのゴミ箱に破り捨てた。

 歩いて帰るには少々距離がある。タクシーでも拾おうかと算段しながらエントランスを歩いていると声を掛けられた。

「ユーリさん!?」

「担当医から今日退院させるつもりだと聞いていましたので」

 鉛灰色のスーツを纏い、髪をシュシュで緩く束ねた裁判官は私のバッグを代わりに持って出入口へと足を進める。リボンで結んでない……もうオフなんだ。彼の後ろをついて行きながらそんなどうでもいいことばかり考えた。

 無言のユーリさんに手で促され、彼の車の助手席に納まる。バッグを返されたので膝に抱え、一体どこに向かうのだろうと横目で伺うけれど、相手は淡々とハンドルを捌いているだけ。到着しなければ行き先はどうせ分からない。背凭れに身を任せ、一晩酷使した目を休ませようと静かに瞑った。微かな振動とユーリさんのコロンに包まれている間に眠りに落ちたらしい。揺り起こされた時にはガレージの中だった。

「ここは……?」以前訪問した自宅とは趣が異なる。車から降りて助手席のドアを開けてくれた彼に尋ねた。

「実家です」周囲を曖昧に手で示す。

「実家?」

「ええ」

「実家ってことは……ご両親が?」案内されて家に入りながら裁判官の後ろ姿に問うた。

「母が――」

「ユーリ、帰ったの?」

 答えようとした彼の声に重なって女性の声が響いた。途端強張るユーリさんの背中。彼の後ろから頭を覗かせ前方を確かめる。

「朝ご飯も食べないで出掛けるからどうしたのかと……あら、お友達?」

 ユーリさんそっくりのふわふわとした髪に、柔らかい翠の瞳をした車椅子の女性が居た。どことなく壊れそうな雰囲気の人。ゆっくりとこちらに近付いて来る。

「ごめん、ママ。彼女と話があったから出掛けたんだ。ご飯はもう食べたから要らない」

「まぁ……駄目じゃない、お父さんにも何も言わずに行ったりしては。それに外食は感心しないわね」

「ママ、彼女と大事な話があるんだ。急いでるから部屋に戻るよ」

 手を引かれて足早に廊下を歩く。ミセス・ペトロフの傍を通り過ぎる時、宙を見上げながら「これも反抗期っていうんでしょうねぇ、あなた」と呟いているのが聞こえた。

 廊下の突き当たりを曲がって程なくして、ユーリさんが息を吐きながら壁に手を当てた。蒼の炎が噴き出して壁を舐め回す。相変わらず痛い程力を入れて握られている右手を引かれ、物理的に有り得ないことなのに、私たちは壁の中へと入って行った。身体を包む暗闇を抜ければ、以前彼に招かれたあの部屋が広がっていた。

「適当に掛けて下さい――ああ、モニターはもう壊さないで下さいよ。運ぶのが大変なんですから」

 余程あの時のことを根に持っていたのだろう。再三注意を促し、ユーリさん曰く“隠れ家”に隣接するキッチンへと入って行った。

 シルバーステージに存在するユーリさんの自宅地下にあるのと全く同じこの部屋は、相変わらずケーブルだらけルナマスクだらけ武器だらけ。趣味全開なのはご本人の勝手とはいえ、窓もなく薄暗く、おまけに出入口がどこにも見当たらないという圧迫感満載な場所だ。それでも嫌いになれないのは、裁判官として管理官として常に仮面を被り続けるユーリさんが、唯一自身の時間を楽しめる空間だからなのかもしれない。

 1度だけ隠れ家に入れて貰えたあの時は、互いに隠事なく対等に向き合う為の儀式に過ぎなかった。本当に背を向けて平気なのか試してもいたんだろう。あの頃を境に少しずつ、2人の間の距離感が変わっていった。頻繁に家を訪れるようになったユーリさん。微睡に引き込まれる前に電話を掛けるようになった私。2人にとって監視でしかなかった行為に、別の感情が入り始めるようになった。義理ではなく好意から。義務ではなく本意から。他意はなく、安意し自らの平衡を保つ為に。

「どうぞ」

 静かな声が現実へと呼び戻す。目の前に差し出されたティーカップ。受け取って、既にミルクの混ぜられた紅茶に息を吹き掛けて冷まし、ゆっくりと口に含む。メルブリン社の22番。いつも飲んでいる大好きな銘柄。

 いつの間にか私の家に増えていった彼の私物。好物を覚えてくれて、一緒に楽しもうとしてくれた姿勢。2人で居る時間を、彼なりに楽しもうとしてくれていた事実。

「――君が無事で、本当に良かった」

 震える声が現実を呼び起こす。自信に満ち、常に凛とした態度であることに自負の念を抱くこの人が、感情をこんなに顕にして。

 やっと、やっと気が付けた。私だけが寄り掛かっていたのではないことに。

 紅茶に雫が1滴落ちる。契機に2粒、3粒。数えられなくなった頃には手からカップとソーサーがなくなって、視界はもう周囲の輪郭を正確に捕らえられない程に歪んで、抑えようとしてもしゃくり上げてしがみ付いて震え続けて、そんな私を彼は黙って抱き締めていた。

 後から後から湧き出る涙。どうして零れ落ちるのか自分でも分からない。恐怖からなのか、安堵からなのか。それともこの人が今まで決して見せなかった世界を、ヘインズとヒーローたちを通して垣間見てしまったからなのか。

 深い深い絶望は底知れぬ井戸と同じく、あまりに昏くて自身の姿さえ映し出せてしまう。けれど鈍く潜めいた煌めきを秘めてもいて、魅入られて幾人もの人間が嵌まり込み、そうして咎人と成り下がる。この人は、そんな絶望の淵に立ち彼らを引き上げ続けているのだ。1つ間違えば引き摺り込まれかねないその立ち位置を、懸命に踏み締めながら。狂おしいまでの銷魂に曝されようとも、決して呑まれることなく踏み止まりながら。

「わたしは君を手放せない――手放さない」

 蒼の炎が2人を包む。何をも融解する猛火はじわりと暖かく周囲で揺らめいていた。この人がそうとしない限り、この炎が私を傷付けることはない。私が願わない限り、この炎が私の痕跡を消し去ってしまうことはない。

「――わたしの、傍に……」

 孤高の導き手となる覚悟を持っているこの人は、けれど私に望むのだ。

 罪人の謗りを全身に浴びる決意を抱くこの人は、しかし私に希むのだ。

 力なく、この人の苦痛如何ばかりか察することも出来ぬ私に、然れどただ傍に在れと。惑い迷いてとかく見失いがちなこの途を、共に歩めと。

 ひんやりとした唇が、確かな熱情を以て頬を滑り降りる。彼の囁きが形作る己の名が耳を擽る。自身の吐息が宙を震わす。柔らかく唇を啄まれ、驚きに目を開く。煙るオリーヴグリーンの瞳が間近に輝き、その中心に私の姿が映り込んでいた。

「最後の、その時まで――」

 答えようと口を開けば再び塞がれ声を奪われた。発すれば消えゆく言の葉の代わりに、互いの熱を絡めて思いを分かち合う。混沌たる行末を蒼の光で照らしながら。

 

 
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