No.65497

夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち 3_2(終章)

維如星さん

「夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち」シリーズ第3章-2、完結編。

ささらを中心に、このみ、タマ姉、雄二を巻き込んで、本編とは少し違った運命の流れを語るシリアス小説。「ホテルの拒絶」から物語を分岐し、ヒロイン3人、そして貴明の心を本編よりも深く切開し、真の解決を目指しました。
本編の安直な解決に納得のいかなかった貴方に。恋に怯える全ての人に。

2009-03-27 15:48:04 投稿 / 全4ページ    総閲覧数:1153   閲覧ユーザー数:1090

 

12: 皇帝親征・騎士団出陣

Imperial Marble Phantasm / "Unlimited Sword Works"

 

時の刻みは止まらない。

どんな選択を下そうと、いかなる努力を重ねようと、どれだけ奇跡を求めようとも、自分たちを包む運命の流れを止める事だけは、どんな少女たちにも不可能なのだ──

 

「それでは、信任投票に移りたいと思います」

あくる日、四月二十八日、水曜日。

前日の予定通り昼休みに開かれた臨時生徒評議会にて、自分、久寿川ささらの転校に伴う退任を発表し、続けて向坂さんの副会長から会長への繰り上げ就任の信任を問う動議を提出する。

(──これで、私にやれることは全て終わり)

ささらは進行を議長の小牧さんに任せ、自席に座り込んだ後は、評議会の行方をぼんやりと他人事のように眺めていた。

「向坂環さんの生徒会長就任につきまして──」

耳に届く小牧さんの声、部屋を満たす評議会生徒たちのざわめき。その全てがホワイトノイズとなって流れてゆき、ささらはそこにまるで現実感を覚えられなかった。

数分前、自分の転校と辞任を表明した時は、流石にどの生徒たちも驚きを隠せないようだった。内心、当の本人ですら未だ認識が追い着かず、ただ流れ落ちる灰色の砂に埋もれるように、なさねばならぬ実務に身を委ねている状態なのだ。

──だが、最初のどよめきが一段落してしまうと、評議会の反応は彼女の予想以上に静かなものだった。むしろ、さもありなんという納得の空気すら、彼女は敏感に感じ取っていた。

(当然と言えば当然、ね──)

その反応を、ささらは磨耗しきった心で無感覚に受け止めた。人望もなかった自分の退任など、先代のまーりゃん先輩のような惜しまれ方をするはずもない。更に思えば、副会長に優秀な向坂さんが就いた時から、きっとこの交代劇は皆の心の何処かに描かれていたのだろう。

 

「──ご信任いただける方は挙手をお願いします」

小牧さんが議長として、その交代劇の信を評議会に問いかける。知らず目を閉じていたささらも、その声にふと目蓋を開く。

相変わらずモノトーンで生気のないささらの視界の中で、ゆっくりと、だが誰一人周囲を窺うことなく、確実に揃って手を挙げてゆく。

元々不信任など考えてもいなかったし、たとえそうなったところで自分の辞任は変わらない。だから、目の前の光景に本来意味などない。

(でも──これで本当に決まったのね)

天井に向けて上げられていた片手の群れは、やがて自然に両手を迎えての拍手へと移ってゆく。耳鳴りとホワイトノイズの中で、音のない拍手が自分の退任をこれ幸いと寿いでいるかのよう───

「ありがとうございます。本評議会は賛成多数で向坂さんを生徒会長として承認いたしました」

議長の宣言に室内の拍手が更に勢いを増し、向坂さんがそれに応えて起立、皆に向かって軽く頭を下げている。

その全てを虚ろな瞳に映しながら、ささらの心にはようやく現実との接点が僅かに戻ってくる。

(──そう、これで終わったのよ)

生徒会、そして生徒会長。

それは形式的には半年以上、実質的に一人で実務のほぼ全てをこなしていた前期から考えれば一年以上、自分の学生生活、いや人生全てを捧げてきた責務である。

その人生が、ほんの一週間前にさえ予想もできなかった形であっさりと消えてゆく。

(捧げて──? ううん、私にはこれしかなかった、ただそれだけのこと)

だから、消えてしまうのも仕方がない。

どうしようもない、どうでもいい。

──昨日の生徒会から、いや母から急な渡米を言い渡されてから、ささらの心を支配しているのはその二つの言葉だけだった。

だって、それ以上の何を考えろと言うのか。

戦う気力、抗う気力。そんなもの、自分が河野さんに愛されないと思い知らされたあの日に、とっくに失ってしまっている。

よりによってその翌日に告げられた母からの言葉は完全な追い討ちとなり、何とか自分の空間を取り繕い、せめて居場所だけでも再確保しようとするいつもの努力の芽すら焼き払ってしまっていた。

文字通り、もはやこの国に自分の居場所はない。誰にも愛されない私に相応しい、退学という幕切れだけがここにある。

(やめると卒業は違うんだよ、さーりゃん)

ふと、自分に後事を託したまーりゃん先輩の顔が脳裏に浮かび、鈍く淀んでいるささらの心に小さな人間らしい痛みを呼び戻す。

(まーりゃん先輩、ごめんなさい──)

あの時、長い孤独は終わったのだと思った。

あの時、自分は誰かに愛されたのだと思った。

でも結局、全ては夢だった。

何もかも、なかったことになってしまうのだ。

(人間はそんなに便利じゃない。なかったことにしてしまえば、なくなるのは自分の心なんだ)

記憶が巡り、ふっと脳裏に河野さんの言葉が蘇る。

心がなくなる、全てが無駄になる──そう考えると、淀んだ心に再び苛立ちにも似た痛みがじくりと湧いてくる。

(本当に、全てが無駄だったの──?)

まーりゃん先輩を、河野さんを記憶に蘇らせるたびに、何かもどかしい想いが心に去来するのだ。

今ここで、自分が積み上げてきた全てをなかったことにしてしまえば、あの二人がこんな自分のために投げ打ってくれた時間もまた、等しくなかったことになってしまうのではないか。

それを、自分は認めてしまっていいのか。

(──だって、でも、それでも)

どうしようもない、仕方がない。

母には抗えない。河野さんは還らない。

自分にできることは、もう何もない。

ならばせめて自分が消えることで、まーりゃん先輩にも、河野さんにも、これ以上私という名の傷を増やさずに済むようにするしかない。

部屋を満たす拍手はようやく現実の音となる。

やっと、これで全てが終わってくれる───

 

 

「はーい、静粛に静粛にー」

ふと、気がつけば小牧さんがぽむぽむと机を叩いて議事を再開させようとしている。三十余名の喧騒に対するにはあまりに弱々しい議長の呼びかけだが、それでも不思議と部屋は静まってゆく。

本来こういう目立つ役職は苦手だと、いつかぼそりと語っていた小牧さんを思い出す。そんな彼女には何処か親近感を覚えていたのだが、その役職上での立ち回りは見事なもので、自分と正反対といって良い。

(小牧さんは、一体何のために──)

その望まぬ職を務めているのか。元々評議会自体がリーダー気質の人間の集まりだけに譲る相手には事欠かず、その気になればいくらでも辞退できるのが評議会議長という役職である。

(──バカね、人のことなんて分かるはずないわ)

ささらはそう考えて頭を振る。

他人の心など分からない。何にしても、他に何もなかった自分、所詮本人のためでしか無かった自分とは、彼女はまるで違う存在なのだろう。

「えーと、正式な交代は今月度が終わってからだから──お休みを挟んで、五月の六日ですねー」

落ち着きを取り戻した部屋に向かって小牧さんはそう話をまとめると、改めてこちらに向き直り、

「というわけで久寿川会長、お疲れさまはその時に。まだしばらくは引継ぎ作業などが続くと思いますので、よろしくお願いいたしますね」

と、話を向けてきた。

このような事務話になれば、ささらの無意識の歯車は慣れたように回りだす。

「ええ、これが最後の仕事ですもの。後を濁さぬよう務めさせてもらいます」

静かな笑みをなんとか浮かべ、往年の久寿川副長を彷彿とさせる声で応じておく。

その模範解答に小牧さんはにっこり微笑み、

「ありがとうございます。では、もう一つの議題についてですが──」

と、再び評議会全体へと声を向けていた。

(──え? もう一つ?)

今日の評議会は辞任告知と信任投票だけのはず。

この場で生徒から新たな動議がない限り、これで議事は終わりのはずだった。つまり動議なしに続くということは、臨時会にも関わらず、事前に誰かが議題を通していたことになる。

(一体誰が──どうして私には連絡が──)

そう怪訝な表情を浮かべる間こそあれ、議長はまたすぐに自分のほうへと身体をむけ、思いも寄らない提案を口にした。

「最後にはなってしまいましたけど、久寿川会長には今期予算配分状況その他施策状況について、学内各所の視察をお願いできないかという提案があがっております。ちょうど向坂さんへの状況引継ぎも兼ねられると思いますので、ご一緒に是非」

「───は?」

学内の、視察?

あまりに突然の言葉に、冷静な会長の顔を装うのを忘れ、ぽかんとした表情で声を上げてしまう。

 

「あー、それいいですねー」

「次期会長にも是非ウチの現状を」

「賛成しまーす」

 

ささらが束の間戸惑っている間に、室内からは次々と賛同の声が上がってくる。

(どうして、今更こんな)

この一年間、それが正しい道と信じて各所に大鉈を振るってきた。結果、副長と呼ばれ、冷たいとなじられ、人の心が分からないと嫌われてきた。

それでも、自分にはこれしかなかったから。

それを、自分が辞めるという今になって何故掘り返すのだろう。誰かによる最後の反撃、体のいい晒し者──要はそういうことなのだろうか。

その発想に到り──会長という肩書き、権威という鎧が無くなる時、自分の心を守る術が何一つ無いことに気づき、ささらは愕然としていた。

「──会長、いかがでしょうか?」

だが、今更逃げるわけにもいかない。

「私は構いません。先程も言ったように、現状を向坂さんにお伝えするのは確かに私の仕事ですから」

かすかな声の震えは隠せたと信じ、だが蒼白に近い顔でささらは申し出を即座に受け取った。

「──ただ、これはどなたの発案なのでしょう?」

疲れ果てた心で、せめて一矢報いようとささらは最初の疑問を口にした。

だが、返ってきた答えはささらの視界を一瞬暗転させるほどの言霊を伴っていた。

「ええと、生徒会の河野さんからの発案ですね」

視界と共に、思考の流れも暗転、反転する。

ぐらりと湧いた眩暈をかろうじて押さえ込む。

(河野さんが、何故───)

ならば、偶然やお遊びではありえない。

河野さんの意図は何なのか。昨日あっさりと引き下がった態度の理由はこれだったのか。彼のことを考えて、これが正しい道と信じて相手を拒絶した結果が、この復讐じみた仕打ちなのだろうか。

もう失ったと思っていた愛。それでも今なお、まだ血を流し足りないかというように、自分の心から無数の想いが引き剥がされていく。

今まであえて見ぬようにしていた、河野さんの席にささらは初めて目をやった。

(違う、これは───)

そこにあったのは、自分を真っ直ぐに見つめる河野さんの姿だった。その瞳に揶揄の色はなく、むしろあの終業式の朝、二度目の屋上で見た強い意思の光が宿っている。

今日この時間、こちらが露骨に視線を外していたのに気づいてないはずがないのに、恐らく彼は今までずっと、こちらを見続けていたのだろう──ささらには、そんな確信があった。

(──今までと、同じように)

心に浮かんだその言葉に、ささらは自身戸惑った。何が、何と、今まで同じなのか。河野さんは、今までずっと───

狂おしい想い。行き場の無い感情。

そこに答えは出ないけれど、賭けてみよう。

あの日、半ば勝負を挑むかのように、彼はささらに終業式に臨む勇気をくれたのだ。これはきっとまた、自ら結末に向き合えという河野さんなりの想い、最後の戦いなのだろう。

そう考えると、心は落ち着いた。

今日この日、終わりを受け入れよう。

「分かりました。では、段取りはそちらにお任せしてよいかしら」

滑り出たささらの台詞で、歯車が回りだす。

小牧さんは柔らかい笑みを浮かべ、ささらと、そして評議会全体へと声を掛ける。

「はい、では早速、本日放課後にお願いします。各部、委員の方は通常通りの活動で結構ですが、視察があることだけはメンバーに伝えておいてください。あ、会長に要望等ある部員がいれば、一応考えをまとめておくようにも伝えてくださいねー」

了解の呟きが生徒たちから立ち昇る。

「随員は──もちろん向坂さん、それから補佐の河野さんと柚原さん、それからわたくしになると思いますので──」

着々と手筈が整えられ、今日の放課後、まずは会長以下数名が生徒会室に集まることが決められた。

 

 

──後から思えば。

今日の今日という急な予定が、これほどスムーズに組まれるわけがなかったのだ。退任表明の際、最初に感じた評議会生徒たちの納得の空気の意味を、この時のささらは繋げて考えることができなかった。

いずれにせよ、賽は投げられた。

臨時会議は解散し、皆はそれぞれの領域へと散ってゆき、ささらの転校と退任は公開情報となった。

放課後までの数時間。

それは噂好きの生徒たちにとって、十分すぎる活動時間だったのだ。

 

 

午後三時半。

放課直後特有のざわめきが廊下を満たしている。

授業から開放された生徒たちは、部室へと移動し、委員会の仕事に集まり、開かれた教室に残って雑談に興じ、あるいは帰宅部員として校門への道を急ぐ。

──その日常の匂いに、軽く眩暈がする。

その中へ踏み込んでいくこと自体、ささらには珍しい経験だった。授業が終わればさっさと他人の近寄らぬ生徒会室へ移動し、帰る頃にはがらんとした廊下。他の生徒が行き交う様を見るのはせいぜい校庭の掃除に出たときぐらいのもの。

あらゆる場所へ飛び込んでいった先代会長とは異なり、グラウンドや体育館から聞こえてくる喧騒も、何処かの教室で交わされている議論も、ささらにとっては報告書の上の数行でしかなかったのだから。

 

「それじゃあ、まずは何処へ?」

行動の主導権を取らないことも、ささらにとっては久しくなかった経験だ。唯一の例外が、終業式以後も自分を引っ張ってくれすらした河野さんだったのだが───

(ううん、最近はやっぱり向坂さんの方が──)

隣の河野さんと向坂さんにちらりと視線を送ったが、二人とも小牧さんの台詞を待っているようだ。

その小牧さんは軽く唇に指を当てて考えると、

「手前味噌で恐縮ですけど、まずは図書室と書庫なんてどうでしょう? 久寿川会長には図書委員一同、ご尽力のお礼も言いたいですし」

と、最初の目的地を設定した。

(尽力──? どういうことかしら)

疑問はあるけど、反対する理由はない。

手前味噌という言葉に一瞬戸惑ったが、今年度から小牧さんはクラス枠とは別の形で、正式に図書委員になっていたことを思い出す。珍しくはあるけれど、彼女が前年度から図書室や書庫に関わっていた話は聞いていたので、そういうこともあるだろうという程度の認識だった。

「いいわ、では行きましょうか」

その言葉を皮切りに、集団は揃って動き出す。

会長視察と言っても、別に露払いがいるわけでも、幟旗を掲げてゆくわけでもない。自分を先頭に、向坂さんと小牧さんがすぐ横についてくる。少し遅れて、河野さんと柚原さん───つまり、単なる生徒グループの移動だった。

にもかかわらず、一行は最初から廊下を行く生徒たちの注目を集めた。

 

「あ、委員ちょ──それに会長!? お疲れ様です」

「小牧さーん、こないだはありがとね」

「久寿川先輩、さようならー」

「会長と委員長だ。珍しいっすねー」

「お姉さま方、ごきげんよう」

 

通りすがる生徒の誰一人として、無言で過ぎ去る者はいない。少なくとも軽く手を振るぐらいはして、あるいは少々の驚きと謎の照れを見せて会釈する。

最初、それらの視線は隣を歩く向坂さんに向けられたものだと思っていた。女性から見てもすらりとした明らかな美人だし、九条院からの転校生ということで注目も集めているし。

が、声を掛けてくる生徒の多くは、小牧さんと、そして何故かこの自分を中心にこの一団を捉えているようだった。

確かに、自分たち二人は様々な委員会や活動を通じて顔は知れている。でも、彼らのこの気軽さは何なのだろう。幅広く生徒から信頼を集めている小牧さんが隣にいるだけで、こんなにも反応が違うものだろうか──?

昨日から次々と起こる日常と懸け離れた出来事に心が磨耗しているささらだが、流石に笑顔で手を振られれば反応を返さざるを得ない。ぎこちなくも笑顔を作り、目で軽く返礼する。と、それだけで行き交う生徒たちはにこやかに自分たちの横を過ぎ去ってゆく。本来咳払いと冷たい視線なしには廊下を歩けなかった、ささらの戸惑いは増える一方だった。

 

 

やがて一行は階段を降り切り、図書室へと足を踏み入れた。

終業直後ということもあり、図書室には三々五々といった感じで人が集まってくる。完全に放課後になりきった時の静寂とはまた違う、静かな活気とでも呼べる空気が満ちていた。

「あ、小牧さん──ってことは」

小牧さんに先導されるように図書室に入ると、カウンター越しに図書委員の一人が声を掛けてくる。

「久寿川会長、いらっしゃいませー」

ヤックでもないだろうに、その図書委員の少女はスマイルの似合う台詞で一行を出迎えた。

 

「あ、本当だ会長だ、こんにちはー」

「そーか視察だっけ。お疲れ様です」

「久寿川先輩だー」

「会長、たまに昼休みに使ってくれてますよね。結構本好きなんですか?」

「かいちょー、SF文庫増やす予算くださーい」

 

最初の声に誘われるように、室内に散らばって書籍の整理を始めていた委員たちが、口々に思い思いの台詞を投げかけながら入口付近へと集まってくる。

委員ではない普通の利用者たちも、何事かという視線を向けてくる。が、その視線の先にささらを認めると、噂を聞いていた者は得心した表情を浮かべ、知らなかった者は手近な友人にひそひそと事情を聞き始めていた。

「はいはい、落ち着いて落ち着いて」

一人の女子生徒が隣の書庫から顔を出す。

五月雨に声を掛けられて反応に困っていたささらを見つけ、軽く手を叩きながら話を抑えた。

「みんな、そんなことより先に会長に言うべきことがあるでしょう?」

苦笑しながら近づいてくるのは、確か新任の図書委員長。佐藤依子さんといったはずだ。

「委員長! もう書庫に入ってらしたんですか?」

佐藤さんを見て小牧さんが声を掛ける。通称委員長の小牧さんの口から『委員長』の呼掛けが走る様は、なんとも不思議な感じがしてしまう。

「ええ、だって楽しいんですもの。今までこんな楽しいことを小牧さん一人に任せてたなんて、悔しくてしょうがないわ」

佐藤さんはひらひらと手を振りながらそう笑い声を上げ、小牧さんもそれに釣られて苦笑する。

「とりあえず、ここじゃ利用者の方にも迷惑ね。まずは書庫へ移動しましょう」

と、佐藤・小牧の図書委員会ツートップは自然に隣の書庫へと歩き始める。四、五人の図書委員と共に、視察一行も合わせて移動を開始した。

 

 

重厚な扉をくぐると、漂ってくるのは紙の匂い。

あちこちのブックトラックに積み上げられた本の山が、大整理が進行中なことを物語っている。

全員が書庫に入ったのを確認すると、やがて先導の二人は視線を合わせ、揃ってささらの方へと改まった。

 

「久寿川会長、我が校自慢の書庫へようこそ」

「書庫の存続にご協力いただいたこと、図書委員一同を代表して御礼申し上げますわ」

 

小牧さん、佐藤さんの声に合わせるように、他の図書委員も一斉に軽く頭を下げる。

「え──ええ? その、私は別にお礼を言われるようなことは何も───」

混乱がささらを襲う。彼らにそんなに改まって礼を言われる理由がさっぱり分からないのだ。

確かに今学期始め、図書委員会の予算執行に注文をつけたのは覚えている。今頃になってまーりゃん先輩が最後に裁可した予算案に基づく動きがあるのが気になり、精査してみたのが切っ掛けだった。

「あれは全校予算の健全化を図る以上、当然の──そして止むを得ない処置だったわ。まーりゃん先輩のお祭り予算で迷惑を掛けてしまった形になって、本当に申し訳なかったのだけど───」

書庫内の書籍を大幅に整理し、空いたスペースでCDの貸出しを始める。それが、去年裁可された先代図書委員長からの計画申し入れだった。

当然、改装や仕入れに大きく予算が割かれており、目に付いた時点でささらの眉を顰めさせるには十分だった。しかも精査してみれば、CD貸出要望の全校アンケートとやらは貸出し内容に一切触れないいい加減なモノだったし、一方需要が皆無とされた書庫の蔵書については、単に未整理なだけなことも分かってきた。

普段なら、新学期の慌しさを見計らったような動き故に、見逃していた可能性が高い。だが今期は春休みに河野さんがいてくれたおかげで、かなり時間を有効に使えたのが大きかった。

(そもそも河野さんがいなければ私、まーりゃん先輩のことで春休み中もずっと使い物にならなかっただろうから──)

ともあれ気づいてしまった以上、ささらは会長として為すべきを為しただけなのだ。CD貸出の必要性の再調査と、書庫整理を図書委員の通常業務として行った場合に掛かる期間及びコストの算出、この二つを図書委員会に依頼しただけである。

「いえいえ、そこが重要だったんです」

小牧さんは珍しく拳を握り締めて力説する。

結局、再調査の結果『学校で入れられるような』CDの貸出しへのニーズは低く、一方の書庫整理は小牧さんの事前調査もあったことで、人数を投入すれば十分可能とあっさり判明。

 

「基本的に、図書委員って本好きですから──書籍の一方的廃棄にはすごく抵抗があったんです」

「そーそー、本の虫≪ビブリオマニア≫を何だと思ってるのよねえ」

 

佐藤さんも声を揃えて同調し、他の委員たちも後に続く。

会長からの勅令を受け、また感情的にも多数派を取られた前図書委員長は書庫の廃止ではなく整理を軸とした新案を評議会に提出せざるを得なくなり、CD関係の具体的な発注などがまだだったこともあって、書庫の廃棄はあっという間に覆った。

お祭り予算に乗じた彼の目論見は破綻。功利主義に走っていた彼は委員会自体に居場所を無くしてしまい、図書室を去っていったのだった。

「健全な思考、ってのが前の一年間は難しかったですからねー」

書庫存続派筆頭にして、先週委員長を継いだばかりの佐藤さんがしみじみと洩らす。

「久寿川会長は都合上止むを得ないって仰いましたけど、むしろそっちが普通の考えなんですよ。そういう現実路線の方が会長についてくれて、私たちは本当にホッとしてたんです」

うんうん、と頷く図書委員一同。

その光景を、ささらは呆気に取られたまま、まるで自分のことでは無いかのように眺めていた。救いを求めるように改めて見渡せば、確かに学校とは思えぬ雰囲気を纏った素晴らしい書庫だった。

「そうね──確かに実際にこうして来てみると、廃止なんてやめて良かったと今なら思えるわ。でも──」

かろうじて紡がれたささらの雑感めいた言葉。

その最後を逃さぬよう、被せるように、

「───で」

と、佐藤さん以下図書委員の面子は不意に不安そうな表情を浮かべ、自分──いや向坂さんへと視線を移した。

「久寿川先輩、お辞めになると聞きましたが」

佐藤さんの声は悲痛ですらあった。他方、急に自分の話になったささらは驚き、そしてこの辞任話で初めて見る反応にまた一つ戸惑いを重ねていた。

 

「その、こういう言い方は大変不躾だと思うんですが──向坂さんは、久寿川さんの方針を引き継いでいただけるんでしょうか」

「えっ──?」

 

不安の理由を語る佐藤さん。今の話を考えればもっともだろうが、続いた台詞はささらを更に驚かせるに十分なものだった。

「正直言えば、会長には辞めていただきたくないんです。折角色々軌道に乗ってきたばかりなのに」

心底悔しそうに呟く佐藤さんの後を、小牧さんも無念の声で引き取った。

「あたしたちも、整理が終わって、綺麗に開かれた書庫を──ご尽力いただいた久寿川会長ご本人に見て頂きたかったんです」

先学期から書庫の存続を信じて一人整理を続けていた小牧さん。そういえば、河野さんも一部その手伝いをしていたと言う。

理由は分からないけど、小牧さんは当初、この部屋を独りで守ろうとしていた。

それは、実に孤独な戦いだ。多分あのまま進んでいれば、いつかは彼女も決定事項という御旗に押し切られ、やがては自分の領域を失って───

そこで、ささらはハッと顔を上げた。

(独りで戦い、独りで守って──そして、理由を知らない誰かに助けられ──)

それは、自分と同じではないか。

相手の動いた理由が何であれ、そこに手を差し伸べてくれた誰かに救われた事に変わりはなく。

「──会長は、この部屋の恩人ですから」

その相手に、想いを返すのは───

「そんな──本当に、私は──」

ささらは、完全に返す言葉を失っていた。

だって、別に自分は予算を健全化したかっただけなのだ。旧案の杜撰さに気づいたのだって、河野さんがいたからこその偶然だったのだ。戦ったのは小牧さんであり、手を貸したのは河野さんであり──

「方針についてならご心配なく。久寿川会長の采配は完璧でしたもの。私もそれを崩すなんて思いもよりませんから」

固まってしまったささらの横で、向坂さんが一歩前に歩み出て委員たちに自信ありげな声を掛ける。

「ただ、本当にそうですよね──」

不意に変わった声のトーンに、ささらは彼女の方を振り返る。

「私もそう思います。折角結果を出してこられた久寿川さんなのに、成果を見ずに辞められるなんて」

重い空気が書庫を包む。

(何──? どうして、私なんかに──)

昨日の生徒会や今日の評議会とはまったく異なる、本当に心から『生徒会長』を惜しむ雰囲気。それはささらにとってまーりゃん先輩のモノであって、到底自分に起こるとは考えられなかったモノだった。

 

「あ、あはは、湿っぽくなっちゃいましたね」

小牧さんが慌てて両手を振って空気を散らす。

「まだ視察がありますから、今日はこの辺で」

彼女はそういって視察一行を促すと、書庫の出口へと歩き始める。

「何にしても、本当にありがとうございました。できれば、ここに残っていただければ──それが、図書委員の総意ですわ」

佐藤さんは最後にそう告げて、扉を開く。

書庫よりも多少明るい図書室に抜けて、ささらは知らずホッと息をついた。

 

 

「久寿川先輩───」

瞬間、声が掛かる。

驚いたささらが顔を上げると、さっきまで自習エリアなどに散らばっていた生徒たちが、いつの間にか書庫入口付近へと集まってきていた。

「どうしたの、何か御用──」

かしら、と言い終える間はなかった。

 

「先輩、会長辞任って本当ですか」

「会長、学校も辞めちゃうって聞きましたけど」

「かいちょー、今更どうしてだよー」

「久寿川さん、なんでこんな急に──」

 

図書委員たちの比ではなく、畳み掛けられるように次々と掛けられる声に、ささらはたじろいだ。

(え、何、どうして───)

噂が噂を呼び、声が声を呼ぶ。

先月の終業式で一気に耳目を集め、副長の印象を覆し、そして一部では恋愛の噂も立っており、そして元々黙っていても美少女の久寿川ささら。

そんなささらが急遽辞任、退学の噂となれば、好奇心旺盛な生徒たちの口は抑えられない。そして急速に広まる噂は急速に増えた『久寿川派』の間にも当然伝播し───

「会長、辞めるな────」

一人の、内気な外観の男子が意を決し、むしろ耐えかねたかのように口火を切る。

 

「そうだ、会長辞めないで!」

「久寿川会長、俺たちは認めねーぞ!」

「お姉さま、捨てないで──!」

 

周りの感情に煽られて、生徒たちは次々にささらへと叫び始める。中には無根拠な噂に基づく一方的なファンの叫びも混ざっているが───

 

それはささらが生まれて初めて耳にする、

不特定多数からの親愛の情だったのだ。

 

茫然自失となったささらを、ここに来て初めて河野貴明がその肩に触れ、半ば押すように図書室の出口へと導いてゆく。

「あー、まだ視察があるので! 詳しくはまた!」

愛佳も、環も、このみも、集まった生徒たちをなだめるように、抑えるように、両手を挙げながら図書室を後にする。

その眺め、その騒音全てが、惚けたようなささらの心の中に流れ込んでいった。

 

 

その後、何処へ行っても生徒たちの反応は同じようなものだった。

校内では、放送委員、新聞部、美術部が。校庭へと降りていけば、野球部、サッカー部、ラクロス部、体育館を覗けばバスケ部が。

「会長、来期もこの調子でお願い──って、ええ!? 辞められるんスか? ここまで来てそりゃないスよ!」

廊下を、校庭を歩けば、一般生徒が。

「あ、久寿川先輩に向坂せんぱーい!」

その全てが、ささらへと微笑みかけ、歓迎し、采配に感謝し、そして、その辞任を惜しみ、その都度ささらを困惑へと誘ってゆく。

 

──だが、元々下地自体はあったのだ。

その下地が一気に表に出てくる切っ掛けになったのは、やはりあの終業式だった。

会長も人の子──たったそれだけの認識の違いで、ささら本人、そしてささらが積み上げてきた業績は急速に好意的に見られるようになってきていた。

そもそも、無い袖は振れない式の運営には華が無いというだけであって、元々ほとんどの生徒は止むを得ずという形ではあれ、会長の予算采配自体は高く評価していたのだ。更に一般生徒ではなく、各種部活動、委員を預かる身ともなれば、そのありがたみは骨身にまで染みている。

なんせ、去年までの朝霧政権はお祭り第一主義。

派手な活動、派手なパフォーマンスを優先させなければ、ただでさえ厳しい予算が回ってこない。おかげで日常的な活動、備品の補充、堅実な運営拡大などはまるでおざなりにされてきたのだ。

学内イベント主義の影響は広く及び、時間と予算の制約から、去年の新入生歓迎会の為に公式大会出場を諦めた部すら存在していたのである。

(ほら、基本的にお祭り騒ぎが好きな人って声も大きいから。あたしは──自分のところも含めて、色んな方面で苦労話も聞いてるし)

愛佳の呟きには、そんな実感が込められていた。

お祭り騒ぎ、イベント主義、ノリが全て──それらは非常に楽しい。真っ向反対などできないほどに楽しい。そんな大声に圧殺されてきた無数の堅実派の存在を、愛佳はだいぶ前から感じていたのだ。

更に、予算の縮小体制の下、活動実態の怪しいクラブはお取り潰しという副長時代ならではの噂も、裏を返せば現実に活動が怪しい団体があるからこその話である。

そんな身に覚えのある連中自身が戦々恐々と憶測を語り合った結果、それ自体が更に噂を呼んで噂となり、副長への反感と相まって無責任な風評になってしまったのだ。一種の自作自演である。

だが実際に新学期の蓋を開けてみれば、財務状況の改善は先学期までの緊縮予算で十分達成されており、今期はあくまで現実的な予算配分がなされていたのだ。活動の怪しい、と十把一絡げにされていた同好会なども、実績を上げているところは逆に順次公認に格上げされ、評価が始まっていた。

これで、堅実路線を熱望していた声なき各部長陣営からの評価は一気に高まった。いわんや、各部所属の生徒たちにもその雰囲気は伝わったのだ。

一度印象がひっくり返れば、あらゆる評価がひっくり返る。浅薄なようでも、それが集団の評価というものであり、ひっくり返せるだけの何かを残してきたが故の芸当だった。

 

そこに、伝えられた突然の辞任。

河野貴明、そしてその意を受けた小牧愛佳は全校生徒に対し、別に何ら根回し的な働きかけをしたわけではなかった。

純粋に、彼女が辞めてしまうこと、もし今の政策を気に入っているのなら、それが続いて欲しいと願うなら、明日がそれをアピールする絶好のチャンスであると、要所要所に触れて回っただけなのだ。

火はつけても、自ら燃料は撒かず。

だが既に乾いた芝の積まれていた学内にとって、彼らの示唆はそれだけで燎原の火のようだった。

──こうして一気に広まった情報は、理屈によらない感情的なファンの空気を作り上げていったのだった。

 

 

運動部の視察を終え、校庭から引き上げようとする生徒会一行に、不意に大きな声が掛けられた。

「久寿川会長───っ!」

これまでとは段違いの太い呼び声に、思わず全員が立ち止まる。見れば学ランに身を包んだ野郎どもの集団が、息せき切ってささらを追いかけてきたところであった。

距離は数メートル、目を見開くささらの前で、呼吸を整える間こそあれ。即座に整列した男たちの前に、今声を掛けてきた生徒が進み出る。学内では知らぬ者なき巨漢、通称サージャント。両腕を後ろに組み、伝統的なスタイルで登場した連中は、当然本校の応援団だ。

その集団の後方に、いつもの笑みを浮かべる雄二の姿を貴明は見出していた。

(あのバカ──本当にこれがタチのいい連中!?)

そんな貴明の心配を余所に、先の男が声を張り上げ始める。

「甚だ僭越ですが自己紹介をさせて頂きますッ!」

まあ、男気という意味ではいいのだろうが──

「私ッ、本校三年生応援団長、かつ不肖、久寿川ささら非公認ファンクラブ会長ッ! 木内祐介と申しますーっ!」

こんな状況下にも関わらず、貴明は噴いた。

(サージャント木内が先輩ファン? マジか?)

だが、当の本人は至って真剣な表情だ。

「このたび、久寿川会長ご退任の報に際し! 会長のこれまでの功績と栄誉を称え! また今後のご活躍を祈念しましてッ!」

気がつけば、騒がしかったグラウンドが一斉に静まり返っている。練習中の運動部も、外周を行く生徒たちも、皆何事かといつの間にか立ち止まり、野球部に至っては何故か反射的に帽子まで脱いで立ち尽くしている。

「フレーッ、フレェーッ! くーすーがーわッ!」

大真面目な団長の掛け声は、ある種笑ってしまいそうな光景である。だがこの瞬間、それを笑って見ているものなど一人もいなかった。

団長の純白の手袋が、初夏の空を切り開く。

まるで公式のイベントのように応援団総員のコールが続き、校庭を圧して響き渡る。

「辞めるなーッ! 辞めるなーッ!───」

その声を、ささらはどう受け止めているのか。

屋外練習中だった吹奏楽部のドラムまでが協力し、恐らく一部の生徒は本当に何かの式典とまで勘違いした様子で、辺りに奇妙な一体感が生まれてくる。

 

「───ありがとうございましたッ!」

 

応援団長の一際大きな声が響き渡った。

静止した団員、静止した生徒、静止した会長。

一瞬の静寂の後、不意に物悲しげな金管の響きが空へ、全ての生徒の上へと抜けて行く。

見れば、吹奏楽部のトランペットが一人で立ち上がり、独奏を始めていた。

聞き覚えのある旋律の名は『我をも救いし』≪アメイジング・グレイス≫。

 

我、ひと度見失われたが、今見出されん≪I once was lost, but now am found≫。

我、かつては盲目だったが、今は見えん≪was blind, but now I see≫。

 

あまりに、出来過ぎていた。

だが、決して奇跡ではなかった。

(ここまでは──考えてなかったけど──)

火を放った貴明本人ですら、予想もしていなかった数の生徒の集結。全校生徒中、他の誰にもなしえない、ただ久寿川ささらのみが可能とした一つの結集点。今までまったく表に出なかっただけで、彼女の積み上げ続けてきたその全てが、たまたま一点に集まって噴き上がっただけなのだ。

 

──演奏が終わる。

再び一瞬静寂が全てを支配し、

 

『久寿川せんぱい、辞めるなーっ』

 

後は、もう聞こえなかった。

校庭に集った生徒が、教室から身を乗り出した生徒が張り上げる声が、あらゆる明瞭な音をささらの世界から奪ってゆく。

 

彼女が理解できるのは唯一つ。

彼らの、自分を呼ぶ声だけ。

 

「そんな──私、わたし──っ!」

白蝋の如き顔に、今初めて一筋の涙が走る。

この広い空の下で、彼女の孤独を抱え込んでいた校舎の下で、全校生徒の声の下で、世界から降り注ぐ慈雨の如き何かの下で、全てを呆然と、だが確実に受け止めているささらがいる。

 

彷徨っていていた瞳が、一点に留まる。

 

そこには、ただ立ち尽くす彼女に優しく腕を差し伸べる、河野貴明の姿があった。

 

 

 

13: この屋上から、世界は続いている

Fly Me to the Moon

 

気がついたとき、私は屋上にいた。

河野さんに手を引かれて生徒会室へ帰ろうとして、途中私たち二人だけが、そのまま階段を上がってこの場所へとやってきた。

柔らかな風が、吹き抜けてゆく。

まだ寒さの残る三月、先輩との写真を破いてしまったこの場所。河野さんと出会った場所。写真を取り戻し、河野さんに道を拓いてもらった場所。

その屋上に、またこうして河野さんと立っているという事実。まださっきの私には希薄だったその現実感が、春の風に乗って少しずつ戻ってきた。

私は河野さんに導かれるまま、屋上端のフェンス脇へと辿り着く。

「見てください、先輩」

彼はくるりと振り返り両腕を広げ、その後ろにある空間全てを背中で指している。

眼下に広がる学校の敷地から練習を再開した運動部の喧騒が響き、クラブハウスや校門からも、届くはずのない生徒たちの足音が聞こえる気がした。

「先輩が積み上げてきた、全てがここにあります」

河野さんはまるで自分のことのように、誇らしげにそう宣言した。

「私が、積み上げてきたもの───」

そう口にするだけで、固まっていた心の中で何かが動き出し、血の通いだすようなちりちりとした痛みが広がってゆく。

嫌われていたはずだった。

世界は私の敵のはずだった。

頑張れば頑張るほど独りになってゆき、愛されようと願えば願うほど苦しくなってゆく──それが私の人生だった。宿命だと思ってた。

でも、嫌っていたのは誰だったのか。

敵にしていたのはどっちだったのか。

愛されようなんてもう思わなかったのに、敵だと思っていたのに、その世界は、いつの間にか私を愛してくれていた。一体、何が違っていたんだろう。

「でも──これは私一人の力じゃないわ」

河野さんを前にして、私は不思議と今までになく静かな心で、するりと自分の思いを告げていた。

「あの時、河野さんが私を──まーりゃん先輩と引き合わせてくれなかったら。河野さんが手を引いてくれなかったら」

三月の風を思い出しながら、私は言葉を紡ぐ。

「あの春休みがなかったら、今日の私を引っ張り出してくれた、生徒会のみんなや小牧さんがいなかったら───」

ずっと独りだと思ってた。孤独だと思ってた。でも今こうして気がつけば、私の手を引いてくれていた人は、こんなにもたくさん存在していた。

「あの卒業式の後、ここまで一人でやってこれたとは思えないわ」

心からの思いを込めて、私はそう告白する。

その長い台詞を黙って聞いていた河野さんは、私の最後の言葉のあとで一時瞑目し、そして再び柔らかな視線をこちらに向けた。

「そうかもしれません。でも、それでいいんです」

河野さんは、そう静かに答える。

「一人じゃ何もできないって言うけれど──」

暮れ始めた空を仰ぎ、まるで独り言のように彼は彼なりの答えを紡ぎだす。

「でも、誰か一人が動き出さなきゃ、結局何も始まらないと思うんです。最後までは一人じゃなくても、最初に始める時は独りなんです。だから、全てを独りで始めた先輩は──」

空へ向かっていた呟きは、視線と共に私のところへ降りてきて、そして、私の胸元へと吸い込まれるように放たれた。

「それを、誇っていいと思います。それを、後押しした他の全ての人のためにも」

幾度となく見た、真っ直ぐな瞳で。

 

「だって、先輩は投げ出さなかったから」

「あ───」

 

思わず声が漏れ、無意識に口元を押さえ込む。

苦しみながらも、呼吸をしてきた過去があった。

辛くても、誰にも助けてもらえなくても、独りになってしまっても、それでも決して投げ出さなかったのは───

(それは当たり前のことだと思ってた)

それは自分には投げ出せなかったから、自分にはそれしかなかったからだと思っていたけれど。

 

(さーりゃん、ホント回転速いなー。これだったらあたしの後も、任せちゃって大丈夫だなー)

 

融け始めた心から、ゆっくりと昔の言葉が浮かびあがってくる。

「ああ───」

そうだ。あの時、私は嬉しかったんだ。

自分にしかできないことがあったから。自分にしかできないことで、誰かが喜んでくれたから。さーりゃん先輩が、笑ってくれたから。

だからこそ、私は投げ出さず、役割を全うし続け、そうして過去を積み重ねてきたんだった。

(いつの間にか、そんなことも忘れてた───)

誰が見たって不器用で、きっともっと良い方法だってあったはずだけど、それでも私は少しでも先輩の、後には河野さんの期待に応えたくて、少しでも誇れる自分になりたくて──必死でこの道を歩いて来たことを思い出す。

「今日のみんなの反応が、その答えです」

河野さんが私の告解への回答を続けてゆく。

「久寿川先輩は、決してみんなのために戦ったんじゃなかった。まーりゃん先輩のため、自分が生きるため───それが、世界を敵に回してでも、先輩が全てと戦い続けてきた理由じゃないですか」

自分の独善の心をあっさりと指摘され、胸に小さな痛みと震えが束の間走る。

でも、その直後に彼はまた、

「──それで、いいと思うんです」

先刻と同じ言葉で、そんな私を肯定した。

「誰かのためじゃない。自分のために必死で何かを成し遂げる。その結果を誰かが認め、その結果で誰かが救われる───それが、一番だと思うんです」

自分のために、自分にしかできないことを。

それで、誰かが救われるというのなら───

「自分のためで、いいの──?」

河野さんが静かに頷く。

 

「俺も、結局自分を救いたかっただけでした」

「───え?」

 

今日無数に重ねられてきた驚きに、また新たな一行が書き足される。

「先輩に色々お節介をしました。まーりゃん先輩の写真を探したりしました。終業式を演出したりもしました。でもそれって結局、全部──」

彼は覚悟を決めるように大きく息を吸い、

 

「結局、泣いていた女の子を自分が救えるんだっていう、どうしようもない自尊心のためでした」

「そんな、河野さんは───」

 

反論しかけた私を河野さんはやんわり制止し、彼自身の告解を再開する。

「女の子が苦手だっていつも揶揄されてたけど、ほら自分にはこんなこともできる、しかも相手はあの生徒会長様──多分、そんな自分に酔ってたんでしょうね。一歩間違えれば、先輩の心も、まーりゃん先輩の心も、どちらも壊してしまった可能性だってあったんです」

目蓋を閉じて静かにそう告げると、河野さんは再び私を見据え、告解に対する最後の答えを自ら口にする。

「でも──俺はいいことをしたって、あの後まーりゃん先輩に言われて。久寿川先輩が初めて、本当の笑顔を見せてくれて。だから──」

誰かのためじゃない。

自分のために何かをして、それを誰かが認めるというだけのこと。

河野さんも、そうだったんだ。

「あ───」

混沌とした記憶から一本の糸が紡ぎ出される。

愛されたいじゃない。愛されないじゃない。

あの時、自分の心に湧いた感情は───

 

(私、人のこと、好きになりたかったの───)

 

「ああ───」

そうだった。あの時、確かに思ったのだ。

人のこと、好きになりたかった。愛したかった。

ううん、河野さんが好きだって、自分の中で認めたかった。確かめたかったんだ。

「河野さん、私───」

河野さんの特別になりたいと思ってた。

でも、それすら何処かで間違えてた感情だった。

河野さんを、私の特別にしたい。私がこの人を愛したい。この人と、いつまでも一緒にいたい──それこそが、一番大切な感情だった。

その想いを、彼は先回りするように、

「先輩は──俺と一緒にいたく、ないですか」

今の自分とまったく同じ感情を言葉にした。

その言葉に心臓が大きく跳ねる。ずっと、ずっと忘れていた感情が跳ね回って一斉に動き出す。

 

「俺はいたいです。ずっとずっと、いつまでだって先輩と一緒にいたいんです」

「───っ!」

 

泣いていたと思う。泣いていると思う。

河野さんも、真剣な瞳に薄く涙を浮かべている。

「───私も」

固まっていた喉が動く。幼い頃に忘れてしまった、心からの声が溢れ出す。

「私も一緒にいたいの。河野さんと、ずっと、ずっと、何があっても一緒にいたい」

想いを一つ一つ言葉にするたびに、一つ一つ想いが深まってゆく、生まれて初めての感覚だった。

「いっぱい──いっぱい遅くなっちゃったけど。たくさん河野さんを傷つけたけど」

激しい想いが心の中を駆け巡る。

でも、足りない。まだ分からない。駆け巡る想いが心の出口を求めて跳ね回っているのに、長く使ってなかった私の心は錆び付いて、扉の内側で苦しい想いが言葉を求めて膨らんでいく。

「でもね、分からないの───」

その苦しさを、私は素直に河野さんに告げる。

「こんな時──どうしたらいいか。どうしたら河野さんを好きだって言えるのか」

この心を、どうすれば解き放てるのか──

俯いてしまったそんな私を、河野さんはほんの数秒静かに見つめていた。わずかな思案、そんな空気が彼の中を流れた後、

「名前を」

短い言葉が、優しく降ってくる。

「え───?」

 

「名前を呼んでください、──ささら先輩」

 

(あ───名前って、ささらって───)

瞬間、錆び付いた扉に震えが走る。

心を塞いでいた、赤い血のような錆びの粉が吹き払われてゆく。

「最初はそこからでいいんです。そうやって少しずつ──指を絡めて、近づいていけばいいんです」

はちきれそうな想いは、遂に出口を見つけ出す。

 

「──たかあき、さん」

「──ささら」

 

慎重に、壊れないように。

「貴明さん──たかあき、さん──っ!」

小さく、ゆっくりと指を伸ばしてゆく。

恐る恐る、でも着実に。そんな私の右手を、貴明さんは二つの手のひらでそっと優しく包み込む。触れられた瞬間、ふっ、と自分の表情が緩むのが分かる。

 

「───あたたかい」

「え?」

 

想いの届いた先で感じた温もりを、私はそのまま彼に告げていた。

「誰かの手が──こんなに温かかったなんて」

その言葉に、貴明さんも顔を綻ばせ──

「じゃあもう、離さないでくださいね」

そんな冗談めかした台詞を前置きし、

「俺は──何があっても、離しませんから」

二人の決断を、形にした。

「何があっても──この手を、離さない」

指と指が絡み合い、二人の手が互いにしっかりと握り締められる。狂おしかった想いが、今は静かに、けれど力強く、絡めた指と指の間を流れ続けているのが分かる。

「まだ、分からないこともあるけれど──」

人の心は、なかなか見えてはこないけど。

人の温もりに、まだ微かな恐れを感じるけど。

「でも、もう大丈夫。恐くても、恐れない。愛することも、哀しむことも──だって、信じてるから」

私はそうして、河野さんに宣言する。

 

吹き抜けてゆく春の風。

この屋上から、道は続いてゆく。

 

「貴明さん、私、聞いて欲しいことが沢山あるの」

今までのこと、これからのこと。

母のこと、父のこと──

私たちはまだ、長く続いてゆく道の、その一歩目を踏み出したに過ぎないけれど。

戦うべき相手は、まだまだいるけれど。

「うん──でも、きっと俺たちは大丈夫」

それでも、道は見つかったのだ。

だから、もう不安は無い。

共に歩んでくれる人がいるならば、初めて見えた、自分の心があるならば。きっとどんな相手でも、もう私たちには敵わない───

 

互いの腕を引き寄せ、そして、抱き締めあう。

 

ああ、二人なら何処まででも歩いてゆける。そう、たとえ、お月様でも≪Let us fly to the moon≫。

 

 

 

Epilogue: 夏色透かす桜の木陰と小さな貴婦人たち

Little Sweet Ladies Sleeping HeavenlyUnder the Shades of Midsummer Cherries

 

自らの力を認識したささらは、確かに強かった。

結局あの後、彼女は四月末での辞任を撤回し、夏休みに入るまで職務を全うすると宣言。それはほぼ規定の任期通りであり、評議会は全会一致で彼女の復帰を承認した。

当然、それは五月中の休学を考えていた、彼女の母親と真っ向からぶつかる道でもあった。

だが、ささらも貴明も逃げなかった。

貴明を彼氏として正面から紹介し、二人は手を携えて彼女の母に立ち向かった。溺愛というより、いわゆる共依存の領域にあった彼女の説得、論争は激しいものだったが、自分の幸せを掴み始めたささらと、自分の幸せをとっくに見失った母親では、根本のところでもはや勝負にはならなかった。

むしろささらが折れる形で、夏休み中の渡米を決定。だがそれは単なる語学留学のような形で、当初のような長期の想定ではなく、現実的な──貴明との付き合いが続けられる程度に、という意味で──期間のうちに、母娘の心に決着をつけ、戻ってくるという方向で話がまとまっていた。

一方、学校では生徒会体制は磐石であり、また貴明は誰しもが認めるささらの彼氏となっていた。

あの日、屋上で抱き合っているところを校庭にいた大量の生徒に目撃され、大拍手が湧き起こってしまったのでは認めるも認めないもない。二人は完璧な公認生徒会カップルとして、時折学内新聞の片隅を賑わせている。

 

かくして、二人は思い出を重ねながら、時は流れてゆく。

 

 

「ま、とりあえずはお疲れさま、かなー」

六月も終わりに近づいたある日。

期末テストを終えた彼女らは、久方ぶりに三人揃っての下校を楽しんでいた。

向坂環、柚原このみ、そして久寿川ささら。

男どもは遠慮しろと環が雄二を蹴り倒し、貴明の恨めしげな視線をこのみの笑顔が跳ね返し、戸惑うささらの両腕を抱えるように──と言っても、実はささら自身もそんなドタバタを楽しみながら、三人は梅雨時の久しぶりの晴れ間へと繰り出した。

前日の雨はすっかり上がり、洗われたような緑が太陽の光できらきらと輝いている。

河原の桜並木、夏色透かす桜の木陰。

木漏れ日の優しい光の中をのんびり歩く、傍目にも標準以上の少女たち。それはまるで、平和という言葉を具象化したかのような光景だった。

「テストもそうだけど、ようやく落ち着いたわね」

背伸びをしながら、環がしみじみと呟いた。

「そうね──テスト前で今期の主なイベントは片付いてしまってるし」

後は終業式ぐらいか、とささらが言葉を引き取り、同じく背伸びをしながら木漏れ日をいとおしげに見つめていた。

「じゃあ七月はのんびりできるでありますねー」

と続けたのはこのみだが、すぐさま環にずびしと突っ込まれる。

「あんまり調子に乗らないの。一年生はいいけど、私たちは受験準備の真っ只中、二年生もそろそろ進路の話が出てくる頃だし──」

そこまで口にしたところで、思考がカレンダーに記されたある日付に思い当たり、環も一瞬言葉を躊躇わせた。

「──ささらも、そろそろ準備が忙しくなる頃ね」

それが正しい道だと分かっていても、皆の間で散々語りつくされたことであっても、一瞬、三人ともが無言になってしまうカウントダウンである。

舞い降りた沈黙の天使を振り払うように、このみが不意に小道を逸れて声を上げた。

 

「タマお姉ちゃん、芝生、ちゃんと乾いてる」

「あら本当ね。風があったからかしら」

 

昨日までの長雨で河原は湿っていると思っていたが、意外にも土手の斜面はからりと乾き、たくましい雑草群が風にそよいでいる。

とととっ、とスカートを翻しながら一人駆けていったこのみは、一本の桜の木の下で立ち止まり、ぽふっと音を立てて木陰の芝生の上に座り込んだ。

「タマお姉ちゃーん、ささらせんぱーい、こっちこっちー。気持ちいいよー」

ぶんぶんと手を振るこのみの独断っぷりに苦笑しながら、ささらも環もまんざらでもない表情で河原へと降りてゆく。その先では斜面の途中に立つ数本の桜が、風を受けるにはちょうどいい具合で木陰を展開している。

梅雨は続き、夏は近く、こうして外の空気を気持ちいいといえるのも、もうあと僅かだろう。三人は他愛のないおしゃべりに高じながら、そんな初夏の最後の空気を楽しんでいた。

 

 

「それにしても、ささら」

会話が一段落したところで、環が本題と言わんばかりにずずいと話を切り出した。

「最近の貴明、どんな感じ?」

タカ坊という表現をすっかりやめた環だが、それはそれとしてやっぱり弟分として、気になるところは大きい存在だ。

 

「え? ど、どんな感じって、その──環さんも毎日顔は合わせてると思うけど──」

「あらあら、誤魔化しはいけないわねささらサン。そーゆーことを聞いてるんじゃないってことぐらい、分かってると思うけどなー、っと」

 

環は悪戯っぽい笑みを浮かべてそう切り返す。

そこにこのみも、こちらはいつも通りの天然色の笑顔を浮かべ、話題を被せて乗ってきた。

「結局、しばらくのんびりお話する時間なかったよねー。このみもタカくんのコト、聞きたいなあ」

いくら公認カップルで話を振られることが多いとは言え、未だにささらはこの手の話題には慣れていない。対人恐怖症はだいぶ改善され、貴明のはもちろん、このみの手作り弁当ですら食べられるようになってきた彼女だが、これはこれでそれはそれ。恥ずかしいモノはいつまで経っても恥ずかしいのだ。

「き、聞きたいことがあるなら、もう少し質問を具体的にして欲しいわ」

と、一見やぶ蛇めいた答えを返すささらだが、それは裏を返せば、この二人の質問なら答えざるを得ないだろう、というささらの義理堅い思いもあったのだ。

「じゃあ早速。てかさ、ささらって結局、貴明の何処が好きなわけ?」

思い切り根本に立ち返る質問に、ささらも一瞬喉を詰まらせる。だが、実は今までそういう話をしないまま、二ヶ月が過ぎてきたのも確かだった。

「ええと──そういうのって、明確に何がどうってなかなか言えないものだけど──」

それでも生真面目に考えてしまうのが、ささらがささらたる所以である。

「あの辺の話を知ってる人からは、実は刷り込みみたいなものじゃないか、って言われることもあるんだけど──私は違うと思ってるわ」

ほうほう、と残りの二人は先を促す。

ささらは座ったまま仰ぐように首を後ろへ逸らし、深まり始めた桜の緑を愛でながら言葉を繋ぐ。

「確かに、泣いていた私に手を差し伸べてくれたから──それは出会いの理由としては大きいわ」

顔で揺らぐ光で赤面を誤魔化すかのように。

「でもね、差し伸べるだけなら、ある意味誰にでもできること。貴明さん自身、それは単なるプライドみたいなものだった、って言ってたし」

三人の中に、あの激動の四月が蘇る。そう、あの手を差し伸べて以降の一連の出来事は、決して誰にでもできることではなかった。それはつまり───

 

「貴明さんのすごいところは、だからきっと諦めない、ってところだと思うの。目を逸らさない、って言い換えてもいいわ」

「それは、単に恋愛とかの手段の話じゃなくて?」

 

環の指摘に、ささらは深く頷いた。

「確かに手段でもあったけど。嫌なことからも目を逸らさないっていうのは、貴明さんの心の強さの表れだと思うし──結局はそこが、好きになったところだとも思ってるの。色んなことに、目をつぶってしまってきた私だから───」

その凄さは良く分かるし、だから、惚れ込んでしまったのだろう。ささらはそう結論づけていた。

「はーっ。ささら先輩、流石でありますよ」

と、このみが惚けたように呟く。

「タカくん、昔からそういうところはあったんだ。何だかんだ言いながら、このみの話はきちんと聞いてくれるし。わたしが泣いてた時も、ちゃんと理由を一つ一つ確かめてくれたりとか。黙って誤魔化して泣き止ませちゃえば楽だったのにね」

幼馴染だけが持ちうる古く大切な思い出話を、懐かしむように、だが惜しまずに、このみは二人に開陳する。

「でも、ここ数年のタカくんは、その辺とっても臆病だったから。傷つけないってことは、目を逸らしちゃうってことだから───」

このみのそんな貴明評に、環も納得の表情で後を継ぎ足した。

「流石ってのにはホント同意。ささら、貴女って私たち二人がずっとできなかったことを、たった二月でやってのけちゃったのよ──一人の女性として、真正面から向き合わせるってことをね。まさに、目を逸らさせずに」

環から飛び出すストレートな恋愛評に、ささらは更に顔を赤らめ視線を逸らす。

 

「ま、でもこれなら」

「うん、これだったら」

 

そんなささらの横で環とこのみは視線を合わせ、軽く頷いてささらに声を掛ける。

「合格でありますよ、ささら先輩」

えっ、といった表情で視線を戻した彼女に、環が解説をつなげてゆく。

「疑ってたわけじゃないんだけど、刷り込みの話は私たちも思わないでもなかったし、それに二人がどんな気持ちでお互いに向き合ってるのか、ささらがアメリカ行っちゃう前に聞いときたかったの」

そう言う環の表情は、まさに永遠の姉貴分のそれである。

「はっきり言っちゃえば、貴明が転びやすい女の子が二人も身近に残るわけでしょう? あれだけの大恋愛であっても、距離の暴虐、平時の退屈、早々安心はできないのよ。でも」

一瞬不安を浮かべたささらに、環はニヤリと笑みを返した。

「目を逸らさない、ってとこまで言い切れるならね。貴方たちはきっと大丈夫。美人のおねーさんや可愛い妹の誘惑なんて、多分一向に通じないわね」

悔しいなあ、と素直な感想まで載せて、環とこのみは笑って二人の未来を祝福した。

 

「あ、でもでも、どうせ通じないんだよね? だったらこのみはいっぱい、タカくんのコト誘惑してみてもいいかなあ?」

「こ、このみちゃん、冗談でもそれはダメよ! 貴明さんて、ほら、その、苦手といいながら結構女の子好きなんだって最近分かってきたから」

「あー分かる分かる。小牧さんとかるーこさん辺りも結構危ないわねー」

 

乙女たちの他愛もない掛け合い。それは大波乱の幕引きに相応しい、平和の果実そのものである。

 

梅雨に覗いた僅かな晴れ間。

抜けるような青空の端々からは、夏の匂いが確かに漂い始めている。

 

「それにしてもホント、気持ちいい天気───」

 

やがて、少女たちは天使のように瞳を閉じた。

 

夏色透かす桜の木陰で、小さな貴婦人たちが静かに眠っている。

 

 

 

───Still, one more Epilogue: "I Loved You."

 

 

 

 

One More Epilogue: とどかないそら

I Loved You.

 

緩やかに、このみは目蓋を開けた。

そのすぐ傍らでは、環も同じように空を仰ぎ、その眩さに一時閉じた目を開いてゆくところだった。

 

木枯らしが透く、河原の桜並木。

すっかり裸になった木々の傍らで、何処までも高く青い冬の空の下で、少女たちはコートに身を包んだまま、しばし立ち尽くしていた。

真冬の蒼穹にくっきりと描かれた、一筋の太い飛行機雲。それは彼女ら二人の、少女時代の象徴のようなものだった。

 

「タカくん、行っちゃったね」

「そうね、やっと行ったか、って感じだけど」

 

クリスマスも間近なこの季節。恋人たちの祭典を前に、河野貴明は遂に一人、ささらの待つニューヨークへと飛び立った。

あの飛行機雲が、彼のフライトかどうかは分からない。当然、そうでない可能性の方が高いだろう。

それでも、空の向こうへと伸びる白い線は、二人にとって一つの時代の終わりを象徴する、青空が見せた奇跡の一つではあったのだ。

 

「別に、ただの旅行なのにね」と、誰へともなく、環が呟く。

「うん、ただの旅行なのに、ヘンな気持ち」と、何処へともなく、このみも答える。

 

二人とも、心の底では分かっている。

今回の渡米で、どんな形にせよ貴明が答えを持ち帰ってくることを。それは遠い春の日に振られたダイスがもたらす、偶然と必然の結果なのだろう。

「別に、何か期待してたわけじゃないけどねー。でも、これで確実に決着ってことか」

ぼやくでもなく愚痴でもなく、淡々とした事実を感慨深く告げるように、環は言葉を空に散らす。その言葉が届いたか届かぬか、このみは静かな表情を変えぬまま、ゆっくり空へと手を伸ばす。

 

掴めそうな飛行機雲。青空に抜ける指。

それは決して掴めない雲だけど。

でも、もう彼女たちは悲しまない。

 

たとえ、どんなに遠くても、

たとえ、届かない空の彼方でも、

それでも同じ、空の下で。

 

「さようなら、幼馴染で、初恋のひと」

 

人生の揺籃たる春は過ぎ往き。彼女たちの夏が、これからはじまる。

 

 

 
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