空を支える分厚い雲は、有史以来ぽろぽろと少しずつ、崩れておりました。ずっと降り続くあの雪が、そのかけらなのだそう。
しんしんと降る雪がやんだとき、あの雲がすべてなくなってしまったとき、空が落ちてきて地面を押しつぶしてしまう、のだそうです。
***
1
今日はひどく寝覚めが悪い。まるで何か悪いことでも起こるかのようだった。屋敷においてきた彼女は無事だろうか、と眠ったままの少女の姿が、ふと頭をよぎる。
窓から外をのぞいてみると、昨日の吹雪が嘘のような穏やかな天気だ。ぱらぱらと白く舞う粉雪は、すぐにとばされて背景に溶けてしまう。寝覚めが悪かったのは、昨日ちょっと急ぎすぎたせいだろう。寝台に座ったまま、両手を上に上げて背伸びする。肩がばきばきいったのは聞かなかったことにしよう。
手早く着替えて、上着を羽織る。空がまだ薄暗い時間なので、暖炉なしで着替えるのはなかなかつらい。同時に慣れって恐ろしい。
「おはようございます」
扉を開いて、小声で呼ばわる。隣室の老婆はすでに起きていたようで、暖炉の前から立ち上がってまあ、と小さく声を上げた。高くてちょっとかすれたかわいらしい声をしている。
「早起きねえ。朝ご飯食べてから行くんでしょ、ちょっと待っててね」
「あ、いえ……」
お構いなくと遠慮する間もなく膝掛けを長椅子の上に置いて、台所の方へ行ってしまう。文字通り老婆心というやつだろうか。朝食を用意してくれるならそれにこしたことはないので、甘えておこう。
早足に着いていくと、ぼくはきょろきょろと台所を見回した。さして広くない洗い場と、火をかけるための暖炉とが正面に見える。右手に食器棚、左手に玄関。何を手伝うべきか考えていると、暖炉の前で屈んでいた老婆がしきりに首を傾げているのが見えた。薪に火をつけたはいいものの、勢いが強くならないらしい。
「ぼくがやっておきますよ」
「そう? ありがとうねえ」
安心してその場を離れた老婆の背中をしばらく眺め、それから消えかかった火を見てあわててもう一本薪を放り込む。
「結界守さんは大変だね、こんな若いときから印を廻らなきゃいけないんだから」
「そんなこと。これはこれで楽しいですよ」
「そう。でもお疲れだったんでしょ? 昨日もいろいろお話をねだってしまってごめんなさいね」
疲れていたことは認めるけれど、こちらとしても、とくに珍しい話なんて特にできなかった。ぼく個人としては、こうして行く先々で違った家に泊めてもらうのが楽しみになっている。
野菜を切る音。女の人ってどうしてああ器用にとんとんいわせながら切れるんだろう、とあの音を聞くだに考える。ぼくが暖炉に手をかざしてほんのしばらくぼうっとしているうちに、老婆は鼻歌を歌いながら二人分の朝食をこしらえていた。
2
結局。ぼくは昼少し前にその老婆の家を出た。片づけを手伝っていたら、のんびりしすぎてしまったのだ。凍り付いた地面を足の裏で撫でながら、立ち止まっては空を見上げる。
真っ白な雲に覆われた空からは、雪が多くも少なくも、決して降りやむ事がない。いつもこうするたびに、何度も同じ場所で同じように同じ空を仰いだような気持ちになるけれど、たぶんどこにいても変わらない景色のせいだろう。
白い息を指先に吐きかけ、また歩き出す。手袋の中にまで温もりは伝わらないけど、歩き出す前にそうする癖がついていた。
ぼくの足は強壮なのだそうだ。元来、結界守は年に一度か二度しか家に帰らないから、歩き詰めの血がそこに強く出るのだと思う。彼女もそうなのだろうか。ぼくは、彼女の寝顔しか知らない。
薄くつもった雪を踏み、薄氷を踏み、ゆっくりと歩いていく。急ぐ必要はもとよりないのだから。
右手に虚ろ抱く森、左手に静かな街並みを眺めながら行くこの道は、回道と呼ばれている。森からぐるりと街を囲むように一周する道だからだ。ちょうど一年前後で一周できるようになっている。時折隊商とすれ違うが、ぼくは彼らがどこから来て、どこで一度解散しまた集合するのかを知らない。時折、途中まで同行させてもらうばかりだ。
また立ち止まって、街のほうへ視線を向ける。道に子供が数人集まってわいわい騒いでいるのが耳についたのだった。彼らはぼくに気づかず、一人を残して散らばっていく。何かの遊びだろうか、彼はこちらに背を向け、壁に着いた手に顔を押しつけて数を数えていた。今日は雪がひどくないからかなあ、と背中側で声がした。
振り返ると、馬に乗った人が後ろに荷馬車を引いて、ぼくの見ていたほうへ視線を投げかけていた。
「そうですね」
「家の近くじゃ、氷が薄くなるとすぐガキどもがたたき壊すんだよ」
笑い混じりに言うが、棒で突いて割るにしても水がかかって冷たかろう、とぼくは考えた。
「どちらに向かわれるんですか?」
「南六十度の通りまでだよ。妻と新居を見に行くんだ」
「へえ。お幸せに」
照れ笑いする男に、途中まで乗っていかないかと持ちかけられたが、それは遠慮することにした。新婚の邪魔をするのは気が引けたし、何よりぼくは北を目指していたからだ。
3
ところで、必ず印を廻る道すがら、後ろからついてくる者の姿があった。ぼくが彼女の代わりに廻るようになってからずっと。そう考えたら、案外芯の強い人なのかもしれない。
振り返ると、ぴたりと止まって大げさに首を傾げてみせる。上等そうな着物を下はぶかぶかに、上はぴっちりと着込んで、真っ白に塗りたくった顔の上はでたらめな落書きで埋まっている。クラウンの笑顔をまねしているのだろうが、救いようのない落胆の表情にも見える。それで、ぼくはあの人のことを勝手にピエロと名付けていた。
ふわふわの金髪は、時々帽子や肩につもった雪を払いながら、器用に跳ねるような足取りでついてくる。何かを要求するわけでもないし、芸を見てほしいという様子でもない。
時折振り返ってもしばらくは気にせず跳ねまわっているが、ずっと見つめていると、やはり先刻のように首を傾げたり、止まって見つめ返してきたりした。
「昨日もいましたよね」
思いつきで話しかけてみると、その顔に描かれた落胆の色がこころもち濃くなり、両手をぶらぶらさせはじめた。
「暇なので、着いてくるんなら一緒に行きませんか?」
ピエロは、やはり困惑した体できょろきょろあたりを見回し、それから大きく頭を振った。
なんだか身振り手振りで一生懸命理由を話そうとしてくれるけれど、ぼくにはピエロが何を言っているのか一向わからなかった。ただ、終始悲しそうに目元をこする仕草をしているのが印象に残った。
そうこうしているうちに日が暮れかかっていることに気がつくと、ぼくはあわてて街のほうへ足を向けた。どこか、泊めてくれる家を探さなくてはならない。
4
これはぼくの――結界守の――家にずっとずっと伝わるおとぎ話だ。もちろんほかの人だって知っているひとは知っている。
「空を覆う分厚い雲ができるまで、人はとても恐ろしいところに住んでいました。そこはとても枯れた場所で、乾燥した地面に、熱くて汚い泥水の世界でした。黒い空に赤い罅が走ると、その間から炎が雨のように降っておりました」
「けっかいもりさん。そんなとこでどうやってみんな生きてたの?」
「誰かから、この話を聞いたことはない?」
膝の上に手をついて見上げてくる少女の頭を撫でる。くすぐったそうな顔をして、少女は頭を振った。
「しらない」
「そう。人は、洞窟を作って、そこに閉じこもって暮らしてたんだって。火や水が自分に襲いかかってこないように、入り口にしっかり壁を作ってね」
実は、この話にはわからないことが結構ある。まあ、耳を傾ける少女はそんなこと気にしていないみたいだからこのまま続けてしまおう。
「彼らは、このままではいけないと思いました。全部焼けてしまう前に、あの火を消してしまう必要があったのです。
それで、彼らは雪の雲で世界を覆うことにしました。冷やしてしまえば問題ないと考えたのです。けれど、そこで恐ろしいことに気がついてしまいました」
「なんで? 今の世界ができたんでしょ?」
「元々あった空が黒く固まって重くなり、人の頭の大きさほどもある鉛のかけらが落ちてくるようになったのです。
とはいえ、もう後には引けません。彼らはいっそう厳重に、分厚い雲で天上を支えることにしました。雲の軽さが鉛の重さを支えきれるまで。その時代までたくさん居た魔法使いたちは、その仕事のためにすべての力を使い果たして、次々と倒れてゆきました。
雲のおかげで空を押し上げる事ができると、うってかわって寒い世界ができあがりました。しかし、もう火も鉛も降ってくることはないのです」
火や鉛の降る世界を、ぼくは知らない。自分に魔法というやつが使えるのかも。
そういえば、この話も直接誰に聞いたものかは思い出せない。
「長い年月をかけて人々が街を作る間に、泥は街をぐるりと囲む森を育てました。森にはさまざまなけものが棲むようになりましたから、たった一組生き残った魔法使いの男女が街の周りに印を置き、代々空の雲と、結界を守る役目を受け継いでいるのです」
少女はぼくの膝に体をあずけて、すでに眠っているようだった。抱えあげて寝台に寝かすと、傍らに点っていたランプの火を消した。
間際、やはり悲しげな、あるいは落胆の表情を顔全体に張り付けて、ピエロが夜の道を踊り狂っているのが窓の外に見えた。
5
雲はちぎれて雪になり、風が運んで地面につもり、つもった雪はかすかな地熱で溶けて地下の水になる。
彼は、たしかそんなことを言っていた。早いもので、もう顔を見ずに一年が経とうとしている。彼にはこうやって結界印を廻る義務はないのだから仕方がない。彼がああやって彼女のそばにいてくれるから、ぼくも安心して印を確かめに行けるのだ。
彼は、歌う人だ。家に伝わるリュートを大事そうに持ち歩いているけど、ぼくにその音色を聞かせてくれたことはない。実は、彼は歌も楽器もできないんじゃないだろうか。
ぼくは何もしらない。
彼については、驚くほど。彼女を想っているらしい、とは時折思う。
そして、ぼくは、時折空を見上げては彼のことを考えている。ほっそりとした、でも筋張ったあの手は、リュートの弦を弾かない。ぼくの前では。
こうして結界印を確かめて廻っている間に、彼女の為にその歌と、リュートの音色が家を満たしていることをぼくは知っていた。
空を支える雲は、ちぎれて細かい雪になる。雪は、地面に注いで水になるだけで、空に帰ることはない。
だから、雲がなくなったとき、鉛の空が落ちてきて、世界、この狭い世界を押しつぶしてしまうのだ、と、彼は言う。
ピエロは、ぼくの後ろを相変わらず跳ね回りながらついてくる。ああやって、転ばずに着いてくるのだからなかなか器用なものだと思う。
じゃりっ、と足下の音で我にかえる。凍った地面を踏んだらしい。ちょっとだけ道から逸れて、森の側へ踏み出してしまったらしい。顔を上げると、そちらに小さな小屋があって、椅子に座った青年がじっと森と空と、道とを見比べているのに気がついた。ぼくがそちらへ歩いていくと、彼もじきにこちらに気がついたらしく。
スケッチブックからあげた顔は、思っていたより少し幼い感じがした。
「こんにちは。珍しいな、こんなところに人が来るなんて」
「ええ。ちょっと回道のほうから見えたもので」
その大きなスケッチブック、と指さすと、彼は照れくさそうに絵を見せてくれた。
細かいところまで書き込まれた神経質そうな絵で、白黒でも十分な見応えがあるものだった。
「こうやって外でスケッチして、室内で改めて絵を描くんです。油絵だけど、外では絵の具が凍ってしまいますから」
「へえ。すごいですね。売ったり、するんですか?」
訊いてみると、青年は苦笑して肩をすくめた。
「誰も、こんな盲の絵は買いません。評判が悪いんです、僕の絵は」
「そうなんですか? こんなにきれいなのに」
「……色のついたもの、見にきますか?」
「本当に? いいんですか?」
我ながら、なんてうれしそうな声なんだ、と思った。だって、白黒でもこんなに奥行きのある、きれいな絵なのだ。色が付いたらどんなに素晴らしいだろう。
自称盲のその青年は、やっぱり苦笑いを崩さないまま家の戸を開けた。暖かい室内の空気が一瞬頬を撫でる。ぼくが入ると内側からまた盲がしっかりと戸を閉めた。すぐ隣を通り抜けて、奥の扉を開ける。どうやらそこがアトリエになっているらしい。入ってすぐ目に付くキャンパスの背景は、一面の青であった。
ほかにも。壁際に立てかけてある絵は、どれもこれも白い雲ではなく、上に行くほど濃い青の空が背景になっていた。
「雪、は、降ってないんですか?」
「ええ。僕が見える世界は、どうやらみなさんの見ているものと違うようなんです」
「それで、ご自身を盲なんて呼ばれるんですか」
「ええ」
「ぼくは、結構好きですけど、ね」
たとえ正しいありかたではないとしても。空想としては悪くない。何より、色使いが美しい。
「僕は」
絵に見入っているぼくに、盲の細い声が聞こえた。
「それが、正しい景色なんだと、みんなに知ってほしかったんです」
「正しいのは、あの白い景色ですよ。けれど、ぼくはこの絵、好きです。それで良いんじゃ」
「いいえ。いいえ」
静かながら、せっぱ詰まった声だった。思わず振り向いたぼくの肩を、盲が必死の様相で掴んでいた。
弱々しく。まるで縋られてでもいるみたいだ。
「あなたは、夢を、見てるんですよ」
網膜に焼き付いた真っ青な夢を。でも、もしかしたら。
雲がすべて落ちた後、頭上に広がるのはこんな空なのかもしれない。
しばらくそうやって見つめ合った後、盲は小さく息をついて、ぼくの肩から手を離した。落胆とも悲しみとも着かない表情が、ずっと後ろをついてくるピエロのそれと重なった。
6
一年とちょっとぶりに、我が家の近くまで帰ってきた。どうせすぐ出ていってしまうから、感慨もなにも沸かないけど、今回は彼女に土産がある。例の盲の絵だ。せがんだら、お金も取らずに一枚くれたのだ。終始、悲しげな目をした青年であった。
夕暮れまで歩いて、疲労に重たくなった足を惰性で動かしながら、街の中に入っていく。針葉樹の小道が風にざわめく。肌を切りつける風の合間に、雪の白がちらついた。
門の前に誰か立っている。人影は、身じろぎもせずに門柱に背中を預け、下を向いていた。何か考え込むように。
彼だった。
「ただいま」
声をかけると、怪訝そうな顔をしてこちらを見る。
「彼女はどう?」
「目を覚まさない、な」
ぼくの手にあるキャンバスに気づいたらしく、彼は眉間にしわを寄せて門柱から背中を離した。
「それは何だ?」
「絵だよ。彼女にお土産なんだ」
彼は、ぼくと絵とを交互に見て、それからくるりと踵を返した。
そういえば、何をこんなところで考えていたんだろう。
彼のあとを追うようにして、彼女の部屋へ向かう。広い階段を上って、左の突き当たり。吹き抜けからホールを見下ろしながら歩く。くすんだ色のカーペットも換え時だ。いいかげん、掃除をしたほうがいいのかも。
使用人も雇わなくなって久しいと、こういう部分で多少の不便を感じる。
突き当たりの部屋では、壁際の寝台にじっと眠る彼女の姿がある。出ていく前と全く変わらない姿で、そこにそうやって横たわっているのだ。彼女にもただいま、と一応言ってみる。当然ながら返事はない。彼はじっと寝台のそばの椅子に腰掛け、リュートの弦をいじくっている。やっぱり演奏は……してくれないんだろうな。
ぼくは彼の前に立って、絵の包装を解いた。その音で彼女が目覚めるわけではないけども。
「何の絵だ?」
「風景画だよ。これを描いた人は盲なんだ。正しい世界とは違った風に見えるんだって」
盲とはそういう意味で使う言葉じゃないだろ、と呆れたような彼の声。ぼくもまったく同感だった。
「不思議だよね」
しわくちゃの厚紙を破いて、隙間からのぞく青色を見つめる。全部出してしまうと、彼の目が食い入るようにその絵を見ているのがわかった。
「どうしたの」
「いや」
帰る、というので玄関まで送り、扉を閉めた。部屋に行こうとすると、外からまた「おい」と彼が言う。
「おまえ、あの絵は」
「どうかした?」
「いや」
さっき彼女の部屋でした問答と同じだ、と思った。
出しっぱなしはよくないか、と思い出して彼女の部屋へ戻り、寝台の横に立てかけていた絵を取り上げる。真っ青な空の下に、乾いて罅の入った白い大地がある。ぼろぼろの、回道の残骸みたいな道と、その奥に見慣れた街が廃墟のように描かれている。
雪と森と雲のない風景。ぼくはこれを幻想的で素敵だ、と言った。
でも、盲は、これを真実なのだと言った。
ここに二通りの見方が置いてあるのなら、どちらが正しいのだろう。どちらを手に取れば。
自分を確固としているために、ぼくは自分の見方を信じているしかない。それに。これが本当なら街には誰も住んでいない。
こんな風景は寂しすぎるではないか。
ひとしきり絵を眺めたあとで、ぼくは考えを打ち切るべく頭を打ち振る。どこか良い置き場所はないかと考えながら室内を歩き回り、ふと、入り口側の隅に立てかけてある絵を見つけた。
「……?」
そちらへ歩み寄ると、そこにあるのは今持っているのとは違うものだった。別の場所で描かれたものなのか。同じように空は青く、雪も森もない。
持ってきた絵をその隣に立てかけて、首をひねって考えた。
彼が持ってきたのだろうか。
ぼくは?
覚えがない。
彼がぼくの持ってきた絵を見て表情を険しくしたのは、自分が同じような絵を持ってきていたからなのかもしれない。
考えていてもきりがないか。二枚の絵に踵をかえして彼女のほうを振り返る。一向起きてこない彼女。切らないままの髪が、長くなって寝台の上に散らばっている様子はとてもきれいだと思うけど。
「そんなままじゃ、何もできないんだよ」
ぼくだって、同じだと思うけど。
7
リュートの音が聞こえる。隣家の彼が弾いているのだと悟って、どぎまぎする胸を押さえながら窓を開ける。か細い楽器の音を室内に迎え入れるために。
外では、大粒の雪が待っていた。真っ暗の空も、雪の明かりでどうにか雲と街と森の陰を見分ける事ができる。
ぼくは分厚い生地の夜着の上に、あと二枚ばかり毛布を羽織って、震えながら窓際でリュートを聴いていた。たぶん、これはぼくに聴かせるものなのだと、どういうわけか確信に似た感情を抱きながら。
雪の上に黒い斑点を残しながら、体を反転し、反転させ、宙返りし、踊り狂うピエロの演技を眺めていた。あのピエロも、いつまでぼくの後を着いてくるつもりなんだろう。やっぱりあの落胆と、いつのまにか加わっていた彼の詠嘆がひどく似つかわしいのもおかしなかんじだ。
ぼくだけがそこにいないかのような。
8
屋敷の掃除がひと段落終わったところに、彼が訪ねてきた。時間にして、たぶん昼前くらい。掃除をするって言ったからたぶん巻き込まれるのが嫌だったんだろう。
彼の貧弱な腕は元からあまりあてにしてないんだけど。
「いらっしゃい。どうしたの」
「考えていたことがある」
「うん。なに、ぼくが聞くようなこと?」
「おまえでなければ話しても仕方ないことだ」
ふうん、と相づちとも何ともとれないような返事を返してしまう。中に入るよう勧めてみるが、頭を振って彼はその場にとどまった。
それで、ぼくは彼がらしくもない厚着をしていることに気がついた。まるで、ぼくが結界を廻るときのように。
「彼女が眠るようになってどれくらい経つか、覚えてるか」
唐突な問いかけに、ぼくは言葉を失う。
実を言えば、まったく思い出せない。そもそも、彼女はぼくの何なのか。
「五年だ」
言いながら、彼は、持ってきたのだろうか、三枚のキャンパスをぼくに渡した。青い空とひび割れた白い地面を描いた絵だ。
ぼくがこれを見て気に入ったのは今年が初めてのはずなのに。
「おまえが、なにを悩んでいたのかは察していた、つもりだ。でも確かめる勇気はなかった。俺がそうだったように」
「ぼくは悩んだことなんてなにもない」
「今のおまえならそう言うはずだ」
後へ退こうとしたぼくは腕を掴まれて引き留められてしまう。彼の目は氷の色をしていた。その色がきれいで好きだったけれど、今はひどく恐ろしい。彼の肩越しに、外の景色が見える。いつもより大降りの雪と、その中で跳ね廻っているピエロの姿を見る。上に灰白色の空を認めると、同じ頃合いにピエロがぴたりと足を止めた。
下を向いて、なにやら袖で顔をごしごしとこすっている。そこから目が離せないでいるぼくを、やにわに彼の手が引き寄せる。すっぽりとその腕の中に収まって、息をのんだぼくの頭を、彼の骨ばった手が軽くたたく。
「結界を守っていればいい。俺が、森の外を見て、白と青と、どっちが正しいか確かめてきてやる」
「それって、そんなに、大事なこと?」
危険な森を抜けて、あるかどうかもわからない外へ出ていくほどのこと?
彼は、体を離してぼくを見下ろした。
「俺は、おまえが義務に押しつぶされているところをただ見ているのは嫌だ。――いいか。しっかり聞けよ」
「なにを?」
彼は一瞬目をそらし、それからぼくの頭に手を置いて、下を向いた。
「好きなんだ」
背景で、顔をごしごしこすっていたピエロが顔を上げる。悲嘆にくれた彼女の顔で、ピエロだった人陰が僕を見て、掻き消える。
9
寝台には、子供の頃彼からもらった人形が横たわっている。長い髪と真っ青な硝子の目がきれいで、片時も離さず持ち歩いていたものだ。
いつからだったか。ぼくが――わたしが。結界を守ることに疑問を持ったのは。決定的なそれは五年前。盲は青い空が真実で、この場所こそ夢の産物でしかないと言うのだ。火と鉛の雨を降らす世界が回復しても、魔法使いたちはある強迫観念にとりつかれて魔法を解くことができなかった。
「元々あった空が黒く固まって重くなり、人の頭の大きさほどもある鉛のかけらが落ちてくるようになったのです。
とはいえ、もう後には引けません。彼らはいっそう厳重に、分厚い雲で天上を支えることにしました。雲の軽さが鉛の重さを支えきれるまで」
わたしは、彼の話を聞きながら、このおとぎ話を思い出していた。どうして、あんなに分厚い雲の向こうを魔法使いたちは見ることができたのか。
どうして、そんなに大事な雲が、こうして雪になって崩れ続けているのか。
どうして、魔法使いの末裔しかこの物語を知らないのか?
わたしに真実を知ることはできない。
なぜなら、蓋を閉じたままの箱の中から外をのぞくことはできないから。
わたしに真実を知ることはできない。
なぜなら、もし結界を解いて、出てきたものが火と鉛の雨だったとき、わたしには責任がとれないから。
わたしに真実を知ることはできない。
なぜなら、義務を果たす役割の「ぼく」が、わたしを寝かしつけてすぐにでも結界を見回りに行くはずだから。
先ほどのやりとりもなにもかも忘れて。
わたしは、五年前の夜彼にすべての不安をぶつけてしまったのだ。もしも盲の話が本当だったなら、彼はいない。実在しないんじゃないか。そんなことを泣きながら本人の目の前でわめき散らし、あげくに自分は一年の大半を寝て過ごすようになってしまった。
そして、今日。
その場で気を失ったわたしを寝室に置いて、彼は行ってしまったらしい。臆病な、情けない魔法使いのために、あるかどうかもわからないあの森の向こうを目指して。
わたしは、いいかげん泣き疲れて、またぱたりと寝台に横たわった。
9
何度目かの、彼との別れの後で。ぼくは絵を数えていた。彼が持っていた三枚。去年のぶんと今年持ってきたぶんの二枚、そして間に挟まる空白の四枚。
彼が出ていってもう、四年近くになる。
なのに、ぼくの帰ってくるたびに、絵を見て眉をひそめ、ぼくにすべてを思い出させ、告白だけして逃げていく。彼が生きていれば、あるいは実在していれば、この世界が本物であることを前提として、虚構を積雪のように積んであるだけならば。もう一周すれば、ぼくがこの不毛な繰り返しを初めて十年になる。彼が出ていってもう、五年になる。
彼女のためにぼくがすべきことは、だから、こんなことではない。
9
行く先々で、泊めてくれる家の人が言うのは同じ言葉だった。
「雪が、やむようになったっていろんなところで噂になってるよ」
「怖いね。何か起こるのかね」
寄ってたかって責められているような気持ちになった。でも彼が生きているならば。ぼくが彼女でないならば。
もう、後ろを振り返ってもピエロはいない。
9
空を支える雲は、ちぎれて細かい雪になる。雪は、地面に注いで水になるだけで、空に帰ることはない。
だから、雲がなくなったとき、鉛の空が落ちてきて、世界、この狭い世界を押しつぶしてしまうのだ。
じゃりっ、と足下の音で我にかえる。凍った地面を踏んだらしい。ちょっとだけ道から逸れて、森の側へ踏み出してしまったらしい。顔を上げると、そちらに小さな小屋があって、椅子に座った青年がじっと森と空と、道とを見比べているのに気がついた。ぼくがそちらへ歩いていくと、彼もじきにこちらに気がついたらしく。
スケッチブックからあげた顔は、思っていたより少し幼い感じがした。
「こんにちは」
ぼくは、会釈を返して彼のスケッチブックをのぞいた。
細かいところまで書き込まれた神経質そうな絵で、いつ見ても見応えがあるものだった。ただ、おかしなことに最初から色がついている。鮮やかな青色の空。
「それが、正しい景色だと言ったら、あなたも笑いますか」
「正しいのは、あの白い景色ですよ。けれど」
ぼくにはもう、どこからどこまでが夢なのかも、わからないので。
9
最後の結界印を削り取った。
9
・・・
ぼくは、夢を見ているのだ。網膜に焼き付いた真っ青な夢を。
ひたすらに続く、回道の残骸と、その内側にある街の残骸。周囲に広がる乾いた地平。真っ青に澄み渡った空の夢。
上に浮かんだまぶしい光球の名はわからない。ただ、あれが昼を明るくしているらしいということはわかる。
彼女は、目覚めなかった。
9
夜は夜で、街灯のない道を照らす光があった。
昼ほどぎらぎらしていない、白い光の球がやはり空に浮かんでいて、雪の粒を彷彿とさせる小さな光が、そこかしこに散らばっていた。不思議な気分だった。
・・・10
歩き詰めだったぼくがついに膝を折ったのは、ぼろぼろになった外套の残骸を見つけたときだった。彼が出ていくとき着ていたものだと、気づいていた。
だから、ぼくは感極まってそこに膝を屈しないわけにはいかなかったのだ。弦の切れたリュートを持ち上げて、両手に抱きしめずには。
「すべてが」
喉の奥がいやに湿っぽく感じる。
「すべてが、嘘ではなかったんだ」
彼が結界から出ていなければ、きっと確かめようのなかったことだ。だからぼくはこれでいい。彼女は彼と再会できたのだから、これでいい。失恋と、失望と、安堵と、そういった全部を声に出して泣いていい。
外套や服だった分厚い布に、幾重にも包まれた白い枝のようなそれが、人の骨だということもぼくは知っていた。
自分のも透けて見えていたから。
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結界守りの「ぼく」が夢から覚めてさまよう話