サラシ姿の兵が二人、戦線から離脱したのを確認した瞬間に、甘寧は動いていた。
「私が戻る!亞莎はこのまま戦線を維持しろ!」
普段は凛となる鈴の音を乱暴に鳴らし、一直線に本陣へと向かった。
…
………
張遼と思しき影が二つ、乱戦から離脱した。
「明命ちゃん!ここは私がなんとかしますから急いで本陣へ!」
兵の指揮は陸遜のほうがうまい。
きっと凌いでくれるだろう。
周泰は長い黒髪をなびかせて、真っ直ぐに主のもとへ向かった。
…
………
「本来ならば、あ奴らにここを抜かれた時点で儂は権殿の元へ戻らなければならないのじゃろうが…
どうしてもその気になれぬ。」
北郷隊、黄蓋隊、それはすなわち曹魏の兵、孫呉の兵、その両者がどちらともなく全員、地に伏した北郷を取り囲むように腰を下ろしていた。
武器を置き、兜を脱いで鎧を外し、ぼんやりと北郷を眺めている。
誰一人として、倒れたその男にとどめを刺そうと思わなかった。
それほどまでに、二人の戦いと、その後に起きたことは衝撃的だった。
「確かに、儂の撃った矢は此奴に向けて放たれていた。そうじゃろう?」
全員が目撃した。
黄蓋の頭を撃ち抜かんと振るわれた二天を弾き飛ばし、矢は、北郷の眉間にまっすぐ飛んでいった。
誰もが、それはきっと北郷も含めて、死んだ、と思うほど綺麗な一撃だった。
吸い込まれるように矢は飛び、そして、北郷が消えた。
比喩ではなく、消えた。
その後聞こえたのは、人が一人倒れる音。
どの兵士も、その光景に目を疑った。
避けたのではない。
先に倒れていたから外れたのでもない。
まるでそこにいなかったかのように、消えた。
そのあまりに突拍子もない事実に、いくさ場に蔓延る狂気にも似た熱量は、完全に鳴りを潜めていた。
「もしかして…いや。なるほどのぅ。
おぬしのいう時間がないとは、このことじゃったか…
そもそものところ、儂らを劉備の元まで行かせぬための妨害かと思っておった。
まさか本気で倒す気でおったとは。本当におぬしは大馬鹿者じゃ。
さて、そうじゃったら、赤壁での借りを返すいい機会かのう。
部下たちと、それから先輩方よ、ここでちょっと待っててもらえんかのう?」
冷えた頭で黄蓋は考える。
考えてみれば最後の一撃の『遅さ』は不自然だ。
それ以上に、切羽詰まった様子とは裏腹にゆるく、遅い剣の振り。
その原因は今回の不可解な現象にどの程度関係あるかわからないが、それも含めて。
もし北郷の武器が、いままでどうりだったら。
閻王を外し、武器も二天ではなかったら。
ここまで奴は苦戦をしたのだろうか。
奴はもっと早くに勝負に出られたのではなかろうか。
はたしてどちらが速かったのか。
そう思わざるを得なかった。
結果から言えば間違いなく黄蓋の勝ちで、それは揺るぎのない事実だ。
戦の場にもしもは存在せず、最後に立っていたものだけが勝者だ。
だが。
それでも。
勝ったという気には、なれなかった。
「先輩方に助けられたと思えと?
おのれ隊長よ。もしもここまでがお主の策じゃったとしたら、お主は稀代の名軍師じゃよ…」
…
……
「そろそろ頃合いのようね。行くわよ。」
…
………
………………
「遼来来!遼来来!」
微かな叫び声は徐々にその数を増し、やがて大きな合唱となった。
「遼来来!遼来来!」
「来たわね。蓮華のこと振り切ってきてよかったわ。」
「あぁ、そうだな。しかし私まで武器を取ることになるとは…」
孫策と周瑜は孫権のいる幕舎から離れ、構えていた。
「シャオはほんと、向こう方に預けておいて正解だったかしら?」
「さぁ、それはどうかわからないが、とりあえずいまは張遼を何とかしないとな。」
「あら、冥琳ったら、ちゃんと戦えるの?」
「馬鹿にするなよ、雪蓮。私だって孫呉の将だ。普段少々頭を使うことが多いだけの、な。」
「そう、ならよかったわ。」
土煙をお供に、兵士が吹き飛ぶ情景をまとって、だんだんと敵影が大きくなる。
「さぁ、行くわよ、冥琳。ここで孫家の宿願を途切れさせるわけにはいかないんだから!」
…
………
………………
「しばらくは敵と付かず離れず距離を保ち、北郷と連携をとって戦線を間延びさせて。
そして、距離があいたら合図があるわ。
合図があったら指示もなにも全部放棄してまっすぐに孫権に向かって突進すること。」
それが4人に与えられた命令だった。
北郷が思いの外頑張ったおかげで距離は十二分にひらいている。
助走も十二分。
疾風の如き速度で、眼前の雑兵を蹴散らし、狙うは孫呉本陣の孫権の首一つだ。
孫権がいるであろう幕舎も視界に入る。
距離はどんどんと近づいていく。
馬の腹を絞り上げ、速度を更にあげようとしたその時だった。
「まぁちょっと待ちなさいよ。」
先頭を走る一頭の馬の首が舞った。
「少々おいたがすぎるぞ。」
並行して走っていた馬の足が折れた。
結果、投げ出される形で二人の張遼が宙を舞う。
しかし、その体が投げ出されることはなく、後ろから追い上げた二頭の背中におさまり、駆け続ける。
「抜かれたか!」
「ここはウチらにまかしとき!」
「二人は先に!」
「凪、姐さん!先行くで!」
「ありがとうなの!絶対に勝って帰ろうね!」
速度を緩めず二人は敵本陣へと馬を駆る。
孫策と周喩の目の前には、二人、羽織、袴にサラシを巻いた将が立っている。
「焦らないの冥琳。さっさと倒して戻りましょう。それに、そろそろあの子たちも戻ってくるはずよ。
まずは目の前の二人よ。
お前が本物の張遼ね。そっちは…」
ともに、飛竜を模した偃月刀を手に、かたや不敵に笑い、かたや淡々と構えをとる。
二人はともに大地を踏み鳴らし、見得を切る。
「どうということもなく。行きましょう。」
「聞けぇ!我が名は張文遠!誰が相手でも、その速度、遅れること無し!」
「この格好で、名乗る名前は張文遠ただひとつ!恨みはないが覚悟しろ!私達に撤退の二文字などない!」
「「推して参る!」」
…
………
………………
「凪ちゃんたち大丈夫かな?」
「アホ!二人の心配してる場合ちゃうやろ!ウチらかてさっき死にかけてんねんで?」
「確かに凪ちゃん達がいなかったら、落馬して死んでたの…」
「気ぃ引き締め!目的の敵さんはもう目の前や!」
残された二人は、馬術は言うほど得意ではない。
だが、二人に助けられた手前泣き事など言っていられるはずもない。
目的は一つ。
目標は一人。
脇目など振っていられない。
なにより、あの場に倒れていたあの人のために、勝って帰らなければならないのだから。
刻一刻と、一歩また一歩と確実に孫の牙門旗に近づいている。
馬に鞭を入れ、振り落とされないように必死にしがみつき。
馬返しの柵を超え。
飛び交う矢をすり抜け。
振るわれる白刃を躱し。
羽織を靡かせ、袴をはためかせ。
近づいてくる。
見えた。
ひときわ護衛の多いあいつが。
赤い服を纏ったあいつが!
「孫権ー!」
「覚悟するのー!」
王を守らんと立ちはだかる兵を飛び越え、振るわれる二本の偃月刀。
今にも孫権に命中せんと迫る銀色の一閃は、しかし、振りぬかれることはなかった。
大きく体勢を崩し、またも二人の張遼の体は投げ出される。
彼女たちをここまで運んだ馬は、その生命を断ち切られていた。
二人はすぐに視線を戻す。
孫権はどこに。
顔を上げた先には、孫権だけでなく、更に二人の将が立っていた。
「遅くなりました、蓮華様。」
「ご無事ですか、ここは我等にお任せを!」
さすがに少し息は上がっているが、それは間違いなく先程まで前線にいたはずの将だった。
「嘘やろ…馬より速いんか…」
「ちょっとそれは反則なの…」
馬よりも早く走ってきたとでもいうのだろうか。
そこには、少し前まで実際に前線で剣を交えていた甘寧と周泰が立っていた。
「バカも休み休み言え、妨害されながらの騎馬程度だったら遅れを取るはずがない。」
「私たちは蓮華様の護衛、命に代えても守って見せます!」
二人は、剣に手をかける。
「あっかーん…沙和、これはちょーっと気張る必要あるんちゃう?」
「そうだねー…沙和たちだけだと荷が重いけど…でもやるしかないの。」
「せやな、いっちょ腹くくるか!」
「そうなの!何人相手でも、ぶっ飛ばしてやるの!
聞け、孫呉のフニャチンども!我が名は張遼!
いまからそこのチンクシャな小娘を跪かせてヒィヒィ喘がせてやるの!」
「ばかっ!言いすぎやろそれは!
でもま、いっちょそこらじゅうで派手にやったる!」
「「張文遠、推して参る!」」
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